最後のキスを覚えている。
祭りの余韻が強く残る、熱いうずきのする夜。
外のかがり火が、テントの幕を透かして漏れている。
虫除け用だと焚いてくれた香の……慣れない香のする中、疲れた子供達の寝息がしている。
そっと起き上がり、息を押し殺して近づいた先にあるのは、「恋人」の寝顔。
見慣れた寝顔は、凛々しく――離れていた少しの時間の間に、彼に起こした変化を物語っているようだった。
「…………知らない顔。」
小さく呟いて、アルスは顔を近づける。
開いた唇から、独特の甘い香がした。
先ほど祭りで振舞われたビバ・グレイプの香であろう。
「――……知らない、男…………。」
近づいた視界に、暗闇がにごった気がした。
そうじゃないことを、空気が詰まるように、喉にこみ上げてくる熱さが語っていた。
それを飲み込んで、アルスはソ、と見慣れたはずの寝顔に口付けた。
甘い、甘い果実の味がするはずだった。
なのに、唇に残ったのは、ビバ・グレイプのほろ苦い味。
舌先に感じる、しびれるような苦さは、感じると同時に、歪んだ視界から雫を一つ、零させた。
キスが苦いからじゃない。
キーファとの「おやすみ」のキスが痛いから、泣く訳じゃない。
これは、キーファが飲んだビバ・グレイプの残り香が苦かったから、思いもよらず苦かったから、だから、苦さのあまり涙が零れただけだ。
決して――……。
「……………………。」
何かに堪えるように、嗚咽を無理矢理飲み下して、アルスは両手で自分の唇を覆った。
寝ているキーファの唇を掠めることなんて、今までにも何度もあったはずなのに。
気恥ずかしさと、甘酸っぱさだけしか感じなかったはずなのに。
「……っ。」
苦くて、痛くて、辛い。
――――――それが、最後の、キス…………だった。
あの夜は、とても静かだった。
痛いくらいに静かだった。
でも、後悔はしない、夜だった。
そのはずだった。
もう一度巡り合ったのは、神様の優しい、そして痛い気遣い。
同じ結論でも、それに至る過程が異なる。
今度は、お互いに納得した上での別れになるように、と――……。
今度こそ、痛いキスばかりが残る、
そんな記憶にならないようにと。
キーファの出した答えは、決意を込めて旅の扉をくぐったアルスが予測していたものと、同じものだった。
分かっていたのに、彼がそれ以外の答えを出すはずがないと、きちんと分かっていたというのに。
アルスは、その答えを耳にした瞬間、心臓が凍りつくような感触を味わった
めまぐるしく頭の中を駆け抜けていく記憶の奔流に、心がキシキシと痛んだ。
唇が震えないように、こくん、と喉を上下させて、アルスは彼を見つめた。
焦がれ、愛したまっすぐな目が、アルスのすぐ間近にあった。青い、綺麗な瞳。
二人で遠く眺めた海の色の瞳。
それを認めた瞬間、アルスはむしょうに泣きたくなった。
先ほどまで、ただの少年としてユバールの守り手に心惹かれていた――そんな気持ちよりも、ずっとずっと複雑な感情が、自分自身を支配していた。
大切な幼馴染。ダイスキな親友。兄のような身近な他人。誰よりも近しい人。初めて好きになった人。初めて肌を合わせた人。初めて愛を語らった人。側に居て、抱き合って、笑いあって、泣きあって、怒りあって、命のやり取りの中で背を預けあった。苦しい戦いも、泣きそうな事実も、痛いことも、何もかもを経験した。一緒に大人になっていくのだと思った。一緒に居るのだと思った。
永遠の別れだと知っていた。もう二度とあえないのだと分かっていた。裏切られたと思った。心の中に住んでいるのだと思った。でも、心の中に住んでいる彼には、触れられない。どんな男よりも、どんな女よりも、自分にとって魅力的な人だった。もう二度とこんな人には会えないと思った。もし、もう一度会えるというのなら、世界の平和すら、捨ててもいいと、本気で思ったこともあった。
――――…………穏やかに、側に居て、守ってくれて、見守ってくれる。そんなユバールの「男」であるキーファよりもずっとずっと、生身のキーファへの思いが、怒涛のように溢れた。
顔が歪むのを止められない。
泣きそうに顔が歪んでいくのが分かった。
キーファがそんな顔を見て、先ほどの自分への責めだと思っても仕方がなかった。
「アルス。」
気遣わしげに、彼が名前を口にする。
その響きを聞くのは、随分久しぶりのように感じた。
先ほどまで同じように耳にしていたのに、記憶を取り戻した自分の体に、その呼びかけは、なんと心に響くことだろうか。
彼が、自分を呼ぶ声が好きだった。
彼が、自分を見る目が好きだった。
たわいのない、子供のような好き。
仄かに、胸が温まる好き。
離れて、離れて――はなれるときが長くなればなるほど、「好き」は形を変えていった。
それは、今、胸に涌き出でる思いと同じ「好き」。
痛いくらいの、胸が裂けそうなくらいの…………心臓が、血を流すほどの、
「好き」。
きっと好きになると思った。記憶なんか無くても、彼を愛するだろうと、そう思った。
けど、記憶をなくした自分と、記憶がある自分との思いは、なんて違うのだろうか?
激流のような想いは、彼と離れていた時間が多かったから。彼の未来を知ってしまって尚、焦がれた気持ちを持っているから。
嫉妬も、苦しさも、物分りのいい振りも、彼の体温も、彼の熱も。
何もかもを知っている心と、ユバールの男しか知らない心とは、抱える熱量が違う。
抱えきれないくらいの気持ちを抑えて、宥めて――アルスは、声が震えないように、名を呼んだ。
「キーファ。」
何度も何度も、口の中で消えていった名前だ。
呼びたくて。でも、呼べなかった名だ。
長い月日、名前を言葉にするのが怖かった名前。
呼びかけても、返ってこないことが――怖くて、一度も呼べなかった名前だ。
「キーファが居なくなった」ことを自覚してから、初めて呼んだ。
キーファという人を指す言葉としてではなく、キーファを呼ぶ声として、初めて、呼んだ。
「アルス」として、「キーファ」に呼びかける。
その声の、微妙な違いを――キーファはどう受け止めてくれるのだろう?
自分の呼びかけに、彼はなんて答えてくれるのだろう?
記憶を取り戻したからこそ、期待を抱き、不安を抱いてしまう呼びかけへ、キーファはけれども、
「……アルス。」
苦しそうな声を返すだけだった。
苦しそうな顔だった。
これ以上、自分に何が言えるのだろうかと、そう苦しんでいる顔だった。
自分を好きだと言った男を前にして、すでに――とおの昔に「答え」を出している男が、これ以上求める答えをやれないことへの、苦悩だった。
キーファにとって、アルスへの想いは、すでに終わったことなのだと――だから、アルスの告白に答えられるはずもなく、苦しむアルスを前にしても、慰めることも出来ないと、そう思っているということを示す、態度だった。
アルスは、それを見て、泣きたいような気持ちになった。
分かっていた。
本当に、分かっていたんだよ?
僕は、分かっていて、ココへ来たんだ。
君に、別れを告げるために。
君が、もう一度、同じ答えを出すために。
君が出した答えを、きちんと、聞くために。
――――――なのに、どうしてこんなに落胆しているんだろうね?
僕がもう一度前に現れたら、ちょっとでも心が動いてくれるって、本気でそう信じていたの?
記憶を喪った僕に、キスしたことも、親切にしてくれて、追いかけてくれたことも――まだ彼が、自分を好きでいると、少しでも心揺れている証拠だと、そう思っていたの?
それは。
なんて傲慢な──子供じみた執着心。
苦い思いが胸元に去来して、同時にアルスは自嘲を噛み殺す。
知らず、指先が上がった。
キーファが握っている手に手を重ね、彼の指に指を重ねる。
「……っ。」
ぴくん、と動いた手の平をしっかりと握り締める。
覚えておこう。彼のぬくもり。
何も知らず、ただ逃げるように――自分の胸の痛みを少しでも和らげるために逃げたあの時のように、何もかもを忘れようとするのではなくて。
何もかもを覚えるために。
彼との別れも、彼のぬくもりも、何もかもを覚えるために。
ぬくもりを、分けて。
「アルス、俺は……。」
あなたの、声を、覚えさせて。
あなたのことを、忘れないように。
あなたのことを、愛したことを、後悔しないように。
「あなたを困らせたいわけじゃないんだ。」
見上げた先にあるのは、困惑した眼差し。そうして困惑を宿していても尚、あの頃と同じ輝きを持った目。アルスが一番初めに心惹かれた、まっすぐで、情熱的で、真摯で。
――同じような輝きを返す少年の眼は、もう映りはしないけど。
「アルス……俺は、お前が嫌いになったとかそういうんじゃないんだ。お前と別れたのは――……。」
そのまま、彼は俯き――くそ、と小さく吐き捨てた。
ガリガリと、空いてる手で自分の髪をかき乱し、頭を振る。
「今のお前に言っても、俺は卑怯なだけだよな……っ。」
あの時の別れには、必要以上の説明はしなかった。
いや、必要以上どころじゃない。ほとんど事後承諾に近い形で、無理矢理に別れを承諾させたようなものだった。
そこまでしないと、そこまで自分を追い詰める形にしないと、決心が鈍ってしまいそうだったからだ。
キーファだとて、冒険心だけで、情熱だけで、「何も分からない世界」に、全てを捨てて──過去の世界に生きていこうと思ったわけではないのだ。
恐怖心だってあったし、何よりも、アルスに泣いて引き止められて、僕のことが嫌いになったのと責められたら、心が揺れてどうしようもなくなるとわかっていた。
だから、あえてアルスがそう言えないような言い方で同意を求めた。
ああいえば、アルスは決して反対することはないと知っていたから。
あいつは、自分の気持ちよりも、俺達の心を、願いを優先する人だったから。
――――自分でそう導いておいて、こういうときすら、自分の意見はないのかよ、と……そう苦く、憤りめいた気持ちを自分勝手に抱いたものだった。
「キーファ…………キーファ。」
アルスは、自分の知らない──でも、誰よりも知っているはずの眼差しを浮かべている男の名を呼ぶ。
今度は、万感の思いを込めて。
昔、この名を呼べる自分の幸せを、心から神に感謝したことを思い出して。
けれど、キーファはそれを受け取るのすら、辛そうに顔をゆがめる。
「俺は、お前を好きだ。いまでも変わりなく、好きだぜ。
でも、俺は、俺の選んだ道を捨てない。俺が生きる道は、捨てたくない。
だから、今度も、お前には応えられない。」
アルスが絡める指先を、強く握り締めて、キーファはまっすぐにこちらを見てくる。
この目には、何もだませない。誤魔化せない。
そう心の奥底から思うのは、昔から。
好きだと囁かれて、愛してるといわれて、抱きしめられて、何も考えられなくなる。
真摯で熱い目で見つめられたら、後はもうおしまい。
ただ、彼の熱い情熱に答えるのに必死で、腕を絡めて、熱に浮いたうわごとで、僕も、と返すのが精一杯。
――こんなにも鮮やかに思い出せるのに、いや、思い出せるからこそ、分かるのだ。
彼は、もう、アノ頃の彼じゃない。
情熱のままに、夢を追い求める気持ちそのままに、アルスを――恋を求めていた少年じゃないのだ。
自分の道を定め、腕の中に一つのことを抱えることは出来ないと、理解した一人の男なのだ。
そして、彼が選んだ道に、自分は居ない。
キーファは今再び、その答えを導き出し、僕にそう告げた。
「…………キーファ。」
君の側には、君を愛してくれる人が居る。
君は、いつだってそんな人に囲まれている。
うらやましいと思った。愛しいと思った。
僕も、そんな風に君を愛せる人の一人であればいいと思った。
「――悪い、アルス。俺は、お前の想いには、だから、答えられないんだ。
でも、お前は俺が帰すから。
ちゃんと、俺が責任を持って……。」
それがどれほど残酷なことなのか、彼はわかっていっているのだとしたら、相当の意地悪だと、アルスは苦い笑みを刻んだまま、キーファを見上げて――彼の目が、驚愕に見開いているのに気づいた。
その目は、アルスの背後――洞窟の入り口辺りを凝視している。
愕然と見開かれた目が、何を見ているのか……振り返られなくても分かった。
「旅の……扉……!?」
――――そう。
キーファが答えを出し、アルスが記憶を取り戻したのだから、「ソレ」が神の促しによって現れても、おかしくはなかった。
「このまま、ココに残りたいと言ったら、君はどうするかな?」
愛されなくてもいい。側にいたい。
それは、あの時は考えもしなかった選択だ。
小さく呟いた言葉は、キーファには届かない。
唇の裏だけで囁いた声は、彼には届かない。
――キーファの側に、自分以外の誰かが居るのを見たくないから……キーファが自分以外を選んだことを、見ていたくないから。
あの時は、その気持ちが勝っていたけれども。
それでもいいから、側にいたいと。
そう思う気持ちだって、あったのだ。
今と、同じように。
「……アルス、あれ――……あれが、お前が…………帰る………………。」
両肩を掴まれて、アルスは無言で彼を見上げた。
揺らめき、とまどうようなキーファの声は、掠れていた。
まさかこの瞬間に、こんな風に「別れ」がやってくるとは、思ってもいなかったのだろう。
このまま傷ついたアルスを帰すことは忍びない。
けど、アルスが帰る場所が見つかった以上、帰さなくてはいけない。
そんな思いが、グルグルと回っているのが分かった。
いくら数年離れていても、キーファとは幼馴染だったのだ。
ほかの誰でもないアルスが、誰よりも良く、知っていたのだ。今の彼の想いが、分からないはずがなかった。
「……………………。」
あの扉の向こうは安全なのだろうか、記憶のないアルスを一人で返しても大丈夫なのだろうか。
キーファがそう思っているのも、一目でわかった。
だから、アルスは、キーファの手へと、再び自分の手を重ねて、こう告げた。
「キーファ……僕は、キーファが好き、だよ。」
好きだと呟く瞬間、胸が切なく鳴いた。
それでも、告げなくてはいけない言葉があったから、ココに来たのだ。
驚いたように目線を戻すキーファへ、アルスは微笑んで見せた。
キーファの瞳の向こうに、青い渦が見えていた。
――――それは………………僕が、帰る場所。
けれど、もう少しだけ。
僕はまだ、キミに伝えていない言葉がある。
昔のように、キーファが好きだと言った無邪気な微笑みは、もう浮かべることは出来なかったけど。
それでも、精一杯の微笑みを満面に浮かべて、アルスはキーファを見上げた。
君に、伝えたいことがあるんだ。
「記憶が戻っていることを話さない」 「記憶が戻っていることを話す」
選択先で連載終了です。
もう少し、記憶の無いアルスを書きたかったんですが(笑)。
今のところ、キーファと記憶ないアルスは、普通に知り合いよりもちょっと親しい程度です。
そう、例えて言うなら、挨拶を交わし、同じグループにいるクラスメイトの仲と言いますか。