君に、伝えたいことがあるんだ。
「僕のかえる場所」
「アルス……。」
小さな声で、名を呼ばれる。
震えるその声に宿る戸惑いと情熱──熱い喜びに、眩暈がするほど胸が締め付けられた。
自分の唇から零れた言葉……あなたを好きだというその言葉に、彼がその目に宿した一瞬の優しさと愛しさが、これほど胸を焦がす。
その事実を、今のあなたは知らない。
「キーファを、困らせたいわけじゃ、ないんだ。」
泣きそうになるのを堪えて、無理矢理、微笑を浮かべた。
昔は、決して浮かべられなかった微笑み方。
でも今は、心を押し隠すようにして浮かべることの出来るそれ。
誰よりも心をさらけ出すことが出来た人を前にして、柔らに微笑むことの出来る自分が、どうしてか悲しくて……少しだけ、涙が滲んでしまったかもしれない。
アルスはすぐに顔に出る、と、からかうように笑った、キーファの声が耳に蘇った気がした。
今、目の前に居る人よりも、幾分高めのその声は、今もまだ心の奥底に残っている。
その声は、忘れない。
一生、忘れることはない。
でも、目の前に居る人の声も、覚えておこうと思う。
──この人もまた……「ユバールのキーファ」を選んだ彼もまた、自分が愛した人であることには、変わりなかったから。
「──……俺も……お前を悲しませたい……わけじゃない…………。」
感情が滲んだような言葉につられるように視線を上げた先で、キーファが真摯な表情で自分を見下ろしていた。
そこに宿る光は、さまざまな感情を宿していた。
それが何を示すのか、アルスには判断がつかない。
──少し前……ずっと一緒に居た頃なら、君がどんなことを考えていても、大抵予想がついたものだけど。
今の僕には、──記憶を取り戻した僕ですら、君が何を考え、何を思うのか、分からなかった。
その事実が、もうこれ以上傷つくことはないと思った心に、ツキン、と新たな針を突き刺す。
「……………………うん……。」
痛みを堪えて──気付かないフリをして、一つ、頷いた。
キーファの肩ごしに見えるのは、青い渦──幻のように、空気をゆがめる不思議な光景。
現れた旅の扉……神様の奇跡。
欲しい言葉は貰った。
神様の「親切」は、これでお終い。
後、自分に残された「使命」は、キーファに別れを告げることだ。
そう、ここで、「さよなら」と口にして、そうして──一生の、別れを。
彼の居ない未来へ、帰るために。
「────キーファ…………。」
……断罪にも似ている。
視線が逸らせないまま、彼の名を呟く。
声が涙で滲まないように──ただ感情をこめずに、彼の名を呟く。
その声が、ひどく戸惑い、頼りないように感じたのは、きっと気のせいではないはずだ。
たった一言、「さよなら」を告げるだけでいいのに、その言葉が喉から上に競りあがってはこない。
彼から「答え」を貰った。
これで心置きなく彼との──ようやくの別れを受け入れられるのだ。
あの地へ……自分が生きるべき場所へ帰って、彼の居ない生活に戻る。
それは、ココへきた当初から、約束されていた「未来」のはずだった。
自分は、戻らなくてはいけない。
彼の居ない場所で暮らすのに耐え切れなくて、きちんと終わらせようと、ここへきたはずだったのだから──未来に戻るために、ココへ来たのだから。
だから。
「言葉」を……永遠の別れを告げなくては、いけないのに。
なのに、唇からはその最後の言葉が零れることはなかった。
記憶が戻ったことを告げて──大丈夫だと、そう言って、あの中をくぐれば、すべては終わるのに。
もう、彼の姿を見て切なく胸を鳴らすことも、彼がほかの人に微笑みかけることに胸を焦がすことも、彼の一挙手一動に心躍らせ、悲しみ、嫉妬し────そんなことも、無くなるのに。
喜びも、悲しみも、苦しみも、愛しさも…………すべて、時の思い出として、心に残るだけになるはずなのに。
────開いた唇は、ただ、空気を通り抜けさせるだけ。
「──……いつだって…………別れは突然なんだな…………。」
キーファの瞳が揺れている──青い海の色。
空と海とが一つになる瞬間の、どこまでも続いていきそうな色。
そこに宿る凛々しい輝きを見るのが好きだった。
まさか、またこうして間近に見ることが出来るなんて思っても見なかったそれに、目が奪われる。
夢の中で、何度も何度も思い描いたその綺麗な色を、こうして間近で見れることが、どれほどの至福か──きっと君は知らない。
涙が零れそうになるほどの、幸福。
噛み締めるのは、幸せと絶望──彼に再びめぐり合い、こうして彼の目を見つめることの幸せと、これが本当に最期だという、絶望。
「キーファ……。」
小さく、口の中で呼びかける。
キーファの目が、かすかに揺らぎ、彼の長い睫が揺れた。
彼もまた、突然訪れた別れの時にためらいを感じているのだと思うと、なんだか胸が締め付けられた。
できることなら、このままずっと見つめていたいと思っていたけれども、そういうわけにもいかない。──そういうわけにもいかないんだ。
嫌いになって、別れたわけじゃない。
好きだけど、彼が選んだ道に従うために、その手を離した。
────お互いに、答えを出すことなく、別れた。
だからきっと、いつまでも引きずってしまうのだ。
だからきっと、心がいつまでも、過去に置き去りにされたまま……思いばかりが募るのだ。
終わらせたいと願ったのは、僕。
もう、募るばかりの思いに耐え切れなかったのは、僕。
最初から、分かっていたことなんだ、本当に。
キミは、自分の道を選び、自分の道を進むことを決めた。
僕は、置き去りにされた子供のように、ただ途方にくれて──それでもキミが残してくれた前を進もうと思った。それが正しいことだと思った。
最初は、そうすることで、キミの心を追うように。
やがて、自らの意思で全てをあるべき姿に戻すために。
そうして、何もかもが終わって。
日常に帰って──気付く。
僕だけが…………日常に置き去りにされていたことに。
キーファに置き去りにされて──あの日から僕はずっと、見てみないフリをして、蓋をして、置き去りにし続けてきただけなんだって。
終わりにしようと、思ったんだ。
自分勝手で、ずるい考え──でも、ちゃんと、終わりにしないと、僕はきっと、もう誰を見ることもできない。
キーファばかりが……幸せに暮らして。
僕だけが、キミに囚われたままポッカリ空いた胸を抱えて生きていくのかと、後悔していくのかと、そう思ったら────もう、だめだった。
会いたい、と────そう、終わらせたいよりもナニよりも、ただ、会いたかった。
会って、彼が、幸せに暮らしている姿を見て…………キーファに、「終わり」を、貰いたかったんだ。
「僕──キーファに会えて、嬉しかったよ?」
自然と、唇に微笑みが上った。
記憶を思い出した瞬間から、胸に刻まれた「神様の言葉」が、楔のように己の心を掴み取っている。
帰らなくてはいけない。
僕は、他の誰とも違う、「本当の未来」を知る人。
だから、過去の世界に居ることは許されない。
どれほど、後少しと、そう願っても──それは、無理なのだ。
「それは、アルス──俺もだ……。」
泣きそうに、くしゃり、と顔をゆがめたキーファに、彼の目から、逃れるように顔をうつむかせた。
このまま見つめていたら、またその目に囚われることを望みそうで──その目を隣から陶然と見上げる幸せを覚えてしまいそうで、怖くて……目を逸らした。
ただでさえでも、今隣に居る人が在ることの奇跡に、胸が震えてしょうがないというのに。
これ以上幸せを覚えて──はたして自分は、向こうに帰ってから、まだ息をすることが出来るのだろうか?
彼の居ない空間に、耐えることができるんだろうか?
────否。
彼が居ない世界に居るために、ここに、来たんだ。
ほかの誰でもない僕自身が、それを一番良く知っているはずなのに……どうしてか、そのことから逃げることばかりを考えている。
「ありがとう、キーファ。」
ツキン、と、名を呼んだ瞬間に胸が痛む。
けれどそれに気付かない振りをして、アルスはキーファに微笑む。
あの時──ユバールの別れの時、下手な精一杯の微笑みしか浮かべられなかった……きっと、キーファには、泣きそう顔にしか見えなかっただろう。
あの頃とは違って、今は心の悲しみを微笑みに変えるすべを知っている。
キーファと別れてから今まで、本当に色々なことがあったから。
──キーファに頼ってきたこと、マリベルに頼ってきたこと。
それらがすべて肩に圧し掛かってきて──誰にも告げられない秘密もできて……辛いときこそ、笑うようになった。
大丈夫、だと、そう口に出来るようにになった。
そんなとき、浮かべる微笑は、穏やかで優しい物のはずだ。
今、浮かべているように。
彼の前で、そんな偽りの微笑を浮かべなくてはいけない自分の心が、痛くて、痛くて──しょうがなかったけど、微笑みは崩れることはなかった。
ただ、ほんの少し、目頭が熱くなってしまったから、潤んでいるのは分かってしまっただろうけど……ただの別れを惜しむ涙に見えるだろうと。
「アルス…………。」
呼びかけるキーファの声に当惑が混じっている。
きっと、彼の目には、満面の微笑を浮かべている僕が見えているのだろう。
それを確信して、アルスは更に微笑みを深くした。
「僕の欲しい言葉をくれた。」
声は震えない。泣きそうな心を抱えていても、声は決して震えない。
人々に糾弾したときのように、どれほどの絶望と恐怖を抱いても、決して諦めない目を辞めなかったときのように。
──そう、これは戦いだ。
「欲しい、言葉って……。」
キーファがいぶかしげに眼を細める。
キーファが告げた言葉は、二つだ。
「ごめん」と、「あれが帰る場所」。
なぜそれを聞いて、「欲しい言葉」などと表現するのか──理解できない。
なぜ、アルスが微笑みを浮かべるのか、理解できない。
彼の知るアルスの姿と、目の前のアルスの姿に、ただ違和感ばかりが浮き出る。
それがナニを示すのか……分かるような気がして、キーファは、コクリ、と喉を上下させた。
「……どういう意味だ、アルス?」
まさか、と──そんな思いを飲み込んで覗き込む。
真摯なキーファの目に、一瞬アルスは目を緩めて──一度目を瞬いた。かすかに潤んでいた目は払拭され、ただ静かな瞳がアルスの中で浮いて見える。
記憶のない、どこか不安げなアルスでも、キーファがよく知る穏やかなアルスの目でもない……知らない瞳。
「────…………これで僕は、帰れるんだよ。」
チラリ、と投げかける視線の先にあるのは、青い渦がとぐろを巻く──迎えの光。
神様が促す、帰るための手段だ。
それは、間違いではない。
間違いではないのだが──どこか違和感が強く纏わりついて、キーファは一度頭を振って、ガリ、と音を立てて髪を掻き揚げた。
「ああ──そうだ……あの向こうがお前の帰る場所──そう……その、はずなんだ……。」
何が違和感なのだろうと、キーファは目を歪めてアルスと旅の扉を交互に見据えた。
アルスたちと別れてから数年──一度も見かけていない旅の扉に、懐かしさを覚えるよりも先に、ただ戸惑いばかりが先に立つ。
記憶の中にある旅の扉と何かが異なり、それで自分は焦っているのだろうかと、そう思っては見るが、アルスたちとは違って、数えるほどしか飛び込んでいない旅の扉の、何が違うかなんて、見てわかるはずはなかった。
「──考えるのは、俺の仕事じゃねぇんだよなぁっ。」
小さくイラつくように呟いて、キーファはガリガリと髪を掻き乱す。
鋭く視線を飛ばした先──忽然と目の前に現れた渦が、グルグルと巻いている。
見た限りでは、何の変哲もない旅の扉だ。
キーファが知る限り、あの旅の扉をくぐれば、いつも石版の前に出て──ああ、そうだ、虹の入り江近くの旅の扉は、飛び込んだ先は祠の中だった。
そう、気付いた瞬間……今更な事実に、キーファは気付く。
「…………そう、か…………あの向こうが、神殿に繋がっているとは、かぎんねぇんだよな…………?」
キーファの記憶にある限り、この地には旅の扉は無かったはずなのだ。
突然目の前に旅の扉が出現したことは、キーファも体験している。禁断の地の神殿の奥──まるで何かを象徴するかのように、浮き出る地図が刻まれた床を囲むようにして立てられていた祠があった。あの祠の力で、旅の扉が突然出現しても不思議はない。
けれど、今、このタイミングで目の前に現れることは、どういう意味をもつのだろう?
────ここまで二人で旅をしてきて、アルスが戦闘能力を失っていることを、知っている。
もし、コレが敵の罠だとしたら? もしも、これが、マリベルたちがアルスのために繋いだ道だとしたら?
もし、向こうが何も無い荒野だとしたら? 平和なフィッシュベル近くの神殿ではなかったら──いや、もし神殿に出たとしても、今の記憶のないアルスでは、あの神殿からフィッシュベルへたどり着けるかどうかも怪しいところだ。
あの中へ飛び込んでも、アルスがすべての記憶を取り戻す保証も無いのだ。
この旅の扉が、マリベルたちが出したものなら、安心できるが──、もし、あの向こうが別の次元に通じていたら、どうなるのだろう?
もし、あの向こうにマリベルたちが居なくて、それどころか窮地に追い込まれていて……記憶のないアルスをそのまま戻したら、どうなるというのだろう?
「──……っ。」
底冷えするような恐怖に、キーファはブルリと身を震わせる。
突然、目の前に現実が突きつけられたような気がした。
アルスたちが無事にどこかで生きている。
そう思うからこそ、自分は一人でココに残ることが出来たのだ。
いつかアルスが世の中を平和に導いてくれている。
そう思ったからこそ、アルスに向けて石版も海に流したのだ。
けれど、もしかしたら──……どうなるのか分からない。
今までだって、無謀とも思える冒険にも乗り出してきたのに、どうしてか今、脚が震えるのを止められなかった。
力のないアルス……今までの旅の行程だって、ずっと自分が守ってきた。
戦う術も、土地勘もない彼を、このまま旅の扉の向こうに帰させて──本当にいいのか?
「──……アルス……しばらく様子を見たほうがいい。もし、マリベルたちが──お前の仲間たちが旅の扉を出現させたのなら、マリベルたちがココに来るはずだ。
そうじゃなかったとしても、向こうに何が待っているか分からないから、しっかりと装備していく必要がある。」
今この時になって、アルスをこの手から離すことにためらいを覚える。
もしかしたら、この瞬間の選択で、彼を永遠に失うことになるのかもしれない。
そう思うだけで、腹の底から冷えわたるような恐怖が上ってきた。
いや、そのたとえはおかしいのだ。どちらにしろ、もう永遠にあえなくなるのだから──会えなくなった先の未来で、アルスがどうなろうと、今のキーファには分かるはずもなく……ただ彼が、幸せに暮らしてくれることを祈るだけなのだ。
そう、彼が、幸せに──……。
「──いや、それとも、俺も…………。」
俺も、一緒に向こうへ渡ろうかと──そう口にするべきかと、唇が震えた。
でも、言葉は、口から零れることはない。
切なげに、キーファが唇を噛み締め──小さく拳を握り締める。
そんなことが本当に出来るのなら、……俺は、アルスに「こたえ」を渡してはいないのだ。
向こうに行って、二度とココへ帰ってこれるかといえば、そうではない。──だからこそ自分は、ココに残る決意をしたのだ。
まだ俺には──やらなくてはいけないことがある。
ユバールの戦士として、ユバールを導くこと。
俺はそれに生きがいを見出し、そのために生きると──そう、決意したのだから。
そのために、アルスを…………捨てたのだ。
「……………………っ。」
どれほどアルスが大切でも、どれほどアルスを喪うのが怖くても。
アルスがほかの誰かと微笑みあい、ほかの誰かと幸せになることが、心を強く焦がすほど悔しくても。
それでも、俺は、俺として、生きていきたいと思ったから。
俺の力を、生かしていきたいと思ったから。
アルスの側に居たら、俺もアルスもダメになるから、別別の道を歩まなくてはいけないと、そう思ったから。
だから、別れたはずなのに。
────『キーファが自分の道を見つけたのだから、僕は僕で、自分の道を見つけなくてはいけない──それが、キーファとの、約束だから。』
そうだ、それで、正しいはずなのだ。
──好きだって言葉だけじゃ、どうにもならないこともあるんだって、そう思った。
だって、お前はいつだって、そうだったから。
いつも受身で、いつも俺を優先させて、いつも笑ってて。
だから、このままじゃいけないと思ったんだ。
お前は俺のせいでダメになるし、俺もお前のせいでダメになる。
それじゃ、ダメだと、そう思ったんだ。
ただ、独占したい、なんていう気持ちだけで、お前をがんじがらめにしてはいけないと、そう思ったのだ。
身を離して、心を離して──側に居なければ、彼を思うことは存外簡単に忘れ去っていくことが出来た。
毎日が大変で、毎日が死ぬほど疲れて──「生きる」ことを実感できる日々の中に、甘い余韻が入る隙間なんて無かった。
酷い男だと、そう詰ってくれればよかった。
さっさと忘れて、幸せを掴んでくれれば良かった。
そうしたら、俺も──きっと、幸せになれると、そう思ってた。
…………お前が居ない、この場所で。
「大丈夫だよ、キーファ。」
言いかけた言葉を紡ぎ、ただジッと地面を睨み付けるキーファに、アルスはますます微笑みを深くして見せた。
そして、なんでもないことのように、キーファへと、真実を告げる。
ことさら軽く、静かに。
「あの旅の扉は、間違いなく──マリベル達の元に繋がっている。」
それは、懺悔にも似ていた。
自らの醜悪なまでの執着心と、悲しいまでの黒い愛情を、さらけ出す行為に──似ていた。
「そう…………君のいない、未来へ……。」
声が震えないように、ことさら、静かに。
言葉を──紡いだ。
「…………っっ。」
ヒュッ、と、キーファは息を呑む。
愕然と、眼を見張る青い光を、アルスは淡い微笑を浮かべて見返す。
穏やかな──静かな微笑みだと分かる輝き。
「お、まえ……記憶、が…………っ!?」
言葉を詰まらせるように呟くキーファに、アルスは小さく笑みを見せた。
それは、先ほどまで見せていた微笑と同じものだ。けれど、見知ったものよりもずっと深く、ずっと穏やかなものに変わっていた。
目に宿る光は、自分よりも年下だとは思えないほど、老成したもの。
あえてその光を消すことなく、アルスはキーファを見上げた。
────最後くらいは、「アルス」として、君と別れを言いたいと思うのは……ワガママですか?
「……………………うん。」
小さく頷く。
見る見るうちに、目が零れるのではないかと思うほど、キーファは目を見張った。
そしてそのまま、間髪をいれずに腕を伸ばしてくる。
たくましいそれが、アルスの細い肩をしっかりと掴み取った。
「──いつ、からだっ!? いつから、記憶が戻ってたっ!!?」
泣きそうな叫びだと思った。
彼の震える声に、アルスもまた、泣きそうになった。
けど、それをこらえて、ただ静かに言葉を紡ぐ。
「──さっき……って言って、信じてくれる?」
淡い微笑みを、彼に向けて発しながら。
キーファは、見開いた目のまま、アルスを見つめていた。
今、アルスが呟いた言葉を、頭の中で反芻する時間が少し。
「…………っ。」
喉が幾度か鳴り──言葉が声にならずにキーファの喉を通り過ぎていく。
揺さぶろうとした手を止めて──キーファは、肩を掴む手を震わせた。
その小刻みに震える彼の手に、アルスはほんの少しだけ辛そうに目を歪める。
そんなアルスに、キーファは眉を寄せ、唇を震わせた。──肩を掴んだ分だけ近づいた目と鼻の先で、明らかに先ほどまでとは違う目をした少年がいる。
──────アルスと旅をしている間、ずっと恐れていた「アルス」の姿だ。
「……………………アルスっ! アルス……お前…………っ、お前………………、は………………。」
何かを言おうと口を開いて──でも何も言えず、苦しげに眉を寄せる。
キーファが何を言おうとしているのか……昔なら分かったことだけど、今は分からなくて。
それが酷く悲しい現実だと思いながらも、アルスは穏やかに微笑み続けることを自分の顔に命じ続ける。
「安心して。マリベルもガボも大丈夫──何かに巻き込まれたわけじゃないんだ。
これは…………僕のワガママだったんだから。」
最後まで、きちんと話して、笑って──記憶のない自分が告げた言葉は、決して嘘じゃなかったんだと、そう告げるつもりだった。
なのに。
「…………ワガママ?」
寄せられたキーファの眉が、まるで自分を責めているようで──この土壇場になって、アルスは自分が甘えていたことを今更ながらに痛感する。
世界の大事を放り出すかもしれないという状態でも、それでも僕は、君に会いたかった。
君と、ちゃんと終わりにしたかった。
──そう言えば、僕を許してくれることはないだろう。
ワガママ、なんて一言で、終わらせられることじゃない。
「アルス」として別れを言いたかったなんて──ただの、傲慢だ。
だって。
キーファにとったら、アルスも、「アルス」も、何も変わりがないのだから。
────お別れは、もう数年も前に、終わっていたのだから。
「うん、ワガママ。」
きつくなるキーファの目を見て──言い逃れはできないと、どこか諦めにも似た感情が浮かぶ。
いっそ、キーファに嫌われてしまえば、もっと潔く、あの旅の扉を通ることができるだろうか?
──そうなったらそうなったで、後悔して、後悔して……なんて最低な別れをしてしまったのだろうと、そう思い続けるのだろうけど。
「……──キーファに、会いたかった、だけだから。」
それでも、そう、あえて口にしたのは、もしかしたら、それこそが──君が永遠に僕を許さないことこそが、僕の望みだからなのかもしれない。
愛してほしいなんて、もういえないから。
彼は、幸せそうに彼女のもとに居た光景を、ハッキリと見てしまっているから。
──だから、それならせめて、「彼」の、「許せない人」の一番として、存在が強く刻まれるのもいいかもしれない。
そう思えば──なんだか、自虐的すぎて、喉が、震えた。
「!! な、に……考えて……っ!!」
案の定、気色ばんだキーファが、アルスの肩を掴む手に力を加えた。
キリリと食い込む痛みに、アルスは片目を小さく歪める。
キーファはそれに気付かず、アルスを責め立てる。
「何、考えてるんだっ! お前はっ! そんなことで、記憶をなくして、ココへ来たっていうのかっ!?」
過去の世界が、どれほど厳しい状況なのか、アルスだって知っていたはずだ──そう、おそらくは自分以上に、物事を見てきた彼は、理解していたはずだ。
なのに、なんて無謀なことをするのだと、キーファは、心の奥底から冷えるような恐怖を抱きながら、そう叫ばずにはいられなかった。
もしかしたら──そう、1歩間違えれば、この同じ世界で、永遠にアルスを喪っていたかもしれない恐怖に──ただ、胸が凍えて、頭が真っ赤に染まっていた。
「それが、どれほど危険なことなのか、ちゃんと分かってるのかよっ!?
そりゃ、騙し打ちしたみたいに、ユバールに残った俺も悪かったかもしれないけど──でもなっ、俺は、ちゃんと……自分の道を見つけたからって、お前と、別れたじゃないか…………っ!!」
アルスの肩を掴んだ手が痛かった。
彼に向けて叫んだ喉がヒリヒリと痛かった。
頭の中でグルグル回るのが、何なのか、まるで理解できない。
アルスは、いつから記憶が戻っていた?
俺に好きだって言った時から? それとも、本当についさっき?
この神殿に着いた時? 俺に守られながら旅をしていた間?
それとも──本当に最初から?
だとしたら、俺はなんて道化に映っていたんだ?
アルスと再び出会えたことの幸福に、胸を躍らされ──罪悪感を抱きながらも、それでも、昔のようなアルスの姿に、昔に戻ったような予感すら覚えて──何をしてきた?
「…………俺がっ! なんのために、お前を未来に返そうとしているのか……ちゃんと分かってるのかっ!!?」
怒鳴りつけた。
怒鳴りつけずには、いられなかった。
自分がしたことが、頭の中で回り続けて──甘い口付け。優しい時間。頼ってくれない彼への不満。
それが、何を導くのか──それこそが、自分が選んだことを否定しているような気がして……間近で瞳を揺らすアルスに向かって、叫んだ。
そのまま、アルスは視線を伏せて──ごめん、と、そう言うはずだった。
悲しそうに、何かを堪えるように、それでもキーファに謝るはずだった。
自分がしたことの意味を、後悔して──そう、キーファが知っている、アルスなら。
けど。
「キーファがっ!!」
泣きそうに、目を歪めて──そう、アルスは叫び返した。
そのまま、目を見張るキーファを、間近にキッと睨みあげる。
「キーファが、あんなもの、残すから……っ。」
見る見る内に、目に涙が溜まっていくのを感じながら、それでもアルスは溢れ出す感情を堪えようともせずに、ただキーファを見つめる。
視界が潤み、まともにキーファの顔を見れなくなっても、震える声で、紡ぐ。
「……会いたかったんだ……どうしても!
──キーファが…………あんなものを、残すから…………っ。
だから、ようやくキーファが居ない生活に慣れてきて……慣れてきたのに、キーファ、あんなもの見せるから…………っ。」
ボロボロと、涙がこぼれるのを止められなかった。
止めるつもりもなかった。
出来ることなら、このまま抱えていくはずだった感情の発露が、留めなく溢れていく。
痛い胸が、悲鳴をあげていた。
数年前の別れの時から、見て見ぬフリをし続けていた傷跡が、息を吹き返したように、ジクジクと痛んだ。
「友達、だなんて、そんなこと、言う、から……っ!!」
叩きつけるように、叫んだ。
そうだ──彼が、そんなことを書くから、あんな風に残したりするから……っ。
だから自分は居ても立ってもいられなくなったんだ。
──ただ、会いたくなった。
友だち、なんかで、終わらせようとする……勝手に終わらせようとする彼に──ずるいと、そう、叫びたくて。
「──……俺は……お前の友達ですらないって言うのか……?」
肩を掴んだアルスの──細い華奢だと思っていたそれが、思った以上にしっかりとした感触を返すのを、今更ながらに気付いて──キーファは、呆然とアルスの涙を見つめる。
頬を流れるそれは、まるで滝のように流れていく。
それが、綺麗だと──そう思っている余裕はなかった。
呆然と、呟いた言葉が……さらに自分の傷口を抉るのを感じる。
──確かに、一方的な別れだったとは思っている。
けど、遠く離れていても、心は繋がっていると思っていた。
だから、彼への──いつか届くだろうメッセージを残したのだ。
いつだったか、マリベルが言っていた、「後世に残すなら、紙よりも石碑よ」といっていた言葉を思い出して、旅の合間に掘ったのだ。
俺は、幸せだから……お前も幸せになってくれ、と──そう、互いに別の道を行く「友」を思って。
なのに。
アルスは、友達だなんて酷いと言う。
それこそが裏切りだと、そう言うのだ。
「……だったら……なんで会いになんか来るんだよ……っ!」
一方的な別れのまま、目の前に現れてさえくれなかったら、気付かなかったのに。
自分の中でくすぶったままの感情に、気付くことも、触れることすらなかったのに。
責めるように、小さく叫んだキーファに──アルスは、濡れた声で、喉の限りに叫んだ。
「言ったじゃないっ! 僕は、キーファが好きなんだよっ!
好きで……好きで…………こんな気持ち…………友情なんて…………呼べるはずが、ないじゃないか…………っ!!」
そのためだけに──ココへ来た。
会いたくて、会いたくて。
──ああ、そうだ。終わらせたいだとか、そんなのは関係ない。
ただ、会いたかったのだ。
別れる前までの記憶の中のキーファを思い、会いたいと願うのは、まだ切ない願いだった。
なのに、彼が、記憶にないキーファの字で、記憶にないキーファの行動で──自分の心を揺さぶったから。
だから、会いたくて、会いたくて、しょうがなくなったのだ。
なぜそれに──理由など、要るのだろう?
なぜそれに、理由など、つけたがるのだろう? …………キーファも…………僕も…………。
「────……っっっ。」
嗚咽の混じった告白は、ただ、衝撃で。
それを聞いた瞬間、キーファの脳裏を揺さぶった記憶が一つ──……聞きなれない男の、低い声。
『お前の心が自分から離れていようとも、たぶん、一生、彼を愛しつづけるのだろうと。』
心を震わせる──逃れられない誘惑の、叫び。
「好き──ずっと、好きで…………忘れられなくて……ううん、キーファが居ない事実から、ずっと、逃げてて…………。
帰ったら、キーファ、笑ってそうな気がして。
あれが永遠の別れだって知ってたけど、それでも……それでも…………我慢、してたのに……。」
ぽろぽろと、零れる涙がアルスの頬を伝い、顎を伝う。
そのまま、ぽとん、と落ちた雫が、彼の服を濡らした。
大きく揺れた眼差しが、どこか虚ろにキーファに向けられる。
その、赤く濡れた唇が……幾度目かの嗚咽を飲み込んだ。
「……キーファがっ、あんなの、寄越したんじゃないか……っ!
僕、ずっと……ずっと、好きで…………好きで…………別れてから、もっとずっと…………好きで………………っ。」
「アルス……。」
彼の肩に置いた手が、震えた。
心が震えて──沸き立つ感情を抑えるのに、必死だった。
けど、アルスは違った。
昔のように、抑えようとはしない。
ただ、感情のままに叫ぶ。
──もう、これが最期のように、ただ。
「──……どうして……会っちゃいけないのかなぁ……? どうして、会いたいのに、会えないんだよ……っ。
ずっと、ずっと……キーファのこと、好き過ぎて…………どうにか、なっちゃいそうだったん、だから…………!」
どん、と。
力ない拳で、彼の胸を叩く。
数年前よりもずっとたくましくなったキーファの胸は──何もかもが、自分の知っていた物とはまるで違う気がして……会えなかった日々の長さを、思い知らされた気がした。
どれほど叫んでも、どれほど泣いても、彼のこの胸に棲むのは、別の人なんだ。
だって、
『俺はライラと結婚した』
──だって。
「…………キーファは、勝手過ぎるよ……っ! 昔からそうだったけど、そうやって、僕がどう言えば断らないか知ってて、いつも強引で……!」
「お前、何にも言わなかったじゃないか。」
肩を支えるキーファの腕が、熱い。
この腕が、自分の物じゃないと分かっているからこそ、余計に熱い。
いっそ、この腕ごと、連れて帰れたら、どれほど幸せだろう?
「言えるわけない……っ! だって、キーファはずっと、ずっと、僕の憧れだったんだからっ!
キーファが隣に居ることの奇跡を、君は知らないから、そう言うっ!」
叩きつけるような言葉が、ただの八つ当たりだって知っている。
キミがどれほど僕の中で大きな存在だったのか、キミは決して知ることはない。
知りえるはずがない。
「そんなの、俺が知るわけないだろ!?」
そう、言わなかったから。
あのときの僕は、キーファに置いていかれないように、捨てていかれないように、飽きられないように、嫌われないように──ただ、必死だったから。
不満も、悲しみも、心細さも、何もかも閉じこめて、キーファと一緒に夢を追った。
そうすれば──彼の隣に居てもいいのだと、そう、信じていた。
「そうだよっ! 知らないから──だから君は、僕があの時何を思ったのか、考えなかったんだっ!」
それが、間違っていたのだと言うことは分かるけど──でも、あの時のキーファの選択が正しかったなんて、思いたくはない。
だって、キーファは…………ただ、一方的に、別れを押し付けただけなんだ。
「──……っ!」
強張ったキーファの胸に、力なく、ドン、と、拳を押し付けた。
握り締めた拳が、白く染まり──アルスは、目の前にある胸にしがみついて泣きたくなる気持ちを必死に堪えた。
すがり付いて、泣き叫んで、その胸の中で眠ることが出来るのは、僕じゃない。
「僕もそうだ……っ、勝手に一人で納得して、逃げたんだ……っ!
キーファに、最後の最後も……思い出の中の僕を、綺麗に持っていてほしいからって、逃げたんだっ!
本当は、キーファから『さよなら』を貰うのが怖くて、聞きたくなかっただけなのに……っ。」
吐露すればするほど、自分が卑しくて汚い人間のように思える。
キーファが好きだから、彼と最悪の別れだけはしたくなかった。
敵うはずもない、綺麗な女の人。
敵うはずもない、キーファの選んだ道。
そのドレもに、負けてしまう自分が痛くて、知りたくなかったから、だから、逃げた。
「俺、は──。」
──本当は、知ってた。
キーファが、僕がキーファに依存していたということに気付いていたこと、知ってた。
だから、彼もまた、僕とは違う道を選んだのだと言うことを──知っていた。
それでも。
「最後のキス──した。
だって、キーファが好きなんだもん……ずっと、ずっと一緒にいたいって思ったんだもん!」
依存して、捕まえておきたいほど、君が、好きだった。
「────好き、なんだ……何もかも忘れても、また君を好きになるくらい…………君が好き………………っ。」
そして、今は。
ただ──覚えておいて欲しいと。
「……って、壮絶な告白するんだよ、お前はっ。──こんな、時に…………っ。」
頬に熱が集まるのを感じながら、キーファは壮絶に舌打ちしたい気持ちになった。
胸が疼くのは、アルスが自分の胸を叩いているからじゃない。
涙を流す彼が、ただ素直に自分の心をぶつけてくるからだ。
──どれほど、この瞬間を待っていただろう……むかしの俺は。
どれほど、アルスが自分の心を叩きつけてくれるのを、待っていたのだろう、俺は。
それを……どうして今、こんな時に、お前はぶつけてくるんだろう?
もう、選択の時など、無いというのに。
「本当はね…………本当は……キーファが居ない未来なんて、いらないんだ。」
これ以上、追い詰めないで欲しいと、そう願うキーファの声を聞き届けず、アルスは彼の胸元に当てた拳を自らに引き寄せながら、そ、と、自嘲じみて笑ってみせる。
どこか寂しさを宿したその微笑は、涙で濡れた頬を、悲しげに彩った。
「本当は、このまま、ここに残って……神様に殺されたいと願ってる……っ。キーファの腕の中で、この命を終えることが出来たら、どれほど僕は幸福だろう…………。」
「…………アルス…………。」
その彼の言葉で──甘美なその告白で、キーファはアルスが、どれほどの禁忌を犯してココへきているのか、悟った。
甘い、甘い言葉。
けれど同時にそれは、痛いくらいの告白。
一瞬息が詰まって──その先に続く言葉が、怖いと思った。
なのに、耳を塞ぎたくても、塞げない……両手は、アルスの肩を掴んだまま、動かなかった。
「────でも、同時に僕は知ってる……知ってしまった。」
アルスは、そ、と睫を伏せる。
見下ろすのは自分の両拳。成長しても、小さくて──掴める物はほんの少しだけ。
それは、現実に似ている。
「この腕は、一つしかなくて、選べる道は、一つしかないってこと……。
キーファと僕の道は違えてしまって、それは決して、交われないんだということ。
どんなことがあっても、キーファと、彼らを……はかりにはかけられないってこと…………っ。」
脳裏に浮かぶのは、共に命をかけた仲間たち。
マリベルと、ガボと、アイラと、メルビンと──シャークアイやアニエス。
ココへ来る直前に見た、マリベルの顔が、言葉が……胸の内に強く残っている。
『一人でも、いいから……戻ってきて。』
過去に生きることが許されるなら、僕は君とライラさんが笑っている姿を、永遠に苦しみながら見ていても良かった。
ただ君の笑顔を見ているだけで、良かった。
それが、何よりもの幸せだと、そう、思っていた。
でも。
ギュ、と、拳に力を込める。
あのときの、彼女の言葉が、自分を縛っている。
──待っている人が居るのは、キーファだけじゃない。
誰よりも何よりも、好きで──彼のそばに居るなら、どれほどの苦痛だって耐えて見せようと、そう思っていた人が、目の前に居るのに。
その手を取ってしまえば……きっと、死の瞬間まで、幸福のさなかでいられると、わかっているのに。
「でも、それじゃダメなんだ……っ! ダメ、だから…………っ。」
喉を──振り絞るように、呟いた。
僕は、一人じゃない。──一人には、なれなかった。
そして……結局僕は、そうやって、生きることができないって、知っているから。
「──キーファを、苦しめたいわけじゃ、ないから…………そんな形で、残っても……君は、幸せになれないから。」
僕がココで息を引き取れば、それはきっと、君にとって、永遠の重荷になるだろう。
どれほど、幸せなことでも。
愛する人を、奈落に突き落とすことも、残してきた仲間たちを、悲しみに浸すことも──選べないから。
「僕だけ……幸せになっても…………ダメ、だから。」
噛み締めるように呟いた言葉は、ヒタリ、と、胸に染みた。
自分でも悲しいくらい、心にしみこむ。
どれほど足掻いても、きっと一生手に入らない至上の幸福が目の前にある。
でもそれで、幸せになれるのは、自分だけだ。
────僕は自分の幸せを捨てようと思った。
だから、ちゃんと終わらせようと思った。
「──っれで……なんで、幸せだなんて……言うんだよ……っ。」
前髪を掠めるように、キーファの苦しげな吐息が零れてくる。
彼にはきっと、一生わからない。
自己完結する感情。相手に思いを求めない心。
それでも、そこに幸せがあると分かっていても、それを選ばない、自分の「道」。
だから、僕たちの道は、違えてしまったのだから。
「重荷でもなんでもいいから、側に居て欲しかった……居たかった…………っ!
好き、だから──キーファだけが、好きだから…………っ。」
──それでも、彼をこの場で選べない自分が、ずるくて……ただ涙がこぼれる。
心は叫んでいる。
この腕を離したくなどないと。
もう何もかも、宿命は役割を終えたじゃないか。
僕は、自由だ──もう、いいじゃないか。
あれほど焦がれたこの腕の中で、幸せの中で、死んでしまっても、いいじゃないか。
「────……キーファだけが…………好きだけど…………っ。」
それでも。
彼に抱きつかずに、ただ拳を握り締めて涙を流し続ける程度には、許せない物を、抱えている。
────己の思いで、誰かを傷つけたい、わけじゃない。
「んっで、お前は、そうやって……いつもいつも黙ってたんだよ!
何で今更、そう言うことを言うんだよっ!」
ポツン、と──握り締めた拳の上に、雫が一つ、落ちた。
流れ続けるアルスの涙は、ただ顎先を滴って、服の上に滲み落ちていく。
潤んだ眼差しで追った先──こらえ切れないように顔をクシャクシャにして、唇を噛み締めているキーファが居た。
「──って、キーファは……僕だけのキーファじゃないから…………っ。
キーファには──自由でいてほしいから……っ。」
なかないで──……小さく、零れ出て行くような声で、アルスは握り締めた拳を開く。
そ、と伸ばして……日に焼けた彼の頬に触れる。
指先を、冷たく濡れた雫が掠めた。
ギュ、と、キーファは強く瞼を閉じて、その拍子にポロリと大粒の涙を零す。
「お前になら、どれだけでも縛られてやったさ! 俺が行きたい場所に、俺がお前を連れて行けばいいんだから……だから、でも、それじゃ、ダメだから……っ!
お前は、それじゃ、ダメになっちまうから……!」
「ダメになってもよかったんだよ! だからっ!!」
叫び、返して。
アルスは、キーファの顔を見上げた。
昔──一緒に居た時。バカみたいにずっと一緒に居たとき。
決して僕は言わなかった。
こんな執着した思いは、彼の未来に邪魔になると思ったから。
彼には自由でいてほしくて、彼が望むように生きていきたいと思ったから。
…………子供じみた思いと、醜悪なまでの独占欲と、どこからどう混じったのか、自分でも分からないくらい──ただ、「好き」しかなかった頃。
「──だって、特別だとか、そんなの、どうでもよかったんだ……僕は…………。
ただ………………キーファの側に…………居たかった、だけなのに…………。」
目を閉じれば、頬を伝う涙の感触がした。
目の下に当たる睫の先が、濡れていて、冷たい。
キーファの頬に当てた指先を、力なく落とす。
あと少し体を傾ければ、キーファの腕の中。
でも、それが出来ない距離が……今の僕と彼との距離。
唇に浮かぶのは、自嘲めいた力無い笑み。
自分が口にしたことが、どれほどバカげているのか──ただの癇癪のようだと分かっているから、言葉に、力は宿らない。
「バカか、お前はっ!? 俺は、お前にも自分の道を見つけて、そうして幸せになってほしいって思ったから……っ。
お前なら、やれるって……お前には、力があるって──そう、思ったから……っ。」
だから。
あの瞬間、あのときでなくては、俺は決して選びはしなかった。
嫉妬、羨望、苛立ち、悲しみ、揺れる思い。
何もかもがあの瞬間に集結したから、俺は今の道を選んだ。
後悔などしていない。
俺が選んだ道。──お前が選んだ道。
決して交わることはないだろうとは思ったけれど、同じ心を抱えて生きていると思ったから。
そう、思っていたから。
────きっと彼も、幸せのために、生きていっていると、信じていたから。
「幸せだったよ!? 僕は、幸せだったよっ!!?
卑怯な、小さい幸せだったけど、それでも幸せだった!」
どうして君が、それを言うの?
どうして君が、僕の幸せを疑うの?
腕の中に閉じこめて、愛していると囁いて、幸せも喜びも何もかも、君が与えてくれたのに。
かってに一人で悩んで、かってに一人で苦しんで──勝手に一人で答えを出して。
────それが、どれほど僕にとって、苦しくて、悲しくて、辛かったか……本当に君は、気付きもしないんだね。
「世界救って、神様に会って! ………………キーファの居ない…………平和な今のほうが…………ずっとずっと…………幸せになれないよ………………っ。」
掌に残ったのは、何?
ちっぽけな──涙だけ。
涙だけしか……残らなかった。
「────俺は…………お前が、怖かったんだ…………。」
アルスの肩を掴む手を緩めて──びくん、と、小さく彼の肩が跳ねた。
キーファはその肩を撫でるようにして手を離すと、その掌で、アルスの頬を包み込んだ。
ボロボロと涙が零れ落ち──どこか憔悴したような眼差しで自分を見上げる瞳。
黒曜石の輝きを宿すそれを覗き込むと、自分の選択は間違っていなかったような気がしてならなかった。
──遅かれ早かれ、いつか俺は、アルスの足かせになる自分の存在をアリアリと感じ取っていただろう。
男として、兄貴分として、恋人として──アルスの隣に立つことを苦痛に思い、逃げ出したくなるような自分を感じ取っていただろう。
そして、やっぱり、いつか、逃げていたと思う。
「俺は、あの時の判断を間違っていたとは思わない。
──お前に相談もなくやったのは、悪いとは思うけど…………それでも、俺が選んだ、俺の道だから。」
両手で両頬を包んで、そ、と顔を仰向かせる。
涙に濡れた睫も、潤んで光を宿す眼差しも、幼さを残して精悍な顔立ちになってきた容貌も──何もかもが、別れたときのままのようでいて、違う。
この目を、この顔を、覚えておこうと思った。
「キーファ……。」
辛そうに、眉を寄せるアルスの眦に、昔したように唇を落とす。
そのまま涙を掬い取って、間近で苦く笑って見せた。
「俺は、お前を幸せにしてやりたかったよ。
でもな、俺じゃ、無理だと思ったんだ。」
「それは、キーファが決めることじゃ、ないよ?」
「あぁ……──でも、俺は、お前を苦しめ……俺自身をも苦しめるだけだって、分かってた。」
結局は、別れた後の方が──あとからジンワリとやってくる痛みの方が、よほど長い間、自分を苦しめていたけれど。
「──……キーファ…………。」
濡れた唇を噛み締めて、辛そうに歪む顔を見て──胸に広がる苦くて痛い味を、噛み締める。
お前のそんな顔を見たくなかったと言ったら……それこそ今更だと、お前はそう涙を流すのだろうか?
お互いを傷つけるのが怖くて、お互いに傷つくのが怖くて──だからこそ、知らない間にお互いを傷つけていた。
「…………でもね……僕は、君と別れてからのほうが、ずっとずっと……辛かったよ…………。」
いっそ、忘れてしまえばどれほど楽だっただろう?
彼との別れの後、しばらくは何かあっては思い出し、悲嘆にくれていたものだけど──ダーマ神殿で、それでも生きていかなくてはいけなくて。
旅が進めば進むほど、過酷な日常が続けば続くほど、キーファのことは頭の片隅に追いやられていったことは確かだ。
彼の存在が無いことに麻痺して──ただ毎日を戦い続けた。それに、必死だった。
グランエスタードを訪れては、経過報告を王にして……悲しみに暮れる彼らを慰めることすらした。
それは、キーファのことにだけ、心が麻痺していたからだ。
なのに、時々……運命は残酷にその心を抉り取る。
水に沈んだ島の上。出会ったのは美しい音色を奏でるトゥーラ弾きの老人。
奏でながら──自分たちが遠く昔に出会っているということに、最後まで気付くことなく、彼は昔の語りを歌ってくれた。
抉り取られる胸を、抑えるのに、ただ、必死だった。
それから少しして、またようやく心が麻痺しはじめた頃に、今度はユバールを見たと父から聞いた。
流行る心で──それでもたどり着いた先で。
君と、彼女を思わせる、美しい人に出会った。
大切な仲間。
でも、痛い思いを抱えることが、多くなった。
結局、月日が経っても──経てば経つほどに、心は傷ついていたと、知ってしまった。
君が、選んだ道は、ひどく過酷で重く──その意味は果てしなく深いことに、気付かされてしまった。
「僕とキーファの道は、決して交わることはないのに──ユバールと僕の道は、交わってしまうことが…………僕は、辛かったよ…………。」
だって、キーファを……愛している人を、失った場所だから。
神様の復活の儀式のために、また洞窟を通った。
水が無くなった洞窟の底で、あのときと同じように美しい衣装に身を包んだ魅力的な美女が居た。
錯覚を覚えたのは僕だけ。
奏でる力強い音色は、遠く昔聞いたジャンのそれと劣ることもなく──夕日の中、軽やかに舞う踊り手の鮮烈で優美な舞いは、あの日抱えた痛み以上の痛みを持ち。
それでも、前を見捨てた。
思いを封印して、見なかったことにして、蓋をして。
運命と生きていこうと考えるのは、簡単だった。
──それは、僕が望む道と、同じものだったから。
でも。
全てが終われば──ただ前を見て走ることもできなくなった。
望む道が、不意に目の前から掻き消えた。
いつもの、幸せな、平穏な、フィッシュベルの村で目がさめるのだ。
キーファの居ない島。隣に居ない人のことを思って、それでも見てみないフリをして、生きて行くことはできた。
背を預け、隣に立ち会った戦友が居た。かけがえのない仲間たちが居た。
強く思う家族が居た。
自分を支えてくれる人は、多くなりこそすれ、数的には少なくなったりはしていなかった。
だから──気付きさえしなかったら、きっと僕は、君が居なくても、生きていけた。
…………君が居ない世界が、これほど色あせて見えていたなんて事実に、気付かずに…………生きていた。
あの石版を、見つけるまでは。
「キーファを……苦しめたくて、ココへ来たわけじゃない。」
会いたかった。
苦しくて、悲しくて、辛くて。
石版を抱きしめた瞬間、会いたくてしょうがなくなった。
もう、我慢できなかった。
蓋をしていた感情が、次から次へと溢れて、溢れて。
気付いたら、もう、後戻りすることなんて、考えることはできなくなっていた。
「会いたかったんだ。会って──そう、伝えたかったんだ。」
別れは突然だった。
伝えたいこと、言いたいこと、叫びたいこと、泣きたいこと。
たくさんあった。
詰って、問い詰めて、分かるまで話し合って、ぶつかって。
やりたいことも、たくさんあった。
でも、出来なかった。
彼が決めたのもまた、「突然」で。
別れもまた、一瞬でしかなかったから。
みんな頭が混乱していて、旅の扉まで先を歩いていくキーファの背を追うのが精一杯だった。
マリベルですら、口をつぐんでいただけだ。
言いたいことは、たくさんあった。
それをすべてつぐんで──それなら、最期までいい別れ方をしたいと、笑顔で別れた。
それが、後腐れなく別れることが出来る方法だと、思ったから。
『泣けばいいのよ、そんなときはっ。』
そうしないと、ふんぎれるわけ、ないじゃないっ。
そう言った少女は、そのまま石版の間に突っ伏して泣いた。
ガボは何も言わず、飛び出していったきり帰ってこなかった。
僕はただ、立ち尽くして──石版を見つめていた。
マリベルの泣き声が耳に痛くて──ワンワンと耳鳴りがした。
どうしたらいいのか分からなくて。何をすればいいのか分からなくて、仰いだ天井が、歪んで見えた。……涙は、その時こぼれた一筋だけ。
後は、記憶にない。
後悔することすら、恐れてきた。
それじゃ、ダメだって、分かっていたくせに。
ずっと、見てみないフリ。だから心の傷は膿んだまま、塞がることも、小さくなることもなかった。
ふとした拍子に、血が噴出すばかりで──それが、ずっと、続いていくのだと、思った。
「僕は……キーファを、愛しているよ…………。」
キーファが包み込む掌に、自らの頬を寄せるようにして、小さく、呟く。
ひゅ、と、キーファが息を吸い込んだような気がした。
瞼をあげて、彼の目を覗き込む。
大人びた顔。大人びた仕草。重なる面差しは、昔と変わらない愛しい表情。
好きだったよ。
僕も、マリベルも、ガボも──君の周りのすべての人が、君の存在に癒されて、君の存在に喜びを感じていた。
「お願い……忘れないで。
僕のこと、綺麗に思ってくれなくてもいい。
ただ、忘れないで──お願いだから…………僕が、君のこと、こんなに好きだってことは、忘れないで……。
僕たちが、君のことを、好きだったってことは、忘れないいてほしいんだ……。」
ただ、それが言いたかった。
綺麗なこと言って、美化されたくなんかない。
僕のこの──時が経つほどに鮮明になっていく、狂おしい思いを、どうか知って欲しい。
君の決断で、これほど傷つき、いたんだ心を…………それが、自己満足だと分かっていても、だ。
全身全霊をかけて、命をかけて──君に会いに来た男を、忘れないでほしい、と。
目を閉じて──アルスは、頬に伝い、顎を伝う涙の感触を感じた。
涙を受け止める、キーファの暖かな掌を、染み入るほどの感じた。
耳に響くのは、遠く海の音色。
決して聞こえるはずのないそれが、どこから響くのか……。
────それは、僕の、帰る場所の音。
「アルス──………………。」
「これで、やっと──帰れるよ。」
苦い──苦い声で名を呼ぶキーファに、アルスは穏やかに微笑んで見せた。
今度は、心からの微笑み──もう大丈夫だと、安心してと、キーファに伝えるために、自然と浮かんだ微笑だ。
「君の居ない世界で……生きていくよ。」
まだ、しばらくは辛いだろう。
まだ、しばらくは苦しいだろう。
それでもきっと、いつか、心の傷を抱えたまま、空を仰ぎ見れる日が来る。
いつかまた、海へ漕ぎ出そうと思う日が来る。
──────そうなるために、ココへ来たのだ。
「…………っっ。」
唇を噛み締めて、キーファは穏やかなアルスの微笑を見下ろしていた。
歯がゆさばかりが、苛立ちのように胸を締めていた。
ギュ、と、心臓を掴み取られたように痛かった。
なんで……、お前はいつだってそうなんだろう?
どうしてお前は、いつだって、そうやって……忘れた頃に、突きつけてくるのだろう? 諦めたときに、そうさせないかのように、俺の心を離さないんだろう?
焦がれるような、嫉妬交じりの、わけの分からない感情を忘れられたと思ったのに。
彼と二度と会わないと、決意したというのに。
可愛いお前を、大切な友として別れることが出来ると思ったのに。
どうしてお前は、そうやって。
俺の心を乱すのだろう?
誰よりも早く、誰よりも強く、誰よりも──鮮明に。
どうして……すべて自分の手で振り切ったものだと思い、鍵までかけた箱の中を、開けてくれるのだろう、彼は。
「アルスは……卑怯だな…………。」
欲しかったときに、その心も、真実もくれることはなかった。
なのに、今、どうして──こうやって心を掻き乱してくれるのだろう?
自分の手にも、アルスの手にも、離せないものがあると、そう言っているのに。
最後の最後で、この手を離せなくなるようなことばかり、口にする。
「……きぃふぁ?」
スルリ、と、アルスの頬から手を離し、そのまま彼の体を抱き締める。
「──……き……。」
驚いたように目を見開くアルスに顔を近づけ、キーファはそのまま笑って見せた。
──アルスが、命を賭けてまで自分に会いに来てくれたというなら。
「待ってろ。」
コツン、と額をあわせる。
間近で──本当に久し振りに間近で眼差しを交し合って、大きな目に映る自分の真摯な目を見つめた。
「? キーファ?」
呆然と見開く彼の目を見据えながら、キーファは抱きとめる手に力を込める。
「俺がお前を迎えに行く。何年かかっても、絶対、迎えに行く。
今度は俺が、ソッチに行ってやるから。どんな手段を使っても、絶対に。」
想いの力なら、俺だって負けはしない。
別れても──別れてからの方が辛かったのは、自分だって同じなのだから。
ふとした拍子に、アルスの面影に自分の行く道が混じっていたのは、俺だって同じなのだ。
──解放されていく世界、伝説に残る勇者の像。その全てに、チクリと胸が痛み続けたのは……俺だって、同じ。
「何、言って……っ。」
アルスが、唇を震わせて、キーファの腰のベルトに指を引っ掛ける。
「だって、キーファ、自分で言ったんじゃないか……っ。迎えって…………っ。」
フル、と、小さく否定するように頭を振ろうとするのを、キーファは合わせた額に力を込めることをそれを辞めさせた。
「ああ……この世界で俺がしなくちゃいけないこと。それが俺にはある。
それが終わってないから、俺は向こうには帰れない。」
目を歪ませるアルスの目を見つめて──キーファはそこで一つ息を吐いた。
それは、俺が選んだ道。
俺の手の中には、愛する妻も、妻の中にある命も、俺が今身を置く一族の命もある。
──けど。
ユバールの戦士は、永遠に一人なわけじゃない。
「命賭けてでも、絶対終わらせて、お前に会いに行く。
──だから、待ってろ。」
どれほど掛かるかなんて、分からない。
今からアルスと別れて、ユバールに合流して。
ライラと族長を説得して──また勝手なことをするんだから。
もしかしたら、一生かかるかもしれない。
でも。
────かえりたい、と……そう言ったら、お前は、バカだと、そう詰るか?
「────…………終わらせ…………って…………。」
「待ってて……くれるんだろ?」
祈りを込めるように、腰にまわした手に力を込めた。
アルスは、呆然と見開いた目を、ゆっくりと瞬き──それから、薄く開いた唇で、キーファを見上げた。
「いい、の? だって、キーファ、骨、ここで……。」
ガリ、と、キーファの袖を掴もうとした手がベルトで引っかかる。
その事実にも気付かず、アルスは必死でキーファを掴もうと、ベルトに指を引っ掛け──目だけはキーファの目を追った。
「? いいから……な、アルス?」
お前がこなければ、俺はきっと、この世界で骨を埋め──それに後悔することもなかっただろう。
いつか、未来。
俺が生まれ、俺が育ち──そして俺が帰らない未来、お前がその手で世界を取り戻すことを夢見て、息を引き取っただろう。
ユバールの戦士として、ユバールの男として、この世界の男として。
それに、何の恐怖も覚えなかったに違いない。
そういう道を、選んだつもりだった。
でも──その未来の像にはいつも、ふと思う瞬間がある。
俺はきっと、死の瞬間、脳裏に描くのは、この世界の光景ではないのだろう、と。
お前が来なければ、それでもいいと思っていた。
「だから、お前も向こうで頑張ってさ、俺に、お前が取り戻した世界見せてくれよ?
俺が、ここで、頑張った成果。形にしてくれよ。」
会いたかった。
そう思うことが、罪なのかな?
「────…………キーファ。」
命をかけて、ココへやってきたのは、キーファにそんな辛い選択をさせるつもりじゃなかった。
そう、詰って、そう、せめて──発言を撤回させようと、決意の滲んだ目でアルスがキーファの名を呼ぶ。
けれど、まるでそれすらも予測していたように、キーファが首を傾げるようにして、
「約束。」
小さく呟いて、その唇で、言いかけたアルスの口を塞いだ。
「……キーファ……っ。」
一瞬で離れたそれに──胸が、震えた。
その羽根のような感触と、ぬくもりに。
「キーファ……キーファ…………っ。」
堪えきれずに、アルスはキーファの背中に手を回した。
そして、しっかりと──もう何年ぶりになるか分からないほどこの腕に感じなかった人の体を、抱きしめる。
キーファも、肩口に擦り寄るアルスの髪に顎を埋めて囁く。
「──……まだ待たせても……お前は、俺を──。」
言葉を続けようとして──一度そこで区切ったキーファが、一瞬ためらうように唇を震わせる。
その彼の言葉の先を奪うように、アルスは抱きつく手に力を込めた。
「好き……大好き。」
間髪いれず返って来る答えに、キーファは頬を緩めて見せた。
しっとりと汗ばんだアルスの髪の上に、軽い口付けを降らせて、名残惜しげに彼の背中から腕を緩める。
お互いに正面から顔をあわせて──間近で、こうして見つめるのがどれほどぶりか……もう分からない。
まだ少し涙で濡れた互いの目が、喜びに光を称えている。
「………………俺の方が、お前を必要としてるって知ってたか、アルス?」
長い間焦がれ続けていた黒曜石の瞳を覗き込んで、キーファはイタズラに微笑む。
アルスは、一度目を大きく見開いて──淡く唇をほころばせて微笑み返した。
「──……その答えは……キーファが帰ってきてから、聞いても、いい?」
今度の別れが、どれほど長い別れになるのかなんて分からない。
でも──きっと、会えると分かっているから。
永遠の別れではないと……そう、信じているから。
キーファの背中に添えるように回していた手で、彼の両腕を掴んだ。
そのまま、背伸びをして顎をあげる。
ソ、と伏せた睫の影が、自分の頬に落ちるのを感じながら──キスを、した。
甘い、痺れるような口付けは、長く火の消えていたお互いの心に、ポツン、と、明かりを灯す。
「いくらでも教えてやるよ──俺のアルス。」
口付けの合間に囁かれる甘い響きに、とろけるように微笑んだ。
「うん、待ってる。」
甘美な約束に、心躍らせながら──二人は互いの指先を絡め合わせて、幸せを……噛み締める。
長い別れの前の、つかの間の幸せ。
でも、今度の別れは、辛くはない。悲しくはない。
お互いに、するべきことを見つけ──その末に出会おうと、そう、約束したのだから。
「笑ってくれ、アルス。俺が、お前を思い出すとき、お前がいつも笑顔であるように。」
「笑って、キーファ。──僕の大好きなキーファの笑顔を、いつも見ていたいから。」
その笑顔を、ずっと共にあるために。
────今は少し、旅に出よう。
君と一緒にいるための、旅に……。
「俺の墓を作ろうぜ。」
記憶を失った「恩人」を送っていったっきり、帰ってこなかった不良夫が、ユバールに帰ってきたのは、半年弱ほどの月日が経ったとある日の夕方だった。
すぐに出迎えた面々に、すがすがしい笑顔で一言断って、族長のテントに向かったのが、一刻ほど前。
その彼が、ようやく自宅のテントを捲って開口一番に零したのが、そのセリフだった。
半年弱ぶりに会い、「おかえりなさい」「ひさしぶり、ライラ」の会話を交わした後の、第一声がコレだったとも言う。
「…………え?」
冬の準備に向けて、繕い物をしていたライラは、朗らかに笑ってみせる夫を見上げて、軽く眉を寄せる。
元々、好奇心旺盛で冒険心旺盛なキーファが、突拍子もないことを言うのには慣れていたが──更にこう見えても、元々育ちがよろしいせいか、とんでもないボケをすることもあった──さすがに、「墓」なんて言うなんて、一体何があったのかと、気色ばんでも不思議はないだろう。
キーファがアルスを追って旅に出てから半年弱。
その間に、思い切り膨れ上がったお腹は、来月には臨月に差しかかろうというところだった。
そんな妻に向かって、二人きりになって開口一番が、「それ」。
ライラはあきれた心地で、さっそく、「それ」なのね、と、溜息を零したくなった。
「……キーファ。」
短く名を呼ぶと、キーファは、小さく笑って、ライラの隣に座った。
「俺の墓。ユバールのキーファは死ぬから、そのための墓。」
軽い口調だった。
朝おきて、昨日の夢はいい夢だったと、そう語るような。
けど、覗き込んだライラは気付く──彼の目が、酷く真剣であることに。
「…………決めたのね、キーファ?」
答えるライラの声も、穏やかだった。
彼の言葉の意味が、何を示すのか、しっかり分かっていながら、彼女は何事もなかったかのように繕い物を再会する。
今作っているのは、これから生まれ来る赤ん坊のための産着だ。
目の前の夫と、自分との間にできた子供──なのに、その待望の子が生まれるという事実を前にしても、キーファは真摯な眼差しを覆すことはなかった。
キーファはニヤリと口元を緩めて見せた。
「ああ、決めた。止めてもムダだぜ。悪いけど。」
その、イタズラ小僧を思わせる口調に、あきれた、と、ライラは小さく零して縫いかけの布地を膝の上に置く。
「全然眼が悪く思ってないわ。」
「決めたからな。」
軽く答えるキーファの目が、キラキラと光って見えた。
どうやら彼は、進む道を思い描き、やるべきことを見出したようだった。
──それは、レブレサックの近くに谷で、あの少年を見つけた時から、予感していたことではあったけど。
「帰ってきてから、眼が違ったから……出会ったときのあなたみたいだったから、たぶん、そんなことだろうと思ったわ。」
男は妻を得て、子供を得て──自らの家族を得て、変わるものだと、父も族長も言っていた。
けど、ライラだけは知っていた。
この男は、そんなもので縛られるような人間じゃないってこと。
──まぁ、いい夫で、いい父親にはなれただろうけど。
今の彼の目を見て、「子供には父親が必要なの」なんて泣きつくつもりは毛頭なかった。
そんなことをして引きとめて、一体ナニになるというのだろう?
「さしあたっての難問は、『ユバールの戦士』の後継者と言った所かしら?」
いとしそうに腹を一度撫でて──ライラはその中で父親顔負けのやんちゃぶりを発してくれる赤ん坊に、心の中でわびる。
ごめんね──私、元々、アルスさん達と張り合うつもりは、ないのよ。
「出て行くなら、この子が物心つく前にしてほしいわね。──そうしないと、『お父さん』の顔を覚えられて、困るもの。」
だから、最低でも2年か3年で、後継者を育てること、と。
ピシリ、と指差し命ずるライラに──反対されるよりはよっぽどいいが、と、キーファは眉を曇らせずにはいられなかった。
アッサリと──これが、半年前まで仲の良い夫婦だと言われていた相方の言うセリフかと、ワガママを言ったキーファの方が溜息を零さずにはいられなかった。
怒って、詰られる、なんてことも、一応頭には置いてあったのだ。出来ることなら、子供が大きくなって、大人になるくらいまでは、一緒に旅することも、頭の片隅には入れてあった。
「──それって、俺には子供が成長する姿をみる権利はないって、言ってるのか、もしかして?」
情けない顔でそう尋ねるキーファに、バカね、と、ライラはクスクスと軽やかに笑って見せた。
「少しでも早く会いたいのに、無理しないでって言っているの。子供は敏感だから、そういうのを感じ取ってしまうでしょ? そうしたら、キーファは育児の邪魔になりこそすれ、助けにはならないって、そう思ったのよ。」
「…………それも大概酷いと思うけどな。」
軽く肩を竦めて──手を伸ばしてくるキーファに、無言で自分のおなかをさすらせる。
久し振りに会った父が分かるのか、腹の子はたくましく一度腹を蹴った。
その瞬間、ピクン、とキーファの腕が動き……彼は、ひどく辛そうに顔をゆがめた。
「言ったとおりだったでしょう? キーファ?」
でも、それでも彼は、自分の道を選ぶのだろう。
彼は、長い間それに囚われ続けていたことを、側にいたライラが一番良く知っている。
側にいたから、ライラもキーファも、お互いを支えあい──確かに惹かれあっていたのだと思う。
お互いに生まれたときから目に見えない鎖に縛られてて──それから解放される道を見つけた時から、きっと、お互いに支え合っていけると、そう思ったのだと思う。
でもそれは、愛情だけど、執着する感情じゃない。
「ん? ナニが?」
茫洋とした眼差しで自分を見てくるキーファの、旅立つ前とまるで違う目に、ライラは苦笑を噛み殺すかわりに、しれっとした声で答えてやった、
「私は、アルスさんの代わりには、なれないわよって……プロポーズの時に、そう答えたじゃない。」
そのまま何げない動作で、膝の上に乗せたままの縫い物に手を伸ばした。
チクチクとリズム良く進めていくその針を見て、ライラの顔を見て──キーファは、天井を仰いだ。
「…………あー…………。」
確かに、そういわれた覚えがあった。
しかもそのとき、自分は最低なことに、こう答えた覚えがあった。
『ライラはライラだからいいんだよ。』
ある意味、きちんとした愛の言葉のように感じるが──ライラはその意味を、しっかりと感じ取ってくれていたということだろう。
──誰も、アルスの代わりになれるものなんて、いないのだ、と。
「キーファのお墓、立派なのにしないとね。ユバールの英雄、ここに死す、みたいに?」
ライラは、小さな手作りの衣装を作りながら、そうキーファに首を傾げた。
楽しそうな、嬉しそうなその言葉に、キーファは軽く肩を竦めて答える。
「なんでもいいぜ。」
そう断言して──あ、でも、と続ける。
「俺、向こうに帰ったら、その墓見たいから、長く保つようなのでよろしく。」
スチャ、と、片手を翳すようにしておちゃらけて片目を瞑ってみせる。
ライラは、その言葉を受けた瞬間、苦虫を噛み潰したような顔になって、
「──私が作るの? キーファが作るんじゃなくって?」
心底嫌そうに、そう尋ねてくれた。
縫い物をする手も、ピタリ、と止まっていた。
ソコまで甘える? と、ジロリと睨んでやると、キーファは、ライラに明るく笑った。
「そう、頼みますヨ。奥さん。」
アルスが来なければ、多分自分たちは、こうして「夫婦」として、暮らしていけたのだと思う。
強い愛情があるわけじゃない、ただ静かな感情が互いの間に横たわる家族。
きっと、幸せに暮らしていけたと思う。
けれど。
「しょうがないわね……。」
疲れたような仕草をしてみせて、ライラは渋々の体を装って、キーファの言葉を受けてやった。
──最後の最後まで、いい女でありたいから。
「その目で頼まれては、断れないじゃないの……。」
子供のような、夢を見る眼差し。
その目を取り戻せたのは、自分ではなく──たった一人の少年だと、分かっていたから。
「とびっきりのお墓を作ってあげるわ。」
おなかを片手でさすって、そうライラは微笑んで見せた。
強い愛情があったわけじゃないけれど……確かに愛していた人の望みと幸せを、願うために。
「そ。帰ってくるんだ。あのバカ王子。」
潮風に攫われる髪を押さえながら、マリベルは視線を水平線の彼方へとやる。
遠く島影が見渡せる澄んだ海が、まっ平らだった頃があるなんて、もう誰も信じやしないだろう──この島の人以外は。
「うん。」
小さく頷いて相槌を打つ少年を、マリベルはチラリと見やった。
神様に無理を言って、開いた旅の扉。
アルスがあの中に飛び込んでから、心配で毎日のように移民の町に出かけていたということは、アルスには内緒にしてある。
もっとも、ガボの口からばらされる日は近いだろうが。
「……あんた、顔つき変わったわね。」
半年ほど通ったある日、神様の立つ目の前に現れた旅の扉。
帰ってくるのかと、身構えたマリベルは、いつまで経っても現れないアルスの姿に、口にできないほどの焦燥感を覚えたものだった。
神の手を振り切って、自ら旅の扉に飛び込もうかと思った刹那──ようやく、アルスが姿を現した。
照れたような、嬉しいような……そんな笑顔を浮かべて。
「え、そう、かな? ……にやけてる?」
その時からずっと、記憶を失っていた頃のことを話すアルスに相槌を打ちながら、かすめ見続けたアルスの顔は──ずっと、笑顔だった。
思わず頬に手を当てて、少し目元を赤らめるアルスの今の顔も、同じだ。
マリベルは、アルスにコックリと頷くと、
「ていうか、幸せ面々。エロ顔。」
ビシリ、と、遠慮もなく指摘してやった。
そう、まさに幸せ顔。
人がこの半年もの間、一体どれくらい心配したと思ってるんだと、北の岬から突き落としたいほどの、満面幸せ顔なのだ。
「──……えっ、な、なに、それっ!?」
「向こうでナニされたかは知らないけど、新婚さんみたい。」
なぜか焦ってくれたアルスに、マリベルは付き合ってられないとばかりに肩を竦める。
そのまま踵を返そうとするマリベルに、アルスが必死になってしがみつく。
「…………っっ、さ、されてないっ、されてないーっ!」
ブンブン、とかぶりを振るアルスの真っ赤な顔を信じるのか、先ほどからの、一皮向けたような幸せ満面顔を信じるのか。
──ドッチにしても、彼が会いに言った相手が「エロ王子(過去の経歴より)」だと考えると、今のアルスのセリフに説得力はなかった。
「ハイハイ。ま、私は別にいいわよー? アルスが傷物にされてようと……って、ああ、考えてみたら、モトからね。」
「だ、だからっ!!」
勝手に一人で納得して、アルスの手を振り解いて歩き出そうとするマリベルに、アルスが必死になって弁解しようとする。
何を一体弁解するつもりなのかと思いながら、マリベルは顔だけ彼に向き直り──にやり、と笑って見せた。
「可愛げ出たじゃない?」
「────…………っ????」
「やっと──アルスらしくなったって、言ってやってんの! いーんじゃない? 英雄だとか、勇者だとか呼ばれても、さ。
結局あんたはあんた。この穏やかなフィッシュベルの、ただの猟師見習。それでいいんじゃない?
肩の力、抜けて、ちょーどいい感じ。」
ツン、と、ついでに指先で額を押してやると──昔のドンくさいアルスのように、彼はフラリと二三歩後ろに下がった。
ドンクサ……と、世界の勇者様を前にして、マリベルは口の中でそう悪態づく。
アルスは、マリベルに突付かれた場所を掌で抑えながら──チラリ、と目を上げた。
「────……キーファが、帰ってきたらさ、マリベル。」
小さく──呟かれた言葉は、それほど大きな声じゃない。
でも、すぐ間近に立っていたマリベルには、十分届いた。
「ん?」
軽く首を傾げるマリベルの頬を、海風が吹き抜けていく。
鼻先を擽る潮の匂いは、数年前と何も変わっていないような気がしたけど──少しだけ、乾いた風の匂いが混じっていた。
この世界にある、幾つモノ島のどこかからか、運ばれてきた風の香だろう。
「また、四人で旅、しよう? 今度は、……この海の向こうを見る旅を。」
マリベルが髪に手を当てて、遠くを見つめていたように、アルスもまた、視線を遠くへと当てる。
キーファがいた頃は、まだほんの少しの町しかなかった。
けれど今は違う。
魔王により壊れた村や町も復興して──空はどこまでも続いて行っている。
アルスが、ほんのりと微笑を馳せてそう提案する言葉の意味を、分かってはいたけれど、マリベルはあえて、柳眉を顰めて難色を示して見せた。
「新婚旅行の付き人をしろって言うのっ!? わたしにっ!? あんたらのシーツ洗って、あんたらのシーツをかえ……。」
むごっ。
真っ赤になったアルスが、慌ててマリベルの口を両手で塞ぐ。
「マリベル〜! 言ってない! 誰もそんなこと、一言も言ってない〜っ!!!!」
耳元で叫ぶ彼の、耳まで真っ赤になった顔を見ながら、モゴ、と塞がれた口の中でなにやら小さく呟き、マリベルは問答無用だと、アルスの足を蹴りつけた。
──それはとても楽しそうだわ……なんて、絶対にいってやらない。
そう、にんまりと笑って見せながら。
──────────また幸せな日常が、戻ってくる日を、夢見て…………。
「傷ついた分だけ、君に会おう。
傷ついた分だけ、君と話そう。
たくさんの言葉と思いを交わして。
ずっと一緒に居れたらいい。
それは、なんて幸せで甘美な夢。」
「ただいま、アルス。」
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