蛇の道、と呼ばれる、とてつもなく長い……長い道を行く。











 肉体を得たのなら「界王」の修行を受けるといいだろう、と閻魔大王に進められた。
 そこに、孫悟空たちも居るのだと言う。
 界王。その名前は、閻魔大王から聞くよりも前に、聞いたことがあった。
 蛇の道への入り口──蛇の頭までの道を、鬼が運転する車で送ってもらいながら、頭の中の記憶を攫った結果、ふと浮かんだ母の顔と共にその単語は思い浮かんできた。

『それで、孫君は界王っていう人と仲がよくてね……。』

 あの頃は、本当に苦労したんだからっ! ──時々せがむように昔の話をねだるトランクスに、母は良くドラゴンボール探しの話をしてくれた。
 悟空との初めての出会い、初めての冒険。レッドリボン軍という軍のこと、ピラフのこと、悟空とチチとのこと。
 悟飯を初めて見たときの衝撃、尻尾のこと。
 機械のオイルに紛れながら笑って話してくれたそのことは、小さな子が絵本をねだるのと同じ類のものだった。
 何度も聞いて、記憶してしまうくらいに覚えた。
 時々母は、記憶違いをしていて、何度目かの話を聞いたときに、「母さん、それは違ったような……」と訂正することも何度かあった。
 話を重ねるほどに、母の姿が美化されていったりするのだ。
 そう注釈を入れれば、覚えてなくていいのに、とブルマは笑っていた。
 そのことを思い出した瞬間、ふ、とトランクスは郷愁と共に、彼女を一人置いてきてしまった、という事実に、なんとも例えようの無い閉塞感を味わった。
 思わずどんよりと、自分のふがいなさに肩をガックリと落としたところで、
「着きましたオニ、トランクスさん。」
 二人乗りの小さな車を運転していた赤鬼が、ピタリ、と車を止めた。
 ハッ、と我に返った顔で前を見れば、すぐ目の前に人の背丈ほどの大きさの蛇の顔があった。
 ぽっかりと開いた口の中から、道がニョロニョロと曲がって先まで伸びている。
 そう言えば、気づいたら閻魔大王の所に居たけれど──ここは、どういう構造になっているのだろう?
 ムクリと涌いた興味で、無理矢理、暗い後悔に蓋をしたトランクスは、鬼が指し示す出口に向かって足を踏み出した。
 そろり、と車から降りれば、そこに広がっていたのは、一面の紫色の空と黄色い雲。
 背後を振り返れば、今まで車で乗ってきた赤い道が、はるか遠くに消え、右と左はただ雲と空ばかり。
 前方に伸びる蛇の道もまた、果てしなく、その先は霞むようになっていて見えなかった。
「……これは、水平線……? いや、雲だから、雲平線っていうのかな?」
 雲の向こうまで続く長い道は、曲線を描いて伸びていて、これを歩いていくのはしんどそうだった。
 道の左右にはギザギザした物が突き出ていて、落下防止の柵にしては低いから、ただの飾りなのかもしれない。
 蛇の道、というよりも、龍の背中をイメージしたのかもしれないな、と──トランクスは、自分自身は見た事がない神龍という……今では本当の伝説になってしまったものの存在を思い出した。
「それじゃ、この先をずーっといくオニ。その先に、界王さまがいるオニ。」
 鬼が指し示すのは、その行方がないのではないかと思うほどに、長い長い道の先。
「この先を、ずっと行けばいいんですか?」
「そうオニ。ずっと走っていくオニ。
 雲に落ちないように気をつけるオニ。この下は地獄で、落ちたらもう上がってこれないオニ。」
 こっくり、と頷く鬼に、はぁ、と答えて、トランクスは気が遠くなりそうな光景を再び見やった。
 呆然と立ち尽くすトランクスの背中に、赤鬼はペコリと頭を下げると、
「それじゃ、がんばってくださいオニ。」
 そのまま車に乗り込む。
 トランクスは慌てて彼を振り返ると、
「あっ、あの、この道、どれくらいの距離があるんですか?」
 うねうねと曲がりくねった道だから、ペース配分が物を言うだろう。
 もうすでに死んでいる身だから、飢餓感とかはない──と思うのだが、肉体がある以上、疲労感はあるかもしれない。
「一説によると、100万キロほどだと言うことオニ。」
「ひゃ……100万。」
 目を見開くトランクスに、長いだろう、と言いたげに鬼が笑った。
 その彼を前に、ふむ、とトランクスは頭の中で考える。
 地球の一周が、約4万キロ。ということは、地球25周分だ。
 超サイヤ人化して飛べば、100万キロなら、1日もかからないが──けれど、走るとなると──また少し話は別だろう。
「普通に走った速度なんて計ったことないから……どれくらいかかるんだろう?」
 いつも基本的に、舞空術で飛んでるからな、と呟いて──これだとまるで、歩くのを毛嫌い、いつも車を使って運動不足になっている人のようなセリフだな、と、トランクスは苦笑を覚える。
 そう言えば、機械にまみれて研究ばかりしていた母も、そんなことを言っていたっけ。
 ふふ、と思い出し笑いをしかけて──トランクスは、ふ、と息をついて空を見上げた。
 蒼紫色の空──地上の夜明けのような綺麗な色に、現実味を感じなくて、トランクスは切なげに眉をひそめずにはいられなかった。
 もう……母と会うことはないのだろう、決して。
 彼女が死ぬまでは、決して会うことはないのだろう。
 心配じゃないのかと言われたら、今も心配で心配で、胸が押しつぶされそうになると答えるだろう。
 けれど、どうしようもないことを、知っている。
 もう自分は死んでしまったのだ。
 死んだら……もう、終わりなのだ。どうすることもできない。
 ただ、祈ることしか。
 手の平をグと握り締めて、トランクスは強く目を閉じる。
 今まで死んでいった人たちも、同じように思ったのだろうか?
 人造人間に殺されて、人造人間たちを地球に残したまま、死んでしまった戦士たち。
 悟飯さんだけを残してしまった事実を、彼らはどれほど後悔し、どれほど悔しい思いをしたのだろうか。

──そして、悟飯さんも、また。

「──……悟飯、さん。」
 会いたい、と、思った。
 けど、会えない、とも思った。
 だって俺は──あの人の期待に、あの人の残した遺志に、答えることはできなかったのだから。
 うなだれ……顔を大きく歪めて、トランクスは唇を真一文字に結んだ。
 ゆっくりと顔を上げて、長く伸びる蛇の道を見つめる。
 この先に──悟飯さんたちが居る。
 そこに辿り着くまで、どれくらいかかるかは分からないけれど、でも。
「……界王さまの所に着くまでに、俺も……心の整理ができるんだろうか。」
 祈るしかできない。
 過去の世界の悟空さんたちが、あの正体不明の生き物を倒してくれたら、と──そう、他力本願で祈ることしかできないけれど。
「──……行こう。」
 今はただ、前に進むことしか、できない。
 物心ついたときから、常に自分に寄り添うように存在していた、たとえようのない無力感を、今再び噛み締めて──トランクスは、ひどく重く感じる足取りで、蛇の道へと踏み込むのであった。
















「……はっ、はぁ、はぁ……。」
 息が荒く零れ、トランクスは額から滴り落ちる汗を拭い取った。
 ふぅ、と熱い息をこぼせば、首筋を伝った汗が、胸元を擽る。
 ずっと同じペースで飛ばしてきた走りを緩め、ゆっくりと立ち止まると、トランクスは腰を折り曲げて、荒い息を整えるように小さく深呼吸を繰り返した。
「──ふぅ。」
 吐息を漏らしながら前を見れば、昨日もおとついも見続けたのと同じ光景……紫色の空と、黄色い雲。
 左右の蛇の背中の鬣を模したような飾りから覗き込めば、みっしりと埋まった雲がうねうねと動いているだけの光景。
 あまりに代わり映えのしない光景に、今がいつで、ここがどこなのか、自分が誰なのかすら、曖昧にボケてくるような気がした。
 感覚すら鈍っていて、今、どれくらい走ったのかも良くわからない。
 これは、こういう感覚をも鈍らせる試練なのだろうかと、答えの出ないことを頭の中で思いながら、トランクスは長く続く先を見据える。
 まだまだ先は長く、道の先は果てしない雲の向こうに続いている。
 背後を振り返れば、今まで歩いてきた道もまた雲に埋もれ──どこを見ても、雲と雲と雲だ。
「せめて、夜とかがあれば、時間の経過も分かるんだけどな……。」
 死人だから、眠りたいとか言う感覚もないし──疲労感はあるから、だいたいどれくらい動いたのかは分かるものの。
 走りながらも脳みそが暇だったので、過去の経験を脳裏に思い浮かべながら、自分の時速を計算してみたりもした。
 だいたい、ジェットフライヤーが最速1000キロくらい。
 舞空術ならとにかく、普通に走る分には、ジェットフライヤーに追いつかない。
 けれど、バイクの最速480キロよりも早く走れるから、だいたい700キロくらいと言ったところだろう。
 それなら、100万キロを走り終えるのに、休みなしで走り続けて、約二ヶ月かかる計算だ。
 そして、今までの大体の時間の感覚で言うと、走り始めて10日ほどが経過している。
 なので、
「あと──、6分の5、か。」
 今、地上で何が起きているのかは、あえて考えないようにしていた。
 考えても仕方が無いと言うのもあったが、考えれば欝になってしまい、足が止まってしまうからだ。
 滴る汗を拭い取り、さて、と、再び走り出そうと、トランクスが前を見据えた──その瞬間だった。



 ぞくっ……っ!



「──……っ!?」
 頭の先から足先まで走った悪寒に、トランクスは咄嗟に身構えていた。
 右手は知らず背中にある剣を掴もうとして──あぁ、そうだ、死んでいるから剣はないのだ、と脳裏で舌打ちしながらも、左手に気功を溜める。
 いつでも飛び出せるように──いつ襲ってこられても大丈夫なように、トランクスは気を張り、油断なくあたりを見回す。
 強大な気の気配だ。
 そして──まがまがしさをも含んでいる。
 この気は一体、どこから感じられるのか。
 あの世にもたくさんの戦士がいるのだと聞いてはいたが──これほどまがまがしい気を持つ人間が、地獄に落ちずにココにいるのが解せない。
 まさか、父さんが──……っ? という期待をチラリと抱いたが、それはありえないと即座に判断を下す。
 だって、閻魔大王だって、ベジータは地獄に落ちて、すでにもう魂から記憶は拭われていると言っていた。
 なら、一体……この気は?
 慎重に、ゆっくりと──気を探ったところで。
「──……っ、ま、さか──……っ?」
 その、悪寒を導く「気」の奥底に感じ取れる、清涼感にも似た気配に気づいた。
 それは──ずっと長年親しんできた人の、それだ。
 間違えるはずのない、たった一人の、己の師のソレ。
「ご、はん、……さ、ん?」
 まさか、そんなはずはない。
 そんなことがあろうはずがない。
 そう思いながらも、トランクスは自分の中に抱いた確信が、決して間違えてはいないことを知っていた。
 この、怖気だつようなまがまがしさを秘めた気は、孫悟飯のものと同じものだ。
 ささくれだち、波立ち──そうして、憎しみと悲しみと、苛立ちとを背負った……慟哭の気。
「……悟飯さんっ。」
 どうして、と思う暇は無かった。思う余裕もなかった。
 トランクスは気づいたら、蛇の道から飛び立っていた。
 どの慟哭には、自分も覚えがある。
 過去の世界に、母に、苦しみをもたらしてしまったのではないかと、その絶望感とふがいなさから、発狂しそうな気持ちになったものと、まったく同じものだからだ。
 けれど、トランクスはその手前で正気を取り戻した。
 「あれ」が戦士のいなくなった現代にいるのではなく、「戦士」たちが揃っている過去に行ったという、その希望の事実があったからである。
「どうして──悟飯さんっ。」
 走っていた時とは段違いにならないスピードで、トランクスは悟飯の気が──……悟飯のものとは思えないほどに変質した気目掛けて、飛んだ。
 視界が線のように後方に跳び退り、みるみるうちに、膨れ上がった巨大な気の主の下に辿り着く。
 そうして──その、恐ろしいまでに膨れ上がった気に触れた瞬間。

 トランクスは、絶望的な気持ちで、泣きたくなった。

 師は──金色の光を纏いながら、師その人は、戦っていたのだ。
 誰もいない空間で。たった一人──見えない敵を相手に、鋭いまでの……殺気が滲み出る攻撃を繰り出しながら。
「……あぁ……悟飯、さん……。」
 呆然とその場に佇み、トランクスはその人の名を呼ぶのが精一杯だった。
 見れば分かる。
 彼は、正気を失っていた。
 狂気の中で、目に見えない敵と戦っていた。
 口から漏れるのは、獣のようなうめき声だけ。繰り出される攻撃や気功派は、恐ろしいほどの威力を秘めていたが、放たれる先は空と雲ばかり。そこには誰もいない。
 ──誰もいないのに。
「うが……うぁぁぁぁああっ!!!!」
 拳を握り締め、更に一層一際強い金色の輝きを放つ悟飯が、空に向けて慟哭を放つ。
 その姿に、トランクスはクシャリと顔を歪める。
「そんな──、そんな……こんな、ことって……。」
 どうして、と、震える声でそう問いかける。
 けれど、悟飯には届かない。
 真っ直ぐな黒い双眸を──幼いトランクスを映し出して、にっこりと優しく微笑んだその顔で、まるで鬼のような怒りの色に染めて、ここではないどこかを睨みすえて、彼は見えない敵を戦い続けている。
 ──おそらくは、人造人間の幻と。
「ああああぁぁぁぁっ!!!!!!」
 喉も裂けよといわんばかりのその絶叫は、あまりに哀しく、あまりに酷くて……トランクスは、堪えきれず片手で自分の口元を覆った。
 う、と、喉が熱くなる。
 瞼裏が痛いほどに潤み──堪えきれず、トランクスは眦から涙を零した。
 酷い……なんて、酷い。
 悟飯さんが、こんな思いをしているなんて、なんて──なんて。
「……悟飯さん……、悟飯さんっ! もうやめてください、悟飯さんっ。」
 堪えきれず、金色の光をまとう男に向かって叫ぶ。
 けれど、悟飯の耳には届かない。
 くぐもるようなうめき声をもらして、何かを追いかけるようにその場から飛び出していく。
「悟飯さんっ!」
 慌ててトランクスもその後を追った。
 スーパーサイヤ人となった悟飯の速度に追いつくため、トランクスもスーパーサイヤ人になる。
 そうしながら追いかけて──前を飛ぶ男を追いかけながら、必死に呼びかけた。
「悟飯さんっ! 聞いてください、もういいんです! 悟飯さんが苦しむことはないんです! もう──もう、人造人間はいないんですっ!」
 そう叫びながらも、叫んだ内容は、トランクスの胸をえぐった。
 そう──人造人間はもう居ない。
 いないけれど……でも。
 新たな脅威が、目覚めてしまっている。
 その事実に、一瞬目を伏せた隙に、悟飯はその場から、フッと姿を消す。
 はっ、と身構えたその刹那──……、ぞくぞくっ、と、トランクスの背中を駆け上がる感覚。
 ──来るっ!
 思った瞬間、体は反応していた。
 とっさにその場から退き、腕をあげる。
 ガゴッ!
「悟飯さんっ!」
 ずしり、と両腕に響く衝撃に、トランクスは一瞬遅れて何が起きたのか知った。
 悟飯は、自分の目の前にいるトランクスが、敵だと認識したのだろう。
 間近で閃く蒼の双眸が、まっすぐにトランクスを貫く。
「ま……まだまだやれるっ!!」
 そこに宿るのは、一片の曇りもない殺意。
「悟飯さんっ!!」
 まさか、師である悟飯からそのような視線を受けるとは思っても見なかったトランクスに動揺が走る。
 その隙を悟飯は見逃さなかった。
 ひゅっ、と風をきる音がして、続けて左わき腹に蹴りが入った。
「ぐあっ。」
 めし、と、骨が折れるような音がした気がする。
 しまった、と思う間もなく、体は猛撃なスピードで下に広がる黄色い雲の中へと叩きつけられそうになる。
 この雲の下は、地獄だ。
 二度とは戻って来れない、というようなことを言っていた気がする。
 なら──なんとしてでも、落ちるわけには、いかない!
 グ、と奥歯を噛み締め、トランクスは右手に気功を溜めると、それを雲の海目掛けて解き放つ!
 ズシャアア、と、雲の残骸を撒き散らして、気功派が雲の果てに飛んでいくと同時、トランクスは体勢をなんとか取り戻す。
 くっ、と片手で脇を押さえながら、トランクスは上空に仁王立ちしている青年を見上げる。
「……悟飯、さん……。」
 燃え上がるような金色のオーラに包まれたその人は、鮮やかだった。
 けれど、漂ってくる気配の、なんとまがまがしいことか!
「どうして──声が、届かないんだろうか。」
 どうしたらいいだろう、とトランクスは油断なく身構えながら、悟飯を見上げる。
 見下ろす悟飯の表情は、酷く静かに見えて──それが故に、燃え滾る殺意を宿した双眸が、酷く目に焼きついた。
 その目が、自分に注がれているのを認めて、トランクスは胸が痛くなった。
 痛くて、痛くて……泣きたくなった。
「悟飯さんっ! 俺の……俺の声が届かないんですかっ!?」
 振り絞るような声で叫ぶ。
 けれど、悟飯は表情一つ変えない。
 昔なら──生きているときには、トランクスが名を呼べば、目元を緩めて振り返ってくれたのに。
 今の悟飯は、まるでこちらを見ない。
 いや、見てはいる。けれど、その目に自分は映っていない。
「俺ですっ! ──トランクスですっ!!」
 血を吐くような思いで、叫ぶ。
 どうか、己の声が彼に届いてほしいと──そう強く願って。
 悟飯は、そんなトランクスを見下ろして、静かに立っていた。
 その双眸に宿る光に、殺意がちらつくことはない、ように、見えた。
 ──刹那。
「……う……ぁ……。」
 ゆらり、と、双眸が揺れた。
 その目が、この世界を映してはいなかった目に、霞むようにトランクスの姿が滲む。
「! 悟飯さんっ!」
 正気に戻ったか、と顔をあげたトランクスに、けれど悟飯は、苦しむように頭を緩く振るだけで、答えない。
 けれど、何かが引っかかるのか、悟飯を包む金色の光が、明るく暗く、明滅する。
「悟飯さんっ! お願いです、正気に戻ってくださいっ!
 もう、人造人間は居ないんです……悟飯さんが、苦しむことなんて、何もないんです!!」
 絶叫しながら──トランクスは、自分自身への憤りに、唇を歪める。
 もっと早く……もっと早く、あの人造人間の緊急停止装置に気づいていたら。
 そうしたらきっと、悟飯は死ぬことなんて無かったかもしれない。
 そうしたら、きっと──自分たちは、今でもあの世界に生きていたかもしれない。
 地球の人たちは、あれほどたくさんの人間を失わずに、済んだかもしれない。
「悟飯さんっ……! お願いですから……っ。」
 叫びながら、蛇の道を走りながら思ってきたことが──いろんなことが、次々に胸に蘇ってきて、トランクスは、ぼろぼろと涙を零した。
 今の今まで、ずっと一人で唇を噛み締めてがんばってきたことが、堪えきれずに飛び出してきた。
 生まれたときから、逃げるように、隠れるように育ってきて。
 兄のように、かけがえのない師として慕った悟飯を失ってからは、ずっと一人で生きてきて。
 自分だけは死んではいけない、自分だけは生きないといけない、自分だけは──いつか、人造人間を倒すために。
 それだけを心の糧に、ひたすら、生きて、生きて、生き延びてきて。
 超ポジティブ思考の母のおかげで、暗くなるようなことはなかったけれど──それでも、「あんたが居たからがんばれたのよ!」とがんばる母を、たった一人、残してきてしまって。
 過去を変えてでも、と、その決意で乗り込んだタイムマシンで、過去の世界を救おうと思ったのに、逆にその過去の世界へ悪意を送り込むことになってしまって。
 人造人間に救われたあの世界には、もう戦士は一人もいない。
 もし、あの脅威の生物が戻ってきても、人類はなす術を持たないのだ。
 なんてふがいないのだろうと思った。
 自分は、なんて無力なのだろうと、思い続けてきた。
 ──その果てに。
 俺は、悟飯さんを救えない。
 悟飯さんを正気に返らせることも、できない。
 視界が涙で歪むほど、ボロボロと涙を零して──纏っていた金色のオーラが、みるみるうちに力を失った。
 しゅん、と光が消えて、耳障りに周囲で鳴っていたオーラの音が消えて──トランクスは、唇を噛み締めて、嗚咽を零すことなく、ボロボロと涙を流し続ける。
 どうして、声を出さずに泣くの、と、苦笑しながら諌めてくれた人はいない。
 目の前に居るのに、いないのだ。
 自分の大切な──大事な、大好きな悟飯さんは、いないのだ。
「う──……っ、く……、ご、はん、……さん…………。」
 なかない、泣くものか。
 戦いながら、いつもそう思っていた。
 泣くのは、これが最後──悟飯の墓の前でそう誓った。
 もし、次に泣くことがあるなら、すべてが終わり、世界が救われた後に……喜びの涙を流すのだ、と。
 そう心に決めていた。
 なのに、どうして涙がこぼれるのだろう?
 もう泣かないと決めたのに。
「──……っ。」
 胸が、ギュウギュウと締め付けられるように痛くて、痛くて。
 トランクスは、自分を見おろす悟飯を見上げた。
「ご、は……ん、さん……。」
 力なく呼びかけたその声が、彼に届くなんて思えなかった。
 けれど──泣き顔で、泣き声で、そう呼びかけたトランクスを見下ろしていた悟飯の顔が、ふ、と、色を変えた。
 と同時、彼の全身を覆っていたまばゆいばかりの金色のオーラが一瞬で取り払われ、きつい殺意を滲ませていた目が、すぅ、と消える。
 その急激な変化の意味に気づくよりも早く。
「──……ぁ……と……、らん、く、す……?」
 掠れた声が──柔らかに、トランクスの上に、落ちてきた。
 それは、憎しみも悲しみも絶望も含んでいない、悟飯の声。
 聞きなれた、慈愛に満ちた、優しい声音。
「ごはん、さん?」
「……あ……、どうして、俺は……、ここに?」
 額に手を当てて、頭痛を覚えたのか、眉を顰めながら、悟飯はあたりを見回す。
 そうしながらも、彼はゆっくりと自分の元へと降りてきてくれた。
 その姿を、トランクスは呆然と見上げる。
 ハタハタと、彼がまとう山吹色の胴着がはためく。
 黒い髪が微かに風に揺れて、あたりを見ていた悟飯の目が、まっすぐにトランクスを見下ろす。

 それはまるで、生きていた頃に──空を飛んでいた悟飯を呼んだ瞬間、彼がそうしてくれていた、あの日常のような。

「ご……悟飯さんっ!!!」
 ただ違ったことは、トランクスは彼が自分の下まで降りてくるのを、待ってはいられなかったことだった。
 ダッ、と空気を蹴って、彼の元に飛び出す。
 驚いたような表情を浮かべた悟飯は、けれどすぐに「いつもの」柔らかな笑顔を浮かべて、両手を広げてトランクスを受け止める。
「悟飯さんっ、悟飯さん、悟飯さんっ!!!!」
 しっかりと彼の背中に手を回して、ぐ、と強く抱きつけば、記憶にあるよりも小さく感じる体に、年月を思い起こさせた。
 そうだ──あの時は、まだ自分はほんの14の子供だった。
 抱きつけば、悟飯の体にスッポリとおさまり、彼の首にしがみつくようにしていた。
「あぁ……トランクス、トランクスなのか……?」
 震えるような声で、悟飯に問いかけられて、トランクスはコクリと頷く。
 もう、声が出なくて──そうすることしか出来なかった。
 悟飯は、トランクスの背中をしっかりと抱きとめてやると、あぁ、と、苦笑を浮かべて彼の顔を覗き込む。
「どうしたんだ、トランクス? 涙でぐしゃぐしゃだ。」
「……だ、……れのせいだと……思ってるんですかっ。」
 手の平で乱暴に涙を拭われて、まだにじむ視界で、悟飯を睨みつける。
 そんな彼に、悟飯は目を瞬かせた後──あぁ、そうか、と、眉を落とした。
「ごめんな、トランクス。ふがいない師匠で。」
 それが、先に死んでいったことを差しているのか、それとも今の今まで正気を失っていたことを差しているのか。
 そのどちらをも差しているのか。
 分からなかったけれど、トランクスは悟飯の言葉に、ふるりと頭を振った。
 そんなことはない。
 そんなことは、まるでないのだ。
「悟飯さんは、すごく立派な師匠です。
 俺は……、だから、ずっと…………、悟飯さんに、会いたかったんです。」
 駄目なのは、むしろ自分だ。
 ふがいなさすぎて──どうしたらいいのか、わからなくて。
 トランクスは、胸の中でわだかまり続ける想いをぶつけるように、戸惑う悟飯の腕の中で、ボロボロと──新しい涙を零し続けた。









NEXT



ちなみに、悟飯さんが一瞬で我に帰られなかった理由は、トランクスがスーパー化してたからです。
大きくなってる上に、超化しているので、誰だかわからなかったのですね。
なもので、超化を解いてから、気づいてるというわけです。


悟飯VSトランクスのシーンは、もうちょっとじっくり書いてあげたかったかも。