ざざーん……ざざざざ………………。
海の音がする。
海の匂いがする。
波打ち際の、海のささやき。
遠くからの、潮騒の言葉。
踏みしめた白い砂浜に混じる貝殻は、遠く遠く、海からの贈り物。
耳を近づけさせれば、貝殻はどこか遠くの島のささやきを届けてくれる。
「…………海………………………………。」
砂浜にしゃがみこんで、貝殻に耳を当てて――懐かしい心地に身を任せながら、アルスは呟いた。
この世界へたどり着いて初めて目にする海は、どこまでも雄大で、美しかった。
澄んだ空の色と、深い海の色とが交わる水平線が遥か遠くに見えて、それが何故か非常に懐かしく、そして悲しくて――アルスはわけのわからない焦燥を抱えた。
そんな彼を現実に戻すように、額に手を当てたキーファが、のんびりと呟く。
「海はどこに行っても同じような色だよなぁ。」
けれど、そう言う彼の目も、どこか懐かしげだった。
まるでこの光景が、ふるさとだと言うように。
二人はしばらくそうやって、波打ち際で遠く海を見詰めていた。
白い鳥が飛んで行く。
白い雲が溶けて行く。
光の波が、ゆっくりとにじみ、ほどけるように溶け込む。
「…………奇麗…………。」
瞳を細めて、アルスはうっとりとそれを眺める。
いつまでも――ずっと、この光景を眺めていられる気がした。
けれど、その至福の時は、唐突にキーファに遮られた。
「ほら、アルスっ!」
ぴしゃんっ!
水音が間近でしたかと思うや否や、目の前が真っ白になる。
痛い、と思う間もなく、顔から水が滴った。
「うわっ!」
焦って顔をこすった手の平が、濡れる。
「なな、何するんだよっ!」
きっ、と見上げたアルスに、いつのまにか波打ち際に足を入れていたキーファが、にやりと笑って返す。
アルスは、きゅぅ、と唇を引き結び、ばっ、と飛び出した。
「もうっ! お返しっ!!」
ばしゃんっ。
大きくて派手な水音がして、思った以上の水の量が、指先から飛んでいった。
「わっ! おま……っ!」
まともに顔に水を浴びたキーファが、慌てて身体をひねる。
腕で水を拭いて、きっ、とこちらを見た顔が、どこか間抜けで、アルスはそれを見た瞬間、大きく吹き出した。
「あはははははっ! ずぶぬれじゃないかっ!」
「誰のせいだよ、この野郎っ!」
目をつり上げたキーファが、続けて唇を歪めて笑った。
かと思うや否や、戦闘センスを物語るかのようなスピードで、不意にかがみ込むと、
ばしゃっ!
掬った水を、アルスに向けてかけた。
「わわっ!? ……っやったなぁっ!!」
不意打ちに近いそれに、アルスは目を瞬かせ、すぐにキッと正面を睨んだ。
意地の悪い笑みを浮べたキーファに、蹴り上げるようにして海水を叩き付ける。
だけど、キーファはそれを読んでいたかのようにひょい、と避けた。
「まっだまだだな、アルス。」
楽しそうに笑うキーファに、アルスも微笑みを零した。
幸せな時間。
でも、海に触れて、波に触れて――感じるのは、何?
これは、誰の声?
「アルス?」
ふっと、手を止めたキーファが、濡れた髪を掻き上げて、呆然と海を見下ろしているアルスに怪訝そうな顔を見せる。
彼は、とまどうような表情で、海面を見つめている。
「おい、アルス?」
再び声をかけるけど、唐突に動きを止めたアルスは、ちりとも動きはしなかった。
「……………………。」
ただ無言で、海面を凝視している。
「アールスッ!」
更に声を荒げると、アルスの肩がびくん、揺れた。
「………………っ、あ? き、キーファ?」
驚いたように視線をやるアルスに、キーファが呆れた表情を宿す。
まるで夢から返ったかのような顔に、昔アルスが良く見せた顔を思い出した。
「またボーッとしてる。
そういうとこはかわんねぇな。記憶が無くても一緒か。」
だから、思わず呟いて、感心したような声をあげた。
そんなキーファを、アルスはジッと見つめた。
「…………………………。」
瞳が、ゆっくりと瞬き、ただジッとキーファを見つめている。
その視線に気付いて、キーファは足に纏わり付く布を払うように海面を蹴った。
「ん? どうしたんだ、アルス?」
優しく尋ねるキーファに、どこか痛みを覚えて――覚えながら、アルスはゆっくりと、口を開いた。
「教えて……。」
沈痛な声に、足に触れる水が冷たく感じた。
「え?」
低く尋ねたキーファに、アルスは冷たい波の流れを感じながら、手の平に力を込めた。
そして、ゆっくりと、キーファを見上げた。
彼を見ながら、尋ねる。
「僕の、こと。
僕、記憶を失う前は、どうだったの? 僕は、キーファと――キーファと、旅をして、そうして、
そうして、
………………どうして、別れたの……………………?」
「――――――っっ。」
息を詰めたキーファに、今にも泣きそうな顔で、アルスは続ける。
「お願い…………教えて、下さい………………。」
アルスの瞳が揺れるのを、呆然と見下ろした。
何かが、ドクドクと耳元で脈を打っているようだった。
痛いと思うのは、胸の痛みか、それとも――罪の痛みか。
そうだ。
これは、罪。
彼に、長い間彼に、何も話さなかったのは――教えたくないのは、逃げたいからだ。
このまま逃げ続けたいから。
この、暖かな空気を、失いたくないからだ。
――卑怯で、痛い、罪。
でも。
でも、逃げ切れない。
逃げては行けない。
だって、それは。
「アルス――。」
あなたが、帰れない事。
静かに見上げるアルスの瞳が、濡れているような気がして、キーファはキリリと唇をかみ締めた。
そうして、ジッと自分を見あげるアルスを見つめながら――答える。
「今は…………もう少し、待ってくれ。
もう少し、だけ――……。」
まだ、彼には言えない……――違う。
ここでは、言えないのだ。
ここは、海――自分達が生まれた場所に続く場所。
別れを告げる場所じゃない。
静かに告げたキーファの、真摯な眼差しを受けて、アルスは無言で目を閉じた。
そうして、ゆっくりと、同意を示すように頷く。
ざざぁん――と、波が音を立てた。
アルスの足元では、それを否定するかのように冷たい水が、絡み付く――けど、それも、すぐに引いていった。
ほんの少し、壁が出来たような感覚の中、ぎこちないと思うのが、たびたびある。
けど、いつまでもごまかせるわけでもないのだから、これが正しいのだ。
――知らなくてはいけない。
何があったのか。
「今、凄く、幸せだと思ってる。
なのに、これが怖いと、間違っていると、そう思うのが、どうしてなのか。
記憶を無くした人は、いつもこう思うのかな?」
触れた海が、記憶を呼び覚ます――いや、違う。
「アルス……。」
誰かに呼ばれている――気がした。
それは、誰よりも僕に近くて、誰よりも僕を知る人。
決してキーファの物ではない、……「声」。
遠い過去からの――いや、遠い遠い、たどり着くことの出来ないはずの未来からの、声。
時が経つたびに、声が大きくなる。
記憶が戻る気配はないのに、声だけが大きくなる。
まるで、呼んでいるかのような――……。
日に日にそれは強くなる。
嬉しいはずなのに、同時に怖いと思う「声」。
僕は、記憶が戻る事を望んでいるのだろうか?
それとも――……?
答えは、まだ出ないけれど、でも。
「近いうち、出さなければいけない、答え。」
導かれるままに、キーファに連れてこられたのは、一面の草原が広がる大陸だった。
何も遮るもののいない広い草原の西の方角に、連なる山脈が見えた。
見た瞬間、無性に胸がかきむしられるように痛んだ。
何故か覚えのある光景に――胸の痛みすら伴う肯綮に、アルスがとまどうのも許さず、キーファが踵を返す。
「…………………………ここ………………は………………。」
呟いた声が、自分でも思いもよらず掠れていた。
知らない場所、なのに、知ってる場所。
キーファは、迷うことなく歩を進めて行く。
アルスが「痛い」と思った山脈のある方角へと。
「………………こっちだ、アルス。」
山すその森に入り、キーファは見知った場所のように、アルスを導く。
進むほどに歩が遅くなるアルスを誘うために、しっかりと手を繋いで、連れて行く。
木々がざわめいている。
さわやかな、清涼な空気が、何故か重い。
ここは、嫌な場所、ここは、嫌いな場所。
ここは。
――――――どこだった?
「キーファ……。」
とまどうように、歩が緩むアルスを、有無を言わせず引っ張って、キーファは山脈の合間を越えた。
胸がズキズキ痛むような苦しさは、山を越えた一瞬だけ緩んだけれど、眼前に広がる新たな山を見て、再びもたげはじめる。
山が怖い? いや、そうじゃない。
何かが――この先にある、何かが、怖いのだ。
「……………………っ。」
うつむいて、キーファに腕を強く引かれるままに後を突いてく。
キーファはそんなアルスを一度振り返ると、軽いため息を零し、右手へ行こうとしていた方向を、少しだけ修正した。
「この先に教会がある。少し――休んで行こう。」
自分を心配してくれているのだと分かる台詞だったけど、アルスは、同時にまったく反対の言葉を持った。
こんな思いをする場所は、さっさと通り過ぎてしまいたい、という気持ち。
そして、少しでも、あの場所へ行くのは、遠ざかりたい、という気持ち。
――――あの場所って、何?
橋を渡って、木に囲まれるようにひっそりと建つ教会に入る。
すたれた雰囲気のある、旅の教会。
でも、清涼な空気と、ピンと張り詰めた空気がある、「教会」
神様のおわすところ。
中に入った瞬間、足元を猫が走り抜けた。
はっ、と肩をこわばらせて、猫の後ろ姿を視線で追って――その目が、ステンドグラスを見つめている神父様に止まった。
静かに、世を儚むかのような表情で、神父は天井を見つめていた。
廃れた旅の教会。
昔は人が大勢北のかもしれないけれど、今はまるで旅人の往来がない場所。
そこで、一人寂しく過ごす人。
――――知ってる光景。
「あの、すみません。ちょっと、休ませて欲しいんですけど。」
キーファが、声をかけて、初めて気付いたかのように、神父が振り返った。
穏やかな、優しい顔立ちをした神父は、はい、と答えて――その目を、アルスに当てた。
「あれ……あなたは、確か……アルスさん、とおっしゃいましたよね?」
足元を駆け抜けた猫が、擦り寄るように近づいてきた。
「今も、ユバールの民を、捜しておいでなのですか?」
優しい顔で、おだやかな言葉で。
神父は、そう尋ねる。
――今のアルスが知らない、置いてきたキーファが知ることのない、「アルス」の行動を。
それは、二人にとって、痛い傷。
「…………………………。」
「ったく、冗談じゃないわよっ! あの、エロエロ王子っ!」
「急がねぇと、置いてかれちまうぞ、アルスっ!」
声。過去からの声。
これは、誰の声?
懐かしいと、そう思うこの声は――誰の声だった?
「こっちだ、アルス。――足元、気をつけろよ。」
ひんやりとした洞窟。
手に持ったたいまつが、煌煌と輝いている。
かざすキーファの腕が、炎に照らされて映える。
くぐもった空気は、モンスターが潜んでいるという証拠だろう。
キーファの堂々とした足取りの後をついて行きながら、アルスは薄暗い辺りを見回す。
見覚えがあるような洞窟を、手を引かれながら歩く。
知っている洞窟。痛い記憶が残る洞窟。
不安と、焦燥とを抱く洞窟。
足元から掬われたような気がして、思わずキーファの腕に抱き着いた。
驚いたような表情のキーファの顔が、固い。
「キーファ…………待って。」
「ここに、いる。」
来た事がある。でも、キーファと二人で来るのは、初めて。
キーファと一緒に来たのは――初めて。
がたがたと、震える。
思い出したくない。思い出したら、彼の手を離さなくてはいけない。
でも。
思い出さなくては、いけない。
そうしないと――僕は………………かえれない、から……………………。
かえる? どこへ?
かれの、いない、ばしょ、へ………………――――――――?