傷ついた分だけ 8



 「     やさしいうそ。      」




 ざざーん……ざざざざ………………。
 海の音がする。
 海の匂いがする。
 波打ち際の、海のささやき。
 遠くからの、潮騒の言葉。
 踏みしめた白い砂浜に混じる貝殻は、遠く遠く、海からの贈り物。
 耳を近づけさせれば、貝殻はどこか遠くの島のささやきを届けてくれる。
「…………海………………………………。」
 砂浜にしゃがみこんで、貝殻に耳を当てて――懐かしい心地に身を任せながら、アルスは呟いた。
 この世界へたどり着いて初めて目にする海は、どこまでも雄大で、美しかった。
 澄んだ空の色と、深い海の色とが交わる水平線が遥か遠くに見えて、それが何故か非常に懐かしく、そして悲しくて――アルスはわけのわからない焦燥を抱えた。
 そんな彼を現実に戻すように、額に手を当てたキーファが、のんびりと呟く。
「海はどこに行っても同じような色だよなぁ。」
 けれど、そう言う彼の目も、どこか懐かしげだった。
 まるでこの光景が、ふるさとだと言うように。
 二人はしばらくそうやって、波打ち際で遠く海を見詰めていた。
 白い鳥が飛んで行く。
 白い雲が溶けて行く。
 光の波が、ゆっくりとにじみ、ほどけるように溶け込む。
「…………奇麗…………。」
 瞳を細めて、アルスはうっとりとそれを眺める。
 いつまでも――ずっと、この光景を眺めていられる気がした。
 けれど、その至福の時は、唐突にキーファに遮られた。
「ほら、アルスっ!」
 ぴしゃんっ!
 水音が間近でしたかと思うや否や、目の前が真っ白になる。
 痛い、と思う間もなく、顔から水が滴った。
「うわっ!」
 焦って顔をこすった手の平が、濡れる。
「なな、何するんだよっ!」
 きっ、と見上げたアルスに、いつのまにか波打ち際に足を入れていたキーファが、にやりと笑って返す。
 アルスは、きゅぅ、と唇を引き結び、ばっ、と飛び出した。
「もうっ! お返しっ!!」
 ばしゃんっ。
 大きくて派手な水音がして、思った以上の水の量が、指先から飛んでいった。
「わっ! おま……っ!」
 まともに顔に水を浴びたキーファが、慌てて身体をひねる。
 腕で水を拭いて、きっ、とこちらを見た顔が、どこか間抜けで、アルスはそれを見た瞬間、大きく吹き出した。
「あはははははっ! ずぶぬれじゃないかっ!」
「誰のせいだよ、この野郎っ!」
 目をつり上げたキーファが、続けて唇を歪めて笑った。
 かと思うや否や、戦闘センスを物語るかのようなスピードで、不意にかがみ込むと、
 ばしゃっ!
 掬った水を、アルスに向けてかけた。
「わわっ!? ……っやったなぁっ!!」
 不意打ちに近いそれに、アルスは目を瞬かせ、すぐにキッと正面を睨んだ。
 意地の悪い笑みを浮べたキーファに、蹴り上げるようにして海水を叩き付ける。
 だけど、キーファはそれを読んでいたかのようにひょい、と避けた。
「まっだまだだな、アルス。」
 楽しそうに笑うキーファに、アルスも微笑みを零した。


 幸せな時間。
 でも、海に触れて、波に触れて――感じるのは、何?

「…………ルス………………。」


 これは、誰の声?







「アルス?」
 ふっと、手を止めたキーファが、濡れた髪を掻き上げて、呆然と海を見下ろしているアルスに怪訝そうな顔を見せる。
 彼は、とまどうような表情で、海面を見つめている。
「おい、アルス?」
 再び声をかけるけど、唐突に動きを止めたアルスは、ちりとも動きはしなかった。
「……………………。」
 ただ無言で、海面を凝視している。
「アールスッ!」
 更に声を荒げると、アルスの肩がびくん、揺れた。
「………………っ、あ? き、キーファ?」
 驚いたように視線をやるアルスに、キーファが呆れた表情を宿す。
 まるで夢から返ったかのような顔に、昔アルスが良く見せた顔を思い出した。
「またボーッとしてる。
 そういうとこはかわんねぇな。記憶が無くても一緒か。」
 だから、思わず呟いて、感心したような声をあげた。
 そんなキーファを、アルスはジッと見つめた。
「…………………………。」
 瞳が、ゆっくりと瞬き、ただジッとキーファを見つめている。
 その視線に気付いて、キーファは足に纏わり付く布を払うように海面を蹴った。
「ん? どうしたんだ、アルス?」
 優しく尋ねるキーファに、どこか痛みを覚えて――覚えながら、アルスはゆっくりと、口を開いた。
「教えて……。」
 沈痛な声に、足に触れる水が冷たく感じた。
「え?」
 低く尋ねたキーファに、アルスは冷たい波の流れを感じながら、手の平に力を込めた。
 そして、ゆっくりと、キーファを見上げた。
 彼を見ながら、尋ねる。
「僕の、こと。
 僕、記憶を失う前は、どうだったの? 僕は、キーファと――キーファと、旅をして、そうして、
 そうして、
 ………………どうして、別れたの……………………?」
「――――――っっ。」
 息を詰めたキーファに、今にも泣きそうな顔で、アルスは続ける。
「お願い…………教えて、下さい………………。」
 アルスの瞳が揺れるのを、呆然と見下ろした。
 何かが、ドクドクと耳元で脈を打っているようだった。
 痛いと思うのは、胸の痛みか、それとも――罪の痛みか。
 そうだ。
 これは、罪。
 彼に、長い間彼に、何も話さなかったのは――教えたくないのは、逃げたいからだ。
 このまま逃げ続けたいから。
 この、暖かな空気を、失いたくないからだ。
――卑怯で、痛い、罪。
 でも。
 でも、逃げ切れない。
 逃げては行けない。
 だって、それは。


「アルス――。」

 あなたが、帰れない事。


 静かに見上げるアルスの瞳が、濡れているような気がして、キーファはキリリと唇をかみ締めた。
 そうして、ジッと自分を見あげるアルスを見つめながら――答える。
「今は…………もう少し、待ってくれ。
 もう少し、だけ――……。」
 まだ、彼には言えない……――違う。
 ここでは、言えないのだ。
 ここは、海――自分達が生まれた場所に続く場所。
 別れを告げる場所じゃない。
 静かに告げたキーファの、真摯な眼差しを受けて、アルスは無言で目を閉じた。
 そうして、ゆっくりと、同意を示すように頷く。
 ざざぁん――と、波が音を立てた。
 アルスの足元では、それを否定するかのように冷たい水が、絡み付く――けど、それも、すぐに引いていった。







 ほんの少し、壁が出来たような感覚の中、ぎこちないと思うのが、たびたびある。
 けど、いつまでもごまかせるわけでもないのだから、これが正しいのだ。
――知らなくてはいけない。
 何があったのか。
「今、凄く、幸せだと思ってる。
 なのに、これが怖いと、間違っていると、そう思うのが、どうしてなのか。
 記憶を無くした人は、いつもこう思うのかな?」
 触れた海が、記憶を呼び覚ます――いや、違う。

「アルス……。」

 誰かに呼ばれている――気がした。
 それは、誰よりも僕に近くて、誰よりも僕を知る人。
 決してキーファの物ではない、……「声」。
 遠い過去からの――いや、遠い遠い、たどり着くことの出来ないはずの未来からの、声。
 時が経つたびに、声が大きくなる。
 記憶が戻る気配はないのに、声だけが大きくなる。
 まるで、呼んでいるかのような――……。
 日に日にそれは強くなる。
 嬉しいはずなのに、同時に怖いと思う「声」。
 僕は、記憶が戻る事を望んでいるのだろうか?
 それとも――……?
 答えは、まだ出ないけれど、でも。
「近いうち、出さなければいけない、答え。」







 導かれるままに、キーファに連れてこられたのは、一面の草原が広がる大陸だった。
 何も遮るもののいない広い草原の西の方角に、連なる山脈が見えた。
 見た瞬間、無性に胸がかきむしられるように痛んだ。
 何故か覚えのある光景に――胸の痛みすら伴う肯綮に、アルスがとまどうのも許さず、キーファが踵を返す。
「…………………………ここ………………は………………。」
 呟いた声が、自分でも思いもよらず掠れていた。
 知らない場所、なのに、知ってる場所。
 キーファは、迷うことなく歩を進めて行く。
 アルスが「痛い」と思った山脈のある方角へと。
「………………こっちだ、アルス。」
 山すその森に入り、キーファは見知った場所のように、アルスを導く。
 進むほどに歩が遅くなるアルスを誘うために、しっかりと手を繋いで、連れて行く。
 木々がざわめいている。
 さわやかな、清涼な空気が、何故か重い。
 ここは、嫌な場所、ここは、嫌いな場所。
 ここは。
――――――どこだった?
「キーファ……。」
 とまどうように、歩が緩むアルスを、有無を言わせず引っ張って、キーファは山脈の合間を越えた。
 胸がズキズキ痛むような苦しさは、山を越えた一瞬だけ緩んだけれど、眼前に広がる新たな山を見て、再びもたげはじめる。
 山が怖い? いや、そうじゃない。
 何かが――この先にある、何かが、怖いのだ。
「……………………っ。」
 うつむいて、キーファに腕を強く引かれるままに後を突いてく。
 キーファはそんなアルスを一度振り返ると、軽いため息を零し、右手へ行こうとしていた方向を、少しだけ修正した。
「この先に教会がある。少し――休んで行こう。」
 自分を心配してくれているのだと分かる台詞だったけど、アルスは、同時にまったく反対の言葉を持った。
 こんな思いをする場所は、さっさと通り過ぎてしまいたい、という気持ち。
 そして、少しでも、あの場所へ行くのは、遠ざかりたい、という気持ち。
――――あの場所って、何?
 橋を渡って、木に囲まれるようにひっそりと建つ教会に入る。
 すたれた雰囲気のある、旅の教会。
 でも、清涼な空気と、ピンと張り詰めた空気がある、「教会」
 神様のおわすところ。
 中に入った瞬間、足元を猫が走り抜けた。
 はっ、と肩をこわばらせて、猫の後ろ姿を視線で追って――その目が、ステンドグラスを見つめている神父様に止まった。
 静かに、世を儚むかのような表情で、神父は天井を見つめていた。
 廃れた旅の教会。
 昔は人が大勢北のかもしれないけれど、今はまるで旅人の往来がない場所。
 そこで、一人寂しく過ごす人。
――――知ってる光景。
「あの、すみません。ちょっと、休ませて欲しいんですけど。」
 キーファが、声をかけて、初めて気付いたかのように、神父が振り返った。
 穏やかな、優しい顔立ちをした神父は、はい、と答えて――その目を、アルスに当てた。
「あれ……あなたは、確か……アルスさん、とおっしゃいましたよね?」
 足元を駆け抜けた猫が、擦り寄るように近づいてきた。
「今も、ユバールの民を、捜しておいでなのですか?」
 優しい顔で、おだやかな言葉で。
 神父は、そう尋ねる。
――今のアルスが知らない、置いてきたキーファが知ることのない、「アルス」の行動を。
 それは、二人にとって、痛い傷。
「…………………………。」

「ったく、冗談じゃないわよっ! あの、エロエロ王子っ!」
「急がねぇと、置いてかれちまうぞ、アルスっ!」

 声。過去からの声。
 これは、誰の声?
 懐かしいと、そう思うこの声は――誰の声だった?















「こっちだ、アルス。――足元、気をつけろよ。」

 ひんやりとした洞窟。
 手に持ったたいまつが、煌煌と輝いている。
 かざすキーファの腕が、炎に照らされて映える。
 くぐもった空気は、モンスターが潜んでいるという証拠だろう。
 キーファの堂々とした足取りの後をついて行きながら、アルスは薄暗い辺りを見回す。
 見覚えがあるような洞窟を、手を引かれながら歩く。
 知っている洞窟。痛い記憶が残る洞窟。
 不安と、焦燥とを抱く洞窟。
 足元から掬われたような気がして、思わずキーファの腕に抱き着いた。
 驚いたような表情のキーファの顔が、固い。
「キーファ…………待って。」
「ここに、いる。」
 来た事がある。でも、キーファと二人で来るのは、初めて。
 キーファと一緒に来たのは――初めて。
 がたがたと、震える。
 思い出したくない。思い出したら、彼の手を離さなくてはいけない。
 でも。
 思い出さなくては、いけない。
 そうしないと――僕は………………かえれない、から……………………。



































かえる? どこへ?

 かれの、いない、ばしょ、へ………………――――――――?














9へ続く