傷ついた分だけ 9

 
 
 
 
 

 木々の合間を縫って歩き――どれほどの時が過ぎたか。
 ずっと歩き続けていたせいか、アルスは身体がポカポカしてきたのを感じた。
 それだけならいいのだが、先へ進めば進むほど、汗がにじみ出てくる。
 まるで体中から湯気が出ているようだと、軽く顔を顰めた彼は、額から出る汗を拭った。
 先を進むキーファは、なんともないようで、しっかりした足取りで前へ、前へと進んで行く。
 その背中を見つめる時間が、嫌に長く感じて……アルスはため息を噛み殺す。
 踏み進む足が重くて、慣れた様子で先を進む彼の姿が、なぜか痛い。
 体の奥から沸いてくるような暑さに、吐息までもが熱くにじんだ。
 けれど、それは心地よい感覚で、決して不快ではなかった。砂漠を歩いた外からの熱さではないせいかもしれない。
 汗が頬を伝った。
 吐く息が熱い。
 体が熱い。
 何よりも。
 右腕が、熱い。
 それは、燃える炎を押し付けられたような熱さだったけれど、どうしてか痛みはなかった。
 熱い、と感じるだけで、痛みはない。
 感覚が麻痺しているのだろうかと、実は火傷でもしているのではないだろうかと、アルスは眼を右腕にやった。
 手首にほど近い場所――何か変なアザが浮いている場所を見やると、服の下から光が透けていた。
「……っ!?」
 驚いたように息を呑むアルスに、前を歩いていたキーファが、ふ、と振り返った。
「アルス、大丈夫か?」
 息一つ乱していない平然とした態度で振り返ったキーファは、アルスが慌てて体を抱きしめるようにしたのに、軽く眉を顰める。
 けれど、アルスの行動が、右腕を隠すためのものだとは気づかず、顔ににじんでいる汗の量に眼を見張る。
「アルス……悪い、気づいてやれなかった。」
 心配そうに戻ってくるキーファに、アルスは小さくかぶりを振る。
「少し休もうぜ。」
 な? と、促すように近づいてくるキーファに、アルスはもう一度かぶりを振った。
 疲れているわけじゃない。そう、疲れているのではないのだ。
 それどころか、体はこれ以上ないくらい力が溢れてきている。
「大丈夫――大丈夫だから。」
 掠れるのではないかと思った声は、自分でも驚くほどしっかりしていた。
 聞いたキーファも、アルスが大分しっかりしているのを感じて、心配そうな顔を引っ込める。
「辛かったら言えよ。休めるところなんて、どこでもあるからさ。」
 キーファの言った言葉に、アルスは口元をほころばせて微笑む――その微笑みが、辛そうに歪んでいるのを、キーファは見て取れない。
 背中を見せるキーファに、アルスは言葉に出来ない痛みを覚える。
 右腕に添えた手で、知らず胸元を掴み、顔を俯かせる。
 この感じを、いつかどこかで、知っていた。感じていた。

――――――ったく、彼らは歩き疲れないのかしらね。
――――――おいらはどれだけでも平気だぞ。
――――――そりゃ、あんたは野生児でしょうが。

 苦笑とともに聞いていた言葉。
 ありありと耳元に浮かんできて、ぎくり、と肩が強張った。
 震える手のひらを見下ろして、アルスは唇を噛む。
 痛い――痛い、痛い。
 同じように、同じような感覚で、不思議で怖い感触とともに、この森を歩いていたあの時。
 踏みしだいた落ち葉の感触が、まるで底なし沼を歩いているような不確かで怖い感触がしていた。
 僕は。
 僕は――……。
 足元が、不意に揺らめいた気がした。
 この先に行くのが怖い。この先に行けば――何もかもが分かってしまう、そんな気がした。
 キーファが導いた場所。彼が連れて行ってくれる場所。
 そこは、きっと――そこには、きっと。
 僕の望まない世界がある。








「うわ……っ。」
 不意に開けた視界の前に広がるのは、きらびやかな光の世界だった。
 高く上った太陽が、木々の開けたその場所に、惜しみなく陽光を降り注いでいる。
 その太陽の恵みを、当然のように受けて、それは湖面を輝かせていた。まるで宝石のような輝きは、美しく――そして、荘厳であった。
 遠目からでも分かる透明度の高い湖は、見ている者の息を止めさせる。
 その奥――湖の底すら見通せる透ける湖の底に、神殿が沈んでいた。
 まるで水の中に封じられたかのような神殿は、荘厳で、奇麗で、美しく――そして、どこか孤独だった。
 草を踏みしだきながら、二人は湖のほとりへと歩んだ。
 アルスは自然とその場に跪き、湖を覗き込む。
 そこに水があるのが不思議なくらいの透明な湖に……その底に、沈む神殿を見つめる。
 キーファが、どこか懐かしそうに、辛そうに目をゆがめたのに気づかないまま、アルスは神殿を見つめた。
 右腕が、先ほどまでの非にならないくらい、チリチリと痛んだ。
 無意識に右腕を握り締めて、唇をかみ締める。
 知っている。
 ここを。
 知っている。
 何があるのか。
 知っている――ここであった「結末」を。
――思い出すことは、ないのだけど。
 陶然と……半ば呆然と神殿を見つめるアルスの隣に、キーファが跪く。
 彼は、静かな瞳で湖を――その底に沈む神殿を見つめながら、低く呟いた。
「神の祭壇だ。」
 何の感情も篭らない言葉だったけど、それは、重く響いた。
 まるでキーファの声に反応したかのように、湖面が小さく撓んだ。
「……――。」
 アルスが、キーファを見上げる。
 キラキラ光る水が、二人の顔を照らす。
 透明な湖に、鏡のように映る二人の顔は、双方とも困惑と厳しさを宿していた。
 キーファは、アルスの瞳をしっかりと捕らえながら、先を続ける。たとえ何度過去を繰り返したとしても、同じ道を選ぶであろう言葉を、今また、繰り返す。
「俺の運命を決めた場所。」
 言い切った言葉に、後悔はなかった。あの選択を後悔することなど、決してないと言い切れたから。
 見つめ続けたアルスの瞳が、見る見る内に見開き、驚愕を宿した。
 そこに、絶望の色が見え隠れしているのを感じながら――彼が何かを覚えていて、思い出そうとしているのかもしれないと思いながら……どこか、自虐的に告げる。
 アルスが自分で思い出す前に、結末づけるために。
「そして、お前を捨てた場所だ。」
 言葉を聞いた時、アルスは、妙に静かな表情と心を持っていた。
 それは、断罪にも似た、判決の声だった。
 お前はいらない――そうだ、そう言われたような気がしたのだと、……遠いむかしを思い出す。
 断片的によみがえる記憶が、一瞬で通り過ぎていったような気がした。
 けど、それは掴み所もなく、すぐに泡のように消えてしまう。
 それでも、アルスはそれを追うこともせず、ただ黙ってキーファを見上げていた。
 キーファは、それ以上何も言おうとはしなかった。
 アルスも、何も口にはしない。
 ただ、お互いに間近で視線を交し合っていた。
 どこか乾いた心が、静かな心が、現実ではないようだった。
 アルスは、ふ、と手を差し伸べ、湖面に触れた。
 ひんやりと冷たい感触に、右腕がぶるりと震える。なのに、熱い。
「……………………。」
 水を掬うようにして、指先から零れていく水を見つめる。
 キーファも、気詰まりを覚えたのか、同じように手のひらを湖につけた。
 ぴしゃん――と音が立って、水が零れ落ちる。
 アルスは首をかしげるようにして、そんなキーファを見上げた瞬間……不意に閃く映像がある。
 それは。
「………………なんどか………………。」
 同じように、透明な湖を覗き込んで、話していた。
 それは、ここの湖とは違って、キラキラと、七色に光っていた――七色に光る湖? そんなもの、どこに存在するというのだろう?
 いや、違う。あれは湖じゃない。
 あれは――あれは?
「え?」
 呟いたキーファが、少し驚いたようにアルスを見下ろす。
 右手を湖につけたまま、アルスは彼を見上げる。
 その目が、どこか虚ろに彼を映す。
「アルス?」
 気分でも悪いのか、と言いかけたキーファは、ぎくり、と肩を強張らせる。
 アルスが湖につけていた右腕が、淡く光を放っていた。
 何かを目の前に突きつけられた気がして、キーファは呆然と目を見開ける。
 そんな彼に、アルスは小さく、小さく呟く。
「なんどか――……こうして、一緒に、居たね?」
 それは、思い出したというよりも、問い掛ける言葉。
 確認するような言葉は――。
「…………虹色の、入り江で。」
 続く言葉は。
「……………………思い、出したのか…………?」
 答える自分の声が、いやに弱弱しいのを、キーファは忌々しく顔をゆがめる。
 複雑な気持ちを抱きながら、アルスを見守るのだけど――アルスは、それに頭を振った。
「……沸いて来る――湧いてきてる。」
「え?」
「なんどか、ここに、来た――来てた。」
 アルスは虚ろに呟きながら、水を掬うようにして、指先から零れて行く水を見つめていた。
 掠める記憶を捕らえようとしているようで、捕らえきれない。
 かすかな苛立ちを見せながら、湖を見つめている。
「アルス……。」
「キーファに、会えると思った。
 でも、会えなかった。もう二度と会えないと分かっていたけれど、会いたかった。
 会いたくて、会いたくて、でも、会えなくて。
 ――――――運命が変わってもいいと思ったのは、初めてだった。」
 声は静かすぎて、まるで現実味が無かった。
 淡々と語る声には、まるで感情が篭っていなかった。だからこそ、キーファは黙ってそれを聞く。
 痛々しい表情を浮かべながら。
 アルスは透明な湖を見つめたまま、先を紡ぐ。
「どうして僕は、全ての記憶を無くしてここにいるのか――わからないけど。
 …………会いたかったんだと、思う………………すごく、会いたかったんだって。」
 きゅ、と水をつかんでも、スルスルと水は逃げて行く。
 まるで誰かのようだと思って、それが誰の事なのか分からず、苦笑を滲ませる。
 そんなアルスの表情に、キーファは小さく息を呑んだ。
 ともに旅していた時には見なかった、諦めたような――そんな顔。
「アルス――。」
「会いたくて、会いたくて。
 ここに来てたんだ、僕。」
 ここだけは覚えてる。
 何があったのかわからないけど、胸の痛みがツキンと突き刺さるのと同じくらいの切なさが、胸に蘇ってくるから。
 掴もうとしても、まるでつかめない水を追いかけるのをあきらめて――あきらめようと思っても、あきらめてはいけないような気がして、アルスはしつこく水を追いかける。
 キーファは無言でそれを見つめる。
 いや、彼の目は、アルスの淡く光る紋章に当てられていた。
――ライラの紋章は、こうして光ることなど無かった。
 けど、アルスの紋章は光っている……それの意味は、何?
 あの時とは違う、でも良く似ている問いかけが、再びキーファの中に湧き上がる。
「…………俺も…………会いたかったよ、アルス。」
 呟く声は、震えていた。
 震えていたけれど、逃げてはいけないことだった。
 湧き上がる感情は、抑えきれるものじゃない。それは、若い――幼い激情ではなかった。
 ただ、根底から湧き上がる感情。
 けれども、その先にあることを、良く知っている――限りのある激情。
 泣きそうな目をして、アルスが視線を上げた。
 キーファは間近に見えるそれに、昔とはまるで違う顔をしている男が映っているのに気づく。
 まだ見ぬ世界に心躍らせ、選ばれたのは自分達なのだと信じていた、無条件に信じていた少年――キーファ・グランはそこには映っていない。
 そこに映るのは、旅をし、自らの道を自ら選んだ男……ユバールのキーファだった。
「俺は、お前を愛していた……俺達は、幼い感情だったけど、確かに愛し合っていた。」
 アルスの目に映る自分の違いを焼き付けるように、ただジッと、彼の目の中の自分を見つめながら、言葉をつむぐ。
 喉に引っかかるような痛みが、言葉を途絶えさせようとしている。
 けれど、口から出て行くのは、朗々とした響きの言葉だった。
 それがアルスにどう受け取られるのか分からなかったけど、キーファは続ける。
 自分の罪――けれど、何度めぐっても、同じことを繰り返すだろうと言い切れる、道。
「俺は、自分の住んでいる世界がすべてだなんて、信じてなかった。お前もそうだと思っていた。だから、俺達は飛び出した。
 俺にとってお前は、大切な弟分で、親友で、相棒で――そして、恋人だった。」
「……………………。」
 アルスは無言で自分の胸に手を当てた。
 こみ上げてくる感情が、熱くて苦しかった。
 この感情の名前が何というのか、彼にはもうわかっていた。
 そうして。
 この感情の結末に何があったのか、良く――分かっていた。
 だって、もうそれは、見てきたのだから。


 


「ここに来って、キーファには会えないぞ、アルス。」
 痛い。
「あんた、馬鹿じゃないのっ!? ほんと、馬鹿じゃないのっ! ――もう、会えないのよ?
 ……会えないん……だから…………っ。」
 いたい。
「たった一人の理解者というのは、ありがたいものでござるよ。」
 痛いんだ。
 
 


「私の、ご先祖様は……――。」



耐え切れなくて。

 
 
 



「………………やめてっ!!!!」
 唐突に叫んだアルスに、驚いたようにキーファが動きを止める。
 アルスは、何も聞きたくないと言うように耳を塞ぎ、目を閉じ、かぶりを振った。
「思い出したくない――お願いだから、呼ばないで……よばないで…………っ。」
「――――…………アルス…………っ。」
 何が起こったのかわからないまま、飛び散る水しぶきを受けて、キーファは手を伸ばす。
 けれど、アルスの肩を掴もうとした手は、触れる寸前に握りこまれた。
 アルスは、震える体を自分の手で抱きしめて、記憶から逃れるように頭を振る。
 今、この瞬間に、よみがえって来る「もの」が、怖かった。
 それによって思い出す感情が、何よりも恐ろしかった。
 だから、それから逃れようと必死で否定しているのに、思い出してしまった「もの」は、アリアリと頭にこびりついている。
「いやだ……いやだいやだいやだいやだいやだ………………。」
 呪いのように呟く。空気に消えていかない言葉。
 それは、アルスの体を包むように纏わりつき、地面に落ちていく。
 それすらも痛くて、アルスは必死でかぶりを振る。
 名前も思い出せない人達の顔が、浮かんできていた。
 巻き毛の美少女、ぼさぼさの黒髪の少年、豊かに微笑む老戦士。
 そして。
 漆黒の情熱的な美女。
「どうして…………どうしてキーファはいないの?」
 その答えを、つい先ほどキーファは口にした。
 何よりも、記憶を失ってからの日々が、雄弁な答えだった。
 けれど、アルスは口にする。
 キーファの記憶が一つとして浮かんでこないのに、どの記憶にも、キーファの存在が痛いほど焼きついている。
 それが痛くて、湖に向けて糾弾せずにはいられなかった。
 そうしないと、胸が痛くて、張り裂けそうだった。
「どうして、記憶の中に、キーファがいないの? ここにいるのに、どうして思い出す記憶には、キーファがいないのっ!?」
 キーファは、その答えを持っていたけれど――もう一度、繰り返すことは出来なかった。
 自分の体を必死で抱きとめるアルスの、光を増す右腕の紋章だけど、ただ見つめる。
 知っているアルスの紋章とは違う形に、良く似た模様。
 それが、アルスの激しい感情に反応するように、淡く、強く光る。
「ねぇ、キーファ……どうして……どうしてなの……?」
 ふ、と向けられた目が、頼りなく見えた。
 かすかに濡れた瞳はけれど、涙を浮かべては居なかった。ただ、虚ろな印象があった。
 知らずキーファは、眼を向けてくるアルスへ向けて、右手を伸ばした。
 手は、仄かに光るアルスのあざを捕らえる。
 虚ろな光をやどしていたアルスの瞳が、ゆっくりと見開かれて行く。
 瞳に宿る色が、一瞬で色あせていく――それは、絶望の色。
 思いもよらず、その移り変わりを目の当たりにすることになったキーファは、瞳の変貌に息を呑んだ。
 自分の知っているアルスは、こんな瞳を持っていなかった。
 絶望も、痛いくらいの悲しみも、嫉妬も、何も知らない子供だった。
 子供のまま、純粋なまま、キーファを慕い、愛し、そして別れた。
 俺の知らないアルス。
「……………………。」
 衝動のまま、抱きしめるのは簡単なことだった。
 けど、彼の右手のアザを握る手が、それを許してはくれない。
 彼のアザを掴んだ手が、熱かった。まるで熱された鉄を掴んでいるようだった。
 それがどういう意味なのか。
 キーファは、あの時と同じ気持ちで、考える。
 嫉妬、ねたみ、自分の存在意義への自身の喪失、自尊心。
 いろんな感情がない交ぜになって、その上で、決断した。
 おそらくは、そういう感情が無くても、キーファにとって、ユバールという存在は魅力的で仕方がなかったはずだ。けれど、すべてを捨てて――そう、文字通りすべてを捨ててまで、選ぶような魅力は無かった。
 なのに、キーファは迷いも無くその道を選んだ。
 絶妙なタイミングの時が、彼をそうさせた。
 アルスへの疑問、アルスへの嫉妬、憧憬、やるせなさ――さまざまな感情は、結局、キーファに選ばせた。
 誰よりも愛したはずの――誰よりも近く、己を知るはずの「アルス」の存在が、キーファに迷いを断ち切らせた。
 ユバールを、選ばせたのだ。
 今だからこそ、キーファは思う。
 もしもユバールに出会っていたのが、あれよりも早くても、遅くても、俺は決してユバールに残りはしなかっただろう、と。
 あの瞬間、あの時だったからこそ――それまでの旅があり、それまでの葛藤があったからこそ、キーファは迷うことなく、後悔することなく、この道を選んだのだ。
 ならば。
 今、なら?
 今……もう一度、選ぶなら。
 俺は、どうする?
「キーファ……どうして、君は――僕の中に、いないの…………?」
 アルスの腕を掴むキーファの手に、そ、と彼の左手が添えられた。
 握り締めることなく、掴むこともなく、ただ、添えられる。
 それが痛くて、辛くて――キーファは、瞳を歪ませて視線を落とした。
 愛してた。
 愛されてた。
 幼い感情だった。お互いを縛り付けることが満足する――そんな、拙い恋愛だった。
 でも、あれが偽物だとは思わない。偽物だったなんて、思いはしない。
 ならば、なぜ俺は、今までアルスに言わなかった? 彼が記憶を失っていたから? 記憶を失った彼に、何もかもさらけだして、自分が裏切ったことを教えたくなかった? 傷つけたくなかった?
 ――違う。
 俺は、裏切った男として、アルスに扱われることが嫌だったのじゃないのか?
 ただ、それだけのことじゃないのか?
「アルス……。」
 苦痛に満ちたキーファの声を聞きながら、アルスは間近から彼を見上げた。
 しっとりと濡れたまつげが、彼の頬に影を落とす。
「キーファ…………僕は………………。」
 辛そうに、一瞬眉を顰めて、それでも決意を示して彼はもう一度眼をあげた。
 複雑に揺れるキーファの眼を、しっかりと捕らえる。
「…………すき………………。
 キーファが、すき……。」
 手を、握る。
 添えるだけだった指先を、しっかりと彼の手に絡めた。
 骨ばった大きな手に、指を割り込ませて、無理やり握る。
 まるで、それを離したら拒まれるかのように。
「…………――っ。」
 息を詰めたキーファの、声にならない音が、間近で聞こえる。
 心臓が痛い。
 眼が痛い。
 心が痛い。
 それでも、彼が近くに居て、彼に触れていることが、震えるほど嬉しい。
 もう逢えないはずの人に、こうして逢って、触れていることが、夢のように嬉しい。
 離れたくないと、そう強く思うのは――けして、間違った感情ではないはずなのに。
「…………お前が…………。」
 キーファが、苦しげに呟く。
 アルスは、その彼を見上げる。
「どうして、記憶を無くして俺の前に現れたかわからない。」
 アルスは辛そうに吐かれる言葉を聞きながら、自分の胸の内に澄んだ水が広がっているのを感じた。
 静かな暗闇の中、怖いくらい綺麗な水が張られている。それは、この神殿の沈む湖のように神聖で、厳かなもの。
 そこには、波紋一つ落ちていない。
 まるで、今から何が起こるのか分かっているような――嵐の前の、静けさ。
「けど、たとえお前が、記憶を無くしていようと、そうじゃなかろうと――俺のすることは、たった一つだ。」
 胸に響く言葉は、静かだった。
 静かだったからこそ、アルスはこの先に続く言葉が分かった。
 ――そう、あの時と、同じだ。
 夜――夜。
 明かりも灯らない、暗いテントの中。
 暗闇は嫌いだと……闇は嫌いだとそう思った目に、なぜか飛び込んできた金の髪。
 薄暗がりで、暗く――苦笑じみて話す声。ひそやかに話す言葉は、自責と自嘲が混じっていたけれど、後悔はなかった。迷いが無かった。
 あれと、同じ声。
 ――――――だからこそ、アルスは、彼が何を言おうとしているのか分かった。
 止めなくてはいけないのかもしれない。
 なのに。
 止めようとは、思わなかった。
 ただ、受け止めようと………………それすらも、あの時と、同じ。
――――――そうやって、後悔なんてしないと言いながら、苦しんだのに。
         結局、また、同じことをしようとしている。
         今度は、決して選ばないと、そう思っていたのに。
「お前は、帰らなくちゃいけない――元の時代へ。」
 おまえは。
 えらばれたひとだから。
「ひとりで。」
 そうしておれは。
 このじだいを。
 えらんだひとだから。
「これが、俺の出した二度目の答えだ。」
 言い放つ彼の眼は、輝きを宿していた。
 まっすぐで、強い、輝き。
 あの時と同じ、後悔しないきらめき。












 後悔なんて、してないよ。
「嘘。」
 辛いのは、本当。
 苦しいのは、本当。
 でも、後悔はしてない。
「本当は、止めときゃよかったって思ってるんでしょう?」
 止めても、無駄だったと、思ったから――。
 それに、好きにしてほしいと思ったんだ。
 キーファが、心の奥底から望み、決めたことなんだから。
 キーファが、後悔しない選択にするために、僕は、後悔なんてしない。
「本当は、辛いくせに。」
 「本当」じゃなくても辛いよ。
 苦しいよ。
 でも、分かってて――苦しいって、辛いって、泣きたくなるって分かってて、選んだことだから、後悔しない。
 わかってて、そうしたことだから。
 ただ。
 思うのは。
 もしも、あの状況じゃなかったら――……彼は、どっちを選んだのだろう?

「ずるいこと、しても、いいですか?」

 僕は、彼に二度、恋をした。

 そして、彼は、二度……同じ答えを出した。



10に続く