木々の合間を縫って歩き――どれほどの時が過ぎたか。
ずっと歩き続けていたせいか、アルスは身体がポカポカしてきたのを感じた。
それだけならいいのだが、先へ進めば進むほど、汗がにじみ出てくる。
まるで体中から湯気が出ているようだと、軽く顔を顰めた彼は、額から出る汗を拭った。
先を進むキーファは、なんともないようで、しっかりした足取りで前へ、前へと進んで行く。
その背中を見つめる時間が、嫌に長く感じて……アルスはため息を噛み殺す。
踏み進む足が重くて、慣れた様子で先を進む彼の姿が、なぜか痛い。
体の奥から沸いてくるような暑さに、吐息までもが熱くにじんだ。
けれど、それは心地よい感覚で、決して不快ではなかった。砂漠を歩いた外からの熱さではないせいかもしれない。
汗が頬を伝った。
吐く息が熱い。
体が熱い。
何よりも。
右腕が、熱い。
それは、燃える炎を押し付けられたような熱さだったけれど、どうしてか痛みはなかった。
熱い、と感じるだけで、痛みはない。
感覚が麻痺しているのだろうかと、実は火傷でもしているのではないだろうかと、アルスは眼を右腕にやった。
手首にほど近い場所――何か変なアザが浮いている場所を見やると、服の下から光が透けていた。
「……っ!?」
驚いたように息を呑むアルスに、前を歩いていたキーファが、ふ、と振り返った。
「アルス、大丈夫か?」
息一つ乱していない平然とした態度で振り返ったキーファは、アルスが慌てて体を抱きしめるようにしたのに、軽く眉を顰める。
けれど、アルスの行動が、右腕を隠すためのものだとは気づかず、顔ににじんでいる汗の量に眼を見張る。
「アルス……悪い、気づいてやれなかった。」
心配そうに戻ってくるキーファに、アルスは小さくかぶりを振る。
「少し休もうぜ。」
な? と、促すように近づいてくるキーファに、アルスはもう一度かぶりを振った。
疲れているわけじゃない。そう、疲れているのではないのだ。
それどころか、体はこれ以上ないくらい力が溢れてきている。
「大丈夫――大丈夫だから。」
掠れるのではないかと思った声は、自分でも驚くほどしっかりしていた。
聞いたキーファも、アルスが大分しっかりしているのを感じて、心配そうな顔を引っ込める。
「辛かったら言えよ。休めるところなんて、どこでもあるからさ。」
キーファの言った言葉に、アルスは口元をほころばせて微笑む――その微笑みが、辛そうに歪んでいるのを、キーファは見て取れない。
背中を見せるキーファに、アルスは言葉に出来ない痛みを覚える。
右腕に添えた手で、知らず胸元を掴み、顔を俯かせる。
この感じを、いつかどこかで、知っていた。感じていた。
――――――ったく、彼らは歩き疲れないのかしらね。
――――――おいらはどれだけでも平気だぞ。
――――――そりゃ、あんたは野生児でしょうが。
苦笑とともに聞いていた言葉。
ありありと耳元に浮かんできて、ぎくり、と肩が強張った。
震える手のひらを見下ろして、アルスは唇を噛む。
痛い――痛い、痛い。
同じように、同じような感覚で、不思議で怖い感触とともに、この森を歩いていたあの時。
踏みしだいた落ち葉の感触が、まるで底なし沼を歩いているような不確かで怖い感触がしていた。
僕は。
僕は――……。
足元が、不意に揺らめいた気がした。
この先に行くのが怖い。この先に行けば――何もかもが分かってしまう、そんな気がした。
キーファが導いた場所。彼が連れて行ってくれる場所。
そこは、きっと――そこには、きっと。
僕の望まない世界がある。
「うわ……っ。」
不意に開けた視界の前に広がるのは、きらびやかな光の世界だった。
高く上った太陽が、木々の開けたその場所に、惜しみなく陽光を降り注いでいる。
その太陽の恵みを、当然のように受けて、それは湖面を輝かせていた。まるで宝石のような輝きは、美しく――そして、荘厳であった。
遠目からでも分かる透明度の高い湖は、見ている者の息を止めさせる。
その奥――湖の底すら見通せる透ける湖の底に、神殿が沈んでいた。
まるで水の中に封じられたかのような神殿は、荘厳で、奇麗で、美しく――そして、どこか孤独だった。
草を踏みしだきながら、二人は湖のほとりへと歩んだ。
アルスは自然とその場に跪き、湖を覗き込む。
そこに水があるのが不思議なくらいの透明な湖に……その底に、沈む神殿を見つめる。
キーファが、どこか懐かしそうに、辛そうに目をゆがめたのに気づかないまま、アルスは神殿を見つめた。
右腕が、先ほどまでの非にならないくらい、チリチリと痛んだ。
無意識に右腕を握り締めて、唇をかみ締める。
知っている。
ここを。
知っている。
何があるのか。
知っている――ここであった「結末」を。
――思い出すことは、ないのだけど。
陶然と……半ば呆然と神殿を見つめるアルスの隣に、キーファが跪く。
彼は、静かな瞳で湖を――その底に沈む神殿を見つめながら、低く呟いた。
「神の祭壇だ。」
何の感情も篭らない言葉だったけど、それは、重く響いた。
まるでキーファの声に反応したかのように、湖面が小さく撓んだ。
「……――。」
アルスが、キーファを見上げる。
キラキラ光る水が、二人の顔を照らす。
透明な湖に、鏡のように映る二人の顔は、双方とも困惑と厳しさを宿していた。
キーファは、アルスの瞳をしっかりと捕らえながら、先を続ける。たとえ何度過去を繰り返したとしても、同じ道を選ぶであろう言葉を、今また、繰り返す。
「俺の運命を決めた場所。」
言い切った言葉に、後悔はなかった。あの選択を後悔することなど、決してないと言い切れたから。
見つめ続けたアルスの瞳が、見る見る内に見開き、驚愕を宿した。
そこに、絶望の色が見え隠れしているのを感じながら――彼が何かを覚えていて、思い出そうとしているのかもしれないと思いながら……どこか、自虐的に告げる。
アルスが自分で思い出す前に、結末づけるために。
「そして、お前を捨てた場所だ。」
言葉を聞いた時、アルスは、妙に静かな表情と心を持っていた。
それは、断罪にも似た、判決の声だった。
お前はいらない――そうだ、そう言われたような気がしたのだと、……遠いむかしを思い出す。
断片的によみがえる記憶が、一瞬で通り過ぎていったような気がした。
けど、それは掴み所もなく、すぐに泡のように消えてしまう。
それでも、アルスはそれを追うこともせず、ただ黙ってキーファを見上げていた。
キーファは、それ以上何も言おうとはしなかった。
アルスも、何も口にはしない。
ただ、お互いに間近で視線を交し合っていた。
どこか乾いた心が、静かな心が、現実ではないようだった。
アルスは、ふ、と手を差し伸べ、湖面に触れた。
ひんやりと冷たい感触に、右腕がぶるりと震える。なのに、熱い。
「……………………。」
水を掬うようにして、指先から零れていく水を見つめる。
キーファも、気詰まりを覚えたのか、同じように手のひらを湖につけた。
ぴしゃん――と音が立って、水が零れ落ちる。
アルスは首をかしげるようにして、そんなキーファを見上げた瞬間……不意に閃く映像がある。
それは。
「………………なんどか………………。」
同じように、透明な湖を覗き込んで、話していた。
それは、ここの湖とは違って、キラキラと、七色に光っていた――七色に光る湖? そんなもの、どこに存在するというのだろう?
いや、違う。あれは湖じゃない。
あれは――あれは?
「え?」
呟いたキーファが、少し驚いたようにアルスを見下ろす。
右手を湖につけたまま、アルスは彼を見上げる。
その目が、どこか虚ろに彼を映す。
「アルス?」
気分でも悪いのか、と言いかけたキーファは、ぎくり、と肩を強張らせる。
アルスが湖につけていた右腕が、淡く光を放っていた。
何かを目の前に突きつけられた気がして、キーファは呆然と目を見開ける。
そんな彼に、アルスは小さく、小さく呟く。
「なんどか――……こうして、一緒に、居たね?」
それは、思い出したというよりも、問い掛ける言葉。
確認するような言葉は――。
「…………虹色の、入り江で。」
続く言葉は。
「……………………思い、出したのか…………?」
答える自分の声が、いやに弱弱しいのを、キーファは忌々しく顔をゆがめる。
複雑な気持ちを抱きながら、アルスを見守るのだけど――アルスは、それに頭を振った。
「……沸いて来る――湧いてきてる。」
「え?」
「なんどか、ここに、来た――来てた。」
アルスは虚ろに呟きながら、水を掬うようにして、指先から零れて行く水を見つめていた。
掠める記憶を捕らえようとしているようで、捕らえきれない。
かすかな苛立ちを見せながら、湖を見つめている。
「アルス……。」
「キーファに、会えると思った。
でも、会えなかった。もう二度と会えないと分かっていたけれど、会いたかった。
会いたくて、会いたくて、でも、会えなくて。
――――――運命が変わってもいいと思ったのは、初めてだった。」
声は静かすぎて、まるで現実味が無かった。
淡々と語る声には、まるで感情が篭っていなかった。だからこそ、キーファは黙ってそれを聞く。
痛々しい表情を浮かべながら。
アルスは透明な湖を見つめたまま、先を紡ぐ。
「どうして僕は、全ての記憶を無くしてここにいるのか――わからないけど。
…………会いたかったんだと、思う………………すごく、会いたかったんだって。」
きゅ、と水をつかんでも、スルスルと水は逃げて行く。
まるで誰かのようだと思って、それが誰の事なのか分からず、苦笑を滲ませる。
そんなアルスの表情に、キーファは小さく息を呑んだ。
ともに旅していた時には見なかった、諦めたような――そんな顔。
「アルス――。」
「会いたくて、会いたくて。
ここに来てたんだ、僕。」
ここだけは覚えてる。
何があったのかわからないけど、胸の痛みがツキンと突き刺さるのと同じくらいの切なさが、胸に蘇ってくるから。
掴もうとしても、まるでつかめない水を追いかけるのをあきらめて――あきらめようと思っても、あきらめてはいけないような気がして、アルスはしつこく水を追いかける。
キーファは無言でそれを見つめる。
いや、彼の目は、アルスの淡く光る紋章に当てられていた。
――ライラの紋章は、こうして光ることなど無かった。
けど、アルスの紋章は光っている……それの意味は、何?
あの時とは違う、でも良く似ている問いかけが、再びキーファの中に湧き上がる。
「…………俺も…………会いたかったよ、アルス。」
呟く声は、震えていた。
震えていたけれど、逃げてはいけないことだった。
湧き上がる感情は、抑えきれるものじゃない。それは、若い――幼い激情ではなかった。
ただ、根底から湧き上がる感情。
けれども、その先にあることを、良く知っている――限りのある激情。
泣きそうな目をして、アルスが視線を上げた。
キーファは間近に見えるそれに、昔とはまるで違う顔をしている男が映っているのに気づく。
まだ見ぬ世界に心躍らせ、選ばれたのは自分達なのだと信じていた、無条件に信じていた少年――キーファ・グランはそこには映っていない。
そこに映るのは、旅をし、自らの道を自ら選んだ男……ユバールのキーファだった。
「俺は、お前を愛していた……俺達は、幼い感情だったけど、確かに愛し合っていた。」
アルスの目に映る自分の違いを焼き付けるように、ただジッと、彼の目の中の自分を見つめながら、言葉をつむぐ。
喉に引っかかるような痛みが、言葉を途絶えさせようとしている。
けれど、口から出て行くのは、朗々とした響きの言葉だった。
それがアルスにどう受け取られるのか分からなかったけど、キーファは続ける。
自分の罪――けれど、何度めぐっても、同じことを繰り返すだろうと言い切れる、道。
「俺は、自分の住んでいる世界がすべてだなんて、信じてなかった。お前もそうだと思っていた。だから、俺達は飛び出した。
俺にとってお前は、大切な弟分で、親友で、相棒で――そして、恋人だった。」
「……………………。」
アルスは無言で自分の胸に手を当てた。
こみ上げてくる感情が、熱くて苦しかった。
この感情の名前が何というのか、彼にはもうわかっていた。
そうして。
この感情の結末に何があったのか、良く――分かっていた。
だって、もうそれは、見てきたのだから。
「ここに来って、キーファには会えないぞ、アルス。」
痛い。
「あんた、馬鹿じゃないのっ!? ほんと、馬鹿じゃないのっ! ――もう、会えないのよ?
……会えないん……だから…………っ。」
いたい。
「たった一人の理解者というのは、ありがたいものでござるよ。」
痛いんだ。
「私の、ご先祖様は……――。」
耐え切れなくて。
「………………やめてっ!!!!」
唐突に叫んだアルスに、驚いたようにキーファが動きを止める。
アルスは、何も聞きたくないと言うように耳を塞ぎ、目を閉じ、かぶりを振った。
「思い出したくない――お願いだから、呼ばないで……よばないで…………っ。」
「――――…………アルス…………っ。」
何が起こったのかわからないまま、飛び散る水しぶきを受けて、キーファは手を伸ばす。
けれど、アルスの肩を掴もうとした手は、触れる寸前に握りこまれた。
アルスは、震える体を自分の手で抱きしめて、記憶から逃れるように頭を振る。
今、この瞬間に、よみがえって来る「もの」が、怖かった。
それによって思い出す感情が、何よりも恐ろしかった。
だから、それから逃れようと必死で否定しているのに、思い出してしまった「もの」は、アリアリと頭にこびりついている。
「いやだ……いやだいやだいやだいやだいやだ………………。」
呪いのように呟く。空気に消えていかない言葉。
それは、アルスの体を包むように纏わりつき、地面に落ちていく。
それすらも痛くて、アルスは必死でかぶりを振る。
名前も思い出せない人達の顔が、浮かんできていた。
巻き毛の美少女、ぼさぼさの黒髪の少年、豊かに微笑む老戦士。
そして。
漆黒の情熱的な美女。
「どうして…………どうしてキーファはいないの?」
その答えを、つい先ほどキーファは口にした。
何よりも、記憶を失ってからの日々が、雄弁な答えだった。
けれど、アルスは口にする。
キーファの記憶が一つとして浮かんでこないのに、どの記憶にも、キーファの存在が痛いほど焼きついている。
それが痛くて、湖に向けて糾弾せずにはいられなかった。
そうしないと、胸が痛くて、張り裂けそうだった。
「どうして、記憶の中に、キーファがいないの? ここにいるのに、どうして思い出す記憶には、キーファがいないのっ!?」
キーファは、その答えを持っていたけれど――もう一度、繰り返すことは出来なかった。
自分の体を必死で抱きとめるアルスの、光を増す右腕の紋章だけど、ただ見つめる。
知っているアルスの紋章とは違う形に、良く似た模様。
それが、アルスの激しい感情に反応するように、淡く、強く光る。
「ねぇ、キーファ……どうして……どうしてなの……?」
ふ、と向けられた目が、頼りなく見えた。
かすかに濡れた瞳はけれど、涙を浮かべては居なかった。ただ、虚ろな印象があった。
知らずキーファは、眼を向けてくるアルスへ向けて、右手を伸ばした。
手は、仄かに光るアルスのあざを捕らえる。
虚ろな光をやどしていたアルスの瞳が、ゆっくりと見開かれて行く。
瞳に宿る色が、一瞬で色あせていく――それは、絶望の色。
思いもよらず、その移り変わりを目の当たりにすることになったキーファは、瞳の変貌に息を呑んだ。
自分の知っているアルスは、こんな瞳を持っていなかった。
絶望も、痛いくらいの悲しみも、嫉妬も、何も知らない子供だった。
子供のまま、純粋なまま、キーファを慕い、愛し、そして別れた。
俺の知らないアルス。
「……………………。」
衝動のまま、抱きしめるのは簡単なことだった。
けど、彼の右手のアザを握る手が、それを許してはくれない。
彼のアザを掴んだ手が、熱かった。まるで熱された鉄を掴んでいるようだった。
それがどういう意味なのか。
キーファは、あの時と同じ気持ちで、考える。
嫉妬、ねたみ、自分の存在意義への自身の喪失、自尊心。
いろんな感情がない交ぜになって、その上で、決断した。
おそらくは、そういう感情が無くても、キーファにとって、ユバールという存在は魅力的で仕方がなかったはずだ。けれど、すべてを捨てて――そう、文字通りすべてを捨ててまで、選ぶような魅力は無かった。
なのに、キーファは迷いも無くその道を選んだ。
絶妙なタイミングの時が、彼をそうさせた。
アルスへの疑問、アルスへの嫉妬、憧憬、やるせなさ――さまざまな感情は、結局、キーファに選ばせた。
誰よりも愛したはずの――誰よりも近く、己を知るはずの「アルス」の存在が、キーファに迷いを断ち切らせた。
ユバールを、選ばせたのだ。
今だからこそ、キーファは思う。
もしもユバールに出会っていたのが、あれよりも早くても、遅くても、俺は決してユバールに残りはしなかっただろう、と。
あの瞬間、あの時だったからこそ――それまでの旅があり、それまでの葛藤があったからこそ、キーファは迷うことなく、後悔することなく、この道を選んだのだ。
ならば。
今、なら?
今……もう一度、選ぶなら。
俺は、どうする?
「キーファ……どうして、君は――僕の中に、いないの…………?」
アルスの腕を掴むキーファの手に、そ、と彼の左手が添えられた。
握り締めることなく、掴むこともなく、ただ、添えられる。
それが痛くて、辛くて――キーファは、瞳を歪ませて視線を落とした。
愛してた。
愛されてた。
幼い感情だった。お互いを縛り付けることが満足する――そんな、拙い恋愛だった。
でも、あれが偽物だとは思わない。偽物だったなんて、思いはしない。
ならば、なぜ俺は、今までアルスに言わなかった? 彼が記憶を失っていたから? 記憶を失った彼に、何もかもさらけだして、自分が裏切ったことを教えたくなかった? 傷つけたくなかった?
――違う。
俺は、裏切った男として、アルスに扱われることが嫌だったのじゃないのか?
ただ、それだけのことじゃないのか?
「アルス……。」
苦痛に満ちたキーファの声を聞きながら、アルスは間近から彼を見上げた。
しっとりと濡れたまつげが、彼の頬に影を落とす。
「キーファ…………僕は………………。」
辛そうに、一瞬眉を顰めて、それでも決意を示して彼はもう一度眼をあげた。
複雑に揺れるキーファの眼を、しっかりと捕らえる。
「…………すき………………。
キーファが、すき……。」
手を、握る。
添えるだけだった指先を、しっかりと彼の手に絡めた。
骨ばった大きな手に、指を割り込ませて、無理やり握る。
まるで、それを離したら拒まれるかのように。
「…………――っ。」
息を詰めたキーファの、声にならない音が、間近で聞こえる。
心臓が痛い。
眼が痛い。
心が痛い。
それでも、彼が近くに居て、彼に触れていることが、震えるほど嬉しい。
もう逢えないはずの人に、こうして逢って、触れていることが、夢のように嬉しい。
離れたくないと、そう強く思うのは――けして、間違った感情ではないはずなのに。
「…………お前が…………。」
キーファが、苦しげに呟く。
アルスは、その彼を見上げる。
「どうして、記憶を無くして俺の前に現れたかわからない。」
アルスは辛そうに吐かれる言葉を聞きながら、自分の胸の内に澄んだ水が広がっているのを感じた。
静かな暗闇の中、怖いくらい綺麗な水が張られている。それは、この神殿の沈む湖のように神聖で、厳かなもの。
そこには、波紋一つ落ちていない。
まるで、今から何が起こるのか分かっているような――嵐の前の、静けさ。
「けど、たとえお前が、記憶を無くしていようと、そうじゃなかろうと――俺のすることは、たった一つだ。」
胸に響く言葉は、静かだった。
静かだったからこそ、アルスはこの先に続く言葉が分かった。
――そう、あの時と、同じだ。
夜――夜。
明かりも灯らない、暗いテントの中。
暗闇は嫌いだと……闇は嫌いだとそう思った目に、なぜか飛び込んできた金の髪。
薄暗がりで、暗く――苦笑じみて話す声。ひそやかに話す言葉は、自責と自嘲が混じっていたけれど、後悔はなかった。迷いが無かった。
あれと、同じ声。
――――――だからこそ、アルスは、彼が何を言おうとしているのか分かった。
止めなくてはいけないのかもしれない。
なのに。
止めようとは、思わなかった。
ただ、受け止めようと………………それすらも、あの時と、同じ。
――――――そうやって、後悔なんてしないと言いながら、苦しんだのに。
結局、また、同じことをしようとしている。
今度は、決して選ばないと、そう思っていたのに。
「お前は、帰らなくちゃいけない――元の時代へ。」
おまえは。
えらばれたひとだから。
「ひとりで。」
そうしておれは。
このじだいを。
えらんだひとだから。
「これが、俺の出した二度目の答えだ。」
言い放つ彼の眼は、輝きを宿していた。
まっすぐで、強い、輝き。
あの時と同じ、後悔しないきらめき。
後悔なんて、してないよ。
「嘘。」
辛いのは、本当。
苦しいのは、本当。
でも、後悔はしてない。
「本当は、止めときゃよかったって思ってるんでしょう?」
止めても、無駄だったと、思ったから――。
それに、好きにしてほしいと思ったんだ。
キーファが、心の奥底から望み、決めたことなんだから。
キーファが、後悔しない選択にするために、僕は、後悔なんてしない。
「本当は、辛いくせに。」
「本当」じゃなくても辛いよ。
苦しいよ。
でも、分かってて――苦しいって、辛いって、泣きたくなるって分かってて、選んだことだから、後悔しない。
わかってて、そうしたことだから。
ただ。
思うのは。
もしも、あの状況じゃなかったら――……彼は、どっちを選んだのだろう?
「ずるいこと、しても、いいですか?」
僕は、彼に二度、恋をした。
そして、彼は、二度……同じ答えを出した。