「……………………?」
ハ、と、目が覚めた。
まるで夢が自分を拒絶しているような目覚めであった。
妙に頭がすっきりとしていて、見開いた瞳一杯に、夜の気配が纏わり付く。
前に広がるのは、紺碧の空。輝く星の光――明るい月。
いつもの夜にくらべて、昼間のように明るいと思った刹那、頭上高くに輝く月が、丸いことに気付いた。
――今夜は、満月なのだ。
その丸い月が、不思議な光を自分へと落としている。
耳に届くのは、風の声。遠くから呼びかけるような水の声。
大地の脈動――そして、火のはぜる音。
「ん? 起きたのか?」
そうして、唯一自然の物ではない、穏やかな、優しい声。
一瞬、何故この声がここにあるのか、分からなくて――今がいつなのか、分からなくて、眉を顰める。
「今」は、「何時」の時代?
はっきりとしない意識のまま、瞳を見上げた先で、青年が笑う。
「見張り交代には、まだ時間があるぜ?」
もう少し寝てろよ、と、優しい声と共に、頭が撫でられた。
その「懐かしい感触」に、アルスは頬を摺り寄せる。
ほとんど無意識の仕種に、キーファは一瞬息を呑んだ。
それは――昔、良く見た光景。
でも、めったにしてくれない甘える仕種。
「アルス…………。」
どうしてかその仕種が、嫌に怖く感じて、キーファは掠れた声で彼の名を呼んだ。
けれど小さなその声は、アルスに届く事はなく、彼はぼんやりした――夢見心地の瞳を閉じる。
キーファの手に頬を押し付けたまま、小さく吐息を吐いた。
「…………夢…………見てたのかなぁ?」
確かにキーファの温もりを感じながら、アルスは口にする。
乾いた唇が、カサカサしている。
なのに、喉が潤んでいた。
まるで、泣く前のようだと思い、同時に気付く。
そうだ、僕は夢の中で、泣きそうだったのだ、と。
「夢? なんだよ、寝ぼけてるのか?」
ひょい、と顔を覗かせたキーファに、眠そうに目元をさすりながら、わかんない、とアルスが答える。
キーファの温もりを感じるだけで、怖いくらいにはっきりと目を覚ました意識が、再び夢の中に潜りはじめていた。
「もう一眠りしろよ、な?」
それを促すような、優しいキーファの声。
幼なじみの……声。
「…………うん………………。」
答えながらも、不安がしこりとなって残っていて、アルスは眠い目を無理矢理こじあけて、キーファを見据えた。
そして、ひた、とその目を見詰める。
――ああ、大好きな海の色、大好きな空の色。いつか僕が帰り、君が還る場所。
「どこにも……いかないで?」
手を、差し伸べる。 キーファの手の平をつかむために。その手を感じながら、眠るために。
少し驚いた顔をして、キーファはそれでも、笑顔で頷いた。
アルスと手をつないで眠るなど、どれくらいぶりだろう?
最初に彼の手をつないだのは、まだアルスが小さいころだった。暗闇が怖いと、何かが潜んでいる夜が恐ろしいと、そう言って泣いた子供を慰めるために、手をつないだのだ。
まるであのころに戻ったようだと、暖かな心地を抱きながら、アルスの不安そうな瞳に笑いかける。
そして、手と手をつなぐ。
「ここにいるぜ。――俺は、ここにいる。」
口から出たのは、いつもの言葉だった。
いつもの言葉だけど、懐かしいと思うくらいの長い月日、口にしていない言葉だった。
最後のそう口にしたのは、いつだっただろう?
グリーンフレーク? オルフィー? それとも、ウッドパルナ? ああ、ユバールじゃなかったことは確かだ。
もしかしたら、もっともっと昔かもしれない。
そう、旅に出るよりも、ずっと前の。
きゅぅ、と力を込めて握り締めると、アルスもそれに答えるように握りかえしてくれた。
キーファの手の平はあったかくて、でも、それでもするりと熱が逃げていってしまいそうで、アルスはそれが恐怖の感情だと理解しながら眠りにつく。
まるで深い闇に落ちて行くような意識が、落ちきる寸前に、少しだけ足掻いたような気がした。
――――旅の果て、僕たちが見るのは、何なのだろう………………?
ふと見つけた右手の紋章。昔、これを見るたび、胸がチリリと痛くなった。
それは嫉妬、醜いやきもち、そして、置いていかれることへの恐怖。守るべきものが、守ってくれる者へと変わることへの、自分の存在意義の消失への恐怖。
彼が自分を必要としてくれたのは、自分が太陽の王子だから? そうじゃないと、そう分かっていても、否定しきれない自分の弱さ。
見れば見るほど引き付けられる、そしてうらやむばかりのその心の広さ、温かさ、そうして――強さ。
「お前がしっかり祈らないからだぞ。」
彼が祈れば道は開けた。
「………………伝説は、開かれる……………………。」
右腕の紋章が光り、読めぬはずの文字を、彼は読み解く。
「ホイミ。」
癒しの力。正直な話、不思議な力をマリベルが仕えるようになるまで、それは密かに不安だったのだ。
「えらばれたひとは、だれ?」
「ここ……この下に、地下室があるんだ。……一人、足りないから、きっと、彼は…………よみがえる。」
夢見るように呟く君は、自分でも半信半疑のようだった。
夜、聞こえなかったのと、尋ねる彼は、どこか不安げだったけど。
それでも彼は、蘇らせた。すでに風化した人々を見下ろす大岩の上から、キラキラ光る粉を舞わせて――たった一人、見つかるはずもない少年を見つけた。
あの時彼は、苦く笑いながら、
「町の人が教えてくれたんだ。」
そう、言っていたのだけど。
町の人は、風化しかけた石像でしかないのに、どうして教えてくれるのだろう?
疑問は結局解けないまま、彼も詳しくは語らないまま、その町を後にした。
「もうっ! なんでアルスばっかり、動物がなつくのよっ!?」
怒った少女の顔は、奇麗で可愛かったけど、そんなものに気を取られている暇はなかった。
笑う彼の、その不思議な気配に、呟いた人の言葉が痛かった。
「愛されてるんだな、何もかもに。」
――太陽の王子。全てに愛された人、その名称は、自分のものだった。そう名づけたのは、人だった。
けれど、彼は違う。彼の「愛された人」の名称は、人が付けたものではなく。
「アルス、いい匂いがする。」
「あなたは、不思議な人ね。」
「お前さんの未来だけは見えんよ。」
たくさんの人の、「特別」の声。
彼は「特別」。
旅に出る前、「特別」だったのはキーファで、その「特別」の名称は、生まれながらの王子としての特別だった。
だけど、旅に出て、本当に「特別」なのは誰なのか、教えられたような気がした。
小さな島に居るときは、平凡な心優しい少年――気が弱いから、父の後を継いで漁師になれるかどうかという、少年だった。
なのに、旅に出て、自分たちの絆が深まれば深まるほど……思い知らされた。
「特別なのは、誰?」
そうして、巡り合ってしまった。
「答え」に。
「私の名前は、ライラというの。ユバールの神の踊り手よ。」
あざ。
神の証。
使命。
選ばれたもの。
宿命。
「俺がダーツさんとライラさんを守る。お前等は族長達と先に行っててくれ。」
聞きたいと思った。あざの話。アルスには聞かせられない話。 アルスは、自分の腕のあざの事を毛嫌いしていたから。
でも、旅に出て、それだけじゃすませられないことだと、うすうす分かっていた。
だから、俺は考えなければならない。
俺を頼るアルスのこと。
俺が縛り付けている「守られる者」としてのアルスのこと。
そうして。
俺ができること。
「キーファ?」
ひょい、と覗き込むけれど、起きる気配はない。
アルスはそのまま毛布を被って、たき火を囲んだ。
朝までまだ時間がある。火を絶やさないように気をつけなければいけない。
手元につまれている薪の量を確認しながら、そのついでにキーファに視線を走らせる。
ユバールと離れてから、傷が増えたような気のするキーファの身体――思わずアルスは、ため息を吐いた。
戦えない自分があしでまといなのは、良く分かっていた。
本当なら、彼を手伝えるくらいに戦えるはずなのに……記憶を失ってしまっていて、戦いかたなんて、まるで分からない。
剣の使い方くらい、教えてもらうべきだろうか?
せめて、自分の身を守るくらいは、できるようにならないと。
キーファの寝顔を見る。
すやすや寝ている顔。唇。
「…………キス………………。」
あの時以来、していないキス。
思った瞬間、かぁ、と頬が赤く火照った。
そんな自分に、アルスは一人焦る。
落ち着けと、心の中で繰り返しながら、パシパシと自分の頬を叩いた。
小指がその拍子に、自分の唇に触れて、ハッと手を止めた。
柔らかな唇の感触……寝ていたから、良く覚えていないけど、キーファの唇も、柔らかかった。
頬の赤さを消すどころか、余計に赤くなった頬を押さえる手をそのままに、ちらり、と視線を向けて――キュ、と唇を引き締めた。
それから、そっと――唇を寄せる。
触れるだけのキス。
かすかな羽根のような感触に、ちりり、と走ったのは、恥じらいでも焦りでもなかった。
さよなら、キーファ。
寝ている彼への、最後の口付け。
「………………っ!!!!?」
不意に心によぎった感情に、アルスは目を見開く。
最後の……――?
唇を覆って、困惑に眉をきつく寄せた。
「さい……ご……………………?」
それは、何? どういう、こと?
呆然と、胸を抑える。
思い出しそうで、思い出せない――違う、思い出したくないのだ。
思い出してしまったら、これが……夢だと、夢にせざるを得ないことを、良く知っていたから。
お前が生まれたとき以来の大漁だと、ボルカノが笑っていた――それと同時、見つけられた石版のかけら。
キーファが、アルスから離れたいと思った理由は、たくさんあった。
それが積み重なって、結局、離れることを選んだのが、ユバールであった……それだけのことだった。何よりも、ユバールには、自分が生きようと、道が見つけられると思ったことがたくさんあった。
それを否定する気はないし、何度巡り合ったとしても、同じ結果を出していることは間違い無かった。
だから、後悔なんてしてはいない。
なのに、今。
ふ、と思うのだ。
もしも今、同じ決断が迫られたら、俺はどっちの答えを出すのだろう、と。
あの時は、さまざまな事で悩んでいた。
俺は何なのだろうだとか、俺は何になれるのだろうだとか。
俺の価値だとか、俺の存在意義だとか。
悩むことは俺の仕事じゃないと言いながら、頭から離れなかった。
戦いの最中は、そんな余計なことを考えなくてすんでいて、それが一番気が楽だった。
そうして、ユバールの一族と出会い、俺は、知った。
――――――俺は、アルスが、うらやましかったのだ、と。
気付いてしまったら、後はいろいろと続いて溢れてきた。
彼の側にいることが苦しくなって、彼の側にいることが、正しくないのだとそう想って。
彼を縛り付けているのが、他の誰でもない自分なのだと、そう思って。
でも。
あのまま側に居たかったというのも、真実なのだ。
離れたいと思った。いつまでも同じ場所にいるのは辛いのだと思った。
でも、同じくらい、側に居たかったのも本当なのだ。
まだほんの少ししか生きていないけど、そのほとんどを共に過ごした一生の友を、何故好き好んで別れようか?
別れて初めて気付いたこともある。
俺がどれほどアルスの存在に救われていたのかということ、彼に甘えていたのかということ。
そうして、何よりも、彼に会いたいと思っている自分が居るということ。
月日が経ってもそれは薄れず、より濃く自分に刻まれて行く。
そんな中、再び出会ってしまった。
それも、何も覚えていない、でも、自分が良く知るそのままのアルスに。
「…………………………。」
一人になんて、しておけるわけがないだろう?
何も知らない彼を、どこへ帰るかも知らない彼を。
何よりも。
何故ここに来てしまったのか分からない彼を。
どうして一人に出来るのだろう?
――なぁ? そうだろう? キーファ・グラン?