傷ついた分だけ 7

 
 

「……………………?」
 ハ、と、目が覚めた。
 まるで夢が自分を拒絶しているような目覚めであった。
 妙に頭がすっきりとしていて、見開いた瞳一杯に、夜の気配が纏わり付く。
 前に広がるのは、紺碧の空。輝く星の光――明るい月。
 いつもの夜にくらべて、昼間のように明るいと思った刹那、頭上高くに輝く月が、丸いことに気付いた。
 ――今夜は、満月なのだ。
 その丸い月が、不思議な光を自分へと落としている。
 耳に届くのは、風の声。遠くから呼びかけるような水の声。
 大地の脈動――そして、火のはぜる音。
「ん? 起きたのか?」
 そうして、唯一自然の物ではない、穏やかな、優しい声。
 一瞬、何故この声がここにあるのか、分からなくて――今がいつなのか、分からなくて、眉を顰める。
 「今」は、「何時」の時代?
 はっきりとしない意識のまま、瞳を見上げた先で、青年が笑う。
「見張り交代には、まだ時間があるぜ?」
 もう少し寝てろよ、と、優しい声と共に、頭が撫でられた。
 その「懐かしい感触」に、アルスは頬を摺り寄せる。
 ほとんど無意識の仕種に、キーファは一瞬息を呑んだ。
 それは――昔、良く見た光景。
 でも、めったにしてくれない甘える仕種。
「アルス…………。」
 どうしてかその仕種が、嫌に怖く感じて、キーファは掠れた声で彼の名を呼んだ。
 けれど小さなその声は、アルスに届く事はなく、彼はぼんやりした――夢見心地の瞳を閉じる。
 キーファの手に頬を押し付けたまま、小さく吐息を吐いた。
「…………夢…………見てたのかなぁ?」
 確かにキーファの温もりを感じながら、アルスは口にする。
 乾いた唇が、カサカサしている。
 なのに、喉が潤んでいた。
 まるで、泣く前のようだと思い、同時に気付く。
 そうだ、僕は夢の中で、泣きそうだったのだ、と。
「夢? なんだよ、寝ぼけてるのか?」
 ひょい、と顔を覗かせたキーファに、眠そうに目元をさすりながら、わかんない、とアルスが答える。
 キーファの温もりを感じるだけで、怖いくらいにはっきりと目を覚ました意識が、再び夢の中に潜りはじめていた。
「もう一眠りしろよ、な?」
 それを促すような、優しいキーファの声。
 幼なじみの……声。
「…………うん………………。」
 答えながらも、不安がしこりとなって残っていて、アルスは眠い目を無理矢理こじあけて、キーファを見据えた。
 そして、ひた、とその目を見詰める。
――ああ、大好きな海の色、大好きな空の色。いつか僕が帰り、君が還る場所。
「どこにも……いかないで?」
 手を、差し伸べる。 キーファの手の平をつかむために。その手を感じながら、眠るために。
 少し驚いた顔をして、キーファはそれでも、笑顔で頷いた。
 アルスと手をつないで眠るなど、どれくらいぶりだろう?
 最初に彼の手をつないだのは、まだアルスが小さいころだった。暗闇が怖いと、何かが潜んでいる夜が恐ろしいと、そう言って泣いた子供を慰めるために、手をつないだのだ。
 まるであのころに戻ったようだと、暖かな心地を抱きながら、アルスの不安そうな瞳に笑いかける。
 そして、手と手をつなぐ。
「ここにいるぜ。――俺は、ここにいる。」
 口から出たのは、いつもの言葉だった。
 いつもの言葉だけど、懐かしいと思うくらいの長い月日、口にしていない言葉だった。
 最後のそう口にしたのは、いつだっただろう?
 グリーンフレーク? オルフィー? それとも、ウッドパルナ? ああ、ユバールじゃなかったことは確かだ。
 もしかしたら、もっともっと昔かもしれない。
 そう、旅に出るよりも、ずっと前の。
 きゅぅ、と力を込めて握り締めると、アルスもそれに答えるように握りかえしてくれた。
 キーファの手の平はあったかくて、でも、それでもするりと熱が逃げていってしまいそうで、アルスはそれが恐怖の感情だと理解しながら眠りにつく。
 まるで深い闇に落ちて行くような意識が、落ちきる寸前に、少しだけ足掻いたような気がした。
 ――――旅の果て、僕たちが見るのは、何なのだろう………………?
 
 
 
 
 

 
 
 
 

 ふと見つけた右手の紋章。昔、これを見るたび、胸がチリリと痛くなった。
 それは嫉妬、醜いやきもち、そして、置いていかれることへの恐怖。守るべきものが、守ってくれる者へと変わることへの、自分の存在意義の消失への恐怖。
 彼が自分を必要としてくれたのは、自分が太陽の王子だから? そうじゃないと、そう分かっていても、否定しきれない自分の弱さ。
 見れば見るほど引き付けられる、そしてうらやむばかりのその心の広さ、温かさ、そうして――強さ。
「お前がしっかり祈らないからだぞ。」
 彼が祈れば道は開けた。
「………………伝説は、開かれる……………………。」
 右腕の紋章が光り、読めぬはずの文字を、彼は読み解く。
「ホイミ。」
 癒しの力。正直な話、不思議な力をマリベルが仕えるようになるまで、それは密かに不安だったのだ。

「えらばれたひとは、だれ?」

「ここ……この下に、地下室があるんだ。……一人、足りないから、きっと、彼は…………よみがえる。」
 夢見るように呟く君は、自分でも半信半疑のようだった。
 夜、聞こえなかったのと、尋ねる彼は、どこか不安げだったけど。
 それでも彼は、蘇らせた。すでに風化した人々を見下ろす大岩の上から、キラキラ光る粉を舞わせて――たった一人、見つかるはずもない少年を見つけた。
 あの時彼は、苦く笑いながら、
「町の人が教えてくれたんだ。」
 そう、言っていたのだけど。
 町の人は、風化しかけた石像でしかないのに、どうして教えてくれるのだろう?
 疑問は結局解けないまま、彼も詳しくは語らないまま、その町を後にした。
「もうっ! なんでアルスばっかり、動物がなつくのよっ!?」
 怒った少女の顔は、奇麗で可愛かったけど、そんなものに気を取られている暇はなかった。
 笑う彼の、その不思議な気配に、呟いた人の言葉が痛かった。
「愛されてるんだな、何もかもに。」
――太陽の王子。全てに愛された人、その名称は、自分のものだった。そう名づけたのは、人だった。
 けれど、彼は違う。彼の「愛された人」の名称は、人が付けたものではなく。
「アルス、いい匂いがする。」
「あなたは、不思議な人ね。」
「お前さんの未来だけは見えんよ。」
 たくさんの人の、「特別」の声。
 彼は「特別」。
 旅に出る前、「特別」だったのはキーファで、その「特別」の名称は、生まれながらの王子としての特別だった。
 だけど、旅に出て、本当に「特別」なのは誰なのか、教えられたような気がした。
 小さな島に居るときは、平凡な心優しい少年――気が弱いから、父の後を継いで漁師になれるかどうかという、少年だった。
 なのに、旅に出て、自分たちの絆が深まれば深まるほど……思い知らされた。

「特別なのは、誰?」

 そうして、巡り合ってしまった。
 「答え」に。
 
 

「私の名前は、ライラというの。ユバールの神の踊り手よ。」
 あざ。
 神の証。
 使命。
 選ばれたもの。
 宿命。
「俺がダーツさんとライラさんを守る。お前等は族長達と先に行っててくれ。」
 聞きたいと思った。あざの話。アルスには聞かせられない話。 アルスは、自分の腕のあざの事を毛嫌いしていたから。
 でも、旅に出て、それだけじゃすませられないことだと、うすうす分かっていた。
 だから、俺は考えなければならない。
 俺を頼るアルスのこと。
 俺が縛り付けている「守られる者」としてのアルスのこと。
 そうして。
 俺ができること。
 
 

 
 
 
「俺は、ユバールに残る。」
 朝焼けに映える金の髪。
日に焼けた顔。
 笑顔。
 たくましい身体。
 そして。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 

「キーファ?」
 ひょい、と覗き込むけれど、起きる気配はない。
 アルスはそのまま毛布を被って、たき火を囲んだ。
 朝までまだ時間がある。火を絶やさないように気をつけなければいけない。
 手元につまれている薪の量を確認しながら、そのついでにキーファに視線を走らせる。
 ユバールと離れてから、傷が増えたような気のするキーファの身体――思わずアルスは、ため息を吐いた。
 戦えない自分があしでまといなのは、良く分かっていた。
 本当なら、彼を手伝えるくらいに戦えるはずなのに……記憶を失ってしまっていて、戦いかたなんて、まるで分からない。
 剣の使い方くらい、教えてもらうべきだろうか?
 せめて、自分の身を守るくらいは、できるようにならないと。
 キーファの寝顔を見る。
 すやすや寝ている顔。唇。
「…………キス………………。」
 あの時以来、していないキス。
 思った瞬間、かぁ、と頬が赤く火照った。
 そんな自分に、アルスは一人焦る。
 落ち着けと、心の中で繰り返しながら、パシパシと自分の頬を叩いた。
 小指がその拍子に、自分の唇に触れて、ハッと手を止めた。
 柔らかな唇の感触……寝ていたから、良く覚えていないけど、キーファの唇も、柔らかかった。
 頬の赤さを消すどころか、余計に赤くなった頬を押さえる手をそのままに、ちらり、と視線を向けて――キュ、と唇を引き締めた。
 それから、そっと――唇を寄せる。
 触れるだけのキス。
 かすかな羽根のような感触に、ちりり、と走ったのは、恥じらいでも焦りでもなかった。

さよなら、キーファ。

 寝ている彼への、最後の口付け。
「………………っ!!!!?」
 不意に心によぎった感情に、アルスは目を見開く。
 最後の……――?
 唇を覆って、困惑に眉をきつく寄せた。
「さい……ご……………………?」
 それは、何? どういう、こと?
 呆然と、胸を抑える。
 思い出しそうで、思い出せない――違う、思い出したくないのだ。
 思い出してしまったら、これが……夢だと、夢にせざるを得ないことを、良く知っていたから。
 
 
 
 
 
 
 
 

 お前が生まれたとき以来の大漁だと、ボルカノが笑っていた――それと同時、見つけられた石版のかけら。
 キーファが、アルスから離れたいと思った理由は、たくさんあった。
 それが積み重なって、結局、離れることを選んだのが、ユバールであった……それだけのことだった。何よりも、ユバールには、自分が生きようと、道が見つけられると思ったことがたくさんあった。
 それを否定する気はないし、何度巡り合ったとしても、同じ結果を出していることは間違い無かった。
 だから、後悔なんてしてはいない。
 なのに、今。
 ふ、と思うのだ。
 もしも今、同じ決断が迫られたら、俺はどっちの答えを出すのだろう、と。
 あの時は、さまざまな事で悩んでいた。
 俺は何なのだろうだとか、俺は何になれるのだろうだとか。
 俺の価値だとか、俺の存在意義だとか。
 悩むことは俺の仕事じゃないと言いながら、頭から離れなかった。
 戦いの最中は、そんな余計なことを考えなくてすんでいて、それが一番気が楽だった。
 そうして、ユバールの一族と出会い、俺は、知った。
 ――――――俺は、アルスが、うらやましかったのだ、と。
 気付いてしまったら、後はいろいろと続いて溢れてきた。
 彼の側にいることが苦しくなって、彼の側にいることが、正しくないのだとそう想って。
 彼を縛り付けているのが、他の誰でもない自分なのだと、そう思って。
 でも。
 あのまま側に居たかったというのも、真実なのだ。
 離れたいと思った。いつまでも同じ場所にいるのは辛いのだと思った。
 でも、同じくらい、側に居たかったのも本当なのだ。
 まだほんの少ししか生きていないけど、そのほとんどを共に過ごした一生の友を、何故好き好んで別れようか?
 別れて初めて気付いたこともある。
 俺がどれほどアルスの存在に救われていたのかということ、彼に甘えていたのかということ。
 そうして、何よりも、彼に会いたいと思っている自分が居るということ。
 月日が経ってもそれは薄れず、より濃く自分に刻まれて行く。
 そんな中、再び出会ってしまった。
 それも、何も覚えていない、でも、自分が良く知るそのままのアルスに。
「…………………………。」
 一人になんて、しておけるわけがないだろう?
 何も知らない彼を、どこへ帰るかも知らない彼を。
 何よりも。
 何故ここに来てしまったのか分からない彼を。
 どうして一人に出来るのだろう?
――なぁ? そうだろう? キーファ・グラン?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 8に続く