傷ついた分だけ 6











 オアシスの泉の岸に置いたままにしてあった荷物を取りながら、ふ、とアルスは動きを止めた。
 さらり、と頬にかかる髪を片手で掻き上げるついでに、指先を唇に当てる。

…………そういえば、あの……キス………………あれって、夢――――だったの、かな?

 ポッと、音を立てて頬が赤らむのを感じながら、ブンブンとアルスは頭を振る。
 そんな彼に、泉に足先を浸けながら、キーファが不思議そうに視線を向けた。
「どうかしたのか、アルス?」
 気軽にかけられた声に、びくん、とアルスは肩を跳ねさせる。
 その拍子に、どん、と担いだ荷物が落ちた。
 キーファは、きょとん、と目を見張って、自分の近くまで転がってきた荷物を掴んだ。
「アルス?」
「なっ、なんでもない。――ちょっと、ボーッとしてたから……。」
 苦笑いを浮かべて、アルスが笑う。
 その頬が少し紅潮していることに気付いて、キーファがいぶかしげに眉を寄せる。
 熱でもあるのかと、覗き込もうとしたキーファの顔を、慌てて遠のけながら、
「そ、それよりもっ! 荷物、ありがとうっ!」
 どこか焦ったような笑みを浮かべたアルスが、キーファが抱えている荷物を奪うようにして自分の懐に抱え込んだ。
 何が「それよりも」なのか分からなかったが、アルスがそう言うなら、そうなのであろう。
 キーファは少しだけ呆れた顔で、頷き、自分の髪を掻き上げた。
 唇に微笑みを乗せて――ああ、と気付く。
 アルスが真っ赤になっている原因に、思い当たったのだが。
 ……起きてた?
 キーファは、髪を掻き上げた手を口元に当てて、ぽつり、と呟く。
「久しぶりのアルスの唇…………うん、変わってない。」
「え? 何か言った?」
 荷物を抱え直していたアルスが、きょとん、と目を瞬いた。
 キーファは、手を腰に戻しながら、しれっとして笑う。
 まるで何事もなかったかのように。
「別に。さて、アルスさっき話したこと、分かったか?」
 唐突に話を振られて、アルスはとまどうように頷きながら、手の平を見る。
 別に自分の手の平を見たとしても、先ほどキーファから聞いた事が書いてあるとは限らなかったけど、なんとはなしに、見ながら、答える。
「えっと――――ぼくと、キーファは、未来からきてて、世界を救うたびをしてて。
 未来へ戻るためには、旅の扉っていうのが、必要で…………。」
 うんうん、とキーファが頷く。
 長いようで短かった話――キーファが、途中で面倒になって、だいぶはしょったのだ――の内容を纏めるのは、簡単だった。
 けれども、それが信じられることかどうかは、話が別だった。
 当然キーファは、完全に信じてもらえるなどとは思っていなかった。
 なのに、アルスは、確認するように口の中で繰り返しただけで、それを納得した。
 まるで、記憶が戻ったかのように、信じた。
 それが、当たり前なのだと、言いたげに。
 ふ、と最後まで言葉を言わないで、アルスはキーファを見あげる。
「……ねぇ、キーファ? その旅の扉っていうの、レブレサックにはなかったの?」
 レブレサック、その言葉を出すとき、何故か一瞬アルスは息を飲んだ。
 何故か、ちくん、と胸が痛んだのだ。それは、自分自身の痛みというよりも、誰かを思う切なさに似ていた。
 どうしてか分からないまま、手の平を胸元に当てた。
 見慣れない仕種をするアルスに眉をひそめながら、キーファは少し切なげな笑みを浮かべる。
「一応捜してみたけど、無かったぜ。――まぁ、俺も、ユバールで生きるって決めて、あれから一度も見てないから、なんとも言えないけど。」
 言った方も、言われた方も、胸が痛んだ。
 けど、アルスは口に出して確認せざるを得なかった。
 恐らくは、記憶があったなら、効くどころか考える事すら恐ろしかったであろうこと。
 今のアルスには、「自分達が来た世界」の記憶がないから、聞ける。キーファとの思い出は、ここでの物しかなかったから。
「キーファには、見えないかもしれないってこと?」
 でも、尋ねた声は震えていた。
 キーファはその声音に気付かなかった振りをしながら、頷く。
「ああ、そういうこと。」
 軽い声は、まるでそのことを気にしていなかったようであった。
 それが、ずきん、と胸に痛くて、胸元に当てた手に力を込める。
 キーファを見上げる瞳は、穏やかな光のまま、
「…………………………ほんとに、ぼくとキーファは、違う時間を歩んでるんだね。」
 静かに、尋ねる。
 キーファの手が、アルスの頬をなで上げる。
 指先が名残惜し無用に頬を、ツ、と引っ掻く。
「……――でも、今は、一緒にいる――だろ?」
 無邪気な子供めいた笑顔ではなく、穏やかで静かな、包み込むような笑顔。
 優しい笑顔。
 ユバールで世話になっている間、何度も見てきた笑顔だったけど、どうしてか、今だけ――それが遠く感じた。
 この違和感は、昔の……記憶?
「………………うん。」
 小さく頷いて、アルスはもどかしげな微笑みを浮かべた。
 それを必死の思いで微笑みにしようと思った瞬間、どうしてか、心に反して、あでやかな微笑みが浮かんだ。
 瞳がゆるみ、眉が緩やかな弧を描く。頬と唇が優しい笑みを形作り、雰囲気がふんわりとした、明るい物へと変化する。
 心の中とは違う、穏やかで優しい笑み。
――誰かをだますための、微笑み。
 どうして自分が、唐突にこんな笑顔を浮かべるようになったのかわからなかったけど、キーファはその微笑みにだまされてくれたらしい。
 アルスが安心しているのだと理解して、大丈夫だと、頭を撫でてくれた。
 それが、まるで致死傷のように痛い。
「うん……。」
 それすらも隠し通すように、微笑める自分が、おかしくて、悲しくて――アルスは、無言でキーファの手に頬を預けた。
 昔の事は、どうしてか思い出せないけど――でも。
 でも、今、暖かいのは、本当。
 例え、失った過去に、自分の痛みの全てがあるとしても、隣りにこの人がいる。
 それだけは、本当。
 ――このまま、何もかも思い出せなくてもいいのに、そう思うのは……罪でしょうか?







「とりあえず、俺が知ってる旅の扉に行くか。
 一番近いところで、オルフィーか……。あ、でも、お前がくぐってきた旅の扉でないと、見つからないかもしれないな。――この時代って、他にどこが解放されてるんだ?」
 ぶつぶつ呟くキーファを見上げて、アルスは少し幸せげに微笑む。
 キラキラ光る奇麗な金の髪。
 隣に僕がいることの奇跡――昔、同じようなことを思った覚えがある。
「アルス、お前、他に何か覚えてることあるか?」
 ふ、と話しを振られて、まともにキーファの独り言を聞いていなかったアルスは、慌てて彼を見上げる。
「え? 何か? えーっと……。」
 キーファに見蕩れていたことが気付かれたわけじゃないと、必死で自分に言い聞かせながら、、アルスは赤い顔を隠して口篭もる。
 けれど、顔が赤くなるのは直らなくて、焦れば焦るほどいっそう頬に熱が集まるようで、ごまかすように空を見上げる。しかし、体のいい答えは、何も浮かんでこない。
 何か、覚えてることって――えーっと、何を、覚えてたっけ、僕??
「えー…………と……………………。」
 それ以上先が続かないアルスを見て、キーファはカリ、と頬を掻いた。
 混乱しているらしいアルスに、これ以上何を言っても無駄だと気付いたようであった。
「――――――………………この世界にも、エスタード島があるかなぁ? あったとしても、神殿があるかもわかんねぇし…………。」
 前途多難なようである。
 もう少し情報集めとばよかったなと、先ほど出てきた城の事や、今までの旅のことを思い出すキーファに、ちらり、と視線をやって、申し訳なさそうに笑いかける。
「で、でも――……キーファがいるから、大丈夫だよね?」
 そうやって見上げると、キーファは軽く目を見張って――それでも、太陽のように笑って、自分の胸を叩いた。
「ああ、まかせとけっ!」






 森の中、木の幹の後ろに隠れて、アルスが鋭く叫ぶ。
「キーファっ! 後ろっ!!」
 りん、と響いた声に、剣を振るっていたキーファが鋭く反応を返す。
「ちぃっ! アルスっ! ちゃんと隠れてろよっ!」
「う、うんっ。」
 アルスが剣も魔法も使えなくなっているのは、ユバールに居たころから知っていた。
 だから、こういう戦闘になってしまったら、キーファが単独で戦うしかなかった。
 ユバールの守り手として、戦いには相当慣れていた。
 だから、アルス一人守る事など苦にならないと思ってはいる。
 とは言っても、傷ひとつ負っても、アルスは自分自身を許せないだろうと思うし、それはキーファの望むところではない。
 ドキドキしながら自分を見守っているだろうアルスの視線を感じながら、キーファは必死に戦う。
 アルス達と共に旅をしていた時に比べ、キーファの剣の腕は数段上がっていた。
 なのに、錯覚に陥られる。まるで過去に戻ったかのような、そんな甘い錯覚。
 でも、過去に戻ったとしたら、キーファはまたあの苦い思いを味わうことになるのだ。
 ──ふっ、とそんな思いがよぎって、キーファは剣を叩きつけるように振るいながら、思い出す。
 剣を握ったこともないアルスが、必死で剣を振るうキーファを見つめながら、マリベルを後ろにかばって――あぶないと、叫びながら飛び出してきたあの時のこと。
 ばかっ、と叫んだキーファが、無理矢理アルスを突き飛ばして、傷を負った。
 泣きながら、アルスが初めて不思議の力を使ったあの時。
 彼は、あの時から――変わった。強くなった。
 それは、まるでさなぎから蝶に変わるような変化だった。
 脱ぎ捨てた殻は、あっという間に見えなくなって、彼は空へはばたいた。
 キーファの目には、それが良く見えた。
 結局自分は、地面に脱いとめられていたアルスを守る、飛べないガーディアンだったのだ。
 空にはばたくアルスには、ついていけなかった。ただ地上から、飛んで行く彼を、自由に空を舞う彼を見上げているしかなかった。
 焦がれた空へ行くことができるのは、それを許されたのは、アルスだけだと、そう感じた時――俺は、自分の最後を知ったのだ。
 あの──苦くて、苦くて、しょうがなかった、想い──……。
「キーファっ!!!」
 剣を振るいながら感傷に浸るのを引き戻すように、アルスに悲鳴に近い声が耳を突き抜けた。
 彼の視線の先にいるモンスターの事は、気付いていたから、一線、剣を翻して、そのまま貫く。
 血が吹き出し、キーファの髪と頬を濡らした。
 遠くでアルスが、ホッと胸をなで下ろすのを感じる。
 キーファが無造作に剣に付いた血を払うと、木の影に隠れていたアルスは、おずおずと姿をあらわす。
 頷くキーファに促されるように、そのままキーファに駆け寄ってくる。
 そして、伸びて倒れたモンスターを見つめて、震える指でキーファの服の裾をつかんだ。
「死んだの?」
「ああ、もう大丈夫だ。」
 慣れた仕種で剣の鞘に剣を収めるキーファを、アルスは眩しそうに瞳を細めた。
 その眼差しが、どこかぼんやりとして見えた。
 キーファは軽く首をかしげて、目線の下にあるアルスの頭を、ぽん、と叩いた。。
「アルス?」
 大丈夫だと言いたげに、笑う。
 優しい笑み。大人びた、自分だけが守れる人を手に入れた者が持つ、包み込むような──笑顔。
 そんな笑顔を、アルスは小さく目を見張りながら見上げる。
 強烈な違和感と、どうしようもない嫉妬が、心の中で渦巻くのを感じた。
 けど、それを表に出すことなく、唇は微笑んでいた──アルスの意思に反して。
「……大丈夫。」
 まるで、そうすることが当たり前のように、アルスの口元は、綻んでいた。
「怖かったか?」
 覗き込むように尋ねるキーファに、アルスは首を振った。
「キーファが……守ってくれたから。」
 照れたように答えて笑う。まるでマニュアル通りに機械が行っているようだと、アルス自身は想う。
 用意された答えを口にして、笑う。それだけのことに、誰がシナリオを用意しているというのだろう?
 アルスは、苦笑すら笑顔に変えて、キーファを見上げる。
「大丈夫だよ。」
 言いながら、違和感が拭えない。
 自分が口にした台詞が、おかしいと、そう感じてる。
 守ってくれる? 誰が? ――誰を?
「……そっか。」
 くしゃり、と髪をかき乱して、キーファが笑った。
 アルスはそれを見上げて、自分も同じように笑いながら、心の中に出来たシコリに密かに首を傾げる。
 キーファはそれに気付かず、先へ進もうと、前を見やる。
 その後に続きながら、アルスは胸元に手を当てた。
 胸がチクチクする。これは違うと、これは本当じゃないと――これでは駄目なのだと、シコリが叫んでいる。
 でも、それが何なのか……まだ、分からない。












「ユバールの民が滅びる運命を背負っていたのは、魔除けのトゥーラを奏でるジャンの存在が無くなったからだった。彼がいなくなったために、ユバールは放浪の旅を生き残る力を手に入れることはできなかった。
 ユバールを救うためには、誰か――そう、力のある守り手が残るべきだったんだ。
 でもダーツはそれに不足していた。
 俺なら、それが出来る……いや、してみせると思った。
 俺は、伝説になれるんだ。」




「伝説になんか、なりたくないんだ……ただ、変わりたくなかったんだ。
 蝶になんかならなくても良かったんだ。
 ただ、地面に居たかった。大海原に出ることは望んだけれど、誰もを置いて行くことを望んだわけじゃなかった。
 港は――守る人がいるから、みなとなんだ。
 僕が進む道は、その港を無くすことだと、わかっていた。
 だから僕は……進みたくなかった。
 誰かになりたかった。
 でも、伝説になりたかったわけじゃない。君たちを置いて行く誰かになりたかったわけじゃないんだ。」











7に続く