傷ついた分だけ 5









「はぁ? 一人で旅立ったぁぁっ!?」
 休むことすらわずらわしい思いで駆け抜け、たどり着いた砂漠の城。
 蜃気楼と陽炎が包むその城内は、吹き抜ける風が涼しく、全身を覆うような汗は一気に引いた。
 けれども、別の意味で、疲れたような汗が沸き上がったのは、仕方のないことなのだと――思う。
 ちょうど城に出向いていたハディートに誘われ、ジリジリと焼けている砂を見渡せるバルコニーの上にやってきたキーファは、暑さとは別の意味で込み上げてきた汗を拭いながら、ため息を零す。
 それから、参ったと言いたげに頭を抱え、隣りに立つ男を見あげる。
 彼は、暑さに相当参っているらしいキーファとは正反対に、涼しい顔で遠くを見ていた。
「ああ……つい一週間くらい前に。」
 答える男の声は、普通に冷静であったけど、その目が――その言葉を裏切っている。
 キーファはそれをしっかりと見て取り、ちっ、と荒々しく舌打ちする。
 それがどういう意味から発したのか、キーファもハディートも良く分かっていた。
 けれども、キーファの口から飛び出したのは、無謀な旅に出た少年のことだった。
「あんの、馬鹿っ、記憶が全然ないくせに、どこ行くつもりなんだよ……っ。」
 言いながらも、彼らしいと、感じた。
 アルスはそういう人だ。だれかに守られるようでありながら、そうじゃない。彼は相手のことを何よりも考えている。
 だから、彼は自分を犠牲にできるのだ。
 だから、運命を、背負うことの出来る人なのだ。そうなり得たのだ。
――――自分と違って。
 自身の言葉から連想してしまったことに直面して、キーファは思わずうつむく。
 そんな彼の明るい金の髪に埋もれる旋毛を見下ろし、ハディートは軽く眼を細める。
 思い出すのは、キーファが追ってきた少年の事。
 キーファと別れ、自分達に保護されることを選んだくせに、結局は自らの足で歩き出すことを選んだ少年――記憶を失っているくせに、そういう所は、初めて出会ったあの時と変わっていない。
 彼は――アルスは、最後まで笑顔だった。
 見送り、心配する自分たちに、これ以上心配かけないように、笑っていた。
 戦う術も失っているのに、元の場所に戻るための記憶すら失っているくせに。
 アルスは、彼は、大丈夫だと、そう言い切っていた。
 それは、根拠のない笑顔なのに、どうしてかそれに、納得せざるを得ない自分達がいた。
 それもまた、あの時と、同じ状況で。
「…………ったく、こういうときくらい――頼れよなぁ。」
 がばっ、と勢い良く顔をあげたキーファが、なぁ? と同意を求めるようにハディートを見上げる。
 苛立った光が見えるけれど、それすらも諦めと、しょうがないと言いながらも、そう思っていないのは見て分かった。
 彼だとて、記憶が無いアルスが、前と同じような態度や行動をすることに、ホッとしているのに間違いないのである。
 キーファに見上げられて、ハディートはチリリと心が痛むのを感じながらも、真摯な瞳で返した。
 そうして、ゆっくりと――あえてゆっくりと、キーファを見返して告げた。
「…………できることなら、俺も追いかけて行きたいのだが──彼は許してくれない。」
「──。」
 何だと、キーファが視線をあげた。
 何が言いたいのだと、キーファの瞳がいぶかしむ。
 そんな彼の目を見かえし、ハディートはわざとらしく、ゆったりと腕を組んだ。
 空から照り付ける太陽の光が、ちりちりと二人の肌を突き刺す。
 それを感じ取りながら、ハディートは先を続けた。
 キーファを攻撃するように、
「あんたをも許してくれるとは思わない。」
 言葉は、軽く告げられた。
 けれど、それが持つ意味は遥かに大きくて、声が空気に響いたと同時、キーファはギッと彼を睨んでいた。
「そんなの──わかんねぇだろ……。」
 答えたのは、とっさだった。
 彼に対する反感にも近かった。
 けど、口にしたとたん、それは真実のような、そんな気がしてきた。
 彼は、いつも俺とともにあったのだ。
 彼は、いつも俺の後ろを付いてきていた。
 腕を引けば、笑って隣りに並んでくれた。
 そのアルスが、どうして俺を追い返す?
 ハディートは、悠然とした眼差しで、
「残る、と──言われただろう? それが良い証拠じゃないか。」
 そう、せせら笑うように告げる。
 ハディートの良く通る声が耳に入った瞬間、キーファはふい、と今思っていたことと別の考えが頭に浮かんだ。
 アルスは、俺の隣りに居た。俺の後ろにいた。
 けれど。
 それはいつも、キーファがアルスの前に立っていたから。
 もしも、アルスが前に立っていたのなら。
 それならば。
 アルスは、自分の運命に俺を巻き込んだだろうか?
 ふっ、と、今まで考え様ともしなかった――いや、考えたくも無かった疑問が、ハディートの言葉によって突き刺さった。
 今のアルスには記憶がない。
 そのアルスは、俺を、確かに一度、拒んでいるのだ。
 それは、事実で。
 思い当たった瞬間、キーファは目線をあげて、ハディートと視線をかち合わせた。
 二人は、互いを睨むように視線を絡み合わせる。
 まるで火花が散るような感覚を覚え、身体が高揚し、このまま行けば武力に訴えるようなムードまで沸き上がる。
 しかし、先に目をそらしたのはハディートであった。
 ふい、と一触即発のムードが掻き消え、キーファは肩透かしを食らったような気分になる。
 ハディートは、遠くを見詰めるように瞳を細めてから、ソッと……吐息づくと、
「アルスは……お前が好きだったんだ。」
 不意に、呟いた。
 驚いたようにキーファが視線をあげる。
 ハディートは嫌そうに顔を歪めて、それでも先を続ける。
「お前も感づいてるだろうが、俺はアルスが好きだった。」
 キーファの眉が跳ね上がるのを冷静に見ながら、ハディートは更に続ける。視線はキーファを見てはいなかった。
「だから、何もかもが終わった後、俺はあいつに残ってくれるように頼んだ。」
 それが成功しなかったことは、キーファにも分かる。もしも成功していたのなら、アルスは「あんな形で現れること」はなかったのだろうし。
 無言で先を進めるキーファの視線に答えて、ハディートが笑う。
 苦い、苦い笑みであった。
「けど、アルスは先に進まなくてはいけないからと、断ったんだ。
 お前と──約束したからと。」
「……約束?」
 そんなこと、しただろうか?
 あの時俺は、何も見えなくて、約束なんて──しなかったはずなのに?
 そうだ、「逃げた相手との約束」だなんて、一体何を約定するというのだろう?
 口からでまかせなんていうことを、キーファが出来るはずもなく。
 ならばなおさら、一体何を約束したというのか?
 密かに戸惑っているキーファに気付かず、ハディートはあえて彼を見ないようにしながら、言葉を紡いだ。
「お前が自分の道を見つけたから、自分も自分の道を探さなくてはいけないと、そう言っていた。
 それが、約束なのだと。」
「………………っ。」
 思いも寄らない言葉を、思いも寄らない人物から聞かされて、キーファは息を詰まらせた。
 別れの最後の時まで、柔らかに微笑んでいた彼の心中で、そのような誓いが立てられていたなんて、知らなかった。
 驚愕と胸に染み渡る熱い感情に、ただ目を見張るだけのキーファを、更に追いつめるようにハディートは――出来ることなら、絶対に口にしたくない言葉を口にする。
「──……そして、例えお前の心が自分から離れていようとも、たぶん、一生、彼を愛しつづけるのだろうと。」
「………………!!」
 息を詰めて、驚いたように目を見開いて──キーファは、口に手を当てた。
 あえてそれを見ないようにしながら、ハディートは焼け付くような思いをかみ殺し、キーファへ告げる。
 これが、何よりもあの少年のためになると、良く分かっているのだから。
「俺は、かなわないと思った。──例えアルスが愛してる相手が、どうしようもない馬鹿であろうとも、俺は身を引くしかできないだろう、と──。」
 言いながら振り返った先には、すでにキーファはいなかった。
 城内の階段へ向けて、駆けていく背中だけが見える。
 ハディートは無言でそれを見送り、やれやれと、頭を掻いた。
「アルスが幸せになれば──いいんだけどな。」
 そう、呟いて。
 苦い思いが胸に走ったのは、見て見ぬふりをしながら――この空の下を旅しているだろう、少年へ、小さく呟く。
「今度は……逃げるなよ。」
 そうしないと、俺の立つ瀬がない。
 苦笑を滲ませながら、ハディートは空を仰いだ。
 空は、憎くなるくらい、蒼く奇麗に澄んでいた。
 それは、あの日見た――アルスが闇の封印を解いたときに見た、美しい空の色と、良く似通っていた。
 
 

 
 
 
 
 

 
 

「俺が……守らないと。」
 呟いた言葉は、どこか渇いていた。
 もう二度と口にすることはないと思っていた言葉だった。
 けど、それに昏い感情を覚えると同時、喜んでいる自分がいることを知っている。
 そんな自分に嫌悪を抱きながら、それでも。
「……アルス……っ。」
 キーファは、アルスの名を呼ぶ。
 彼を、捜し求める。
 彼がどこに向かったのかは、まるで分からないけど、水に愛されているあの子のいる場所は、すぐにわかる。
 海か、湖。──オアシス。
 そう思って走り続け、記憶を頼りにオアシスに辿りついた時、キーファは自分のカンが正しかったことを悟った。
 澄んだ色をたたえる水辺で、彼は眠っていたのだ。
 静かな……寝顔だった。
 荒く息をついて、キーファは彼を覗き込む。
 アルスの目元が火照っている。良く見ると、睫毛や頬が濡れた後を残していた。
 そういえば、と思い出した。悲しいとき、さびしいとき、彼はいつも水のある場所にいたのだと。
 それは、浜辺であったり、船を修理していた洞窟であったり――虹の入り江を発見してからは、ほとんどがあそこだったけど。
 何を思って泣いてたんだろう?
 ――俺の、こと?
 ふとそんな都合のいいことを考えた自分に苦笑しながら、もう涙の後も残っていない頬を撫でる。
 柔らかな肌は、心地よい程度に冷たい。
 どれくらいこの水辺に居たのだろう?
 ん……と、小さく声をあげて、アルスが身じろぐ。
「……アルス?」
 声を、かける。
 そっと、小さく。
 けれど、彼は答えない。
 その優しげな面差しだけが、静かにそこにある。
 あどけない寝顔は、最期の別れだと決めたあの時よりも、ずっとずっと大人びていたけれど、整った顔立ちをしていたけれど。
 でも、面影は当時のまま、見間違えようのない、幼い寝顔。
 キーファは無言で彼の頬を撫で続ける。
 昔、良くした仕種。
 寝転がったアルスの頬を、覗き込むように撫でるのだ。それはまるで犬猫を可愛がっているようだと、マリベルが嫌そうに言っていたけど。
 でも、アルスが上目遣いにキーファを見る目は、決して嫌がってはいなかった。
 あの時のことを思い出しながら、ふと、キーファは身体を屈した。
 薄く開かれた半開きの唇に、指先を当てる。
 小さく息が零れている。愛しいほどの──温かな鼓動。
「アールス。」
 昔のように呼びかける。寝ている彼を訪ねた時、白い砂浜で寝入っていた彼の顔。
 虹色の入り江で、寝ていた彼。
 不安と恐怖を抱え込みながら、皆で宿で一泊したとき。
 かなしみの中、抱きしめたその寝顔。
 ――――船の中で、闘いの中で。
 そして。
 そうして。
 最後の告白の時、眠っていた顔。
「……………………。」
 最初のキスは、覚えてる。
 でも、最後のキスは、覚えていない。
 あれは、いつだったのだろう?
「……………………………………。」
 最後にキスしたのは――いつだった?

「たぶん 一生 彼を 愛し続けるのだろう と。」

 蘇ったのは、ハディートの言葉。
 つきん、と突き刺さるような痛みを覚えたのは、心臓が脈打つ胸。
 そうして、それらに押されるように突き動かされたのは、衝動。
 
 

 息苦しさを覚えて、開いた瞳の先。
「………………っ!!?」
 目の前にある金の髪と、唇に当るやわらかな感触に、アルスは驚いて身動きができなかった。
 見張った瞳の目前に、きらきら光る長い睫があって、それが金色に輝いていた。
 何がどうなっているのか分からず、目を白黒させているうちに、
「やっと起きたのか。」
 ごくごく当たり前のように、キーファが呟いた。
 息苦しさも、優しい感触も、何もかもが遠ざかり、アルスはどれが現実でどれが夢なのか、まるでわからなくなる。
「きー……ふぁ、さん???」
 呟いた自分の声が、しっかりとした質量をもって耳に入ってきて、あ、とアルスは気付く。
 夢じゃない、と。
 今、ここで、目の前にキーファがいるのは、「現実」なのだと。
「キーファ、だろ。」
 アルスの隣りに座り込みながら、キーファが笑った。
 その笑顔を見ながら、アルスはやっと現状を把握して、慌てたように起き上がる。
「…………どどどど、どうし…………?」
「お前なぁ、今の世の中、一人で旅するなんて、無謀だぜ? それに、記憶もないくせに、どこ行こうってんだよ?」
 尋ねようとした先を奪い取って、キーファが、ん? と指を突きつける。
 それを、おずおずと見つめながら、アルスは困ったように目を伏せた。
「それは――旅してるうちに……思い出すかなって……。」
 ああ、変わっていない。
 この愛らしいばかりの、のんきさも、なにもかも。
 愛しい彼のまま。
 俺が置いていった、俺が逃げた、彼のまま。
「俺なら、お前を帰せる。お前がどこから来たのかわかる。
 ――俺だけが、お前を帰せるんだ。アルス。」
 口にした方も、口にされた方も、これ以上はないくらいの、甘美な言葉。
 どきどきして、胸が痛くて、
「でも、キーファは……守り手で……。」
「ちゃーんと許可は取ってきたぜ。お前はおれたちの恩人だ。ちゃんと、送り届けてやる。」
 笑うキーファの言葉は、嬉しいはずなのに、胸が痛い。
 「おれたち」……その表現は正しいはずなのに、胸が痛い。
 どうして? それは、違うと、そう叫びたい。
 彼が「おれたち」というとき含まれているのは、彼らではないと、そう叫びたくなるのは――何故?
 アルスは、胸が詰まるような思いを無理に飲み込んで、ゆっくりとかぶりを振った。
「……………………だめ、だよ、やっぱり。
 だって、だって――――。」
 けど、どうしてもその先が言えない。
 そのまま言葉に詰まるアルスの頭を、キーファがクシャリと撫で回す。
「いいんだよ。いいんだ。」
 懐かしいものを見るような目で見下ろされて、わけがわからないままに、アルスは頷いた。
 それでも、と言ってしまったら、取り返しのつかないことになるような気がして、たまらなかったのだ。
 キーファは、そんなアルスに満足そうに笑いかけると、近くに投げ捨ててあった小さな荷物を手にすると、
「さ、行こうぜ?」
 未だ座り込んだままのアルスを促す。
 アルスは、とまどうように瞳を揺らしたが、さらに促すようなキーファの言葉に、立ち上がった。
「俺達の冒険の始まりだっ!」
 懐かしい言葉だと――淡く微笑みを零しながら。








6に続く