「はぁ? 一人で旅立ったぁぁっ!?」
休むことすらわずらわしい思いで駆け抜け、たどり着いた砂漠の城。
蜃気楼と陽炎が包むその城内は、吹き抜ける風が涼しく、全身を覆うような汗は一気に引いた。
けれども、別の意味で、疲れたような汗が沸き上がったのは、仕方のないことなのだと――思う。
ちょうど城に出向いていたハディートに誘われ、ジリジリと焼けている砂を見渡せるバルコニーの上にやってきたキーファは、暑さとは別の意味で込み上げてきた汗を拭いながら、ため息を零す。
それから、参ったと言いたげに頭を抱え、隣りに立つ男を見あげる。
彼は、暑さに相当参っているらしいキーファとは正反対に、涼しい顔で遠くを見ていた。
「ああ……つい一週間くらい前に。」
答える男の声は、普通に冷静であったけど、その目が――その言葉を裏切っている。
キーファはそれをしっかりと見て取り、ちっ、と荒々しく舌打ちする。
それがどういう意味から発したのか、キーファもハディートも良く分かっていた。
けれども、キーファの口から飛び出したのは、無謀な旅に出た少年のことだった。
「あんの、馬鹿っ、記憶が全然ないくせに、どこ行くつもりなんだよ……っ。」
言いながらも、彼らしいと、感じた。
アルスはそういう人だ。だれかに守られるようでありながら、そうじゃない。彼は相手のことを何よりも考えている。
だから、彼は自分を犠牲にできるのだ。
だから、運命を、背負うことの出来る人なのだ。そうなり得たのだ。
――――自分と違って。
自身の言葉から連想してしまったことに直面して、キーファは思わずうつむく。
そんな彼の明るい金の髪に埋もれる旋毛を見下ろし、ハディートは軽く眼を細める。
思い出すのは、キーファが追ってきた少年の事。
キーファと別れ、自分達に保護されることを選んだくせに、結局は自らの足で歩き出すことを選んだ少年――記憶を失っているくせに、そういう所は、初めて出会ったあの時と変わっていない。
彼は――アルスは、最後まで笑顔だった。
見送り、心配する自分たちに、これ以上心配かけないように、笑っていた。
戦う術も失っているのに、元の場所に戻るための記憶すら失っているくせに。
アルスは、彼は、大丈夫だと、そう言い切っていた。
それは、根拠のない笑顔なのに、どうしてかそれに、納得せざるを得ない自分達がいた。
それもまた、あの時と、同じ状況で。
「…………ったく、こういうときくらい――頼れよなぁ。」
がばっ、と勢い良く顔をあげたキーファが、なぁ? と同意を求めるようにハディートを見上げる。
苛立った光が見えるけれど、それすらも諦めと、しょうがないと言いながらも、そう思っていないのは見て分かった。
彼だとて、記憶が無いアルスが、前と同じような態度や行動をすることに、ホッとしているのに間違いないのである。
キーファに見上げられて、ハディートはチリリと心が痛むのを感じながらも、真摯な瞳で返した。
そうして、ゆっくりと――あえてゆっくりと、キーファを見返して告げた。
「…………できることなら、俺も追いかけて行きたいのだが──彼は許してくれない。」
「──。」
何だと、キーファが視線をあげた。
何が言いたいのだと、キーファの瞳がいぶかしむ。
そんな彼の目を見かえし、ハディートはわざとらしく、ゆったりと腕を組んだ。
空から照り付ける太陽の光が、ちりちりと二人の肌を突き刺す。
それを感じ取りながら、ハディートは先を続けた。
キーファを攻撃するように、
「あんたをも許してくれるとは思わない。」
言葉は、軽く告げられた。
けれど、それが持つ意味は遥かに大きくて、声が空気に響いたと同時、キーファはギッと彼を睨んでいた。
「そんなの──わかんねぇだろ……。」
答えたのは、とっさだった。
彼に対する反感にも近かった。
けど、口にしたとたん、それは真実のような、そんな気がしてきた。
彼は、いつも俺とともにあったのだ。
彼は、いつも俺の後ろを付いてきていた。
腕を引けば、笑って隣りに並んでくれた。
そのアルスが、どうして俺を追い返す?
ハディートは、悠然とした眼差しで、
「残る、と──言われただろう? それが良い証拠じゃないか。」
そう、せせら笑うように告げる。
ハディートの良く通る声が耳に入った瞬間、キーファはふい、と今思っていたことと別の考えが頭に浮かんだ。
アルスは、俺の隣りに居た。俺の後ろにいた。
けれど。
それはいつも、キーファがアルスの前に立っていたから。
もしも、アルスが前に立っていたのなら。
それならば。
アルスは、自分の運命に俺を巻き込んだだろうか?
ふっ、と、今まで考え様ともしなかった――いや、考えたくも無かった疑問が、ハディートの言葉によって突き刺さった。
今のアルスには記憶がない。
そのアルスは、俺を、確かに一度、拒んでいるのだ。
それは、事実で。
思い当たった瞬間、キーファは目線をあげて、ハディートと視線をかち合わせた。
二人は、互いを睨むように視線を絡み合わせる。
まるで火花が散るような感覚を覚え、身体が高揚し、このまま行けば武力に訴えるようなムードまで沸き上がる。
しかし、先に目をそらしたのはハディートであった。
ふい、と一触即発のムードが掻き消え、キーファは肩透かしを食らったような気分になる。
ハディートは、遠くを見詰めるように瞳を細めてから、ソッと……吐息づくと、
「アルスは……お前が好きだったんだ。」
不意に、呟いた。
驚いたようにキーファが視線をあげる。
ハディートは嫌そうに顔を歪めて、それでも先を続ける。
「お前も感づいてるだろうが、俺はアルスが好きだった。」
キーファの眉が跳ね上がるのを冷静に見ながら、ハディートは更に続ける。視線はキーファを見てはいなかった。
「だから、何もかもが終わった後、俺はあいつに残ってくれるように頼んだ。」
それが成功しなかったことは、キーファにも分かる。もしも成功していたのなら、アルスは「あんな形で現れること」はなかったのだろうし。
無言で先を進めるキーファの視線に答えて、ハディートが笑う。
苦い、苦い笑みであった。
「けど、アルスは先に進まなくてはいけないからと、断ったんだ。
お前と──約束したからと。」
「……約束?」
そんなこと、しただろうか?
あの時俺は、何も見えなくて、約束なんて──しなかったはずなのに?
そうだ、「逃げた相手との約束」だなんて、一体何を約定するというのだろう?
口からでまかせなんていうことを、キーファが出来るはずもなく。
ならばなおさら、一体何を約束したというのか?
密かに戸惑っているキーファに気付かず、ハディートはあえて彼を見ないようにしながら、言葉を紡いだ。
「お前が自分の道を見つけたから、自分も自分の道を探さなくてはいけないと、そう言っていた。
それが、約束なのだと。」
「………………っ。」
思いも寄らない言葉を、思いも寄らない人物から聞かされて、キーファは息を詰まらせた。
別れの最後の時まで、柔らかに微笑んでいた彼の心中で、そのような誓いが立てられていたなんて、知らなかった。
驚愕と胸に染み渡る熱い感情に、ただ目を見張るだけのキーファを、更に追いつめるようにハディートは――出来ることなら、絶対に口にしたくない言葉を口にする。
「──……そして、例えお前の心が自分から離れていようとも、たぶん、一生、彼を愛しつづけるのだろうと。」
「………………!!」
息を詰めて、驚いたように目を見開いて──キーファは、口に手を当てた。
あえてそれを見ないようにしながら、ハディートは焼け付くような思いをかみ殺し、キーファへ告げる。
これが、何よりもあの少年のためになると、良く分かっているのだから。
「俺は、かなわないと思った。──例えアルスが愛してる相手が、どうしようもない馬鹿であろうとも、俺は身を引くしかできないだろう、と──。」
言いながら振り返った先には、すでにキーファはいなかった。
城内の階段へ向けて、駆けていく背中だけが見える。
ハディートは無言でそれを見送り、やれやれと、頭を掻いた。
「アルスが幸せになれば──いいんだけどな。」
そう、呟いて。
苦い思いが胸に走ったのは、見て見ぬふりをしながら――この空の下を旅しているだろう、少年へ、小さく呟く。
「今度は……逃げるなよ。」
そうしないと、俺の立つ瀬がない。
苦笑を滲ませながら、ハディートは空を仰いだ。
空は、憎くなるくらい、蒼く奇麗に澄んでいた。
それは、あの日見た――アルスが闇の封印を解いたときに見た、美しい空の色と、良く似通っていた。
「俺が……守らないと。」
呟いた言葉は、どこか渇いていた。
もう二度と口にすることはないと思っていた言葉だった。
けど、それに昏い感情を覚えると同時、喜んでいる自分がいることを知っている。
そんな自分に嫌悪を抱きながら、それでも。
「……アルス……っ。」
キーファは、アルスの名を呼ぶ。
彼を、捜し求める。
彼がどこに向かったのかは、まるで分からないけど、水に愛されているあの子のいる場所は、すぐにわかる。
海か、湖。──オアシス。
そう思って走り続け、記憶を頼りにオアシスに辿りついた時、キーファは自分のカンが正しかったことを悟った。
澄んだ色をたたえる水辺で、彼は眠っていたのだ。
静かな……寝顔だった。
荒く息をついて、キーファは彼を覗き込む。
アルスの目元が火照っている。良く見ると、睫毛や頬が濡れた後を残していた。
そういえば、と思い出した。悲しいとき、さびしいとき、彼はいつも水のある場所にいたのだと。
それは、浜辺であったり、船を修理していた洞窟であったり――虹の入り江を発見してからは、ほとんどがあそこだったけど。
何を思って泣いてたんだろう?
――俺の、こと?
ふとそんな都合のいいことを考えた自分に苦笑しながら、もう涙の後も残っていない頬を撫でる。
柔らかな肌は、心地よい程度に冷たい。
どれくらいこの水辺に居たのだろう?
ん……と、小さく声をあげて、アルスが身じろぐ。
「……アルス?」
声を、かける。
そっと、小さく。
けれど、彼は答えない。
その優しげな面差しだけが、静かにそこにある。
あどけない寝顔は、最期の別れだと決めたあの時よりも、ずっとずっと大人びていたけれど、整った顔立ちをしていたけれど。
でも、面影は当時のまま、見間違えようのない、幼い寝顔。
キーファは無言で彼の頬を撫で続ける。
昔、良くした仕種。
寝転がったアルスの頬を、覗き込むように撫でるのだ。それはまるで犬猫を可愛がっているようだと、マリベルが嫌そうに言っていたけど。
でも、アルスが上目遣いにキーファを見る目は、決して嫌がってはいなかった。
あの時のことを思い出しながら、ふと、キーファは身体を屈した。
薄く開かれた半開きの唇に、指先を当てる。
小さく息が零れている。愛しいほどの──温かな鼓動。
「アールス。」
昔のように呼びかける。寝ている彼を訪ねた時、白い砂浜で寝入っていた彼の顔。
虹色の入り江で、寝ていた彼。
不安と恐怖を抱え込みながら、皆で宿で一泊したとき。
かなしみの中、抱きしめたその寝顔。
――――船の中で、闘いの中で。
そして。
そうして。
最後の告白の時、眠っていた顔。
「……………………。」
最初のキスは、覚えてる。
でも、最後のキスは、覚えていない。
あれは、いつだったのだろう?
「……………………………………。」
最後にキスしたのは――いつだった?
「たぶん 一生 彼を 愛し続けるのだろう と。」
蘇ったのは、ハディートの言葉。
つきん、と突き刺さるような痛みを覚えたのは、心臓が脈打つ胸。
そうして、それらに押されるように突き動かされたのは、衝動。
息苦しさを覚えて、開いた瞳の先。
「………………っ!!?」
目の前にある金の髪と、唇に当るやわらかな感触に、アルスは驚いて身動きができなかった。
見張った瞳の目前に、きらきら光る長い睫があって、それが金色に輝いていた。
何がどうなっているのか分からず、目を白黒させているうちに、
「やっと起きたのか。」
ごくごく当たり前のように、キーファが呟いた。
息苦しさも、優しい感触も、何もかもが遠ざかり、アルスはどれが現実でどれが夢なのか、まるでわからなくなる。
「きー……ふぁ、さん???」
呟いた自分の声が、しっかりとした質量をもって耳に入ってきて、あ、とアルスは気付く。
夢じゃない、と。
今、ここで、目の前にキーファがいるのは、「現実」なのだと。
「キーファ、だろ。」
アルスの隣りに座り込みながら、キーファが笑った。
その笑顔を見ながら、アルスはやっと現状を把握して、慌てたように起き上がる。
「…………どどどど、どうし…………?」
「お前なぁ、今の世の中、一人で旅するなんて、無謀だぜ? それに、記憶もないくせに、どこ行こうってんだよ?」
尋ねようとした先を奪い取って、キーファが、ん? と指を突きつける。
それを、おずおずと見つめながら、アルスは困ったように目を伏せた。
「それは――旅してるうちに……思い出すかなって……。」
ああ、変わっていない。
この愛らしいばかりの、のんきさも、なにもかも。
愛しい彼のまま。
俺が置いていった、俺が逃げた、彼のまま。
「俺なら、お前を帰せる。お前がどこから来たのかわかる。
――俺だけが、お前を帰せるんだ。アルス。」
口にした方も、口にされた方も、これ以上はないくらいの、甘美な言葉。
どきどきして、胸が痛くて、
「でも、キーファは……守り手で……。」
「ちゃーんと許可は取ってきたぜ。お前はおれたちの恩人だ。ちゃんと、送り届けてやる。」
笑うキーファの言葉は、嬉しいはずなのに、胸が痛い。
「おれたち」……その表現は正しいはずなのに、胸が痛い。
どうして? それは、違うと、そう叫びたい。
彼が「おれたち」というとき含まれているのは、彼らではないと、そう叫びたくなるのは――何故?
アルスは、胸が詰まるような思いを無理に飲み込んで、ゆっくりとかぶりを振った。
「……………………だめ、だよ、やっぱり。
だって、だって――――。」
けど、どうしてもその先が言えない。
そのまま言葉に詰まるアルスの頭を、キーファがクシャリと撫で回す。
「いいんだよ。いいんだ。」
懐かしいものを見るような目で見下ろされて、わけがわからないままに、アルスは頷いた。
それでも、と言ってしまったら、取り返しのつかないことになるような気がして、たまらなかったのだ。
キーファは、そんなアルスに満足そうに笑いかけると、近くに投げ捨ててあった小さな荷物を手にすると、
「さ、行こうぜ?」
未だ座り込んだままのアルスを促す。
アルスは、とまどうように瞳を揺らしたが、さらに促すようなキーファの言葉に、立ち上がった。
「俺達の冒険の始まりだっ!」
懐かしい言葉だと――淡く微笑みを零しながら。