傷ついた分だけ 4

 
   
 
 
 
 
 

 長い長い砂漠を横断する間、誰もが無口だった。
 頭上から降り注ぐ太陽の光が、ジリジリと一同の体力を奪って行く。
 けれどそれだけではない。
 この大地には、力があった。
 沸き上がるような大地の力。大地の精霊の力――だからこそ、大地の精霊に愛されたユバールの民は、そう体力を削ることなく砂漠を渡るはずだった。
 なのに、どうしてか一応の口は重く、誰も態度には出さないが、どこか気落ちしていた。
 特に精霊の力の加護を受けているライラにしても同じだった。
 身体は楽に砂地を踏むのに、心が重い。
 それがどうしてなのか分かりすぎるほどに分かっていた。
 何よりも、民達の心を代表するように、一番明るいはずの男が、黙り込んでいるのだ。
「……………………。」
 太陽の光が落ちてきたような奇麗な金の髪で影を作り、その下でキーファは目を伏せている。
 ただひたすら黙々と足元を見て歩く様は、どう考えても彼らしくなかった。
 先ほど別れたアルスのことを、ずっと気にしているのは目にみえて分かった。
 何しろ、無意識なのだろうけど、もう何時間も前に後にしてきた砂漠の城を振り返る回数が、一度や二度ではないのだ。
 やっと顔をあげたと思ったら、ふい、と背後を振り返る。
 そして、ため息をついて、またうつむいて歩き出す。
 これで、彼が何を考えているのかわからないという方が無理なのである。
 ただでさえでも、民のほとんどが、あの少年が居なくなったことに気落ちしているのだ。
 優しく暖かな微笑みを見ていたのが、これほど影響あったなんて、ライラ自身驚いている。
 けれど、何よりも民達の心を重くしているのは、キーファのこの態度である。
 ライラは小さく苦笑した。
 彼がユバールに残ると言ってくれたあの日から、キーファはこうして深い物思いにふけることがあった。それはいつもたった一人のことを考える時だけで……。
 こう言う時、思い知らされる。彼の心に宿っているのが、誰なのかということを。
「キーファ……そんなに心配なら、残れば良かったのに。」
「…………………………。」
 苦笑して告げたライラの台詞すら聞こえない様子で、彼は視線を下に当てている。
 これでモンスターが近づいてきたら、分かるものなのか、とライラは眉をしかめて腰に手を当てる。すると、その二人の様子に、回りからクスクスと笑い声が零れる。
「最愛の嫁さんの言葉も耳に入らないようだ。」
 笑いあう一族を見て、ライラは軽く鼻を鳴らした。
 そして、キーファの頬を軽く叩く。
「キーファ。」
「……え?」
 驚いた表情になるキーファに、半ば呆れた顔で、ライラは再び同じ言葉を紡ぐ。
「アルスさんのところに、今から戻る? って聞いたのよ。」
 全く、まるで聞いてやしない。
 呆れた表情のライラを、キーファはまっすぐに射抜いた。
 その表情は、驚きに満ちていた。けれどライラは、その中に宿る喜びの表情を見逃さない。
「アルスさんのこと、気になるのでしょう? だったら、戻ったらって言ったのよ。」
「だけど、守り手が居なくなったら……っ。」
 らしくない言い方をするキーファに、ライラは少しだけ苛立ちを覚える。
 彼がこういうのは、守り手としての責だけから来ているわけではないことを、きちんと知っているからである。
 「キーファさんは、守り手なんでしょ?」
 そういった、アルスの言葉が、心のどこかにあるからだ。
 そうでもなかったら、キーファはその辺りの割り切りはしっかり出来ているはず。
「この先、私たちがどこに行くのか、キーファは知っているでしょう? だったらすぐに追いつけるわよ……違う?」
 何も一生抜けるわけではないのだ。
 ある程度なら大丈夫だと、キーファだって分かっているだろうに。
 キーファが自ら教えてきた弟子達だっているし、ライラの父であるダーツも、まだまだ現役の戦士なのである。
 ね? と念押しするように指を突きつけるライラを見下ろし、キーファは微かに目を見張った。
 それから、ゆっくりと息を吐いて、頷く。
「…………ああ、そう、だな……。」
 そうしながら、密かに苦笑を滲ませる。
 何を、考えていたのか。
 このままアルスの元へ行って、帰ってこないつもりだったなんて――……。
「そう、だな……アルスの帰る先を知ってるのは、俺だけだし、俺だけがそれを探せる。」
 だって、アルスが帰るのは、この時代じゃない。もっと先の時代。
 あのハディートという男には、アルスを連れて行くことは出来ない時代。
 あそこから来た俺だけが、アルスを元の世界に戻せる。
 だから、俺はあそこに残らなくてはいけなかったのだ。
 決めた瞬間のキーファの瞳が、煌く。
 それこそ、キーファだと、ライラは微笑んだ。
 そんな彼女達に、民達もまた、安堵したような顔を浮かべた。
 やはり、キーファにはこうあってもらわねば、落着かないのである。

 
 
 
 

 威厳ある砂の中の城を見上げて、少年は感慨深げに瞳を細めた。
 始めて見るはずの城。始めてみるはずの人々。そして、美しくも気品ある女王。
 なのに、知っていると、心の中から誰かが告げてる。
 幸せそうに笑い合う人を見て、良かったと、胸をなで下ろしている自分がいる。
 それを認めて、アルスは感じるのだ。
 ――自分は確かに、ここに来たことがあるのだと。
 ゆっくりとした動作で城を見上げてた少年は、ふと呼ばれた気がして振り返った。
 そこには、苦い顔つきで立つ青年が居た。彼の手には、砂馬の手綱が握られている。
 その砂漠を駆け抜けるために、一等馬である。
「準備は、できたのか?」
 ハディートは、苦い声で、そう尋ねた。
 それに対し、アルスははっきりと頷く。
 そして、しっかりとした声で、彼を見上げて、告げる。
「ハディートさん、もしも、僕の仲間が見つかったら、お願いします。」
 ハディート達を始めとして、アルスの旅支度を手伝ってくれた者達は、頭を下げる彼を、苦い顔つきで見つめていた。
 本当は、このままここに引き止めるのが一番だと、誰もが口にしたいと思っている。
 なのに、顔を上げたアルスの表情は、決意の色が強くにじみ出ていて、とてもではないけれど、止めれそうにないと思わせる。
 何よりも、彼を止めれないことを、ハディートが一番良く知っていた。
 もちろんだと、頷くハディートの隣から、簡素ではあるものの、上質の絹と分かる布地でできた衣服に身を包んだ女性が、そっと進み出る。
 本来なら、このような場に現れてはおかしい人物である。
 しかし彼女は、どうしてもと、この場に姿をあらわしていた。
 灼熱の太陽の下。喉を潤すオアシスのような清涼感ある雰囲気を持つ彼女――この砂漠の城の女王は、ふくよかな胸の前で首を汲み、うかがうようにアルスを見上げる。
「アルス様……本当に、行かれるのですか?」
 それは、問いかけというよりも、確認に近かった。
 彼女自身、アルスを止めることができないと分かっていつつも、それでも確認せずにはいられないようであった。
 しっかりと頷くアルスに、苦い口調でハディートも続ける。
「記憶も戻ってないのに……無謀だ。」
 戦いの術も持たない者を、旅に出すのがどれほど危険なことか、分かっているから、ハディートは最後の最後まで渋らずにはいられない。
 何せ、無謀な戦いに挑んだ自分をいさめ、たすけてくれた人こそが、アルスであったのだから。
「……ああ、ハディート、やはりあなたが付いて行くわけには行かないのでしょうか?」
 女王が、本当に心配そうに細い眉をひそめ、ハディートを見上げる。
 その奇麗な瞳が、彼を見上げるほんの一瞬だけ、女性めいた色を宿す。
 そして、それを受けるハディート自身にも、優しい色が宿る。
「それは俺も再三申し出た。けど……。」
「ハディートさんは、この地にとって、大事な人ですから。」
 軽く肩を竦めるハディートの言葉を継いで、アルスがしっかりと言葉を紡ぐ。
 でも、と言いかける女王が、ハディートを見上げ、アルスを見上げ――それから、あきらめたように瞳をつむる。
 彼女の、女王としての威厳溢れる姿ではないそんな仕種に、ホッとした気持ちを抱く自分がいた。
 彼女が、「王」としての責務にばかり囚われていないことが、喜びだと思う自分が、アルスの中にいた。
 その気持ちを確認するように、アルスは胸元に手を当てて、そっと目を閉じた。
 けれど、答えは帰らない。
 ただ、優しい気持ちになる自分がいる。
「どうしても、行かなければならないのですね?」
 うつむいたまま、女王が呟くのに、ハディートが苦々しく口を挟もうとする。
 それよりも先に、アルスが答える。
「ここに居たからと言って、記憶が戻るわけでもないと思うのです。だから……。」
 だから、旅に出る。
 自分の記憶を取り戻す旅に。自分自身を捜すために。
 強く瞳を光らせるアルスを、どこか懐かしそうに――そして、愛しそうに見つめて、アルスを囲む人達は、口々に激励の言葉を告げた。
 旅に出るのなら、どうしてキーファ達と行かなかったのか……ハディートも女王も、それについては触れなかった。
 自分たちの知る「アルス」という少年が、自分自身にたいしては厳しい人物であったと、良くしっていたから。
「ならば、せめてコレをお持ち下さい。神官に特別に作らせてた聖水です。」
 女王が、そっと差し出してくれる物を受け取りながら、アルスは微笑みを浮かべる。
「はい……ありがとうございます。」
 大丈夫、笑える。
 自分はまだ、大丈夫。

 それに、ここでぼんやり過ごしていたら、キーファとライラのことを考えて……胸が痛いから。

「気をつけて行けよ。何かあったら、ここに来てくれ。」
 ハディートが、手の平を伸ばし、そっとアルスの頬を撫でた。
 その瞬間──一片の欠片が蘇る。
 この手に……抱きしめられたことがある。
 傷だらけの身体に手を当てて、泣きそうな気持ちで、全力で癒しをかけて――そうして、倒れた自分を、彼は抱きしめた。
 そして、この言葉で、愛してると……囁かれたことがあると。
 それが何の記憶だったかわからないけれど、確かに、衝撃のように脳裏によみがえった。
「…………………………。」
 呆然と立ち尽くすアルスに、ハディートがいぶかしげな瞳を向ける。
 良く見てみると、そこにも確かな愛情が見え隠れしているのが分かった。
 けど、分かったからといって、何になるというのだろう?
 アルスはそれを振り払うように軽く頭を振った。それは、ハディートの視線に、なんでもないと答えるようであった。
「本当に、ありがとうございます。……また、いつか。」
 振り切るように、笑って、手の平を差し出す。
 厚いハディートの手の平と握手を交わし、アルスは微笑みを浮かべた。
 頭の中に浮かんだ事は、見なかった振りをして――……。
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 ぴしゃん……水音が立つ。
 オアシスの水辺で、足を水に浸け込んでいる。
 涼しい風がアルスの顔を撫でていき、汗がすぅ、と引いた。
 けれど、うつむいて水辺を見つめるアルスの表情は暗く、重い。
 唇から零れるのは、もう会うことはないだろう人の名前。
「きー……ふぁ…………。」
 はっきりと口にしたわけでもないのに、口の中で繰り返しただけなのに。
 ……つきん、と甘い痛みが胸に走った。
 この痛みを知っている。
 僕は、この人を知っている。
 それも……──。
 そこまで思い、きゅ、とアルスは瞳を閉じた。
「……………………だって、僕も彼も……男同士、なのに……。」
 ぴしゃん、と水音が立った。
 きつく眉を顰めて、何か目にみえない物をこらえるように、唇もかみ締める。
 旅に出ても、綺麗な空を見上げて、懐かしいような風を感じても、思い出されるのはキーファのことばかり。
 溜め息が零れるのは、どうしてだろう?
 記憶は思い出されない。でも、彼の事ばかりが……ちらつく。
 膝を抱えると、チャプンと水音が立った。
「もしかして……僕………………。」
 もしかして、もう、遅いのだろうか?
 不安が、ちらりと胸にさざなみを起こす。
 記憶を失う前の僕は──一体どうだったんだろうか?
 キーファに対して、どんな気持ちを抱いていたのだろう?
 それは、友情? キーファがいうように、親友として、幼なじみとして、誰よりも彼の近くにいただけ?
 なら、この気持ちは何?
 彼が彼女といるのが、痛くて、哀しくて、切なくて。
 引き剥がして、キーファに抱き付いて、彼女の前で、彼の唇を奪って、彼は自分のものなのだと宣言して──……。
「違う……違う、違う、違う……っ!
 キーファさんは、僕のなんかじゃない……っ!」
 彼が愛してるのは、ライラという女性。優しくて、綺麗で、とても素晴らしい女性。
 ──僕じゃない。
 強くかぶりを振って、そしてそれが緩やな物へと変わり――彼は、きゅ、と地面を掻いた。
「僕じゃない……僕じゃ、ない……っ! 僕なんかじゃ…………ない……っ!!」
 呟く声が、胸に突き刺さる。
 分かっていることを繰り返しているだけなのに、胸が痛い。痛いと叫んでいる。
 熱いものが、頬を伝った。
 それを拭うことすらせず、彼は水面を睨み続けた。
 透明なそこに映るのは、自分の顔。
 泣きそうに歪んだ、どう贔屓目に見ても奇麗でも可愛くも無い顔。
 ――昔、こうして水辺で見ていた記憶がある。
 でも、その水は、これほど透明な水ではなかった。そう、キラキラ輝いていて、目に眩しいはずなのに、優しくて――あれは、どこ?
「…………………………………………っ。」
 それを思い出した瞬間、更に胸が痛くなって、アルスは無言で視線を落とした。
 湖面が波立つ。アルスの脚を優しく覆う。まるで慰めているように。
 けれど、それすらも気付かず、アルスはただ顔を伏せていた。瞳がゆがんで、映る景色が滲んでいる。何も見えなくなって、アルスはきつく目を閉じた。
 水音が優しくなびいている。
 風が、優しく吹いている。でも、心が痛い。心が苦しい。痛くて、苦しくて、切なくて……。
「………………──────キーファ………………。」
 呟いた台詞が、とても胸に痛い。
 いつのまにか、温かな雫が顎を伝っていた。
 アルスはそれを感じ取りながら、鳴咽が漏れそうになるのを必死で堪える。
「記憶を取り戻したら、こんなに苦しくなくなるのかな?」
 こんなに苦しく、なくなるのかな?
 記憶が戻ったら、彼のことがこれほど切なくなることも、ないのかな?
 きゅ、と、服の胸元を握り締めて、アルスは痛む胸を堪える。
 浮かぶのは、優しい笑顔。明るい笑顔。まるで遠い昔から見ていたような──満開の笑み。
 ぞくぞくと、背筋を這い上がるような感覚とともに、彼は堪えようのない感情を吐き出す。
「────会いたい…………。」









5に続く