長い長い砂漠を横断する間、誰もが無口だった。
頭上から降り注ぐ太陽の光が、ジリジリと一同の体力を奪って行く。
けれどそれだけではない。
この大地には、力があった。
沸き上がるような大地の力。大地の精霊の力――だからこそ、大地の精霊に愛されたユバールの民は、そう体力を削ることなく砂漠を渡るはずだった。
なのに、どうしてか一応の口は重く、誰も態度には出さないが、どこか気落ちしていた。
特に精霊の力の加護を受けているライラにしても同じだった。
身体は楽に砂地を踏むのに、心が重い。
それがどうしてなのか分かりすぎるほどに分かっていた。
何よりも、民達の心を代表するように、一番明るいはずの男が、黙り込んでいるのだ。
「……………………。」
太陽の光が落ちてきたような奇麗な金の髪で影を作り、その下でキーファは目を伏せている。
ただひたすら黙々と足元を見て歩く様は、どう考えても彼らしくなかった。
先ほど別れたアルスのことを、ずっと気にしているのは目にみえて分かった。
何しろ、無意識なのだろうけど、もう何時間も前に後にしてきた砂漠の城を振り返る回数が、一度や二度ではないのだ。
やっと顔をあげたと思ったら、ふい、と背後を振り返る。
そして、ため息をついて、またうつむいて歩き出す。
これで、彼が何を考えているのかわからないという方が無理なのである。
ただでさえでも、民のほとんどが、あの少年が居なくなったことに気落ちしているのだ。
優しく暖かな微笑みを見ていたのが、これほど影響あったなんて、ライラ自身驚いている。
けれど、何よりも民達の心を重くしているのは、キーファのこの態度である。
ライラは小さく苦笑した。
彼がユバールに残ると言ってくれたあの日から、キーファはこうして深い物思いにふけることがあった。それはいつもたった一人のことを考える時だけで……。
こう言う時、思い知らされる。彼の心に宿っているのが、誰なのかということを。
「キーファ……そんなに心配なら、残れば良かったのに。」
「…………………………。」
苦笑して告げたライラの台詞すら聞こえない様子で、彼は視線を下に当てている。
これでモンスターが近づいてきたら、分かるものなのか、とライラは眉をしかめて腰に手を当てる。すると、その二人の様子に、回りからクスクスと笑い声が零れる。
「最愛の嫁さんの言葉も耳に入らないようだ。」
笑いあう一族を見て、ライラは軽く鼻を鳴らした。
そして、キーファの頬を軽く叩く。
「キーファ。」
「……え?」
驚いた表情になるキーファに、半ば呆れた顔で、ライラは再び同じ言葉を紡ぐ。
「アルスさんのところに、今から戻る? って聞いたのよ。」
全く、まるで聞いてやしない。
呆れた表情のライラを、キーファはまっすぐに射抜いた。
その表情は、驚きに満ちていた。けれどライラは、その中に宿る喜びの表情を見逃さない。
「アルスさんのこと、気になるのでしょう? だったら、戻ったらって言ったのよ。」
「だけど、守り手が居なくなったら……っ。」
らしくない言い方をするキーファに、ライラは少しだけ苛立ちを覚える。
彼がこういうのは、守り手としての責だけから来ているわけではないことを、きちんと知っているからである。
「キーファさんは、守り手なんでしょ?」
そういった、アルスの言葉が、心のどこかにあるからだ。
そうでもなかったら、キーファはその辺りの割り切りはしっかり出来ているはず。
「この先、私たちがどこに行くのか、キーファは知っているでしょう? だったらすぐに追いつけるわよ……違う?」
何も一生抜けるわけではないのだ。
ある程度なら大丈夫だと、キーファだって分かっているだろうに。
キーファが自ら教えてきた弟子達だっているし、ライラの父であるダーツも、まだまだ現役の戦士なのである。
ね? と念押しするように指を突きつけるライラを見下ろし、キーファは微かに目を見張った。
それから、ゆっくりと息を吐いて、頷く。
「…………ああ、そう、だな……。」
そうしながら、密かに苦笑を滲ませる。
何を、考えていたのか。
このままアルスの元へ行って、帰ってこないつもりだったなんて――……。
「そう、だな……アルスの帰る先を知ってるのは、俺だけだし、俺だけがそれを探せる。」
だって、アルスが帰るのは、この時代じゃない。もっと先の時代。
あのハディートという男には、アルスを連れて行くことは出来ない時代。
あそこから来た俺だけが、アルスを元の世界に戻せる。
だから、俺はあそこに残らなくてはいけなかったのだ。
決めた瞬間のキーファの瞳が、煌く。
それこそ、キーファだと、ライラは微笑んだ。
そんな彼女達に、民達もまた、安堵したような顔を浮かべた。
やはり、キーファにはこうあってもらわねば、落着かないのである。
威厳ある砂の中の城を見上げて、少年は感慨深げに瞳を細めた。
始めて見るはずの城。始めてみるはずの人々。そして、美しくも気品ある女王。
なのに、知っていると、心の中から誰かが告げてる。
幸せそうに笑い合う人を見て、良かったと、胸をなで下ろしている自分がいる。
それを認めて、アルスは感じるのだ。
――自分は確かに、ここに来たことがあるのだと。
ゆっくりとした動作で城を見上げてた少年は、ふと呼ばれた気がして振り返った。
そこには、苦い顔つきで立つ青年が居た。彼の手には、砂馬の手綱が握られている。
その砂漠を駆け抜けるために、一等馬である。
「準備は、できたのか?」
ハディートは、苦い声で、そう尋ねた。
それに対し、アルスははっきりと頷く。
そして、しっかりとした声で、彼を見上げて、告げる。
「ハディートさん、もしも、僕の仲間が見つかったら、お願いします。」
ハディート達を始めとして、アルスの旅支度を手伝ってくれた者達は、頭を下げる彼を、苦い顔つきで見つめていた。
本当は、このままここに引き止めるのが一番だと、誰もが口にしたいと思っている。
なのに、顔を上げたアルスの表情は、決意の色が強くにじみ出ていて、とてもではないけれど、止めれそうにないと思わせる。
何よりも、彼を止めれないことを、ハディートが一番良く知っていた。
もちろんだと、頷くハディートの隣から、簡素ではあるものの、上質の絹と分かる布地でできた衣服に身を包んだ女性が、そっと進み出る。
本来なら、このような場に現れてはおかしい人物である。
しかし彼女は、どうしてもと、この場に姿をあらわしていた。
灼熱の太陽の下。喉を潤すオアシスのような清涼感ある雰囲気を持つ彼女――この砂漠の城の女王は、ふくよかな胸の前で首を汲み、うかがうようにアルスを見上げる。
「アルス様……本当に、行かれるのですか?」
それは、問いかけというよりも、確認に近かった。
彼女自身、アルスを止めることができないと分かっていつつも、それでも確認せずにはいられないようであった。
しっかりと頷くアルスに、苦い口調でハディートも続ける。
「記憶も戻ってないのに……無謀だ。」
戦いの術も持たない者を、旅に出すのがどれほど危険なことか、分かっているから、ハディートは最後の最後まで渋らずにはいられない。
何せ、無謀な戦いに挑んだ自分をいさめ、たすけてくれた人こそが、アルスであったのだから。
「……ああ、ハディート、やはりあなたが付いて行くわけには行かないのでしょうか?」
女王が、本当に心配そうに細い眉をひそめ、ハディートを見上げる。
その奇麗な瞳が、彼を見上げるほんの一瞬だけ、女性めいた色を宿す。
そして、それを受けるハディート自身にも、優しい色が宿る。
「それは俺も再三申し出た。けど……。」
「ハディートさんは、この地にとって、大事な人ですから。」
軽く肩を竦めるハディートの言葉を継いで、アルスがしっかりと言葉を紡ぐ。
でも、と言いかける女王が、ハディートを見上げ、アルスを見上げ――それから、あきらめたように瞳をつむる。
彼女の、女王としての威厳溢れる姿ではないそんな仕種に、ホッとした気持ちを抱く自分がいた。
彼女が、「王」としての責務にばかり囚われていないことが、喜びだと思う自分が、アルスの中にいた。
その気持ちを確認するように、アルスは胸元に手を当てて、そっと目を閉じた。
けれど、答えは帰らない。
ただ、優しい気持ちになる自分がいる。
「どうしても、行かなければならないのですね?」
うつむいたまま、女王が呟くのに、ハディートが苦々しく口を挟もうとする。
それよりも先に、アルスが答える。
「ここに居たからと言って、記憶が戻るわけでもないと思うのです。だから……。」
だから、旅に出る。
自分の記憶を取り戻す旅に。自分自身を捜すために。
強く瞳を光らせるアルスを、どこか懐かしそうに――そして、愛しそうに見つめて、アルスを囲む人達は、口々に激励の言葉を告げた。
旅に出るのなら、どうしてキーファ達と行かなかったのか……ハディートも女王も、それについては触れなかった。
自分たちの知る「アルス」という少年が、自分自身にたいしては厳しい人物であったと、良くしっていたから。
「ならば、せめてコレをお持ち下さい。神官に特別に作らせてた聖水です。」
女王が、そっと差し出してくれる物を受け取りながら、アルスは微笑みを浮かべる。
「はい……ありがとうございます。」
大丈夫、笑える。
自分はまだ、大丈夫。
それに、ここでぼんやり過ごしていたら、キーファとライラのことを考えて……胸が痛いから。
「気をつけて行けよ。何かあったら、ここに来てくれ。」
ハディートが、手の平を伸ばし、そっとアルスの頬を撫でた。
その瞬間──一片の欠片が蘇る。
この手に……抱きしめられたことがある。
傷だらけの身体に手を当てて、泣きそうな気持ちで、全力で癒しをかけて――そうして、倒れた自分を、彼は抱きしめた。
そして、この言葉で、愛してると……囁かれたことがあると。
それが何の記憶だったかわからないけれど、確かに、衝撃のように脳裏によみがえった。
「…………………………。」
呆然と立ち尽くすアルスに、ハディートがいぶかしげな瞳を向ける。
良く見てみると、そこにも確かな愛情が見え隠れしているのが分かった。
けど、分かったからといって、何になるというのだろう?
アルスはそれを振り払うように軽く頭を振った。それは、ハディートの視線に、なんでもないと答えるようであった。
「本当に、ありがとうございます。……また、いつか。」
振り切るように、笑って、手の平を差し出す。
厚いハディートの手の平と握手を交わし、アルスは微笑みを浮かべた。
頭の中に浮かんだ事は、見なかった振りをして――……。
ぴしゃん……水音が立つ。
オアシスの水辺で、足を水に浸け込んでいる。
涼しい風がアルスの顔を撫でていき、汗がすぅ、と引いた。
けれど、うつむいて水辺を見つめるアルスの表情は暗く、重い。
唇から零れるのは、もう会うことはないだろう人の名前。
「きー……ふぁ…………。」
はっきりと口にしたわけでもないのに、口の中で繰り返しただけなのに。
……つきん、と甘い痛みが胸に走った。
この痛みを知っている。
僕は、この人を知っている。
それも……──。
そこまで思い、きゅ、とアルスは瞳を閉じた。
「……………………だって、僕も彼も……男同士、なのに……。」
ぴしゃん、と水音が立った。
きつく眉を顰めて、何か目にみえない物をこらえるように、唇もかみ締める。
旅に出ても、綺麗な空を見上げて、懐かしいような風を感じても、思い出されるのはキーファのことばかり。
溜め息が零れるのは、どうしてだろう?
記憶は思い出されない。でも、彼の事ばかりが……ちらつく。
膝を抱えると、チャプンと水音が立った。
「もしかして……僕………………。」
もしかして、もう、遅いのだろうか?
不安が、ちらりと胸にさざなみを起こす。
記憶を失う前の僕は──一体どうだったんだろうか?
キーファに対して、どんな気持ちを抱いていたのだろう?
それは、友情? キーファがいうように、親友として、幼なじみとして、誰よりも彼の近くにいただけ?
なら、この気持ちは何?
彼が彼女といるのが、痛くて、哀しくて、切なくて。
引き剥がして、キーファに抱き付いて、彼女の前で、彼の唇を奪って、彼は自分のものなのだと宣言して──……。
「違う……違う、違う、違う……っ!
キーファさんは、僕のなんかじゃない……っ!」
彼が愛してるのは、ライラという女性。優しくて、綺麗で、とても素晴らしい女性。
──僕じゃない。
強くかぶりを振って、そしてそれが緩やな物へと変わり――彼は、きゅ、と地面を掻いた。
「僕じゃない……僕じゃ、ない……っ! 僕なんかじゃ…………ない……っ!!」
呟く声が、胸に突き刺さる。
分かっていることを繰り返しているだけなのに、胸が痛い。痛いと叫んでいる。
熱いものが、頬を伝った。
それを拭うことすらせず、彼は水面を睨み続けた。
透明なそこに映るのは、自分の顔。
泣きそうに歪んだ、どう贔屓目に見ても奇麗でも可愛くも無い顔。
――昔、こうして水辺で見ていた記憶がある。
でも、その水は、これほど透明な水ではなかった。そう、キラキラ輝いていて、目に眩しいはずなのに、優しくて――あれは、どこ?
「…………………………………………っ。」
それを思い出した瞬間、更に胸が痛くなって、アルスは無言で視線を落とした。
湖面が波立つ。アルスの脚を優しく覆う。まるで慰めているように。
けれど、それすらも気付かず、アルスはただ顔を伏せていた。瞳がゆがんで、映る景色が滲んでいる。何も見えなくなって、アルスはきつく目を閉じた。
水音が優しくなびいている。
風が、優しく吹いている。でも、心が痛い。心が苦しい。痛くて、苦しくて、切なくて……。
「………………──────キーファ………………。」
呟いた台詞が、とても胸に痛い。
いつのまにか、温かな雫が顎を伝っていた。
アルスはそれを感じ取りながら、鳴咽が漏れそうになるのを必死で堪える。
「記憶を取り戻したら、こんなに苦しくなくなるのかな?」
こんなに苦しく、なくなるのかな?
記憶が戻ったら、彼のことがこれほど切なくなることも、ないのかな?
きゅ、と、服の胸元を握り締めて、アルスは痛む胸を堪える。
浮かぶのは、優しい笑顔。明るい笑顔。まるで遠い昔から見ていたような──満開の笑み。
ぞくぞくと、背筋を這い上がるような感覚とともに、彼は堪えようのない感情を吐き出す。
「────会いたい…………。」