何を尋ねても、おびえるように瞳を揺らす少年は、何も答えはしなかった。
もしかして、別人なのかもしれないと――そうではないことを良く分かっていながら、それでも彼はそう思わずにはいられなかった。
これから先、どれほどの出会いを繰り返したとしても、彼ほど分かり合える人には出会わないだろうと思っていた。
その彼が、自分を忘れるなんて、ありえないのに。
「……別人だとは、思えないわ。」
難しい顔をしながら、ライラがカップを掲げる。
とまどい、興奮状態にあるアルスのために、飲み物を持っていくつもりだった。
そんな彼女を見ながら、ダーツが呟く。
「記憶――喪失、とか……?」
「記憶喪失っ!?」
素っ頓狂な声をあげて、キーファが眉を顰める。
聞いたことはある言葉だったけど、それがどういう意味だったのか、とっさに思い出せない。
目を見開くキーファに、族長も苦い目を見せた。
「おそらく、間違いない。頭に打った後はないが……だからと言って、無事とは限らん。」
彼も、アルスが記憶を失っている事実を受け入れたくないのか、コメカミの皺を取ろうとはしなかった。
それは、同じように眉を顰めて座っているベレッタも、黙って瞳を閉じている。
ライラが、そんな一同を見回しながら、吐息を零す。
それから、水差しの中の水を注ぐと、カップをトレイに乗せた。
「でも、アルスさんが服を脱ぐのを嫌がるから──他に傷があるか見ることも出来ないのよ。」
「アルスなら、自分で治癒の呪文が……。」
だから、他の怪我の心配なんてしなくてもいいだろう、と答えたキーファに、あきれたようにライラが眉をあげた。
「だから、記憶喪失だから……使えるかどうかなんて、わからないじゃない。」
けれど、言いながら、言ってはならないことだったと思ったようであった。だんだんと声が尻すぼみになっていく。
ついには、うかがうようにキーファを仰ぎ見た。
「………………………………。」
キーファは、黙ったままそれを聞いて、無言でライラに手を出した。
尋ねるように視線を送ったライラに、
「水。……俺が持ってくよ。」
そう、呟いた。
会いたくないというのが、本音だった。
自分でも、あまりいい別れかたをしたとは思っていない相手だったのだ。
もちろん、別れるときに後悔なんてしないと思っていたし、だからこそ、笑顔で別れた。
彼も、さみしげな瞳であったけど、笑顔であった。
その彼が、今、何かの要因で記憶を失っているなんてことになったのだとしたら、俺は、どうしたらいいと言うのだろう?
何よりも、彼の目で、彼の顔で、声で――誰、なんて、二度と聞きたくなかった。
けど、何も知らない彼を、誰かに任せるのも冗談ではなかった。
テントの中へ入ると、薄暗い中――敷かれた薄い布の上に、人影が見えた。
「アルス……?」
真っ暗になったその場で、彼はしゃがみこんでいた。キーファの声にも答えず、ただぼんやりとテントを仰いでいた。
答えがないのをいぶかしみながら、静かに近づく。
彼は声もなく泣いていた。
暗闇に溶けてしまいそうな、その透明な涙が、つきん、と胸に突き刺さった。
「アルス……? どうしたんだ? 何か怖いのか?」
迷うことなくひざを付き、アルスを見つめる。
アルスは、戸惑うように視線を泳がせる。
それから、緩慢な動作で、キーファを見た。
闇の中に浮き出るキーファの金の髪が、瞳に飛び込んできた。
「……わからない……でも、ここは、嫌……すごく、嫌………………。」
強力な光のように感じる金色の光から逃れるように、アルスは震える言葉で呟く。
アルスの、力無く震える頭を、抱きしめようと腕を伸ばす。
けれど、彼はそれを振り払った。
そして、まるでキーファが敵だと言いたげに睨み付ける。
涙に濡れた闇色の瞳をそのままに、震える喉で、彼は小さく叫ぶ。
「嫌……っ。」
拒絶の言葉に、とまどうようにキーファは腕を止める。
腕を宙に浮かせたまま、キーファは彼の名を呼んだ。
「アルス……?」
アルスは、瞳を歪めて、一度うつむいてから、キーファを見上げた。
「…………ごめん……なさい…………わからないけど…………怖いから……嫌だから………………ごめんなさい。」
かすかに肩を震わせるアルスを見ながら、キーファはふと思い出す。
彼と出会ったばかりのころ、まだ、目の前のたくましい気すらする少年ではなく――頼りない顔だった、あのころ。
まだ幼い彼は、暗闇を――光の届かない世界を、何よりも恐れていた。
夜は一人で居ることすらできないんだと、マーレがそう言っていたじゃないか。
もしかしたら、記憶を無くして、あのころの状態に戻ってしまっているのかもしれない。
そう思ったら、知らなかったとは言え、この薄暗いテントの中に一人放っておいたのは、まずかったと反省する。
「…………………………大丈夫だよ、お前は、一人じゃないから。」
まだ寝ているだろうと思ったから、火もつけずにそのままにしておいたのはいけなかった。
先ほどまでは、外の明かりが差し込んでいたテントも、日が暮れた今は、表の火を薄く取り込む程度の暗さだ。
これでは、たまらないことだろう。
キーファは元気付けるように笑い、アルスの肩を叩くと、明かりを灯すために立ち上がる。
カツン、と火打ち石を鳴らして、ランプに火をつけると、明かりがアルスに届くようにと、手元まで持ってきてやる。
煌煌と照らす光が、アルスの頬を照らし出す。
けれどアルスの瞳にはそれが映っていない。
まだ、落着かないように天井に視線を泳がせていた。
「アルス。何も思い出せなくて不安な気持ちもあるだろうけど、きっと大丈夫だから……な?」
安心させるように肩を叩くと、アルスは無言で目を上げる。
その彼に、笑顔を見せて、安心させるように頷いてやる。
それから、アルスの伸びたシャツを見た。あいかわらず袖は手首まで覆っているし、素足になっているのは、いつもブーツを履いている部分だけ。
確かにこれでは、傷があるかどうか見れるはずもなかった。
気絶している間に見れば良かったのだろうが、あんな所で見れるのは、血が出るような傷があるかないかくらいであった。
テントに運んできてからも、アルスを知っている者達の間で大騒ぎになったのだから、仕方ない。
結局、民に説明している間に、アルスが気付いてしまったのだから。
でも、本当に彼が記憶喪失なのだとしたら。
「だから、せめて身体を見せてくれよ。傷がついてないかとか……見るから。」
モンスターと戦って、記憶を失ったのだとしたら。
彼に今、傷が無いわけがないのだ。
真剣な眼差しで口にしたキーファを、アルスの濡れた瞳が見上げる。
彼は、震える唇で小さく――小さく尋ねる。
「………………………………何も、しない?」
尋ねられた瞬間、記憶が跳んだ。
あの時……この少年がまだ少年の面差しを残していた頃。
俺は彼を──強姦した。
「きー……ふぁっ……いやっ。」
船の中──二人で作った船の中、嫌がるアルスの汗の滲んだ喉に噛み付いて、両腕を拘束して──彼を、愛した。
自分の欲望のままに突き上げて、荒い息を涙混じりに吐く彼が愛しくて、何度も何度も口付けた。
「…………いやぁぁ……っ。」
「………………傷を見るだけだから。」
安心させるように笑うと、彼はおずおずと服を脱ぎ始める。
脱ぐ前に、ためらうようにキーファを見たが、キーファが頷くと、ゆっくりと上着を脱いだ。
するり、と上着が落ちる。
それを受け取って見ると、長い旅をしていたのだろう、大分擦り切れてよれよれになっていた。所々縫ったような後がある。きっと旅の途中でなんどかほつれたのだろう。
それからアルスは、シャツの裾を持ち上げた。その素肌が、思いもよらず引き締まっていた。
あの時の――旅を始めて少し立った時には、2人して二の腕の力こぶを見せ合った物であった。
キーファのそれとくらべて、アルスのそれは、あまりにも貧弱で、彼はすねたように唇を尖らせたのだ。
でも、今は違う。自分のように肉付きのいい身体では、決してないけれど、男としての姿――雄としての姿をしていた。
ここまで成長したのだと、そんな思いに駆られていたキーファは、次の刹那、息を呑んだ。
日に焼けた顔とは対照的に、白いままの身体――そこに、無数の傷が散っていた。
自分だって過激な戦闘を潜り抜けて来ているのだから、伊達じゃないくらいの傷跡がついている。男の勲章だ。
アルスの身体には、ユバール全てを守る守り手としてのキーファよりもずっと多くの、そして――それ以上に荒々しい、時には目を背けたくなるような傷痕があった。
それも一つや二つではない、幾つもの――傷痕。
「………………。」
思わず唖然として声を無くしたキーファに、アルスは脱ぎ捨てたシャツに手をかける。
そして、それを握り締めて、うつむいた。
「……おかしいよね、やっぱり……。」
苦しそうな声で、呟く。
どうやら彼は、自分の身体の傷の数が多すぎて、自分でもおかしいと思っているらしかった。
だから見せたくなかったのかと思う反面、自分と別れてからの彼が、マリベルやガボを庇って傷ついたのだと知って、胸が痛んだ。
キーファが居た時は、彼が突撃して、ガボがフォローして、アルスとマリベルが援護する。傷を負っても、すぐにアルスかマリベルが癒してくれた。特にアルスの癒しは強力で、ある程度の傷でも、傷痕一つ残らずに消え去ったのだ。
けれど、キーファがいなくなったあとは――アルスが突撃も、癒しもすべて負ったのだろう……だからこそ、彼は自分の傷を癒せず、ここまで傷を追ったのだ。残ってしまったのだ。
キーファは、アルスの手からシャツを奪い取ると、白い素肌に幾つも走った赤い傷痕に触れた。その中でも大きくて、最も古い傷――背中の重なるような傷を。
「…………頑張った、証だろ。」
そして、俺の罪の証だ。
しんみりとした、でもどこか痛いキーファの声に気付いたのだろう、アルスは無言で目をあげた。
そんな彼に、安心させるように笑いながら、キーファはアルスの身体を反転させる。
「どれ、見せてみろ……新しい傷はないな。」
族長が言っていた、頭に近い場所だとか、神経が通っている辺りを見てみるが、どこも大きな傷跡もなかったら、新しい傷もなかった。
「ということは、……どういうことだよ? 俺は考えるの苦手なんだよなぁ。」
ったく、と言いながら、キーファはアルスの脇を見ようと、彼の腕を無造作に掴んで上げさせた。
アルスは無言でそれを見守る。
「んー、脇は何にもないけど……お前、ちょっとやせすぎじゃねぇのか?」
キーファは、別れたときよりも細くなった感じのする彼にそう言いながら、腕を元に戻す。
そうして、右手の方も手にしようとした瞬間、キーファは思い出したかのように彼の右手を掴んだ。
「キーファ……さん?」
戸惑うアルスの声に耳を貸さず、右手を手元に引き寄せる。
本当に彼がアルスなら、ここにアザがあるはずだった。ライラと同じ……いや、形は違うけど、同じ様なアザが。
「…………あれ?」
しかし、そこにあったのは、記憶にあるのと違うアザであった。
アルスが嫌がるから、そのアザの話題を出したことはなかったけど、水浴びをしたときや、風呂に入ったとき、傷の手当てをしたとき、見てきたアザの形は、しっかりと覚えている。まるで別の物なわけじゃないけど、どこか形が違う。
欠けていた部分が戻ってきたような――完璧な形だ。ライラの胸にある「かけら」ではないもの。
マジマジと腕のアザを見つめるキーファに、アルスが眉を寄せる。
「……? あの……キーファ、さん?」
どこかおどおどしたような声で呼びかけられて、キーファは一瞬胸が痛むのを覚えた。
ほんの一瞬しか見せなかったはずなのに、アルスはそれを感じ取ったらしい。自分が彼を傷つけたのではないのかと、不安に思っているのがわかった。
アルスが、瞳を歪ませるのを見て、ああ、とキーファは思い出す。
彼は、誰よりも何よりも、自分のことを分かる人だったのだ。父や妹をもだました笑顔でも、アルスをだませたことはない。
彼の前でだけは、何も隠せなかった。隠す必要も無かった。
それは、彼が記憶を失った今でも同じなのだと、そう思ったら、自然と微笑みが零れた。
「…………キーファでいいよ。俺達、幼馴染なんだからさ。」
明るく言った言葉を聞いて、アルスもまた、どうしてキーファが傷ついたのか悟った。
「幼なじみ」――何も記憶は残っていないけど、 キーファにはその記憶があるのだ。
だから、彼は傷ついたような表情をしたのだ。それは、見過ごしそうな一瞬であったけど、どうしてかアルスの心に鮮明に残っていた。
キーファは、自分の方こそ傷ついた顔をしているアルスに笑いかけながら、くしゃり、と、柔らかな髪をかき乱す。
彼の髪から、懐かしい潮の匂いがした。
それは、ユバールの民として、大地の民として旅を続けるキーファには、ずいぶん縁遠くなった匂い。
胸が締め付けられるような切なさを思い出しながら、キーファは優しく彼の髪を梳いた。
いつもならアルスは、そんなキーファの仕種に、安心したような笑みを浮かべたものだけど、今、目の前にいるアルスは違った。
居心地割悪そうに身じろぎする。
キーファは手を止めて、彼を見下ろす。
アルスは、キーファの寂しげな目を見上げて、尋ねる。
「――……それじゃぁ、僕は、ここで生まれ育ったの?」
見上げるアルスの黒曜石の瞳が、あのころとは違う色を宿している。
キーファを信頼していた、純粋な目じゃない。
それは、信じるものが何も無い、迷子のそれ。
キーファすらも信じられない、悲しげな瞳。
それが、痛くて、悲しくて――キーファは、彼の瞳を見つめているのが辛くなる。
「いや……お前が生まれたのは、遠い……遠い場所だ。」
かみ締めるように呟くキーファの言葉が、とても切なくて。
アルスはうつむき、自分の胸を押さえた。
「…………そこは、キーファさんの故郷……?」
「……………………………………。」
尋ねたアルスに、キーファは答えなかった。
ただ、苦く笑って、
「おれたちは、幼なじみだったんだ。」
先ほどと同じ言葉を繰り返した。
それがどういう意味を持つのか、なんの記憶も持たないアルスにはわからなかったけど、それ以上聞いては行けないことだけはわかった。
うつむくアルスの、傷だらけの背中を、キーファの指先が無意識になぞる。
つぅ、と傷をたどる指先に、アルスは軽く肩をこわばらせるが、何も言わずそれを受け入れる。
背中の大きな十字の傷。右腕の付け根にある小さなえぐれた傷。
左腰の細く走った刃物の傷痕。
誰かが噛み付いた跡のような、右肩の傷。耳の後ろの小さな裂傷の跡。
後ろ姿だけでも、数え切れないくらいの傷痕があった。
キーファはそれを一つ一つたどる。
自分が居たころにはなかったそれ。幼なじみとして冒険したころには、思いもしなかった傷。
大きなそれと、小さなそれと、引きつれた古い傷と――あの時には、傷一つなかったのに。
アルスの身体で、自分が知らない場所なんて、一つもなかったのに。
なのに。
「…………今は、知らないものばかりだ………………。」
呟いたうつろな声に、アルスが肩越しに問いたげな視線を向けたが、キーファはそれに答えない。
本当は、「幼なじみ」なんて一言で区切れるような関係じゃなかった。
もっと深い、強いつながりを持つ関係だった。
親友で、そして――強引に始まった関係ではあったけれど、確かに、「恋人」と呼べる時期もあったのだ。
それでもアルスは俺に逆らいはしなかった。
愛してると囁いた。何度も何度も。
アルスも大好きだと返してくれた。──あの時から俺達は、本当の恋人同士になったのだ。
アルスが照れたように笑うのが好きだった。恥ずかしそうに服を着ていくのを見るのが好きだった。
アルスの、怒ったような顔が好きだった。その笑顔が……大好きだった。
イクトキの顔を見るのは、俺の特権。恥ずかしそうに顔を隠すのを、無理に目を合わせた。
「恥ずかしいから、やだって言ってるのに……っ。」
「だってお前、すっげぇ可愛いもん。」
「…………キーファのばかぁぁ。」
恋人だった。
俺が、彼の存在を苦痛に思うまでは。
自分の中の、どうしようもない気持ちを消すことが出来なくなった、あの時までは。
そして――俺がライラに惹かれた、あの運命の瞬間までは。
ユバールの民は、しばらくこの場所にとどまることになった。
アルスがここで倒れていたからには、きっと近くにマリベルとガボが居るに違いないと、キーファがそう提案したからである。
自分のために、放浪の民であるユバールがとどまることに不安を覚えたアルスにしかし、ユバールの民は、アルスのためだという言葉を喜んで受け入れた。
それどころか、アルスにとても親切にしてくれた。
「アルスさん! 身体は大丈夫?」
それは、毎朝毎朝、アルスを案じて声をかけてくれるライラにしても同じで。
今日も朝から、顔を洗っているアルスに笑いかけてくれる。
――ユバールの民は、優しい民族であった。
「あ、はい、おかげさまで、身体は大丈夫です。」
なのにどうしてか、アルスの心は晴れない。
奇麗なライラの笑顔は、上ったばかりの朝日に照らされて、まばゆいばかりだというのに。
どうしてか、気分は晴れない。毎朝毎朝、顔を洗いに来るのがおっくうにすら感じている。
みんな優しくて、親切で、何も覚えていない自分のことを思えば、感謝してもしきれないはずなのに。
なのに、ここにいるのが、苦痛に感じるときがある。
ここは……大事なものを失った場所──そんな感じが拭えない。どうしてか、落着かない。
「どこか痛くなったりとかしたら、すぐに言ってね。」
ライラが笑う。
思わず見とれるばかりの笑顔が、何故か胸に引っかかるのは、どうしてだろう? 彼女はこんな笑いかたをする人だったかと、そう思う自分がいる。
「はい。」
アルスは小さく頷いて、彼女が差し出してくれたタオルを受け取る。
水雫が滴る顔に、タオルを当てながら、アルスはキョロリと視線を迷わせる。
いつもなら、ライラと共にいる人がいない。
彼女はすぐにアルスの視線の意図に気付いて、ああ、と笑った。
「キーファは、さっき表に出ていったのよ。」
幸せそうな笑顔。
ライラは、キーファの事を口にするとき、こういう顔をする。
「表……?」
タオルを口元に当てながら、小首をかしげるアルスに、くすくすと彼女は笑う。
楽しそうな微笑み。
でも、アルスの心には痛い笑み。
「果物を取りに行ったのよ、アルスさんが好きだからって。
……ふふ、あの人、あなたには甘いわよね。」
あのひと。
その表現に、胸が痛む。
戻ってきたら、すぐにアルスさんの所に行くと思うわよ、と、アルスからタオルを受け取って、彼女は立ち去って行く。
そのしなやかな後ろ姿を見送りながら、アルスは突き放されたような感覚に、めまいを覚える。
お似合いだと思う。
二人とも、幸せそうに笑顔を交わしてる。
――当たり前だ、だって二人は、夫婦なんだから。
なのに。
「…………どうして、かな?」
こんなの間違ってると思う僕が居る。
これは、正しくないと、そう思う自分がいる。
アルスは無言で空を見上げた。
蒼い――蒼い空。
どこまでも続いているはずの空。
でも、アルスは知っていた。
続いていない空も、あるのだということを。
僕は昔……何をしたのだろう?
「…………何も、思い出せないのに……皆優しすぎて、胸が痛い。」
何よりも、記憶がないことで皆に迷惑をかけているのに──。
このまま戻らない方が幸せなのだと思う自分がいることが……怖い。