青い空はどこまでも続いている──旅をしているうちに、それは当たり前に思うようになった。
いくつもの出会い、いくつもの別れ……それは嬉しい物であったり、哀しいものであったりしたけれど、空は続いてる──別れたその人の上にも同じ空があると思うからこそ、乗り切ってこれた。
けれども、それだけではない別れもあった。それは、今までの中で一番辛くて悲しい別れだった。
あの、身を切るような別れは、この地で──この時代で最初の別れだった。
目を閉じれば、今でも鮮明に思い出せる。
思い出せない方が心穏やかであるのに──でも、一つ一つがくっきりと思い出せた。
だからこそ、辛くて哀しい思い出。
何よりも温かで、幸せで、でも──その平和さが退屈だった日々の。 今とは違う世界の、今とは違う時。
そこを離れたのは、さまざまな理由が交錯してのことだった。
後悔することは、絶対にないと思ったのだ。これは、自分が捜し求めていた道なのだから、と。
そう、後悔はしない――しない、はず……だったのに。
サンサンと輝く太陽の下で、目に眩しいばかりの緑が広がっている。
そこに立ちながら、彼は空を見上げている。
奇麗な澄んだ空――雲一つない天気は、旅日和とは言えなかったが、ピクニックをするにはちょうどいい具合であった。
何もかもを忘れて空を見上げていると、天も地も無くなるような気がするから、不思議であった。
このまま空に……風に溶け込んでしまえたら、それはどれほどの幸福だろうか?
けれど、ただの人の身でしかない彼に、そんな事が出来るはずも無く、ただ、風に身を任せるだけであった。
目を閉じ、天も地も感じず、青草の匂いに全身を預けて、風を感じる。
そうしていると、神経の全てが遠くまで飛んでいくようであった。
風に乗り、どこまでも遠く旅をする。
今も旅をしているというのに、一体これ以上、どこを旅することを望むのか?
どこまでも、と求める自分の欲求に、苦虫をかみ締めたような表情を浮かべる。
時を越えて流れていく風に乗るのを止めて、ゆっくりと瞳を開く。
目を射抜く光が、強烈に彼の瞳を焼いた。
「……つっ。」
眩しいと瞳を逸らした彼の耳に、ふと、音が届いた。
まるで音楽のように清楚な、そして耳に残る声が、風に乗って聞こえてくる。
振り返った彼の先で、思ったとおりの人物が、駆け寄ってきていた。
「キーファっ!」
すんなりと伸びた腕をあげて、彼女が手を振る。
綺麗な黒い髪を乱して、笑顔は零れんばかりのそれで、小鳥のさえずりのような声で、彼の名を呼ぶ。
その響きは、いつ聞いても、特別な気がする。
彼女は、草原を蹴るようにして、背中に翼をはやしたかのような足取りで駆けて来る。
それから息を弾ませて、彼女はキーファの隣に立った。
しゃらん、と揺れた髪を払って、彼女は笑顔で彼を見上げた。もう一つの太陽のような笑顔を見て、眩しいものを見たように、キーファは瞳を細めた。
彼女は幾つになっても綺麗だと、きっと数十年後もそう言えると、そう思える笑顔だと思った。
綺麗な綺麗な表情。
太陽の光を弾く、美しい乙女。
「ライラ……。」
顔を向けて声をかけると、彼女は呆れたような表情をした。
「ライラ、じゃないわ、キーファ! 太陽が真上に来る前には戻ってきてねっ、って言ったでしょう?」
しょうがないわね、と唇を尖らせるライラに、ああ、そうだったっけ、とキーファがとぼける。
彼女は、小さく頬を膨らませる。
その、年頃の乙女というには子供じみた仕種に、キーファは楽しそうに笑った。
あの時から……運命のあの日から、彼女はよく笑うようになった。今までの重圧の形が変ったためか、キーファが側にいるためか、それはわからなかったけれど──確実に彼女は変化していた。
それが、良い変化なのか、そうではないのか……それは、変えた本人であるキーファ自身には――分からないことなのだけれども。
ここを休息地にしようと、テントを張ったのは、砂漠に入る少し手前の谷地でのことであった。
いつも通り、休息地が決まると、守り手としてのキーファの出番は少なくなる。
今のうちに、ゆっくり休んでおきなさい、という族長の言葉を受けて、ゆっくりしようとは思ったのだけれども、数日前に立ち寄った村のことが気になっていた。
ちょっとした買い出しに立ち寄ったそこで、気になる話を聞いたのだ。
少し前まで、砂漠へとつながる唯一の谷は、霧に包まれ、どうしても越えることが出来なかったのだと。
なのに、空が晴れたとたん、普通に行き来出来るようになったのだ。
もう少し早かったら、あなたたちもここで足止めだったよ。
そう言って、作りかけの石碑を見上げて教えてくれた少年――結局彼の名前を聞くことはなかったから、少年としか言えなかったのだが。
空が暗くて、他の場所へ続く道が無くて。
空が晴れたとたん、次への道が見つかる……それって、どこかで聞いた話だよなぁ?
「やっぱ、つい最近、アルス達がここに来たってことだよなぁ?」
もう少し早かったら、この中には入れなかったに違いないのだけれども、それでも思ってしまうのだ。
もし、もう少し早くここに来ていたら、会えたかもしれない――なんて。
彼らを置いてきたのは自分だけれども、好きでそうしたわけじゃない。彼らがどうしているのか、知りたいと思う気持ちはあるのだ。
だから、いつも身につけている剣を手にして、それを身につける。
しっかりとベルトを固定させているときに、荷を解いたらしいライラが、顔を見せに来た。
彼女は、キーファが何をしているのか見つけた瞬間、顔を顰めて見せた。
「キーファもお父さん達と一緒に、狩りに行くの?
キーファにはゆっくりしてもらうって、言っていたのに。」
まるで子供のように唇を尖らせる彼女に、キーファはいぶかしげな表情を浮かべた。
「お父さん? 何のことだよ? 俺は、ちょっとこのあたりを散策してこようかなぁって思ったんだぜ?」
すると、ライラは奇麗な黒曜石の瞳を揺らし、まずいことを言っただろうか、とうつむいた。
「ライラさぁーん?」
覗き込むと、ライラは驚いたように顔を退ける。
「何を見に行くって言ったんだよ?」
「…………さ、さぁ、何だったかしら?」
つい、と視線をずらすライラのわざとらしさに、キーファはため息を零す。
そして、装備を確かめると、横に置いておいた盾を手にすると、立ち上がった。
「キーファっ……。」
咎めるように名を呼ぶライラに、キーファは、唇をつり上げて笑った。
「俺も当初の予定通り、このあたりを見回ってきます、奥さん。」
びしりっ、と背筋をただして報告するキーファに、ライラは柳眉を顰めた後、苦い顔をしてみせた。
「――……それなら、お父さんと族長と一緒に行って欲しいわ。
このあたりの谷は、モンスターが出ないらしいけど、用心のためにね。」
しょうがないわね、と言いたげに笑ったライラに、キーファも大きく頷いた。
この谷を休息地にすると決める直前に、キーファは辺りを散策していたから、大体の土地勘は出来ていた。
食料を調達するための籠を抱えている族長達の先陣をきって、キーファは先を見通す。
辺りにモンスターがいないことは良く分かっていたけれども、それでも用心に越したことはない。
特に、ここが封印されていた地だというのならば、なおさらだった。
前を慎重に見据え、族長の指示によって、民達がさまざまなものを摘んだり拾ったりしている。
キーファはそれを見守りながら、別のことを考えていた。
それは、先ほど立ち寄った村のこと。
中央に大きな石碑を建てている途中だったその村の少年――両親をモンスターに殺されたのだと、少し悲しげな表情で墓を参っていた少年、彼の言っていた事が、頭にこびりついている。
旅の人が、神父様を助けてくれた。
あの人は、見た目だけでそれを信じるのは良くないのだと、そう教えてくれた。
少し悲しそうに、でも、暖かな瞳で、そう呟いていた。
結局、「あの人」の名を聞くことはできなかったけれども、キーファはそれが、アルスだと信じていた。
彼は、「強い、けれど悲しそうな瞳をした人」と言っていた。
それがどういうことなのか、キーファは考え続ける。
アルスは……どうしたのだろう?
暇があれば、もう一度あの村に戻って、少年から話を聞こう。先ほどは、時間が無かったし。
自分の思いを確認するように、ゆっくり頷いたキーファの耳に、不意に緊迫したような族長の声が届いた。
「誰か倒れてるっ!!」
族長とダーツの二人が、近くの茂みにしゃがみこんでいた。
もしかしたら、モンスターに殺られた旅人だとかっ!?
慌てて一同が族長の側に駆け寄る。
キーファも剣を抜いて、咄嗟のことに備えて駆け寄った。
族長が低くうめく隣で、ダーツも言葉少なに様子を伝える。
駆け寄った一同も、族長が調べている人の――その姿に、衝撃が走ったかのように背筋を伸ばした。
最後に駆けつけたキーファも、何気なしに覗き込み、息を呑み込んだ。
族長の腕に抱かれた旅人は、まるで眠っているかのようであった。
さらさらと零れる漆黒の髪……閉ざされた瞳は、開かない。
目鼻立ちは当時よりも大人びて、精悍さすら宿していた──あの頃は、おとなしい子供だという印象が拭えなかったけれど、今は整った顔立ちになっている。でも、見間違えようはずがない。
「キーファ……彼は…………。」
とまどうように、ダーツがキーファを見上げる。
他の誰もが、キーファを見た。
キーファの腕が震える。瞳が、そこから離れない。
「……あ……るす?」
呟いた言葉は、掠れていた。
どうしてこんなことに、と呟く族長よりも、なによりも、キーファは知っているはずだった。
アルスがここにいるはずはないと。
彼がここにいるはずはないのだと──だって、彼は元の世界に帰ってしまったのだから。もう戻れるはずはないのだから。
似た別人ではないのかと思ったのに、どう見てもそれはアルスだった。深く被った緑色のフードは、キーファの故郷の民族衣装だし──。
「一体どうしたのだろう……?」
族長が彼の脈をはかり、安定したそれに、大丈夫だと頷く。
ダーツがホッとしたように、心配げな一同に頷いた後、腕を組んだ。
「……わからん。」
どうしてここに彼が居るというのだろう?
それに――、
「マリベルやガボはいないのかっ!? あいつらは……っ!」
慌てて我に返ったようなキーファが、族長達に向かって怒鳴る。
けれど、その答えがないのは、誰もが分かっていた。
分かっていたからこそ、重い沈黙が降りる。
そして、その沈黙を破ったのは、アルスの状態を見ていた族長であった。
「とにかく、今はアルス殿が目を覚ますのを待とう……。でなければ、何が起こったのかもわからんだろう。」
確かにそれは正論で、一同はアルスの事を心配げな眼差しで見ながらも、頷くしかなかった。
くらいくらいくらいくらいくらい……こわいこわいこわいこわいこわい………………。
闇が怖くて、そこから誰かが自分を殺しに来るようで、怖くて怖くて、しょうがなかった。
一人でベッドに寝ているのが怖くて、涙を流した。
夜が怖くて──魔が支配する世界が怖くて、自分は弱虫だった。
海が好きだった。海は自分が帰る場所だったから。海は自分が生まれた場所だったから。水は僕の味方だったから。
「怖い……。」
「だいじょうぶだよ。」
不意に振ってきた黄金の……それは、誰?
「大丈夫。俺が、お前を守ってやるからさっ!」
きらきら光る太陽のようなそれ……握り締めた手の温かさが、心に染みた。
君は…………誰だった?
「あ、目が冷めたのね、アルス君。」
目の前には、綺麗な女性がいた。
漆黒の髪を流した、どこか神秘的な雰囲気の美女。
──どこかで見たような人。
「………………あ………………。」
呟いた声が掠れている。
どれくらいの間、寝ていたのか?
目に痛いくらいの光がとても眩しくて、軽く瞳を細める。
まるで霞がかったように、頭の中が白い。
何がどうなっているのか、ゆっくりと思いだそうとしたその瞬間、
「アルスっ! 起きたのかっ!」
明るい声と共に、太陽が――太陽のような青年が飛び込んでくる。
薄暗いテントの中が、一気にパッと明るくなったようだった。
「キーファっ! そんなにうるさくしたら、アルスさん、困っちゃうでしょうっ!」
もう、と怒ったような口調で言いながらも、彼女の唇が微笑んでいる。
「悪い悪い。でもさ、アルスの事が気になって――。」
笑顔も、太陽のようだった。そう、彼は金の髪だけでなく、その全てが眩しい。
どうしてなのかわからないけど、彼の姿を見た瞬間、胸が痛んだ。
それと同時、自分は彼を知っていると思った。
でも……なぜか頭が空っぽで、何も出てこない。
「……………………。ここ、は……。」
まだ声がかすれている。
呟いた声に、キーファと呼ばれていた青年が、嬉しそうに瞳を細める。
隣に座る女性も、魅惑的な唇に笑みを刻んでいる。
二人とも、大切な人を見つめるような、優しい目をしていた。
「ここは、砂漠の少し手前……レブレサックより少し南にあたる谷だ。大丈夫、魔除けを張ってるから、モンスターは入ってこない。」
言いながら、安心させるように頭を撫でられる。
その目が、優しく自分を見詰めている。言い知れない居心地の悪さを感じながら、ジッとその目を見返す。
この人は、なぜこんなに愛しそうに見つめるのだろう?
──誰を?
僕を?
……どうして?
「…………レブレサック……。」
どこか聞き覚えのある名前。なぜか哀しいような重いような気分がする。
覚えているような気がするのに、まるで分からない。
これは、何?
「アルス。」
唐突に、肩を掴まれた。
慌てて意識を彼に戻すと、彼は、綺麗なダークブルーの瞳を向けて、真剣な表情で続けた。
「お前、一体どうしてこんなところにいたんだ? マリベルやガボも一緒なのか? それとも……。」
一気に言われて、目を瞬く。
「キーファっ! そんなに一気に言ったら、アルスさんだって困るでしょう?」
まったくもう、と彼女があきれたように注意する。
それをぼんやりと聞きながら、焦れている彼を見つめて、呟く。
「マリベル……ガボ……。」
唇にしっとりとくる、この名前は誰のもの? 誰の名前?
頭が痛い。
まるで頭の中を、霧が覆っているかのようだった。
「アルスっ、重要なことなんだ。覚えてないのか? 何が起こったのか……。」
隣からの制止の声も聞かず、キーファは手に力を込めて、覗き込む。
心配と、焦りと、それから、後悔にも似た表情が浮かんでいる。
困惑しながら、「アルス」は彼を見かえした。
「……僕は、アルスと言うの……?」
「……? 何言って……。」
とまどうキーファに、さらにアルスは言葉を続けた。
自分でも、何も分からないという表情で。
「あなたは、僕のことを知っているの? ──僕は、誰……?」