「…………ねぇ、ミネア?」
着ていた寝巻き代わりのシャツを脱ぎ捨てて、今日の服を手に取りながら、アリーナは天井を見つめながらミネアに話し掛ける。
ノロノロと──よほどショックを受けていたのだろう、ミネアの着替えの手は、いつになく遅い──アリーナを見上げて、ミネアは首を傾げる。
「どうしたの、アリーナ?」
その声も、気のせいではなく覇気が無く、少し心配になってアリーナはミネアを見た。
実の姉であるところのマーニャが、突然男になってしまったのだ。
本人はとても楽しそうであったが、ミネアの心労は辛いばかりであることは、手に取るように見て取れた。
「……うん、大丈夫?」
ベッドに腰掛けながら、ストッキングに脚を通しつつ、チラリ、と視線を走らせると、ミネアはまだ二つ目のボタンを外しているところだった。
この分だと、クリフトたちが来てもまだ、着替えが終わっていないかもしれない。
着替え終わったら、もう少し待ってもらうように──そう、ミネアが落ち着くまで待ってもらうようにお願いしに行ったほうがいいかもしれない。
「え、えぇ……大丈夫よ…………ただ──────姉さんが何を考えているのか、分からなくて……いいえ、分かるんだけど、分かりたくなくて………………はぁ。」
根っこのところはよく似ている姉妹ではあるが、なんだかんだ言いながらも、ミネアは基本的に常識人で、マーニャは少しばかり破天荒なところがある。
ミネアにとって、小さい頃から一緒に育ってきたマーニャの考えは手にとるように分かるのだが──分かるからこそ言えることがある。
なんでそんなことを考えるのか、分からない、と。
今、ミネアはまさにそんな気分だった。
「…………でも、気にしないで? 慣れてるから、こういう……姉さんのとっぴな行動には。
それで、アリーナ……何か用があったのじゃないの?」
疲れた顔に、精一杯の微笑みを浮かべるミネアがけなげで、やっぱり後でクリフトたちの部屋に行って、少し待ってもらうようにお願いしてこようと、アリーナは決意をする。
決意をしながら、うん、と一つミネアに頷いて、少し困ったように笑いかけた。
「さっき、どういうことなのか分からないことがあったんだけど……。
何が、『立派』なのかなー…………って。」
「………………──────────………………………………っっっ。」
瞬間、アリーナの尋ねる「何」が、何なのか理解して、ミネアは今度という今度こそ、意識を保つのを放棄した。
そのまま、グラリ、と傾ぐ体に、思わず万歳したくなる。
──そうだ、どうしてこんなに簡単な逃げに気づかなかったんだろう?
さっさと意識さえ放してしまえば、とりあえず現状は解決しなくても、逃げることは出来たのだ、と。
「きゃーっ!!? ミネアーっ!!?」
慌てたように下着姿でかけてくるアリーナの姿を認めながら、ミネアは自分の体がベッドの上に倒れるのを感じながら思った。
────アリーナ、その姿でクリフトさんに助けを求めにいっちゃ、さすがに気の毒よ………………。
と。
パタン──と、後ろ手にドアを閉めて、クリフトは閉めたばかりのドアに背中を押し付けた。
そのまま床に座り込んでしまいたくなるのを堪えながら、ノロノロと視線を上げる。
何度目をこすっても消えなかった幻影は、今も眼の前に立っている。
しなやかな背中に覆い被さる紫色の髪。
褐色の肌は健康的で、丸みを帯びていた形跡はまったく残ってはいない。
露出した肌の部分は、普段の「彼女」とまるで変わりはなかったが、見えている部分の輪郭はまったく別人のものだった。
──そう、旅の仲間の妖艶な踊り娘、マーニャは今、男性になっている。
「さぁって、ユーリル、クリフト、とっとと着替えましょーっ!」
おぅっ、と、腕を高く上げて笑うマーニャの前で、ユーリルは疲れたようにフラフラとベッドに近づき、そのまま前のめりにドスン、とベッドに沈み込んだ。
「──あー……もう、疲れた〜。」
シーツに頬を埋め、スリスリ、とベッドに懐くユーリルに、マーニャはあきれたように眉を寄せた。
「さっき起きたばかりじゃないの、あんた。」
その、ユーリルとクリフトの2人を、どっぷりと疲れの底に押しやった張本人は、浮かれた様子でユーリルが懐いたベッドに腰掛ける。
しどけなく長い脚をさらしだし、それを悠々と脚を高く組んだ。
「ユーリル──そっちは私のベッドですよ。」
あきらめたように背中をドアから引き剥がし、クリフトもユーリルたちの元へ向かった。
「ドッチでもいい……僕は二度寝する。」
クリフトの方に顔を向けたが、そうするとベッド際に腰掛けたマーニャの筋肉質な脚が目に飛び込んできて、ユーリルはゲンナリと顔をゆがめた。
そして、ごろん、と寝返りを打って壁の方に顔を向けた。
すると今度は、枕元に置いてあったらしい本が目に飛び込んできた。──クリフトの愛用の聖書である。
「ちょっとーっ、あたしの着替えはー?」
そのまま枕に懐き始めた少年の頭を、ポンポンとマーニャが叩く。
──イヤ、ポンポンと言うには、マーニャの力は強かった。
「いたっ、痛いって、マーニャっ!」
こらえきれず、ユーリルはマーニャの手を払いのけて、がばっ、とベッドの上に起き上がった。
そして、マーニャに叩かれた頭を片手で抑えながら、ジロリ、とマーニャを睨み上げる。
「いつもの力加減で叩くなよ! 今は男なんだから、力、強いんだろっ!?」
「あぁーら、そうだったわね。……ふむ、気をつけるわ。」
自分よりも下の目線から睨み上げてくるユーリルを、マーニャは楽しげに見下ろす。
それから、頼もしげに自分の手のひらを見つめて、ヒラリヒラリと手首を返す。
その嬉しそうなマーニャの顔に、ユーリルは苦虫を噛み潰したような顔をしてみせた。
「しょうがない、起きるか。」
しぶしぶマーニャの隣から床に降り立ったユーリルは、自分のベッドの方へと歩いて行った。
そうしながらシャツの裾に手をかけて、さっさと脱ぎ捨ててしまうユーリルに、クリフトは軽く眉を寄せた。
けれど、ベッドに腰掛けたままのマーニャがそれを一向に気にしないタチなのは分かっていたので、ただ小さく溜息を零すだけで、ユーリルの行為を咎めることはしなかった。
ユーリルはその間にも、さっさと着替えを済ましていく。
クリフトもソレに倣おうとして──自分の着替えの上に、マーニャが座り込んでいるのに気づいた。
「…………マーニャさん……。」
「え、なーに? あたしの着替え、あんたが貸してくれるの?」
ソレ、と、指先でマーニャの尻の下を指し示すと、あぁーら、とマーニャは片方に体重をかけるようにして自分が下敷きにしていた服を引きずり出した。
そしてソレを眼の前に翳すと、思いっきりよく整った顔をゆがめる。
「なぁーによー。コレ、あんたの神官服じゃない。」
見慣れた白いシャツに、緑色の長い裾引く上着。
どう見てもクリフトがいつも着ている服だと──、マーニャは鼻の頭に皺を寄せる。
「こんなの、あたしが似合うわけないじゃなーい。もっとこう、装飾品とかついた派手な服ないの?」
クリフトの神官服を彼向けて投げながら、マーニャは不満げに眉を寄せる。
空中を飛んできた自分の服を受け取って、クリフトはそのシャツを折りたたみながら、マーニャの不満げな顔を、溜息と共に見つめた。
「マーニャさん──コレは私の今日の服です。
着替えを貸すも何も、私もユーリルも替えと呼べるようなものは持ってませんからね。
──シャツくらいなら、お貸しできますが──きちんとした服なら、買ってきたほうが早いと思いますよ?」
どこかあきれた様なクリフトの台詞に、マーニャは顎に手を当てて首を傾げる。
「そうねー……それじゃ、後でアリーナとミネアと一緒に適等に見繕いに行きましょうっと。」
それまでは仕方がないから、クリフトかユーリルのズボンとシャツを借りるか、と、ドッチもそれほど大差のない形のズボンを見ながら、マーニャはもう一度足を組みなおす。
ユーリルはキッチリとズボンを締め終え、ベッドの上で正座をしながら、脱いだばかりの服を丁寧にたたんでいた。
服はきちんとたたんだほうが荷物にならないのだと、ミネアに教えられて以来、毎朝の日課になっているものだ。
ユーリルは最後の仕上げに、ベッドから降りてブーツをしっかり嵌めて──、
「それじゃ、クリフト、アリーナたちのところに様子を見に行こうぜ…………って、まだ着替えてないのか?」
とん、と最後の仕上げをして振り返ったユーリルの前には、先ほどと同じようにベッドに腰掛ける、ある意味扇情的な姿のマーニャ。
そして、未だに寝巻き代わりのシャツをまとったままのクリフトが、ベッド際で立ち尽くしている。
クリフトは、不機嫌そうに眉を寄せると、
「マーニャさんが見ている前で着替えられるわけないじゃないですか……っ。」
そう──ひどく今更なことを口にしてくれた。
「やぁーっだっ、クリフトちゃんったらv 今のあたしは男よ、お・と・こ♪ 気にしなくてもいいのよー?」
ヒラヒラと手のひらを舞わせるマーニャに、クリフトは断固として言い切る。
「気にします。──マーニャさん、目を閉じて向こうを向いてください。」
そう言い出したクリフトが、生真面目すぎるくらい生真面目で──頑固すぎるくらい頑固なのは分かっていたため、マーニャは軽く肩を竦めて見せた。
どうせこのままジーッと見つめていても、クリフトがココで着替えを始めることは絶対にない。
それが分かっているから、目を閉じてやってもいいが──素直に従うのは、少々、癪だった。
「はいはーい、分かってるわよー?
あんたが着替えをするのは、アリーナの前だけってことでしょー〜?
クリフトちゃんの、キレイなキレイなお肌は、大好きな人にしか見せないの〜vv」
キャッ、と、イヤがらせとしか思えない仕草で腰をくねられるマーニャに、クリフトが頬を赤らめて肩を震わせる。
「マーニャさんっ!!」
「きゃーっ、クリフトが怒った〜、ユーリル、負けずに言ってやれっ!!」
目を吊り上げて怒鳴りつけるクリフトに、マーニャは身軽にベッドから飛び降りて、ユーリルの方へと駆け寄っていく。
いつもの調子でそうしてくれるのはいいが、今のマーニャはユーリルよりも背丈が高い。
軽い調子で走り寄ってくるのだが、女よりもずいぶんと重い体重のおかげで、身軽いというよりも威圧感があった。
思わずユーリルは、ずさっ、と後ずさってしまう。
しかし、すばやくユーリルの背後に回りこんだマーニャは、そんなユーリルの背中を押し出して、クリフトに向ける。
「………………マーニャさん…………っ。」
ギリ、と下から睨み上げるようなクリフトの目に、ユーリルは泣きたい気持ちになった。
「──マーニャぁ……クリフトを本気で怒らせるなよ〜……。
絶対、先1週間は薬草粥だぞっ、僕らっ!?」
「いいわよー? あたし、この美貌で女の子をナンパしまくって遊ぶから〜♪」
気軽に微笑みながら後ろからプッシュするマーニャに、ユーリルは怒ったような目を向ける。
「そーゆーこと言うと、クリフトに突き出すぞっ!?」
「──……あぁっ、それはマジで勘弁よっ!?」
噛み付くように怒鳴るユーリルに、マーニャは大きく目を見開いて両手で両頬をはさみこみ、大げさに身をよじった。
「────…………って2人とも、人をなんだと思ってるんですか。」
まったく──と、口元に手を当てて、どっぷりと疲れた溜息を零したクリフトは、そのまま身を翻したかと思うと、部屋のドアに向けて歩き出した。
「って、ちょっとクリフト、どこに行くのよ?」
「宿の風呂場を借りてきて、着替えてきます。」
キッパリと答えて、クリフトはドアノブに手をかける。
このままココに居ても、無駄に時間をつぶしてしまうような気がしてならなかったからだ。
幸いにして、この宿の風呂場は、男湯と女湯と別れていて、いつでも解放されている。
脱衣所で着替えてくれば、話は早いのだ。──ついでに顔と歯でも洗ってくるかと、クリフトは溜息と共にドアノブをひねった。
とりあえず──ユーリルには悪いが、これでようやく一心地ついて、考え事ができそうな時間は得られるようである。
──だがしかし、
「あぁっ、お風呂っ!」
パッチン、と、なにやら思いついたような顔で、マーニャが指を鳴らした。
瞬間、ユーリルは自分の背筋がゾクリと悪寒に震えるのを覚えた。
クリフトもまた、イヤな予感を覚えて、さっさとドアを開いて身を廊下に躍らせる。
──が、しかし、ドアを完全に閉めるよりも先に、ドアの端に……がしり、と見慣れない指先が引っかかった。
ソレが、ユーリルのものではないことは、もちろんクリフトも知っている。
あぁ……と、嫌な展開に頭をさいなまされながら、イヤイヤ見やったドアの隙間から──ひょっこりと、満面の微笑みのマーニャ兄さんが顔を覗かせてくれた。
「ちょっと待って、クリフト! あたしも行くvv」
すっごく嬉しそうな声で、右腕でユーリルの首を締めたマーニャは、とろけるように笑った。
「…………行くって…………着替えにですか?」
それじゃ、私が部屋で着替えます。
そうクリフトが続けるのを、マーニャは許してくれなかった。
怪訝そうな表情を取り繕うクリフトに、にぃっこりと微笑むと、
「ううん、三人で一緒に入りましょ、あ・さ・ぶ・ろ♪」
「………………──────────っっっっ。」
くらり、と──眩暈を覚えて、クリフトはあやうく反対側の壁まで突っ込むところだった。
それをなんとか踏ん張って留まり、クリフトは唇を真一文字に結んでみせた。
それから、無理矢理、微笑を顔満面に貼り付けると、
「ご冗談をおっしゃるのは、そのお口だけにしてくださいね、マーニャさん。」
「いやーねー、クリフトったらv 本気よ、あたしは。」
最後の一言で、目に「マジ」と書いて告げるマーニャに、ユーリルは一瞬で血の気が引くのを覚えた。
冗談ではない!
ただでさえでも──そう、マーニャが女のときですら、アネイルで散々遊ばれたのだ。
あの時は心の奥底から、アネイルの温泉が男湯と女湯に分けられているのを喜んだものだった。
なのに、今度は──男の姿で、同じ風呂ってことっ!?
「やーだぁぁぁっ! 僕は一緒に入らない〜っ!!」
慌てて、ジタバタと足を動かし、マーニャの腕から逃げ出そうとする。
しかしマーニャは、ガッチリとユーリルを抱きしめたまま、放すことはなかった。
女の体なら、今ごろアッサリと振りほどかれているのは間違いない。
「うーん、さっすが男の体。
あきらめなさい、ユーリル。一緒に男の世界を経験しましょう!」
「そーゆーのは、クリフトで間に合ってる〜っ!」
ジタバタジタバタ、と無駄な抵抗を繰り返すユーリルを、無理矢理部屋の外に引きずりだして、マーニャは後ろ足で扉を閉める。
「ユーリル……そんな、おかしな世界に私を巻き込まないでください……っ。」
まだマーニャの腕にとらわれたままのユーリルに、そうクリフトが眦を吊り上げて叫んだ瞬間。
がちゃ……。
「……クリフト?」
すぐ近くの部屋のドアが開き、ひょこ、と亜麻色の髪の娘が顔を出した。
どこか不安そうな顔で、彼女はドアから身を乗り出し、廊下に立ち尽くすクリフト達を認めて、ぱっ、と花開くように笑った。
「やっぱりクリフト達だったわ。話し声が聞こえたから、そうかなー、って思ったんだけど。」
ニッコリと笑う彼女は、寝巻きから着替えてはいたが、いつものマントと帽子は身につけては居なかった。
「アリーナ様──すみません、騒がしかったですか?」
少し眉を曇らせてそう尋ねるクリフトに、ううん、とアリーナはかぶりを振った。
「ちょうど今から、クリフトたちの部屋に行こうと思ってたんだけど──あれ? まだクリフトもマーニャも着替えてないの?」
パチクリ、と目を瞬いてクリフトとマーニャの姿を見比べるアリーナに、マーニャはファサリと髪を掻き揚げて笑って見せた。
「そう! やっぱり着替えの前に、お風呂だと思ったのよ!」
キッパリハッキリ胸を張るマーニャの腕の中で、やっぱりもがき続けていたユーリルは、
「僕は着替え終わったから、いいよなっ!?」
勢いこんで尋ねるが、いたずらげに笑ってみせたマーニャに、つぅーん、なんて額をデコピンされて言葉を詰まらせる。
「若いものは若いもの同士、男は男同士、裸の付き合いってものがあるでしょー?」
「だから、クリフトで間に合ってるって言ってるじゃん〜っ!」
「だからっ! そういう世界に私を巻き込まないでくださいって言ってるでしょう、ユーリルっ!?」
仲良くじゃれ始めたユーリルとマーニャに叫んで、クリフトは着替えを持っていない手でこめかみを揉みながら、はぁ、と溜息を零した。
そして、ゆっくりと頭を振った後、アリーナを見やる。
「──それで姫様? 私たちの部屋に向かうところだったとおっしゃいましたけど?」
心配そうな色を宿すクリフトに、アリーナは一瞬目を落とし、こくん、と小さく頷いた。
「あのね……ミネアが、気を失っちゃって……それで、悪いけれど話し合いは、少し後にしてもらったほうがいいみたいだって、言いにきたの………………。」
いつも純粋な光に輝く瞳も、今ばかりは少し影を落としている。
不安そうに自分が出てきたドアを振り返るアリーナに、クリフトも表情を険しくさせた。
「気を……? ──あぁ、確かに……心労が酷いのは分かりますが。」
何せ、かく言うクリフトとて、起きたときから何度、気絶できたら楽になれるだろうかと思うショックを受け続けてきたのだ。
実の妹であるミネアの心痛具合を思えば、マーニャの姿を見た瞬間に気絶しなかった彼女の気丈さに褒めてやりたいくらいである。
「えぇ──ただ気絶しているだけみたいだから、このまま起きるまで寝かせてあげたほうがいいんじゃないかと思うの。
もしかしたら、それまでにマーニャが元に戻っているかもしれないし。」
胸の前に手を当てながら、そう呟くアリーナに、あっさりと答えが返って来た。
「あ、それは、ないない。」
いつのまにか体勢を変えて、ユーリルにヘッドロックをかけている最中のマーニャである。
「ないって……マーニャさん──どうして男になっているのかも分からないのに……。」
眉を寄せるクリフトに、マーニャは明るく笑って答えてくれた。
「いつ戻るのかはわかんないけど、あたしが飽きたなー、って思うまでこのままよー?
だってあたし、昨日の朝日に、こう祈ったんだもん。」
にっこり、と、特大の明るい人生設計を夢見る笑顔つきで、
「飽きるまで、男の姿になりたい! ────ってv」
「………………────────っ。」
くらぁり、と──何度目か分からない眩暈と貧血を覚えて、クリフトはヨロリと傾いだ。
必死で手を伸ばし、壁に体を預けて、なんだって? と口の中で繰り返す。
飽きるまで、男になりたいって……朝日に祈ったっ!?
「…………ぜったい……ミネアさん、もう一度気絶するでしょうね………………。」
はぁぁぁ、と、重い溜息を零すクリフトの心労にはまったく気づかず、
「んっふっふー、一度でいいから、男になって、女の子を誘ったり、男同士の付き合いって言うのをしたりー、いろいろしたかったのよねん♪ たのしみ〜vv」
マーニャは一人、今日これからのことに思いを馳せていた。
波乱万丈、派手な人生をトコトンまで楽しむだろうことは、予想の上のことである。
あるのだけれども。
「ええっ!? ということは、あの朝日の伝説って、本当なのっ!!?」
「ウッソだろーっ!? なんでマーニャのお願いなんて聞いちゃうんだよーっ!」
思わず悲鳴をあげたアリーナとユーリルの驚きの観点は、少しばかり違っているような気がした。
クリフトは、壁に懐いたまま、いっそ自分も気を失ってしまいたいと──順応力豊かなマーニャとユーリルとアリーナを見ながら、そ、と……先行きの不安を抱えたまま、溜息を零さずには居られなかった。
そうやって壁に懐いていると、全身がこれ以上動こうとするのを拒否しているように思える。
そう、起きたばかりだというのに、体中が疲れを訴えているのだ。
しかしクリフトは、この全身を覆う倦怠感が、体の疲れから来ているものではないことを自覚していた。
重い気持ちで視線を上げた先──何度見直しても変らない現実が広がっている。
それこそが、今の彼の精神を病ませている原因であった。
「やりたいことを一通りやって、それが面白くないと感じるまでは、あたしは男のままで生きるわよっ!!」
思い切り胸を張って、キッパリと言い切るマーニャは、確かに昨夜の夜までは女性であった。
しかし、彼女の自慢の女性らしい膨らみも、柔らかなラインも、何もかもが今、男性的なものへと変化している。
それを恥じるどころか、とても嬉しく思っているらしいマーニャの目は、爛々と野望に輝いている。
どうやら、聞くまでもなく、今から何をしようかしっかりと決め込んでいるらしい。
そんなマーニャの自信満々の表情に、ますますクリフトは気が滅入ってきて、視線を落とした。
そもそも──朝日にお願いごとをしたからと、本当に性別が転換してしまうことなんて、あるのだろうか?
マーニャはそうだと信じているみたいだけれど──確かに世界には、「不思議」がいくつも存在はしているから、ありえないことではない。
けれど、もしも──元の姿に戻れなかったら、マーニャはこのまま男として生きていかなくてはいけなくなる。
そうなってしまったら……どうなるのだろう?
案外マーニャは、「ま、いっか」と受け入れてしまうだろうが、ミネアはどうだろう? ……そして、これからも共に旅を続けていく、自分たちは?
「………………あぁ、考えるだけで頭痛がする……。」
そのことも色々と考えて、これからどうするのか決めなくてはいけない。
「──そういえば、まだなんだかんだでじい様たちにも説明してないんですよね……。」
それに、ミネアのことも一度様子を見に行ったほうがいいだろう。
考えれば考えるほど、唇から零れて行くのは溜息ばかり。
「…………とりあえず、着替えて来ないと。」
重くなっていく心を叱咤するように、ブルリと頭を振り、クリフトは額に落ちた前髪を掻きあげる。
そして一度強く目を閉じて、小さく深呼吸した。
逃げていても、マーニャが男になってしまったという事実がなくなるわけではないのだ。
なら、さっさと問題を解決するために動かなくてはいけないだろう。
幸いにして、当事者張本人がショックやパニックを起こしているわけではない──調子に乗っているからこそ余計に、周りの面子の精神にダメージが起きるわけだが。
「さっきは驚いちゃってそれどころじゃなかったけど、本当にマーニャ……男の人なのねー。」
感心したようなアリーナの声が耳に入ってきて、クリフトは目を開けた。
先ほどまで自分の傍に居たアリーナは、しげしげと物珍しそうにマーニャを上から下へと見つめている。
相手がれっきとした男性であったなら、そういうアリーナの行為を咎めるところだが、彼女が間近に近づいて覗き込んでいる相手はマーニャだ。
別に咎めるほどのことではないだろうと、ボンヤリとその光景を見守っていたら──、
「そうよー? ほらほら、触ってみるー?」
楽しそうに唇を吊り上げて笑うマーニャは、短いシャツの前を全開にしてアリーナにわざとらしく鼻先を近づけた。
鼻と鼻が近づくほどに間近に迫ったマーニャの顔を、アリーナはキョトンと見上げている。
「え、触るって……何が?」
不思議そうに目を瞬かせるアリーナに、マーニャが、だぁかぁらぁ、と鼻につくような甘ったるい声でアリーナの耳元に囁く。
その、非常に嬉しそうな声に、フルフルとクリフトは拳を震わせた。
「……マーニャさん……。」
多少のことは見過ごそうと思っていたが、これ以上はさすがに許すわけには行かない。
それははっきり言って、セクハラですよ、と──クリフトがそうマーニャをたしなめようとした瞬間であった。
クリフトの肩を、ぽん、と叩く手があった。
それと同時に、
「クリフト、今の内に着替えてこいよ。」
そう、すばやくユーリルが耳元で囁いてくる。
「ユーリル……。──ですが、アリーナ様が……。」
ユーリルの気持ちはありがたいし、確かにマーニャの気がそらされている今はチャンスだと思う。
思うのだが、このままではアリーナがマーニャに面白おかしく遊ばれそうな気がして仕方がない。
今すぐに引き剥がして、マーニャを風呂場に連れ出してでも、隔離する必要があるのでは──そんな不穏な眼差しをするクリフトに、おいおい、とユーリルは苦く笑う。
「大丈夫だって。マーニャとアリーナのことは、とりあえず僕がなんとか……できる…………かなぁ、って思うし。
──だから、な?」
笑顔で、クイ、と廊下の先──風呂場の方角を指し示すユーリルに、クリフトは疑い深い目を向ける。
「……もう少し自信たっぷりに言ってくれませんか? そうしないと、どうも踏ん切りが……。」
訴えるクリフトに、うーん、とユーリルは顎に手を当てて、眼の前でじゃれているアリーナとマーニャを見た。
「………………えーっと……じゃ、後は任せろ、クリフトっ!」
キリリ、と告げる凛々しい面差しのユーリルを、やはりクリフトは疑い深い眼差しで見つめた。
どう考えても、マーニャにユーリルが勝てるとは思えない。
だが、無理矢理マーニャとアリーナの間に割って入ってもらえば、きっとマーニャはユーリルで遊ぼうと考え出してくれるだろう。
そうなってくれれば、自分の懸念は解決するはずだ。
「………………──────まぁ、確かにいつまでもアリーナ様の前で寝巻きのままで居るわけにも行きませんしね…………。」
小さく吐息を零して、クリフトは手に持ったままだった着替えを抱えなおした。
「それでは、お言葉に甘えて着替えて参りますけど──ユーリル、すみませんが、マーニャさんにシャツとズボンは、あなたが貸しておいてください。
さすがに、あの姿のままで放置しておくのは、ちょっと…………。」
チラリ、と視線をマーニャに当てて訴えるクリフトに、うん、とユーリルは安請け合いをしてみせた。
そして、
「………………で、僕のシャツとズボンの替えって、どこに入ってたっけ?」
微笑みを貼り付けたまま、ステキな一言を吐いてくれた。
思わずクリフトが、米神を揉みたくなった気持ちも、理解してほしいものである。
「……馬車の中の棚入れに入っていたと思いますけど、持ってきてなかったんですか?」
「…………あれ?」
顎に指を押し当てながら、軽く首を傾げてくれたユーリルに、とっぷりとクリフトは溜息を零した。
「私の荷物の中に、私の替えのシャツとズボンがありますから──それを貸してあげてください。
着替えから戻ってきたら、一度ミネアさんの所に顔を出して、それからブライさまたちの方に説明にも行かないと。」
「ぅわ……たくさんやることあるんだな。」
眉を顰めてうんざりと呟くユーリルに、当たり前です、と──能天気なユーリルに頭痛を覚えながら苦笑を噛み殺す。
そして、チラリ、と視線を向けると、アリーナが腕まくりをして、力コブを作っているのが見えた。
今度は腕をたくし上げて、腕の太さ比べをしているらしい。
「けれど、まずユーリルがしなくてはいけないことは、アリーナ様をマーニャさんから守ること、ですからね?
お願いしましたよ?」
「大丈夫だって。………………たぶん。」
念押しするクリフトに、ニッコリ、とユーリルは笑った。
最後の一言だけは、クリフトに聞こえないようにコッソリ呟いたが──しっかりクリフトに聞こえていたらしい。
「……ユーリル。本当に、お願いしますよ?」
ジロリ、と睨みつけるようにして言われて、はーい、といい子の返事をしてみせた。
クリフトはそれでも不安そうに、ユーリルとアリーナたちを見比べていたが、最後に自分の寝巻き姿を見下ろして──しょうがないとばかりに細く吐息を零した。
それから、マーニャに気づかれないうちにと、さっさと風呂場の方角向けて歩き出そうとする。
ユーリルはようやく背中を向けて歩き出したクリフトに、ヒラヒラと手を振って、彼との約束を果たそうと、アリーナの方を向いた。
──そこでは、
「すっごい、マーニャ、いいなーっ、この力コブ〜っ!!」
楽しそうな声と顔で、アリーナが剥き出しになったマーニャの二の腕に両手を這わせて、うらやましそうに撫でていた。
「なんだ、ぜんぜん大丈夫そうじゃん。」
やっぱりクリフトは、心配性だなぁ、とユーリルが安心して近くの壁に背を預けた瞬間であった。
「──って、あれ? クリフトっ! どこに行くのーっ!!?」
今の今まで、マーニャが作った力コブに魅了されていたアリーナが、アッサリと身を翻して、クリフトの背中に声をかけたのは。
「……あっ、バカっ、アリーナっ!!」
慌ててユーリルがそんなアリーナの口を塞ごうとするが、もちろんアリーナの口から出た言葉が消えるはずもなかった。
そしてクリフトは、主君である女性から呼び止められた言葉を無視して立ち去ることが出来るほど、器用ではなかった。
「…………いえ……その、着替えをしてこようと思いまして……。」
少し困ったように微笑み、顔だけで振り返る。
そんなクリフトに、ゴメン、とユーリルは顔の前で両手を合わせて謝った。
さすがにユーリルも、アリーナが気づいてしまうなんて事は、思いも寄らなかったのだ。
アリーナは、少し離れた場所で足を止めたクリフトの腕に、彼の着替えが抱かれているのを認めて、あら、と首を傾げた。
視線を横にある宿の部屋の扉に向けて、またクリフトに視線を戻した。
「着替えって──クリフトの部屋はココでしょ?」
不思議そうに目を瞬くアリーナの純粋な眼差しに、クリフトは微妙に引き攣った笑みを浮かべる。
「いえ──私は……。」
けれど、言いかけた言葉は最後まで言えなかった。
突然、ぽんっ、とアリーナの両肩に、手の平が置かれるや否や、
「違うわよーぉ?」
満面の微笑を浮かべたマーニャが、それはそれは嬉しそうにアリーナを上から見下ろした。
「違う?」
怪訝そうに見上げるアリーナに、マーニャはゆっくりと頷いた。
「そうよ。あたしたち、今から、一緒にお風呂に入るのv
やっぱり寝汗を流してから、着替えたいしねー♪
ね、く・り・ふ・と?」
にんまり……と、マーニャは目元を緩めて笑った。
しかし、その目の奥に宿る光は、クリフトを責めている。
──あたしから逃げようだなんて、100年早いっ!
「………………マーニャさん…………っ。」
両手で着替えを抱きしめて、クリフトが困ったように眉を寄せる。
「……お風呂に入るの、マーニャとクリフトがっ!? 一緒にっ!?」
驚いたように叫ぶアリーナに、慌ててクリフトは叫ぶ。
「いぇっ、違いますよ、アリーナ様っ!? 私とマーニャさんが一緒にだなんて、とんでもない誤解ですっ!」
血相を変えるクリフトの弁明に、アリーナの両肩をしっかり掴んだまま、マーニャは彼女の耳元によく入るように良く通る声で笑った。
「やーねぇ、クリフトちゃんったら、そんなに照れなくってもー?
今はあたし、男なんだしー、一緒に裸のお付き合いしましょうよ♪」
色気溢れる声で、そう強請るマーニャの声は、女性のものなら男性の心を掴んで離さないに違いないものだった。
けれども、今のマーニャは男だった。
そして、彼女が掴んでいる相手は、男の色香にはぜんぜんまったく鈍感なアリーナであった。
アリーナは、不思議そうにマーニャとクリフトの顔を見比べている。
「しませんっ! 今は男性の体でも、マーニャさんがマーニャさんであることには変りないじゃないですかっ!!」
かすかに目元を赤らめて叫ぶクリフトに、マーニャは、フフン、と鼻先で笑った。
そして、スルリ──と、自分の腕をアリーナの首にすべられると、そのまま上半身を彼女の頭にゆだねて、アリーナの体を抱き寄せた。
「……マーニャさん……っ。」
低く名を呼ぶクリフトに、マーニャはしっとりと濡れた眼差しを向けて、唇に微笑を刻み込む。
「んふふー──じゃ、一緒に朝風呂は、アリーナと一緒に、しよーかなぁ?」
マーニャの言葉の語尾は、この上なく楽しそうに跳ね上がっていた。
「え、何? 私と一緒に入るの、マーニャ?」
「そーよv 一緒に背中の流しあいっこもしましょうね〜v 髪の毛も洗ってあげるわよ? ……手取り足取りv うふv」
極上の笑みで──楽しそうに笑うマーニャの顔が、何を望んでの発言なのか……クリフトに何を求めているのか、クリフト自身、よく分かっていた。
分かってはいたのだけど。
「そうよねー、マーニャが男になっても、マーニャはマーニャだもんねっ。」
楽しそうに笑うアリーナが、どう考えても抵抗しなさそうな事実もまた、よくわかっていたから。
「……ユーリル……巻き添えになってくださいね。」
ボソリ、とそう呟いたかと思うや否や。
「えっ、ちょ、ちょっと待て、クリフトっ!? それってどういう……っ!」
慌てて止めようとするユーリルの意思を無視して、クリフトはマーニャに向かって宣言した。
「マーニャさん……一緒に、お風呂に行きましょう…………っ。」
それは、穏やかな微笑みを浮かべての誘いには程遠い、殆ど睨みつけるようなソレではあったけれど、確かに、「お誘い」であった。
「ぅわーっ、クリフトのバカーっ!!」
だから、とっとと着替えに行けって言ったのにーっ!
────────そう叫ぶユーリルの声は、ただの悲鳴にしか聞こえなかった。
クリフトが降参を示す声を上げた瞬間、マーニャはニンマリと笑った。
「そう来なくっちゃね!」
楽しそうに笑うマーニャの言葉は、ある意味死刑宣告にも似ていた。
事実、ユーリルはそれを聞いた瞬間、ヨロリ、と体をよろめかせ、廊下の壁に手をついた。
そして、キッ、とクリフトの顔を見上げて、
「……クリフトは、僕が可愛くないんだっ!」
そんな的外れなことを叫んでくれた。
いつもなら、「何言ってるんですか、あなたは……」と呆れて見せるところであったが、今日はそんな余裕はなかった。
「何をワケの分からないことを言ってるんですか。」
ドスの効いた目と声で、ジロリ、とユーリルを黙らせる。
けれど、ユーリルもそのまま負けては居られなかった。
「クリフトは、僕がマーニャに好き勝手されてもいいと思ってるのか!?」
精一杯の反論の言葉であったけれども、クリフトはそんなユーリルの反論を見越していたかのように、ニッコリ、と頬を綻ばして、間髪いれずに答えてくれた。
「あなたの貞操よりも、アリーナさまの方が、ずっと大切です。」
キッパリはっきりとした答えだった。
「クリフト……贔屓すると、子供は拗ねるんだぞ。」
予想していた答えを、予想にたがわないそのまま返してくれたクリフトに、ユーリルは拗ねたように唇を尖らせた。
「……また大きな子供が居たものですね……私に。」
呆れたように溜息をついて、すみません、ともう一度ユーリルに謝ってから、クリフトは視線をマーニャへ戻した。
その視線の先では、未だにマーニャのたくましい腕に囚われたままの姫君が、自分が「人質」だという自覚もないまま、キョトン、とクリフトを見ていた。
愛らしいまでの表情に、クリフトは苦い笑みを隠せなかった。
「……珍しいわね……クリフトが朝風呂だなんて。」
パチパチ、と目を瞬くアリーナの台詞は、まったく自分の価値を分かっていないに違いないものであった。
そんな彼女のスベスベの頬に、マーニャはわざとらしく、スリ、と頬を寄せる。
「あたしに付き合ってくれるのよー。ほら、男の体になったばっかりだから、慣れなくって、大変でしょうってv さっすがクリフトよねぇ♪」
クリフトが目をキツクするのを、酷く楽しそうに見やりながら、マーニャはアリーナを後ろから抱きすくめたまま、ニヤニヤと笑い続ける。
そんなマーニャのイツに無く激しいスキンシップに、アリーナは軽く眉を寄せて、イヤイヤをするように顔を反らした。
「あーら、何よ、アリーナ?」
不満そうに眉を寄せるマーニャに、アリーナは片手でマーニャの頬が触れていた場所を摩りながら、
「なんだか、……マーニャのほっぺた、ザラザラするわよ?」
そう不満を零した。
スキンシップの激しいマーニャは、よくそうやってアリーナの顔に自分の頬を擦り付けることがある。
いつもは甘い香水の匂いや、心地よい酒の匂いがするものだけれども、今日はスベスベした感触は無かった。
代わりに、アリーナの頬に当たるのは痛いと感じるものだったのだ。
「ええっ!? やだっ、吹き出物かしらっ!?」
慌ててマーニャは、アリーナを開放して、自分の頬に手の平を当てた。
そして摩り上げ……、
「あぁ……髭ねー。」
「えっ、マーニャ、髭なんて生えてるのっ!?」
驚いたように目を見開くアリーナに、マーニャは明るく笑って頷く。
「そりゃ男だもん、生えるわよー。
そうね、髭の剃り方も、クリフトに手取り足取り腰取り教えてもらわないとv」
んね、と、わざとらしくクリフトにウィンクしてみせたマーニャに、クリフトは何も言わず顔を顰めるだけにした。
代わりに、マーニャから解放されたアリーナに近づき、誘導するようにアリーナをマーニャの傍から引き剥がす。
「ちょっとクリフトーっ。」
不満そうな声をあげるマーニャに背中を向けて、クリフトはアリーナの顔を見下ろす。
「アリーナ様、私たちが戻ってきましたら、一緒にブライさまの所に、マーニャさんのことをご報告に参りましょう。」
優しく微笑みながら、クリフトはアリーナに部屋へ戻るように促した。
「アリーナ様は、それまでミネアさんの傍に付いて上げてください……目覚めて誰も居なかったら、心細いと思いますから。」
甘い、とろけるような微笑だった。
「心細いのは僕の方だよ…………。」
そんなクリフトの微笑を目の当たりにして、思わずそうユーリルは壁に向かって愚痴を零したが、もちろん誰も取り沙汰してはくれなかった。
そのまま、はぁ、と壁に懐き続けていると、スク、と隣に影が落ちた。
何かと思って視線をあげると、そこには優美に立ち尽くす青年の姿があった。
「マーニャ…………。」
見上げながら、思わずそう呟くと、マーニャは軽く片目を瞑って嫣然と笑った。
「ま、しょうがないでしょ。クリフトのアリーナバカは今に始まったことじゃないわ。何せ、筋金入りだもの。」
腰に手を当てて、そう言い切ってくれるマーニャに、ユーリルは細く溜息を零した。
「…………マーニャ…………お風呂なんて、男同士で一緒に入っても、得なんて何もないと思うぞ?」
やはり、ユーリルがこだわるのはソコであった。
ジト目で睨み上げながら、思い出すのは、マーニャのセクハラとしか思えないような今までの行為の数々であった。
「あーら、何よ? 男同士ってのは、触りっことか見せっことかしないの?」
腰に手を当てて、つまんないわね、と嘯くマーニャに、やっぱりそのつもりかよ、と、ユーリルは拳を握り締めた。
そう──アネイルの温泉で、マーニャが居る女湯が異様に騒がしかったが、やはりセクハラが堂々と慣行されていたということか!
「…………しない! 絶対しないーっ!!」
「あーあ、そりゃ、あんたの場合、相手がクリフトだからよー。
見てなさい、あたしが今、正しい思春期の男のあり方を、ユーリルに教えてあげるからっ!!」
シッカと拳を突き上げてそう宣言するマーニャに、ユーリルは泣きそうに叫んだ。
「教えてくれなくてもいいーっ!!」
そんなユーリルの廊下に響く声に、クリフトは軽く眉を寄せて、
「……ほかのお客様に迷惑ですよ。」
そう、したり顔でたしなめ、隣に立っていたアリーナはアリーナで、うらやましそうにこう呟いた。
「…………なんだか楽しそう………………。」
これをユーリルが聞いていたら、きっと彼はアリーナに譲ってやる、と叫んで、クリフトからお小言を貰っただろうことは間違いない。
宿の風呂場は、早朝ということもあって、誰も居なかった。
「男湯は、少し狭いですから、三人では入れないと思いますよ? 見てみたら分かると思いますけど……。」
そう言うクリフトの台詞に従って、ひょい、と風呂場を覗き込んだのが──たぶん、油断だったのだと思われる。
それほど狭くないわよ、と、そう答えを返そうとした瞬間……クリフトは、「作戦決行」してくれたのだ。
結果として、空き放題の男湯の中で、かっぽーん、と心地よい音を立てて風呂に入っているのは、一人の青年だけであった。
確かに広いとは言えないが、それでも三人は何とか入れそうな広さの湯船に浸かる──湯気の中でも浮き立つ褐色の肌を持つ、しなやかな体の青年である。
彼は不機嫌そうに風呂の縁に顎を乗せて、脱衣所でなにやら談笑中の二つの人影を睨みつけた。
「──……ったく、ほんっと、意気地のない野郎どもねー。」
ちっ、と思わず零れた舌打ちは、仲間2人をからかい遊ぶ楽しみがなくなったからではなく、2人の意気地の無さと冒険心の無さに、ほとほと愛想が尽きたから──であると思われる。
ようやく覚悟を決めたと思ったクリフトとユーリルを従えて、悠々とお風呂場のドアを開いた途端、クリフトの先の台詞の策略にはまってしまい、こうして隔離されてしまったのだ。
──マーニャさまも、油断したものだわ。
そう零して、マーニャは頬杖を突いて溜息を零した。
──だってまさか、浴室を覗き込んだ瞬間、後ろから押されて……そのまま浴室に隔離されるなんて、誰も思いも寄らないではないか!
「マーニャさん。」
しっかりと閉じられた……さらに言えば、しっかりとカギをかけられた脱衣所と風呂場を仕切るドアの向こうから、クリフトの声が聞こえた。
まさか、マーニャの舌打ちの声が聞こえたわけじゃないとは思うのだが。
「……なーによー。」
ブッスリとした声で返すマーニャに、脱衣所の方から小さな声が零れてくる。
「ほら、やっぱり、だまされたって怒ってるじゃん、マーニャ。」
「でも、これもある意味、『一緒にお風呂に入ってる』じゃないですか。」
それほど広くない浴室には、脱衣所の声も良く響いて聞こえた。
──おかげで、確かに、退屈ではない。
ドアごしにではあるが、ユーリルとクリフトと会話をしながら入っているのだから、確かに、「一緒に入っている」と、言えなくも無い。
もちろん、マーニャが求めていた形では、無かったけれども。
「あと100数えたら、あがりませんか?」
声をかけてくるクリフトに、アリーナと一緒にしないでよ……と溜息を零しそうになりながら、マーニャは、はいはい、とヒラヒラと手を振った。──すぐに、それが彼らに見えないことに気づくと、パシャン、と音を立てて手のひらをお湯の中に沈めたが。
「はいはい、あと100数えたら、バスタオルでも差し入れてくれるのー? あと、着替えとー?」
イヤミったらしくそう笑ってやると、脱衣所の方で、ユーリルが、うっ、と言葉に詰まるのが分かった。
浴室に溢れた湯気は、当たり前だが湿気をたくさん含んでいる。
洗い場の隅の方に、申し訳程度に着ていた寝巻きを畳んでおいたのだが──もちろん、今ごろは湿気で冷たくなっているはずだ。
せっかくお湯で暖かくなった体を、冷たい衣服に包む趣味はない。
「着替えとタオルは、どうぞ脱衣所で使って下さい。こちらにご用意させて頂きましたから。
マーニャさんが着替えるときは、私もユーリルも外に出ますから。」
返って来た答えは、ほぼ百点満点に近いクリフトの微笑みつき。
してやられた、とはまさにこのことじゃないかと、マーニャは湯気にまみれてて溜息を零した。
「ったく──今日だけだからねっ、許してやるのはっ。」
風呂場に放り込まれて、問答無用で脱衣所側からカギを掛けられて。
クリフトは、無事にマーニャの視線の無い場所で着替えを済ませ、ユーリルはマーニャの魔の手から逃れた。
そしてマーニャも、──退屈を紛らわせるという形で、お風呂に入ることが出来た。
「……ミネアが気絶さえしてなかったら、もっと時間をかけて、色々リベンジしてやるところだけど……っ、ま、しょうがないわね。」
結局──ミネアが気絶したのだって、あたしのせいなんだし。
ばしゃんっ、と、大きく水音を立てて、マーニャは風呂のお湯の中に顔を半分ほど浸からせた。
ブクブクブク……と音を立てて水泡を何度か吐き出した後、手のひらで顔を洗い流して、
「クリフトー、ユーリルっ! もうあがるわよっ!!」
苛立ち紛れに、そう叫んでやった。
今夜こそ、覚えてろよ……っ。
そう、胸に誓いながら。
とりあえず、今朝は……クリフトの作戦勝ち、なようであった。