この町から東──聳え立つ霊峰には、不思議な力が宿るという伝説があるんです。
この霊峰から昇る朝日には、不思議な力があって、昇る瞬間に祈りをささげたもののお願いごとを、一つだけ叶えてくれるそうなんですよ。
──まぁ、もっとも……迷信ですけどね。
だって、この町の誰もがその朝日を毎日見ていますけど、願い事が叶ったなんて話は、とんと聞きませんし。
…………あぁ、でも。
時々……旅の方が、願い事が叶ったと、そう霊峰にお礼を言いに来ることがあるんです。
ですからもしかしたら、あの霊峰は──この宿場町に活気をもたらせてくれる、日々の恩恵をくれているのかも、しれませんね……。
この町で迎える二度目の朝──まだ夜とも表現できるだろう薄暗闇の早朝の空気中で、彼はいつものように朝の祈りを唱えていた。
辺りを染めるのは、夜露の冷たい気配。
祈りを口にする唇からは白い吐息が上り、闇の中に溶け込んでいく。
狭い宿の部屋の中には、ただ、リン、とした空気が落ちるばかりで、普段なら聞こえてくるはずの隣のベッドで寝ている人間の寝息すら聞こえてこない。
静寂の中、一通りの祈りを済ませて、青年はゆっくりと顔を上げる。
床に立てかけていた膝をずらし、肘を置いていたベッドに両手のひらを置く。
そのまま立ち上がりながら、衣についたホコリを払う。
そうしながら、ふと見上げた視線の先──にじみ出るような朝日に、あぁ……と、小さな感嘆が零れる。
窓の向こうに幻想的な姿を見せ始めた聳え立つ美しい峰──その向こうから姿をじょじょにあらわす太陽は、神々しいほどに美しい。
朝焼けがにじみこむように、紫色の雲が色を変えていく。
空が少しずつ彩られ、幾筋もの光りの尾簿が差し込んでいく。
その様が、あまりにも美しくて、青年は瞳を細めながら、窓際に立ち寄った。
カラリ、と窓を開くと、キンと冷えわたるような冷たさとともに、心地よい清廉とした風が頬を撫でた。
ブルリ、と体を震わせて、彼は窓枠に手をかけ、身を乗り出すようにして窓の外へ上半身を突き出す。
手で体を支えながら見上げるのは、だんだんとその姿を現す太陽ではなく──今自分が居る部屋の、屋根の、上。
「────…………。」
背筋を伸ばし、屋根の上を見上げようとするのだけど、構造的に少し無理があるのだろう。
視界を掠めるのは、屋根の裏側ばかりで、屋根の上を見ることは出来なかった。
これでは、「彼女たち」が、今現在屋根の上に居るのかどうかも分からない。
小さく嘆息しながら思い出すのは、早朝の祈りの前に顔を洗ってこようと、階下に降りたときのことだ。
「朝日を見るために屋根に登る」──そう言っていた仲間達が、いくら酔っていたのだとしても、屋根の上から落ちて怪我をするほど反射神経が鈍いわけじゃないことは、苦楽を共にしてきた青年もよく知っている。
問題は、そこではなくて。
「屋根の上で寝ていないといいんですけど。」
そう零しながら、青年は嘆息を覚えつつ、窓を閉め切った。
「だいぶ、お酒を過ごされていたようですし……。」
心配げな色を表情に宿し、青年は窓の向こうに滲むように広がる朝日に背を向けた。
それほど大きくない宿屋の二階の一室──二人で一部屋のこの部屋は、ベッドが二つと小さな机と椅子があるだけで、非常に狭い空間だ。
なのに、同室者がいないだけで、妙に広く感じる。
右手に見えるのが、先ほどまで自分が寝ていたベッド。
その向かいに置かれているのが──昨夜から、一度も使った形跡のない、同室者のベッドだ。
それを呆れたように目に留めて、青年は、昨夜椅子にかけたままだった上着を手に取ると、それを羽織り、きっちりとボタンをはめた。
ヒンヤリとした感触に、軽く眉を顰めてから、自分が寝ていたベッドの前に歩み寄る。
手で軽く乱れた布団を直すと、すでに温もりはなかった。
「……こんな寒い中、何を好き好んで屋根の上に昇るんでしょうね……。」
はぁ、と吐息を零し、手串で乱れた前髪を整える。
その上から、ベッドサイドに立てかけてあった背の高い帽子を被り、そのまま使用形跡のないベッドに歩み寄る。
乱暴とも言える手つきで、ヒンヤリとした毛布と布団を掴み取ると、青年はそのままの足で部屋を出た。
廊下に出たとたん、着込んだ上着の上からしみこむような冷たい空気に、ブルリと体を震わせる。
「風邪を引いても、知りませんよ……まったく。」
疲れたように呟きながらも、彼は屋根の上へ続く方向へと歩き始めた。
この宿場町に立ち寄ったのは、野宿生活が長く続いた後あった。
そろそろどこかの町で補給をしなくては、人間らしい生活が出来なくなると、そう危ぶんだ先に、ようやく立ち寄ることが出来た小さな宿場町──小さいながらも、馬車が走れる大きさの主街道を持つこの町は、旅人達が多く滞在する町。
それが、今彼ら一行が滞在二日目を迎えたこの町である。
真夜中に到着したユーリル達一行が、しばらく疲れを癒すためにこの町に滞在することを決めたのが、到着した翌日のこと。
自然、朝から自由行動を取ることになり、みんなそれぞれ、自分がやりたいことをすることになった。
──とは言っても、元から仲のよい一行のこと。
たいてい自由行動になると、用件がある者を除いては、ほとんど一緒に行動することが多い。
この日も、教会に立ち寄るつもりだったクリフトと、店の品ぞろいを確認したかったトルネコを除き、残り6人がのんびりと宿で休んでいる──はずだった。
────────なのに、帰って来たクリフトを出迎えてくれたのは、酒に酔った仲間たちの顔だった。
時刻はまだ昼過ぎ。
昼間から酒盛りかと、眉を吊り上げて怒りかけたのも、ほろ酔い加減で上機嫌の面々の、久し振りの晴れやかな顔を前に、とりあえずはくすぶりだけで収めた。
呆れは取れなかったが、長い旅の中──久し振りに立ち寄った町で、安堵と開放感を覚えた仲間達が、少しばかりハメをはずすのも仕方がないだろうと、そう考えたのである。
上機嫌の仲間達をほうっておくこともせず、愛想程度に同席する程度には、クリフトも昔に比べてだいぶ融通が利くようにはなっていた。
もっとも、すでに出来上がっている面々の中で、いつまでも素面でいられるはずもなかっただけの話とも言えたが。
そんなこんなで、クリフトも、飲めない酒をチビチビと飲みながらしばらくは付き合っていたのだ。
しかし、久し振りの飲み会と言うこともあってか、夜になだれ込んでもまだまだ引かない雰囲気に、結局、最後に参加しておきながら、最初に辞退するということになってしまった。
──できることなら、主君であるアリーナや、同室であり自分よりも年下であるところのユーリルも、その場から引きずって行きたかったところだが、本当に楽しそうな二人の顔に、出かけた言葉をつぐんだのだった。
でも、だからってまさか。
あの後も、そのまま飲み続けて──本当に朝まで飲んでいたなんて、思っても見なかった。
野宿と激戦の連続の末、辿り着いた宿で一泊した後すぐに、飲み会で盛り上がって、そのままなだれ込むように朝まで──信じられない体力だ。
……まぁ、クリフトが知らないうちに、仮眠くらいは取っていたのかもしれないが、それでも、相当ツワモノぞろいだと言えよう。
しかもその上、連日の戦いの疲れも、徹夜明けの疲れも見せず、クリフトが二階から降りてきたのを知るや否や、
「朝っ! 朝日が昇るっちゃうじゃないのっ!」
「ぅわっ、もうそんな時間っ!?」
「クリフトさんが起きてくるということは、日の出前っ!」
と、突然ワタワタと慌て初め、顔を拭くタオルを片手に呆然とするクリフトの横をすり抜け、
「屋根に登って、日の出見てくるっ!」
と──駆け出していってしまった。
残されたクリフトは、何が何やらサッパリわからず──呆然と、片付けをしなくてはいけなさそうなテーブルの上の酒盛り後を眺めるだけしかできなかった。
あれだけ飲んで、酔いつぶれてもおかしくないはずなのに……一体彼らは、どこにあんな元気があったのだろう?
そう、思うほどであった。
寝起きでまだ痺れているような感覚の残っている頭で、ぼんやりと見送った先──すでに酔っ払い集団の姿はなく、ぽつん、とクリフトは取り残されただけだった。
この後、彼らを追って屋根に行こうかどうしようか悩んだものの、結局クリフトは自室に戻り、日課である朝の祈りをすることを選んだ。
酔っ払いのすることに、早朝から付き合う気がなかったとも言う。
──向かった先が屋根の上なだけに、心配が無かったわけではないが、ここの宿の上は、屋上のようになっていて、手すりこそ無いものの、滑り落ちる心配は無い。、
そうして朝の祈りを優先したのだけど──結局祈りが終わってしまえば、彼らのことが気にかかってしょうがなかった。
屋根の上から落ちる心配はなくても──そろそろ酔いが覚めて寒さを感じはじめているのではないだろうか、とか。
「アルコールが回っている間は、暖かく感じるんでしょうけど、実際今日はすごく冷えているんですからね……。」
ブツブツと文句を言いながら、それでもしっかりと毛布と布団を手に、彼らのもとに歩いていく自分の世話焼きには、苦笑を禁じえない。
こんな風に気になるのなら、やはり朝の祈りを後にして、彼らの後を追えばよかったのかもしれない。
「──そこまでして、日の出が見たいものなんですかね……。」
ただの、酔っ払いの思いつきにしか思えないのだけど、と。
そう言い掛けて、ふとクリフトは眉を寄せた。
「日の出って……もしかして……。」
思い出すのは、昨日の昼間──そう、宿の酒場で仲間達が酒盛りを行っているなんて知らずに居たあのとき──、この町の神父から聞いた話だった。
東の峰──霊峰には、不思議な力が宿る。
「………………願いをひとつ、かなえる力………………。」
願い、ごと。
小さく呟いて、クリフトは軽く首を傾げた。
もし、それが本当なら。
自分は何を願うのだろうか?
そうして──あれほど急いで屋根に登っていった彼らは、何を望むのだろうか?
少し眉を寄せて、考えてみる。
すぐに思いつくのは、幼い頃から一緒に居た姫君の望むことだ。
彼女が心から願うなら、それはきっと、行方知れずになったままの父王達の行方。彼らの平穏。
「……──ほかの皆さんは、何を願うのでしょうね?」
願い、祈るだけですべてがかなうというのなら。
人は、誰かに救いを求めたりなどしない。
ただの、気休めに過ぎないだろうけど。
──誰もが祈るのだろうか?
この旅がいつか終わることを?
「………………それは、なんだか哀しい気がすると思うのは……わがまま、でしょうね………………。」
小さく……自嘲ぎみに笑って、クリフトはその思いを忘れ去ろうとするようにゆるくかぶりを振った。
「……くしゅんっ。」
小さくクシャミを零し、アリーナはマントの上から羽織った毛皮のコートを、強く自分の身体に巻きつけた。
辺りは薄暗闇に包まれていて、東の空は何とか紫色に染まり始めているくらい──まだ暖かさをもたらしてくれる太陽の光には程遠く見えた。
「大丈夫、アリーナ? やっぱり時間まで下に行っている?」
手の平をこすり合わせながら、ハァ、とミネアは白い吐息を手の平に吐きつけた。
そうしながら、心配そうにアリーナへと視線を走らせてくれる。
そんなミネアに、ブルリと身体を震わせながらもアリーナはかぶりを振った。
「うん、なんとか大丈夫。うー……でも寒いわねー。」
見上げた空は美しい色合いを宿し始めていて、もうすぐ日の出が拝めそうな気すらした。
──とは言うものの、もともとジッとしていることが性に合わないアリーナは、寒さも相まって、いつ来るのか分からない朝日を待ち続けるのは苦痛でしかなかった。
だからと言って今席を外したら、決定的瞬間を見逃してしまいそうで、どうにも腰が重いのは確かであった。
「ま、酔いが覚めちゃったから、しょーがないわね。」
ひらひらと手を振りながら、マーニャは毛皮のコートに頬を埋める。
そうしていても、お尻から冷えこんでくる寒さが無くなることはなかったけれども、頬の辺りは暖かくなった。
「アリーナ、寒いなら僕の毛布に一緒に入る? まだ余裕あるよ?」
首を傾げて心配そうに眉を寄せるユーリルに、アリーナは一瞬悩むように目を細めた。
毛皮のコートだけでは寒いのは本当だ。
そして、一人毛布にぬくぬくと包まっているのは、ユーリルだけだった。
毛皮のコートの上から毛布を羽織ったら、さぞかしぬくぬくになるだろう。
「うーん──邪魔じゃない?」
「ぜんぜん、その方が僕もあったかいし。」
ほら、おいでよ、と誘ってくるユーリルに、それじゃぁ、とアリーナがいそいそと彼のもとへと行こうとした瞬間、
「アリーナ、ユーリル──またクリフトさんに怒られたいの……?」
ミネアが、呆れたようにアリーナの毛皮のコートの裾を掴んで引き止めた。
グイ、と乱暴とも言える手つきでミネアの隣に座らされ、アリーナはキョトンと彼女を見上げる。
「え──でも、ミネア? 私が寒くて風邪を引いたほうが、クリフトは怒ると思うんだけど?」
「そうそう、絶対、アリーナ様に風邪を引かすなんて……とか、僕に説教を言うに違いないな。」
うんうん、とユーリルまで当たり前の顔で頷いてくれる。
アリーナも、でしょー? と理解したような顔でユーリルに同意する。
「……あー……えーっと………………。」
コリ、と、ミネアはこめかみを掻いて、視線をブライへと飛ばした。
なんとなく助けを求めようとしてみたが、ブライもブライで、唐突に覚えたらしい頭痛に、こめかみを揉んでいるのが見えた。
ミネアも同じように頭痛を覚えながら、ゆるくかぶりを振った。
そして、2人は同じように視線をマーニャに向けた。
とりあえず、この2人に向かって、「問題はソコよりも先でしょーっ!」と、突っ込んで欲しかったのだ。
さまざまな期待を送られたマーニャは、キョトンとしたユーリルとアリーナ、そして頭痛を覚えているらしいミネアとブライ、さらには少し離れたところで、あきれたように見守っているトルネコとライアンを一通り見た。
それから、クリフトが居ないと、この2人に突っ込む面子はあたししか居ないのか、と呆れて冷えた自分の頬に手を当てた。
それから、しょうがないとばかりに溜息を一つ零すと、期待に乗ってやることにした。
「あと少しの我慢よ、2人とも。
あぁ……ほら──日が昇るわ。」
マーニャは、嫣然と微笑みながら、正面を顎でしゃくってやる。
その視線の先……紺碧の空が、霊峰から滲み出した輝きに、茜色に染まり始めていた。
「──ぅわぁ…………。」
夜の闇に包まれていた霊峰の頂に積もっていた白い雪が、さんさんと黄金色に輝いて見える。
キラキラと輝く光すら肉眼で見えて、その周囲を照り映えさせる朝焼けの見事さは、言葉に表せないほどであった。
感嘆の吐息を零すユーリルは、呆然と眼を奪われた。
「──すごい、キレイ………………。」
アリーナもまた、寒さすら忘れて、陶然と訪れる夜明けに眼を見開く。
たなびく白い雲すらも、美しい色合いを宿し、だんだんと明るい色へと変って行った。
その幻想的な光景に、ユーリルもアリーナもミネアも、瞬きすることも忘れて魅入った。
あまりに神々しい光景に、眼も心も奪われてしまって、何も考えることが出来なかった。
ゆっくりと──紺色だった空が、薄い水色を宿していく。
息をすることすら忘れて、霊峰の影から姿を表す太陽を見つめた。
そうして。
「………………ふぅ。」
つめていた息を吐いたときには、霊峰の頂の上に、太陽は完全に姿を現していた。
頬に当たる柔らかな明かりは、先ほどまでの突き刺すような寒さをやわらげてくれるような暖かさを宿している。
「────すっごく、キレイだった…………。」
両手を胸の前で組み合わせて、うっとりとアリーナは呟く。
すばらしい朝日の光景は、旅に出てから何度も眼に止めたことがあった。
けれど、今日の日の出はその歴代の中でも上位に入ることは間違いないくらい、美しかった。
「うん、キレイだった。」
呆然とした雰囲気を残して、ユーリルもうっとりと呟く。
そんな彼らの言葉を受けて、ミネアも陶然とした表情を残したまま、小さく頷く。
「ええ、あれだけキレイなら、この日の出が願いをかなえてくれるって言われても、不思議はないわね。」
そして、ニッコリと笑いあって──……三人は、あ、と顔を見合わせた。
瞬間、頭にひらめいた言葉は、3人とも同じであった。
「願いごとーっ!!!」
慌てて顔を戻して、霊峰を見据えるものの、すでに霊峰から完全に姿を見せた後の日の出しか目に映らなかった。
輝く光を身にまとった太陽は、昇り始めた頃とは違って、眼に痛いほど輝いていた。
思わずまぶしげに額に手を翳して、眼を反らす。
翳した手越しにも感じ取れるほどの太陽の輝きに、一同は完全に自らの敗北を悟った。
「思いっきり、見とれちゃいましたね……。」
苦笑を刻み込むミネアに答えて、しょげながらアリーナが頷く。
「うん──せっかく、いろいろ考えたんだけどなー……。」
言いながら小さく溜息を一つ零す。
そんな彼女に、コクコクと同意を示しながらユーリルが頷いた。
「そうそう。今度、ミントスの宿でケーキバイキングがありますように、とか。」
「新しい水晶玉が手に入るくらいの、占い客が来ますように、ってお願いするつもりだったんですけど……。」
頬に手を当ててミネアが悔しそうに呟けば、
「久し振りにアネイルの温泉に行きたいと思っておったのだがのぉー。」
それは、ユーリルにお願いしたらすぐにかなうんじゃ……? というか、一人でルーラで行けば? と、思わず冷たい若者の突っ込みが入りそうなブライの独り言が続く。
さらに、
「ネネとポポロが幸せな夢を見れるように、お願いするつもりでしたんですけどねぇ……。」
そんな微笑ましいトルネコのお願いごとが、どこかうつろに響いた。
「ふむ──まぁ、だが、キレイな朝日が見れて良かったじゃないか。」
そして、それらを総括するように、ライアンが苦い笑みを刻みながら、ヤレヤレと東の空を見やった。
言いながら髭をしごきつつ──、かく言う彼は、一番気になっていた願い事はかなってしまった後なので、それほど悔しく思うような願い事はないらしい。
その──6人の前で、
「ふっふっふーん、甘いわねぇ、あんたたちも。」
赤い口紅の剥げた唇に、嫣然とした微笑を浮かべて、マーニャが誇らしげに告げた。
「えっ、それじゃ、マーニャは言えたのっ!?」
「あったりまえでしょーっ!」
驚いたように目を見開くアリーナに、軽くウィンクしてみせる。
その頬がかすかに赤く染まって見えるのは、興奮して上気しているためだろうか?
「へー……なんてお願いしたんだよ?」
明るく照らし出される太陽の光が、頬や髪にぬくもりを伝えてくる。
その暖かさに、なんだか眠気を誘われて、ユーリルは小さくあくびを噛み殺した。
──そういえば、丸々1日近く起きっぱなしなのだ。
いいかげん、体がだるさを訴えていた。
もうそろそろ、下に降りてもいいかもしれない。
「内緒に決まってるでしょ? お願いごとって言うのはね、口に出したら効果なくなるの。」
分かりきってることじゃないの、と、立てた人差し指を振るようにして笑って見せたマーニャに、あきれたようにミネアが片目を瞑った。
「そんなに大層なお願いごとなの、姉さん?」
そんな妹に、
「──ま、栓もない夢だけど、ね。」
ニッコリと笑うマーニャが、楽しげに笑ってみせる。
「ちぇ……ケチだなぁ。」
ユーリルはもう一度湧き出たあくびを、手のひらの奥で掻き消して、両目を閉じた。
そのまま伸びをして、そろそろ行くかと、一同を見回す。
せっかく暖かくなってきたところだけれど、もう朝日は昇ったのだから、いつまでもココに居る必要はないだろう。
「下でもう一杯軽く引っ掛けて、もう寝るとするか。」
ライアンも、ユーリルの意見に賛成の意を示して、立ち上がって背中を撓らせる。
「そうですね。──結局、願いが叶いそうなのはマーニャさんくらいなんですから、私たちは夢の中でだけ、願いを叶えさせて貰うとしましょうか。」
トルネコが朗らかに笑って、さて、と声に出しながら起き上がろうとした。
──刹那、カタン、と小さな音がして、宿の中へと続く扉が開いた。
「みなさん……まだいらっしゃいます? ──あ、居た。」
ノンビリとした声音と共に姿をあらわしたのは、一人の青年だった。
茜色の光さす朝焼けの中、淡い赤色に肌を染めた青年は、一瞬まぶしそうに東の空を見つめた。
その両腕には、抱え込んだ毛布が抱かれている。
「あれ? クリフト? どうしたんだよ、そんなの持って。」
確か、自分たちが屋根に登る前に、朝の祈りの前に顔を洗いに来たと言っていたはずだ。
もう朝日も昇っているのに、いまさら日の出を見に来たというのか?
そう不思議そうに目を瞬くユーリルのそばで、寒そうに毛皮のコートを引き寄せているアリーナを認めて、クリフトは軽く眼を細めた。
「ええ、まだいらっしゃるなら、毛布でもと思ってきたんですけど──すっかり日が昇ってしまいましたね。」
そう口にしながら、クリフトは広げた毛布をアリーナの肩にかけてやる。
抱き寄せ続けていたためか、クリフトの体温でほんのりと暖かくなったソレは、アリーナの体をやわらかく抱きとめてくれた。
「──ぅわぁ、あったかい。ありがとう、クリフト。」
ニッコリと微笑むアリーナに微笑み返して、クリフトは寒そうな格好をしている──想像通り、日の出前の屋根の上するような格好じゃない仲間達を見回りながら、開いたままの扉を指し示した。
「もう用がないなら、このまま下に降りませんか? 宿のおかみさんに頼んで、暖かい飲み物でも入れてもらいましょう。
────あと、酔い覚ましの水とね。」
そう笑って見せたクリフトに、アリーナは柔らかな布に頬を預けながら、うん、と一つ頷いた。
「そうね──キレイな日の出も拝めましたし、降りましょう。」
「──だな……ま、それだけでも由とするか。」
ひょい、と肩を竦めたユーリルが零した台詞に、あれ、とクリフトは眉を寄せた。
「……お願いごとをしたのではなかったのですか?」
首を傾げて尋ねるクリフトから、わざとらしく視線をそらした。
「それは聞かないお約束ー。」
更に、両手で耳を封じて、向こう側を見るというわざとらしい行動までしてくれた。
「……はい??」
思いっきり眉を寄せたクリフトの肩を、にんまりと笑ってマーニャが叩いた。
「ま、気にしない、気にしない。
──さ、降りましょ!」
、ただ一人願い事をすることが出来たマーニャは、その心を代弁するかのように、ウキウキと笑って親指を突きたてた。
パチリ、と目が冷めた時、窓はようやく薄明かりを照らし出したときだった。
日の出に間に合ったわけではないが、それでもまだ朝も早い時間であることがわかる。
辺りはシンと静まり返っていて、耳にシーンとした音までが聞こえてきそうだった。
その中、ムクリ、と起き上がって、マーニャは寝乱れた髪を掻き揚げた。
なんだか体がずいぶんと鈍く重くなっているような気がしてならなかったが、寝ぼけた眼をこすりながら思い出すのは、自分が相当寝続けたということだった。
「んー……確かぁ、3日前の真夜中にココに着いて、それから、おとついの朝から酒盛りして……で、気づいたら昨日の明け方で──そうそう、日の出を見てお願い事をしたんだったわよねー。」
渇いた唇をペロリと舐めて──ふと、マーニャは違和感の正体に気づいたような気がした。
髪を掻き揚げていた手をおろし、己の肌に這わせる。
ざらり、とした感触に、マーニャは軽く眉を寄せた。
それから、自分の考えが正しいことなのかどうか確かめるために、胸元に手を当てる。
続いて、そのまま視線を下に落とした。
「あら……あらあらあらあら………………。
………………お願いごとがかなうって、本当だったのねー………………。」
零れる声も、いつもと違っていた。
そう思えば、にんまりと、こみ上げてくる笑いをこらえることが出来ない。
マーニャは、迷うことなく自分の布団を引っぺがし、トン、と身軽な動作でベッドから舞い降りる。
その瞬間、いつもよりも鈍い反応を返す体に、少しだけ躓き、グラリと身体を傾がせる。
「──おっと……バランス感覚がいつもと違うわね〜……。」
とん、と右手をベッドに着いて、なんとか転ぶのを堪えたマーニャは、床にしっかりと立ち上がる。
そして、いそいそと部屋に備え付けの鏡へと歩いていこうとした。
その途中で、
「んー……姉さん……なぁにぃ? 静かにしてよ…………。」
もう少し、寝たい…………。
そう零す、寝ぼけた声が聞こえた。
普段のマーニャの声に良く似た……けれど、マーニャ自身のソレよりも幾分低く落ち着いた声が、今は甘えた色を宿している。
聞きなれた妹の声に、チラリ、とマーニャは視線を横に流した。
そこには、美しい娘が一人、白いシーツにうずもれるようにして寝乱れていた。
散った紫色の髪が赤銅色の肌に張り付き、寄せられた眉に色香が見え隠れする。
マーニャはソレを見下ろして、それは楽しそうに笑った。
「いいから起きてよ、ミーちゃん♪」
ギシリ、とわざとらしく音を立てて、マーニャはミネアのベッド際に座った。
そして、いつもはキレイにマニキュアされた指先を──今は、節ばった指になってしまったソレを、少しだけ残念そうに眺めながら、マーニャはミネアの頬に指を這わせた。
「んー……姉さん、やめてよ……っ。」
眉をきつく寄せて、邪険にミネアはマーニャの手を払う。
そんな彼女に、くすくすと意地悪く笑って、マーニャは更にミネアの頬をつつく。
そうしながら、体を屈ませて、ミネアの整った頬に唇を寄せると、楽しそうに囁いてやった。
「見てみて〜、そして、男陣の部屋から、適等に服かっぱらってきてよ。」
「……はぁ? ……何を言ってるのよ……。」
あまりの姉にしつこさに、ミネアはうっすらと眼を見開いた。
瞬く黒い瞳が、すぐ間近に屈みこんでいる人影の姿を映し出す。
流れる紫色の髪……サラサラのソレは、ミネアと同じ色のソレ。
見慣れた顔が自分を覗き込んでいる……なのに、いつもよりも少し顔が大きいような気がした。
「……姉さん………………?」
いぶかしげに、ミネアは眉を寄せた。
寝ぼけたように霞んだ目が、ようやく焦点を結んだ。
凛々しい眉、涼しげな切れ長の黒い瞳。
スッキリとした頬と薄い唇。
浮かんだ表情は、限りなく実の姉のソレではあったが。
「………………ねねねね、ねぇ……さん?」
呆然と、ミネアは眉を見開いて口を開け放した。
慌てて起き上がろうとするものの、覗き込んでいるマーニャが邪魔で、それも出来ない。
「ぴーんぽーん♪ どう? 格好いい?」
ほら、と、寝巻きの襟ぐりを大きく開いて、滑らかな胸板を見せびらかす、その──眼の前の人に。
「──────…………き…………きぃやぁぁぁぁぁーっ!!!!!!」
思わずミネアは、悲鳴をあげていた。
毛布を握りこんで、思いっきり。
瞬間、誰よりも先に反応したのは、同室の姫君だった。
ミネアの悲鳴の声が終わるよりも先に、がばっ、と毛布を跳ね上げ、パジャマの裾を翻しながらベッドから飛び降りる。
「何っ!? 敵襲っ!!?」
ベッドに降りたつと同時に、アリーナはミネアのベッドサイドを睨みつける。
ベッドの上で毛布を握り締めて、眼を白黒させているミネアに、覆い被さるようにのしかかっている人物が居る。
「! ミネアが男の人に襲われてるっ!」
一瞬で判断して、アリーナはそのまま床を蹴ろうとした。
けれどそれよりも早く、ミネアに圧し掛かっていた「男」が、背を反らせて上半身を上げたかと思うと、片手で耳を塞ぐようにして顔をゆがめたのが分かった。
アリーナからも見て取れた横顔は──彼女も良く知っている人物に、そっくりだった。
「きぃーん……て、耳が痛いじゃないの、ミネアっ!」
それどころか、そう叫ぶいい回しは、マーニャそのもの。
「え……まー……にゃ?」
呆然と、たたらを踏んでアリーナは困惑したようにミネアと、その彼女のベッドに腰掛ける男を見た。
──そう、男だ、確かに、
だって、髪はマーニャと同じ色で、マーニャと同じくらいの長さがあるけど、でも、肩幅だって、首周りだって、腰や体付きだって、女の──マーニャのソレとはまったく違う。
「なななな、なんで姉さん胸が無くなってるのーっっ!!」
なのに、マーニャらしき人物を眼の前にして、ミネアはそう泣きそうな声で叫ぶのだ。
──眼の前の人が、マーニャだと、そう疑いもせず。
「マーニャなの?」
アリーナも、あっけに取られたように恐る恐るミネアのベッドに近づく。
一応警戒をしたまま、両手のコブシは握ったままだ。
そんな彼女に、マーニャはニッコリと満面の微笑を向けて笑って見せた。
「そーよ、アリーナ、おはよー。」
にっぱりと笑って、右手を握ったり開いたりして笑いかけてくれる。
その表情も、声の調子も、確かにマーニャだ。
──でも、その薄い唇から零れる声は、心地よいテノール。
「………………えぇぇぇ………………?」
思いっきり顔を歪めて見せたアリーナの反応に、マーニャは軽く鼻の頭に皺を寄せた。
どうやら、ミネアの反応にしても、アリーナの反応にしても、マーニャ的には及第点もあげれないらしい。
マーニャは、腰に手を当てると、顎を少しあげて、ほら、と己の顔を突き出した。
「あーら、よく見なさいよ、この男っぷりの顔っ! すっごく格好いいと思わない?
うーん、ユーリルやクリフトとはまた違った男っぷりよね!」
ほーら、と、いつもの調子でセクシーポーズなんかをベッドの上で取ってくれたものだから、ますますアリーナはなんと反応していいものが悩み、それを眼の前で繰り広げられたミネアは、
「ただの軽そうなナンパな男よ〜っ!!」
そう──絶叫するしか、無かった。
とりあえず、もう一回寝たら、何もかもが夢だった、っていうオチだったら、どれくらいいいのだろう……そんな風に思いながら。
ミネアは無言で天井を見上げた。
その天井の更に向こう──空の果てに向かって、クリフトがいつもしているように胸の前で両手を組む。
朝起きたら、実の姉が兄になっていたって…………それ、どんなものなんですか、マスタードラゴンさま?
思わず、空に助けを求めたくなったミネアであった。
その彼女の祈りが空に届くかどうかと言う瞬間、
ばんっ!!
派手な音を立てて扉が開いた。
「ミネアっ! どうした、何があったんだっ!?」
「ミネアさんっ、アリーナ様っ!?」
慌てて飛び込んできたユーリルの髪は寝乱れていたし、クリフトも寝巻き姿のままだ。
2人は、部屋の中の光景に目を見開いて──それから、唖然とドアの前で立ち尽くす。
女性陣の部屋の中に、人影は3つ。
一人は、ベッドの上でシーツを握り締めて座り込んでいる娘──ミネア。
彼女は、今にも泣きそうな顔で困惑を露にしていた。
もう一人は、寝巻き代わりに羽織っている膝丈までのシャツを着たまま、呆然と立ち尽くしているアリーナ。
そして、残る一人は、
「ほーら、ミネアが大きい声出すから、うるさいのが起きてきたじゃないのー。」
つぅんv なんて軽い仕草で、硬直したままのミネアの額を突付く、見知らぬ……はずの、けどなぜか見覚えのある青年の姿だった。
「………………ゆ、ユーリル……クリフトさん……っ。」
泣きそうな顔のままミネアは目を見開き、動きを止めている二人に向かって呟く。
どこか掠れた声に、ユーリルは目を見張った。
一見、見知らぬ男が、ミネアとアリーナとマーニャの部屋に進入して、ミネアに無理強いをしようとしているように見える。
ただ問題は。
ベッドサイドに座る、褐色の肌の男性が、どう見ても……ミネアによく似ている誰かさんにソックリだということで。
「…………えーっと………………。」
眉を寄せて、ユーリルが問い掛けるようにアリーナを見た。
アリーナも、困惑したような表情を隠せないまま、首を小さく傾げた。
「………………朝起きたら……男だったの………………。」
どこか疲れたようなアリーナの声音に、
「は?」
素っ頓狂な声で、ユーリルが問い直す。
そんな彼らに、ふっふっふ、と意味深に笑うと、青年はギシリと音を立ててベッドから立ち上がった。
そして、腰をくねらせながら──あぁ、認めたくはないが、コレもまた「彼女」の上機嫌の時の歩き方だ──、トン、と身軽な仕草でユーリルとクリフトの前に立つ。
スラリとした長身──少しユーリルよりも目線が高く、クリフトと同じくらいかそれよりも少し上。
身にまとうのは、丈の短いシャツで、前のボタンは全て外されている。
脚にはおざなりに腰の下辺りで引っかかった……これもまた、丈の短いズボン。
「…………朝起きたら、男…………?」
ユーリルが胡乱気に視線を当てると、ファサリ、と背中に流れる見事な紫色の髪を払いのけて、青年はニンマリと薄い唇に笑みを刻んだ。
そして、ユーリルの肩にヒジを突くと、嫣然と微笑みながら、腰を曲げた。
「んっふっふっふー……どう? このナイスバディ?」
言いながら、キュ、と閉まった小尻を突き出すように、ユーリルの顔を覗き込む。
万人の男をとろけさせそうな微笑であったが、いくらキレイでも、同じ男だからこそ、別にどうと感慨を受けるわけでもなかった。
それどころかユーリルは、キリリ、ときつい目つきで眼の前の青年を睨みつけると、
「………………────────………………マーニャ! お前また、勝手に変化の杖を使ったんだろーっ!!?」
そう、がなりたてた。
「使ってないわよーぉ?」
低い声でそう笑われても、本当にそうだとは思えない。
実際、マーニャはあの変化の杖を手に入れたとき、これは面白いと、そこらの町中で遊び放題遊んでくれた前科があるのだ。
こっぴどくクリフトにお説教されても、ミネアからがなりたてられても、まるで応える様子のなかったマーニャの言葉を、どこまで信用していいいものか。
そう疑いの目を向けるユーリルに、あぁーら、とマーニャはフンと鼻を鳴らして、伸びた爪でギチリとユーリルの頬をつねり上げた。
「かっわいくないわよー、ユーリル? そんなにお姉さんが……じゃなかった、お兄さんが信用できないっていうの?」
ん? と、顎を上げて挑発的に笑うマーニャに、
「じゃ、一体全体、これはどういうことなんだよっ!?」
ユーリルも負けじと、指先でマーニャのはだけた胸を指し示す。
「変化の杖以外、考えられないじゃないかっ!」
「…………ですが、ユーリル。」
そこへ、ようやくフリーズ状態から解凍したらしいクリフトが、こめかみに指先を当てながら、そ、と口を挟んだ。
どこか疲れたような顔は、蒼白とも言えるほど顔色が悪い。
「、変化の杖は、昨夜私が荷物の整理をしていたときに、確かにユーリルの道具袋の中にありましたから……マーニャさんが使う隙はなかったはずです。」
一体どうして、こんなことが起きたのか……そう、今にも眩暈を起こしそうなほど気分が悪そうなクリフトに、マーニャは勝ち誇ったように笑って見せた。
「そーよぉ? ほーら、ほ・ん・も・のv」
そして、悪ふざけの延長であるかのように、ユーリルの手を掴むと、
むぎゅ。
「………………────────ど、どうしようクリフト…………本物みたい…………。」
泣きそうな顔で──いや実際、目に涙を浮かべて助けを求めるユーリルの視線を受けた瞬間、
「………………────────っっ。」
クリフトは、クラリ、と眼の前が真っ暗になった気がして、そのまま壁に、ごつん、と頭をぶつけた。
「わーっ、クリフト、気を失うなっ、気をっ! 喪いたいのは僕のほうだーっ!!」
悲鳴をあげるユーリルを、億劫そうに──本当に心底嫌そうに、クリフトは薄目を開いて見やった。
「いえっ、喪ってません……眩暈がしただけで…………っ。」
けれど、いっそココで意識を失って──そして目覚めたら何もかもが夢だった、というなら……どれほどいいことなのだろう?
そう──この部屋の中の、当事者以外の誰もが思った。
しかし、ニコニコ笑っている当事者は、
「ねー? なかなか立派だとおもわなーい?」
んふふ、と──ひどく楽しそうに含み笑いを零してくれるのであった。
「………………姉さん………………。」
思いっきり意識が遠く去っていきそうになるのを、無理矢理引きとめながら、ミネアは頭痛を覚えて眉間の皺をもみこむ。
そんなことで、この痛いほど面倒な現実が遠のいてくれるわけではなかったが。
「────…………と、とりあえず……どういうことなのか、話してもらいましょうか……マーニャさん。」
なんとか平常心を取り戻すことに成功したらしいクリフトは、悲痛な表情でマーニャにそう告げた。
それから、グルリと部屋の中を見回して、寝巻き代わりの長袖シャツ一枚で立ち尽くしているアリーナを認めて、軽く眉を顰めてみせた。
「………………ユーリル、一度部屋を出ましょう。私たちも着替えてきて──あぁ、そうですね、ライアンさんたちにも報告しないと………………。
──────少し後に戻ってきますから、皆さんも着替えてくださいね。」
まだ少し頭が混乱しているらしいクリフトが、それでも現状をなんとかしようと働きかける。
ようやくマーニャの魔の手から逃れたユーリルは、すばやくそんなクリフトの背中に逃げ込んだ。
「よし、そうしよう。それじゃ、とりあえず後でってことで、今は解散っ!」
クリフトの後ろから、というのが少々情けなかったが、ソレはソレで仕方がない。
重々しく告げるユーリルに、ミネアも反論する言葉を持たない。
ただ、疲れたような顔で、
「わかりました。それでは少し後──ココで。」
そう、重力に任せるように、コックリと頷いてくれた。
もちろん、アリーナもそれに反論はないので、分かったわ、と軽く受ける。
そして、問題の当事者であるところのマーニャには、反論する権利すら与えられないので、クリフトもユーリルも、ミネアとアリーナの了承を得たのを確認すると同時に、部屋から逃げるように立ち去ろうとした。
そう──とりあえず、心を落ち着かせるために、一度部屋に戻りたい。
強く思っていたのである。
ところが、
「それじゃ、また後でねーん、ミネア、アリーナv」
チュバッ、と……わざとらしいほどわざとらしく、大きな投げキッスの音を立てて、しどけない格好のマーニャが、クリフトとユーリルの後をついてくるではないか!
「って、ちょっと姉さんっ!? どこに行くつもりなのっ!!?」
慌ててミネアが、つんつるてんなマーニャを引きとめようと、ベッドから飛び降りる。
「どこって、クリフトとユーリルの部屋に決まってるじゃない?」
「…………はぁっ!?」
その声に、大きく目を見開いたのはユーリルである。
クリフトは、無言で額に手を当てていた──きっともう、声を発する気力もないのだろう。
「なんでだよ!? そりゃ、確かにマーニャは男になっちゃったけど、女なんだから、別に一緒の部屋で着替えても問題は無いだろっ!?」
「問題ならあるわよ? だってあたし、着る服ないもの。貸してもらわないと困るわ〜。」
マーニャは、シレっとしてそう答えると、バンバンッ、とユーリルの背中を叩いた。
いつもよりも強いマーニャの力に、ユーリルは少し前へつんのめってしまい、反論することが出来なかった。
その隙にマーニャは、
「んじゃ、そーゆーことで、また後でねん♪」
ヒラヒラ、と軽い調子で手を振ると、パタン、と問答無用で扉を締め切ってしまった。
そして、脱力している男2人に、にぃっこりと微笑むと、
「それじゃ……行きましょうか。」
ガッシリ、と──上から抑え込むようにして、右腕にクリフト、左腕にユーリルを抱え込み、いまや同性となってしまった2人の顔を、楽しそうに覗き込むのであった。
ユーリルはげんなりしてみせ──クリフトは、無言で胸元で十字を切る。
2人は同時に悟っていた。
────タダで済むとは思えない。
そしてソレが事実であることを知るのは、これからほんの1分ほどの後のことであった。