戴国の王宮、「白圭宮」。
 その日は、戴国の恩人とでも言えるべき「貴賓」が訪ねてくる日ということもあり、朝から宮は騒がしかった。
 もちろん、その賓客を出迎える張本人である戴国の宰相であるところの「泰麒」にしても、朝から落ち着きがなく──その様はまるで、十数年前の幼い、いといけない頃の彼を思い出させた。
 けれど、今の彼の姿を見ている者は誰も居なく、ただ彼はソワソワと部屋の中を歩き回るばかりだ。
 机の上に乗せられたいくつかの書物を取り上げて、それをイミもなく胸元に抱え込んだ後、少年はその面差しをふと窓の外にやった。
 どこまでも続くような青の雲海が広がるその向こう。
 何かがふと見えた気がした。
 そしてそれが何なのか、泰麒は良く知っていた。
 今までにも何度かこの不思議な感じを感じたことがある。
 始めはこの感覚が何なのか分からなかったけれど、何度も感じた今は分かる。
 「彼女」が、ここに到着したのだ。

──「彼女」が来ると、すぐに分かる。

 それは決して、彼女が突然来るという意味ではない。
 とある大国の王や台輔のように、先触れもなく「彼女」がこの白圭宮に来ることはありえない。──泰麒がとても慕っている「彼女の半身」にしても同じことだ。
 今回の訪問の件も、何日も前から連絡を取り合い、吉日と時間もしっかりと決まっている。
 だから、「彼女が来るとすぐに分かる」という表現はおかしいかもしれない。
 何せ自分は、彼女が今日、いつ頃来るのかも、もともと知っているのだから。
 けれどそれだけでは例えられないような何かが、いつもこの胸の中にあった。
 それが、自分が泰麒で彼女が景王で。
 自分と彼女が同じ時を「倭」の違う場所で過ごしていたからなのか。
 ──そんなことは全く分からなかったけれど。
 ただ、彼女がココに来たら分かる。
 それだけは本当だった。
 今、到着したのなら、あといくらもしないうちにココまで案内されてくるだろう。
 泰麒は手にした本をテーブルの上に置くと、ヒラリと身を翻して、この泰の国の恩人であり、そしてこの世界で唯一の「同じ年頃の胎果」の友を迎えるために、女官に出迎えの準備をしてもらおうと、駆け出した。



「泰麒!」
 駆け寄ってくる赤い髪の娘に、黒い髪の少年も破顔して出迎える。
 二人はすぐに数歩の距離を埋めて近寄り、お互いの手と肩を喜びでもって握り合い、叩きあった。
「お久しぶりです、陽子さん。」
「うん、久しぶりだ。」
 穏やかに微笑む泰麒に、景王陽子も同じようにニッコリと微笑み返す。
「泰麒も元気そうで何よりだ。」
 こちらへ、と促されて、陽子は彼に着いて行く。
 見回した宮は以前に来たときよりもずっと華やかで、賑やかになってきたような気がする。
 その目がふと、机の上に置かれた本の束に留まって、陽子は苦い色を刻んだ。
 思わずその前で足を止めて、本の表紙を指先で撫ぜると、泰麒が足を止めて振り返る。
「あぁ──それ、重宝してます。」
「私のお古で申し訳ないんだがな。」
「でも、陽子さんが書いてくれた書き込みのおかげで、僕には理解しやすいですよ。」
 やはり、同じ年頃で同じ胎果ということもあってか、この世界の「分からないところ」は共通するらしい。
 そうこっそりと笑いあって、陽子は泰麒に進められるままに、客用の長椅子に腰を落とした。
 本来なら、泰麒はこの国の台輔。陽子は隣国の慶国の慶王だ。
 たとえ非公式な形での訪問だとしても、それなりの礼を交し合わなくてはならないのだろうが、数度目の訪問から堅苦しい挨拶は抜きにするようにと暗黙の了解が発生していた。
 そのことが伝わっているのか、以前は必ず顔を見せていた泰王も、今では個人的な用件で赴いてきた景王に一度挨拶をするだけで、後は放任してくれる状態だ。
 その状況がいいことなのか悪いことなのか──きっと国に帰ってこのことを話せば、陽子の半身は苦い色を隠すことはないだろう。もともと表情があまりない癖に、心情を隠すのが苦手な麒麟だから。
「今日は、景台輔はご一緒ではないのですね?」
 女官が運んできたお茶を陽子に勧めながら、泰麒は少しだけ残念そうな表情を見せる。
「景麒は置いてきた。さすがにそう毎度毎度、王と台輔が一緒になって留守にしていたのでは、不満が起きる。」
 うちは、あの「大国」ほど官吏にとても恵まれているわけではないのだから。
 そう、ヒョイ、と肩を竦めて軽口を叩く陽子に、泰麒は楽しげに喉を震わせて笑った。
「確かに、雁の方々は、さすがは大国という感じですよね。」
「全くだ。アレを見習わなくてはいけないな。」
 頷いて、陽子は出されたお茶をコクリと一口飲み込んだ。
 暖かな湯気の立つ美しい色を放つお茶に、目を細めて、いいお茶だ、と呟くと、泰麒は嬉しそうに目を細めて、ありがとうございますと笑った。
「上質のお茶を生産できるようになったのも、一重に景王のおかげです。」
「──……だから高里くん、頼むから、景王と呼ぶのはやめてくれと言っているじゃないか。」
 わざとらしく「倭」での名前を口にする陽子に、泰麒は軽く目を細めて笑った。
「あははは、すみません。」
 その楽しげな笑い声に耳を傾けながら──広い部屋の中に響く笑い声は心地良いと、陽子は口元を笑みの色に染める。
 慶の国も、泰の国も。
 本当に色々あって──それでもようやく、ここまで来た。
 こうして笑いあえる日が来ることが、いつになったら来るのだろうかと、毎日心の片隅で悩み続けていたことが、今はあっさりと訪れている。
 それがどれほど幸せなことか、噛み締めるように思いながら、美味しいお茶を飲み進めるごとに、世間話に過ぎない軽い話を二つ三つ零す。
 昨日、食事中に李斎と話したこと。
 驍宗様──いや、主上が新しい政策を考え付いたこと。その彼のすばらしい策。幼い頃には立ち入らせてもらえなかったことに、ようやく面と向かって見ることが出来たこと。
 麒麟には辛いことかもしれないけれど、それでも向こうの国で鉄さびを食むことよりもずっと胸と心に染みるということ。
 嬉しげに、楽しげに目元を緩めて──本当に幸せそうに笑うと、陽子はようやく肩先まで伸びた泰麒の黒い髪を見つめた。
 この世界の人は、髪も目の色も「日本」とはまるで違うから、逆に泰麒を見ていると、なんだか不思議な気持ちになった。
 普通に学生服を着ていても違和感のないような彼が、金波宮にもいる「麒麟」だと言われても実感が湧かないというか。
 それを言うなら、延麒もそうなのだが──どうしても陽子の中では「麒麟」と言えば、景麒というイメージがあった。

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