湖のほとりに建つ城――半分崩れかけた城に、突っ込んだ形で停泊している船が、高波を受けて、微かな振動を伝えている。
 何十年も前から存在している古ぼけた城が、人の賑わいに溢れてきたのは、つい最近のことだった。
 この城の主である少年が、奇抜なアイデアで国を問わず商人を求め、そして――……戦争の本拠地として、ここを提供した。
 鈍い銀に光る鎧を身につけたゼクセンの騎士と、日に焼けた身軽な格好のグラスランドの民と――不思議な光景が、存在している、奇妙な城。
 敵同士であった彼らが、同じ目的のために手を結び、多くの代表の名のもとに集った。
 そして、それを導くのは…………遠い昔、出会った人と同じ目をもった……同じ目の輝きを持った、人。
「――……また、この空の上には……星が瞬いているのでしょうか?」
 小さく呟いて、青年は空を見上げた。
 城の一部として使われている、古臭いけれど、がっしりと丈夫な船の甲板の上からは、紺碧の空が良く見渡せた。
 明るい星は、手を伸ばせば届きそうなくらい近くに見える。
 けれど、あの星が手に出来ないことは、彼にも良くわかっていた。
 小さい頃、自分の相棒とともに、高く高く飛んで――あの星が手に出来ると信じていたときもあった。
 それを、たしなめてくれた尊敬する男のことを思い出し……ああ、と彼は吐息を零す。
 自分が年をとり、分別の分かる大人になったとは思わない。
 年を重ねても、いろんな経験をつんでも、自分が大人になったとは思わなかった。
 それどころか、年を取れば取るほど、自分が憧れた大人にはなれないことを知らされた気がする。
 ――――結局、「俺」には、誰かのことを変える力なんて、ないのだろうか?
「……違う……そうじゃない。」
 きゅ、と、船の縁に置いた両手を握り締め、彼は天上から視線をずらした。
 そのまま、握り締めた拳に額を当てて、目を閉じた。
 夜の甲板には、自分が心を許した相棒以外、誰も居ない。
 だからこそ余計に、青年は自分の思いに更ける。
 背後で、相棒が小さくあくびをする音が聞こえた。
 いつもなら、明日に備えて、もう寝ようと声をかけるのだけど。
 明日が明日だったから――今日は、まだ起きていたかった。
「俺は、俺が選んだ道を進むだけ。
 あいつが間違っていたら、俺はそれを正したいと思う。
 それだけは、ほんと、だから……。」
 祈るように、思う。
 祈るように、思い描く。
 彼の側に居たはずの、長く黒い髪を持つ、真の紋章の主の姿を。
 盲目の魔術師は、彼を支える一人のはずだった。
 彼女なら、何もかもを見通し――あの時、15年前も自分達を導いてくれたように……。
「……なわけ、ないよな……っ。」
 だって、彼女は導いたわけじゃない。
 自分達に手を貸したわけじゃない。
 彼女が自分達に手を貸したのは、たった一度だけだった。
 「彼」を遣わした時以外、彼女が手を貸してくれたのは、ただ一度きり。
 彼女の「姉」が、その紋章の力で異界のものを呼び、それを還した、一度きり。
 そう思い出した瞬間、青年の胸の奥が、キリリ、と痛んだ。
 右手を上げるだけで、異界の魔物を呼んだ少年――少年の姿をした、未だに姿の変わらぬ人。
 約束の石版の守人として、青年と戦ってきたことのある、彼。
 今は。
 いま、は。
「………………………………。」
痛いくらいの気持ちを抱えて、彼は、強く両手を握り締めた。
 背後で、そんな青年の姿に不安を覚えたらしい相棒が、キュゥゥ……と小さく鳴くのを感じる。
 本当なら、大丈夫だよと、そう笑ってやらなくてはいけないのだけど。
 今の青年には、そんな元気はなかった。
 15年の月日は、長かったのだと――そんな言葉で終わらせたいわけじゃない。
 終わらせたいわけじゃないけれども、今は、その言葉しか思い浮かばない。
 そんな自分が嫌で、胸が痛くて、青年は更に顔を俯かせる。
 ざざぁん――と、遠く波打つ音が聞えた。
 さすがに明日は儀式の地へと向かう日だ。
 この地が無くなるかどうかの戦いの前だ。
 誰もが明日のために眠り、身体を休めていることだろう。
 けど、眠れない者も居る。
 それが誰なのか、今の青年は軽く思い描けた。
 たとえば、炎の英雄の名を負ったリーダー。
 たとえば、真の水の紋章を受け継いだ、あの人。
 たとえば、真の雷の紋章を持つ、あの人。
 たとえば、軍師としての決断を促し、決意をしたけれど――一人、窓の外で別れた男を思っているだろう、昔馴染みの女性。
 たとえば、昔と同じ鏡の前で、一人ボンヤリと物思いにふけっているだろう、時を越えた少女。
 たとえば、真の土の紋章を持つ、神官将。
 たとえば。
「あいつと一緒に戦ったことを思い出しながら、あいつの気持ちを止めてやれないことを思う……人、とか。」
 口に出して、青年はさらに泣きそうな顔を歪めた。
 止めれない。
 最初から側に居ることが出来たなら、絶対に止めて見せた。
 なぜ、僕らに話してくれなかったのか。
 なぜ、僕らを選ばなかったのか。
 その理由は、思うと同時に簡単に答えが出てくるものだった。
 彼は、昔、共に戦った仲間を、今再び選んでしまえば、自分の意思を貫けないと知っていたのだ。
 だから、自らの目的を成すために、「そうできるヒト」を仲間にしたのだ。
 自らを愛しているが故に、自らに従順な乙女。
 誰よりも破壊と殺戮を愛するが故に、破壊に同調する男。
 自らの野望のために、踏み台を探していた青年。
 彼らは、決して彼の意思に反対しない。命をかけて、阻止しようとはしない。
 彼の意思を阻止しようとするのは。
 彼の、敵、だけだ。
 彼を、憎む人だけになるように――そう、自ら仕向けたのだ。
「頭がいいやつは、だから嫌なんだよ……っ。
 顔も良い癖に、口も悪くて、性格も最悪! あいつのおかげで、目覚めが最低だったことなんて、一度や二度じゃなかったっけ。」
 けど。
 けれども。
「……やりきれない、よなぁ?」
 がっくりと、両肩を落として。
 それでも、自分はあの頃のように――初めて戦いに身をとおじたときのように、分別も分からない子供じゃないことだけは、分かっていた。
 愛竜に乗って飛び出して、その結果、相棒を失ってしまった、あの時のようなことは出来ないと、心の奥底からわかっていた。
 今、しなければいけないことも、ちゃんと分かっているつもりだった。
 分かってはいる、つもりだけど。
 やりきれないのだ。
 戦いたいわけじゃないのだ。
 できれば、話し合いたいと思っている。
 彼を説得したいと思っている――昔から、そういう話し合いに応じるような相手じゃないって、良く分かってはいたけれども。
 それでも。
 それでも……。


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