ひゅんっ……。
瞬間、風を切るような音がして、青年はフッと顔をあげた。
それと同時、まるで狙ったかのように、右手首にロープが絡みつく。
先に小さな石のついたロープは、そのままクルクルと手首に巻きつき、小さな石がコツンと腕に当たって止まるまで、しっかりと絡みついた。
それが何なのか悟ると同時、青年はとっさにロープを取ろうとしたのだが、それよりも早く、ずし、と重みが走った。
それも、小さな重みじゃなかった。
細いロープが、ぎりり、と皮膚に食い込む。
肉が絞れるようなほどの重みに、青年は慌てて脚を踏みしめ、ぎり、と唇をかみ締める。
左手で右手を支えるのが精一杯の状態で、彼は強く眉を顰めた。
「……っ。」
ぎり、とさらに食い込むロープからは、熱い痛みを感じる。
このままでは、血がにじみ出ること間違いなしであった。
慌てて手に絡まったロープを取ろうとするが、しっかりと食い込んだそれは、みしり、と音を立てて揺さぶられるだけである。
ロープと自分の皮膚との間に、爪先一つ入らない状態で、フッチは軽く唇をかみ締めた。
あの大剣を操るために、体も相当鍛えたつもりだ。腕力だって、少年だった頃に比べたら、段違いになっている。
にも関わらず、皮膚が裂けはじめ、血がにじみ出てくる。
腕はびりびりと重みに耐えかねて、下へ下へとずり下がって行く。
フッチは、もう片手でロープが巻きついた手を支えた。
ロープを外すことよりも、片手で腕が落ちて、そのまま体ごと海に引きずられないようにするので精一杯だった。
どうしてこんなことに、と、フッチは汗のにじみ出た額に皺寄せて、手すりの向こう──暗い闇に沈む海へと眼をやった瞬間である。
「ぃよっ!」
自分以外の者の声が聞こえ──それが、どこから聞こえたのか考えるよりも先に、目の前を、何かが下から上へ飛び出した。
そのまま影は、風を作り出してフッチの頭を飛び越える。
「……っ。」
ひゅ、と、フッチのノドが鳴った。
不意にロープが軽くなり、腕から重みが無くなった。
それを自覚するより先に、彼は自分を飛び越えた影を追った。
振りかえった船の甲板の上──スラリと立つ影が一つ。
誰も居なかったはずの甲板に、突然誰かが湧いて出るはずもなく、その人影は、紛れも無く──さきほどフッチの頭を通過した影なのだろう。
考えたくはないが、おそらく……今、フッチの腕にロープをかけて、この船によじ登ってきた張本人だ。
侵入者かと、フッチは身構える。
まさかこのようなコトになるとは思っていなかったため、剣は所持していなかった。
かろうじて武器になれる──攻撃できるものといえば、甲板の上で体を横たえていたブライトくらいのものだけど──。
じりり、と体をずらし、ジクジクと血がにじみ出る手を握り締めながら、フッチはこちらに背を向けている人影を睨んだ。
相手は、フッチの存在に気付く様子もなく、月明かりの下で、素手に手袋をはめている。
その右手に、見なれたような物があった気がして、フッチは軽く目を見張った。
そう思えば、確かに、この無茶な行動もわからないでもない──そんな思いが、頭を掠める。
「あ……。」
相手を捕らえようという気持ちが、その瞬間にフッチの中から消えた。
思えば思うほど、目の前の人は、良く似ていた。
そんなはずもないと、あの人がココに居るはずはないと、そう思えば思うほど──似ているという気持ちがこみ上げてくる。
だって、ブライトは、怪しいこの人影に、吼えることもしないじゃないか。
「ふぅ……! やっと着いたよ。これで実は間にあってませんでしたー、ってな事になったら、この湖1個干上がらせるだけじゃ、治まらないよなー。」
しれっとして、今日の朝ご飯はお茶漬けでしたー、と発言するような口調で言いきり、その人は懐から何かを取り出す。
華奢な背中を覆うのは、烏の濡れ羽色の髪。肩甲骨の中ほどまで覆うそれを、取り出した緑色のバンダナで一まとめにくくると、「彼女」は腰に巻いた巻きスカートについた埃を払った。
そして、形を一通り整えて、ふい、と視線をずらした。
その拍子に、横顔がフッチの目に映った。
月光に映える白い面。
印象的な赤い瞳と、濡れたような唇。
少しまつげを伏せている様は、美少女以外の何者でもなかったけれども。
「……スイ……さん…………。」
唖然と、フッチはその人の名を呟いた。
間違えようはずもない。
だって、今の今まで自分は、その人のことを──奇跡のように心に焼き付いている人の顔を、アリアリと思い出していたのだから。
その声に気付いたのか、その人は顔を傾けるようにこちらへ視線を向ける。
強い眼差しが閃いて、一瞬驚いたように見開かれた。
「──……もしか、して……?」
可憐な唇が、言葉をつむぐ。
フッチは言葉をつむげず、絶句したままスイを見返した。
スイは、みるみるうちに顔を綻ばせて、満面に笑みを浮かべた。
その顔を見て、フッチは唇を薄く開き、彼の名前をもう一度呼ぼうとした。
が、それよりも早く。
「竜!」
スイが、声高に叫んだ。
同時、ダッシュで走り寄る──ブライトに。
「やっぱり竜だーっ!!」
スイは、嬉しそうにブライトを見上げ、手の平を伸ばす。
ブライトは、首を傾げて不思議そうにスイの手の平に恐る恐る鼻先を近づける。
何度かヒクヒクと鼻を動かせたブライトは、幼い頃に出会った少年の匂いを覚えていたらしい。
嬉しそうに小さく鳴いて、彼の手の平に鼻先を押し付ける。
「きゅぅぅうー。」
「うっわーー……白い竜なんて珍しいな〜。……ブライトみたい。」
微笑んで、そう笑った少年の言葉に。
「………………ブライトだよ………………。」
とりあえずフッチは、そう──突っ込んでみた。
この人のコレは、本当なのだろうか、それとも、わざとか?
なんだか懐かしい気持ちがこみ上げてくるのを感じつつ、フッチは小さく吐息をこぼした。
そして、目の前でブライトといちゃついているスイの姿をマジマジと見つめて、ひどく今更な疑問を、覚えた。
「──なんでスイさん、こんなところから上ってくるんですか?」
だがしかし、うれしそうにブライトの首筋に顔を埋めているスイは、決してその問いに答えてくれることは、無かった。
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