「暑い…………。」
整った愛らしい顔立ち一杯に、不快げな表情を浮かべた少女が一人、ぽてぽてと力なく歩いていた。
通路には濃い影が落ち、大きく取られた窓からは、眼下に一望できる景色──遠く山脈がそびえ立つ場所まで、クッキリと目に映えるほど、空は明快で青かった。
その中、湖の照り返しがきついほど、太陽は上機嫌に地上を攻撃している。
湖面に小船を浮かべて、釣りを楽しんでいる漁師達には、さぞかし辛い暑さとなっていることだろう。
これで、秋を感じさせる風の一つでも吹いてくれれば、真夏を思わせる熱射も、湖から立ち上る水蒸気による蒸しも、すこしは軽く感じるものだろうに、残念ながら風はチリとも吹いていない。それがよけいに、湖の上のこの砦と周囲を、蒸しあげる原因になっていた。
「う〜〜っ、蒸すぅぅーっ!」
かわいらしく唇を尖らせて、ほんのりと上気させた目元を吊り上げ、彼女はパタパタと顔を掌で仰ぐ。
もちろん、その程度のことでこの暑さが無くなるものなら、わざわざ一番居心地のよい自室から出てくることはないのである。
いつもはキッチリと着込んでいる服も、今日ばかりはラフに着崩している。軍のリーダーの座に納まっている以上、誰がイツ見ているかわからないから、服装や身振りや口調には、常に気を使うように、と口がすっぱくなるかと思うくらいに言われ続けている少女、ルゥであったが、今日ばかりはその言葉も頭で溶けていた。
何せ、真夏日を過ぎたはずの今日は、今年最高の猛暑だと言って過言はないほどの、蒸し暑さだったのである。
もともと貴族の娘であった彼女は、暑さが酷いときには避暑にサラディまで行くという感覚の持ち主で──当然、暑さピークという状況になれてはいなかった。
彼女が暮らしていたグレッグミンスターでは、これほど蒸し暑いという日はなかったのだ。
「なんで湖の中に、本拠地なんか作ったんだろう……。」
ブツブツとこぼしながら、暑さでぷっくりと赤くほてった唇を、ツン、と尖らせる。
そうしていると、普段の少女軍主の顔は払拭され、年頃の娘らしさが前面に押し出された。
パタパタと顔を仰ぎながら、襟元のホックを外したチュニックから、両腕を引き抜くと、Tシャツ一枚になる。脱いだ部分は、まるでエプロンか何かのように、ヒラヒラと腰から揺らすことにした。
このような格好を、下の者が見たら、それこそなんといわれるか──と、額に手を当てる軍師の顔が浮かんでも不思議はないであろうに、少女はその事実に気付かず、少し軽く、涼しくなった気のするTシャツの襟元に指を引っ掛けた。
汗でぐっしょり湿ったTシャツは、背中がべっとりと透けて見えた。
形のよい肩甲骨と、引き締まった背中が、クッキリと浮かんで見える。
「ふぅ、ちょっと涼しくなった。」
Tシャツの襟を広げながら、パタパタと彼女は掌で内側に風を送る。
それでも、ほんの微風にしかならない風は、彼女の細い体を冷やす手伝いもしてくれない。
「────…………なんとかしないと、頭、溶けそう……。」
ブルンッ、と頭を振るい、べったりと項についた髪を書き上げる。
そうしても、風がまるで吹かない以上、ただ汗が気持ち悪く感じるばかりで、少しの気分転換になることもなかった。
さて、どうしようかと、ルゥがため息をこぼして、窓の外へと視線を走らせる。
近づいた窓から外を覗いても、最上階だというのに、風はまるで吹いてこない。凪がただ一面に広がるばかりだ。
背伸びをして、窓から身を乗り出してはるか地上をうかがっても、それは同じ──干された洗濯物が、揺れることもなく、ジリジリと太陽に焼き付けられているのが見えた。
思わずルゥは、干物みたいだと、目を細めてあきれて見せた。
ひょい、と慣れた調子で足を上げ、石で囲まれた窓の枠に腰を落とす。
石を積み上げられて作られた形の砦は、窓がくりぬかれた形に作られている。
そのため、枠が太く取られていて、彼女の細い腰を落としても、まだ半分ほどの余裕があった。
両足を、ブラリと放り投げるようにして、片手を窓にかけながら、ルゥは眼下に広がる景色を見下ろす。
彼女が住んでいる場所は、地上より遥か上──最上階である。当然、少しでもバランスを崩せば、まっさかさま……湖面に叩きつけられて、柔らかな肉は千切れて飛んでしまうことだろう。
けれどもルゥは、まるでそれを感じさせない様子で、汗でぺったりと張り付いた髪を掻きあげながら、かすかな微風でも吹いてくれと願いながら地上を見下ろした。
仲間達の小さな……米粒のような頭が、散らばっているのが見えた。
船に乗って、遊覧してみたものの、湖の上も暑くてたまらない様子で、バタバタとウチワを仰いでいる者。
砦の影で上半身裸でぐったりと寝ているもの。
ここぞとばかりに、「風を作り出すぜっ!」と、走り回るエルフ──あれは暑そうだ。
そんなものを見下ろして、誰が今何をしているのか……米粒ほどの頭しか見えないのに、容易に想像できた。
「僕も、あそこに混じってこようかなぁ。」
どうせ暑いなら、一人で暑い暑いとぼやいているよりも、みんなで暑いとか叫んでいたほうがマシだと──そう、いっそ、我慢大会とかを催してみたりすると、気がまぎれるかもしれない。
軽く首をかしげてそう考えて、ルゥはホゥ、と熱の篭った吐息をこぼす。
ギラギラと燃えるような太陽の視線が、波一つ立っていない湖面を反射して、きらりと輝いていた。
それを目を眇めて見つめ──あ、と、ルゥは小さく声を上げた。
太陽の光りを目一杯浴びている波止場に、何人かの人間が遊んでいるのが見えた。
その人たちが、そこで、何をしているのか……認めた瞬間、ルゥは顔を輝かせた。
そうだ、その手があったか、と。
あわててルゥは、それならそうで、日が沈まないうちに……と、足を窓枠の上に乗せて、通路に戻ろうとする。
手を枠から放し、そのまま通路に戻ろうと、枠の上で反転しかけた──瞬間。
ズッ……っ。
腰から垂らしたままだった上着が、足に引っかかって、滑った。
「──……っきゃっ!!」
思いもよらない──というよりも、すっかり忘れていた上着の存在に、小さく悲鳴をこぼすが、伸ばした手も窓枠を握れない。
バランスを崩した体は、そのまま前のめりに──……眼下に広がる遥か下の地上へと、吸い寄せられるように乗り出していく。
「──…………っ!!」
ルゥは、唇をかみ締め、こんなことで死ぬのは、ゴメンだと、空中に踊り出した体に──自由の利かない体に、苛立ちを覚える。
そのまま、地面に叩きつけられる自分を想像した瞬間、ルゥの頭の中に浮かんだのは、この現状を何とかできそうな人物の姿であった。
「──……ルック……っ。」
彼なら、風を扱うなり、テレポートするなり、なんなりで助けてくれるだろうと──その名を、小さく、呼んだ。
刹那。
がしっ!
クンッ、と、体が引っ張られる感覚と共に、腕が掴まれる。
落下を妨げられた衝撃に、安堵を覚えるよりも先に、ルゥが覚えたのは、痛い、という感情ばかりだった。
かと思うや否や、強引な力で、思い切り良く後方に引っ張られる。
「──……っ。」
そのまま、ヒョイ、と窓枠を乗り越えて──彼女は、力強い腕に腕をつかまれたまま、どすん、と──柔らかな何かに背中をぶつけた。
気付けば、目の前に広がるのは広い地上の光景ではなく、窓から見える山脈と湖。
「……──なっ、に、してんだ、お前はっ!!」
同時に、頭上から声が降って来た。
かすかに掠れた──聞きなれた声。
それに、ハッ、とわれに返ったルゥは、恐る恐る視線を上げた。
窓から落ちていこうとした体を抱き寄せ、しっかりと引き寄せた人──思ったとおりの声の主──フリックが、怒ったように自分を見下ろしていた。
「俺が、偶然通りかからなかったら、どうなると思ってたんだっ! 危ないだろうがっ!!」
「────…………ふり、っく……。」
驚いたように、目を大きく瞬くルゥに、彼は目からといい、全身からといい、怒りのオーラをまといつつ、ルゥをにらみ落とす。
「まさか、こんなところで、こんなバカな死に方をするつもりじゃないだろうなっ!? あぁっ!?」
肩を抱き寄せるように、ルゥの華奢な肩に置かれた手が、かすかに震えていた。
見上げた先で、フリックの額に汗が滴っているのが見えた──その表情も、かすかに青い。
「そ、んなつもりは無かったんだけど──ごめん。」
すまなそうに、上目遣いに謝って見せれば、フリックは寄せた眉を一度揺らし──ため息をつくように、目線を落とした。
「ごめんで済むことじゃねぇだろ……ったく。」
言いながら、彼は未だに自分がルゥを抱きとめていた事実を思い出し、あわててその手を離す。
さきほどまでこの上もなく暑かった体は、一気に汗が引いて冷たくなっていた。その中で、フリックが置いていた肩だけが、熱い──決して、不快な熱さではなかった。
「うん、それから、ありがとう。」
照れ隠しのように笑って見上げて、ルゥはフリックに預けていた背を離す。
そのまま正面に向かって、にっこりと礼を口にした瞬間──フリックの笑顔が、止まった。
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