「──────…………おい…………ルゥ………………。」
低い声が、かすれていたのにも気付かず、ルゥは、そうそう、と両手を打ち鳴らす。
「クレオたちには内緒にしておいてね? 落ちかけたこと。心配させると、悪いもんね。」
内緒だよ、と唇の前に人差し指を立てて、そう笑うさまはかわいらしい。確かにかわいらしかったが──今のフリックは、そんなことにかまっている余裕はなかった。
「ルゥっ……っ!」
「悪いけど、お説教なら聴かないからね?」
楽しそうに、ルゥは笑うと、フリックからヒラリと一歩遠ざかる。
そんな彼女の、姿を一瞥して、フリックは苦虫を噛み潰したような顔になる。
「なら、あんな窓から身を乗り出してるんじゃない──……って、そうじゃなくてだな……っ。」
歯切れ悪く、フリックが口元に手を当てるのに、ルゥはヒラヒラと片手を揺らして、澄まして答える。
「もうしないよ。僕も今から下に行って、メグたちと水浴びすることにしたから。」
首をかしげて、楽しそうに笑いながら見上げてくるお嬢様に、彼は──心の奥底から、叫びたい気持ちをこらえて……、そのまま逃げるようにきびすを返して、下へと続く道を歩いていこうとする彼女の腕を、ガシリ、と、掴んだ。
「……何、フリック?」
細い、華奢な腕は、彼女がまだ幼い少女であることを示していた。
それは、別にいい。いいのだが──……。
「おまえ……っ、そんな格好で下に降りる気かっ!?」
思わず声を荒げる程度には、彼女の格好は──はしたなかった。
けれど、ルゥはフリックの、どこか上ずったような声にいぶかしげな表情になると──、Tシャツに、上着を腰から垂らしたままの自分の体を見下ろし……。
「あ、そっか! 水浴びには、水着が居るよねっ!?」
真顔で、そうフリックに問い返した。
バッチン──と、フリックが自分の額に手を当てたのも、仕方がないと言えば仕方がないのかもしれない。
「ルゥ…………。」
搾り出すように、フリックは彼女の名を呼んだ。
弱冠15歳の、まだ幼い少女──だが、グレッグミンスターのような首都にあっては、貴婦人としての教育を受けていてもおかしくはない年頃だ。
その、年頃の少女が…………っ。
「なんでお前……サラシも巻いてないんだ……っ!!」
「暑かったし、汗疹できるじゃない。」
さらり、とかえってきた、悪いとも、恥ずかしいとも思っていない台詞。
「────…………っ、の、バカかっ、おまえはっ!!!」
心ゆくまま叫んで、フリックは彼女の腕を強引に引きながら、ズカズカとルゥの自室向けて歩き出す。
軍主として優秀であろうとも、りりしい美少女であろうとも──、いくら天然でも、許せる範囲と許せない範囲というものがある。
「なんでバカなんだよっ!? 普段だって、さらし巻くの忘れてるときとかあるけど、誰も気付かないよ!?」
さすがに、強引に勝手にコトを決めようとするフリックに、ムッとしたらしいルゥが、彼の腕を解こうと躍起になって叫んでくる。
けれど、少し暴れたくらいで、15の少女の力が、24の男の力にかなうわけもない。
フリックは、強引に引き立てる力を緩める気配もなく、悪態づく。
「普段はお前、その上にしっかりした生地の上着を着ているだろうがっ!!」
「気付かないじゃないか、だからっ!!」
「だからってな、だからって──おまえ、今、自分がTシャツ一枚だって自覚、持ってるのかっ!!?」
「だって暑いんだもんっ!!」
すかさず帰ってくる反論に、フリックは──煮えたぎった頭で、眉を寄せて、唇を捻じ曲げて考える。
──なんていえばいいんだ、こんなとき……っ?
くそっ、誰も、そんな、こんな天然なバカ娘に教える方法なんて、教えてくれなかったじゃないか!
誰にともなく文句を言いながら、フリックはズカズカと廊下を進み──ふと、足を止めた。
強引に引きずられていたルゥは、そのままフリックの背中に、ぼすん、と顔面からぶつかる羽目になる。
「いたっ!? 何だよ、もう! さっきからフリック、変だよっ!?」
「────…………それは、君の方もだと思うけど?」
怒ったように怒鳴りあげたルゥの声にこたえたのは──フリックの声ではなかった。
はた、と、目を瞬き……ルゥはひょっこりとフリックの背中から顔をだす。
果たしてそこには、自分の部屋のドアの前──壁に背を預けるようにして立っている少年の姿があった。
暑い中だというのに、汗を一つも掻いていない、涼しげな美貌──見ているだけで暑くなりそうな、中途半端の金髪を揺らして、彼はヒタリと冷ややかなまなざしをルゥとフリックに向ける。
「窓から落ちかけるなんて、脳みそ沸き過ぎて、蒸発しちゃったんじゃないの?」
「──……っ! い、いつから……見てたの?」
「君が、呼んだんだろう?」
しれっとして返ってくる台詞に、ああ、そういえばそうだったと──フリックに助けられた時点でスッカリ忘れていた事実を思い出す。
同時に、あの一言で彼が来てくれた事実に──うれしくて、彼女は顔をほころばせた。
「ありがとう、ルック。」
結局、必要なかったけど。
そう、続けてペロリと舌を出してやると、ルックもフリックも、こいつは反省もしていない──と、ゆるくかぶりを振るのが分かった。
そんな彼らに、ルゥは機嫌を害したように片目を眇めて見せたが、まぁいいか、と思いなおす。
「それじゃ、僕、水着に着替えるよ。」
「──あぁ、好きにしろ。その格好よりはマシだ。」
ブンブンと、フリックが掴んだままの腕を振って見せると、フリックはうんざりしたような声を出して、簡単にその腕を離してくれた。
「水着? その格好よりマシ?」
ワケの分からない様子のルックに、フリックは軽く肩をすくめ──ルゥの体を押し出してやる。
ルゥは、フリックに掴まれた場所を見て、軽く眉を寄せていた。
彼が強引に掴み、引っ張った場所は、すでにかすかに赤くなりかけていた。
「痕がついたら、覚えてろよ……っ。」
小さくすごんで見せて、フリックをジロリと上目使いに見上げる。
フリックは、それに、「はいはい、覚えてたらな」と、疲れた風に返し、さっさと着替えて来いと、ルゥに向かって部屋のドアを顎でしゃくってみせた。
「ルックもフリックも、一緒に遊ぼうね。」
楽しそうに──何か含みを持った笑みで笑って、ルックの前を通り過ぎ、そのままパタン、と自室へと消えた。
残した一言に、ルックなら必ず返ってくるだろう一言が無かったことに、何の疑問を抱かなかったのはきっと、早く水浴びして、暑さを吹き飛ばしたいと、ただそのことだけに頭が取られていたのだろう。
「……………………な、頭痛いだろ? あれ?」
ルゥの部屋のドアの横──壁に背を預けながら、フリックは疲れたようにため息をつき、呆然としているルックを見やった。
視線の先……絶対、何があっても見れないような表情で、顔色で、ルックが絶句していた。
「……──っに、考えてるんだ……あのバカは……っ!」
こぼれた美声には、まだ動揺の色が濃く見えて、そりゃそうだろうな、と、フリックは同情を覚えて見せた。
ルックの、羞恥に染まった白い肌も見ものだったが──そんなもの、できることなら、二度と見たくない、というのが、今のフリックの意見であった。
何せ、これがまた起こるとするなら、また、この扉の向こうの少女軍主さまが、「自覚なし」なことをしてくれたときに違いないのだから。
ある夏の暑い日の午前中。
少年と青年は、お互いに疲れたように、いそいそと水着に着替えているだろう軍主さまの部屋の前で、少女が出てくるのを待っていたのであった。
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