「はい、これでおしまい、と──……。」
 ぽん、と結ばれた帯の上から叩かれて、思わずヨロリと前に足が踏み出た。
 いつもなら、その程度の軽い衝撃くらいで、体が揺れることなどないのだが、今日は勝手が違う。
 はだしの足は、いつもの動きやすい服ではなく、まとわりついた布で覆われていて、腰にもタオルやら紐やらが巻き付けられ、下手に力を入れると苦しいことこの上なかった。
 けふっ、と、衝撃の余り締め付けられた腹の辺りから空気がこぼれた気がして、彼女──ミリアは、口元に指先を当てた。
 そのとたん、ツメ先から香ってくる……甘いフルーツの匂い。色づいた赤いマニキュアの匂いだ。
「────…………ふぅ。」
 顔をうつむけると、頭の上でかんざしがシャラリと音を立てる。小さな丸い玉がいくつもついたそれが、揺れているのだ。
「苦しいだろうけど、我慢だよ。着崩れしないためには、キュッて締めるのが一番だからね。」
 着付けてくれたキンバリーは、そう笑って自分の膝の辺りで着物のすそを合わせている。
「キンバリーさんは、いいんですか?」
 いつもと同じ姿で、色っぽく着流した女にそう尋ねると──彼女からつやめいたウィンクを貰った。
「あたしはいいんだよ、これで。キッチリ着込んだら、女が廃るよ。」
 クスクスと笑う細い職人の指先が、つややかに塗られた唇の上をなぞる。
 その仕草を見ているだけで、同じ女だというのに、ゾクリと背筋がしなった気がして、ミリアは苦い笑みを口元に貼りつける。
 どこか苦しいような気のするおなかを、帯の上からさすってみるが──そんなことで締め付けられた苦しさが代わるはずもない。
 はぁ、とため息をこぼしていると、漁師小屋の扉が開いた。
「ミリア! 下駄を持ってきたから、合わせてくれ。」
 ひょこ、と顔を覗かせたのは、先に浴衣に着替えたらしい娘の姿──いつもは惜しげもなく肢体をさらしているスラリとした体が、今は紺色の落ち着いた色の浴衣に包まれている。
「おや──カミーユ、キレイに着れたじゃないか。」
 片手にミリアが履くためらしい下駄を持ったカミーユの姿を、上から下まで眺めて、キンバリーがからかうように笑う。
 その彼女の笑みに、カミーユは少し照れたように目の下を赤く染めた。
「ああ、まぁね。昔着たことがあって……。」
 後ろ襟を大きく開けて、白い項と背中に続くラインを見せている様は、いつもの姿よりも一層色香を感じさせていた。
 そんな彼女が、ふと目線をあげてミリアを見て──目を大きく見開いた。
 思いもよらないカミーユの反応に、ミリアは唐突に居心地の悪さを感じて、ジリ、と身じろぎする。
「あ……げ、下駄を、合わせたらいいの?」
 マジマジと見つめるカミーユの視線に耐えられず、ミリアは足を一歩、いつものように大きく踏み出そうとして──がくん、と浴衣の裾に足を取られる。
 あわてて姿勢を正すと、後ろからくすくすと笑い声が上がった。
「気をつけて歩きな。うまく裾を捌かないと、歩きにくいよ。」
「──……はい。」
 初めて着た浴衣は、確かに布地がキレイだとは思うが──苦しくて歩きにくい。
 はぁ、とため息をこぼして、ミリアは今度は小さく……足元に気を使いながら、出入り口に立つカミーユの元まで歩いた。
 そして、カミーユの手にする下駄を受け取ろうと手を差し出した。
 そこでようやくカミーユが、はぁ、ん──と、小さくうめいた。
「似合ってるじゃない、ミリア? ビックリした。」
「──……派手じゃない、これ?」
 パチパチ、と目を瞬くカミーユの、わざとらしいほどビックリした様子に、やっぱりこの浴衣は派手じゃないのかと、ミリアは憮然と尋ねる。
 赤い浴衣にプリンティングされた白い蝶の模様。明るい色目は、どこか浮かれているような気がして、なんだか落ち着かない。
 顔を軽くうつむけると、結い上げるためにと付けられた付け毛と、差し込まれたかんざしがシャラリと音を立てた。
 そう、難を言うならこのかんざしもそうだ。先の丸い部分に何か入っているらしく、動くたびにかすかに音を立てるのだ。キンバリーは、それほど大きくない音だから気にならないとは言ってくれるが、差している側は酷く気になる。
「ぜんぜん。派手さで言うなら、普段のあんたの方が数倍上だね。」
 緩む口元を押さえきれず、カミーユはミリアの姿をマジマジと見つめる。
 いつもの凛々しい表情が抜けて、戸惑いを宿す彼女は、いつになく女らしく見えた。
 これは、解放軍のバカ男どもは、ほうっておかないに違いない。
「ま、酒場辺りを歩くときは気をつけた方がいいよ。下駄は走りにくいからね。」
 ほら、と、カラン、と良い音を立てて、カミーユが自分のはいている下駄を揺らした。
 黒く塗られた漆黒の下駄に、浴衣に合わせた紺色の鼻緒。
 鼻緒に合わせた色で塗られた形よい爪先──いつになく上品に見えるのは、着ている浴衣のせいだろうか?
「──……気をつける、というのは?」
 戸惑うように首を傾けるミリアに……まぁ、ある意味竜洞騎士団も、「箱入り」なのかもしれないねぇ、と、キンバリーと視線を合わせた後、
「酔っ払いはタチが悪いってことだよ。
 さ、浴衣姿でお祭り気分とは言っても、あたしらにも仕事はあるんだ。
 行こう、ミリア、キンバリー。」
 ひょい、と肩を竦めて、カミーユがきびすを返す。
 太鼓の形に整えられた山吹色の帯が、小さく上下するのが見えた。
 ミリアはそれを見て、自分の着ている浴衣と帯を見て──キュ、と、紅の引かれた唇を横に引いた。
 背中を振り向いた目には、かわいらしく整えられたリボンの形をした帯。
「やはり、私の浴衣は、派手ではありませんか?」
 他の人達も、カミーユのような色合いのものだと考えると、ミリアの赤色は目立つに違いない。
 そう思ったらしい彼女に、キンバリーは小さく笑ってみせた。
「浴衣ってのは、昔は寝巻き代わりに来てたから、案外地味目なもんだけど、最近はそうでもないはずさ。現にメグなんかの浴衣の色はどぎつかったし、テンガアールのはキレイな山吹色だったし、ミーナのは明るい桃色だったよ。あんたのなんて、上品で地味すぎるくらいじゃないかい?」
 なんなら、ラメ入りの紐でも垂らしてみるかい? と──意地悪く聞いてくるキンバリーに、ミリアは目元を赤らめてにらみつける。
「ですが、カミーユのに比べると──やはり、派手なような気がするのですが。」
 できることなら、自分こそカミーユのような色が良かった……いや、いっそ、ハッピにしてくれれば良かったのだ。ビクトールやフリックのように、ねじりハチマキをしてもいい。──こんな派手な姿で目を引くくらいなら。
「ミリアにこんな地味なのが似合うわけがないじゃないか。
 ほら、納得したなら、さっさと出た出た!」
 どんっ、と乱暴に近い手つきで押し出されて、フラリと足が揺れた。
 そのまま二歩三歩と足が出て、気付けばカミーユが後ろ手に扉を閉めている具合だった。
「納得してないのに……。」
 思わずそう零して、ため息を一つ零す。



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