本当になんでもない一瞬──日常のふとした拍子に、普段は綺麗に押し隠していた感情が、零れ出るときがある。
 それは、いつでも、どんなときでも、自分の感情ではコントロールできないくらい、あっさりと簡単に、表に現れるのだ。
 隙間を埋めるように──心の中にコッソリと入り込み、大きく膨らむ。
 もうどこにも居ない人を思い出すのは、自分に苦痛しか残さないと思うのに──思い出したくないと泣きながらそう願うことすらあるというのに、心はソレに反して、自分が覚えている限りのあの人の姿を映し出していく。
 微笑み、暖かな言葉、優しい指先。
 少し無骨な手は、肌に触れられるとささくれた皮膚がピリと痛んだ。
 一度、肌に浅く傷が残ってしまってからは、その優しさは触れるか触れないかの柔らかなストロークに変った。
 愛しい人。
 大きくて暖かな指先が触れる肌が、ジンと熱く痺れた。
 その情欲を称えたまなざしに見つめられれば、なぜかまぶたが熱くほてり、幸せのあまり涙がこぼれた。
 人は、嬉しさや幸福でも切なくなるのだと、初めて知った。
 甘い痛み。
 甘いささやき。
 いつもは──決して誰に見せることもないだろう、甘いそれらに、心が震えた。
 唇に触れるぬくもり。
 間近で柔らかな光を宿すまなざし。
 熱い楔。
 それを思い出すだけで、胸の奥がこのまま溶けてしまいそうに痺れる。
 なのに。
 ゾクリとするほどの熱い思い出に翻弄された後──空虚が、体を占めるのだ。
 彼のことを思い出さない日は無かった。
 思い出すたび、ふと我に返った自分に赤面することもあったし、そんな自分がどこか誇らしく恥ずかしいような気がしたこともある。
 でもいつも、傍にあの人が居ない寂しさを感じることはあっても、悲しみを覚えることはなかった。
 だって、あの頃は、またすぐに会えると、そう根拠もなく信じていられたのだから。

 無くした宝はもう戻らない。
 それでも思い出だけは、同じように胸の内によみがえる。
 ただ、あの当時に覚えていたように、切ないまでの幸せをかみ締めることは無くなった。
 代わりに浮かび上がるのは、こらえきれないくらいの、ただ痛いばかりの、愛しさ、悲しみ。
 そして。


「憎しみ」






「……は、ぁ……っ。」
 苦しそうな吐息が闇に混じった。
 その熱さに混じった痛みを認めて、ゆがんだ微笑が己の唇に浮かぶのが分かった。
 開け放たれた窓からは、薄い月光が差し込み、照らし出されたベッドの上……苦しげに眉を寄せ、苦痛の声を必死に唇をかみ締める少年の表情が見えた。
 日の光の下で、彼の面差しに愛する男の面影を認めるのはシャクだったけれど──こうして薄闇の中、寄せられた眉のあたりや、いつもは厳しい光を宿す瞳が、彼に似ていた。
 だから、あえてその目も眉も見ない。
 視線を落とすのは──シーツを掴む右手だけ。
 決して、誰の前でもはずそうとしない汚い茶色の手袋は、真新しいシーツの中でイヤに浮いて見えた。
「──痛い……? ルイス……。」
 甘くささやくように耳元に唇を寄せる。
 その拍子に、ギシリ、とベッドがきしんで、少年は苦痛の声を零すのを必死にこらえた。
「────…………っ。」
 声も発しない──その少年の首元に、指先を突きつける。
 剣を扱うために短く切られた爪先は、それでも皮膚を傷つけるくらいの役割は果たす。そのために──わざと爪の先を尖らせてあるのだから。
 女の武器は、一つではない。
 ソ、と、熱くほてった指先を喉元に突きつけると、少年は一瞬瞳を揺らす。
 けれど何も言わず、ただ唇から零れる吐息をこらえていた。
 その目元が上気しているのが、青白い月光の下でもみとめられた。
 だから彼女は、濡れたまつげを瞬かせて、グ、と彼の首に突きつけた爪に力をこめた。
 柔らかな喉笛に埋め込まれる指が、的確に彼の気管を押している事実が、わからないはずはない。
 証拠に、彼はビクリと肩を震わせ──喉を詰まらせる。
「このまま、殺すことができたら、私はどれだけ幸せだろう?」
 濡れた唇で甘くささやいて、彼女は上半身を屈めて少年の唇に唇を寄せる。
 その少しの動きで、体の一部がきしんだ音を立てた気がして、彼女も小さく息を呑んだ。
 触れるほど間近で、瞳を交わす。
 息を詰めている少年の目には、ナニの感情も見えなかった。
──────昔とは違う……良く似ているのに、まるで似ていない瞳。
「──。」
 それ、が。
 自分の行為を無にしているような気がして、冷えた気のする唇を押し付けた。
「ん……っ。」
 否定するように、拒否するように首をひねろうとする彼の首に押し付けた指先に力をこめると、彼はあきらめたように唇を開いた。
 柔らかな──まだ思春期の少年の唇は、小さくて柔らかで、かみ締めたらすぐに切れてしまいそうだった。
 そうすればするほど、唯一自分が唇を交わしたことのある人の感触が思い返されて──あの渇いた熱い唇の、まるで違う味を思い出して……発作的に、歯を立てた。
「────…………っ。」
 ジクリ、と──口の中に広がる味がナニなのか、行動を起こした自分が知っている。
 体を震わせた少年の体が、逃げるように撓りかけるのを、指先と体でとどめる。
 足と腰に力をこめて、「締め付けてやれば」、あっけなく彼の抵抗はやむ。
「ん──……は……っ。」
 押し付けた唇を少しだけ緩めてやると、息苦しさにか少年が吐息を零した。
 舌先で傷つけた唇の傷を舐めながら、わざとらしく傷口を舌で広げてやる。
 痛みに眉を寄せる──その顔が、「似ている」。
「…………────っ。」
 そう感じた自分の考えに、カッ、と頭に血が上った。
 少年の首に添えた指先を解き、左手で彼の右手を捉える。
 彼は一瞬それに抵抗したが、
「あなたは……この権利さえも私から奪うの……?」
 下から睨みあげるように囁いてやると、その手をダラリと落とす。
 手を、重ねる。


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