クスリの匂いが立ち込める診察室を嫌う人も多いため、トウタは一日に何度かは部屋の窓を大きく開け放つようにしていた。
 そうすると、目の前に大きな木が一本と、涼しげな池が一つ置かれていて、とても気持ちの良い風が入ってくるのだ。
 今日もそのつもりで、小さな体をめイッパイ伸ばして、窓を開け放った。
 ホウアンが往診に出て居るため、誰もいないからと、思いっきり窓を開け放ったのがいけなかったのだろうか──、誰もいない診察室に、ブワリ、と大きくカーテンが翻った。
 そのカーテンの強襲を顔に受けて、ぶはっ、とトウタはあわててソレを引き剥がす。
 ぷるんっ、と軽く頭を振って、カーテンの魔手から無事に逃れたトウタは、涼しげな風が吹く窓を見やった。
 外では、のんびりと怠惰に体を伸ばしたジークフリードがぽかぽかと日向ぼっこをしている。
「わぁ……今日はいい天気だなぁ。」
 後で、オヤツの時間の後、少しだけホウアン先生にお願いして、散歩に行かせて貰おうかな?
 軽く首を傾げて、トウタはそんなことを思った。
 暖かな日差しはとても心地よさそうだったし、木の葉も揺れてはいないから、風も少ないのだろう。
 これなら、とてもいい散歩日和になることだろう。景色のいい洗濯場や牧場を覗いてみるのもいいかもしれない。
 ホウアンからまだ許しももらっていないのに──いや、優しい師匠のことだから、絶対に許してくれるに違いないと、トウタが小さく笑みを零したときだった。
 うららかな日差しの下、ゆっくりとした歩みでコチラに向けて歩いてくる人が見えた。
 人が道を歩いているのは何も珍しくはない。ないのだけど──その、歩いてくる人があんまりにも珍しくて、トウタは目を丸く見張った。
 バナーの村でこの城の城主と出会ったというその人は、穏やかな物腰と優しい微笑と、そしてどこか悲しげな雰囲気が酷く印象に残るきれいな人だ。
 造作や振る舞いも綺麗なのだが、そういうものではなく、もっと──心に強く刻まれるような何かを抱いている、そんな「きれい」な人。
 幼い心にも、彼は見た目を裏切る何かを持っていると、たやすく知れる人だった。なのに、そのことで畏怖し、敬遠したいと思うことはない。どちらかというと、その思いは尊敬や憧れに近い感情だった。
「珍しいな……一人で歩いてるなんて。」
 いつもなら、グレッグミンスターまで迎えに行ったリオに連れられて、城の正面から入ったり、商店街側から入って行く。さらに一人で居るときも、こちら方向に来るのはせいぜい図書館まで。
 道場や医務室などに来るときは、こちら側の道を使わず、本棟から渡ってくるのがほとんどだ。
 そのどの時も、彼の周りにはいつも誰かが居る。
 リオやナナミにしかり、元解放軍メンバーにしかり、だ。
 なのに今日は、この同盟軍本拠地でたった一人で歩いている。
 そんな光景は、もしかしたら初めて見たのかもしれない。
 穏やかに歩いてくる少年に、ふと首をもたげたジークフリードが、ファサリと優雅に尾を振る。
 少年はそんな相手に気付くと、とろけるような微笑を見せて、手を軽く上げる。
 ジークフリードはそんな相手に低く何かを呟いたかと思うと、再び尾を緩やかに揺らしてから、また穏やかな眠りに入っていく。
 何が起きたのか分からず、目を瞬くトウタの前で、クスクスと──少年は小さく笑った。
 その、優しい甘い微笑みは……誰もが見とれるに違いない、もの。
 琥珀色の目が穏やかな弧を描き──ふ、と、その目が医務室の窓から顔を覗かせているトウタに止まった。
 優しい笑みを向けられて、一瞬、トウタは息を詰まらせる。
 そんな彼へと
「──……やぁ、トウタ君。」
 少年は、当たり前のように微笑んでくれた。
 その笑顔を見た瞬間、ほのかに自分の頬が赤く染まるのを感じつつ、トウタは何とかはにかむような微笑を浮かべるのに成功する。
「こ、こんにちは──スイさん。」
 本当なら、もっと気の効いた言葉の一つでも口に出来たらいいだろう。
 けれど、トウタもこの城の城主に違わず、目の前の「若くして英雄」である少年に、憧れを抱いていた。
 暴力や乱暴なことは嫌いだけど、目の前の人は物腰も穏かで、優しい。
 そんな憧れの人を前にして、したたかに微笑むことなど出来なくて──必死にドキマギした気持ちを抑えるのが精一杯。
「ホウアン先生に会いたいんだけど──いらっしゃる?」
 トウタの気持ちを知ってか知らずか、ニッコリ上品に微笑む英雄に、トウタは自分の心臓が更に大きく音を立てたのを感じた。
「え、え、えーっと……ホウアン先生は……っ。」
 慌てて診察室の中を振り返る。
 けれど、当たり前だけれど、そこにホウアン先生の姿はなかった。
 分かっていたはずなのに、トウタはその事実に、どうしよう、と眉を落とした。
「いらっしゃらないなら、中で待たせてもらっててもいいかな?」
 淡く微笑んで、そう尋ねてくれた人に、トウタはコクコクと顎を上下させて頷く。
「そう、それじゃ、ちょっとお邪魔させてもらうね。」
 あでやかに微笑んだ麗人は、そのまま兵舎の入り口をくぐっていった。
 トウタは、その背をジッと見送り、彼の姿が完全に兵舎の中に入った瞬間、バッ、と身を翻して診療室を振り返った。
「お茶請けっ、あったかなっ!!?」
 そして、スイがココにたどり着く前にと、慌ててお茶用のお菓子を置いてある棚に向かって、走るのであった。






 ぷるるん、と柔らかな弾力を持つヨウカンを一口サイズに切り分けて、それを口元に運ぶ。
 動作としてはソレだけ。
 なのに、目の前の人がすると、なぜかソレがどこかのディナーの様子のように見えないでもなかった。
──というよりも、何をやっても様になるのだ、本当に。
「──ん、おいしい。」
 ホロリ、と解けるように微笑む彼に、良かった、とトウタは小さく呟いて笑った。
「スイさんのお口にあうか、心配だったんです。」
 かすかに染まったほほを、指先で擦るようにしながら、お盆を抱えなおすトウタに、スイは軽く首を傾げた。
「そんなに僕は、味にうるさそうに見えるかな?」
「あ、いえ──どっちかというと、ヨウカンとかは、食べないかな、とか……。」
 何せ彼は、世が世ならば「お貴族様」なのだ。
 あのヴァンサンと同じだと思うと首を傾げたくなるが、ヴァンサンにヨウカンが似合わないのと同じように、スイにもヨウカンは似合わない……ような気がしてならない。
 優雅に紅茶やハーブティを啜って、スコーンだとかシフォンケーキだとか、そういうティータイムが非常に似合っている、と思う。
「そんなことないよ? ソレ、前にリオにも言われたんだけど、ヨウカンとかウイロウとかお饅頭とか──結構グレミオが……うちの料理係りが作ってくれてたから、小さい頃から良く食べてたんだ。
 でもまぁ、久し振りに食べるかな?」
 プス、と新しく切り分けたヨウカンに爪楊枝を刺しながら、そう零す。
 少し首を傾げて──。
「そういえば、和菓子を食べるのは、あの時以来かも…………。」
「あの時?」


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