今日だけは、窓のカーテンを開けていた。
暗い部屋の中に差し込む月明かりだけが、唯一の明かり。
ろうそくの火を吹き消した瞬間は、ただ真っ暗で、手探りで触れ合うしかなかった。
耳に触れるのは、震えるような吐息の音と、衣擦れの音。
互いの吐息の音だけを頼りに、寄せた唇が熱い。
指先の震えは、どうしても取れなかった。
なのに、しっとりと吸い付くような肌に触れた瞬間、それは衝撃にも似た感覚に摩り替わった。
──触れただけで壊れてしまうような人じゃない。
それは、自分が一番良く知っている。
知っているのに──触れるのが、怖い。
触れた指先に感じ取れる華奢な体のラインや、指先に触れる頼りない輪郭のライン。
光溢れる太陽の下では、あれほど活き活きと輝いていたその肌が、今ばかりは月明かりの下で儚く揺れている。
その肌に触れるのが怖くて──もう少しだけ先延ばしにしたくて、そ、と顔を傾ける。
間近に近づく吐息を感じて、彼女が長い睫を伏せるのがわかった。
軽く触れるだけの口付け。
羽根のように柔らかなキスだというのに、しっかりと唇に感じる相手の命の存在。
眼の前に、彼女は居るのだと──そう、心から感じ取れた。
名残惜しげに唇を離して、薄く瞳を開いて間近に見下ろした人の面差し。
薄い闇に浮き立つその肌は、ほのかに上気していて、その白さにハッとさせられた。
触れたら壊れてしまいそうだと思うのは、彼女が頼りない闇夜の中に立っているからじゃない。
今の彼女の、どこか不安げな態度が、よりいっそう自分にそう思わせるのだ。
──壊してしまいそうだ。
「………………アリーナ様……。」
小さく呼びかけた自分の声が、闇の中に震えて聞こえるのに、心の内で苦笑を覚える。
彼女の華奢な両肩を掴んだ手が、かすかに震えていた。
睫を震わせて、ソ、と開いた彼女の瞳が、美しい紅色を宿す。
かすかに潤んだ瞳に見つめられて、ドクン、と心臓が高鳴る音を立てた。
「クリフト……。」
先ほどのキスで触れたばかりの唇が、期待に満ちた声で呼びかけてくる。
その声は、クリフトの問いかけを許していた。
それと同じくらい、不安に胸を揺らし、心の底から湧いてくる震えを堪えようとしていた。
それがわかるからこそ、クリフトは一瞬ためらうように視線を落とす。
「アリーナ様──。」
「大丈夫よ……私、大丈夫だわ。」
精一杯微笑んで、アリーナは震えて冷たくなった指先で、自分の両肩の上に置かれたクリフトの手に触れた。
指先に触れたクリフトの手も、緊張のあまり冷たくなっていて──汗ばんでいた。
「震えてる。」
小さく囁いてくるクリフトの声も、震えていた。
「それは、あなたもだわ。」
ただ、ジ、とお互いの目を見交わした。
昼の太陽の中では、いつも互いの目に映っているのが見えたけれど、今日ばかりはそうも行かない。
いつものキレイな瞳の色も、少しくすんで見えた。
でも、暗闇の中でお互いに見つめる瞳の色も、キレイだと思った。
ただ、お互いの目の中が良く見えないのが残念だと、同時に思いはしたけれど。
「アリーナ。」
短く、名を呼んだ。
その瞬間、ビリ、と背筋を震わせるような甘いうずきが体中を駆け抜けた。
同時に、言い知れない恥ずかしさもこみ上げてきて、クリフトはかすかに目元を紅潮させた。
その瞳で見下ろした先で、同じように頬を赤らめたアリーナが、照れた眼差しで自分の顔を見上げていた。
けれど、その目には喜びの色が濃く宿っているのを、この暗闇の中でもクリフトは見逃すことはなかった。
だから、お互いに視線をかみ合わせながら、照れたように微笑みあう。
肩に置いていた手を、かすかに揺らして──クリフトは、震える手の平をキュ、と一度握り締めて、それからその手を掲げてアリーナの頬に当てた。
暖かな頬は、すっぽりと手の平に収まった。
ピクン、と小さく震えたアリーナは、それでも背筋を正して──ニコリと微笑んだ。
「クリフト。」
甘い色を含む声に、クリフトは泣きそうに顔をゆがめて──そろり、と指先を震わせた。
親指でアリーナの目の下のラインをなぞる。
アリーナは片目を閉じて──それでももう片目でクリフトの顔を見つめ続けた。
子指で彼女の顔の輪郭を辿った。
その柔らかなラインに、柔らかな心地に、アリーナは、ソ、と目を閉じた。
目を閉じてしまえば、クリフトの顔は見えない。
けど、彼の手の平のぬくもりも、彼の手の指の感触も、きちんと覚えている。
「──アリーナ。」
小さな声と共に、チュ、と軽い口付けが瞼の上に落ちる。
それを受け止めて──アリーナは、ゆっくりと瞳を開いた。
すぐ間近に見えたクリフトの瞳に──おぼろげに自分の顔が映されていた。
────暗闇の中でも。
「クリフト……。」
手を、彼の背に回す。
そして、引き寄せられて……何度目かの口付けを。
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