いつものように、夜になってからクリフトの居る教会を訪れるのは、アリーナの日課だった。
 その日も、マナーにうるさいクリフトのために教会の扉を開け放して、二人で椅子に腰かけて話していた。
 教会の中は、祭壇と壁に備え付けられた蝋燭の明かりで照らし出されていた。
 けれど、突然開け放したままの扉から風が吹き、教会内の蝋燭は、一気に消えてしまった。
 同時に、ばたん、と大きな音を立てて扉も閉まってしまった。
 とたんに、辺りは何も見えないほど真っ暗闇に包まれてしまう。
 小さくため息を零しながら、アリーナは窓からの明かりも乏しい、真っ暗な教会の中を、目を据わらせて見据えた。
 ──が、鳥目でなくても、この暗闇の中で先を見通すのは辛い。
 それでも、毎日来ている教会の中だから、配置くらいはわかる。
「確か、マッチが祭壇のところにあったわよね?」
 ふだんまるで触らないその位置を思い出しながら、アリーナは暗闇の中、ソロリ、と進み出た。
 椅子を伝うようにすれば、祭壇前まで躓くこともなくたどり着くはずだ──そう思いながら、片手を斜め前……椅子のある辺りに伸ばしながら、さらに一歩前に進み出た瞬間。
 ガツッ、と、足を取られた。
「キャッっ。」
 何に足を取られたのか理解するよりも先に、ぐらり、と体が傾ぐ。
 慌てて両手を前に出すが、視界には暗闇しか映らず、自分が出した手が、前へ向かっているのか床に向かっているのかすら分からなかった。
 床との距離感も分からぬまま、前のめりに倒れかける。
 足が完全に床から離れたのを感じると同時、とっさに体を捻って、腕と頭を庇おうとした。
 けれど、とっさに受身を取ろうとするよりも早く、
「姫様っ。」
 ぽす、と軽い音と共に、間近でクリフトの声がした。
 体ごと、クリフトに受け止められたらしいと理解するのは早かった。
 少し目を眇めると、暗闇に慣れた目に、クリフトの白いシャツがすぐ間近に見て取れた。
「紐に足が引っかかったんですね、大丈夫ですか?」
 心配そうな声が、アリーナの頭のナナメ上あたりから降って来る。
「……え、えぇ……大丈夫よ。」
 その声にコクリと頷きながら、アリーナは自分の足元を見下ろす。
 しかし、間近なものが見える程度に視界は回復したとは言えど、足元までは見通せない。見下ろした床は、ただ暗闇に包まれているばかりだ。
「こんなところに紐なんてあったっけ?」
 首を傾げながら、クリフトに問いかけると、頭の上で彼が頷いた気配がした。
「えぇ。夜は、奥の部屋に入らないようにと、紐を張ってあるんですよ。」
 返って来る返事に、そういえば最近は物騒だからと、そんなものをつけたのだといっていたような覚えがある。それがココにあると言う事実をすっかり忘れていたアリーナは、クリフトの物覚えの良さに感心する。
 さすがクリフトね、と笑いかけると、クリフトは苦い顔を見せた。
「私が自分で張ったものですから、位置は大体把握しております。」
 言いながら見下ろした先で、暗闇の中でも浮き出るような白い肌のアリーナの顔がぼんやりと見える。
 毎日の練習で日に焼けているとはいえ、もともとそれほど小麦色に焼けるわけではないアリーナは、旅をしていた頃も、ほかの誰よりもずいぶんと白く見えものだった。
 今は特に、一日中日の下にいるわけではないから、なおさらだった。
「姫様、このまま動かないでくださいね。今、ランプを取ってきますから。」
 クリフトは、今にも動き出しそうなアリーナをとどめおく台詞を吐きながら、ぽん、と彼女の肩を叩いた。
 そしてそのまま、アリーナの顔を覗きこむ。
 きちんと念押ししておかないと、彼女はそのまま紐を飛び越して、クリフトの部屋にまでランプを取りに走りに行ってしまいそうだったからだ。
「ランプ……。」
 アリーナはクリフトの言葉を口の中で繰り返し、あ、と小さく声を上げる。
 そのまま、暗闇に隠れて見えないクリフトの顔を見上げて、続けようとした。
「それなら、私、さっき、後ろの椅子に……。」
 おいたところだわ、と。
 続けようとした言葉が途切れた。
 音もなく、唇の先に柔らかな何かが触れた感触がした。
 羽根のように微かな感触に、アリーナはキョトンと目を見開いた。
 ようやく暗闇に慣れ始めた目には、かすかに映ったクリフトの輪郭が、思った以上に近くに見えた。
 思ったよりも近くにクリフトの顔があったらしい──シャツに唇の先が触れたのだろうかと、アリーナは少し顔を後部にずらし直して、クリフトの顔を見上げながら、改めて先を続けた。
「後ろの椅子に置いてあるわよ、ランプ。」
 肩に置かれたクリフトの手に力がこもるのに、アリーナは小さく苦笑を漏らして、ポンポン、とクリフトの腕を軽く叩く。
──分かってる、というサインのつもりだった。
 今、躓いたばかりなのだから、祭壇までマッチを取りに行かず、おとなしくココに居てください、という意味だとアリーナは理解した。
「──でも、気をつけてね、クリフト。」
 軽く首を傾げて、アリーナはクリフトに囁きかける。
 いくら慣れている教会の中とは言えど、見えないだけで、ずいぶん危険だ。
 何せ、今、自分も紐に躓いたばかりなのである。クリフトに抱きとめられなかったら、大きく転んでいただろう。
 キリリと真摯な声で忠告するアリーナに、大丈夫です、と、生真面目にクリフトは返す。
 そしてそのまま、ヒラリと身を翻して、暗闇の中、なれた足取りで祭壇の元までたどり着いた。
 慎重に祭壇の上を手で探ると、ほどなくマッチは見つかった。
 それを手にとり、クリフトはアリーナが待っている場所まで戻った。
「お待たせしました、姫様。」
「はい、ランプよ。」
 打てば響くように、アリーナがランプを掲げるが、暗闇の中ではそのランプが見えない。
 クリフトはすぐに手の中のマッチを擦った。
 パッ、と付いた炎の照り返しに、アリーナの白い素肌が暗闇に浮き出た。
 その細い腕の先を辿るように炎を近づけるて、マッチが燃え尽きる前に炎を移した。
 とたん、パッ、とその周囲だけ、明るく光りだす。
 教会の全てを照らし出すことができるような大きさのランプではないが、旅の間に見慣れたランプの明かりは、アリーナとクリフトの顔を、お互いに良く見える程度には明るい。
 その明かりのすぐ近く──思った以上に近くに見えたアリーナの顔に、思わずクリフトは小さく息を呑んだ。
 彼女はランプを自分の顔の近くにまで近づけていたらしい──ランプに顔を近づけて炎をともしたクリフトの、目と鼻の近くに、アリーナの顔があった。
 思わず目を見張ったクリフトを、アリーナは炎の照り返しを受けた赤い瞳で、ニッコリと見上げる。
「少しの明かりでも、安心するものね、クリフト?」
 そんな彼女の容貌を──愛らしい微笑を間近に認めて、クリフトは微かに目元を赤らめ……それから、ニッコリと笑い返した。
 そのまま、二人同時にお互いの顔を見つめて──、瞳が交わった瞬間、奇妙な沈黙が生まれた。
 何と形容していいのか分からない、少しだけいつもと違う色を刷いている──そんな気がする沈黙。
 それが何なのかわからなくて、アリーナはゆっくりと目を瞬く。
 クリフトが、少し狼狽しているような──そんな気配も感じた。
「くりふと?」
 小さく、彼の名を呼ぶ。
──確かクリフトは、暗闇が怖いとか、そういうのは無かったはずだけど。


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