どうかしたのと、そう続けようとした先──クリフトは、ほんの少しだけ視線を落とした。
 その時に見せた表情が、なぜか目に焼きつくほど印象的で──見逃しそうなほど、ほんの一瞬の仕草を、アリーナは凝視した。
 確かに一瞬の仕草だった。
 ほかの誰かなら、気づくことすらないかもしれない、クリフトの恥じらいと……困惑。
 だけど、アリーナはそれを見逃すことはなかった。
 困惑の中に混じった、彼の──言葉に出来ない感情も。
 微かに目元を紅潮させたクリフトの顔を、瞬きするのも忘れて、ただ見つめた。
「……クリフト……。」
 知らず、唇から彼の名前が零れた。
 無意識のうちに零れたその名前に、クリフトが少し困ったような顔になるのが見えた。
 その彼の唇が、微かに震えている。
 肩に置かれた手に、微かに力が篭り、熱をもったような気がした。
「………………姫様……。」
 苦しげに、何かを堪えるように呟かれたクリフトの囁きが、雄弁に語っている──誰よりも側で見ていてくれた、アリーナだけの瞳が、目の前で──言葉よりも物語っている。
 ジクリ、と、湧き上がるような喜びにも似た甘酸っぱいこの感情を、なんと表現していいのか、アリーナには分からなかった。
 口に出して説明することは出来ない。
 けれど、分かる。
 クリフトが今何を思い、何をしようとしているのか──アリーナには、分かった。
「クリフト……。」
 呼びかける声が、震えないように──熱をもたないようにするのが、必死だった。
 ドクン、と胸が一つ高鳴り、アリーナは唇を弱く横に引いた。
 まさか、と……そう思う気持ちが、クリフトの瞳と視線を交わす間に、確信へと変えられていく。
 ただ、クリフトが自分を見下ろしている。
 こんなことは、前から、幾度もあったことだ。
 なのに、今のこれは、違う。
 意味が、違う──そう、感じた。
 だから、胸がどきどきと忙しなくなり始める。
 だから、彼から瞳が離せない。
──だから。
 促されたわけでもなく、アリーナは、そ、と睫を伏せずにはいられない。
 一度小さく息を吸い込んでから──、一度小さく息を吸い込んでから、クリフトのシャツに指を絡めた。
「姫様……。」
 小さく呼びかけられた声に答えるように、アリーナはほんのりと頬を染めて、軽く顎をあげて──目を閉じる。
 とくん、と、鼓動が強く鳴った。
──勘違いかもしれない。
 そんな思いが一瞬胸を掠める。
 けれど、アリーナが強請るような自分の仕草に後悔を覚えるよりも先に、フ、と、目の前の空気が動いた。
「……ぁ……。」
 互いに引かれるように、吐息が近づく。
 頬を掠めるように撫でる熱い空気は、クリフトの温度だ。
 緊張に、アリーナはクリフトのシャツを握る手に力を込める。
 ジットリと汗ばむ手の平に、ドクドクと鼓動が早打ちを始めた。
 キュ、と、強く目を閉じて、触れ合うほど近づいた吐息に、ゴクリ、と喉が上下した。
 そんなアリーナの、白い頬に落ちる長い睫を見下ろしながら──ドクドクと脈打つ血液に、震える唇を抑えることもできないまま……クリフトは、そ、と目を閉じた。
 間をおかず、先ほど暗闇の中で一瞬触れた感触と、同じ感触が唇に触れた。
 そ、と触れるだけの感触に、ぴくん、とアリーナの肩が揺れる。
 今度は、先ほどの事故のような触れ合いとは違い、何の感触なのか、わかっていた。
 微かに一瞬触れただけだったが、お互いの唇の温度に、その触れた感触に、ビックリしたようにアリーナもクリフトも、すぐに唇を離した。
 ソロリ、と開いたアリーナの深い紅の瞳が、恥ずかしげに伏せられ──クリフトは、唇を真一文字に結んで、困ったように彼女を見下ろした。
 何を言っていいのか、この後どうしていいのか、分からないまま、ただお互いに視線を合わせることもできずに、そのまま唇を結び続ける。
 このまま、何も無かったかのように、笑い会えばいいのだろうか?
 衝動的に近い行動に、戸惑いを隠せないまま、クリフトはアリーナの肩を抱き寄せることすらしなかった手を、ギュ、と震わせながら握り締めた瞬間、
「……クリフト。」
 アリーナが、クリフトのシャツを握る手に力を込めて、クイ、と、引いた。
 動揺したような表情を見せる彼に、一度小さく頷いて──再び、そ、と目を閉じる。
「………………。」
 クリフトが戸惑うような気配がした。
 それでも、行動は早かった。
 再びクリフトの気配が間近に感じて──今度はゆっくりと、しっかりと唇が合わさる。
 詰めていた息が、安堵のあまりか、嬉しさのあまりか、唇から零れそうになり、アリーナは慌てて唇を引き結んだ。
 けれど、そのすぐ直後、一瞬触れていただけの唇は、熱い吐息を零しながら離れていった。
 ぎこちない、口付けだった。
 時間にしたら、一秒もかかっていなかったかもしれない。
 けれど、初めてのキスは、ドキドキと胸に甘酸っぱい心地よさを満たした。
 止めていた息を、そろそろと吐きながら、アリーナは瞳を開く。
 同じように恥じらいと戸惑いを宿したクリフトの瞳が、すぐ間近からアリーナを見下ろしていた。
 今度は、視線が交わった。
 お互いの瞳に、お互いの濡れた眼差しが映っているのが見えた。
 それが気恥ずかしくて、アリーナは小さく彼に笑いかける。
「……アリーナさま……。」
 震える唇が、アリーナの名を口ずさんだ。
 その唇を見上げて──ただ合わさっただけなのだから、濡れているはずもないのに、クリフトの唇が濡れているような気がして……今した行為を、ありありと残しているような気がして、むしょうに恥ずかしくなった。
 頬を火照らせたアリーナは、それ以上クリフトの顔を見ているのが気恥ずかしくなってきて、トン、と、彼の胸元に額を押し当てる。
 熱をもったように熱いクリフトの背中に、そのまま手をまわそうとして──自分がまだ片手にランプを持っているのに気づいた。
 どうしようかと、一瞬の逡巡の間に、クリフトの手が、ソ、と彼女の手の平を覆った。
 そのままランプを奪われて──クリフトが、ことん、とテーブルの上にソレを置くのが見えた。
「アリーナ様……。」
 少し熱の篭った呼びかけには、恥じらいと願いが込められている。
 アリーナは、迷うことなく彼の背中に手を回して、思い切り良く抱きつく。
「クリフト。」
 小さく呼びかけると、クリフトはそれを聞いて……甘い、とろけるような微笑を浮かべた後、無言で己の手を彼女の背に回した。
 そのまま、アリーナが望むように、彼女の小さな体を、キュ、と抱きしめる。
 ただ──やさしいだけの抱擁。
 こみ上げる歓喜ではない、静かな──むずがゆいような喜び。
 アリーナは、自分を抱きしめてくれるクリフトの体に抱きつきながら、彼の胸元に、小さく零した。
「……良かった。」
 なんて口にしていいのか分からない、湧き上がる思いを噛み締める。
 何が良かったのかもわからないまま、ただ、アリーナは喜びを確信していた。

 好き、なのだ、と。


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