赤月帝国時代と同じように、あでやかにして華やかなる都と歌われる首都──グレッグミンスターに着いたのは、太陽が西へと傾き始め、あと1刻もすれば空が茜色に染まり始めるような……そんな時間帯だった。
 国境からグレッグミンスターまでの距離を、休むことなく駆け続けた馬車からゆっくりと降りれば、馬車が止まるのも惜しむ勢いで飛び降りていた少年の背が、遠く門の辺りに見えた。
 その少し後ろを走る少女が、顔だけ振り向いて何か叫んでくるのに、先に馬車から降りていたフリックが片手をあげて答える。
「ナナミ! 危ないから前見ろ、前っ!!」
 そんなフリックの「返答」が聞こえなかったのか、ナナミは駆ける足を緩めながら、体ごとクルリとこちらを振り向く。
 完全に後ろ向きになって走るナナミに、フリックは、逆効果かと、パチンと額に手を当てた。
「なーにか言ったぁ、フリックさーんっ!!?」
 そんなフリックの内心の葛藤に全く気づいていないナナミは、お気楽な調子で口に両手を当てて叫ぶ。
 その拍子にグラリと体が傾ぐが、ナナミは持ち前の運動神経ですぐにバランスを取り戻し──そしてまた、何もなかったかのようにそのままリオに背を向けた状態で、門の方角へと足を進めていく。
「あーあ、ありゃ、スッ転ぶぞ。」
 呆れたようにビクトールが呟けば、フリックも同意をするように頷いて、ナナミに倣って口元に手を当てて叫ぶ。
「だから前を向け、前を! 転ぶだろっ!!」
「お兄さんだねぇ、フリックさん。」
 その言葉が、昔からは信じられないと言うように、笑いながらシーナが茶化せば、その尻馬に乗るように、
「まったくだな、青雷のフリックともあろうお方が、青臭いどころか所帯じみてるとは、ビックリだ。」
 御者台に座っていた男が、馬の首を旋回させようとしていた手を止めて、朗らかに笑い飛ばしてくれた。
「なっ! バルカス、お前、よりにもよってなんて言い草しやがるんだっ!」
 途端、片足を地面にバンと叩き付けるようにして、顔を赤く染めたフリックが振り返るが、殺気すら滲んだ睨みであろうとも、元山賊頭領がその程度でしり込みするはずもない。
 バルカスは笑いながら手綱を引き締めつつ、激昂するフリックに不器用なウィンクを一つ飛ばす。
「アハハハ、まぁいいじゃねぇか。
 昔のヤツらが今のお前見たら、ビックリするぜ。」
 ヒラヒラと飛んできたウィンクを、問答無用で叩き落したフリックは、ふん、と大きく鼻息を漏らすと、両手を腰に当てて彼を見上げた。
「そりゃコッチのセリフだ。
 俺はいつココに来てもビックリするぜ? あのバルカスが、国境で敬語なんて使って御者係りしてるなんてな!」
「国境警備隊だっつぅの。」
 大げさに肩を竦めて叫んで見せれば、構ってられるかと言うように、バルカスは顎をあげて笑い飛ばした。
 そしてそのまま馬の首を今来た方角に戻しながら、
「それじゃ、俺は先に国境に帰ってるからな。
 お前等、ジョウストンに帰るなら、門番に一言言って、馬でも借りとけ。」
 リオやナナミの前で見せていた「国境警備隊長」らしい顔をかなぐり捨てて、野蛮な表情でニヤリと笑う。
 そんな彼に、呆れたようにビクトールが片眉をあげて彼を見上げた。
「……それは職務怠慢ってぇやつじゃねーのか、バルカス?」
 本来なら、リオが国境を越えてこちらに来た時点で、バルカスは「警備隊長」兼「リオの護衛係り」にも任じられているはずなのだ。
 今までにも何度か、リオがグレッグミンスターを訪問するたびに、バルカスは送り迎えを自分で行っていた。
 なのに、今日は、今乗ってきた馬車で、そのまま帰るというのだ。
 これが職務怠慢じゃなくて何だと言うのだろうか。
「いんや。今日はな、どうしても夜には国境にいないといけない用事があってな。」
 髭をゆがませて笑うバルカスの口調はお気楽だったが、その内容に不穏さを感じて、ビクトールは鼻の頭に皺を寄せる。
「何かあんのか。」
「ただの山賊狩りだな。」
 たとえ言えないことでも聞き出すと、そう不穏な表現を滲ませながら問いかけたビクトールに、しかしバルカスは、あっさりと口を割る。
「山賊? 何、あの山、山賊が出んの?」
 バルカスの口から出た単語に、シーナが口笛でも吹きそうな不謹慎な態度で尋ねる。
 バナーとトランを繋ぐあの山には、知る人ぞ知るロッカクの里がある。
 更に人食い虎や、あの山にしか住まない面倒な生き物も幾つか出没するのだと、アップルやカスミから聞いてはいた。
 だから、あの山にわざわざ住み込んで、山賊行為を行うなんて──はっきり言って、バカじゃないかと思うのだが。
「トランの人間じゃねぇな?」
「だな、トラン出身者なら、あそこにロッカクの里があるのは周知の事実だしなぁ。──ということは、ジョウストンからか?」
 打てば響くように推察するビクトールとフリックの言葉に、ニヤリとバルカスは口元を歪める。
「ご名答。
 ──ジョウストンの村が幾つか焼かれただろ? アレでな、行き来する獲物がいなくなったらしくってなぁ、こっちに流れてきたみたいなんだ。
 で、ジョウストンとの同盟も成った今、下手に動かれると困るんでな。レパント大統領から、山賊狩りの命令が下ったってぇワケだ。」
 わざとらしく「レパント大統領」と名前を出せば、シーナがグシャリと顔を歪めるのが分かった。
 彼は遊んでいた場所から無理矢理引き戻され、再び修行だと戦乱の只中に叩き込んでくれた父を、とても苦手に思っているのである。
「まー、お前も元は山賊だしなぁ? ヤツラの手の内は、大抵先読みできるってぇワケか。」
「そういうことだな。──そういうわけで、今夜決行するつもりなんでな? わりぃが俺は、先に帰らせてもらう。
 ちゃんと上には話を通してあるからよ、帰るときにゃ、バレリアかカミーユ当たりが護衛についてくれるだろうさ。」
 だから安心しろ、と、馬車から降ろしたばかりの四人を見下ろして、ニヤリと笑うバルカスの不敵な表情に、なるほどな、とフリックとビクトールは顔を見合わせて苦笑した。
「えっ、何、バレリアさんかカミーユさんが付いてくれるのっ!? マジでっ!? ぅっわー、それなら俺、もう頑張っちゃうぜ!」
 途端、シーナがバシンっ、と狂喜乱舞して両手を叩き合わせる。
 つい先ほどまで「男ばっかりで馬車かよ……」と、文句を言っていたとは思えないほど軽やかな笑顔で笑うシーナに、
「……君は本当に、お気楽な頭だね…………。」
 それまで沈黙を守っていたルックが、思わず溜息を零した。
 先行きが思いやられる──というか、どうしてこんな脳みその軽い人間と一緒に行動をしなくちゃいけないのか、と……アリアリと分かる皮肉を表情に出して、キレイな顔を歪めるルックを、ジロリとシーナが睨みつける。
「あぁ? 何がだよ? おまえ、バレリアさんとカミーユさんだぞっ!? あの二人に守られて国境までってそりゃもう、どうせなら一緒にそのままジョウストンまで行っちゃいませんかって感じだろ、普通っ!?
 ──あ、いやいや、二人ともそりゃー強いけどな。やっぱココは俺が、イザって言うときに守ってみせれば、そりゃもう惚れ直されるっていうか……っ!」
「──あー……あのな、シーナ。」
 全身で帰り道の希望を語るシーナに、一体どこから口を突っ込めばいいのかと、フリックはコリコリと頬を掻く。
 普通、今の話を聞いたら、バルカスがこれから続けようとしていた「オチ」がすぐさま分かるはず──なのだが。
 バレリアとカミーユという美人二人の名前に、うっかり頭が遠い方向に走ってしまったらしい。
「──ん、まー、どうせすぐに分かんだろ。ほっとけほっとけ。」
 パタパタ、とやる気なさげに手を振ったビクトールは、そのままバルカスを一瞥すると、
「リオとナナミにゃ、俺らから言っとくぜ。
 お前等も夜通しになりそうだから──ま、明日の昼過ぎくらいまでは、時間潰しとくようにするぜ。」
「あぁ、悪いな、ビクトール。頼むぜ。」
 打てば響くように「分かって」くれるビクトールの言葉に、バルカスは満足したように笑うと、今度こそ馬の手綱をピシリと撓らせて、馬に出発の合図を送った。
 ガラガラ──……と軽い音を立てて走り出す馬車の御者台から、バルカスがヒョイと手をあげて、
「そんじゃま、明日の昼過ぎくらいにゃぁ、迎えに来るからよ!!
 だからおめえら、絶対に、今夜は国境に足を踏み込むんじゃねぇぞー!」
 シーナが口を挟みさえしなかったら、言っていただろう「オチ」を口にしてくれた。
「──……って、えっ!? 何、なんでそーなるんだよっ!?」
 シーナは、バルカスの言葉に慌てて叫ぶも──馬車の背はすでに手が届かない範囲まで走り抜けていて。
「なんでバルカスさんが迎えにくるんだ……っ!?」
 愕然と叫ぶシーナに、面倒臭そうにビクトールがコリコリと頭を掻きながら答える。
「だーかーら、バレリアとカミーユが護衛に付くってぇのは、ただの冗談だっつぅことだろ。」
「そもそも、山賊狩りをしてる最中の山に、入らせてくれるわけないだろ。」
 あきれたようにフリックがビクトールの言葉を継げば、少し離れたところで腕を組んでいたルックまでもが、バカにしたような冷たい視線をシーナにくれた。
「山賊狩りをするって言われた時点で、明日の朝までの足止めを予想するのなんて、当たり前じゃないの? ──君、一体、何年旅をしてるのさ?」
「…………マジでぇぇっ!?」
 ──期待がチリと消えたシーナの、雄たけびに近い声に。
「え、何、どーしたの、みんなっ!?」
 ずーっと後ろ向きに走っていたナナミが、驚いたように顔を跳ね上げた瞬間──……。

 ズッ……、

 と、彼女の足が滑った。
「……キャッ!? えっ、わ…………わわわっ!!!」
 グラリ、と傾ぐ体に、慌てて両手を振り回してバランスを取ろうとするものの、すでに背中と地面が平行線に近いほど倒れ込んだ体は、なかなか元に戻ってくれず──。
 ズルッ……、と。
 足もとで大きくすべる音がしたと、思った瞬間。

 ドスンッ──…………っ。

 ナナミは、勢い良く頭から地面に突っ込んでいた。














「うぅ……頭痛い……。」
 涙目になりながら後ろ頭をさするナナミの隣で、リオが心配そうに眉を寄せている。
「どこかで氷でも貰って、冷やしたほうがいいかな?」
 首を傾げるリオの言葉に、コクコクとナナミは頷き──その動作に、ずきぃん、と後頭部に激痛が走って、思わず前かがみになって足を止めた。
「うぅぅぅ……ずきずきする……。」
 痛い部分にソ、と手を触れさせれば、頭の芯まで痺れるような傷みが走った。
 ビクゥッ、と肩をはねさせるナナミに、慌ててリオがその背中を支える。
「大丈夫、ナナミっ!?」
「い……痛かった……っ、おっきなタンコブができてるぅ。」
 じんわりと、大きな目に涙を溜めながら見上げてくるナナミに、リオはなんとも言えない表情を浮かべる。
「そりゃ当たり前だろ。
 お前、受身も取らず、思いっきり頭から行ったからなぁ。」
 リオの心の声を代弁するように、ビクトールがあきれたように呟く。
「この先に噴水があるから、そこでとりあえずタンコブ冷やすか。」
 大通りに続く道をゆっくりと歩きながら、フリックが指差す先には、女神像の噴水がある広場がある。
 休日ともなれば、屋台が所狭しと並び、旅芸人が場を持って賑わう場所だ。
 けれど今日のような平日には、近所の住民が井戸端会議を開いていたり、水場で遊ぶ子供が居る程度──今の時間なら、人も少なくゆっくりするにはちょうどいいだろう。
 そう提案したフリックに、シーナが首を傾げて問いかける。
「リュウカン先生のところに行ったほうが良くないか?
 打った場所が頭なんだからさ、医者に見てもらったほうがいいと思うぜ?」
 何せ、大切なナナミちゃんの頭だし。
 ──と、心配の色半分、いい男ぶった面が半分と言った微笑みを見せて、な? とナナミに笑いかけるシーナの言葉に、それもそうかと、フリックは一つ頷く。
「それじゃ、とりあえずタンコブ冷やしながら、リュウカンのところに行くか。」
「すみません……私のために。」
 しょんぼりと肩を落とすナナミに、気にするなと笑って頭をなでてやろうとしたところで、すかさずビクトールからガシリと腕を掴まれた。
 何をするんだと言いかけたフリックは、すぐにナナミの頭にタンコブがあるのだということを思い出して、慌ててその手を引く。
 そんなフリックに、ますますナナミは申し訳なさそうにショボンと肩を落とす。
 そのナナミを励まそうと、リオはギュッと手を握り締める。 
「大丈夫だよ、ナナミ! だって、どうせ明日のお昼過ぎまで僕達暇なんだし! 今日は道具屋さんだけじゃなくって、交易所も防具屋さんも、ついでに前回できなかった将軍屋敷めぐりもしちゃおう!」
 思いつく限りのことを口にしていると、だんだんと気合いの入りどころが違ってくる。
 本来の目的であった道具屋で掘り出し物をゲット、ということが頭からスポーンと飛んだ。
「将軍屋敷めぐりっ!?」
 それに食いついたのは、もちろん、ナナミであった。
 その言葉の響きに、クラクラと眩暈を覚えているビクトールやフリック、シーナをそっちのけで、ナナミは両手をガシリとつかみ取ると、
「それじゃ、いっそのこと、グレッグミンスター観光ツアーとかに応募してみてもいいかな、リオっ!?」
「もちろん!! というよりむしろ、僕、英雄の部屋に行きたいしっ!」
「バラ将軍の猫屋敷も見て見たいけど、やっぱり、トランの英雄の実家見学ツアーだよねっ!」
「うんうん、もちろんそれは抜かせないよねっ!!」
 ガシッ、と、二人の姉弟は、これ以上ないくらいの絆を見せ付けるように、大通りのど真ん中で互いの掌をつかみ合う。
 キラキラキラと無駄に輝かしい光を発しながら、ティーカム城でこっそりと暗記するほど調べ上げた「グレッグミンスター観光ツアーガイド」の内容を脳裏に思い描く姉弟である。
 思いつきにしてはすばらしい提案に、二人は夢中になって互いの手を握り合い、熱くこの後の予定を語り合う。
 その後ろで、突然出てきた【名称】に、頭くらくらを通り越して倒れそうになったフリックがしゃがみこんでしまったのにも、サッパリ気づかない。
「それじゃ、善は急げよ、リオ! 今から、ツアーの申し込みしに行かなくっちゃっ! 確か、マリーの宿か英雄の部屋で申し込みしてるのよねっ!!」
 ナナミは、タンコブの痛みも何のその、ググッ、と拳を握り締めてリオの腕をグイと引く。
「……へー……マリーの宿で、ツアーの申し込みなんてしてるんだってよ。」
「つぅか、どういうツアーとか考えてんだよ、親父は……。」
 ビクトールが、トントンと腰からぶら下げている星辰剣に向かって呟いて見せるが、星辰剣はウンザリした様子で唸り声をあげるだけで、突っ込みも何もしてはくれなかった。その代わりにシーナが、フリックに倣うように地面にしゃがみこんでくれたが。
「──あっ、でも、ナナミ、もうツアー予約の締め切り時間、すぎちゃってるよーっ!」
「ええっ!」
「だってほら、確か、屋敷ツアーは、午後1時から開始が最終の部だったし……っ!」
 ハッ、と思い出したようにリオが叫べば、ナナミがショックを受けたように両頬を掌で挟み込む。
 そんなナナミに、リオは暗記した記憶を掘り起こし──こういう時にだけ使う、記憶力の良さを発揮させると、うん、間違いない、と頷く。
「そんなぁ……っ! 私、ツアーに参加するの、すっごく楽しみにしてたのにーっ!!!」
 がーん、と二人揃って肩をしょんぼりと落としあう姉弟の姿に、何と突っ込みを入れて、何と声をかけていいのやら。
 フリックは、頭を抱えながら、あははは、と乾いた笑いを零すことしかできなかった。
──っていうか、グレッグミンスターには、「道具屋に掘り出し物発掘……ついでに交易所も覗き」に来たんじゃなかったのか。
「……まぁ、とにかく、だな。」
 頭を悩ませる鈍痛を覚えながら、フリックはちょっと気合いを入れなおすように小さく深呼吸をした。
「ツアーはまた明日にして、とにかく、リュウカンのところに行ってだな──。」
 なんとか顔を持ち上げながら、すっかりタンコブのことは忘れたようなナナミに向かって、そう言った──ところで。

「こんな大通りの真ん中で、何やってんだい、あんた達は…………?」

 聞き覚えのある、あきれたような声が、上から降ってきた。
 ハッ、と──その声に反応して顔を上げるよりも早く、
「クレオさんっ!!」
 歓喜の声を、シーナがあげた。
 そう──顔をあげた先に立っていたのは、3年前に共に解放軍で戦っていた……付き合いの長さで言えば、解放軍内でも1,2を争う女だった。
 そういえば彼女は、門の紋章戦争が終わってから、このグレッグミンスターに定住したと聞いている。前線から退き、隠居生活のような生活を送っているのだと──シーナがそう言っていた。
 唖然と見上げるフリックとビクトールを一瞥して、クレオと呼ばれた女性はシーナの方に顔を向けると、小さく笑いながらこちらへと近づいてくる。
「久しぶりね、シーナ君。
 ──レパント大統領から、ジョウストン都市同盟に参加してるって聞いたけど……大変そうだね。」
 最後の一言は、地面にしゃがみこんでいるフリックに視線を落として、溜息交じりに苦笑を滲ませて見せた。
「久し振りに顔を見せたと思ったら、人様の迷惑にかかるようなことをしてるだなんて、まったく──。
 ま、あんた達らしいって言ったら、あんた達らしいけどね。」
 容赦なく、ザックリと切り裂いて見せれば、フリックはグ、と言葉に詰まった。
 そんな彼のつむじを見下ろして、クレオは楽しげに喉を震わせて笑った後、改めて少し離れた所に立っているリオへ顔を向けると、ニッコリ、とあでやかに微笑みかけた。
「そちらにいらっしゃるのが、ジョウストン新同盟軍の、リオ殿……、ですね?」
 3年前には浮かべることが少なかった、穏やかな微笑を満面に広げて、彼女はかすかに首を傾げながら問いかける。
 ──いや、口調は問いかけであったが、少年がリオであることは間違えようがなかったから、それはただの儀礼上の問いかけに過ぎなかった。
「え、あ、は、はいっ!」
 慌てて顔を跳ね上げたリオの、驚いたような顔と、緊張に染まったその表情を──クレオは懐かしむように見つめた後、ふ、と息を漏らす。
 ──まるで別人なのに、その目に宿る光が、大切な主を想わせた。
「はじめまして、私はクレオと申します。
 そこにしゃがみこんでいる『青雷のフリック』と、『風来坊ビクトール』とは、旧知の仲なんですよ。」
「その名前で呼ぶなっ!」
「ちなみにクレオは、『飛刀のクレオ』って呼ばれてたんだぜ。」
 思わず悲鳴に近い声で叫ぶフリックの声に重なるように、ビクトールが顎でクレオをしゃくりながら説明する。
「ひとうの、くれお、さん──ですか?」
 穏かに微笑む女を、不思議そうに見つめるリオに、彼女は破顔した。
「昔の話ですよ。
 それはそうと、何をしてらしたんですか、こんなところで?」
 言いながら、クレオはチラリとビクトールを睨みつける。
 最後の、「こんなところで」に微妙に力が入っている辺りに、ビクトールは軽く首を竦める。
「ん……まぁ、噴水に向かう途中なんだよ。」
「噴水? なんだい、あんたまさか、また、噴水で水浴びでもするつもりかい? ──今度やったら公害指定つけて、張り付けにするって、ソニア様が怒ってたよ。」
 クイ、とあからさまな仕草で片方の眉をあげて、顎を引きながら睨みすえるクレオの言葉に、ええっ、とリオとナナミが驚いたように声を上げ、慌ててビクトールが叫ぶ。
「してねぇっつうの! つぅか、いつ、俺が、噴水で水浴びしたよっ!?」
「3年前。」
 血相を変えたビクトールの言葉に、間を置かず即答してくれたのは、地面にしゃがみこんだままのフリックだった。
 ギギ、と、ぎこちなくビクトールの首が音を立てながら自分の方を見るのを理解しながら、半目になって見上げるフリックを援護するかのように、
「シュタイン城で、酔っ払って水が飲みたいって言って、そのままドボン。」
 ヒラヒラ〜、と手のひらを揺らしながらシーナ。
 さらに続いて、傍観者のまま口を挟まなかったルックまでもが、
「あぁ……そういえば、そんなこともあったね。」
 興味なさそうな態度のまま、肯定してくれた。
「……マジ?」
 愕然と──まるで記憶にないことを、さも当たり前のように語ってくれる面々を、呆然と見回すビクトールに、クレオは重々しく頷いてやった。
「公害以外の何物でもなかったよ、あんたの水場での裸踊りは!」
「……ぜんぜん覚えてねぇ……。」
 アタタタ、と額に手を当てて唸り声をあげるビクトールに、そりゃそうだろうな、と、フリックとシーナが溜息を一つずつ零す。
 何せあの時は、ビクトールは「彼」との酒勝負をしていて、すっかり酔っ払って、前後不覚になっていて。
 水が飲みたい、とそうグテングテンの状態でろれつの回らない言葉で告げたビクトールに、そんな彼と同じくらい飲んだはずの「彼」は、ほんのりと目元を赤らめただけの状態で、ニッコリ笑ってビッキーに「水場までビクトール一丁、テレポートで!」──と言ってくれたのだ。
 クレオが後に、「ぼっちゃん、見た目には出てなかったけど、相当酔ってたから」と言っていたが、洒落にならないテレポート注文だった、と──フリックもシーナもルックも、あの時のことを思いだして額に皺を作らずにはいられなかった。
 何せ、シャンパンで程よく酔ったビッキーは、スイの言葉に何の疑問も持たず、えーい、と──────ビクトールの「本体」だけ、テレポートさせてくれたのだ。
 無事に、本拠地内の水場にテレポートされただけでもありがたいと思って欲しい。たとえその場に偶然居合わせた女性陣が、悲鳴をあげるような展開になったとしても、だ。
「つぅか、アレを覚えてないお前って……おめでたいよな。」
 はぁぁぁ、と、過去の悲惨な記録を思いだして、頭を抱えながら溜息を吐かずにはいられなかったフリックに、同感だとシーナも肩を落としながら頷く。
 そんな彼らを交互に見ながら、リオはブルリと背筋を震わせた。
「裸踊りだって。」
「そんなの見たくないよね。」
 ナナミもリオに釣られるように、両腕で体を抱きしめながら、ブルリ、と体を震わせて──びくんっ、と、肩を大きく揺らした。
「……いたっ。」
 体を揺らした瞬間に、ズキン、と走った痛みに、グ、と指先で肉を強く掴みこむ。
 ギュ、と顔をゆがめたナナミに、リオは慌てて彼女の背中に腕を回した。
「だ、大丈夫、ナナミ!?」
「うぅ……、すっかり忘れてたけど──痛みがなくなるわけじゃないのよね…………。」
 痛い、と、涙目で恐る恐るタンコブに触ろうとするナナミの仕草に、あっ、と、ビクトールとフリックが声をあげる。
「わりぃ、ナナミ、忘れてたぜ。」
「そうだ、ハンカチを濡らして来るんだったな! ちょっと待ってろ、今すぐぬらしてくるから!」
 慌てて懐から青いハンカチを取り出し、ダッ、と噴水に向けて駆け出していくフリックの背を、クレオは片眉をあげて見送りながら、
「相変わらず青いんだね、あのコは。」
 呆れたようにそう呟いた後、頭をソロソロとなでているナナミに視線を向ける。
「頭を怪我しているのかい?」
「あ、いえ、タンコブができてるだけなんですっ。」
 そ、と伺うように優しく問いかけられて、大丈夫です、と慌てて頭を左右に振ろうとして──ズキィンッ、と走った痛みに、あうっ、と悲鳴をあげる。
 そんなナナミに、クレオは動いちゃダメだよ、と優しく囁きながら、彼女の頭に手を添えて、
「回復魔法は? ルック君が居るなら、風の紋章もあるだろうに。」
「あ……っ、いえ、あの────…………、戦闘中の怪我じゃないの、で、そういうのは、自然治癒するっていう方針なんです。」
 確かにタンコブがぷっくりとできているのを確認して、痛ましそうな表情で呟く。
 ナナミは労わるような優しい言葉に、すまなそうに首をすくめながら答える。
「戦闘中の怪我じゃない?」
 不審そうに問いかけるクレオの視線から、つい、と逃れるように顔を背けつつ、
「………………こ、…………転んだんです。」
 ぼそ、と──小さく、ナナミは呟いた。
 その頬の辺りが羞恥に赤く染まっているのを認めて、クレオはパチパチと目を瞬いた後……なるほど、と首肯する。
「それじゃ、とても痛かったでしょう? 戦闘中の痛みと、普段の痛みは、また全然別物だからね。」
 フフッ、と──柔らかに笑って、クレオはナナミのタンコブに当たらないように掌で優しく彼女の髪を撫でる。
 指先がスルリと撫でていく感触に、ナナミは驚いたように目を見開いて──それから、今度は別の意味で頬を赤く染めて、キレイなお姉さんを見上げてニッコリ笑った。
「大丈夫です、これくらい! 一晩も寝れば、すっきり引いちゃいますよ!」
 えへへ、と口元を緩めて笑って見せれば、クレオもニコリと目元を緩めて微笑んでくれる。
「そう、でも、女の子なんだから無理はしちゃダメよ。」
「はい!」
 ますます目元を緩めて微笑むクレオに、ナナミは元気良く返事を返して──再び、ズキッ、と走った痛みに、いたたた、と頭を下げた。
 そんな──一瞬の間に起きた展開に、ビクトールが呆れたように頭を掻きながら、
「クレオ、おまえさん、随分とスイに似てきたんじゃねぇか、おい?」
「人聞きの悪いことを言わないでくれる? ビクトール?」
 ヒョイ、と片眉をあげながら、にやり、とクレオが人の悪い笑みを見せたところで──、
「ナナミ! ほら、これでコブを冷やせ。」
 噴水までハンカチを濡れしに行っていたフリックが戻ってきた。
 濡れて紺色になったハンカチを差し出しながら、フリックは双眸をキラキラと潤ませて、ぽやん、と頬を赤くしているナナミに、ギョッとしたように目を見開く。
「な、ナナミ……? お前、タンコブで熱でも出てきたのか?」
「違う違う。そりゃー、クレオのせいだ。」
「だから人聞きの悪いことを言うなって言ってるだろ、ビクトール。」
 慌てて濡らしたハンカチを、タンコブではなく額に当てようとするフリックに、ビクトールがニヤニヤ笑いながら手を振れば、スコン、とクレオの拳が軽くビクトールの後頭部を叩いた。
「──……良くわからんが、とにかく、熱が出てきたにしろなんにしろ、早くリュウカンのところに行ったほうがいいな?」
 顔を歪めたフリックは、ナナミの隣に立っていたリオに濡れたハンカチを手渡しながら、ちょうどいいとばかりにクレオに視線を落とす。
「クレオ、リュウカンは今、首都に医療所を構えてるんだろう? 悪いが、案内してくれないか?」
 場所が分からなかったから、回りの人間かマリーにでも聞こうと思ってたんだ、と続けるフリックに、クレオは無言で眉を寄せると、ヒョイ、と肩を竦めた。
「──それはタイミングが悪いね。
 リュウカン先生は、今朝方往診に出発してね……、帰って来るのは、あさってになるよ。」
「──マジかよ?」
 思わず顔を引きつらせて問いかけるフリックの横で、シーナがゆっくりと立ち上がりながら、呆れたように一言。
「フリックさーん、こんなところでまで、不幸の種をまかないでくださいよー。」
「撒いてねぇよ!」
 叫び返すフリックの言葉に、クレオはしょうがないと溜息を一つ零すと、
「ま、ここで会ったのも、縁だろう。
 うちにおいで。──その子の手当てくらいなら、あたしにも出来るからね。」
「──いいのか?」
 軽く目を見開いて問いかけるビクトールに、何の遠慮があるんだか、とクレオは笑い飛ばす。
「別に気にすることはないさ。今は私だけの気楽な独り暮らしだしね。 時々、バレリアやカミーユが訪ねてくるくらいで──暇を持て余してたんだ。」
「女の1人暮らしに、こんなムサイおっさんとか連れて行ってもいいんすか、クレオさん? クレオさんの評判に傷つかない?」
 シーナが心配そうに──さっきの山賊の件では全然勘が働かなかったくせに、なぜかこういうことには知恵が回る──尋ねれば、
「誰がおっさんだ、コラ。」
「あはは、シーナ君が心配することは何もないよ。」
 凄むビクトールをサラリと無視して、クレオは明るく笑い飛ばしながら、こっちだよ、と今来た道に踵を返した。
 ゆっくりと歩き出しながら、彼らが自分の後について来るのを横目で確認すると、視線を前方に向けて、
「レパント大統領から聞いてないかな? 今は私があのお屋敷を──。」
 そこで一度言葉を区切って、息を小さく飲み込むようにして、湧き出た感情を胸の奥に仕舞い込みながら、
「マクドール邸を、管理してるんだ。──住み込みでね。」
 もともと、10代の頃からあの屋敷に住み込んでいたから、そうなることは何の不思議もなかった。生家よりもずっと「実家」という感じがする家だ。
 他の誰があの家の管理をしたいと言っても、これだけは決して譲る気がなかった。
 クレオはまっすぐに前を見詰めて、歩きなれた道をことさらゆっくりと歩みながら、
「本当なら、ちゃんと『主』が居るときにもてなしたほうがいいんだろうけど──、さすがの私も、今、ぼっちゃんがどこに居るのかは…………、わからないからね。」
 肩先から少し振り向いて、白い面に寂しげな微笑みを貼り付ける。
 そんなクレオの言葉に、リオとナナミが不思議そうに顔を見合わせる。
「あんた達はどう? ──旅先でぼっちゃんに会ったことは?」
 首を傾けて問いかけるクレオの、軽口に混じった本気を感じ取って、フリックとビクトールはクシャリと顔を歪めた。
「それっぽい噂は聞いたけどなぁ。」
「それ以前の問題で、俺たちは砂漠を越えてジョウストンに入ったから、随分と時間ロスが出てると思うぞ。──しかも無駄に一往復させられたし。」
「うぉっ! なんだ、お前! まだあのこと根に持ってんのかっ!?」
「当たり前だろーがっ!! なんでお前の忘れ物を取りに行くのに、しにかけなきゃならんのだ、俺がっ!!」
 コリコリ、と頬を掻くビクトールに対して、フリックは冷静そうに見えて米神の当たりが引きつっている。
 そのままいつもの夫婦漫才に発展しそうな二人に、クスクスとクレオは楽しそうに喉を鳴らして笑った。
「あんた達、いつの間にか随分腐れ縁っぽくなっちゃって。
 そういうシーナ君はどうなんだい?」
「俺も、全然っすね。」
 ヒョイ、と肩を竦めて答えるシーナに、そう、とクレオは少しだけ寂しそうに笑った。
 そんな四人を、不思議そうに見ていたリオは、自分たちよりも数歩遅れたところを歩いているルックに目をやると、そそ、と彼の方に足を進める。
「ね、ルック? さっきからビクトールさんたちが言ってる──スイ、って言う人、もしかして……。」
 キュルン、と目を好奇心に揺らして、顔を覗きこんで尋ねるリオに、ルックは迷惑を隠さない態度と表情で、ハ、と嘆息する。
「さぁね? ──自分で聞いたらいいんじゃないの?」
 冷ややかな──刃のように研ぎ澄まされた拒否の声に、リオは残念そうな顔になったが、すぐに気を取り直して、夫婦漫才の最中のビクトールの服の袖を引っ張った。
 今、ルックに聞いたばかりの事を、そっくりそのまま尋ねているリオの顔は、好奇心と期待に頬が赤く染まっていた。
 ルックは、それをチラリと見上げて──ふと視界に移った物に、顎をあげた。
 集団の一番前を歩くクレオが向かう先……ほんの十数メートルほど先に見える、周りの建物よりも大きな──屋敷。
 古くから存在してるだろう、威圧感を伴ってもおかしくない様相なのに、当たりの空気にしっくりと馴染む、ソレ。
 それが、まるで「彼」そのもののように見えて、一瞬、息が詰まった。
「………………………………。」
 あれが、と、言葉にならない声で、思った。
 クレオが当然のように足を向ける先。
 リオとナナミが、ツアーに参加してでも見て見たいと言った場所。
 あの──3年前に別れたきり、姿を見せない少年の。
 まるで朧のようにつかみ所がない、あざやかな微笑みと魂を持つ人の。


 ────いつか、帰る場所。


 封印していたはずの感情が、揺さぶられたのは、その時だった。
 見た目はただの、古びた屋敷。
 門を開いたときに、少しだけ錆びれた音がして、クレオがそれに小さく笑って、鍵だけは付け替えてもらってないから、と言った。
 ──鍵を付け替えたら、突然ぼっちゃんが帰ってきたときに、困るでしょう?
 言外にそう言って、クレオは当たり前のように門を開いて、元仲間たちを中に招き入れた。
 屋敷の庭は、3年前のグレッグミンスター突入時とは違い、きれいに整頓されていて、その季節に咲く花が柔らかな匂いをかもし出していた。
 思わず感嘆の溜息を零したナナミに、後で少しだけポプリを分けてあげると、クレオは女性らしい柔らかな微笑みを浮かべて言った。──三年前、スイ・マクドールの隣で飛刀を手にして戦っていた女からは、まるで想像もできないくらいに、柔らかな微笑。
 庭や屋敷がキレイに整備されているのは、昼間の間だけ、リビングと庭を一般開放しているからだとクレオは庭を通り抜けながら教えてくれた。
 クレオ1人で管理するには、広大すぎて手が回らないせいため、一般に公開・開放するのと引換に、管理料と掃除・手入れ人を国から支給してもらっているのだと言う。
 そう言いながら通された玄関は、やはり鍵だけが錆び付いた音を立てたが、他はしっかりと手入れされた、いい雰囲気に満ちていた。
 ルックが決して触れることがなかった、「アットホームな雰囲気」というのがソレだ。
 玄関に立っただけで、屋敷の隅々にまで、温かな空気が行き渡っているのが分かる気がした。
 正直な話、ルックはその玄関先に立っただけで、もう十分だった。
 そこに居るだけで、もうダメだと思った。
 なのに、リオとナナミは嬉々として先に立っていくクレオの後についていくし、ビクトールとフリックは、物珍しそうにさりげない高級品が揃うマクドール家に目を奪われている。
 シーナに至っては、もっと最悪だ。
 当たりをグルリと見回して、上等の置物にはまるで興味を示さないくせに、歩いた廊下の柱に見えた小さな傷痕に目を留めて、指先でその跡を、そ、と撫で上げたのだ。
 ──ルックが一番最後尾に付いていて、それを見ているのだと分かっていながら。
「スイがここから出て、もう5年も経ってるのに……ここには、そこかしこにスイの気配が残ってる感じがするな。」
 わざとらしく、ルックに向かって、ニィ──と、笑みすら見せた。
 その瞬間、涌いて出た感情が、何と形容するものなのかはわからなかった。
 ただ、揺さぶられた、と思った。
 この屋敷を見て、この屋敷に触れて、この屋敷の中で──思い、描いた、言葉にも形にもならない「何か」を、シーナもまた、読み取っていたのだ、と。
「──君が、宗旨替えしたとは知らなかったね。」
 だから、精一杯の虚勢を張って、冷ややかな微笑みを貼り付けて、廊下の真ん中で立ち止まったシーナの横を、スルリと抜けてやった。
 そのついでに、チラリと意味深に視線をくれてやれば、シーナは驚いたように目を見張っていた。
 その彼の表情を見て、湧き出た苛立ちが、少しだけ軽くなった。
 ふふん、と鼻先で笑って、そのままシーナを置いて、クレオたちが向かったリビングがあるだろう場所に向かって、前へと進み出たところで。
「お前が気づいてなかったとは、知らなかったぜ、ルック。」
「…………どういう意味だい?」
 からかうような口調がにじみ出ているのを感じて、思わずと足を止めていた。
 ゆっくりと振り返りながら、キン、と音が出そうなほどの鋭さで睨みつければ、シーナは未だ柱の傷を指先で撫でながら、口元に笑みを刻んで笑っていた。
「どういう意味もそういう意味もないだろ?
 ──お前は俺と同じだと思ってたって言ってるんだ。」
「君と同じようなノータリンだったら、僕はすでに自殺でもしてると思うよ? 生きてることが耐えられないね。」
 吐き捨てるように冷ややかに告げれば、シーナは目を丸くして、
「そりゃ言いすぎだろ、ルック。
 別に俺は、お前とオツムの出来で言い争ってるつもりじゃないんだからさ?」
 軽い仕草でヒョイと肩を竦めて、傷痕から──おそらくはこの屋敷で生まれ育った少年が、何かオイタをして出来たのだろうその思い出から──ツイと視線を逸らして、立ち止まったルックの元に、歩いてくる。
 無言でそれを睨み据えるルックに、彼はいつものように笑いながら、
「単に俺は、お前もさ──スイに会いたいんじゃないかって、そう言いたかっただけなんだからよ。」
「…………会いたいわけが、ないじゃないか。」
 出来るなら、二度と会いたくない。
 そう、鬱蒼と──面倒臭そうに答えれば、シーナは面白そうにヒョイと眉をあげて、快活に笑い飛ばす。
「そりゃ言えてるな。俺もできれば、会わなくて済むなら会いたくないぜ?」
「……………………?」
 さっきと言っていることが違うと、ジロリと睨みあげれば──シーナは、笑いながら、ルックの肩をぽんと叩く。
 とっさにルックがソレを振り払おうとするよりも早く、手を退けると、スルリとルックの横を通り過ぎて。
「会っちまえば、また振り回されるのは分かってるから、な。」
 すれ違い様、フ、と──今まで見せていた表情がウソかと思うほどの一瞬、切ない色を乗せて、そう囁いた。
 その囁きに──その言葉に乗せられた色に、ルックは戦慄にも似た震えを感じずにはいられなかった。
 会いたくない。
 その理由を──シーナは、ごく当たり前のように、認識している。
 その事実が、恐いくらいに、背筋を震わせた。
「切ない片思いってぇのは、隠すのも辛いもんなんだぜ〜。」
 呆然と、その場に立ち尽くして目を見開くルックを振り返ることなく、シーナはヒラヒラと掌だけ振って、笑った。
 切なさを微塵とも感じさせない声色だったが、それが、シーナの仮面であることが、ルックにはイヤになるくらい良く分かった。
「……………………。」
 背後でリビングのドアが開いて、閉じる音がした。
 たった一人、廊下に取り残されたことは分かっていた。
 それでも、足に根が生えたように、そこから動くことは出来なかった。
 ただ、呆然と──シーナの言葉が、カラカラと頭の中を回った。
 のろのろと目をあげれば、先ほど彼が指先で撫でていた小さな傷跡が残る柱が見えた。
 そこまで、ほんの数歩の距離。
 けれど、ルックは彼と違い、そこに近づき、ソレを撫でるなんてことはしない。
 したくはない。
 そんなことをしても、何もならないと分かっていたから。
 なのに。
──分かるのだ。
 主が居ないのに、当たり前のように残っている「スイの痕跡」。
 5年も経っているのだから、匂いや気配など残っているはずもないのに、そこかしこに残っている「スイ・マクドール」という存在の残り香。
 ルックがこの3年、決っして触れてこなかった「スイ・マクドール」そのものに……いや、「スイ・マクドール」を形成していたすべての存在に、眩暈が走った。
 こんな中に、平然と踏み込めたビクトールやフリック、シーナに──何よりも、あれほどスイの側に居たクレオが、この中で平然と生活していると言う事実が、信じられなかった。
 スイの存在が無いのに、こんなにもスイの存在が濃厚に残る場所に、どうして平然と居られるのか、と。
 吐き気と眩暈がして──この3年、見ないフリをして蓋をし続けてきたものが、少しだけ開いてしまったのを感じた。


 この時から。


 ルックは、夜が訪れるたびに、白い夢と黒い夢と灰色の夢の──何もない空間に存在する夢の中で、かの人の思い出と出会う。
 けれども、夢の中ですら、かの人は思い出の中にしか存在しない。
 決して、出会うこともなく。






 十数日もの月日が過ぎて──やがて。









 邂逅は、突然やってくる。






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