小さな山間の村のハズレにある、小さな池のほとり。
四方を鬱蒼と生い茂る木々に囲まれた、柔らかな風が吹くそこは、絶好の釣りスポットだと言う。
村から少し離れているだけなのに、一切の無粋な音はせず、ただ風に揺れる木の葉の音や、時折はねる魚の立てる水音くらい。
そのたびに大きく小さく波紋が広がるのを、ゆったりとした気持ちで眺めながら、スイは慣れた仕草で釣り糸を引きあげる。
ぽちゃん、と小さな音を立てて手元に引き寄せられた浮きが、色鮮やかな全身を出して、水滴を散しながら空中に躍り上がる。
キラリと太陽を反射して光る釣り糸を手でつかみ取り、浮きを頭の上に掲げれば、細い釣り糸の真下で揺れる、銀色の針がブラブラと揺れていた。
「エサ、突付かれちゃったかな。」
掌に乗せた針は、つい十数分前に投げ入れた時には付いていたエサが、キレイに無くなっていた。
浮きが大きく揺れた様子はなかったから、魚が突付いて食ってしまったか、きちんとエサが針に刺さっていなくて、落ちてしまったか──そのどちらかだろうと、スイは手元に置いたエサ箱に手を突っ込み、ミミズを取上げると、それをブスリと針に刺した。
そして先ほどとは違う地点を狙って、ヒュッ、と釣り竿を撓らせる。
狙った場所から30センチばかり奥まった場所に大きな波紋が描かれて、ミミズのついた針は水の中に沈み、針が沈んだ30センチほど手前に、ぽつんと赤い浮きが浮いた。
そのまま、再びボンヤリと水面を見つめること少し。
朝から何度となく繰り返した同じ手順で、同じ情景を見ながら──、あぁ、平和だなぁ、なんてシミジミと感じ入った。
このバナーの村に腰を落ち着けて、早一週間。
村に到着したときも、ジョウストンとトランの国境近くに位置しているわりには、人の行き来も少なく、穏かで優しい風合いの村だとは思っていた。
この時期に、わざわざジョウストンからトランへ抜ける道を行こうとする旅人など、はっきり言って「怪しい」以外の何者でもないだろうに、彼らは自分たちを快く出迎えてくれた。
本当は、時期が時期だけに、一泊か二泊して立ち去るつもりだったのだけど──居心地がいいのと、この池の魚の食いつきが良かったのとで、ついつい八日目に突入してしまっている。
けれど、ハイランドの狂皇子が斃れたという噂が、この辺境の地まで流れてきている以上、そろそろ発ったほうがいいのは、分かりきっている。
明日の朝くらいには、この峠を抜けて、トランの国境に入るか、それとも──……、
「いっそ、イカダでも作って、このまま川を南下して、トラン湖に入っちゃおうかな〜。」
自分ひとりの旅ならば、人目に付かないように、砂漠から南下してトランに入り、そのままトランを素通りして南方へ──という危険な道を選ぶことも考えた。
──でも、「旅の相棒」の年齢を思えば、そんな無茶は出来ない。
「川か、陸路か、悩むところかな。」
明日出発しようと思ってはいるけれど、所詮は気ままな旅のこと。
出発してから、トランに入る方法を考えなおしても構いはしない。
蛇の道は蛇というように、一つの国に入る方法だって、色々あるのだから。
波紋一つ広がる様子のない浮きを見下ろしながら、スイは小さな欠伸を噛み殺す。
そのまま何気ない風を装いながら、意識を背中の更に後ろ──二十メートルほど離れた、小道の入り口に立っている男へと意識を飛ばせば、かすかな鼻歌が聞こえた。
その、暢気な──穏かな男の歌声に、クスリと小さな微笑みが零れた。
穏やかな昼下がりの、穏やかな天気の中、彼の声は優しく、優しくスイの耳鼻をくすぐっていく。
それが心地よくて、スイは小さくクスクスと笑いながら、彼の調子に合わせるように、同じ歌を口ずさみはじめる。
低く、高く、けれど大きすぎず──優しい風合いの男の歌は、懐かしい記憶を思い起こさせる。
今となっては、もう遠く──思い出の中ですら色あせそうなほど遠く感じる、あの懐かしい家での中で、布団をリズム良く叩きながら、歌ってくれた歌。
風が吹きぬける心地よい庭で、洗濯物を干しながら高らかに歌った歌。
一緒に山道を登りながら、日暮れが差し迫った夕闇を恐れないようにと歌ってくれた歌。
たくさんの思い出の中にある唄を、幾通りか、そうやって離れながらも奏で合ったところで──スイはまるで反応しない浮きに苦笑を刻んで、ヒョイとそれを手元に引き寄せた。
ぽちゃん、と再び水滴を撒き散らしながら水面から飛び出てきたソレを捕まえて、半分ほどになったエサをポイと捨てる。
「今日は、随分と食いつきが悪いなー。」
まるで、魚たちが警戒をしているようだと、針の先に再びミミズを突き刺したところで。
ひゅるり、と。
旋毛を巻いた風が、スイの前髪を乱した。
それと共に、先ほどまで心地よいと思っていた風が、耳にうるさいほどのザワメキを持って、辺りを乱し始める。
その光景には、覚えがあった。
──いや、光景と言うよりも、感覚、と言うべきか。
「……かぜ。」
無意識に小さく呟いて──その呟きに驚いたようにスイは顔をあげた。
それから、ゆっくりと辺りに視線をさ迷わせて──やがて、その視線をピタリと一点で止めた。
スイが今座っている場所から左手、バナーの村の方角。
そこを見定めるように、ス、と目を細めて、スイは感覚を鋭敏にするように、その目を閉じた。
風に乱れた水面の音、ざわめく木々の音、そして──風に乗って聞える、声と判断がつかない誰かの言葉。
その中に混じって、キラキラと輝くように感じる、二つの力。寄りそうように──いや、少し離れて立っている、暗闇の中でキラリと光るその輝きには、覚えがある。
「……風、と──、あと、もう一つ?」
覚えのある感覚と、見知らぬ感覚。
懐かしいと思う感覚と、見知らぬ紋章の力に不安を感じる感覚。
スイは、ピクリとも動かないまま、ゆっくりと瞳を開いて、小首を傾げた。
この気配が何の気配なのかを語れるほど、スイは他の真の紋章を知っているわけではなかった。
けれど、3年前の闘いのさなかで──普通の紋章と、真の紋章は、感じ方が違うと……魔力の強い者なら、その区別が分かるのだと知った。
そのことを聞いてから、真の紋章と普通の紋章の感じ方の違いを頭の中に叩きこんでいたけれど、「真の紋章」と出会うのは、ずいぶん久しぶりだ。
「それにしても、ルックがレックナート様以外の紋章持ちと一緒なんて、珍しいこともある、──……、って、あぁ、そうか。」
口の中で小さく呟いた瞬間、スイは合点が行ったように、なるほど、と緩く頷いた。
このバナーの村は、ジョウストンとトランの間にある村で、ジョウストンとトランは、先ごろ同盟を結んだばかりだ。
その、「新同盟軍」は、ノースウィンドウの城を本拠地と決めた後、どんどん仲間が集まって行っていると聞く。──それがどういうことなのか、スイも良く知っていた。
何より、夜、見上げた空に煌々と輝く赤い星の存在が、今何が起きているのかを、物語っているからだ。
──当然、そうなれば、ルックが新同盟軍の軍主と一緒に、ココを通っても、何も不思議はない。
「ビッキーじゃ、テレポートで国外に行くことはできないからね。」
トランに行くなら、ココを通るのが一番近道だ。
何をしに行くのかなんてことには興味がないけれど──こういうニアミスもまたあるだろう。
なんでもないことのようにそう呟くと、スイはすぐに興味を失ったように、釣り竿を振りかぶり、ヒュンッ、と風を切りながら水面めがけて釣り糸を垂した。
風が強くなったせいで、先ほどよりもずっと右よりに落ちた浮きに、もう一度やり直そうかと考えたが、案外この方が釣れるかもしれないかと、スイはそのまま様子を見て見ることにした。
今までと同じ場所に腰を落ちつけて、スイはゆったりと竿を持ち、先ほどよりも乱れた風の気配に──言い換えれば、嬉しそうに舞っているように感じる風に、微笑を口元に乗せる。
その風を感じるだけで、彼が今、元気でこの地にいることを感じ取ることが出来た。
「すれ違いを重ねるのも、また運命……ってね。」
軽い口調でそう呟いて、スイは心地よい風に目を閉じて、スゥ、と緑と水の匂いを肺一杯に吸い込んだ。
そうして、再び耳を背後に傾ければ、その風の気配に気づきもしない従者の鼻歌が聞えてきた。
さきほど聞いていたのと違う曲に、少しの間耳を貸して、スイは曲のサビの部分から口ずさみはじめる。
そのままいくつかの曲を口ずさんだところで、グレミオが突然歌を途切れさせたのが分かった。
どうしたのだろうと肩越しにチラリを振り返るが、茂みに隠れてグレミオの姿は見えない。
けれど、グレミオが緊張した雰囲気を持って、前を見据えているのだけは雰囲気で分かった。
コウ達が昼食を持ってきたとか、飲み物を差しいれしに来てくれたのではないことは確かだろう。──なら、村の人ではない第三者の旅人が、こちらへ進んできているに違いない。
「過保護だなぁ、グレミオは。」
垂らした釣り糸を巻き取り、ふやけた餌をつけかえて、スイは再びそれを水面に投げ入れながら、そう小さく一人ごちる。
このバナーの村に来てから──正しく言えば、トランに近づいてきてからと言うもの、グレミオはスイに対して、ずいぶん神経過敏になっている。
スイがこの村で長く逗留しているのは、トランに近い所に居たいけれど、トランに行きたくないからだと、そう思っているからだろう。
──それが、一理もないと言えば、ウソになるけれど。
「このままトランに行こうって言ったら、グレミオはどんな顔をするだろう?」
クスクスと、そんなことを考えながら笑った瞬間、
『とにかく! ダメなものはダメなんです!!』
グレミオのリンとした声が響いてきた。
さすがはグレミオ。
伊達に屋敷の中や外でスイを叱ってはいなかったと言うわけだ。
良く響く美声を聞きながら、スイはそれでもグレミオに、その過保護はよせと言うことはなかった。
トランに近いからだとか、トランに行こうかどうしようか悩んでいるだとか、そういうのとは関係なく──今はなんとなく、誰かに会う気はしなかった。
たとえそれが、興味がそそられている「新同盟軍の軍主」が相手だろうとも。
──……いや。
「新同盟軍の軍主が相手だから、会いたくないのかも……。
──うーん、僕って、心が狭い。」
考えると同時、すぐに答えが出てきて、スイは苦笑を噛み殺すしかなかった。
たとえココに居るのが自分だけで、見ているのが誰も居なかったのだとしても、──その気持ちは、こんなところで言葉にしてしまってはいけなかった。
「トランの英雄」が、「新同盟軍の軍主」と、会いたくない、だなんて。
そんなことを聞いたら、グレミオはきっと泣くだろう。──泣きそうに顔をゆがめて、スイを抱き締めて、大丈夫ですと言うだろう。
そうして、その言葉を、他の人に聞かれたら、きっと。
──面倒な、ことになる。
たとえ、「会いたくない」理由が、これでもかと言うほど単純きわまりないことだったとしても、人の言の葉に上った噂は、あっと言う間に形を変えて駆け巡ってしまう。
下手をしたら、トランとジョウストンの戦争になりかねないくらいに。
それを思えば、こんな二つの国の国境で、そんな不穏な台詞をはいてしまう自分が、どうしようもなくバカに感じて、スイは唇をゆがめて、今吐いた言葉を飲み込むように、ギ、と奥歯を噛んだ。
遠くはなれた場所で、「トランの英雄」と良く似た姿形をしている人間として旅をしていた頃ならば、「ハイランドの狂皇子が、国民をブタ扱いしているのは、自分こそがブタに似た顔をしているからじゃないのか」だとか、「トランのレパント大統領は、赤鬼と呼ばれてるらしい」だとか、それこそ好きなように言っても、スイを批難する人間こそあれ、それが国そのものの威信に関わることなんてなかった。
けれど、ココは、トランの国境近くで──自分のことを、「トランの英雄」だと言う人達が、たくさん居る場所で。
そんな所で、己が、不用意な発言をすることは許されない。
そのことを、ウッカリ忘れてしまっていた自分に、不快感を覚えたとたん──。
ピクン、と、手元で浮きが揺れた。
「ぁ。」
慌てて竿を握りなおし──けれど、焦らず、じっくりと、指先に微妙な力加減を加えた、そのとたん。
「ぅわあああーっ!! たすけてーっ! 山賊が出たーっ!!!!」
池を挟んだ向かいの山から、幼い叫び声が聞えた。
「…………あれ、コウ君。」
竿の先に向けていた意識を引き戻し、顔をあげるけれど、山の濃い木々の中にまぎれているだろう幼い姿は見えない。
見えないけれど──、眉を顰めて、スイは声が聞えてきた辺りを睨み付けるが、山からこちらへと響く声は反響して、どの辺りから聞えてきたかは判別しづらい。
「山には山賊が出るから、一人で入るなってエリちゃんに毎日言われてるのに、まったく。」
呆れた気持ちでそんなことを呟きながら、スイは再び水面に視線を戻した。
けれどその時にはもう、浮きはピクリとも反応をしていなくて──諦めて素直にそれを引き戻す。
山から響いた山彦を伴う声は、緊迫感も恐怖も伴っていない声で、グレミオを名指しで、助けを求める。
普通、こんなあからさまな子供の考えた誘いに、引っかかる戦士なんて居ないだろうと思うけれど、
「たっ、大変です! コウ君が山賊に……っ!!!」
「やっぱり引っかかるか、グレミオだもんな。」
慌てて走り去っていくグレミオの気配に、そんなもんかと、スイは小さく溜息を零して、釣り針に餌をつけて、再びポチャンと水面に投げつけた。
グレミオが山に向かってくれたのなら、たとえ「コウ」の声でホンモノの山賊がおびき寄せられたとしても、多少はなんとかなるはずだ。──最近、トランとロッカクの見回りが強化されて、そのおかげでなかなか獲物にありつけない山賊どもは、イライラしているはずだ。
そこに付け加えての、子供の悪戯としか思えない叫び声──「ウソ」が「誠」になるのも、そう先のことではないだろう。
けれど、普通の山賊なら、先触れを出して、コウの声が国境警備隊の罠じゃないかどうか確認するはずだから、先触れさえ倒してしまえば、コウを回収するだけで事は済む。
グレミオが今のタイミングで走って行ったのなら──ああ見えてグレミオも腕が立つのだから──、スイの出る幕はないだろう。
「それにしても。」
茂みを掻き分けて、小さな道を、急かすように──そしてためらうように歩み寄ってくる足音を聞きながら、スイは何の変化も起きない水面に視線を落とし続ける。
「コウ君を囮にする危険性が分かってながら、コウ君を囮にしちゃうのは、感心しないな。」
小さく口の中だけで呟いて──スイは、持っていた竿を、手を放しても大丈夫なように立てかける。
ガサリ、と、間近で音が聞えたそのタイミングで、グレミオが立っていた小道の入り口を振り返り、「コウと同じような格好をした少年」を認めて──ふ、と柔らかな微笑を口元に貼り付けた。
スイを、ジ、と見つめる眼差しは、見た目の年齢どおりの若々しさと、見た目の年齢には不似合いな純粋さ──そして、情の深い優しい色を宿していた。
太陽の光を反射して、優しい風合いを持つ焦げ色の髪と、まっすぐで真っ黒な、力強い眼差し。
額にサークレットを付けたその赤い胴着姿の少年が誰なのか、答えは目の前にぶら下がっている。
何よりも、その内側からにじみ出るような存在感が──彼が今の「天魁星」だと、雄弁に語っていた。
「……………………………………。」
彼の瞳のまっすぐさに答えるように、ヒラリと身軽に立ち上がり、同じようにまっすぐに見つめた。
わざわざコウを使ってココに踏み込んでくると言うことは、「よほどの釣り好き」か、「好奇心旺盛」かのどちらかだろう。
そのどちらにせよ、彼らがスイに用件があることには変わり無い。
だから、小首を傾げて、少し微笑みを見せて、彼らの用件を問いかけるように促す。
自分が誰と対峙しているのか気づいたような顔は決して見せない。ただ、ことさら柔らかに、見知らぬ旅人に無邪気に微笑みかける少年に見せかけるように心がけた。
そんなスイの仕草に、なぜか彼は、日に焼けた頬を赤く染めて、慌てたように顔を伏せた。
「……あ、……、あの。」
最初に感じた印象を裏切るように、歯切れも悪く、肩を強張らせる少年の姿に、スイは柳眉を軽く顰める。
「?」
どうかしたの、と。
何も知らない──何も分からない表情を浮かべながら、ゆっくりと足を踏み出そうとした瞬間……ぴくん、と、肩が跳ねた。
感じたのは、射ぬかれるかと思うほどの、鋭い眼差し。
殺気すら含むそれに、とっさに体が臨戦体勢に入ろうとしたのを、食い留めることが出来たのは一重に、その「殺気」じみた視線に、覚えがあったからだ。
軽く伏せた睫の下で、瞳が赤く明滅するのを──喜びにか、警戒にか、本来の双眸が赤い色に染まりはじめるのを感じながら、スイは小さく深呼吸を繰り返した。
最後に小さく息を飲んで、スイは一度強く目を閉じると、すぐに何ごともなかったような表情で視線をあげた。
──その時にはもう、紅色に染まりはじめていた双眸は、元の琥珀色に戻っている。
そうして、スイはゆっくりと顎をあげて──目の前で顔を赤く染めながら、パクパクと口を開け閉めしている少年ではなく。
少年の腕を握り締めて、緊張のあまり頬を少し膨らませてこちらを凝視している少女でもなく。
その二人の少し後ろに立つ見知らぬ三人の、さらにその背後。
茂みに隠れた小道から体を半分ほど見せた、たった一人の顔見知りへと、視線をくれた。
刹那──パシンッ、と、空中で視線が音を立てて交錯したような錯覚に襲われた。
眩暈にも似た一瞬の邂逅。
ジン、と胸の中から痺れるように浮き立つこの感覚を、3年前の自分は、いつも味わっていた。
そう、これは──……。
「…………やぁ、久しぶりだね。」
視線の先に立つ人影が誰なのか、認めると同時に、知らず微笑みが零れていた。
目の前の少年に──「リオ」に向けていた無邪気な仮面の微笑みではなく、3年前の戦場で浮かべていた、多くの人々を魅了し、惹きつけた、微笑。
唇に浮かんだ微笑が、そのまま言葉を奏でるのを、どこか遠くに感じながら、スイはゆっくりと首を傾げる。
そうして嫣然と微笑みかければ、スイを睨み付けていた相手は、スイにしか分からぬ程度に顔をゆがめた。
秀麗な顔が、クシャリ、と歪むそれを見つめながら、スイは彼が逃げないように、そ、と風に乗せて久しぶりに会う仲間の名を呼ぶ。
「──ルック。」
囁くように、大切なものを零すように、柔らかに名前を零せば。
彼は、綺麗な双眸を大きく見開き──それから、なぜか傷ついたような表情で、キッ、とスイの顔を睨み上げてきた。
それを認めて、スイは零れそうになる微笑を無理やり堪えて、視界の隅に驚くようにこちらを見ている「リオ一行」の視線を止め置きながら、ことさら「ごく普通」の少年ぶって、ルックに嬉しそうに微笑みかけてやった。
その微笑に、ますますルックがイヤそうな顔をするのに、スイは腹を抱えて笑いたい気持ちになりながら、それをすべて偽善ぶった笑みの中に閉じ込める。
「君は、変わらないね、ルック?」
唇の端を、キュ、とねじ上げて微笑みかければ、はじけるようにルックが顔をあげる。
先ほどよりも更に大きく見開かれた双眸に宿るのは、先ほどスイを睨み付けていたような、殺気じみた光。──戸惑いと苛立ち、怒りと苦しみ、理解不能なまでの負の感情を持て余した挙句、殺気でそれを抑えるしかないという、当時とまるで変わらない不器用さ加減に、大笑いしてやりたい気持ちだ。
その思いを堪えながら、おとなしめの少年を演じて微笑みかけたつもりだったけれど──初対面の5人は騙せたようだが、さすがに腐れ縁の少年は騙せなかったらしい。
ルックは、キンッ、と金物の音がするかと思うほど鋭い……刃のように尖った視線で睨みつけると、低く、短く──、
「────……スイ。」
スイの名を、呼んだ。
それは、呼びかけのようであり、戒めを促す声のようであり。
そうして──、そんな口調で呼びかけられたスイは、ひっそりと笑みを深くして、
「まるで、愛の囁きのようだ。」
他の誰にも聞えないように、唇の動きだけでそう愛しげに囁いて見せる。
とたん、ぴくんとルックの片方の眉があがるのが見て取れた。
風の愛し子は、些細な囁きすらも見逃してはくれないらしい。
スイはそれに小さく笑いながら、
「冗談だよ、ルック。
覚えてるよりも、少しだけ背が伸びた気がする。」
邪気ない笑みを浮かべながら、「少しだけ」に少しばかり力を込めてみせれば、ルックは唇を歪めて小さく息を吐いた。
そんなスイとルックの間に挟まれた形になったリオが、パチパチと目を瞬きながら、二人を交互に見た後──拉致が空かないと思ったのか、それともルックが口にした名前に興味をそそられたのか。
「え……、と──、あの、ルック、この人と知り、あい?」
とりあえず初対面の人間ではなく、パーティの一人であるルックへと、おずおずと問いかける。
そのリオの腕にしがみついたままのナナミは、リオの影に隠れながら、弟が見ている方とは真逆に立っている、見た事もないあでやかな雰囲気の主を、マジマジと見つめる。
目の前の穏やかに微笑む人と、冷たい刃のような印象を与えるルックとの接点は、まるでないように感じた。
あえて言うなれば、同じ年くらいだと言う印象くらいだ。
サスケやフッチと同じように、「美少年攻撃」でもするのだろうかと、ナナミは不思議そうに首を傾ける。
どこか緊迫した──ピンと張った糸の上に立っているような絶妙な均衡の中、姉がそんな脳天気なことを考えているなんて思いもよらないリオは、いつになく突き出した棘を出すルックに、困ったように眉を落とす。
「……ルック。」
小さく、促すように名を呼んでは見るものの、ルックは、リオの問いかけに答えるつもりはないようだった。
ただ静かに少年と視線を合わせ、冷ややかな炎を瞳に宿し続けている。
見守っているこちらが、ゴクリと喉を上下させてしまいそうな、口も手も挟めないような緊迫感の中で──ただ一人、スイだけが柔らかに微笑み続ける。
なんとも言えない、二種類の異なる空気に包まれて、その真ん中に立たされる形になったリオたちは、ピクリとも動けぬまま、二人のどちらかが動き出すのを待つしかなかった。
そのまま、どれくらいの時間が流れたのか。
──いや、おそらく、ほんの1、2秒ほどのことだっただろう。
けれど、いつにないルックの険しい視線や、それを平然と受け止める少年の、どこか奇妙な雰囲気に、その一瞬は1時間にも2時間にも感じ取れた。
ゴクン、と、リオが喉を鳴らしながら、ルックからスイへと視線を逸らしたのを切欠にするかのように、ルックが、ジリ、と足元に土を踏みながら、かすかに体を開いた。
ハッ、と一同が息を呑む中、彼はあきらめたように小さく溜息を零した後、ス、と白い面を上げて、まっすぐにスイを見据える。
穏かに微笑み続けるスイに、苛立ちにも似た感情を叩き付けるように赤い唇を開いて──皮肉な言葉が零れるに違いないと、誰もがそう思った。
けれど、開いた彼の唇から零れたのは、
「……久しぶりだね、スイ。
君は……まるで変わらない。」
囁きにも似た、言葉。
「──……えっ。」
思わず、驚いたようにリオとナナミが声をあげたのを、ルックは目の端に止めながら、スイを見つめ続ける。
自分の言葉に──再会の最初の挨拶として零した言葉に、スイがどう反応するのか、一瞬たりとも見逃す気はなかった。
そんなルックの、殺気交じりの熱烈な視線を受けて、スイは満足げに、ふわり、と華開くように笑った。
「そういうと思った。」
──その刹那、ルックが抱いたのは、紛れも無い殺意にも似た苛立ちだった。
よりにもよって、それが答えか、と──全く変わらない男の、全く変わらないあでやかな微笑みに、ヤツ当たりをしたくなったほどだ。
無言で眉間の皺を濃くするルックに、スイはその場の空気を軽やかにするように笑い声をあげて笑い飛ばすと、
「3年程度で変わるくらい、ルックの性根はキレイじゃないとは思ってたけど、本当に変わってなくて安心したよ。」
ニコニコニコ、と、邪気のない微笑みで、毒を吐いてくれる。
その笑顔のキレイさに目を奪われていたら、うっかり内容を右から左に聞き流してしまいそうになるのも──本当、イヤになるくらい、3年前とおんなじ。
ぴくり、と米神当たりが引きつるのを感じながら、ルックが目を細めてやれば、彼はそんなルックの表情に、嬉しそうに目元を細めて──ルックにだけに分かるように、唇の動きだけで、そ、と囁いてくれた。
「……合格だよ、ルック。」
その一瞬──口元に乗った、つややかであでやかな微笑みは、言葉に出来ないくらいまっすぐに、ルックの視線を射抜く。
思わず、目元が赤らむのを感じて、ルックは悔し紛れにギロリと彼を睨みつけてやった。
──本当に、食えない男だ、と。
そんなルックの、煮えくり返っているかもしれない腸に気づいてか気づかずか、スイはことさらニコニコと、いつもよりも三割り増しくらいの営業スマイルで、
「それじゃ、ルック。君の新しい仲間たちを、僕に紹介してくれるかな?」
今、一番、ルックがしたくないだろうことを──強要してくれた。
*
無事に「再会」を果たした後は、怒涛のような展開が待ち受けていた。
そして、気づけばトランの英雄「スイ・マクドール」は、何気ない顔で普通に隣でワイングラスを傾けている。
その、一連の怒涛の展開も、その前にあった3年間の空白も──まるで何もかもが、夢か幻だったかのような、「普通」さだ。
濃厚な色合いのワインをグラスの中で揺らしながら、さすがのザルお化けも、久しぶりの実家にタガが外れたのか、頬を赤く染めるほどに飲んでいる。
──まぁ、その後ろに転がっているワイン瓶の数を数えたら、「頬を赤く染める」程度で済んでいるのが不思議なくらいなのだが。
同じ量を飲み干した「酒豪」であるはずのパーン達はすでに夢の中。
夕食が終わった時間を見計らって、たくさんの銘酒を土産に駆けつけてきたレパント達ですら、際限のない酒盛りに酔いつぶれて、グレミオとクレオによって客室に運び込まれている状態だ。
その酒盛りに、最初から最後まで付き合った上に、それぞれと杯を幾十も交わしたはずの「中心人物」──強いて言えば、誰よりもアルコールを摂取したはずの人物は、今、屋敷の屋根の上で、ルックを隣に置いて、「明日二日酔いにならないために、先迎え酒」をしている最中だ。
銘酒の類をパカパカと開けているこの状況もありえないが、現在酒盛りをしている場所も普通じゃない。
ここが屋根の上だと言うことさえ考えなければ、頭上にきらめく満天の星は酒の肴にちょうど良く、吹き込む涼しい風は火照った頬を心地よく冷やす。
掲げたワイングラスの向こう側には、3年前から復興を果たしたグレッグミンスターの光景。夜闇に沈んだ世界に、微かな明りが幾つも灯っている。
──あの突入の時に見た、人気のないグレッグミンスターとは、別の街のような穏やかさだ。
時々、屋根の下の窓が開いて、
「ぼっちゃん! いい加減に降りて来ないと、お風邪を召しますよ!」
酒盛りの後片付けに走り回っているグレミオが、そう叫んできたが、スイはそれにワイングラスを揺らすだけで答えず、その返事の代わりのように空になったグラスに新しくワインを注ぎ込む。
「それにしても、ちょっと会わないうちに、皆、酒に弱くなっちゃったものだね〜。」
クスクスと、楽しげに笑いながら、スイは手にしたワインを水のように一気に飲み干した。
今、彼が手にしているカナカン産のワインの年号は、そんな飲み方をしていい物ではないはずなのだが、彼はそれを一向に気にする様子はない。
あっと言うまに手にしていたワインの瓶も空にしてしまう。
こんな調子で飲んでいるスイに付き合っていれば、酔いつぶれてしまってもしょうがないだろう。
きっと、「屋根の下」で眠る連中は、明日は容赦のない二日酔いに襲われるはずだ。
そして、その誰よりもアルコールを摂取した張本人であるスイは──きっと明日も、綺麗な顔で笑って、朝の鍛錬とかしているんだ、絶対。
解放軍時代に、イヤと言うほど見てきたルックは、溜息を自分のワイングラスに吐き出す。
「君が飲みすぎなんじゃないの。」
赤い色のワインを少しだけ口に含めば、芳醇な香と味が口一杯に広がった。
心地よい味に、ルックが満足気な笑みを零せば、スイが楽しそうに、隣に置いていた木箱から新しいワインを取り上げる。
「次はどれにする〜? 僕的には、太陽暦350年代物が最高だと思うんだけど。」
これこれ、と、綺麗な瓶を掲げて、スイは今日一番のオススメ! と笑った。
「旅先でも何度かこの年代のを飲んだんだけど、これがまろやかでコクがあって、度数が高いのに飲みやすくってねー。」
膝の上に置いていたコルク栓で、スポンとワインを開けると、ほらほら、とその口をルックのグラスに向ける。
「君、まだ飲む気なの?」
ルックは手元のワイングラスに手の平で封をすると、スイが向けたワイン瓶の口を片手でシッシッと払いのけようとする。
「そりゃ、飲まないとダメでしょ。」
「……さっき、ずいぶん飲んだように思えるけど?」
これ以上飲んでどうするんだと、冷ややかな視線でジロリと睨み付ければ、スイは白い喉を震わせて、楽しげに笑う。
「コレは別だよ。
だって。」
スイは笑いながら、自分の空になったグラスに手酌でワインを注ぎ込むと、それをルックに向けて掲げる。
何を、と眉を寄せるルックのグラスに、強引にカツンとグラスの縁をぶつけると、
「せっかくの再会の祝杯じゃないか。」
「…………………………………………しゅくはい。」
ニッコリ、と、楽しげに顔を覗きこまれて、ルックは思い切り顔を顰めずにはいられなかった。
無言でぶつけられた自分のグラスを見下ろせば、半分以下に減った自分の赤い液体が、ユラユラと波だって揺れていた。
「そ、祝杯。
ルックに会うの、3年ぶりだよねー。
アハハハ、3年も別れてたら、会った時にどこぞのご令嬢かと勘違いして分からなかったらどうしようかと思ったよ。」
「君、バカだろ──っ。」
思わず、グ、と拳を握って──どうしてココに、スイに突っ込むためのロッドを持ってこなかったのだろうと、ルックはひそかに後悔した。
スイはそんなルックに、ますます楽しげに喉を震わせて笑うと、
「ヤだなー、それが、3年も君に会おうとがんばって旅した愛しい人に言う台詞?」
ん? と、わざとらしい仕草で顔を覗き込んでくる。
その表情は、イタズラ気で楽しげであったが──問題は、彼が何を考えているかではない。
今のスイが、見た目にどういう風に見えるのか、だ。
「……スイ、君ね──……。」
「あ、ルック、ほっぺが赤い〜。」
目元を緩めて笑うスイの頬も、アルコールのおかげでほんのりと赤く染まっている。
酒臭い息を火照った唇から吐き出しながら、スイはルックの頬を手の平で包み込む。
「──スイ……っ。」
抗うように顔を背けようとするルックに、悪乗りするようにスイは笑みを広げて、彼の顔を真下から覗きこむ。
眼前に迫った、綺麗な琥珀色の双眸が、微かに潤んでいる。
熱の篭ったその瞳の中に、自分の顔が映りこんでいるのを認めて、フ、と息が止まった。
幸せそうに微笑んだスイの口元に、誘われるように唇が震え──フワリと漂う酒の匂いの中に、甘い花のような香りが混じった。
少しだけ汗の匂いが混じるソレが、スイの体臭だと思った瞬間、指先が、ジン、と熱くなった。
「……ぁ。」
小さく零れた言葉は、スイの唇から。
掠れた声音に、喉に乾きを感じた。
「スイ……。」
唇の動きだけで呼びかければ、スイは目線を少しあげて、ヒタリ、とルックの双眸を掴み取り──フワリ、と、花ほころぶように笑った。
幸せそうに……優しく。
「────…………っ。」
その微笑を認めた刹那、頭の奥で火花が散った気がした。
眩暈にも似た感覚に、クラクラと頭の芯が痺れる。
何かを考える余裕もないまま、ルックはスイの華奢な肩に手をかけ──、ようとしたところで。
「ルック、やっぱり気のせいじゃなくって、身長伸びてる。」
囁くような甘い声が、耳を掠めたと認識すると同時。
ス、と近づいた影が、鼻先を掠めて──、
「──……。」
あ、と思う間もなく、息が奪われていた。
思わず目を見開いたルックの焦点が合わないほど間近で、スイの伏せられた睫が震えているのが見えた。
しっとりと重ねあわされた唇は、少しかさついて乾燥していて──ひどく、熱かった。
「──、ん。」
抗う間もない一瞬の間の後、スイはゆっくりと顔を放して、鼻先が触れ合うほど間近で、吐息が絡み合うほど近くで、ニッコリと破顔してみせる。
唖然と自分を見下ろすルックの丹精な顔に、満足した表情で、ついでとばかりにチュ、とリップノイズを立ててルックの頬に唇を押し当てると、
「それ以上伸びたら、今度こそルックだって一目で分からなくなるかもしれないから、成長しないようにしといてね。」
何事もなかったかのように、ヒラリと元居た場所に座りなおして、ワインに口を付けた。
ルックは、あっと言う間に襲いかかった出来事に、無言で顔を伏せると、アルコールのせいばかりじゃなく赤くなった頬を、悔しげに手のひらで覆いながら、
「そう思うなら、3年も音沙汰ナシなんてしなかったらいいだけの話じゃないの?」
ジロリ、と睨み上げてやれば、スイは口に含んだワインをゆっくりと飲み下しながら──うん、と考えるように小首を傾げた。
「そうだね〜……、今度は考えとくよ。」
「…………あぁ、そう。」
上機嫌でふたたびワインの瓶を空にしようと飲みはじめるスイの横顔を睨み付けてやりながら、ルックは投げやりな返事しか返してやることは出来なかった。
──だって、分かりきってることじゃないか。
この少年は、次に旅に出る時も、その次に旅に出るときも。
きっとまた、同じように「偶然の出会い」以外を演出するつもりはないのだって言うことなんて。
まったく、やってられない、と、手にしたワインをチビチビと飲みはじめたところで、ふとスイが思いだしたように空を見上げながら、こう言った。
「──あ、でも、今回の事で思ったんだけど。
もし、今度旅に出てる時に、僕に会いたくなったら──ルック、また、誰かよその天魁星の人の所に厄介になってみたらどう?
そうしたら僕、ヤキモチ焼いて、君の前に姿を見せるかもよ?」
──「今回みたいに」、と。
けっこう、洒落にならないことを、本気の瞳で、酷く楽しそうに言ってくれた。
まったく、手に負えない人である。
悠里様
7000ヒットのリク、ありがとうございました〜……。
……すみません、もう私、いつこのリク貰ったか、ぜんっぜん、覚えてません…………(涙)。
えー……、ルックとシーナのやりとりを見て、「早くルックと坊を会わせてあげて〜!」ということで、リクを頂いたのですが。
結局、再会するまでの話が異様に長いデス……ごめんなさい…………。
でも、「2」とかは、書いてて楽しかったデェーッス……ってごめんなさい、ホントに。
うちのルック坊は、どこからどうみても坊ルックに見えてしょうがないのですが、ルック坊ですと、何度言ったか分からない台詞を、今回も言わせていただきます。
ええ、ルック坊です!(きっぱり) うちの坊は、ルックが相手に限って、襲い受けなんです……っ!!(笑)
あと、ちゃんと両思いですから……(そう説明しなくてはいけない内容なのがとても悲しいです……シクシク)。