夢を見た。
黒い黒い──塗りつぶされたように黒い闇の中、ぽつんと一人、立ちつくす夢だ。
いつもの夢とは少し違う毛色のソレに、何が起きているのかと、辺りを見まわした。
感覚はひどく緩慢で──なのに、指先に触れる空気の重さや、頬を掠める風のぬくもりや、髪をかき乱す豪風の奏でる熱狂だけは、体のすべてで受け止めることが出来た。
いつもと同じような夢。
でも、いつもと違う──黒い、黒い夢。
「……世界が白かろうと、黒かろうと……灰色であろうと。
結局は──何もないことには、代わりは無いのだけど、ね。」
零れた声は、自分で思った以上の覇気も無く──まるで力を感じ取れない。
呆然と呟いただけに過ぎないその声までもが風に攫われて行きそうで──少年は、ひどく緩慢な仕草で顎をもたげる。
地上も天上もないような、ただ真っ黒な世界。
目を閉じても開いても、同じような黒が広がる……いつもの白い夢とは正反対の、けれど同じ種類の夢。
こんな夢……見るだけムダなのに、どうしてもこの夢から逃れることは出来ない。
意味のない──ただ空虚だけが広がるこの夢から解放されるのは、体が目覚めている時だけ。
「夜明けまで、あと──どれくらいあるんだろう……。」
あと、どれくらい、この夢に付き合っていたらいいのだろう?
夢の中で考え事をすることほどバカバカしいことはないと思う。
実りがない、そして果てもない。
けれど、この夢の中は、そんなことくらいしかすることはなかった。
──小さい頃は、夢と現実の区別がつかなくて、ずっと「白い世界」で、風と遊んで、戯れていたものだけど。
今は、何も知らない幼い頃を過ごした「白い部屋」の外を知っているし、たくさんの色に彩られた世界も知っている。
だから──風と戯れることしかできない、この空虚な夢は……本当に、退屈。
「そういえば──あのバカは、良く、いろんな夢を見ると、言っていたっけ。」
ふと思い出したのは、もう3年もの月日……最後にグラスを交わしてから会ってない少年の面差しだ。
年に似合う屈託の無い笑顔と、年に似合わないひどく冷めた微笑が、良く似合う少年だった。
朝の訓練中に、棍をしならせながら軽口を叩いて、その日見た夢の内容を、面白おかしく脚色しながら話していた。
ひどく現実的な夢もあれば、こっけいなほど現実味のない夢もあって──見ている人間の知性を疑うよと、そう軽口を叩き返したこともあった。
その彼の、太陽の下で鮮やかに花開く笑顔を思い出した瞬間。
『今日はね、ルックの夢を見たんだ。』
あの日の彼の声と彼の表情と──その情景が、ありありと頭の中に浮かび上がった気がした。
『僕達はね、ながい、ながーい間、離れてて。
それで、本当に久しぶりの再会を果たすんだ。
僕ははじめ、君がルックだって分からなくて……あぁ、ルック? そこで、人の顔を忘れるなんて痴呆症の始まりじゃないのかとか、脳細胞が死んでるんじゃないかとか、そういう突っ込みは止めてよね。』
笑いながら彼がクルリと描いた棍の軌跡が、朝日を受けて光の線のように見えた。
『ルックはね、髪をこれっくらい伸ばしてて、レックナート様みたいな長いローブを着ててね、僕はそれを見て、どこのご令嬢だろうって思うんだ。
──おぉっと、ルック、その右手の紋章の光はしまってください、夢だから、夢。』
そう言うスイの方こそ、ルックが宿した光に対抗しようと、右手に紋章の力を──それもよりにもよって、ソウルイーターのレベル3の技を溜めていたものだから、ちょっとした騒ぎになるところで。
『それでね、僕はルックのことが分からないんだけど、ルックは僕を見て、こう言うんだ。
「……久しぶり、……君は変わって無いね」って。』
ちょっと目を伏せて、笑うその表情は、なぜか少しだけ曇ったように見えて──、
「君が変わらないのに、僕だけが変わるはずがないじゃないか。」
バカみたいだと、そう思う。
そんな当たり前のことが分からないのかと。
そう言って顔を顰めてみせたら、少年は小さく笑って、
『だって、夢なんだからしょうがないじゃないか。』
──夢の中ですら、姿を見せなくなって久しい少年は、思い出の中で、そう言って笑う。
その光景を思いだして──遠く昔のように感じるあの時の情景をアリアリと思いだして、ルックは、小さく吐息を零す。
「夢の中で、たやすく『再会』できる凡人は……幸せだね。」
ルックの回りは未だ、何も無い暗闇に包まれたまま。
それはまるで──……、空虚な心を示すような気がして、キリ、と唇を噛み締める。
けれど、まるで痛みを感じない夢の中では、それすらも朧に感じて。
ルックは、諦めたように、いつものように夢の中にその身をゆだねた。
時間が来ればきっと、夢は覚めるのだと分かっていたから──。
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──今朝の夢見も最悪。
今日も目覚めた瞬間に真っ先に感じたのは、頭痛にも似た重みだった。
「……ここ数日、スイばかりだ。」
うんざりした顔で、ルックは寝汗で湿った髪を掻き揚げて、小さく呟く。
そのままゆっくりと体を起こせば、背中にもジットリと滲んだ汗が、ツゥ……と肌の上を滴る感触がした。
なぜ、と思う。
どうして、あんな、昔の夢で──それも、3年も前にあった、ごくたわいのない日常の一コマを思い描く夢を見たというだけで、これほどにびっしょりと汗をかき、これほどに恐ろしいと思うのだろうか。
まるで本物の悪夢のようだ。
ふとそう思って──ルックは、苦い笑みを口元に貼り付けた。
まるで? 本物の? 悪夢?
「──スイの存在そのものが、悪夢じゃないか。」
すでに夢から目覚めていると言うのに、頭を占めるのは、漆黒の髪と赤い瞳を持つ少年の残像ばかり。
それがひどく不快で、ルックは思い切り良く顔を顰めると、振り払うように頭を軽く振った。
何か少しでも考えれば、間近に覗きこんだ彼の双眸がよみがえって来るような気がして、ルックはキリと下唇を噛みしめる。
ヒラリと薄いシーツを払いのけながらベッドから降りて、締め切った窓辺に近づく。
厚いカーテンをシャッと真横に引けば、薄明かりで照らされていただけの室内が、パッと明るくなった。
まぶしいほどの光に目をすがめながら大きく窓を開いて──眼下に広がる青い湖面を見下ろす。
どこまでも青く見えるその湖面は、かすかな風に漣を立てて、朝日の光を反射して輝いていた。
この城に来てから毎日のように見る色は、見慣れた物のはずなのに、微かな違和感を感じる。
──あの地の湖は、もう少し碧がかった色をしていた。
この地のように寒さを思わせる深い青ではなく──穏やかな、エメラルドグリーンのような揺らめく光を宿していた。
「…………………………。」
あの色をした湖面で、いろいろなことをした。
湖面を滑走する船に乗って、釣りや素もぐりや──時には海底火山大爆発(注意:トラン湖に海底火山はありません)に、人工大渦巻き作成実験に、鉄砲水作成実験(スイは鉄砲水を吐く魚が湖底にいるのだと言い張ったが、マッシュはそのたびに船が吹き飛ぶほどの鉄砲水を吐く魚がどこに居ますかと激昂していた。)が行われていて……本当に、あそこは穏やかな色のわりに、波乱万丈で。
「……………………うんざりだ。」
頭の中を掠めただけのはずの記憶が、次々に涌き出てきて──あっと言う間に寝起きの頭を支配する段に至って、ルックは強く目を閉じてそれ以上考えるのを拒否した。
瞼の裏に浮かび上がる残像を無理やり掻き消しながら、自己嫌悪にブルリと背筋を震わせる。
「あのバカに振りまわされるのは、あの二年間で十分だ。」
二度と会いたくない。
実際、3年前──あの少年が旅装で帝都を飛び出して行くのを見送った時も、同じ事を口にした。
彼はあの時、イタズラ気に笑いながら、「一緒に来る?」──とルックの返事が分かっていながら、尋ねた。
当然ルックは、彼の想像通りに差し伸べられた「右手」を払いのけて、こう答えた。
『2年も付き合えば十分だね。君のような男と付き合ってたら、僕の人格が疑われる。』
だから、二度と会いたくない、と。
そう吐き捨てたルックに、彼は瞠目しながらも、笑っていた。
──そう、憎らしいことに、あの少年は、「三行半」を叩きつけたルックを前にして、驚いたフリをしながら、楽しそうに、愉快そうに笑ってくれたのだ。
『その強がりがいつまで持つのか、賭けをしてみようか、ルック?』
誰が強がりを言っているのだと──何が言いたいのだと、苛立ちと共に叩き付けるのは簡単だった。
けれど、彼と共に居た時間が、それが得策じゃないことを叫んでいた。
だからあの時、鼻で笑いながらこう返したのだ。
「自意識過剰すぎなんじゃない、君は。」
苛立ちと、何と表現していいのか分からない心の棘とを無理矢理飲み下して、軽侮の色に染め上げた。
もし旅先で会っても、絶対に顔は合わせないと捨て台詞を吐いて。
そうして──彼の前から姿を消してやったと言うのに!
……そう、スイが自分の前で踵を返すよりも早く、先に背を向けて、………………「逃げて」きたというのに。
「──っ、今日の気分も、最悪。」
忌々しげに舌打ちして、朝からそんなことを考える自分に吐き気すら覚えながら、苛立ちを隠そうともせず、眉間に深い皺を寄せた。
この三年の間、一度もスイの事を思いださなかったか、と言ったら、それはウソになる。
けれど、レックナートの元で忙しい毎日を送っていた時には、連日夢で感じるほどに、思いだしていたわけではないし、苛立ちを覚えていたわけでもない。
あの頃はただ、時折、ふと空を見上げて、「あのバカは今頃どこで騒ぎを起こしてるのやら」と、軽い気持ちで思った程度だった。
なのに、ここに来て焦燥にも似た感情になってきている。
その原因が己で分かるからこそ、腹が立つし、苛立ちもする。
このティーカム城自体の存在も、切欠にはなっているのは間違いない。
──湖のほとりに建つ城。星に準ずる名が刻まれた石版。人を魅了する輝きを持つ天魁星。もう会うこともないと思っていたなじみの顔。
そして、何よりも──……決して二度と踏み込むはずがないと思っていたトランの首都に、踏み込んでしまった時から。
感情の歯車は、止めようが無いほど回り始めている。
「────…………くそっ。」
ギリリ、と、ルックは手のひらを強く握り締めて、唇を噛みきりそうな勢いで下唇を噛み締めた。
胸を荒れ狂う激情の名を、ルックは知っていたけれど、名づけたくなど無かった。
名づけてしまえば、今度こそ本当に──この3年間、逃げ続けていたものと、対面してしまうことが分かっていたからだ。
「冗談じゃ……、ないっ。」
同じ空の下にいるけれど、どこの地面の上を歩いているかも分からない「ひと」。
3年前、互いの身に宿した紋章のために、誰よりも近くあったように感じた「ひと」。
生まれてはじめて、師や「兄」以外で興味を持った、ただ一人の「ひと」。
でも。
その呪われた運命のために、ルック以外の人の手だけを握って、背を向けた、「ひと」。
「────……っ。」
握り締めた手のひらも、噛み締めた唇も、襲い掛かる激情の歯止めにはならなかった。
背を丸めて、己の体を抱き締めるようにしながら、ルックは額を窓枠に押し付ける。
そうやって、訪れる激情を──己の内に宿る、思いもよらなかった激しいまでの感情を、必死に押し殺しながら。
──今、目の前にスイが居たら……絞め殺してやるのに……。
そう、思った。