王者刻印   SIDE A 子供の頃の情景


 その世界の巨大な大陸を制するいくつもの国……その中のひとつ、「赤月帝国」。
 トラン湖を中心として広がるその赤月帝国と言う名を、知らぬ者はいない。
 巨大な帝国、強大な国。つい先ごろの継承戦争の後に王位についた黄金皇帝バルバロッサ……その配下であり、先の戦争時代から、今にいたるまで、皇帝に忠誠を誓う頼もしい六将軍。
 赤月帝国は、大陸中で恐れられ、そして畏怖されていた。
 その皇帝の住まう首都であるグレッグミンスターには、六将軍のうち三将軍が居をかまえている。
 豪奢な城を背景に、三つの立派な屋敷が並ぶさまは壮観であった。
 その中の一つに、百戦将軍と呼ばれ、六将軍の中でも一番の信頼を得ている「テオ=マクドール」の屋敷がある。
 城へと続く門の近くに居を構えるその屋敷は、豪邸ではなかったが、堅実でしっかりした作りで、それが彼の人柄を忍ばせていた。
 穏やかで暖かな雰囲気がその屋敷を彩っている。だからだろうか? 屋敷に主がいることはめったになかったが、屋敷に尋ねる人が途絶えることは無かった。
 その庭では、いつも青年が洗濯物を干している。
 手入れの行き届いた芝生で、白いシーツを伸ばしているさまは、まるで歴戦の主婦のようであった。とてもではないが、テオの家に同居していると言う戦士には見えない。
 その隣では、小さな子供が真剣な表情でボールを突いている。
 その子供というのが、目下城内で注目されている、「テオ=マクドールの目に入れても痛くない愛息子」であった。
 柔らかそうな漆黒の髪と、利発そうな目をしている。その愛らしいばかりの顔には、無邪気な笑みが浮かべられていて、時折うれしそうに隣りにいる青年に話しかけている。
 確かにこれほど愛らしければ自慢したくなるのも分かるし、頷けると、皆が口をそろえて言う。
 その愛らしい息子を、マクドール家の人々はこの上もなく愛していた。
 彼の名を、スイ=マクドールという。



                ※




 それは、前の皇帝の時代の……夜も更けたある夜のこと。

 いつものように、厨房に集まったマクドール家の大人達は、それぞれのカップを手に、いつものように談笑していた。ただいつもと違うのは、めったに家に帰らない主が中央に座っているということだった。
「それではテオ様、またすぐに北方に行かれるのですね?」
 金色の髪を一つに束ねて立つ青年が、いつものようにカップに紅茶を注ぎながら、主に尋ねる。
 それは尋ねるというより、確認であった。
「ああ、いつもと同じだ。三日前には戻る。」
 青年から紅茶を受け取り、マクドール家の主は、いかつい顔に優しい微笑みを浮かべた。
 今の皇帝の身体の具合が悪くないのは、周知の事実であった。
 そのため、ここ数年、優秀な戦士でもあるテオは、何度か北へと赴いていた。そろそろ皇帝代変わりの時期となるから、それを狙って、北の国々が攻めてこないように見張っているのだ。
「そうですか。それでは今年も招待状などは私たちが用意してもよろしいのですね?」
 屋敷で唯一の紅一点であるクレオが、屋敷にいるときのくつろいだ様子で主を見上げた。
「ああ、今年はアレンとグレンシールも呼ぼうと思っている。あの子達をそろそろ私の側近候補に上げようと思っているのでな。」
 主がめったにいないため、ホームペーティを開くことが少ないマクドール家の「パーティの参加権」は、帝国貴族にとって、目の色を変えるほどの価値があった。
 特に親しい者や、将来性のある者しか呼ばないともなると、それこそ必死になる。
 皇帝の信頼厚く、時期皇帝と言われているバルバロッサ殿下からも信頼厚いとされている、「テオ」の友好を買って損はないし、何よりもそこに参加しているのはまさに上流階級のものばかりなのだ。
 目の色を変えても仕方ない。だからこそ、テオの最も信頼厚い部下たちは、慎重に招待客を選ぶ。
 テオはその腕前に一目を置いていた。あらゆるイミで。
 だから招待客のことに関しては、新たに特別に招きたい者以外のことは口にしないようにしている。そのテオが言うからには、まさにその2人は将来性豊かだということだろう。
「アレンとグレンシールっていうと……この間手柄を上げたと聞いています。」
 パーンが思い出すように眉をしかめる。
 いつもはこの屋敷でテオの息子とともに暮らしている三人だったが、本来はテオ付きの戦士である。用があって王城に上がることも珍しくない。普段はテオの昔からの部下であるクレオが行くのだが、時折パーンもテオについたりとかして行くことがある。
 そのときに、兵舎で盛りあがっていた名前の中に、そんな名前があったような気がした。
「ああ、なかなか太刀筋もいい。将来はきっと……そうだな、スイが大きくなる頃にはきっといい片腕になる。」
 愛息子の名を口にした瞬間、テオの顔が緩む。
 きっと彼の厳しい表情が崩れるこんな一瞬を見たのは、彼にもっとも親しい者くらいの者だろう。
「坊ちゃんが……って、まだ坊ちゃんはまだ2歳ですよ?」
 あきれたようにクレオが口を挟む。
 それにはテオは何も言わず笑った。
「子供の成長は早いと、皆言う。クレオもソニアも、気づけばもう女と呼べるくらいの年齢になっただろう?」
 例えに出されて、クレオは何とも言えない表情になる。
 クレオがテオにであったのは、まだ年齢が1桁だったときである。
 だから、テオにとったら娘のように感じているのかもしれないが……その言い方はないのではないか、と思う。
 彼がこういう遠慮無い言い方をするのは、それだけ自分に信頼を置いているからだと分かってはいたが、なんだか複雑である。
「クレオさんも女の方ですからねぇ。」
 微笑みながら、クレオの冷えたティーカップを交換して、グレミオは自分の席につく。
「どう言うイミだい、それは。」
 冷めた目でグレミオを睨むと、グレミオはくすくすと笑った。
「いえいえ、普段からは想像もつかないと言ってるんですよ。兵の中では飛刀のクレオと恐れられ、家の中では年頃の男の前でも寝巻きでうろつき……ほら、ねぇ?」
「クレオ……寝巻きでうろつくのは止めたほうが──。」
 テオの忠言に、クレオは顔を赤らめた。
 そして、何も言わず暖かな紅茶をすする。
「しかし、坊ちゃんも次の誕生日で三つになるんですねぇ。私がここに来てからも、もう3年ということですね。」
「そうそう、グレミオが料理を作るようになってから、宮廷料理すら口に合わなくなって、困るよ。」
 クレオの冗談交じりの抗議はしかし、テオのまじめな顔での頷きに、冗談ではなくなった。
「この間、スイを連れてミルイヒのホームパーティに参加したんだが、あの時もこっぴどい目にあったぞ。」
 ミルイヒというのは、同じ帝国六将軍の一人で、テオの昔馴染みでもあった。同じ城下に住まいを持っていることもあり、それなりに行き来もしている。ただ、その服のセンスがとびっきり「ステキ」なところ意外は、気のよく優しい花将軍として名をはせているのだが……文句無しの良い人なのだが。
「ミルイヒ様のところでですか? あっ、もしかして私の教えたテーブルマナーが間違っていたのでしょうか?」
 不安げに柳眉を顰めるグレミオに、違うとテオは冷静に首を振った。
 それでは? と、スイの世話係を担っている青年が、ぐぐっと身体を乗り出す。
「……まずいと、言ったんだ。」
「──は?」
「と、おっしゃいますと?」
 尋ねたグレミオとクレオの2人に目をやってから、テオは苦笑を浮かべる。
「ミルイヒ自慢のコックの料理をな、まずいと言って、食わなかったんだよ。グレミオのシチューの方が美味しいと。」
 流石のグレミオもクレオも、顔を見合わせて苦笑するしかなかった。
 ミルイヒの自慢のコックというと、帝国でも名をはせた料理店から引き抜いたとされているのだ。その人物の料理と比べること自体間違ってるだろうに。
 それをよりにもよって、「まずい」と来た。
 恐らく、グレミオ流の味付けにならされてしまったから、ミルイヒたちの好む「上流階級の味」が、いまいち美味しく感じ取れなかったのだろう。
「大変だったんだぞ。コックは憤るし、スイは頑固に言い張るし。周りの人間はグレミオを連れて来いだのとはやし立てるし。」
 そのさまが思い浮かんで、クレオとグレミオは顔を見合わせて笑った。
「笑い事じゃないんだぞ、本当にっ。」
 言いながらテオも笑っている。
 そこに、
「そういや腹減ったなぁ。」
 パーンのしみじみとした声が重なり、さらに厨房は笑いの渦に叩きこまれるのであった。


 テオが北方へと出かけて、再びこの家には三人の大人と、一人の子供だけが取り残された。
 子供はいつものように、洗濯物を干す青年の隣でおもちゃで遊んでいる。
 青年は、真っ白のエプロンを締めなおして、かがみこむようにして子供を見下ろした。
「坊ちゃん。今日のおやつは何にしましょうか?」
 にこにこ、と笑う顔はきつめの美貌。けれどいつも浮かべている笑顔が、彼を優しげな男に見せる。
「うーんとねぇ、しちゅー!!」
 スイは笑顔を向けられて、うれしそうに笑い返す。
 その可愛らしいばかりの笑顔に、グレミオも笑い返して、膝をついた。
「ぼっちゃーん、シチューはおやつになりませんよー? ほら、クッキーとか、ケーキとか、そういうのにしましょうよ?」
「んーとねぇ、それじゃぁ、チョコレート!」
 にぱぁ、と笑うスイに、グレミオもにこぉ、と笑い返す。
 うららかな陽射しが心地よく2人の上に落ちる。
「それじゃ、買い物に行きましょう。今日のお昼はクレオさんのリクエストで、オムライスですからねぇ。」
「おむらいす! あのね、ぼくねっ、ケチャップで絵ー書くのォッ。」
 膝をついたグレミオに飛びつくように抱き着いて、スイはうれしそうに言った。
「そうですねぇ、それじゃぁ坊ちゃん、手伝ってくださいますか?」
「うん! 手伝う! ぼくもいっしょに行くよ。なにしたらいいの?」
「明日にはテオ様も帰ってきますし、パーティの準備道具も買ってこないといけませんねぇ。坊ちゃんも選ぶの手伝ってくださいね。」
「?? えらぶのー?」
 こくり、と首を傾げたスイに、グレミオは微笑む。
「そうですよ。パーティの主役はスイ様ですからね。」
「ぼく? しゅやく?」
 不思議そうにスイがグレミオを見上げる。
 グレミオはそれにこらえようの無い微笑みを浮かべて、頷く。
「そうですよー。坊ちゃんが三つになるお祝いですからねー。」
「? ふぅん。」
「だから、明日にはテオ様もお帰りになられるんです。楽しみですね〜。」
 よくわかっていないらしい。
 それはそうだろう、去年はただのお飾りのような主役だったのだから。
 だが、父が帰ってくるのは嬉しいのだろう。グレミオが口にしたとたん、目を輝かせた。そして、グレミオのエプロンを掴むと、ぐいっとそれを引っ張る。
「早く行こうよっ! グレミオっ!!」
 自分の誕生日パーティよりも、そっちのほうがよほど嬉しいのか、スイはグレミオの周りにじゃれつく。
 それを笑って見ながら、グレミオが返事をしたとき。
「今戻ったぞ。」
 今日聞こえるはずのない、声がした。
 え? と、グレミオが顔を上げた向こうで、庭の入り口に立った男の姿。
「あっ!」
 目を見開いて、グレミオがスイの身体を掴む。
「ぼ、坊ちゃん! テオ様です! テオ様がお戻りに……っ!!」
 テオの立つ後ろから、うれしそうな顔を隠せないクレオとパーンも続く。
 スイはくるり、とそちらを見て、テオが旅帰りの姿で微笑むのを認めた。その瞬間、ぱぁっと微笑んだ。
「スイ、ただいま。」
 少し早めに帰宅したテオが、庭の芝生の上に膝まづいた。そして、両手を広げて走ってくるスイに笑いかけた。
 スイは小さな足で走って……微笑み見守る一同の中、父に向かって叫んだ。
「おかえりなさい!」
 そして、そのまま父のたくましい腕の中に飛び込む。

「テオ様……っ!!」

 その瞬間、見守っていた三人の微笑みが固まった。

「あ。」
「……移ったな。」
「移ってるな。」

 そういえば、スイにいつもテオのことを「テオ様」と言っていたような気がする。
 この年頃の子は、他の者の呼びかけを真似するというが……まさにそれであった。
 固まる三人には気づかず、スイは抱きついた身体に手を回す。そして懐かしい父の香りに顔を埋めた。
「わーい♪ テオさまだテオさまだ♪」
「ス……スイ──……(涙)。」
 密かに父が泣きそうな顔になるのにも気づかなかった。




 一日早く帰ってきたテオが着替えている間は、再教育の時間であった。
 三人はスイを囲む。
「坊ちゃん! よろしいですかっ!」
 いつになく真剣な顔で、グレミオがスイの小さくて華奢な肩を掴む。
「うん……?」
 不思議そうにスイは首を傾げる。
「テオ様は坊ちゃんの父君なのです! ですから、坊ちゃんは父上とお呼びしないと!」
「? でもグレミオもクレオもパーンも、ソニアも、テオさまって呼ぶよ?」
 スイは納得しがたいと言う表情で、グレミオの綺麗な目を見つめた。
「それは私達がテオ様に仕えていて、尊敬しているからで……。」
「??? なにか違うの??」
 スイにはわからないらしい。
「と、とにかく違うんです……。」
「????」
 なんと言って良いのかと、グレミオが助けを求めるようにクレオとパーンを見た。
「グレミオ、変な説明してもわからないだろ。」
 クレオが溜息をついて、グレミオの隣にひざまづく。そして、グレミオの手からスイを奪った。自分のほうを向かせる。
「よろしいですか、坊ちゃん? 坊ちゃんはテオ様のお子様なのです。血のつながりのあるもの同士には特別の呼び方があるんですよ。」
 優しいクレオの口調に、スイはふむふむ、と頷く。
「とくべつ……?」
「はい。坊ちゃんをお産みになった方を母上と、そして……──えっと……。」
 クレオはそこまで言って視線を迷わせる。
 父のことをなんと例えて良いのかわからないらしい。
「ははうえー。」
「私は違いますよ〜、坊ちゃん〜。」
 スイの尋ねるような目に、グレミオがぶんぶんとかぶりを振る。
 その間も、良い感じの言葉を捜してクレオが眉をしかめる。
 そのクレオの後ろから、
「種馬……?」
 ぼそり、とパーンが呟いた。
 ぴきっ、と時間が凍りつく。
 そして次の刹那に、バコッ! と音がして、目にもとまらぬ早さで、クレオがパーンの頭を叩く。
「下品な言い方するんじゃないのっ!!」
 グレミオもまた、頭を押さえている。
 その隣で、スイがぱふっ、と手を叩いた。
「たね! テオ様はたねなんだねっ!」
「え? ちょ、ちょっと坊ちゃんっ!?」
 グレミオが慌てるのも無視して、スイは身を翻す。
「あっ、ち、ちが……っ! 坊ちゃんっっ!!」
 クレオが慌てて声をかけるが、何を思ったのかスイはそのまま走り去ってしまった。





 テオは無言で北方に行く前の写真を眺めていた。
 そこにはスイと仲良く笑っている自分がいる。
 あの時は、「父様」と呼んでくれていたのに、と思う。
 やはり今の年頃の子を放っておくのはよくないのだろうかと、机の上に置いておいたスイへの誕生日プレゼントを見た。
 と、そのときである。
 コンコン。
 控えめなノックの音がした。
 どうせグレミオが、昼食が出来たとか言いに来たのだろうと、テオは溜息をつく。
「今行く。」
 短く答えた言葉に、帰ってきたのは幼くつたない言葉だった。
「スイです。」
「……。」
 テオは迷うことなくドアを空けた。
 すると、自分の頭よりも高いところにあるノブを回そうとしていたスイに出会う。
 スイはそのままテオの足にぶつかって、痛そうに目を歪ませる。しかし、すぐに気を取りなおしてテオを見上げた。
「スイ……どうした?」
「あのね、今日、一緒にお風呂入りましょって、お誘いに来たの。」
 にこ、と笑う息子に、つられてテオも微笑む。
「よーし、じゃぁ、約束だな。」
「うんっ、約束ねっ、たねうえ!」
「…………は? 種?」

 スイの後を追いかけてきた三人が、廊下の角からその光景を眺め、それぞれに呟く。
「あ。」
「……あーあ。」
「ぼ、ぼぼぼ、ぼっちゃぁ〜ん。」

 そして、まとわりつくスイの身体を抱きとめながら、テオはスイごしにその三人を睨んだ。
「お前ら…………────。」

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