ACT 5 格闘技


「柔道?」
 渡された紙を見て、ケスラーはそのつぶらな瞳を細める。
 そして、視線を走らせ――紙を凝視した姿勢で固まってしまった。
 唐突に凝固したケスラーに、草原にのんびり座り込んでいたバルカスが、視線をよこす。
「おう、どうした、ケスラー?」
 同じように座り込んでいたシドニアも、視線を上げてケスラーを見上げた。
 ケスラーの様子がおかしいのは、しっかりと掴んでいる紙が原因のようであったが――、
「それ、さっきテッドが持ってきた紙だよな?」
 シドニアは尋ねながら、明るい笑顔で紙を差し出してきたテッドの顔を、思い出した。
 何やら企んでいるような気のする笑顔だった。そう、まさにスイの親友と言うべき笑顔であった。
 初めて会った時は、それほど癖のある少年には見えなかったのだけど、と思いかけたシドニアは、すぐに思い直す。考えてみたら、遠い昔のような気のする運命の邂逅の時、テッドは戦闘に疲れ果てて、ばてていたのだった。
「柔道って、俺たちが今からする競技だろ? どんなヤツなんだよ?」
 ほれ、と促すように手を差し出すバルカスに、ケスラーは軽くかぶりを振ってから、紙を放り出すように渡した。
 風に舞うそれに手を伸ばしたバルカスの目前で、シドニアがクイ、と指先を動かせる。それと同時、シドニアの手の中に紙が移った。
 指の手前で、紙を奪われた形になったバルカスは、普段は使わないと言ったくせに、とぼやきながら、シドニアの手の中の紙を覗き込む。
 紙には、レックナートの書いた字なのであろう、流麗な文字で「柔道」のルールが書かれていた。
 二人は、無言で上から読み下していく。
 その表情が、項目を読み進めるほどに、険しくなって行く。
「…………………………………………。」
 最後まできっちりと見た後、二人は揃って、ケスラーを見上げた。
 尋ねるような視線であったが、先ほどこれを受け取ったばかりのケスラーが、答えられるわけがない。
 ケスラーは、難しい顔で髭を梳いていた。
 その彼に、あえて無駄だろうと思いつつ、バルカスが言葉で問い掛ける。
「………………ルールは分かったんだが――ケスラー、つまり……なんだ?」
「聞くな。俺にもわかるかよ。」
 渋い顔で、ケスラーがぶっきらぼうに答える。その答えに、だろうな、とバルカスは大きくため息を零す。
 レックナートががんばって書いてくれたのだろう――ルールはわかりやすく、詳しかった。
 そう、ルールは分かったのだけれども。
「で――その、一本とか言うのを取るための技って、どうやってするんだ?」
 口にしてはならない疑問を、シドニアが口にした。
 紙を持ったままであったバルカスは、無言で紙を見下ろした。
 柔道というのには、決まった技があって、それで一本を取った方が勝ちだと言うのは、この紙を見たら分かるのだ。
 なのだが。
 その、「決まった技」というのが、この紙には一言も書かれていなかったのである。
「不本意だが――誰かに聞くか?」
 バルカスが苦々しく呟き、辺りを見回す。
 近くに同じ柔道の選手が居るはずだ。彼らに説明されているかもしれない。
 捜すように視線を送った先に、確かに柔道にエントリーされている者達はいた。
 びしりっ、と白い柔道着を格好良く決めて、帯をキュッと結んでいる。やる気満々なのは、簡単に見て取れた。
 が、三人とも、彼らから話を聞く気は起きなかった。
 柔道着を着た相手が相手だったからである。
「テッド……返さなかったら良かったな――。」
 今更なことを、三人はぼやくのであった。




 バルカス達の視線の先で、準備運動をしていた選手は、ふぅ、と一息吐いた。
 そして、毛むくじゃらな手を掲げると、
「よしっ! がんばるぞーっ!!」
 明るい声で宣言した。
 その声に続いて、
「兄貴、かっこいいーっ!」
 両拳を握り締めて、興奮する犬が一匹――……。
 そう、コボルト達であった。
「ゴン、しっかり帯を、結ぶんだぞ。」
 自分の柔道着の帯を結び直しながら、クロミミが弟分に言い含める。
「兄貴の帯は、まっくろっ!」
 ゴンの帯はまっしろっ! と、ゴンが帯を締める。
「おうっ! クロミミはがんばってるからなっ!」
 白い柔道着に良く映える黒い帯が、ゴンの目に眩しく映った。
 ゴンは、やっぱり兄貴はすごい、という、犬特有のキラキラ目でクロミミを見つめる。
 ゴンの目には、柔道着姿で、りりしく立つクロミミが映っている。
 そのクロミミの首に、不意に腕が回った。
 そうかと思うや否や、ゴンの首にも腕が回り、強引に引き寄せられる。
 きゅむっ。
「ん?」
「んん?」
 何かに引き寄せられたような感触に、クロミミとゴンが間近で目線をあわせたその瞬間、
「かーわーいーいーっ!!!!!」
 右腕と左腕で二人を抱き寄せた張本人が、叫んだ。
 そして、そのまま感情の赴くままに――動物虐待にも似た強引な力で、しっかりと抱きしめると、
「なんでコボルトって、こんなにかわいいのーっ!?」
 いつのまにか現れていたスイが、そう叫んだ。
「柔道着なんて、絶対犯罪ーっ!!!!」
 ふかふかの毛皮に顔を埋めて、動物大好きな彼が、二人のコボルトを拘束する。
 感激のあまり、相当な力が加わっているようだ。
 首に回った腕を苦しそうに掴んで、クロミミが途切れ途切れに訴える。
「んぐぐ……スイ…………苦し…………。」
「兄貴っ、兄貴ーっ! しっかりし…………。」
 顔色が変わっていくクロミミに、慌てたゴンが、呼びかけるが、その呼びかけすらも、途中で息絶える。
 苦しげにもだえる二人を、そのまま見殺しにすることもできたが、さすがにこんな間抜けなことで戦友を失うわけにも行かず――やれやれと、コボルトの様子を眺めていた男が、のんびりと声をかけた。
「こらこら――窒息してるから、離してやれ。」
 近くから聞こえてきたくぐもった感じのする声に、きょとん、と目を瞬いて、スイは振り返った。
 それによって少し緩んだ腕から、喉を解放されたクロミミが、焦ったように咳き込み始める。
 慌ててゴンが、そんなクロミミの背中をさするが、自分も咳き込んでいるため、背中を叩くような格好になってしまっていた。
 そんなかわいらしい光景を両隣に置いたまま、スイは驚いたように目を見張った。
 苦い笑みを浮かべてそこに立っていたのは、トラの覆面を被ったフー・スー・ルーであった。そのたくましい筋肉は、解放軍筋肉番付けの上位三位に入る立派な物である。
 彼のことだから、てっきり、「柔は力を制す」の柔道よりも、レスリングの方に参加していると思っていた。
「まさかフーが柔道に出てるなんて思っても見なかった。」
 だから、思ったと同時、口に出してしまっていた。
 そんなスイに、苦い笑みを広げながら、くい、とコボルト達を示す。
「俺はこいつらと一緒だしな。」
 肩をすくめたフー・スー・ルーの気持ちにはさっぱり気付かず、コボルト達は元気良く笑っていた。
 彼としても、柔道よりもレスリングの方が楽しめそうだと思っていることは間違い無かった。
 だが、どう考えても、同じチームであるコボルト達はレスリングに向いていなかった。
「あー、戦争チームだもんね……コボルト+1っ!」
 真剣に嫌そうな顔をすると分かっていて、あえてそう口にするスイの根性の悪さに、握った拳が震えた。
 しかし、それを必死に思いで掻き消して、フー・スー・ルーはスイに顔を近づけた。
「おまけみたいに言うなと、言ってるだろうがっ。」
 低く脅すような口調で語りかける彼に、スイはくすくす笑って彼を見上げる。
「”可愛いの”の、おまけじゃないの?」
 さらにフー・スー・ルーをからかおうと口を開きかけたスイは、ふとその笑みを引っ込める。
 瞳を細めて、遠く――向こうを見た。
 不機嫌そうに顔を顰めたフー・スー・ルーは、そんなスイを一瞥してから、彼が見やっている先に視線をやった。
 その先には、どうしたものかと、額を掻きながら歩いてくるバルカス達がいた。
 バルカスは、鋭い視線を感じて顔をあげて、軽く片手をあげる。
「おう、スイも来てたのか?」
 悠々とやってきたケスラーが、バルカスの隣で白い紙を掲げる。
 少し遅れて歩いてきたシドニアは、フー・スー・ルーの隣に立つスイに、ちょうどいいとばかりに笑いかけた。
「スイ、柔道について聞きたかったんだ。」
「柔道?」
 フー・スー・ルーに再び促されて、しぶしぶコボルト二人を解放しながら、スイは彼らを見上げる。
 安全距離といわんばかりに、三メートルばかり離れた位置に立つ彼らは、いつもと変わりない格好をしていた。そんな山賊達を交互に見やりながら、シドニアの言葉の意味を図る。
 ……まぁ、意図など図らなくても、しっかりと自前の柔道着を用意しているクロミミ達と違って、何をしたらいいのか悩んでいるらしいというのは、一目瞭然なのであったが。
「そうだ。一本を取るには、どうすればいいのか教えてください。」
 ケスラーが、眉を寄せて、真剣に尋ねるのに、スイも真剣に答えてやった。
「アンドゥトロアだね。」
「――――――――は?」
「だから、アン・ドゥ・トロア。」
「アン…………??」
 優雅な物には、およそ無縁の彼らには、何の呪文なのかわからなかったらしい。
「なんなら、”カツ丼食いたい”でもいいよ。この際、健児のばかでも、ちぇすとでも、好きなようにやったら?」
「――――――――――………………いつも思うのだが、スイ殿の思考は良くわからん。」
 しみじみと呟いたケスラーに、それは誰もが思うことであろうとは、無言で見守っていたフー・スー・ルーの心の声である。
 これ以上聞いても無駄なのが分かっているシドニアが、やれやれとかぶりを振った。
 スイもスイで、先ほど自分が口に出したことへの疑問は、それでお終いとばかりに、笑顔で一同を見回す。
 そして、満足げに一言。
「それにしても、コボルトに山賊かぁ…………このチーム、卑怯技出し放題だねっ。」
「だねっ、って、そんな笑顔で言うなよ――。」
 思わずバルカスが突っ込んだが、そんな小さな突っ込みを聞いてくれるような軍主様ではなかった。
「シドニアで、ちょっとだけ移動使って、ケスラーにぃ――。」
「人聞き悪いこと言うなよ。」
 まったく、と、シドニアが髪を掻き上げるが、いざとなったらそうしようと思っていたらしく、それ以上は口を挟まなかった。
 それに楽しそうに喉を鳴らしたスイの背後から、
「本当ですよ、スイ様っ! 仮にもテオ様の御子息ともあろう方が、なんて卑怯なことを口にするんですかっ!」
 後ろ頭を殴り飛ばすような声が飛んできた。
 シドニアが片眉をあげて、スイの後ろを見やった。
 そこには、黒髪の美青年が、眦をあげてこちらを睨んる姿があった。
 隣に立つもう一人の美青年は、シドニアの視線を受けて、軽く肩を竦めて見せる。それから、
「アレン、この方には言っても無駄だと、わかってるだろう?」
 懸命にもグレンシールは、「過去の経験から」という一言は付け加えなかった。そんな言葉をつけた瞬間、アレンが激怒すること間違いなしなのである。
 アレンは、不機嫌そうに顔を歪めた後、ため息を零した。
「……それを、許してしまうのもどうかと思うぞ、グレンシール――。」
 まだ苦虫をかみつぶしたような顔をしている彼に、グレンシールは口元を歪めて微笑んだ。
「だが、それを制することが出来るほど、私たちも出来てはいない。」
「自分を過小評価するのは良くないよ、二人とも。で、君たちも柔道?」
 にやり、と悪餓鬼当時そのままの笑顔を見せるスイに、グレンシールが苦笑を浮かべる。
「ええ、ハンフリー殿のチームはそうだと、お伺いしましたから。」
「不本意だけどな。」
 忌々しそうにアレンが言い捨てるのに、なるほどなるほどと、スイが頷く。
「そうだよねぇ。せっかくの美青年だもん。僕としては、二人ともジャンプスキーかアイススケートに行ってほしかったなぁ。」
「――――――……また、どうして?」
 二人にしてみたら、こういう競技自体に参加したくない気持ちの方が強いのだろうけど。
 けれど、
「オデッサさんとレックナート様がね、顔だけで点数あげるって、そう言ってくれたんだよ。――もっとも、選手を組んだのはレオンなんだけどね。」
 最初の一言に、猛烈抗議をしたかったのだが――最後の一言が、あまりにも冷ややかな空気と共に吐き捨てられたので、誰も何も口を利けなかった。
 勝手に人を売るような契約を交わさないでください――アレンもグレンシールも、その抗議を、そっと心の中に閉まった。
 けれど、スイはその表情を的確に掴んだのだろう。
 にっこりと笑うと、
「じゃ、レスリングにでも行くかい?」
 隣の空間を指差した。
「レスリング?」
 いぶかしげにアレンとグレンシールが揃って視線をやった瞬間、二人は、動きを止めた。
「あ……っ!」
「あれは――……っ。」
 絶句した二人の肩に手を回して、冷ややかにささやいてやる。
「レスリングの相手って、父上だしね。」
「…………テオ様っ!」
「テオ様…………――――。」
 けれど、二人は、スイの声も聞こえないのか、目を大きく見開いて正面を見詰めていた。
 その目には、郷愁と懐古、そして憧れ――さまざまな感情が交錯していた。
「戦場で動きを止めるのって、自殺行為だよー……って、聞いてないや。」
 おーい、と尚もしつこく美青年にささやき続けるスイに、不意にハンフリーが声をかける。
「…………スイ。」
「おう。」
「…………どうする?」
 低く尋ねたハンフリーに視線を飛ばす。
 彼はいつのまにか、白い柔道着に着替えていた。絞めた黒い帯が、少し色褪せていて、それが熟練の戦士そのものであった。
「――とりあえず、そうだね?」
 瞳を細めて、スイはハンフリーの上から下までを見つめた。
「ハンフリー、柔道着が似合ってるよ。」
 にこ、と笑顔で告げると、しばらくの沈黙の後、ハンフリーは深く頷いた。
「――……力の限りは。」
「うん――頼むね。」
 笑顔で答えたスイとハンフリーを、黙って見守っていた一同は、無言で尋ねるような視線を交わし合った。
「おい、シドニア――あれ、どういう意味だ?」
「俺に分かるかよ。」
 バルカスに答えるシドニアに対して、フー・スー・ルーも同意するように頷いた。
「あれは、一種のテレパシーだな。」
「言えてる。」
 ケスラーも頷いて、とりあえず、選手の順番を書く紙を広げてみるのであった。




 クロミミは、ショックのあまり耳を垂らしていた。
「――っ!! コ、コボルトの勇敢な戦士のクロミミにも、弱点が……っ!!」
 そう、彼はつい先ほどの先鋒の試合で、敗北したのである。
 そして、いつもならそのクロミミを応援するゴンは、現在試合中であった。
「アニキーっ! エリがつかめませーんっ!!」
 泣きそうな顔で、ゴンは必死で相手のエリを掴もうとするのだが、そのリーチが短くて、ひょい、とあしらわれてしまっていた。
 そう、コボルトは、人間とは手の形が違うので、しっかりと腕を伸ばさないと、襟が掴めないのである。
 クロミミは、ゴンを応援しようにも、援護しようにも、どうしようもなくって、ただ声援を飛ばすしかなかった。
 そのクロミミとゴンの仕種に、スイが熱狂していた。いつのまにか隣には、可愛いもの好きが集まっていた。
「いやーんっ! かーわーいーいーっ!!!」
「リーチ足りないのが、すっごくかわいいのーっ!」
「だよね、だよねーっ!!」
 スイも大きく頷いて、投げられたゴンを見ては、さらに可愛いと叫ぶ。
「アホーッ!!! それで二連敗だろうがーっ!!!」
 何を喜んでるんだっ! と叫んだバルカスに、
「え? あ、そーなの?」
 テンガアールやメロディ、メグ達に違和感なく溶け込み、はしゃいでいたスイが、淡々と尋ねる。
 せめて、ゴンが投げられた時くらいの感情をもって言ってほしいものである。
「そうなの、じゃねぇっ! 次負けたら、おしまいなんだぞっ!」
「いいじゃん、バルカスの出番がなくなって。
 って、あれ? シドニアとフー・スー・ルーは?」
 未だレスリングの方に熱中しているアレンとグレンシールはともかくとして、どうしてクロミミとゴンが二連続で出ていて、あの二人が出ていないのだろうと、視線を飛ばした先で――テレポート禁止の札をさげたシドニアと、覆面マスク禁止の札をさげたフー・スー・ルーが立っていた。
「……ちっ、役にたたねぇの。」
「お前なぁ……っ!」
 出場禁止命令を食らったフー・スー・ルーが怒鳴ろうと、大きく口を開いた瞬間、
 どっかーんっ!!
 い草という植物で編んで作った絨毯の上に、相手の巨体が落ちた。
 続いて、審判の一言が下った。
「一本っ!」
 大きな音を立てて、振動が起きたそれに、驚いたようにフー・スー・ルーが振り返る。
 のんびりとスイも振り返って、襟を正している三番手――ハンフリーを認めて、にやり、と笑った。
「さっすが……。」
 畳の上に落とされた相手が、失神しているのを確認して、シドニアが口笛を吹く。
「柔道って、帝国の兵訓練の科目であるのかな?」
 良く見てはいなかったけれども、開始、という声があがってからの「一本」までの時間を考えると、あっというまに終わったようであるし。
「さぁ、それは分からんが――ん? 次はケスラー殿か。」
 フー・スー・ルーが先を指差して示すのに、スイも四つ目の試合に入った畳を見た。
 その瞬間、指で示したフー・スー・ルーの額に、汗が一つ浮かんだ。
 スイが見た瞬間、ケスラーの身体は畳の上に横になっていたからである。
 それも、見事に背中から。
「一本っ!」
「…………これはまた、早いことで。」
 あきれたように腕を組んだスイに、フー・スー・ルーは何か言おうとして、でも、言い切れず、口を閉ざした。
 スイは無言で、ケスラーを投げた相手を見た。
 「彼」は、平然とした瞳で正面を見つめていた。
「――さすがに、皇帝相手じゃ、勝てないか。」
 どちらにしても、これで柔道は終了ということなのであったが。
「くっそっ! バルバロッサめっ!!」
 出番をなくしたバルカスが、どんっ、と床を叩くのに、隣に座っていたハンフリーが、軽く眉を顰めた。
 そんな二人の肩に、ぽん、と手が置かれた。
 見上げると、軍主様が笑顔で立っていた。
「負けは負け。向こうはきちんとルールを知っていた。そういうことだろ?」
「…………柔道なんて、できるかぁぁぁっ!!!!」
 未だ畳の上で呆然としているケスラーに、バルカスが怒鳴る。
 勝利宣告を受けたバルバロッサは、悠々と畳から降りた。
 それを見ながら、スイは少しだけ瞳を細めた。
「――ハンフリーは、できたんだけどね。」
 ほんの少し、悔しさを織り交ぜて。





 草原を刈り込んで作った平地の中に、巨大なマットが置かれている。クッション素材か空気が入れられているのか、座り心地の良いふかふかのマットの上で、解放軍の選手一同は円座を組んでいた。
 中央付近に座り込み、真剣極まりない表情で、ビクトールが柔道をやっている方向を見やった。
 そして、そこにいる「その人」を確認して、ビクトールは唇を歪めて笑った。
「よし、スイのヤツは柔道に行ってるな――今の内だ、今のうちっ!」
 ひざを叩いて彼は、レスリングに参加するメンバーを見回した。
 見回した彼らも、思うところは同じらしく、今のうちだとばかりにひざを進めた。
 グッと顔を近づけて、むさい顔を見せ合って選手一同は緊迫した表情を浮かべた。焦りと緊張とが交錯している。
「さっさと作戦会議と行こうぜっ! まずは、レスリングが何なのか、しらねぇとなっ!」
 ビクトールは気合を入れるように低く叫ぶと、いつものようにユッタリと腕を組んだ。
 うんうん、と頷いて自分の言葉に満足しているらしい彼に、正面に座っていたガスパーが呆れたような目を向けた。
「知らないでやろうってのかよ。」
「しょうがねぇだろ、んなもん。やったことねぇんだからよ。」
 なんか文句あるのかよ、と唇を尖らせた彼に、ガスパーは投げたサイコロを手の中に戻す。
 それから、横脇に投げ捨ててある紙を見た。
 さきほど、「テッド」という審査員の一人が持ってきたルールブックである。一応一通り目は通してあるのだが、それだけではどういう競技なのかは、まったく分からなかった。
 陸上競技とか、水泳競技なら、まだルールもやり方もわかるのに、と、ガスパーはため息を零す。
「レスリングねぇ――力仕事は苦手なんだけどなぁ。」
 続けてぼやいた彼の言葉に、茶化すような笑みを浮かべて、
「駆け引きはお手のものだろう?」
 クワンダ・ロスマンが微笑んだ。
 その穏やかに見える笑顔に、言い返したいような何も言えないような、奇妙な表情を浮かべる。その後、手の中のサイコロを一瞥して、そうだな、と呟く。
「ま、何にせよ、俺等はルールも何もしらねぇ素人だ。」
 何か企んでいるような口調で切り出すビクトールに、タガートが問いたげな視線でルールブックを見たが、それに突っ込むものは誰もいなかった。
 ビクトールがこう言い出す以上は、何らかの根回しをしているに違いないからである。
 そしてそれは、あたっていた。
「ある程度は好きさせてくれるよう、頼みに行ってるトコ――……っと、戻ってきたな。」
 オリンピックの象徴のように、空向けて立っている聖火台――今は審査員席になっているそこから、チャンドラーが走ってくる。
 それを親指で示しながら、ビクトールが笑う。
 慌てて走り寄ってきたらしいチャンドラーが、ずれてしまった帽子を直しつつ、一同の元に駆け込む。
 上気した頬に伝う汗を拭いながら、視線で尋ねてくる一同に、しっかりと頷く。
「今話を付けてきた。大体はあれでいいそうだ。」
 それに、ビクトールが笑い返す。
 一体どういう話をつけたのだと、クワンダが眉を顰める。
 ビクトールは任せとけと言いたげに口元に笑みを馳せた後、チャンドラーを見上げた。
「それで十分だ。団体戦、五人で一度に戦う一発勝負――だろ?」
「はい。」
 しっかりと頷くチャンドラーに、選手の間にざわめきが走る。
 レスリングというのは、一度にマットにあがれる人数は一人ではないのか? 一対一の勝負を、五つ行うとか、ルールブックにかいてはなかったか?
「それでは――乱戦になるのではないのか?」
 少し考えるように顎に手を当てたウォーレンが目線をあげて、ビクトールを見やった。
 勝負の前の緊迫感を宿した男は、無言で瞳を細める。
「それが狙いなんだよ――そうでもしなきゃ、相手したくねぇ相手だしな……。」
 最後の方の言葉に、苦いものが混じっているのを感じて、そこで初めて彼らは反対側を見やった。
 今の今迄居なかったはずの敵側陣営に、男が一人、立っていた。
 隣に自分の腹心の部下を従え、無骨な剣を外し、戦に赴こうとしている男が。
 その姿を認めた瞬間、誰もが息を呑んだ。
 他のどの競技でもない、この「闘い」で、彼と戦うことが、どれほど恐ろしいのか、この場の誰もが良くわかっていたのだ。
「テオ=マクドール……。」
 その名を口にした瞬間、背筋が凍えるような感覚を覚えて、ガスパーは小さく舌打ちをする。
 歴戦の戦士を見てきたし、生と死の間だって、何度も潜り抜けてきた。
 けれど、そうしてきたからこそ分かる物がある。
「……帝国側は、テオ将軍だけらしい。」
 チャンドラーが、ぼそりと呟く。
 それでも尚、テオは乱戦であることを許した。
 それがどういう意味なのか、分かりすぎるほどに分かってしまう。
「…………とりあえず、参加する五人を選抜するぜ。」
 無理矢理テオから視線を外して、ビクトールが低く呟く。
 なぜか心臓がズキズキと痛むような感覚を覚えたが、無理矢理ねじ伏せる。
 今更、彼の強さや怖さ、偉大さが分かってどうする?
 「軍」として、戦争の相手として戦うのも怖いけど、一対一で戦うのも怖い相手だと――そんなこと、あの少年と彼との一騎打ちを見たときに、とうに分かっていたことだ。
「どっちにしても、一度勝った相手に、負けるわけにはいかねぇよ。」
 それも、体を張った戦いで。
 厳しい顔で答えてから、ビクトールは一同を見やった。
 密かにテオの気迫に押されていた一同は、慌ててそれを振り払う。
 そうだ、負けるわけには行かないのだ。
 自分たちにはまだ、「現実の戦争」が待っているのだから。
 その視線に応えて、それまで黙っていたエイケイが目を開いた。
「相手に不足はない。出きることをすればいい。」
 そう、今出来るのは、戦う前から前から負けることじゃない。
 エイケイが暗に呟いた言葉を感じ取り、一同が考え込むように沈黙を呼び込む。
 勝てるぞ、だとか、勝つぞ、だなんて簡単に言えような相手じゃない。
 なにせ相手は、「あの、テオ=マクドール」なのだ。
 その名前を知らぬものなんていないと言われるほどの、強大な存在。
 沈黙を破ったのは、「テオ」と長い間ともに戦い続けた男であった。
「テオ……か。」
 低く呟き、クワンダは自分の顎に手を当てる。
 あの男は、剣を持たせれば百戦百勝と呼ばれた男である。しかし、その実、剣を持たずとも――相当の使い手であるのは、同僚時代から分かってるところである。
 相手にとって不足はないどころか、不満大有りである。
 出来ることなら、闘いは避けたいところなのだが、そうも行くまい。
 ならば、戦うしかない。そして、戦う以上は――そう、ビクトールの言ったとおり、勝つしかないのだ。
「強敵ですね、ウォーレン様……。」
 タガートが眉を寄せて、実はやる気満々のウォーレンを見上げる。
 「肉体と肉体をぶつけ合う、血と汗が飛び散る美しい競技」とレックナートが銘打ったレスリングのルールを見た瞬間から、タガートはウォーレンを、出したくなかった。
 けど、だんな様はそんなことを聞いてはくれないのだろう。
「だからこそ、スイ殿の悪知恵をお借りしたい所――だけど。」
 言いながらもう一度柔道を見たクン・トーが、あれ、と呟いて目を見開く。
 いつのまにか柔道の試合は終わっていて、そこにスイの姿が無くなっていたのだ。
 どこへ行ったのだろうと見回す彼に、
「ばか言うな。んなことしてたら、命がいくつあっても足りやしねぇ。」
 それくらいなら、負けた方がなんぼも増しだよ、とビクトールが毒づく。
 すぐに反論するように、負けるわけには行かないのだがな、とクワンダが笑う。
「ま、運の女神様が微笑んでくれりゃいいけどな。」
 ガスパーも、辺りにスイがいないか見回してから、うん、と頷く。
 彼としても、あの悪魔の申し子のような少年の助力を受けるくらいなら、負けた方がマシだと思っているのは確かだった。
 彼の知恵を借りると、自分とビクトールに、一番の被害が出るからである。。
「……あまり無茶は感心しませんが――……。」
 肩を竦めた彼らの言い分に、それでもスイの知恵が欲しいと、そう口にしかけたタガートは、顔をあげた瞬間に驚いたように目を見張った。
 ちょうど彼の正面にあたる、聖火台の方角から、チャップマンが走ってきたのを見つけたである。
「あれは……――チャップマンさん?」
 彼は、何やら大きな紙袋を抱えていた。
 防具でも調達して来てくれたのだろうかと、タガートが腰をあげて、息を切らした彼から紙袋を受け取る。
 袋は、一見パンパンに入っているようだったが、とても軽かった。
 チャップマンは、汗の滴る額を腕で拭うと、ヤレヤレと言いたげに腰に手を当てた。
 そして、深刻そうな男どもを見下ろし、タガートに持たせた紙袋を顎でしゃくった。
「おう、おめぇら。これを預かってきたぜ。」
 どこから、というのは、彼が走ってきた方角から考えるに、無駄な質問であろう。
「これ?」
 預かってきた、という言い方に不思議そうに顔を顰めたタガートは、袋の中を覗いた。
 袋の口を開けると、中身が溢れてくる。それほどたっぷり入った物を、ずるずると引き出す。
 すぐに、鮮やかな緑と赤の布がビロン、と広がった。
「おう、ユニホームだってよ。」
 しれっとして口にした彼が、疲れた疲れたと、言いながら、その場にどっしりと腰を下ろす。
「ユニフォームぅ? また準備がいいな……どれどれ?」
 タガートが手にしたユニフォームとやらを、ビクトールがひょい、と摘まんだ。
 そしてそれを広げた瞬間、
「…………すまない、私は、ちょっと――。」
 クワンダが、さりげない動作で立ち上がった。
 そのまま、そそくさと遠くへ行こうとした彼を、クン・トーがマントの裾をつかんで引き止める。
「まぁまぁ、文句は言うなってっ! ほら、あんた用に、白いの。」
 ひらひらと、布が少ないそれを振るクン・トーを睨んで、クワンダはため息を押し殺す。
 とてもじゃないが、好き好んできたいような物ではなかった。
 こういうのは、密かに露出狂と呼ばれている、「あのひと」とか、「このひと」当たりに着て欲しいものである。
「やはり、私も、着なくてはならないのか?」
「選手だしな。」
 チャップマンが、それはそれは面白そうに笑った後、紙袋の中から適当にユニフォームを取り出すと、にっこりと笑った。
「ほれ、後着るのは、ウォーレンさんと、ガスパーさんね。」
「えっ!? お、俺もっ!?」
 慌てて振り向いたガスパーに、ビクトールがユニフォームを手にしながら、笑った。
「駆け引きは、得意なんだろ?」
「…………冗談………………。」
 でもきっと、冗談ではない。




 筋肉を強調するユニフォームを来た壮年の男――確かに、素晴らしい筋肉美を強調するのには、とても役立っていたのだが――一部、それに狂喜乱舞している人もいるのだが。
 だがしかし、息子としては、苦痛であった。
 だから、こうして涼やかな高台で――というのには、後ろの炎が暑苦しかったけれども――眺めることにしたのである。
「醜いものは、見たくないんです。」
 ずず、と聖火で沸かしたお湯で煎れたお茶を飲みながら、彼はそう呟いた。
 その相伴に預かりながら、隣で涼しい顔をしたルックが、面倒そうな表情でスイを見た。
「で、どうして君、こんなトコでサボってんの?」
「ルックに言われたくないなぁ。」
 くすくすと笑いながら、スイは急須を掲げて、ルックにいるかどうかと確認する。
 ルックが無言で差し出した湯飲みに、お茶を注いでやる。
 どう見ても、2人揃っておサボり中の光景であった。
 コポコポと注がれるお茶が、湯飲みからぎりぎりの位置まで入れられる。零れるかと思う一瞬、ぴたり、と注がれるのが止まった。
 少しでも揺らそう物なら、確実に零れること間違い無しである。
 ルックは無言でそれを見つめて、そういえば、こいつはこういう「些細な嫌がらせ」を、平気でやる男だったと思い出す。
 かく言うルックだとて、平気でお茶をある程度まで流してから飲むのだから、勝負としてはどっちもどっちだったのだが。
 今日も今日で、スイのタオルを湯飲みの側に置き、そこへ零そうとする。
 湯飲みを傾けたその瞬間、ひょい、と脇から手が伸びてきた。
 手はそのまま湯飲みを掴み、ぱしゃん、とお茶を零した。
 ルックが視線をあげたその先で、手の主は、一気に喉を鳴らせて飲み尽くしてしまった。
 残されたのは、机の上に出来たお茶の零れた後だけである。
 そして、憮然として自分を見ているルックに、空になった湯飲みを返すと、にやり、と笑った。
「いっやー、一仕事した後の、いっぱいはうまいっ!」
 いつのまにか帰ってきていたテッドは、そう言って明るく笑い、二人の肩をバンバンと叩いた。
 まるでどこかの仕事帰りのおやじである。
 これだから、三百歳は――と、ぼやくルックに笑みをかみ殺しながら、スイはテッドを見上げる。
「今戻ってきたの? お疲れさん。」
「おう――って、あれ? オデッサさんは戻ってきてないのか?」
 確か、一緒にここに来たような気がするんだけど、と、テッドが辺りをキョロキョロ見回す。
 スイはそれに応えて、くい、と聖火台の下を指差した。
「下で、ヨシュアとミリアとレパントと、友情育んでるところ。」
 スイが指差すままに、聖火台の下を見下ろしたテッドは、確かに見覚えのある旋毛を見つけて、ああ、と呟く。
 彼女は、真剣な表情で――生き生きした顔で、レパントとヨシュアの二人に囲まれていた。
 上に立つ者には立つものらしく、話があうのだろう、きっと。
「――……やっぱ、オデッサさんって、すげぇな。」
 感心したように呟くテッドに、つられたように下を覗き込んだルックは、軽く目を細めた。
 そして、テッドが見ている方向に気付き、なるほど、と感心する。
「バイタリティが違うしね。」
 二人が揃って見下ろす先は、オデッサでもレパントでもヨシュアでも、そしてその三人を呆れたように見ているミリアでもなかった。
 四人を、そっと遠くから見つめているフリックである。
 彼は、先ほどからオデッサに話し掛けようと努力しては、オデッサの笑い声や、あ、そうそう、という話題転換にしくじっていた。
 上から見れば一目瞭然――オデッサは、そんなフリックを密かに楽しんでいるということが。
「バイタリティなら、あっちの審査員も上等だよ。」
 ルックが置き捨てた湯飲みを端に片づけながら、スイは身を乗り出している審査員を見やった。
 そこには、遠眼鏡を用いて、興奮している女性が2人、いるのだ。
 いつもは物憂げな顔に、冷静な言葉と、優しい慈愛を秘めている彼女も、今日はちょっとばかり、違う理由で頬を紅潮させていた。
「ああ、テオ=マクドールの肉体美の美しいこと――。」
 遠眼鏡でわざわざ見なくとも、肉眼でもレスリングがどうなっているのかはわかる。
 赤いユニフォームを身につけたテオが、両腕の筋肉を盛り上げて、ウォーレンを場外に投げ飛ばしているのだ。
 その脅威の力技に、引いたガスパーの隣から飛び出たエイケイの体当たりを、正面から受け止め、手の平と手の平が、がっしりと組み合う。
「ほんと、息子とは大違いじゃないか。」
 うっとりと呟くのは、魅惑の笑みを浮かべるウィンディであった。
「ほっといてよ。」
 思わずウィンディの呟きに、スイが突っ込む。
「僕だってね、この紋章さえなかったら、今ごろ身長だってグレミオを追い越して、筋肉だって、パーンよりもついてて――っ!」
「無理無理。お前、やせの大食いだし、食っても太らねぇし、せいぜい身長だって、適当に伸びるくらいだって。」
 ひらひらと手を振って、無駄無駄、と繰り返すテッドに、スイが拳を握った。
「自分が三百年身長も筋肉もなかった、貧弱な身体だからって、そーゆーこと言うかぁっ!」
「おわっ! お前、ひそかな俺のコンプレックスをっ!」
「……君たち、そういう、ひねりもない言い争いは、そこの影でやっててくれない?」
 ルックが冷ややかに二人を見やった。
「でも、ビクトールとかいう奴の身体もいいねぇ。」
 ウィンディがうっとりとした声で言うのに、三人は思わず異口同音に答える。
「あれは、特別。」
 その瞬間、何気なしに視線をやっていたレスリングは、急展開を見せた。
 一人一人の相手をしていたテオが、一気になんとかしようと思ったのか、一気に間合いを詰めて――、
「あ、ああっ、おおおおっ! て、テオ様、すっごーいっ。」
 テッドが、ぐぐっ、と身を乗り上げる。
 一気に突進したテオは、ガスパーが身体を揺るがした瞬間、足を掬い取った。そして頭と股間に手を回すと、そのまま頭の上に担ぐ。
「家庭の恥なんて、暴露しないで欲しいんだけどなぁ。」
 担いだガスパーを、構えていたエイケイ向けて投げ出したテオを見て、スイがそう呟く。
 一体今の技のどこがどう家庭の恥なのか、聞いてみたい気がしたけれど、うんうん、と頷いているテッドを見た瞬間、ルックは顔を逸らした。
「家庭の恥っ! たしかになー!」
 テオはエイケイを片づけた、息一つきれていないそのままの体勢で、たじろぐクランダ・ロスマンと、ビクトールに向かった。
 息を呑むくらいの覇気に包まれたテオは、まさに百戦百勝将軍と言うべき存在で。
 クワンダの額にも、ビクトールの背中にも、汗が伝った。
 が、その試合の緊迫感すらも、
「いっやーん、テオ様、お素敵ぃんっ!」
 テッドがわざとらしく、クネクネと腰をひねって声援を送るその光景によって、聖火台には届いていなかった。
 ルックが、あまりのばかばかしさにため息を吐くが、それはスイにも届かなかった。
「あははははっ! じゃ、僕も!
 ちっちうえーっ!! あまりのカッコ良さに、ほれなおしちゃいそーっ!」
「じゃ、戦うなよ。」
 なんでこいつらの居る場所に、来てしまったのだろう?
 ルックがそう後悔してしまったのも、仕方のないことであろう。
 毒づいたルックの声は、笑いながら応援の声を飛ばす二人の少年によってかき消される。
 これ以上ここにいても仕方ないかもしれないと、ルックが階段へとある香としたその瞬間、
「って、おいおい、見ろよ、あれっ!」
 テッドが驚いたように声を荒げた。
 その声に含まれる純粋な感嘆なそれに、ルックが振り向く。
「お前の応援が聞いたのかもな、ビクトールさんが場外に投げられちまったよっ!」
「え? ってことは、あとクワンダだけっ!?」
 慌ててスイが身を乗り出し、ルックが振り返ったその瞬間、白いユニフォームが空を舞うのが見れた。
「あ……。」
 思わず唇を綻ばせ、ルックが呟く。
「うっわー、テオ様、完全殺人っ!」
 いや、それは違う、と、マクドール家の他の住民が居たら突っ込んでくれただろうが、今日ここにいるのは、ちょっと常識から離れた仲間達であった。
「え? ウソウソ? うっわ、父上めっ!」
「さっすがテオ様v 我が生涯のライバルに悔いはなしっ!」
「それを言うなら――って、その前に、もう死んでるから、生涯ないって言うのっ!」
 あっはっはっは、と笑い合うテッドとスイを見ながら、今だけ今だけ、とルックは心に言い聞かせる。
 これ以上ここに居たら、堪忍袋の緒がきれて、右手の紋章を解放する所であった。そんなことをしようものなら、真の紋章の主である他の三人――ソウルイーターと、門の紋章の裏表が黙ってはいないだろうが。
「あーあ、リングの上、父上だけになっちゃったね。」
「しょうがねぇよ、テオ様だし。」
「こんなことなら、僕が行けば良かったかなぁ?」
 スイが、残念そうな表情で、手の平の上に顎を乗せた。
 しみじみ呟く彼に、テッドが不思議そうな顔をして、すぐに気付いた。
「お前の必殺テオ様限定連携アタックか。」
「たまーにしか、成功しないけど、それでもないよりマシだろ。」
 簡単に口にするスイを見て、ルックは瞳を眇めて忠告してやることにした。
「これは、家族喧嘩じゃないよ、言っとくけど。」
 ルックの言葉の最後が、うっとりとしたレックナートの言葉によって消え去った。
「やっぱり、キングオブ筋肉は、テオ=マクドールですね。」
 ルックはもう、この珍行事を起こした張本人である師匠を見ることはしなかった。
 彼がすることは、ただ一つ。
 一刻も早く、この場所から遠ざかることであった。



ACT・6 華麗なる競技



 果て無く広がるように見えた草原の端に、その山はあった。
 ほとりには湖が広がり、湖面は太陽を反射してキラキラ輝いていた。
 同じように、その山も、太陽の光を反射して、眩しく輝いている――山の斜面は、純白の雪に覆われているのだ。
 少し近づけけば、山を中心として冷気が湧き出ているのに気付く。
 まるで真冬のような雪景色の山は、一筋だけ木の生えていない場所があり、その上部にはジャンプ台が用意されていた。
 また、山のふもとでは、湖が熱い氷を張っている。
 春のような日差しの他の場所にくらべて、ここの寒さは人一倍であった。
 いつもは動きやすい薄着を着込んでいる誰もが、さすがにこれでは寒いと上から厚い上着を着込んでいた。
 鎧を来ている者達は、金属がむき出しの肌に触れるたびに、震え上がっている。
 唯一の救いは、刺すような風が吹いて来ないことであった。
 その中、軽やかなステップで、新雪に足を踏み入れたのは、ミーナであった。
 彼女は、いつもの姿で、ひらひらとショールを舞わせながら、くるん、と一回りすると、
「はぁーい! みんな、元気ぃっ!?」
 この寒い中、どうしてそんなに元気なのかと言いたくなるような笑顔で、片手をあげた。
 それに答えたのは、暖を取るように円陣を組んでいる選手一同を眺めていたメグであった。
「ミーナ! なんて格好してるのー!? 見てるこっちが寒いよっ!!」
 かく言うメグは、いつもの格好の上からコートを羽織り、縮こまっている状態である。
 ミーナは、その時になって初めて、一同が寒そうに厚着してしゃがみこんでいるのに気付いた。
「寒い? そーかな? 踊ってるから感じないのかしら?」
「そういう問題でもないと思うけど――あ、でも、この山、地面から冷気が漂ってきてるから、まともに足をついてなかったら、感じないのかも。」
 実際しゃがみこんでみると分かるのだが、上よりも下の方が寒かったりする。普通冷気は上に登るはずだから、逆なのだが、したり顔でジュッポとジャバが話し合っていた内容から判断するに、この山が雪に覆われているのは、地面が冷たいから、ということになるのだ。
 メグが一人で首をかしげているのにかまわず、ミーナは円陣を組んでいる一同を見る。
 忍者達を囲むようにして、ジュッポをジャバが物差しで足を計っていた。
「――――何してんの、あれ?」
「ああ、ジャンプスキーなんだよ、これ。で、今、スキーシューズのサイズ計ってるとこなの。」
 言いながら、メグが山の斜面の上の方――上部を指差す。
 そこでは、帝国兵の何人かが、ジャンプ台の調整をしていた。
 良く見ると、左右の木には、ある一定距離ごとに札をかけられている。
「へぇ、ジャンプスキーなんだ、ここ。」
 そう言えば、少し離れたところでは、メースがスキー板のエッジを削っている。時々ドリルのような音がしている。
「どこだと思ったの――って、そういや、ミーナ、どうしてここにいるの? 確か、床競技じゃなかったっけ??」
 もしかして、わざわざ応援しに来てくれたのだろうかと、メグが眉を顰める。
 でも、こんな、見ているだけでこっちが凍り付きそうな格好で応援に来られても、迷惑なだけであった。
「それがねー、ちょっと帝国兵相手に、踊って荒稼ぎしてたら、出番に間に合わなくってねーっ。」
 あははは、と笑う彼女の言った内容にも問題があるような気がしたが、そんなことを気にしていては、解放軍は勤まらない。
 そうなんだー、と相づちを打ちながら、メグが先を促す。
「そしたらスイさんに、とりあえずこっちに参加しとけって言われて、来てみたんだけど――もしかしてもしかしなくても、私、用なし?」
「うーん、下に行った方が良かったかも。」
「下??」
 苦笑を浮かべて、メグが下を見やるのに、ミーナもつられて下を見やった。
 下には、広大な湖が広がっていて、その一部――ちょうど山のふもとにあたる部分が、凍り付いていた。
 良く見ると、その氷の上に、何人かの人が立っているのが見えた。
「あれは……?」
 目を細めるミーナに、
「アイススケートだよ。」
 ごくごく当たり前のように、後ろから声が返ってきた。
 その聞きなれた声に、二人の少女の肩が跳ねた。
「…………すすす、スイ、さんっ!!!?」
 どうしてここに、という言葉は、神出鬼没を得意とする彼には、まったく無駄な台詞であると、良く分かっていたから、ごくん、と飲み込む。
 どこからか略奪してきたらしい、蒼いマントを、ショールのように纏った彼は、にっこりと笑って、二人に答えた。
 そして、二人をゆっくり眺めながら、マントの止めるのに使っていた留め金を外す。それを手の中でもてあそぶようにしながら、上目遣いでミーナを見やる。
「ミーナだったら、スケート靴はいてても、高得点だったろうけど――ま、仕方ないよね。」
 短い板のような留め金で、マントを再び止め直す彼の、のんびりと仕種に、ミーナは肩を竦めてみせる。
「う……ごめんなさい。」
 別に攻めている口調ではなかったのだが、攻められているような気がしてしまう。。
 やはりメグの言ったとおり、ミーナがアイススケートの助っ人に行くことを、スイは望んでいたのだ。
 その期待を見事に裏切った形になった以上、ミーナに出きるのは、酒場で鍛えた微笑みを口元に上らせることであった。
 向こうでメグが、がんばれ、とジェスチャーしてくれるが、一体何をがんばれと言うのだろう?
「その分、彼らにがんばってもらおう。」
 だから、ミーナ、しっかり応援してやってね?
 笑顔で――そう、果て無い笑顔で、彼はそう口にした。
 ミーナは、引きつった笑顔で円陣を組んでいる選手を見た。
 そこでは、コートを身に纏った選手達が、シューズを履いたり、スキー板を試したりしている。
 忍者達は、似たような道具を使ったことがあるのか、他のメンバーに、止め方だとか、転びかたを説明していた。
 これでジャンプスキーをしようというのだから、恐ろしいものである。
「よし、どうだ、具合は?」
 ジュッポが工具を片手に、一同を見回す。
 かちゃん、とスキー板からシューズを外したカスミが、こくんと頷く。
「ええ、これで――いいと思いますけど。」
「おっと、あんたはこっちの靴だな。」
 カスミの隣で、ジャバがカゲにあわせていたシューズを代える。
「歩きにくいぞ。」
 何も言わずにスキー板まで身につけたクライブが、立ち上がって文句を言う。少しでも歩こうとするならば、板がスルスルと動き出してしまうのだ。
「これでは、的にも当らん。」
 銃を杖のかわりにしていたクライブが、苦く言うのに、ジュッポが呆れたような顔をする。
「当ててどうすんだよ。跳ぶんだよ、と・ぶ・の。」
「そうだ……ん、このソリは大丈夫だな。――よし、次。」
 メースも答えて、次のスキー板のソリに目を走らせる。
 そこでは、重い漆黒の鎧を身に纏ったペシュメルガが立っていた。
 雪がそこだけ人一倍沈み、とてもじゃないけど、ジャンプなど出来そうには見えなかった。
 さしものメースも、振り返った瞬間、何かを口にすることは出来なかった。
「ねっ! すごいでしょっ!? これなら、大丈夫だよ、きっとっ!」
 沈んでいるペシュメルガからあえて視線を外し、メグがミーナに笑いかける。
 ミーナも何か言いたげな顔をしたが、それは言ってはならないと思ったのか、
「そうだねっ! 成功するよね!」
「うんうん、おじさんが作ったのは、全部いいしっ!」
 無理矢理笑ってメグを見たが、メグの目はらんらんと輝き、ジュッポがいじっているスキー板に集中していた。
 なんか違うような、と思いつつも、ミーナはそれ以上何も言わないことにして、カスミに近寄っていく。
 とん、と軽い足取りで、真剣に雪の状態を見ていたカスミの隣に立つ。
 彼女は、少し驚いたように顔をあげて、にこ、と笑った。
「応援に来てくださったんですか、ミーナさん?」
「うん、そぉ……ていうか、勝ってもらわないと、私、帝国兵に売られる危機っていうか……。」
 あの人は、きっとやるに違いない。新しい国を作るのに、お金いるんだよねぇ、とか言いながら、ミーナを帝国の真っ只中に放り出し、巡業させるくらいはする。そういう人だ。
「??」
 カスミが笑顔でミーナの言葉の意味を図りかねていると、
「相手は、あいつか。」
 背筋がゾクリと怖気立つような声が、すぐ背後から聞こえた。
 思わずメグとミーナの二人は、お互いの身体に抱きついて、カスミの背中に隠れる。
 それから、恐る恐るきゃしゃな背中越しに、声の主を認めて、なぁんだ、と胸をなで下ろした。
「ペシュメルガさんか――。」
 彼が怖くないと言ったら嘘になるが、別に敵なわけでもないし、噛み付いてくるわけでもない。
 ホッとしてカスミの背中から出ようとは思うのだが、どうしてか身体がこわばって動かなかった。
 彼が仁王立ちしているその姿が、あまりにも恐ろしくて――なんでもないと分かっているのに、とてもじゃないけれど、近づけなかった。
「すごい殺気……。」
 カスミですら、彼に威圧されて、ゴクンと喉を鳴らした。
「あいつって誰?」
「あれじゃないの?」
 そのカスミの後ろに隠れながら、ミーナとメグが顔を見合わせながら、ペシュメルガの兜がむいている方向を見た。
 そこには、彼と良く似た兜の戦士が――。
「あー、えーっと、ユ……ユ……湯葉?」
「違うでしょ。ユー……ユー…………ユンバ? あれ? なんか違う。」
 首をかしげるメグに突っ込んだミーナも、逆の方向に首をかしげた。
 うーん、と悩む二人に、苦笑しながらカスミが答えを教えようとした瞬間、
「黒騎士ユーバー。ペシュのライバルみたいなもんかなぁ?」
 スイが笑って説明してくれた。
 どことなく口調が嬉しそうなのはどうしてなのか、聞けるようなツワモノは、ここにはいない。
「…………っ!!!」
 突然目の前に現れたスイの姿に、カスミが口元を覆って息を呑む。
「え? そうだっけ?」
「暗黒の騎士って、ペシュメルガさんじゃなかったの?」
 好き勝手を言う彼女達にもまるで気付かず、ペシュメルガはひたすら目の前を見続ける。
 その先には、不敵な表情をした男がいる。
 ペシュメルガの顔には、嫌悪が見え隠れしていた。
 スイはそんな彼の顔を見上げて、にっこりと笑う。
「ペシュ? こんな重い鎧をつけてちゃ、沈んじゃうよ?」
 ユーバーの顔を見続けていたペシュメルガは、その笑顔を目の前にして、彼に視線を戻す。
 そしてペシュメルガは、軽く瞳を細めた後、低く尋ねた。
「レスリングを見てきたんだろう? どうだったんだ?」
 話を逸らそうとしているのは見え見えだったが、あえてスイはその誘いに乗った。
 ただし、心臓に毛の生えたツワモノですら、出来ることなら見たくなかったと思うような、冷たい笑顔で、
「全滅。」
 即答することによって、ペシュメルガの「言わなければ良かった」という思いを買うことに成功した。
 見ただけではわかないけれども、ペシュメルガの表情が引きつっているのが分かることであろう。
「その笑顔も素敵です……あ、いえ、その……――っ。」
 カスミがうっとりと呟いた瞬間、メグとミーナの二人が、やや冷めた目線を送った。それを感じて、彼女は瞬時に真っ赤になり、自分の失言を悔いた。
「そうか――残念だったな。」
 しばらくの沈黙の後、ペシュメルガはそう答えた。
 スイはその答えに、非常に満足したように微笑むと、
「だから、がんばってね? ほら、もう始まるよ。」
 くい、と動き出したリフトを指差した。
 選手はあれに乗って、頂上にあるジャンプ台まで向かうのだ。
「カスミ、ペシュメルガ――始まるぞ。」
 今の今まで、こっそりと隠れていたフウマが、不意に白雪の中から姿をあらわした。
 思いも寄らない所から現れたフウマに、カスミが火照った頬を一瞬で鎮め、呆れたようにため息を零した。
「フウマ――あなたねぇ……。」
「何をしているっ! 早く来ないと、置いていくぞっ!」
 そういう悪趣味な事は止めて、と続けられなかった。
 それよりも先に、リフトの下で待機していたカゲが、声をかけたのである。
 カスミは慌てて頷き、フウマとペシュメルガを見やる。
 その視線の中に、スイが映った。
 スイは、にっこりと極上の笑顔を浮かべると、
「カスミ、がんばってね。」
 そう、声をかけた。
 カスミは大きく目を見開くと、
「あ、は……はい……、はいっ!」
 かみ締めるように、力強く頷く。
 そして、キッと強い瞳でフウマとペシュメルガを見つめると、二人の腕をわしづかみにする。
「さぁ、行きましょうっ!!!」
 必要以上に力の入った台詞と共に、フウマとペシュメルガを、半ば無理矢理引きずっていく。
 そのカスミのりりしい後ろ姿を見送りながら、
「勝ったね。」
「うん、そうだね。」
 メグとミーナが、のんびりとこの勝負の結末を口にした。
 それは、たぶん、予知よりも確実な未来である。
――ある、はずだったのだが。



「よし、行け。」
 ペシュメルガが睨んでいた先に居た男が、そう低く呟いた。



「うっわ、卑怯…………。」
「さすが暗黒の騎士……。」
 雪の積もる寒い中、解放軍の選手がリフトに乗って頂上へと行く中、帝国の選手は、悠々と空から登場してくれた。
 そう、羽根のついた魔物兵である。
「これって、ありなの?」
 呆然と空を見上げるメグに、ミーナが、そんなのわかんないわよ、と答える。
 それは至極もっともなことだったので、二人はなんとなく、助けを求めるように――こういう時こそ、こっちも卑怯技だとばかりに、隣に立つ軍主様を見上げた。
 スイは、空を滑空する、スキー板のついた魔物を指差し、ジュッポを見てこう尋ねていた。
「うちの兵にも、あんな感じの翼を、からくりとかで作れないの?」
「まだ思索中ってとこだな。」
 もしあったとしたら、遠の昔に使っているに違いないのだけど、そう言わずにはいられなかったようであった。
 それに答えたジュッポも、空を見上げての台詞であった。
「……あーあ、これで五勝六敗かぁ。ってことは、アイススケートで負けてもらえば、僕たちは元の世界に戻れるってことか。」
 もっとも、アイススケートのメンバーがメンバーであるから、素直に負けてくれるとは思えないけど、とスイが続けるのに、
「ちょっとちょっと、スイさん!?」
 メグが慌てたような声をあげた。
 その時である。
「バスケットと同じね。」
 穏やかな声が、聞こえたのは。
「――オデッサさん。」
 いつのまにかそこに現れた彼女は、どこからか調達してきたらしい毛皮のコートに身を包み、悠然と立っていた。
 どうやら他の競技が終わって、見るものが無くなったため、こちらに出張してきたようである。
 その証拠に、巨大なビデオカメラを抱えたフリックとビクトールを背後に従えている。二人がかりでやっとの位の重さがあるらしいそれを、ヨロヨロと抱えている様は、まるで奴隷のようで、メグとミーナの涙を誘った。しかし、軍主様の涙は誘わないらしく、スイはそれを奇麗に無視すると、 オデッサが従えている人物たちを見やった。
「それに、ヨシュアにミリア、レパント達まで――。」
 彼女は、まるでもう一人の軍主のように、彼らを従えてそこに立っていた。
 あの時、運命さえその道を選んでいなかったら、きっとこうなっていただろうと思わせる姿であった。
「スイがこっちに来てたから、見に来てみたんだけど――さて、どうしようかしらね、ヨシュア殿?」
 オデッサは、にっこりと笑って隣に居た男を見上げた。
 どうやら彼女は、言ってみただけで実際に考えるつもりはないらしい。
 話を振られたヨシュアは、片眉だけをあげて、彼女を見やった。
 少し複雑げな表情を浮かべた彼が、ゆっくりと口を開いたその瞬間、
「おっはーっ!!」
 底抜けに明るい声が、空から降ってきた。
 え? と見上げた一同のちょうど真っ正面に、どさぁっ! と雪煙を巻き上げて、少年が降り立つ。
 舞い散る雪の向こうに、明るい色の髪が、ふわりと揺れる。
「テッドっ!!」
 スイとオデッサが驚いたように目を見張った目の前で、テッドは何事もなかったかのように天を仰ぎ、自分をここまで運んできてくれたフッチに手を振った。
 空を旋回している黒い竜を、ヨシュアが呆れたように見上げる。ミリアはその隣で、額を押さえ、ため息を零す。
 しかし、フッチの気持ちが分かるので、降りてくるように叫ぶことはしない。
「あれは――。」
 雪の白さを際立たせる蒼い空を見あげて、そうか、とオデッサが呟く。
「つまり、竜を使って、飛んでる相手を奇襲するって作戦ねっ!」
 そして、自信満々にヨシュアを振り返った。
 突然妙な事を言われて、目を瞬くヨシュアの隣で、ごほん、とミリアが咳払いをした。
「それは、反則です。」
 オデッサの注意を引き付けようとするが、彼女はすでにこっちを見ていなかった。
「さすがテッド君、伊達に三百年生きてないわねぇ。」
「そりゃもう、俺は、ヨシュアさんよりも年上だからなっ!」
「あははは、おじんだもんねー。」
「おい、スイ、それが、いたいけな親友に言う台詞かよ?」
「テッドがいたいけだったら、僕の身体は儚さって言葉で出来てるよ。」
「はぁー? なんだってぇ? 俺、最近耳が遠くってさぁ。」
「ほっほぉ、それなら僕が特製の耳かきで掃除してやるよ。」
「って、スイ君、あなたが持ってるのって、キルケとか言う人のカマ…………。」
「だぁぁっ! てめっ、俺を殺す気かっ!!?」
「死んでる死んでる。」
 三人の会話には、さしものレパントも入っていけなかった。
 何度かわざとらしい咳払いをしたが、ゴーイングマイウェイな彼らは、あははは、と笑い声を立てているだけである。
 思わずミリアは、ジャンプ台のある辺りを見上げて、
「この声で雪崩が来そうですね。」
「……そうなったらなったで、お流れになるだろうから、いいんじゃないのか?」
 ヨシュアもうんざりしたように呟き、オデッサに誘われてここまで来た自分を後悔しはじめていた。
 彼女の話は面白かったし、頭の回転の良さも抜群であった。
 けれど、解放軍の初代リーダーというだけあって、一癖も二癖もあることは間違い無かった。
 レパントが、最終決戦間近の今、彼女がここに居ることに危惧を抱き、こうして付いてまわっている理由も、分からないでもない。
 けれど――彼女は、初代解放軍リーダーにはなり得ただろうけど、「今」の解放軍リーダーになり得ることはない。それは、レパントも良くわかっているだろうに。
 ほら、今もこうして難しい表情でスイとオデッサを交互に見ている。
「じゃ、早速フッチ君達に頼む?」
 一通り騒いだらスッキリしたらしいオデッサが、にっこりと笑ってヨシュアを見た。
 その笑顔を見た瞬間、もしかしてもしかしなくても、オデッサは最初からそのつもりだったのではないのだろうかと、初めて彼は気付いた。
 だから、わざわざ一番始めにヨシュアの意見を聞いたのだ。
「…………オデッサ殿――。」
 彼女もまた、食えない存在だと、つくづく思い知って、彼は苦い口調で口火を切った。
 けれど、そのヨシュアの言葉は、思いも寄らない人物が途切れさせる。
「そんなことしなくても、あーしてこーして、そーすればいいんじゃないの?」
 いつもなら、真っ先に竜作戦に賛成するだろう人物――スイであった。
 言いながら彼は、ショールのように身につけていたマントを止めている留め金を、外した。
 無骨な鉄の板にしか見えない留め金を、意味深に掲げてみせる。
 きょとん、としたオデッサは、留め金を一瞥して――彼が言う意味を理解する。
 少年から、その留め金を受け取ると、紅の唇に笑みを浮かべた。
 意味が分からず、戸惑った表情を見せる他の面々には、一瞥たりともくれず、彼女は右手を掲げる。
「なるほど、つまり――あーして?」
 ぴっ、と、オデッサの手の中で、留め金が音を立てた。
 それと同時、ごうんっ、と音が鳴った気がした。
 はっ、と辺りを見やる一同の後ろで、オデッサから留め金を受け取ったテッドが、テッドが笑った。
「こーして♪」
 ぴっ、と、留め金に付いていたボタンを押す。
 今度はどごんっ、と音がした。
「何が……っ!?」
 起こっているのだと、レパントは続けることが出来なかった。
 それよりも先に、スイが微笑みながら、テッドから帰ってきた留め金の、最後のボタンを押したのだ。
「そうする、と……。」
 刹那、空を飛んでいた魔物たちのすぐ側で、
どっかーんっ!!!!
 爆発が、起こった。
 吹き飛んだ雪が、あっという間に魔物達を飲み込む。そしてそのまま、大量の雪ごと向こうの斜面に流れていく。
「あーら、不思議。帝国の基地だけ吹っ飛んだりして。」
 どどどどぉっ、と雪が波のように反対斜面を滑り、そのまま崩れていった。
 スイは、にこにこと笑いながら、何事も無かったかのように、留め金をマントに戻した。
 表面についていた小さな三つのボタンは、全てへこんでいる。
 これが、「あれ」の原因であることは――考えずともわかることであった。
「僕、一度でいいから雪崩って見てみたかったんだよねぇ。」
 にこにこと笑うスイに、テッドが大きく頷く。
「グレッグミンスターじゃ見れねぇもんな。」
「雪崩って、自然の脅威よねぇ……ほら、あっという間に、ユーバー以外全滅v」
 笑顔で語るオデッサに、呆然と山の頂上に浮かぶユーバーを眺めていたヨシュア達は、
「最凶だな……――。」
 そう低く呟いた。
 それと同時、オデッサとスイが同時にこの世に存在しなかったことを喜びながら。



 光り輝く白銀の世界に飛び立った選手は、キラキラと美しかった。
 オデッサは楽しそうにそれを眺めながら、隣に立つスイを見る。
「なんだか、とっても嬉しいわ。」
「うん、僕も。」
 穏やかな微笑みを浮かべるオデッサに、スイも小さく頷く。
 それは、いたずらが成功しただとか、ジャンプスキーも勝てそうだとか、そういう意味ではなくて――。
「……ありがとう、スイ君。」
「ううん、オデッサさん達ががんばったから、この今があるんだよ。」
「でも、ここまでしたのは、あなたの力……カリスマだわ。
 悔しいけど、――かなわない。」
 どこか遠くを見る瞳で、彼女は苦い笑みを浮かべた。
 彼女自身、あのような状況で解放軍を放り出してしまったのを、後悔していないはずはないのだ。
 そしてそれと同時、今――ここまで成長した解放軍を見て、どこかもの悲しい気持ちを抱いているのも、矛盾した気持ちなのかもしれないけれど――……。
「……見せたかった。」
 キラキラ光太陽と雪とを見つめながら、スイが低く呟く。
「え?」
「オデッサさんに、この姿を。
 あなたの決意が、形になっていく、この姿を。」
 だから、と、スイは続ける。
 少し顔をずらして、微笑みながら、
「この機会を――僕は、嬉しく思ってる。」
 オデッサを、見上げた。

「なぁーんか、俺、よそ者?」
 テッドが自分を指差しながら、同じ脇役の一同を見上げるのに、解放軍の旗を振りながら、レパントが答える。
「それなら、ともに応援しましょう。」
 はい、と旗を手渡されるが。
「あの――俺、こう見えても、一応審査員なんですけど――……。」
 さきほど、思いっきり爆発を手伝ったくせに、今更なのだったが……。



 山のすぐ下に面した湖が、湖岸から半径5メートルくらいの広さで氷に覆われていた。
 不思議なことに、氷が途切れたその場所から、普通の水面が広がっている。
 遥か空高くから輝く太陽が、氷を反射して、水面にキラキラと光を落としていた。
 磨き上げられた鏡のような銀色の氷が、冷ややかな冷気を上げて辺りを肌寒く染めていた。
 その湖岸に立つのは、早めに準備を済ませた選手たちであった。
 選手の三人が立ち尽くす辺りだけ、華やかできらびやかな空気が流れている。
 いつも自分達の美貌を考えもしない格好をしている分だけ、今日の彼女たちの美しさは目の眩むばかりであった。
 姿が動きにくいわけではない。これから行う競技は、華麗に美しく――そして激しく動く物なのである。だから、着ている「衣装」は、薄くて軽くて覆っている面積も少なかったが、動きにくいわけではなかった。
 三人とも、寒いからと、長いショールを肩からかけていた。ただ、白く見事な曲線美だけは、寒さの中にさらされている。
 時々寒いのか、足踏みをしていた。
「この年で、こんな格好するはめになるとはね……。」
 唇から白い吐息を零しながら、クレオがショールをかき寄せる。
 そんな彼女に、同じように頼りない足元を覗いていたソニアが、結われた髪を掻き上げようとして、その手を止めた。
 白い指先に触れた生花と髪飾りが、崩れてしまうからである。
 上げた指先を所在無さげに下ろしながら、ソニアは腕を組む。
 そして、氷の張り具合と、滑り具合を試している女性を見た。
 彼女は、高々と結わえている髪にキラキラと光宝石を留めて、しなやかなベールで顔半分を覆って、優雅にスケート靴の刃を滑らせる。
 シャァッと鋭い音が鳴って、削れた氷が水となって飛んだ。
 彼女は、細くたおやかな身体をしならせて、そのまま跳んだ。
「ひゅーっ、三回転スピンかよ……っ。」
「年も年だろうに、あのおばさん――良くやるよ。」
 口笛を吹いたミースに、いつもよりは露出の抑えられた衣装に着替えたカミーユが、呆れたような声をあげる。
 その「おばさん」は、優雅にターンを決めてから、ゆっくりと湖岸に戻って行く。
 カミーユの視線を見て、クレオが苦笑を浮かべる。口元に刷いた唇が、奇麗に紅色に染まっていた。
 いつに無く奇麗に見えるクレオに、一瞬見蕩れながら、カミーユは、ツイ、と視線を外した。
 しかし、視線を外した先には、整った容貌のソニアが立っていて、彼女はその奇麗な目元に朱を走らせながら、スケート靴を脱いでいる魔女を見た。
 彼女は、細い手で、控えていたアイン・ジードに靴を手渡した。そして、無言で皇帝の隣に立つテオに視線を当てると、微笑みを深くさせた。
 ソニアは、その見せ付けるようなウィンディの態度に、きりり、と下唇をかみ締める。
 その瞬間、少し怒ったような声が届いた。
「ソニア様っ! 演技が始まるまで、触らないでくださいっ!!」
 はっ、と唇を解くと、そうです、と言いたげに重々しく頷くグレミオの姿があった。
 彼は、この「アイススケート」での衣装係り兼メイク係りを担当しているのである。
 選手三人である、ソニア、クレオ、カミーユの支度が終わった今、バックミュージック係りであるカシオスの支度に、真剣に挑んでいた。
 そうしながらも、美女たちが自分の傑作を崩さないかと、視線を配っていたようである。
「……………………それで、演技はいつになったら始まるんだ?」
 うんざりしたように、ソニアが用意された椅子に座って呟く。
 テーブルに置かれた食べ物やジュースも、化粧や口紅が落ちてはいけないからと、グレミオが気を利かせて準備させたものばかりである。ジュースには細めのストローが差してあるし、食べ物は全て一口小サイズである。
 それを摘まみながら、クレオも疲れたように肩を揉み解した。
「もうすぐだと思いますよ。ほら、マースとミースとムース達が、最後の点検に入ってますから。」
「グレミオも、カシオスの最後の仕上げをしてるしね。」
 見やった先で、用意された豪奢な椅子に座り込んだカシオスの頭に、いつになく華やかな帽子をかぶせているグレミオが見えた。
 隣では、ウィンドゥが、それはそれは楽しそうに、帽子や舞台に仕掛けを施している。こういう窓枠職人的な仕事は、彼にとっては幸せ以外の何物でもないようであった。
「ウィン、こっち、楽器の調節は終わったけど?」
 メロディが、調整していたカシオスのハープと、自分が使う楽器を横に置きながらウィンドゥを見やる。
 彼は眼鏡を軽く押し上げながら、満足げに振り返る。
「こちらも準備万全です。どうです、この見事な枠はっ。」
 誇らしげに笑っているウィンドゥに、メロディは軽く肩を竦める。
「確かに豪華だけど――私たち楽器隊まで着飾ったりする理由って、あるのかな?」
 メロディは、言いながら、自分にとっては邪魔にしかならない髪飾りや、膨らんだ袖やスカートを摘まんだ。うんざりしたような表情をグレミオに向けるが、そのグレミオは、とっても満足した様子で着飾ったカシオスを見ていた。
 男であるはずのカシオスは、あの「ミルイヒ=オッペンハイマー」に仕えていただけあり、着飾られるのには慣れているようである。どうです? とグレミオが差し出す鏡の中の自分を見て、形良い唇を歪めて微笑んで見せる。
「音はとても繊細で美しいもの。耳で愛で、目で愛でる――その要素として、奏でる者の美しさも必要となる……ミルイヒ様のお言葉です。」
 慣れた仕種で長く尾を引く裾を翻すカシオスの、可憐な笑みに、メロディは何ともいえない表情を浮かべて見せた。
 そのあと、なるほど、と納得している様子のウィンドゥを見つめ、無言で遠くに立ち尽くすクレオとソニア、カミーユに視線を当てた。
 こっちはどうしようもないようです、と言いたげに肩を竦めて見せる彼女に、「がんばれ」とジェスチャーを送った後、三人は互いに顔を見合わせる。
 泣いても笑っても、どれほど嫌でも――これを勝ち抜けば、元の世界に戻れるのである。
「勝てば……戻れる………………。」
 それは、本来なら受け入れるべき物であった。
 そのために、グレミオは少しでも審査員の受けを良くしようと、おん楽隊を着飾らせているのだろうし、クレオ達の姿を華美に飾り立てたのだ。
 でも。
「勝てば、戻れる……戻らなくてはいけない。」
 ソニアが、苦々しく呟く。
 その呟きを聞きとがめたカミーユが、軽く眉を顰める。
「ソニアさん……あんた――。」
 言いかけたカミーユを、クレオが軽く睨むようにして、かぶりを振った。
 その感情は、クレオ自身もずっと抱いている気持ちなのだ。
 ただ、ソニアと違って、見て見ぬふりを続け、押さえつけているだけ。
 ただ――先に進まなくてはいけないことを、知っているだけ。
「分かっているよ、ソニア様も。
 ――もう、戻れないってことくらい。」
 ただ、やりきれないだけ。
 ――吹っ切れないだけ。
「………………………………。」
 つい、とカミーユは視線をずらす。
 その感情は、カミーユも良く知っていた。
 違うのは、ソニアはもう二度とそれを取り戻せなかったということ。この戦いが終わったら、再び出会えなくなるということ。
 自分は、また目の前に彼が戻ってきているということ。
「――だからこそ、私達は、勝たなくてはいけない。
 私達の手で……私の手で、断ち切らないと……終わらせないとね。」
 かみ締めるように呟いたクレオの言葉。
 カミーユは、その時になって始めて気付く。
 彼女もまた、この戦いを――思いもよらず起こったもう一つの戦争を、どこか心地よく思っているということに。
「……戦争なんて……もう、嫌だね…………。」
 カミーユが苦く呟くのに、何を、とクレオは笑った。
 ぽん、と肩に手を置いて、彼女は前を見つめる。
 厚い氷の張られた先を。
「私たちは、守ることを、改革を望んだ。
 戦争が嫌であろうとも、始めた以上、最後までやりぬくまでさ。
――後悔しないように。たとえ後悔したとしても、得るものがより多いように。」




「こうしてみると、いつもは怖い女性達も、奇麗だったんだってことがわかりますねー。」
 のほほーんと呟いたグレミオが、湯気のあがる湯飲みを少年に差し出した。
 それを受け取った彼は、シャーッと音の出ているスケートリンクを見つめながら、優しく笑った。
「クレオはいつだって奇麗じゃないか。特に、グレミオを怒ってるときとか。」
 しれっとして口にしてくれた、主の一言に、グレミオは傷ついたような眼差しを向けた。
 隣で、くすくすと笑いながら、マースがグレミオを見上げる。
「奇麗な物を見るのは、とても嬉しいことじゃないですか。」
 かく言う彼の「奇麗」の基準は、研ぎ澄まされた剣の煌きである。
 隣からそれを聞いていたムースが、苦い笑みを口元に広げる。
「お前が見ているのは、スケート靴が煌く様じゃないのか?」
「そ、そんなことないですよっ!」
 慌てたように視線をあげて、マースは三人の華麗な演技に目を走らせる。
 その仕種こそが、まさに「そうだ」と言っているものだと、ミースが舌打ちする。
「丸分かりだっつぅの。」
 やれやれ、不祥の弟分だよ。
「…………そ、そんなわけじゃ…………。」
 口篭るように、マースがうつむいて、煌く水滴が飛び散る様を目の端に留めた。
 そして、その美しいきらめきに、再び眼を奪われる。
「やっぱり、ムース兄貴の磨いた刃は、奇麗だよなぁ……。」
「駄目だ、こりゃ。」
 つける薬はありませんと、ミースが大袈裟に頭を振る。
 それに苦く笑みを貼り付けて、ムースがコメカミを掻く。
「もったいないなぁ〜。これだけ奇麗な女性達が、目に映らないだなんてさぁ。」
 そんな鍛冶師達の後ろから、聞くだけでデレデレしていると分かるくらいの声が飛んできた。
 は? と振り返った三人の顔を素通りさせて、シーナが氷のリンクの上の華を見つめている。
「やっぱ、ソニアさんの金髪はポイント高いよな〜。うーん、でもクレオさんの美脚も捨て難いし、カミーユさんも、ああいう格好してるとなぁ〜。」
 真剣な表情で見つめるシーナもまた、正しいアイススケートの見方をしているようには見えなかった。
 シャーッと軽快な音を立てて、戦争チームならではのチームワークで氷を滑る。その華麗で美しい舞は、氷を反射してさらに輝いてみえる。
 シーナに言わせれば、まるで天から差す神の御心のような美しさであり、スイに言わせるとことの、光り攻撃と言わんばかりの輝かしさであった。
「おおっ、すげぇっ。」
 スケートには慣れていないはずなのに、見事なばかりのバランス感覚と運動神経で、初心者とは思えない技を炸裂させていく。
 シーナは技というよりも、違うことに視線が行っていたようであるが。
 シャァァァッと、新たな靴の音が響いた。
 ハッと視線をやると、帝国の陣営の方から、ウィンディが飛び出してきた。
 スケートの靴が、氷を削って水飛沫を散らす。
「やるね、あんた達っ! ならば、これでどうだいっ!?」
 ひゅんっ、と、彼女の身体が跳び上がる。
 滑らかな音楽に合わせて滑っていた三人は、緩やかに動きを止めて乱入者である女を見やる。
「……あれはっ!?」
 跳んだウィンディの身体が、高く遠く身体を舞わせる。
「1、2、3……何回回るのっ!?」
 くるくるくるくると、すばやいスピンでウィンディは空を飛ぶ。
「無謀なおばさんだね……っ!」
 忌々しげにカミーユが叫ぶ。
「ほほほほほほほほっ!!」
 まわりながら、ウィンディが高笑いする。
 その見事な回りっぷりに、思わずメロディもウィンドゥも動きを止めてしまう。
 唖然とした空間に、カシオスの優雅なハープが響き渡る。
 その曲に乗ることすら忘れて、クレオもソニアもカミーユも、氷の上に立ち尽くす。
 スイはそれを見た後、チッと小さく舌打ちした。そして、山の方角をチラリと見やった後、すぅ、と息を吸った。
「あんなところに、ロッカクの里印、皺取りクリームがっ!!!!!」
 戦場でも遠くまで響き渡ると自慢の喉で、スイが叫んだ。
 瞬間、
「なんですってぇぇぇぇっ!!?」
 ウィンディがものすごい形相で振り替える。
「……えっ!?」
「……っ!!」
 思わずクレオとソニアも、つられるようにスイが指差す方向を見てしまう。
「ロッカクの里印?」
 何のことだと、一拍遅れてカミーユがそちらを見やった。
 そこには、山から降りてきたばかりらしいロッカクの少女が、きょとんとした面持ちで立っていた。
 カスミめがけて、ウィンディが更に叫ぼうとした瞬間、
 ぐきぃぃっ!!
「…………っ!!」
 がくん、とウィンディの腰が氷の上に落ちた。
「こ、腰が……っ!」
 どうやら、急激な方向転換をしたために、腰に来てしまったらしい。
 腰を折り曲げて、震える手で腰を抑えた彼女は、それでも光りある瞳で前を見つめる。
 視線の先にいたカスミは、両手の平を握り締めて、何が起きているのか分からない状態でおろおろと瞳を揺らす。
 そんな様子を満足そうに見つめ、スイは、前髪を掻き上げて、唇を歪めて笑う。
「ふっ……勝った。」
 呟きを聞きとがめたソニアは、カスミに向けていた視線をスイにやり、眉を顰める。
「今の……スイの嘘か?」
「……みたい――ですね。」
 クレオが苦々しい笑みを刻んで、ソニアに答える。
 その二人の表情を盗み見たカミーユは、何か言いたげに唇を開きかけるが、すぐにそれを閉ざした。
 「ほしかったのかい?」なんて――「女」としては、聞いてはいけないのである。



 腰を抑えながら、湖岸に歩み寄るウィンディを見つめながら、誰にも見えないような場所で――隅の方で観戦していたテオは、そっと吐息を零した。
「――終わったか……。」
 苦渋のにじみ出た言葉に、隣に立つアイン・ジードが顔色を曇らせて彼を見上げる。
 何を考え、何を思っているのか、その言葉からも瞳からも、何も分からない。
「テオ様……。」
 ついに終わってしまった戦いの結果に、アイン・ジードも顔が歪むのを止められない。
 これが最後の戦いなわけではないのに、どうしてか心に敗北感が染み入る。彼らには勝てないと、感じ入る。
「…………――――――。」
 テオが無言で空を仰ぐ。
 アイン・ジードは耐えられないように視線をずらし、この戦いの元となったであろう女性を見やった。



「だからぁ、ロッカクの里は父上が滅ぼしちゃったから、名物皺取りクリームも作ってる暇はないんだってば。」
 鬼気迫る表情で攻め入るウィンディから、カスミを庇いながら、スイが呆れたように説明する。
 しかし、
「ええいっ! 嘘おっしゃいっ!」
 ウィンディは納得せず、スイが後ろに庇うようにしているカスミ向けて手を伸ばす。
 けれど、カスミはキッと視線を強めて彼女を睨み、その手を払い除ける。
「嘘なんかじゃありませんっ!」
 言い放つ彼女に、ウィンディが迫力負けしたのか、グッと言葉につまったが、あきらめきれないらしく、視線をカスミに当てたまま、キリリと唇をかみ締める。
 スイを破産で、カスミとウィンディがにらみ合っているそのすぐ後ろに、す、とテッドが立った。オデッサも並ぶように立ち、肩を寄せ合った。
「っていうか〜、不老不死なのにシワが気になるのは何故かと聞かれたら〜♪」
 テッドが両手を組んで歌いはじめると、オデッサも続けて歌う。
「それは〜♪ 年を取ってから〜、紋章を引き継いだから〜♪」
 そして、更に肩を寄せ合って、二人はボーイソプラノとアルトの声で、奇麗にハーモニーさせる。
「ああムザン〜ララララ〜♪」
 その見事なハーモニー具合に、メロディが驚いたような表情を貼り付ける。
「やるわね、あの二人……っ!」
「っていうかぁ……。」
 ウィンドゥが何か言いたげに口を開いたが、二人に食って掛かってるウィンディを見て、口を閉ざした。
 ここで何か言っては、自分も巻き込まれるのに違いないからである。
 そんな騒動を遠めに見つめて、クレオが苦笑いを浮かべる。
 そして、歩きにくいスケート靴を脱ぎながら、湖岸にあがった。
「…………勝ったん――だね。」
 囁いた言葉は、自分でも思いも寄らないくらいの弱々しい声であった。
 彼女はそれに気付いて、そっと自分の口元を覆った。
 チラリと視線をやった先では、ソニアがリンクに立ち尽くしたまま、違う方向を見ていた。
 そこに誰がいるのか――……。
「終わった……のか……。」
 辛そうに視線を背けて、ソニアは顔を歪めて、そう呟いた。
 カミーユは、そんな二人を見つめて、乱暴な仕種でスケート靴を放った。
「……最後の金メダルの授賞式、始まるよ。」
 促すように、先に立って歩き出す。
 クレオもソニアも、迷いなく歩いて行くカミーユの背を見つめて、そろそろと歩き出した。
 授賞式が終わるとき――何が待っているのか、分かった上で。







エピローグへ続く