4 体操競技


 聖火が灯る審査員席の隣を通って、体操競技のために準備された場所へと向かおうとした少年は、ふと頭上から聞きなれた声が落ちてきたのに気付いて足を止めた。
 眩しいばかりの日差しが零れる中、目を眇めて見あげると──そこにはこのオリンピックの開催者でもあり、はた迷惑な「神様」でもある女性が優雅に笑っていた。
 その隣では、永遠に会う事叶わなかったはずの親友が、それはそれは嬉しそうに頬を緩めている。
 そしてその更に隣に居るのは──────。
「はい、あーん。」
 ニコニコと、整った顔立ちに優しい笑顔を浮かべるグレミオの姿であった。
「あーんv」
 幸せそうに、テッドが口を開ける。その姿は親鳥から食べ物をもらうひな鳥のようであった。
 瞬間、スイは長い階段を一気に駆け上がった。
「そこぉっ! 何いちゃついてんのっ!!!」
 びしぃっ! と示した先で、テッドは幸せそうにケーキを頬張っている。
 グレミオは手許に持ったホールケーキに新たにフォークを突き刺していた。
 スイは、ツカツカと足音も荒く、お茶会会場と化した審査員席へと歩み寄る。
 良い香のする紅茶が三人の前に置かれていて、当然のようにテッドがそれを飲み込んでいた。
 グレミオはノホホーンとした態度で、スイを振り返ると、
「いや、だって、することないんですよー。皆さん、競技に夢中で食べてくれませんし。」
 と、何時の間に作ったのか分からない、ホールのケーキとクッキーを示した。
 スイはジト目でそれを見る。
「ほぉーんと、まっさかグレミオさんのケーキをまた食べれるなんてなぁ……v あ、もう一口もう一口。」
「ええ、たっぷりとどうぞ?」
 グレミオがもう一度、フォークに突き刺したケーキを進める。
 テッドが口を開いて、美味しそうにそれを口にする。そして両頬を抑えて、今にもほっぺが落ちそうだと言いたげに悶絶してくれた。
 何も食べさせてやらなくてもいいと思うけど? と、スイが口にする気力もないまま、グレミオに視線で訴えかけるが、彼はそれを見ないまま、新たにフォークに欠片を突き刺して、
「はい、レックナート様もどうぞ。」
 と、美味しそうに紅茶をすすっているレックナートに差し出した。
「あら、おほほほ……それじゃ、あーん。」
 レックナートも口を開いてそれを受入れる。
 そして、微笑みを零した。
「あのな…………。」
 何をここで団欒しているんだと、スイが脱力すると、グレミオがにこやかに笑いながらスイに一番大きな塊を突き出した。
「はい、ぼっちゃんも。」
「……だから……あむ……ん、おいしい。」
 そんなことをしている場合じゃ、と言い掛けた口の中いっぱいに、グレミオ特製のケーキの味が広がった。
 思わず目を瞬いたスイは、もぐもぐと食べた後、ごっくんと飲み込んだ。
「ぼっちゃんに褒められるのが一番嬉しいんです〜v」
 グレミオが嬉しそうに目を細めて笑うのに、
「やっぱり、グレミオのが一番美味しいね。」
 美味しいものを食べて、幸せな気分になったスイが、最近見せなかった柔らかな笑顔を零す。
 テッドがそれを見て、
「そりゃ、お前にとったらグレミオさんの料理こそがお袋の味だからな。」
 ぽんぽん、と肩を叩いて来る。
 グレミオが照れるのに、スイが笑って──ほのぼのとした空気が流れた瞬間、
「何やってるんですかっ! ぼっちゃんまで一緒になってーっ!! もうすぐ出番でしょうがっ!!」
 聖火台の下から、クレオの叫びが聞こえてきたのであった。

「危ない危ないっ。危うく敵の策略にはまるトコだったよ。」
 ふぅ、と出てもいない汗を拭う主に、
「………………………………。」
 無言でクレオは溜め息を吐く。
「ええっ!? 今のはテオ様の策略だったのですかっ!? さすがテオ様、私たちのことを良くわかってらっしゃるっ!!」
 グレミオが戦々恐々と叫ぶのに、絶対違う、とクレオは突っ込みたかったが、それすらも面倒くさくなってただただ溜め息を零すだけにした。
「まぁ、テオ様がそうしたかどうかは置いておいて、とりあえず体操の場所に向かいましょう。」
 このままでは一向に進まないことを熟知しているクレオが、スイにそう告げると、スイも大きく頷いて見せた。
「全く持ってその通り。──パーンは先に行ってるの?」
 さきほどは自分からグレミオの罠にはまりに言っていたくせに、言う事がこれである。
 事実策略は行われていなかったのだから、忘れ去っても良い事である。
「パーンさんなら、他の人と一緒に用意してるらしいぜ。吊り輪だっけ? あれの組み立ての。」
 クレオと一緒に歩き出したスイの隣に、いつのまにかテッドがいた。
 彼は後ろ頭で手を組んで、にやり、と笑いかける。
「…………なんでテッドがいるの?」
「おっ! なんていいぐさだよっ! 俺は親友のことを応援してやろうと思ったんじゃないかー。」
 無言でスイはそんな親友を見詰めたが、彼はキラキラと目を輝かせてスイを見詰め返して来る。
 その瞳は、嘘偽りなどひとつもないと言いたげに輝いていたが──あまりにも胡散臭かった。
 長い間生きているテッドの笑顔を前にして、スイもまた笑顔を浮かべた。そして、その肩に手を置いた後、
「で、何を企んでいる? テッド?」
 にぃっこりと、笑った。
 テッドも負けじと笑顔を浮かべて、
「だぁかぁらぁぁ、頑張って闘っている親友のためにだなぁっ!」
「やぁだなぁぁぁっ、僕が親友の言葉を疑うはずないじゃないかー。ただねぇぇぇぇ……その応援が、なぁにか裏がありそうな気がしてたまらないんだよねぇぇぇぇぇ。」
 二人、歩みをあわせて歩いていく。
 しかし、その仲良さげに寄せられた背中からは──……、
「ぼっちゃんもテッド君も、久しぶりに会えて、嬉しそうですよねぇ。」
 うう、と目頭を抑える二人の母親のようなグレミオの台詞に、隣を歩くクレオからの返事はなかった。
 どう見てもあの二人の背中には、暗雲があるのだが、グレミオの目にだけは映っていないらしい。現にすれ違う者は皆、ギョッとした表情をしているじゃないか。
「こうしていると、昔に戻ったようですよね……。」
 しみじみと呟くグレミオに、
「あんたは鈍感でいいよね。」
 心底嫌そうに、クレオが呟く。密かに彼女はこのまま逃げてしまいたいと想っているようであった。
 テッドが、面白半分に親子対決をみたいと思っているのは目に見えていたし、グレミオとスイが、相手がテオであることを知らないのも、目に見えていた。
 これからのことを考えると、とりあえず見物人は非難させることがいいだろうとの判断が下せる。
 歩いているうちに、向うに吊り輪らしきものが用意されているのが見えた。
 なにやらセルゲイが指示をして、ユーゴがせわしなく動き回っている。吊り輪の状態を確認しているのはロックである。
 そしてその下では、アントニオとレスターが、空気を詰めた柔らかなマットを広げていた。それに対して細かい指示を出しているのはテンプルトンである。
 隣では、広がる草原を綺麗に刈っているゼンの姿が見えた。どうやら隣で行う床競技の準備をしているらしい。さすがにここまではルック達を使う事はしなかったようである。
「おおっ、やってるやってるっ!」
 テッドがスイとの不毛な戦いから匙を投げて、吊り輪の元に駆け寄る。
 セルゲイが高さを調節しながら、ふと顔を上げた。
「もう使えますよ。」
 ぽんぽん、と自分が作ったらしい吊り輪を叩く。
「あ、ホント? じゃ、ロック。ちょっと試してみてよ。」
「ええっ!? お、俺っすか?」
 スイが気軽に──当然のように笑いかけると、ロックが小さな目を大きく見開いて、自分を指差す。
「君が乗っても大丈夫か確認した方がいいだろう?」
 笑顔で告げるスイの台詞に、テッドが何やら言いたげな表情をしたが、結局口にすることはなく──ポンポン、と慰めるようにロックの肩を叩く。
「こんな奴の下で、大変ですねぇ。」
 その台詞に、スイがヒタリとした視線を向けた後、
「テッド……後で逆さ吊りv」
 笑顔で言われても困るような事を、それはそれは嬉しそうな笑顔でおっしゃってくださった。
「お前……親友である俺を売るというのかっ!?」
「そりゃ、売りたくもなるだろ。」
 二人にしか通じないような会話をするテッドとスイに、とまどうような表情をしているロックへのフォローをするのは、なぜかクレオであった。
「とりあえず……その吊り輪の安全性を確認するためにも、皆一通りぶらさがってみることにしましょう。」
 クレオの言葉に賛成の意味を示した一同は、早速吊り輪にぶら下がることにした。両手で輪の一つを掴んで、ぶらぶらと足を揺らしてみるが、思った以上に頑丈らしく、パーンとロックの二人がぶらさがってもギシリとも音を立てなかった。
「……ちっ。」
 このまま壊れてしまえばいいのに、と本気で思っていたスイは、小さく舌打ちをすると、童心に帰ったかのようにぶらさがり健康法を始めている同士を眺めて──しばし沈黙した。
 そして、無言で吊り輪を指差し、
「今更なんだけど……吊り輪って、何するの……?」
 誰にともなく、尋ねた。
 グレミオはそれに応えて、同じ様に吊り輪を見て、軽く首を傾げた。
「そういえばそうですね……テッド君、アレを使って何をする競技なんですか?」
「何で俺に聞くんすか、グレミオさん?」
 話を振られて、楽しそうに吊り輪にぶらさがるいい年をした大人(かくいう彼は、その大人よりもずっと年上である)を見ていたテッドが、軽く眉に皺を寄せた。
「いえ、だってほら、亀の甲より年の功って言いますし。」
 当たり前のようにグレミオが笑いかけると、すかさずその後を継いで、
「そうそう! ムダに300年生きてたテッドに聞くのが、調べるよりラクじゃないかっ!」
 スイが両手を広げるように力説した。
 無言でテッドが親友を見詰めて、ふ、と背中を向けた。
「……んなこと言ってると、拗ねるぞ、俺。」
 いじいじ、とわざとらしく空気に字を書くテッドに、まったまたぁ、とスイが笑った。
 クレオが苦笑いしながら、テッドの肩を叩く。
「まぁまぁ……それで、テッド君、知ってるのかい?」
 ひょこ、と覗き込むと、言葉通り拗ねているような柔な神経をしていないテッドは、さきほどと変わらない表情のまま、クレオを見あげた。
「ん? んー……ちょっと待ってて下さいね。えーっと……確か。」
 言いながら、テッドは腰に付けていた道具袋の中から、分厚い本を取り出すと、慣れた調子でそれを捲りだした。
 パラパラ、と確認するように捲っていくそれに、
「何、それ? 辞典?」
 珍しい物好きのスイが、ワクワクという擬音を背負って覗き込んで来る。テッドはそれを邪魔臭いと言いたげにひじで押す。
「へぇ、テッド君の物知りの影には、こういう努力があったのですね……はぁ、ぼっちゃんも見習ってくれれば。」
 わざとらしいグレミオの溜め息に、結局お前の思考はぼっちゃんに始まってぼっちゃんに終るのかい、とクレオが苦笑を滲ませる。
 テッドはそんな一同を背にして、ああ、あった、と呟いた。
「えーっと……。」
 指で確かめるようになぞるテッドの肩越しに、ひょい、とスイも覗き込む。そして、テッドよりも早く、それを口に出して読んでみた。
「何々? ハルモニア歴xxx年、○月△日。今日、面白い物を見た。鉄棒よりも高い、懸垂用の棒を使ってやるものだった。棒から二つの吊り輪を吊るして、それに手をかけ、身体を浮かせて回ったり、力を使って身体を十字の形に保ったりして、ポーズを何分決めていられるか、どんな技を決められるかを競うという物で……面白そうだから俺もやろうと思ったけど、あのやろうども、他人は入って来るなと言いやがった。てめぇら、んなこと言ってると食うぞ、こらぁ。………………って、これ、日記?」
 吊り輪の説明らしいことはわかるが、それは辞書とか記録帳とは、言い難かった。しかもテッドがすさんでいる頃の日記と見た。
「さ、三百年の自分史ですかっ!?」
 グレミオが目を見張って、テッドの持つ分厚い本を見た。これが三百年の間の日記だとしたら、すごいものである。
「日記ってほどじゃないけど……書いとかないと忘れるしさ。」
 苦笑いして、日記をしまうテッドに、スイが関心したように頷く。
「それでも、パーンやクレオみたいにマメだよねー。グレミオなんて日記つけてないんだよ。」
 その昔、マクドール家に居た頃、パーンの日記やクレオの日記……あまつさえ、ソニアの日記まで盗み見していたスイは、悔しさ半分にそんなことを言ってみた。何せ、テッドが日記を付けていたなんて、まるで知らなかったからである。一応スイも日記もどきは付けていたのだが、その時はテッドに見られて、さんざんからかわれたのである。──もし当時知っていたら、きっといい勝負であったのに……っ!(何の、と突っ込むような人物がいないことが、非常に残念である)
「つけてますよっ! 私だってっ!!」
 スイに言われて、むっ、とグレミオが眉を顰める。
「えー? だって見かけたことないよぉ。」
 もしグレミオが付けていたのなら、自分とテッドが見つけていてもおかしくない。何せ、昔から良く、テッドと一緒にグレミオの部屋を探索したのだから。
「だよなぁ……グレミオさんの日記なんて見付からなかったよなぁ? グレミオさんのことだから、絶対にぼっちゃん観測日記とか付けてると思ったのにな。」
「ちょっとテッド、なんだよ、その観測ってのはっ!」
「あ、それともスイの世話が大変すぎてつけてる暇なかったのかもなー。」
「無視するなよっ!」
 テッドの首を締め付けるようにして自分を向かせると、それはどういうことかなぁぁー? と、スイは再びテッドを責めた。
 その二人の会話をよそに、グレミオはグレミオで、
「ちゃんと付けてましたよっ! ぼっちゃんに見つかるような所には置いてませんけどねっ! そう、書いてることが書いてることなので、閉まってあったんですよ。」
 一人、話を続けている。
「書いてることって、どうせくだらないことだろうが。」
 クレオが呆れたようにグレミオに突っ込むと、
「そうっ! いわゆる成人指定入ってるので、ぼっちゃんには見せられな……っ!」
「んな変な物書くなーっ!!!」
 思わずいつもの調子で、グレミオの頭を叩いた。
 勿論、誰もそれを止めることはなかった。
 ただ、スイと軽口を叩き合っていたテッドが、ツンツン、とグレミオのマントを突ついて、
「グレミオさん、グレミオさん、俺、成人成人。」
 ワクワクとした表情で自分の顔を指差した。
「仕方ないですねぇ。じゃぁ、これです。」
 ふ、と笑ったグレミオが、どこからか取り出した本を示す。
 やっりぃ、とテッドがそれを受け取り、クレオがそれを横目に、
「お前も自分の日記を手渡すなっ!」
 と叫んでグレミオの頭を叩いた。そして、慌ててテッドの手からグレミオの日記を奪おうとしたのだが、テッドはすでにパーンの後ろに隠れるようにして日記を読んでいた。
「えーっと、何々? 今日はぼっちゃんの一歳のお誕生日v はりきってケーキを造ったのはいいのですが、ぼっちゃんったら、ケーキを食べるより生クリームで遊ぶ方が面白いらしくって、両手も顔も生クリームだらけにしちゃいました。結局ケーキは食べられなくなっちゃったのですけど、ぼっちゃんが楽しんでくれたので………………って、成人指定??」
 これの、どこが?
 テッドがパーンの背中越にグレミオを見ると、グレミオは自信満々そうに、
「ええ、そうです。大きくなったぼっちゃんが見た時に、恥ずかしいでしょ?」
 言い切った。
「そーゆーいみかぁぁぁぁぁーーーっ!!!」
 他人事のように知らない振りをしていたスイが、瞬間に振り返って叫んだ。そして、慌ててテッドにつかみ掛るようにして、彼からグレミオの日記を奪い取ろうとする。
 しかし、パーンを上手く盾にして、テッドがヒョロヒョロと動く。掴みそうになるたびに、するりと指先からぬけた。
「△日、ぼっちゃんがオバケが怖いと言って、トイレにまで付いてきて……。」
「お前もよむなぁぁぁーっ!!」
 突っ立ってくしょうを浮かべているパーンの回りを、日記を手にしたテッドとスイがぐるぐると回る。
 そんな一同に、
「ところで……そろそろ競技を始めたいのだが……。」
 セルゲイが声をかけた。
 無理矢理テッドを捕まえて、彼の首に腕を回していたスイは、あん? とそっちに目を向けて、その先にある吊り輪に気付いた。
 そう言えば、すっかり忘れていたが、今はオリンピックの真っ最中だったのである。
「あ、ごめん……って、相手まだいないじゃないか。」
 苦しそうに呻くテッドが、日記をパーンに手渡して、スイに全力で抗い始める。それを力で押え込みながら、スイは向うを見た。相手方選手の控え場所には、誰もいない。どうやって始めるつもりなのだろうか?
「あれ? おかしいな。さっきまで居たのに??」
 ロックも不思議そうに眉をしかめる。
 スイも同じ様に目線をやったその瞬間、背後から聞きなれた声がした。
「ああ、そうそう、確かこの時、スイが泣き喚いたんだったなぁ。」
 テッドもスイの腕の中で眉をしかめた。そして、二人そろって振り返ると。
「ええ、もう、ぼっちゃんのこの時の愛らしさは犯罪級ですよねぇぇ。」
 テッドが先程パーンに渡した日記を親馬鹿二人が取り囲んでいた。
「あ、あれ? テオ様?」
「…………なんで父上が………………。」
 ぼやいたスイは、すぐに今回の敵が父であることに気付いた。そして、どこに行ってもマイペースなマクドール一家に(その一員である自分に)、頭痛を覚える。
「なつかしいねぇ。」
 今回はクレオまでもが加わって、目を細めて日記を見下ろしている。
「へぇ、ぼっちゃんがねぇ。」
 パーンが思いもよらないといいたげな表情をしているのに、テッドもこくこくと頷いて同意をしめした。
「全く、今から見たら、思いもしないよなぁぁー。ミルイヒ様と初対面に泣き出したとかさー。」
 のほほーんとした空気が流れるのに、スイは冷めた目線で一同を突き刺して、
「……何してんの、ソコ。」
 指差してみた。
 いち早く我に返ったのは、武人として名高いテオ=マクドールであった。
「──っ! ハッ! しまったっ! 策にはまるとは……っ!」
 策ってあんた……と突っ込みたいのは、スイだけではないはずである。
「わ、私まで……──。」
 密かにショックを受けているクレオに、
「ってゆーかぁ、あっはっはっはっは……皆、親馬鹿? ん?」
 楽しそうに、テッドがのたまってくれた。
 最後の決めとばかりに、小首を傾げて顔を覗き込んで来る辺り、憎らしい限りである。
「…………もぉ、帰りたいよ、僕。」
 スイが思わずぼやいてしまったのも、きっと仕方のないことなのであろう。
 ほんと──ボケばっかりを、突っ込み一人が相手にするのは、労力を使うのである。

 さて、と気を取り直して、動きやすい格好に着替えた一同を見やって、スイはとりあえず選手を前に作戦会議らしきものを行ってみた。
「相手は父上か……こんな形で対決するとはね……。
 グレミオ、パーン。父上って、吊り輪したことある?」
 とりあえず、父のいろんな面を見ているだろう二人に聞くのが早いだろうと、スイは二人の顔を交互に見やった。
 グレミオが軽く首をかしげると、頭のてっぺんでポニーテールにした髪が、さらさらを零れた。
「さぁ? どうでしょう?」
 何もわからないらしく、視線をクレオに流した。
 クレオはそれを受けて、
「よく戦場で懸垂をしてましたよ。腕の運動だとか……。」
 パーンを見た。
 パーンは顎に手を当てて、
「んー……組み体操は得意だったようっすけどね。」
 と、昔を思い出して見る。
 その瞬間衝撃が走ったかのような表情で、テッドがおののいた。
「くみたいそうっ! ……なんでまたそんなものを……っ!!」
 テッドの驚きように、知った風な態度で、スイが肩に手を置いた。
「テッド、男同士の戦場っていうのは、イロイロあるんだよ……そう、イロイロと……っ!!」
「そ、そうかっ!! つまり、組み体操っていうのは、そういう意味の組み体操か……っ!!!」
「たぶん……。」
 更なる衝撃に身を震わせるテッドに、スイは憂愁の表情を見せた。
 哀しそうに俯く姿は、どこか切なさを醸し出していた。
「そっか……スイ、お前もそれがわかるとは──イロイロあったんだな。」
 ぽん、と慰めるように、テッドがスイの肩に手を当てた。
 それを受けて、
「うん、それはもう、イロイロと……っ。」
 スイが、少しだけ微笑む。
 そのまま二人の親友は無言で見詰め合った。
「ぼ、ぼぼぼぼ、ぼっちゃんっ!? な、何がっ!? このグレミオがいない間に何があったのですかー!? ああっ! テオ様っ! お許し下さいっ! 早々に私が死んでしまったばっかりに、ぼっちゃんを、ぼっちゃんをーっ!!!!!」
「何ぃっ!? グレミオ、きさまーっ!!」
 向うの陣営で着替えていたはずのテオが、鬼のような表情で剣を抜き放つ。それはキラリと陽光を受けて光り輝く、切れ味は抜群のようである。
「え? グレミオさんって、死んでたっけ?」
 その切迫した雰囲気を、300年の歴史で見事に消え去るように、テッドが素で尋ねる。
 テッドの表情に、先程までスイと見せ合っていた切ないムードはなかった。
「もー、やですねぇ、テッド君v ソウルイーターの中で一緒に神経衰弱やったじゃないですかぁv」
「あー。そうだったそうだったv あっはっはっはっはっ!」
「あっはっはっはっはっ!」
 笑い会う二人を見て、スイは無言で自分の右手に視線を落した。
「神経衰弱………………。」
 この中って、実はそんなに苦痛ではないのだろうか──?
「…………いい加減にしなさい! 皆悪乗りすぎですっ! ったく、そもそも私もパーンもついていたのに、何かあるわけないでしょうがっ!!」
 クレオが伝家の宝刀とばかりに叫ぶと、一同はぴし、と空気が割れたかのように静かになった。
 その後、
「お、おお、そうだな……いや、スイのことだから、てっきり。」
 あはは、と笑って誤魔化すように、テオが呟いた。
「てっきり……何です?」
 にこりと、スイが父を見やった。
 テオの額に冷や汗が湧き出る間もなく、彼はそそくさと踵を返した。
「さぁってと、準備運動でもするかなっ!」
 スイは無言で見なれた父の背中を見送った後、
「……逃げたな。」
 ぽつり、と呟いた。
 


 マクドール家の面々に振り回されつつも、吊り輪は始まった。
 とりあえず、選手控えの場所に、ビニールシートを広げて、グレミオはいそいそとお菓子を用意した。
 そして、スイのためにクッションを置くと、ここへどうぞ、と恭しく指し示す。スイはもっともらしく頷いて、そこに居場所を決めた後、
「ところで、やっぱり審査員って、レックナート様なのかな?」
 と尋ねた。
 同じ様にスイの隣を陣取ったテッドは、早速お菓子を手にしながら、ん? と首を捻る。
「もしそうなら、テオ様有利じゃねぇかな? ほら、あの人、濃いの好きそうだし。」
 あっはっはっは、とテッドが笑うと同時、どこからともなく飛んできた湯飲みが、彼の後頭部にクリーンヒットした。
 がくっ、と倒れかけたテッドの身体が前のめりになったが、とりあえずスイはそれを見なかったことにしながら、
「じゃ、とりあえず、パーン、後はよろしくっ!」
 すちゃ、と手を翳した。
 準備運動をしていたパーンは、その言葉に軽く眉を上げた後──向かい側を見やった。そこではテオが、自慢の筋肉をほぐすように指でマッサージしていた。
 テオと一騎打ちをした時は、かろうじて見逃して貰えたに近かった。あれからも腕をあげるために、さまざまな修行をしたが、こうして面を向かえば分かる……強くなればなるほど、テオが偉大なことが、身に染みてわかる。
 しかし、今回のこれは、一騎打ちではない。
 それに、テオが得意な剣も関係ない。
「腕がなるな。」
 ぽきり、と指を鳴らして、パーンが薄く笑う。その彼の背中に向けて、
「パーンさぁん。頑張ってくださいねぇぇ。」
 瞳を細めて、グレミオが呑気に応援した。
 そんな彼の手の中には何時の間にか作ったらしいお菓子があった。 もしや彼は、自分も選手の一人であることをすっかり忘れているのかもしれない。
 テッドがその隣で、早速お菓子を手に取ろうとして、グレミオから「手を洗うのが先です」と、ぴしゃりと叩かれる。
 どこからともなく椅子を持ってきたスイが、ちゃっかり腰掛けながら優雅にティータイムを取っている。いついかなる時も、ティータイムを行うのは、貴族の嗜みなのである。
 クレオがそれを呆れたように横目で見つつ、視線をテオに移した。
 テオは手にグローブを付けて、何やら隣に立つ青年に一言二言話し掛ける。それに青年が頷いて、慌てたように袋の中を探った。ごそごそと探すが、見つからないようで慌てて違う袋に手を突っ込んでいる。
 テオが何を求めているのか、クレオには分かった。だから、そこじゃないと、そう言いたいのを──ぐ、と手のひらを握ることで我慢した。
 テオの側に居たものは、アイン・ジード以外は全て解放軍側についている。彼は彼の信じた道を突き進み、しかしそれを部下にまで強要しはしなかった。帝国軍に不満を感じていたグレンシールもアレンも、彼らが自分の死にとらわれて帝国に居続けることのないようにと、先を示してくれた。
 だから、帝国に返った今のテオの元に、彼の忠実なる部下はアイン・ジード以外は居ない。
 テオが今求める物が何なのか、彼らにはわからない。
 テオの部下が必死に袋の中を探るのを見ながら、彼はもう一度手袋をはめ直した。その視線がふと上がる。自分を見つめる視線に気付いたのだ。
 彼は、その先に、自分が誰よりも信頼していた腹心の部下が立っているのを認めた。戦場に立つ時の凛々しさよりも、哀愁にも似た憂愁を纏わせる女性が、痛ましげに瞳を細めている。
 彼女が何を考えているのか、聞かずとも分かった。だからテオは、瞳を細めて、小さく頷く──大丈夫だと。
 クレオは、軽く目を見張って、それから寂しげに笑った。その表情が、痛々しくて、まるで初めて戦場に立った彼女を前にした時のようだと思った。あの時も彼女は、痛い程の決意が分かる中に、傷ついた心を隠すことも出来ず、苦しんでいた。
 あのときは、慰めるように肩を抱いて叩いてやった。彼女は乗り切ると分かっていたから。
 けれど、今の自分はそれが出来る立場ではない。テオはもう、クレオの上司ではないのだ。
 つい、と視線をずらして、袋の中をひっくり返している青年に、ゆっくり探せ、と言い残して、その場から離れる。用意してあった簡易椅子に腰掛け、そっけなく置かれた水を紙コップに入れて飲み干す。
 向うを見やると、誰よりも愛しく誇らしい息子が、親友と紅茶を奪い合っていた。その顔は、思った以上に元気そうであった。
 死んだ後の世界を見れるというのは、不思議な気持ちで、どこか痛くはあったけれども、生きているうちに後悔はしていないこの身には、何の拘束もない。もう一度スイと──こんどは命をかけずに闘えることに、どこか喜んでいる自分がいた。
 何よりも、あの時とは違って、言葉を交わすことすら出来るというのに……息子は、あの時なぜ、自分を殺そうとしたのか、殺さねばならなかったのかと、自分に聞きはしなかった。ただ、普通に接してくれた。
 それが、嬉しい。
 スイは、分かってくれていたのだと、伝わったから。あの子もまた、後悔してはいないのだと──いや、後悔はしているのかもしれないが、何度あの場面に当たっても、同じ事をすると、言い切るのだということだから。
「全く……私たちは、不器用な親子だな。」
 目を細めて、もう二度と見ることかなわないと想っていた息子を見つめる。
 最後に見た顔は、泣き顔でもなければ、見慣れた笑顔でもなかった。テオの目に焼き付いた最後のスイの表情は、凍てついた仮面を被った──「軍主」であった。
 それが、自分の望んだこととはいえど、さみしかったのも本当だ。最期くらい、息子としての顔を見せてくれればと、そう想ってしまったのも本当だ。結局自分は、武人である前に一人の男で、一人の親でもあったのだと、そう思い知らされながら、意識を吸われた。
 だから、こうして彼の無邪気とは言えないけど、微笑みを見ることができる自分は、きっと「人間」として卑怯者なのかもしれない。
 苦い気分をかみ砕くように、テオは握った紙コップにチカラを込めた。その瞬間、
「よっしゃーっ! 一番っ! パーン行きまっす!!」
 ぴしぃっ! と片腕をあげて宣言した声が、辺りに響き渡った。
 はっ、として顔を上げると、吊り輪の前に立って、パーンが筋肉を披露していた。ふっ、とか、はっ、とかいうくぐもった声と共に、さまざまなポーズを取っている。
「あんまり見たくないんだけど……。」
 思わず飲みかけていた紅茶を噴き出したスイが、そうぼやく隣で、グレミオが慌てたようにスイの口元を拭き取る。
 テッドも同じ様に口から紅茶を零して、目を座らせている。そして、口元を拭うことも忘れてクレオを見あげた。指先で「大胸筋を見ろっ!」と叫んでいるパーンを指差す。
「俺……知らなかったんですけど、パーンさんって、露出狂だったんすか?」
「いや……そういうわけじゃないんだけど────解放軍で、お風呂で、…………め、目覚めたみたいで…………。」
 クレオが苦痛を訴えるように視線をずらす。
 頭の中では、解放軍の公衆浴場(男湯)で、たまーに繰り広げられている「筋肉コンクール」とか言うものの盛り上がる男どもの声が響いていた。
「うげっ! 兄貴コンクール?」
 テッドが嫌そうな声に反した、それはそれは嬉しそうな表情でクレオに迫った、ついでに袖で口元を拭う。
 クレオはそうじゃなくて、と眉間に皺を寄せながら、パーンを指差した。そこでは、
「ほう……なかなか鍛えたじゃないですか。」
 関心したようなアントニオが、持っていたフライパンで(なんでこんなとこにフライパンを持って来るんだ、という疑問は最もである)、パーンの肩甲骨をなぞる。フライパンがきゅ、と肩甲骨に挟まれて、アントニオが手を放しても落ちはしなかった。
 おおっ! と、ロックとアントニオの口から感嘆の吐息が零れる。
 敵陣営では、ほほぉ、と関心したようなテオの声が零れた。
 どうやら彼にもパーンの筋肉の価値が分かったようである。もしもこの事をパーンが聞いていたら、とっても喜んだことであろう。
「あー………………なんていうか……………………………………なんて言えばいいんでしょうね、こういう時って?」
 さすがの三百年の生き字引も、これには何にも浮かばなかったようである。救いを求めるようにクレオを見あげたが、そんなこと聞かれても、クレオに分かるわけがなかった。だから彼女はとりあえず、足下に置かれていたバケツを手にすると、
がーんっ!!
「はいはいはいはいっ! さっさと演技を始めるっ!!」
 思いっきり拳で殴りつけ、無理矢理競技開始の合図を出すのであった。



 さて、このオリンピックの主催者であり、審査員であり、この空間の神様でもある女性は、呑気にバカンススタイルをしながら、遠眼鏡を覗いていた。
「うーんんんんん……パーン君はなかなかですねぇ、あの筋肉……。」
 優雅な態度でそんなことを言ってのける彼女に、
「そうかい? テオ=マクドールもなかなかだと思うよ。……ほら、見てみなよ、レックナート。彼のあの十字懸垂……見事だね。」
 隣から、おそろいの遠眼鏡を覗き込んでいたウィンディが答える。艶やかな紅の唇に笑みを刻んで、うっとりとして見せる。
「やっぱり男は筋肉ですよねぇ。」
 うっとりとレックナートが呟くと、
「男の価値は身体だねぇ……。」
 同じ様にウィンディも呟く。
 ────────似た者同士の審査員であった。


「さんばーんっ! スイ=マクドール、卑怯技いっきまーすっ!」
 パーンの演技の後、勝ち誇るように演技を繰り広げたテオが、タオルで汗を拭っている隣で、スイが高々と宣言を行った。
 そして、気軽な足取りで吊り輪の下に立つ。
 吊り輪を見あげた後、ちょっと手を伸ばし、無言で手を下ろした。そして、
「グレミオ、補助。」
 くいくい、と手招きする。吊り輪には彼を抱えあげる補助が必要なのであるが、パーンもテオも、軽く飛びついていたので、今まで必要なかった。
 だから、呑気にクレオと談笑していたグレミオが、慌てたように顔をあげた。
「あー! すすす、すいませんぼっちゃん! ぼっちゃんの身長が足りないの、忘れてましたっ!!」
「お前……密かに僕が気にしてることをっ!!」
「あっはっはっは。正論正論v」
 スイがギッと睨むのに、テッドが楽しそうに笑う。
「誰のせいで成長しなくなったと思ってるんだよっ!」
「えー? しらなーい。そんなのソウルイーター貰っちゃったぼっちゃんのせいじゃーん。」
「責任転嫁しやがって、このヤロウ。」
 吊り輪の下でぼやいたスイを、焦って駆けつけたグレミオがひょい、と担ぎ上げる。それは昔の仕草をそのまま思い起こさせた。
 脇の下に手を入れられて、スイがいぶかしむように下を見やると、グレミオがよいしょ、と声をかけて、吊り輪の下までスイを連れていった。
「はーい、ぼっちゃん、お手てあげてくださいねー。」
「……………………………………。」
 笑いを噛み殺しているテッドを見やってから、スイは無言で吊り輪を掴んだ。
 グレミオがもういいですかぁ? と尋ねるのに、スイはにっこりと笑って見せた。その直後、
「たまには状況を考えて行動しやがれっ!!」
 吊り輪を掴んだまま、身体を捻って足を振り上げた。
 見事に顎に決まった蹴りが、グレミオを跳ね上げる。そしてそのまま、吊り輪を重点に足でグレミオの首を掴むと、
「少しは懲りろっ!」
 ぐいっ! とグレミオをそのまま捻りあげる。
「あいたたたたっ! ぼぼ、ぼっちゃーんっ!!」
 慌ててグレミオが腕を回してスイの足に手をかけようとするが、その直前にスイが足を掛け直す。
「よいしょっ!」
 小さな掛け声と共に、グレミオの身体が宙を舞った。
「うわっ!?」
 焦ってあげたグレミオの悲鳴に、スイが吊り輪を掴み直しながら囁く。
「しっかり歯を食いしばってないと、舌を噛み切るよ?」
 ちらりと見せた笑みは、壮絶に美しかった。
 振り乱されるグレミオの金の髪を見ながら、テッドがなんとなく審査員席を見てみた。遠目からでもわかるくらい、審査員席は大受けしているようであった。
 スイは足を掛け直し、再びぐるんっ、とグレミオを振り回す。遠心力でグレミオが大きく揺さ振られた。
「ぼっちゃん……一応今演技の最中……。」
 頭を痛めながら、クレオが注意しようとするのを、テッドが止めた。
「このままのが面白いっすよ。レックナート様もウィンディも、受けてますし。」
「……………………それじゃ、私はグレミオが目を回した後に飲むお茶でも用意しますか。」
 グレミオがどこからともなく用意したお茶せっとを手にして、クレオは背後で行われている「競技」から現実逃避を始めるのであった。






「はーっ! すっきりしたっ!」
 本当にすっきりした表情で、スイが吊り輪から降りる。
 その下では、やっと解放されたばかりのグレミオが、目を回して完全に気を失っていた。
 スイは額に湧き出た汗を拭いとって、満足そうに吊り輪を見あげた。
「これって、結構面白いおしおき道具だねっ!」
 満面の笑顔でテッドを振り返るのに、そういう使い方は普通しないよ……と、テッドは心の中でだけ呟く。この光景が面白いからこそ、口には出さないでおいた。
 クレオが溜め息を押し殺しつつ、目を回したグレミオに駆け寄った。そして、その口を強引にこじ開けさせると、お茶の入ったポットを直接傾ける。
 ごぼごぼと音を立てて、グレミオがそのお茶を飲み込み、カッと目を見開いた。かと思うや否や、がばっ、と起き上がり、
「ぐ、ぐれおさん!! お茶を煎れる時は、ちゃんと茶漉しを使って下さいっ!!」
 がぼっ、と口の端から広がった茶の葉が零れた。
 クレオはちら、とポットを見た後、
「起きたんだからいいじゃないか。」
 と、いそいそとポットを隠した。
 グレミオは口の中に残っていた茶の葉を吐き捨て、口元を乱暴に拭った。
 スイを見ると、彼は満足そうな態度であった。
「ところでスイ。お前、今のが演技になってるって知ってるか?」
 テッドはいたずら心を湧かせて、スイに囁く。
 すると、スイはキョトンとした眼差しで、敵を見て、吊り輪を見て──、
「もしかして僕の演技……今の、グレお仕置き……?」
 たら、と汗を流して尋ねる。
 テッドもパーンもクレオも、不承不承ながらグレミオも、こっくりと頷いてこたえた。
 瞬間、スイが嫌そうに顔を歪めた。
「うっそ……まじぃ? 僕の計画では、適当に演技した後、手がすっぽ抜けたという手段でもって父上の所まで飛んでって、蹴りを食らわし、二回目の演技が出来なくなるはずだったのにっ!」
「そーゆーこと考えてたのか……お前。」
 テッドが呆れたような目で、スイを見やった。
「でも、それ合格っ! よしっ、スイ、今からでも間に合うっ! 俺が許……っ!!」
 がんっ!
「何を進めてるんですか、テッド君っ!」
 頭に衝撃が走って、見あげた先で──クレオが握った拳をそのままに、冷ややかな眼差しをしていた。





「さすがテオ=マクドール。二回目の演技も三回目の演技も、最高ですわね。」
「ほぉんと。ふふ……惜しい男となくしたものだ。」
 二人は仲良く遠眼鏡を覗き込み、満足そうに点数表を覗き込む。
 その刹那、レックナートの隣の空席に置きっぱなしであった得点表に、不意に点数が現われた。
 そこにはくっきりとはっきりと、「解放軍に十点v 理由は、スイの演技が斬新で面白かったからv 面白さにボーナスvv」と、走り書きに近い字で、テッドからの点数が送られてきていた。
 それを確認した後、レックナートとウィンディの二人が、笑顔を交わし合った。
「どうしましょう、姉上。私も……テッド君と同じ意見なのですけど?」
「おや……これは偶然。──あたしも振り回される男に魅力を感じていたのだよ。」
 にやり、と笑みを躱した義姉妹は、いそいそと点数表に点数を書き出すのであった。
 哀れテオ=マクドール、こういう正規じゃない部分で点数を決められて、敗戦を決められてしまうのであった。







 床競技というのは、体操で床演技をすることである。
 さっさと点数を確保したバレーコートがあまったので、とりあえずそこで床競技を行うことになった。
 隣で点数の開いているバスケットコートを横目に、床競技のために集まった解放軍メンバーは、一斉に教科書を開いて簡易お勉強会にチャレンジしていた。
「リボンを使わないんだね。」
「それは新体操だよ、テンガアール。」
 ヒックスが恐る恐る口を入れて、テンガアールに本を示した。
「僕たちがする床体操って言うのは、三回転宙返りとか、ほら、こういうの。」
 ちょうど目に付いた宙返りの絵を示すと、テンガアールは無言でヒックスを見やった。
 そして、目を細めて尋ねる。
「で、ヒックス? 君、バク転とか出来るの?」
「……………………………………え、えーっと……フリックさんが、頑張ってくれるんじゃないかな……と……。」
 目が上の空になるのを見て、更にテンガアールは目を細めた。
 そして、
「ヒックスっ!」
 いつものごとく、叫ぶ。
「は、はいぃっ!」
「君ね……っ!」
 びしっ、と指を突きつけて、腰に手を当てて、説教モードに入ったテンガアールを、おどおどとヒックスが見あげる。その視線を受け取って、テンガアールはキリリと眦をつり上げた。
 その直後、
「ねぇ、二人とも? レオンこっちに来てない?」
 ひょい、とスイが二人の間に顔を突っ込んだ。
 思わず肩を揺らした二人が、驚いたようにスイを見やる。
 ちょこん、と地面に直接しゃがみこんだスイは、いつもの「ラブモード」に入りかけた二人を交互に見あげて、
「確かレオンも床競技だったよね?」
 と、小首を傾げた。
 ヒックスがそれに慌てて頷き、
「は、はいっ! あの、えっと……そこにアップルさんがいますから、聞いてみたらどうでしょうっ!?」
 そのまま日陰で本を捲っているアップルを指差した。
 スイは無言でそれを見てから、ヒックスの頬をムニィとつまんだ。間近に顔を近付けて、にっこりと笑うと、
「つまり、まだ見かけてないんだね?」
「は……はひゃひ……っ。」
 こくこくと頷くフリックに、そう、と呟いた後、スイは彼を解放した。
 そして、面白くなさそうな表情で辺りを見回した。
「ったく……勝手に選手を決めやがって──しかも僕から逃げてるし……。」
 どうやらここなら、レオンが確実に来るに違いないと、わざわざやってきたようであった。
 ヒックスとテンガアールの二人は、スイのぼやきを聞きとがめて、密かに視線をあわせた。
 こんなところで口論されては堪らないね、と、口にださずに呟き合う。
「あ、あのっ! スイさんっ!」
 とりあえず、スイの意識を反らそうと思ったテンガアールが、ニコニコと笑みを零してスイを見あげる。
「ところで、フリックさん見ませんでしたっ!? 一緒に競技の練習しようと思ったんですけど、どこにもいなくって……っ。」
 実は探してもいないくせに、そんなことを口先だけで言って見せる。
 ヒックスも同じ様に大きく頷いて、テンガアールにあわせる。
「そうそう、折角選手に選んで貰ったんだから、頑張らないと……って……。」
「………………選手選び………………。」
 必死に笑おうとしたヒックスに、スイが呟きかえす。
 テンガアールが、馬鹿っ、とヒックスを突ついたが、すでに口から出てしまったものは返ってこない。
 慌てて口を抑えるヒックスとテンガアールをよそに、スイは軽く目を眇める。
「全く……しょうがない。」
 穏やかな口調であった。しかし、その裏に見え隠れする般若のような感覚はどうしてだろう?
 温かな日が照る草原のはずなのに、底冷えするような寒さが辺りを覆っていた。
 心だけでなく、身体すらも寒くなってきて、ヒックスは一度身震いした後、鳥肌だった腕をさすった。
「それじゃ、僕はここでレオンが来るのを待っていようかなぁ♪」
 楽しそうに、本当に楽しそうに笑って、スイは先程ルックと一緒に座っていたバレーコートとバスケットコートの間に座った。
 ちょこん、と座って、楽しそうに辺りを見回すスイを見やって、テンガアールもヒックスも溜め息にも似た吐息を交わし合った。この分だと、競技の前に一揉めあることは間違いない。
「…………なんていうか、恐怖の前兆という感じだね。」
 長い黒髪を背中に払い、不意に二人の後ろにローレライが立った。
 びくっ、と肩を震わせた初々しい恋人同士は、恐る恐ると言った風に背後を振り返った。
「ほんと。緊迫感たっぷりって感じ……まるで獲物を狩る前の狩人みたいだ。」
 隣に立つのは、愛弓で肩を叩くクインシーである。彼は、すぐ後に弓をおろして、溜め息を零した。もうどうしようもないと──そう言いたげに。
 普段は不敵な彼であったが、こういう光景を目にしてしまってはもう何も言う気はないらしい。
「レオン殿が来ないことを祈るばかりだな。」
 危険を感知するのは、冒険者であるローレライの十八番と言った所であろう。彼女は鳥肌が立った自分の腕を不快そうに見つめた後、軽く肩を竦めた。
「言えてる。」
 同意したクインシーが、軽く目を眇めて、スイが楽しそうに「不穏なこと」を考えているのを見た。
 ヒックスとテンガアールは無言で顔を見合わせ、彼らにつられるようにスイを見た。彼は楽しそうに地面に何か描いている。疑うまでもなく、レオンのお仕置きを図にしているに違いない。
 邪魔をすれば、どんな目にあうのか良く分かっているので、テンガアールは無言で本を開き、
「で、ヒックス。これが側転って言ってね。」
 何事もなかったかのように、お勉強を始めた。慌てたようにヒックスもその隣に座り込むと、
「ああ、なるほどー。」
 と、相槌を打つ。それに乗るように、ローレライもクインシーも隣に座り込むと、
「道具を使うんだったっけ? この弓なんかどう?」
「それじゃ、新体操ですよぉ。」
 あははは、と乾いた不自然な笑みを浮かべ合うのであった。

 日陰で本を読んでいたアップルは、ふと影が濃くなった気がして顔をあげた。
 しゃらり、と耳元で揺れた自分の髪をうるさげに掻き上げると、影の原因を見あげた。背の高い人影は、アップルを見下ろして、爽やかに微笑む。
「こんなとこでも読書かよ?」
 解放軍の中で、最も熱い男にしてそれが故に密かに女性陣から人気のある青年……彼は、腰に手を当てて、アップルを見下ろす。
 アップルは眼鏡の奥の瞳を細めて、彼を見あげた。
「私の勝手です。」
 つん、と顎を反らすアップルに、彼は苦笑を滲ませる。その表情は、この軍にいる子供ってのは、どれもこれも──と語っていた。おそらくその頭の中には、外見だけは綺麗な性格の悪い美少年が浮かんでいるのであろう。
「……それで、そういう副リーダーのフリックさんは、出番じゃないんですか?」
 本を開いたまま、見あげたアップルに、フリックは更に苦々しい笑みを広げた。
「かく言うアップルだって、選手に登録されてるじゃないか。」
「──マッシュ先生が大変な時に、呑気に試合なんてしてられませんから。」
 苦い表情を見せた後、アップルは視線を落して本を捲り始める。良く見るとその手は震えていて、時々捲るのに失敗しては、動きを止めていた。
 フリックは無言で視線を落す。かく言う彼とて、マッシュが刺されたその瞬間を見ていた一人であり、それを止められなかった張本人でもあるのだ。
 マッシュが刺されて、敵を騙すための策略だったのだと宣言して、ここへ入っては来ているものの、時折マッシュが辛そうに顔を歪めているのを見ていた。だから、マッシュの怪我が完治したわけじゃないのは良く分かっていた。
 いくら死を免れたとは言え、このような状態が長引けば傷に悪いのも確かなのだ。
「なら、なお更一刻も早く勝たないとな。」
 辛そうに目を伏せるアップルの頭を、ぽん、とフリックが叩いた。
 アップルはそれを無言で受入れた後、問い掛けるような眼差しを彼に向けた。
「…………本当に、そう思ってるんですか?」
 眼鏡の奥の瞳が、責めるような、痛むような、そんな光を宿している。
 どういう意味だと尋ねるよりも先に、フリックはその意味を悟ってしまった。だから、即答できず、喉が乾いたような飢えを覚えた。
「それ……は……。」
 思わず目を伏せてしまったのは、どうしてだろうか? 答えられなかったのは、どうしてだろう?
 脳裏に浮かんだ幸せな姿を、消してしまえなかったのは、何故であろうか?
 彼女は、そんなフリックを見あげて、無言で本を閉じた。
 はっ、と顔を上げたフリックから視線をずらして、アップルは競技の場を見つめた。
 そこでは、ヒックスがテンガアールの愛の鞭を受けて、側転に失敗していた。どう考えても、勝ち目は薄かった。
「軍師の卵として、私はあなたに……勝つようにと言うことができるのでしょうか?」
 アップルはそれを見つめてから、ゆっくりとフリックを見あげた。
 マッシュの身体を考えると、一刻もハヤク元の世界に戻りたかった。
「何を……。」
「だって、あなたは、ここに残りたいんでしょう?」
「………………………………………………。」
 無言でフリックはバスケットコートを見た。
 そこでは、生き生きと走り回っている恋人の姿があった。光る汗を滴らせて、楽しそうにコートを駆け抜けている。ぴぴーと笛を鳴らす所など、懐かしさに涙すら浮かんできた。
 確かに、アップルの言うとおり残りたいと言ったらそうである。
 しかし、それではオデッサの側にいることは出来ても、オデッサの望みを叶えることは出来ないのだ。
「大人を馬鹿にするな、アップル。──俺だって、いつまでも青二才ではいないさ。」
「………………そう。それじゃ、私からも忠告。」
 無理矢理オデッサから目をそらしたフリックを覗き込んで、にっこりとアップルが笑う。いつも眉間に皺の寄っていた彼女の笑顔に、思いもかけずフリックは目を見開いた。
「もう競技、始まってるわよ?」
「……え? え、あ、ああああああーっ!!!!!」
 ぴ、と指差したアップルにつられて後ろを振り返ったフリックは、その瞬間、絶叫したのであった。



「フリック、遅刻。」
「フリックさん、おっそーいっ!!!!」
 楽しくもなさそうに呟いたスイに続いて、テンガアールが飛び跳ねて叫ぶ。
 フリックがすまんすまん、と謝る。
 そんな彼の背中を、ローレライが軽く押した。
「ったく、あんたもシーナも、何やってんだい。」
「シーナ? なんだ、シーナもまだ来てないのか?」
 マントを慌てて外しながら、フリックが彼女を見やる。後ろに立つアップルが不快げに鼻を鳴らしたのが分かった。
 フリックと共に来ていたアップルに気付いたローレライが、軽く肩を竦めると、クインシーを見た。
「あんた、シーナの代わりに選手として出場するかい?」
「冗談……。」
 確かに冗談だったのであろう。ローレライはクインシーが答えると同時に、それはそうだと、笑った。
 クインシーはその反応に面白くもなさそうな顔をしたが、すぐにそれを消して、床の上で競技している人物を見やった。
 そこでは、帝国側が用意したスラリとした青年と、解放軍の一番手であるヒックスが、どったんばったんと騒音を立てていた。
 思わずそれを見た瞬間、フリックは指を差して尋ねた。
「あれは、もだえてるのか?」
「………………フリックさん。」
 腰の剣を外して、それをテンガアールに預けた彼の手を、きゅ、とテンガアールが握った。
 すがりつくような眼差しでフリックを見つめる彼女に、床の上からヒックスの抗議が飛んだが、そんなもの気にしていてはテンガアールはテンガアールではない。
 ローレライもぽん、とフリックの肩に手を置き、アップルも彼のもう片手を握った。
 思いもよらず女に囲まれて、フリックがいぶかしむ間もなく、
「この競技は、フリックさんにかかってます。」
 テンガアールが決意を込めた目で彼を見つめた。その瞳が、どうしてか潤んでいる。
「僕、フリックさんがその気になってくれるなら……こ、この身をささげても……っ……うっ。」
「テンガアールさん……それほどまでの決意を……っ、フリックさん、ここまで言われて引き下がっては男じゃありませんっ!」
「フリック、まぁ、そういうわけだから。」
 ローレライがまとめるように、ポンポン、と肩を叩いて──呆然とそれを聞いていたフリックの耳に、
「そそ、そんなっ! テンガアールっ!」
 どがんっ、と頭から落ちたヒックスの悲鳴が聞こえた。
「うるさい! 誰のせいだと思ってるんだよっ!」
 フリックの手をしっかりと握り締めたまま、テンガアールが怒鳴る。
 アップルは彼女の可哀相な決意に涙し、ローレライは面白がっているようにしか見えなかった。
 無言でフリックはこめかみを揉み解す。
──つまり、どういうことだ?
 頭の中で整理するよりも先に。
「フリック! あんた、そういうことしてると脳天かち割るわよっ!!?」
 どこからともなく、良く響く声が飛んできた。
 それがちょうど正面に当たるバスケットコートかた聞こえて来るのだと気付いたフリックが、焦って顔をあげた瞬間には、目の前いっぱいにボールが迫っていた。
「あ……?」
 どっごんっ!!!
 ボールは、物の見事なコントロールで、フリックの顔面にぶつかった。
 ぐらり、と傾ぐフリックを、回りを囲んでいた女性達は薄情にも手放してしまう。
 哀れフリックは、後頭部から地面と激突するはめになった。
 ぽんぽーん、と、ボールだけが跳ねて遠くに跳んでいった。
「ったく、ちょっと目を離すとこれなんだからっ! ビクトールの悪い癖が移ったのかしら?」
 見やると、ボールを飛ばした張本人は、呆れるバスケットの選手を背後に、腰に手を当ててそんなことをぼやいていた。
「…………審判……ボールは……。」
 突然選手からボールを奪った審判に、解放軍チームのキャプテンを任せられているヨシュアが話し掛ける。オデッサは、その声に、あら、と呟くと、何事もなかったかのように予備のボールを出してきた。
「じゃ、続けましょうか。」
 はい、と、ボールを彼に渡すオデッサは、天罰を与えたフリックにはもう用がないとばかりに、再び笛を口に咥えた。
 その光景をコートごしに見ていたクインシーが、
「あんた、死んでからも恋人に縛られてるね……ま、本望だろうけど。」
 フリックの剣と、顔面を紅く染めたフリックとを交互に見やって、呆れた調子でそう言った。
 その直後である。
「なっ、何やってんの!!!」
 レオンを仕留めるための道具を磨いていたスイが、唐突にそれらを放り投げて立ち上ったのは。
「す、スイっ!?」
 顔面を擦りながら、フリックが立ち上る。
 瞬間、
「ま、マッシュ先生っ!!」
 アップルが絶叫した。
 床の上では、ヒックスの競技が終っていた。
 続いて入るはずのフリックの代わりに、マッシュが立っていたのだ。それも、しっかりと白い体操服姿に着替えてである。びしりと撫で付けた髪が、つやつやと光っていた。……が、その顔色は青い。
「死に掛けのくせに、何やる気になってんだよっ!!!」
 慌てたスイが、止めようとするが、マッシュは余裕たっぷりに大丈夫だとそれを手で制した。
「まままま、マッシュ先生……どど、どうして……っ!?」
 焦るあまり、言葉にならないアップルが、動揺してフリックにしがみつく。
 フリックも呆然として、まだ包帯が取れていないはずの軍師を見つめた。彼は青い顔色に構わず、手をあげて演技を始めることを示していた。
「ちょ……っ、レオンは何をしてるんだっ!」
 さしものスイも、このまま続けさせるつもりはないらしい。アップルに止めろと叫ばれるよりも先に、身体を動かそうとする。しかし、
「まー、落ち着けって、スイ。」
 がし、と、背後から羽交い締めにされた。
「落ち着けって、どうやって落ち着けと……っ!」
 マッシュの腹には、刺し傷がある。「命に別状はない」と本人も宣言しているが、それが完治しているわけじゃないことは、誰だって知っていることではないか。
 それなのに、こんなに体力の使う競技に出るなんて、自殺行為である。
 自分の軍師がそんなことをしでかそうとしているのに、止めない軍主が……と言い掛けたスイは、ふと顔をあげた。
 自分を羽交い締めにしている人物の声が──本来ならこの競技に選手として参加する人間のそれだったような気がして。
 はたしてそれは……正解であった。
「シーナ……お前っ!」
「シーナっ! お願い、マッシュ先生を止めてっ! 今すぐ先生と代ってっ! 傷が開いちゃうっ!!」
 きっ、と睨みつけるスイを見下ろしたシーナの背中に、アップルが抱き付く。そのまま揺さぶって、マッシュとシーナとを交互に見あげる。
 そんなアップルに、シーナは笑顔を浮かべて、
「大丈夫だって。マッシュさんが秘策があるって言うから、かわったんだ。ちゃんと無茶はしないって約束してくれたし。」
 アップルに安心させるようにそう言った。
 いぶかしむようなアップルを安心させるようにシーナは頷く。しかし、シーナに羽交い締めにされたスイは、んなわけあるか、と、自分を縛り付けているシーナの腕に、噛み付こうと歯をむき出しにした。
 シーナの言葉を聞いて、不安に瞳を揺らしながらも、アップルが小さく頷く。
「そうよね……マッシュ先生のことだもの……。」
 しかし、その言葉が終らないうちに、
「はぁっ!!」
 マッシュが、飛んだ。
 彼の身体が宙を回る。
 長身が床から離れ、足が天井を向く。そのまま、身体を捻ろうとした瞬間、
「は……ぁっ!? う……っ!」
 身体が急に強ばり、どさりっ、と横向きになってマッシュが落ちる。
 そしてそのまま、ピクリとも動かなかった。
「ああっ!!? 先生っ!!」
「あーっ! 言わんこっちゃないっ!!」
「あー……あー………………。」
 アップルが叫び、スイが怒鳴り、シーナが口を開け放したままそれを確認した。
 あせった一同の目の前で、マッシュは、苦痛を堪えるように腹に手を当て、辛そうに顔を歪ませる。
 ヒクヒクと動く肩や足が、まるで瀕死の重病人のようであった。いや、誰にも言ってはいないが、事実そうであったのだが。
「無茶しないんじゃなかったのーっ!!?」
「俺を責めるなっ! マッシュさんはそう言ったんだよっ!!」
「何考えてんだか……っ!」
 スイが飛び出す隣から、先に一陣の風が吹いた。
 何事かと見送った先で、走り去ったのがフリックだと気付いた。
 フリックは、倒れているマッシュの側にすかさず跪くと、辛そうにせき込んでいるマッシュの身体を起こし、
「大丈夫ですかっ、お義兄さん!」
 あせったようにそう尋ねた。
 マッシュは苦痛に満ちた表情でフリックを見あげると、彼の手を、物言いたげに掴む。
 スイは溜め息を殺しながら、シーナにマッシュが棄権するようにレックナートに伝えてこいと指示を出す。
 マッシュを舞台に立たせることを許してしまった元凶であるシーナは、素直に頷いてコート近くにある伝言機を手にした。
 おろおろするアップルには、リュウカンを呼んで来るように伝え、呆然としているヒックスとテンガアールの二人に、担架を用意するように指示を出す。
 ローレライとクインシーの二人が、隣のコートを走るオデッサを呼び止め、応急処置のための道具を求める。
 オデッサは驚いたように目を見開いた後、確かに床に倒れている兄と、その兄を支えているフリックに目を止めて、両手で口を覆った。
「もしかしたら、傷口が開いたかもしれない。とりあえず、タオルと包帯とガーゼを……。」
「あと、止血剤もいると思うな。」
 二人の声も耳に入らない形で、オデッサはその場に立ち止まって考え込むような表情をした。その後、強い意志をこめた瞳をあげて、競技を中断しているバスケットコートを振り返った。そして、
「ヨシュアさん、ミリアさん……竜の肝──万能薬だと聞いたことがあります。」
 真面目な表情で、二人を見た。
「……………………………………。」
 無言でヨシュアはオデッサを見た後、にっこりと笑った。
「オデッサさん。兄上が気になるのでしたら、どうぞ一時タイムを取って、あちらに行かれてもいいのですよ?」
「あら、提供はしてくれませんの?」
「できる相談と、できない相談というものがあります。元解放軍リーダーであるあなたならば、それくらいは分かっているかと思いますが?」
「無茶を承知で言っております。……兄は、解放軍の軍師。いわば要の一つ。──何を辞しても助けなくてはいけないのでは?」
 にこやかに会話を交わす二人に、ボールを持っていたフッチの肌が鳥肌立った。
 何か恐ろしいものを見たような感じがしたのは、気のせいではないだろう。
「……救急箱、探しに行くか?」
「の方が、早いな。……クインシー、頼む。私はマッシュ殿を見よう。」
 ローレライもクインシーも、さっさと見切りを付けると、その場を離れてそれぞれの目的地に走りだした。
 そんな事がすぐ隣で交わされていることに気付かず、フリックは、血の気のないマッシュの手を握り締めて、切々と訴えていた。
「安心して下さい、お義兄さん。オデッサの遺志はこの俺が必ず……っ!」
「フ……フリックさん……。」
 ごほっ、と咳き込みつつも、マッシュはフリックの手を握りかえした。
 思った以上に強い力に、フリックは明るい希望を抱きながら、大きく頷く。
「はいっ!!」
 マッシュの瞳に、強い光が宿る。
「私は……あなたを妹の恋人と認めた覚えはありませんっ!!!」
 かっ! と、瞳が大きく見開かれる。
「………………うう……う、う……っ!!」
 マッシュの手を握っていた手が、無理矢理剥がされて、そのままマッシュは気を失った。
 フリックがショックを覚えたように、一歩二歩と後退する。
 その時、ちょうどやってきたローレライが、フリックの肩を背後から支える。
「どうしたんだ、フリック?」
 真っ青になって、目を閉じたマッシュを見詰めるフリックの尋常じゃない様子に、何があったと、ローレライが詰め寄る。
 まさか、マッシュがもう……? そんな不吉な予感すら覚えたローレライに、
「そんな……っ。」
 フリックが瞳を歪めてローレライを見あげる。
 彼女はそんな彼の顔を無言で見下ろし、何が起こったのかだいたいの所を悟った。
「あー……はいはい。」
 そこで、仕方ないとばかりにフリックの頭を、慰めるようにポンポンと叩いてやる。
 そこへすかさず、
「何してるのっ! フリックっ!!」
 オデッサが怒鳴り込む。
「あ、オデッ……。」
 呟きかけたフリックの顔面に、再びバスケットボールがストライクした。
 ぽーんぽーん、と平和に跳ねるボールが、瀕死状態のマッシュの身体で止まる。
「……何が何だか……。」
 ローレライが、思わず空を仰ぎたくなったのも、仕方ないことなのであろう。
「脈は小さいけどあるね。……うん、呼吸も安定してる。」
 唯一、怪我人にするべき対応をしていたスイが、傷が開いていないか確認しようとした瞬間、がばっ、と頭をあげた。
 コートの隅に、涼しげな顔でレオンが立っていたのである──それも、敵方に。
 彼は、得意満面な表情で、
「ほれ見た事か、所詮マッシュも青二才。少し煽ってやれば、これくらいは……。」
 などと、のたまっていた。
 スイは、瞳を座らせて、ほほお、と呟いた。
「さっきから見かけないと思ってたけど……敵方に居たとはねぇぇぇ……。」
 ごごごごご、と擬音すら立てる悪しきオーラに、気を失っていたはずのマッシュが飛び上がる。
 蒼白な顔で目覚めたマッシュが見たのは、右手から毒々しいオーラを醸し出す、スイの後ろ姿であった。
「スイ、殿……。」
 引き攣った、弱々しい声で話し掛けたマッシュを無視して、スイはレオンにとびきりの笑顔を向けた。
「レオン? ──どういうつもりか知らないけど……覚悟は勿論、できてるんだよね?」
 笑顔であった。
 それも、凶悪なくらい美しい笑顔であった。
 後ろから、「逃げろっ!」 だとか、「危険信号最大レベルっ!」 だとかいう叫びが聞こえたが、勿論そんなものは一切無視である。
「あ……す、スイ殿……っ! いや、これはその……、なんというか……っ。」
「選手分け、実はわざとだったりするのかなぁ? ん?」
 愛らしく首を傾げつつも、目が笑っていない。右手が毒々しい。
 レオンが逃げを取ろうとするが、それよりも戦士として鍛えられたスイの方が早い。
 しゅん、と音もなく、棍の先がレオンの首に当てられる。
「まさか……っ、わざとなら、もっと効果的にする……っ。」
「だよねぇ? じゃ、どうしてかな? まーさーかー、レオンともあろう物が、敵方の将が足りないから、ちょっと向うに回ってくれるかしら? なぁーんていう、レックナート様の言いつけに従ってたりとか、しないよねぇぇぇ?」
 ぎくり、と肩が震えたレオンの仕草も、綺麗に見なかった振りをして、スイは彼を覗き込んだ。
「それとも? 選手分けした後に、どういう競技か知って、まずいことしたなぁ、とか、僕に何されることやら、とか思って、逃げるつもりもあったとか──? まっさかねぇぇぇ?」
 くい、と棍の先で、レオンの顎を上げてから、少年は右手を口元に当てた。そして、そっと唇を開くと、皮の手袋を歯で挟み、ぎ、と脱がす。
 目の下であらわになる、毒々しい……恐怖の対象である呪いの紋章に、レオンの背筋がしなる。
 スイはそれを確実に感じ取り、満足したような笑みを見せた。
 そして、愛しげに、彼の髭を撫でると、まるで睦言のように囁いてやった。
「……大丈夫……、まだ、食らわせたりはしないから……。」



 それから一分もしないうちに、オデッサが連絡用のマイクに向かって報告していた。
「レックナート様、レックナート様、こちらバスケットコートのオデッサです。
今隣で行われてました、床競技なんですけど、第一選手以外戦闘不能となりました。
え? 見ていた? あ、そうですか。え、ええ、マッシュは何とか大丈夫みたいですけど、フリックは気絶してます。シーナは戻ってきてませんし、レオンおじさんは、もうしばらくスイにいじめられてるかと……。
ああ、こうなるだろうと思っていた? レオンを敵の方に行くように言ったのは、なかなかいいアイデアでした? ………………はぁ、まぁ、そういうものなんですか……。」
 しばらくして、ぷち、とマイクを切った後、オデッサは無情にも宣言した。
「床競技の結果をお知らせします。
 レックナート様から、帝国兵に一票──レオンがスイにお仕置きされてるのが面白かったそうです。だから、レオンさんに一票ってことで。
 ウィンディから、解放軍に一票──フリックの顔面サーブが面白かったそうです。フリックの不幸は見ているだけで面白いから、一家に一人欲しいよとのメッセージが来ています。
 あと、テッド君から、帝国兵に一票。──スイに平気で(?)刃向かう勇気に乾杯、だそうです。……刃向かってるわけじゃないと思うんだけど……。
 それから、私……オデッサから……。」
 こほん、とオデッサは咳払いしてから、マイクを掲げた。
 その背後では、審判がいないので、休憩中になってしまったバスケットの選手が待っている。
「フリックを不幸のどん底に陥れ、なおかつマッシュ=シルバーバーグをそそのかし、瀕死まで追い込んだ……レオン=シルバーバーグっ!! あなたに、良くやった賞をささげまーっすっ!!!」
「──────いいんかいっ!!!!」
 思わず一同が突っ込んでしまったのも仕方ないことなのである。
 帝国に金メダル宣言とも言える、オデッサの言葉を聞いたスイは、棍の先でレオンを突つきながら、軽く首を傾げた。
「なんていうか……評価ポイントが、演技じゃないんだけど……?」
 尋ねるように、地面に埋まったレオンを見たが、生き埋め状態の彼に答えられるのは、
「元々演技なんてしてないでしょう……。」
 しか、なかったのであった。





 かくして、五勝三敗……、この奇妙な戦争から抜け出るまで、あと二勝……もしくは四敗なのである。


格闘競技へ続く