一面に広がる草原に、硬質な床が出現していた。
それは、フローリングで作られており、滑らかな表面は、しっかりと滑り止めも施されている。更に驚いた事に、ぴかぴかと磨きぬかれて光っていた。
「うわー、すっごい。」
陸上競技を覗き、遠泳の出発を見送ってきたスイは、暇つぶしにぶらぶら歩いていた足を止めた。
そして、広く取られた床のような物の出現に、驚いたように目を見開く。
床は、全部で二面あった。間が大きく取られており、向うには中央にネットが合ってあり、こちらの床には両端にボードのような物が置かれていた。
「これ、何?」
スイは、自分の足下で倒れ付している一同を見下ろした。
緑色の草原に埋もれる色の法衣を来た少年は、淡い金の髪を乱れさせて、はぁはぁ、と荒い息を吐いていた。
答える気力もないらしく、ぐったりとした白い肌からは、透明な汗がじっとりと滲み出ていた。
答えてくれない少年を、つんつん、と突ついていると、彼は重い瞼をあげて、ぎ、と睨む。それだけでも相当辛いらしく、そのまますぐに瞼を閉じてしまう。いつもの毒舌も、回るどころか出ても来なかった。
これは相当疲れているな、とスイは判断した。その彼の側には、愛猫に心配そうに覗き込まれているロッテが、うつ伏せに倒れていた。いつも元気な彼女らしくなく、肩で息をしている。相当消耗しているのは確かである。
確かここで行われる競技は、まだ始まっていないはずだが、と眉を顰めていると、
「ぐふっ……ったく、年寄りをこき使いすぎじゃ。」
まだ若い二人よりも上手く力をセーブしていたらしいクロウリーが、珍しく仰向けになって倒れながらぼやく。
いつも飄々としてる彼らしくなく、汗が滲み出ていて、息もそこはかとなく荒い。
「ほんと……。」
何とか答えるものの、ロッテ自身相当体力が消耗しているらしく、それ以上は何も言えないと、べた、と地面に額をつけた。
一体何が起こって、こんな風になっているのかと、スイがいぶかしげに辺りを見回すと、ふと床の具合を確かめているテッドに出遭った。彼はどうやらレックナートに頼まれたらしく、何やらカナヅチで叩いてはふんふんと頷き、紙に書いていた。
「何してんの、テッド?」
相変わらず意味不明のことをすると、スイはその隣にしゃがみこむ。見やると、向うのネットの張られたコートでは、同じ事をオデッサがしていた。
「あん? 床の具合を確かめてるんだよ。さっき、あのくそ生意気な魔法使いとその他二人が作ってたんだけど、どっかミスがないか見てるんだよ。」
「ははーん。つまりテッドは、ルックのあら捜しをしてるわけだ。さっすが300年の歴史。」
納得したスイに、
「そうそう。わっかい人の粗を探すのは楽しくって〜って、俺は姑かよっ!」
「やだな、テッドは男だから舅だろ(笑)。」
昔を思わせる軽口を叩き合いながら、スイは同じ様に床を叩いた。とりあえずテッドの手伝いをしようと思ったのか、ただ邪魔しているのか、同じ様にルックのあら探しをしたいのか、それは本人にしか分からなかったが、倒れている魔法使い一同にとっては、嫌みにしか見えない事だろう。
「それで、彼らが倒れているのは……これのためってこと?」
こんこん、とコートが普通の床と変わりない硬さなのを見てから、スイは後ろの一同を顎でしゃくった。
カナヅチを担ぐようにして立ち上りながら、テッドは今度は床の上で跳ねながら頷いた。
「おう。これを作って貰ったんだ。」
つまり、ルック達魔法使いが倒れているのは、レックナートによって、ここに「土や風、炎」を使って「コート」を作成したためだということだろう。
コート二面分である。これは相当労力を使った事であろう。確かにあのルックやクロウリーがへばっているのも判る。
「あのネットとか、ゴールとかは確かめないの?」
スイが、床を調べているテッドに尋ねると、
「ネットは、漁師が使ってる魚網使ってるし、バスケットゴールは既製品だし。調べるだけ無駄無駄。」
ひらひらと手のひらを振って答えてくれた。
「ふぅん…………って、バスケット?」
何で又魚網なんていうものを……と思いかけたスイは、眉を顰めて尋ねる。
「そう……って、お前何の種目があるのか、まだ見てないのかよ? ここは、バスケットとバレー用のコート。開始は一緒だぜ?」
「…………………………バスケットって、オリンピック?」
眉を細めて考えるスイに、テッドは軽く肩を竦めて見せる。
「さぁ? 今回のオリンピックも、レックナート様の好きなものをよりどりみどりらしいからさ。どうでもいいとも言うんじゃねぇ?」
こんこん、と床を叩いて、それがちゃんと均一の音を立てる事を確認していきながら、テッドは軽く舌打ちする。
「ちぇっ、どこもちゃんとしてやがる。あのくそ餓鬼にやり直しさせたかったんだけどな……えいっ。」
ごん、とカナヅチで強く叩くと、
「精魂尽き果てたって言ってるだろっ!」
すかさず背後から、怒りに満ちた声と共に風の塊が跳んできた。
それは狙い外さず、ごんっ、とテッドの頭に命中した。
「言い忘れたけど、ルックって地獄耳なんだよね。」
同じ様に床の感触を確かめていたスイが、頭を抑えるテッドに笑いかけた。しかし、彼はそんなスイの声を聞いてはいなかった。
「こぉのやろうー! てっめぇ、俺とやる気かっ!?」
「僕が? 君と? 野蛮人と一緒にしないでくれる?」
肩で息をして倒れているくせに、ルックは未だ余裕綽々である──声だけは。
「ルック、今にも倒れそうな顔で──ほらほら、テッドもそろそろ行かないと、オデッサさんはもう引き上げてるよ。」
実の所、このまま二人の喧嘩を見ていたい気持ちもあったのだが──テッドのことである。真の紋章を持つルックに対抗するには、やはり真の紋章で闘うであろう。そして、今テッドは何の紋章も宿していないとくる以上は……彼は、スイが宿している紋章を使うに決まっているのである。
こんなくだらないことに巻き込まれるのは、冗談じゃないのである。
「ちっ、命拾いしたなっ!」
「ちょっとテッド、人の108星殺すつもりは止めてよ。すでに死んでるくせに。」
「うおっ、お前、俺の死を心の傷にしてるんじゃなかったのかっ!?」
「いや、事実は事実として受け止めてくれないと困るし。」
テッドが捨てぜりふを吐くと、それに答える気力を持たないルックに変わって、スイが応えてやる。そのあまりの答えに、テッドが反論するが、スイが愁いた表情を作って言うと、しゃぁねぇなぁ、と、本当に仕方なさそうに肩をすくめる。
そして、言わなくてもいいのに、わざわざルックを向くと、
「今日の所はスイに免じて許してやらぁっ! だが次は覚えてろよっ! スイの右手の紋章が吠えるぜっ!」
「だから……。」
スイが突っ込むよりも先に、テッドは今ごろ苛立っているだろうレックナート向けて走っていった。
無言で見送って、スイはやれやれ、とルックを振り向いた。
ルックは気力で起き上がると、上半身を起こして座っていた。
そして、いつもの冷めた視線でテッドの後ろ姿を見やると、
「負け犬の遠吠えだね。」
と、鼻でせせら笑った。その声が少し上ずっていたのは、ルックの名誉のためにテッドには伝えないでおいでやろう。
「あははは……ルック君の勝ちー……って、私もう駄目──ルック君、時間になったら教えて。」
隣に倒れていたロッテは、力なく笑ったのだが──その後、パタンキューと倒れてしまった。
にゃぁ、とミナが小さく鳴いたが、ロッテはそれに答える事はなかった。
ルックは「はいはい」と面倒そうに言った後、ロッテが昏倒したのを確認してから、
「そのまま永眠してな。」
と、呟いた。
彼は相当げんなりしているらしい。
「軍主殿以上のこき使いじゃな。」
クロウリーも、何とか気力を取り戻したのか、安定した呼吸を繰り返していた。
面倒事に嫌気が差しているのは、見て判った。きっと彼は、この一連の戦争が終ったら、再び隠遁生活に帰るのであろう。
「あっはっはっは、仕方ないよ、ルックの師匠だし♪」
自分がこき使っている事は、否定どころか反省する気もない軍主殿は、笑ってそう言うと、
「あ、そっか。」
何時の間にかうっすら目を開けていたロッテが同意した。
彼女はぼやけるような視線を空に向けて、小さく笑う。けれどその声も喉に詰ったように力なかった。
「納得するなよ、単細胞。」
まだ起きてたのかと、ルックが目を細めて睨むと、
「だぁれが……っって、あう……駄目、怒る元気もない。」
怒りに起き上がりかけたロッテは、再び撃沈した。
心配そうにミナがロッテの顔を舐めている。しかし、彼女はもうそれ以上起きる元気はないらしく、うう、と呻きをあげるだけであった。この様子では、回復するころにはオリンピックは終っているかもしれない。
「ところで、バスケットって誰が参加するの?」
場を和ませようとしてか(いや、この軍主に限ってはそれはないだろうけど)、スイがあっけらかんとしてルックに尋ねる。
「さっき、あの300年の若作りも言ってたけど、君、選手表くらい見たら?」
選手分けを行ったのがスイでないことは、確実である。もしスイがやっていたのなら、もっとまともなメンバーになっていただろうという種目が山ほどあるからである。
面倒だからと、スイが負ける気で組み合わせたということも考えられるが、今回はそれはないであろう。最終決戦の前に、帝国側に負けるような作戦を練るはずはない。おそらく、オリンピックというのが何なのか、競技の内容も分からないままに、軍師やその他の幹部どもが決めてしまったのに違いない。──軍主にまかせると、ろくなことにならないから、と。
それが今回に限っては間違いなのであったが。
「だって、持ち歩くの面倒だしさ、選手変更はできないって言われたから──見て胃を痛めるくらいなら、直接見て回った方がいいじゃないか。」
全く持ってその通り。スイにしては真面目な台詞であった。
おそらくルックでもそうしたであろう。
「ダブル騎士だよ。」
だから、ルックは特に何か嫌みを言うでもなく、正直に教えてやった。
「ふぅん……竜洞騎士団と、マクシミリアン騎士団……か。」
スイは、その組み合わせに、成る程ねぇ、と呟いてルックを振り向いた。
それも素晴らしい笑顔であった。
「で? ルックはやらないの? バスケット?」
「冗談……面倒事は今ので十分だよ。」
ひらひらと手を振ると、彼は疲れた表情を隠さず溜め息を吐いた。
確かに、これ以上身体を動かせたら、死んでしまいそうである。
さすがにそれはまずいと思ったのか、
「それもそっか。」
案外素直に頷いて、スイは選手が集まっている一角を視線で見やった。
そこは、すでに体育会系の世界が広げられていた。
「そのいーちっ! 正々堂々と勝負をすることっ!! 復唱っ!!」
りんっ、とした声が辺り一面に響いた。
ややしわがれた、しかし良く通る声は、辺りの空気をビリリと震わせる威力が在る。
細身の、この年老いた男に、これほどの威力ある声が出せる事に、正直驚いた者も多いだろう。彼が若き頃、優秀な騎士として名を馳せたというのも理解できるものである。
しかし、今や曲者だらけの解放軍に身を置くこのご老人の前にいるのは、ただ二人だけであった。
他の戦場でなら、重宝されるであろう「マクシミリアン」騎士殿も、この解放軍では、普通の人なのである。
「せいせいどーどーと……って、何でこんなこと言わなきゃ駄目かな?」
全く、と幼い顔立ちを歪めるのは、クロンであった。彼は解放軍で一、二を争う突撃力を持つマクシミリアン隊に、何故か所属している一見普通の少年であった。しかしその実態は、何かの名前を呼ぶことに命を賭けているという、おかしな気性だけで生きているという、曲者の一人であった。
その彼は、マクシミリアンに構わず、ふと近くにいる、応援に来たらしい兵士に笑いかけた。
「あ、ハイ、皆さん。こちらがくだんのバスケットコートでぇっす──って、誰か名前つけてくれないかな、これに。」
にこやかに説明しながら、クロンは先程出来たばかりのコートを見やった。
いまなら、先着二名様が名付け親である。
クロンの呟きを聞いてはいないサンチョが、太った体を揺らして、不安そうにマクシミリアンを見た。
彼はクロンが復唱していないのをなんとも思わず、続けてそのにーっ、と叫ぶ。
「ああ、だんな様っ! あまりはりきりすぎますと、血圧が……っ!」
マクシミリアンの血管が浮き出たのに気付いて、サンチョが心配そうに駆け寄る。
それを示して、笑顔でクロン。
「あ、こちらボールでございまーす。」
「ええっ!? それはあまりにも……。」
慌てて振り向いたサンチョが情けなさそうに振り返る。その間にも、マクシミリアンは血管を浮かしながら、そのさんっ、と続けた。
遠目にその様子を観察していたルックが、
「言い得て妙。」
と、納得したのに、
「何言ってんだよ。かわいそーだろ、サンチョさん。」
選手の集まりのためにやってきたフッチが、眉をしかめてルックを見下ろした。
どうやら倒れているルック達が気になって、先にこちらの方にやってきたようである。
彼は同じ様に遠目にマクシミリアン達を見て(どうやら彼も向うには行きたくないらしい)、
「せめてポークボールにしとかないとっ!」
しかし、フッチが続けて言った台詞は、クロンよりも酷かった。
「ああ、成る程。」
君もなかなか良い事言うじゃないか、とルックが綺麗な顔に笑顔を貼りつかせると、
「こらこらこらこら。」
呆れたような口調で、同じ様に集まりにやってきたヨシュアがワルガキどもをたしなめた。
遥か向うで、マクシミリアンの「そのごーっ!」という声が響いた。
「あ……すいません、ヨシュア様。」
久しぶりに近くで見る竜洞騎士団の団長の姿に、頬を染めながら、フッチが珍しく素直に謝った。
一緒に動けるのかと思うと、ドキドキすらした。竜洞騎士団に居た頃は、団長と一緒に動けるなんてまずありえない。それが、こんな形で叶うとは、と、フッチの胸が張り裂けそうに高鳴っていても仕方あるまい。
だがしかし、謝る相手が間違っていた。
ここでサンチョに謝れと言うのが正しい事なのだが──サンチョは今のフッチの言葉を聞いてはいない。例え謝ったとしてもサンチョは意味が分からないに違いないのだ。
そして、どうして謝ったかの理由を聞いて、傷つく事間違いなしである。勝負前に仲間の精神状況を悪くするのは、好まないことである。
だから、何も言わずヨシュアは頷いてやった。
そして、子供に諭すように、言われた相手の気持ちを考えた発言をするようにと、指導した。
心の中で、解放軍に参加する前はこうではなかったような気がする、と考える。
この分で行くと、フッチの将来が心配極まりなかったが、ハンフリーのあの無言なまでの圧力に期待するしかないのも、判っていた。
とりあえず戦争が、フッチの性格をゆがませる前に終る事を願おう。
ヨシュアは、まだ素直な面を見せて頷くフッチの頭を撫でながら、誰にも分からないように溜め息を零した。
その時である。
「ヨシュア様、相手の者が来ませんが?」
ミリアが、す、と近寄り、主を見あげたのは。
その目は鋭く、相手の出方をうかがっているように見えた。
彼女が戦いに赴く時に見せる視線であった。この遊びとしか見えない戦争を、彼女が「戦」として認識しているという証であった。
相手は卑怯なことばかりをする魔物兵である。このオリンピック──一応選手宣誓はしてはいるものの、正しい手段を使うとは考えられない。
仲間が傷つけられたり、痛めつけられたりする可能性だってあるのだ。
特にヨシュアだけは傷つけさせるわけにはいかない。ミリアは顔つきも険しく、コートの向かい側を見た。そこには、相手側の控え場所があるはずであった。
ちなみにこちら側の控え場所は、マクシミリアンの怒号の餌食にされているため、誰も近寄ってはいない。
相手方の選手の場所には、一人の男が立っていた。どう見ても選手と言うよりは、審判と言った方がいいような寂しい感じの男であった。
線の細い感じのする──媚びた感があるその男以外、誰もいない。
「……何かあったのかもしれんな。」
ヨシュアも用心深く呟く。その目は、警戒を宿している。相手側を見やる目も厳しい。
何せ、そこに立つ男は幹部という感じもしない、媚びた風体の男である。一体相手が何を考えているのか読めない分だけ、慎重に考え、行動をせねばならなかった。
ヨシュアとミリアの二人が、互いに並び立って真面目な表情で向かい側を見ている隣で、
「はいはいっ! ところでヨシュア様っ! バスケットって、何ですか?」
フッチが、明るく尋ねた。久しぶりにヨシュアに話し掛けられる(しかも今ここには解放軍メンバーしかいなく、竜洞騎士団内にある親衛隊なるものも存在しないため、話し掛けるもの気安い)ため、声が本当に嬉しそうであった。尻尾があったら、振られていることはまず間違いない。
が、その楽しそうな表情も、
「そんなことも知らないの、君?」
隣で馬鹿にしたようにせせら笑うルックの言葉に、ピキ、と固まった。
ごごごご、と暗雲を背負って振り返ったフッチの前で、ルックは目を眇めて見せた。
先程まで死にそうな勢いでコートを作らされていた身としては、今から闘う存在であるフッチがそんなことを言い出すのに、密かに苛立っているのは確かであった。
「頭の中身、代えてきたら?」
言葉よりもその視線があまりにも冷たくて、
「! お前には聞いてないだろっ!!」
思わず叫んで、フッチがぷい、と横を向いた。
そして、ヨシュアを見あげた。ふくれた子供のような表情で、ヨシュアにバスケットの説明を求める。
ヨシュアは苦笑いを浮かべながら、簡単にルールをフッチに説明してやる。
「ボールを突きながら、相手のゴールまで運び、投げ入れるゲームだ。その得点で争うのだが──。」
そこまで説明して、ヨシュアはふと気付いて、コートに作られたゴールを見あげた。それはまるで嫌みで作られたかのように、フッチの身長から考えると高すぎた。
ルックの態度と同じように高いゴールであった。
フッチには不利かもしれないな、とヨシュアは厳しい表情で思う。それを口にするかどうか考えるヨシュアに、
「フッチはジャンプ力がありますから、大丈夫ですよ。」
ミリアが微かに口元を綻ばせて答えた。
その微笑みの影に、例えそのジャンプ力があったとしても、届くかどうか、という疑問が見え隠れしていたが、それを悟ったのはヨシュアだけであろう。
ヨシュアは短くそれに頷き、そうだな、と呟いた後、
「それよりも、今の問題は相手の方だな──あの男……。」
何といったか、と彼は、偉そうに髭を整えている男を見やった。
このまま相手が来なかったのならば、こちらの不戦勝ということになるのだが──と、不意に、背中がゾクリ、と冷えた。
何が起こるのかと咄嗟に身構えたヨシュアとミリアが振り返りきる前に、ヨシュアの肩口で、
「殺していいよ、あの男。」
ぼそり、と、死神の声が聞こえた──。
地獄の底から響いて来るよりももっと深く──奈落の底から聞こえてきたような声であった。
「…………っ、スイ殿……。」
二人がゾクゾクする背筋を堪えながら振り返ると、声の主が戦場でしか見ないような冷ややかな眼差しをして立っていた。
陰のこもった瞳を持ったスイは、まさに死神そのものの姿で、男を睨み付けている。
──先程から静かだと思ったら、と、二人は冷や汗が流れるのを感じつつも、スイの視線の先を見やった。
「お知り合いなのですか、スイ様?」
ミリアが再び向けた視線の先にいる男を見る。彼はぬけた髭をつん、と捨てていた。その仕草もどことなくいやらしさが漂っている。
人間味のいやらしさという奴である。
そういう男とスイに、接点があるようには見えない。どう見てもあのテオ=マクドールの知り合いには見えないし、スイがああいう手の男を相手にするとも思えない。
しかも、先程口にした台詞が台詞だし。
疑問に思いつつ尋ねたミリアは、そう口にしてしまった自分が間違っていたのだと悟る。自分を見たスイの微笑みが、あまりにも陰気で恐ろしかったから。
百戦錬磨の猛将である戦士だったとしても、あまりの恐怖に鳥肌立つ事間違いなしである。現にミリアの肌が、ぞぞっ、と震えた。
「クレイズ──帝国に居た時、ちょっとね。……知りたい?」
うっそりと見あげるその眼差しに、ミリアは命の危険を感じてかぶりを振った。
もしここで、「とっても知りたいですv」なんて言おうものなら、どうなることか判ったものではない。もしかしたら、帝国との戦争の前に、解放軍内で禁断の紋章と恐れられている紋章の、餌食第一号になってしまうかもしれない。
「クレイズ……と言うのですか、あの男は。審判役──ということでしょうか。」
かろうじて、ヨシュアが凶悪なスイの意識を戻す。
このゲームは最低五人で行われる物のはずだ。だから、彼一人が相手役だと言う事はないはずである。
そう思ってのヨシュアの台詞に、
「あんなのが審判役だったら、ヨシュアたち全員、あっという間に退場にさせられるよ──濡れ衣でね。」
吐き捨てるように呟いて、スイは髪を掻き上げる。
そして、面倒そうな視線をフッチに送ると、フッチはびくぅっ、と肩を揺らした。おそらくこのメンバーの中で、あの「クレイズ」という男に会った事があるのはフッチくらいの物である。あれが、どういう役割をしていて、ここまでスイに悪印象を抱かれているのか、フッチは良く知っていた。
何せ、スイの初任務の時──ブラックをつれて待機していたフッチの元にやってきたクレイズを一度見ていたし、テッドがクレイズのことで文句を言っていたのも、しっかりと耳に入れていたからである。
もしかして、口止めでもされるのだろうか、と密かに胸をドキドキさせたフッチに、スイは短く告げた。
「どういう手段を使われても、絶対勝てよ。」
にっこり、と笑って肩を叩かれて──……フッチは、愕然と目を見張った。
そして、あうあう、と口を開け閉めさせて、ヨシュアを見あげた。
助けを求めるようなその視線に、ヨシュアはかろうじて微笑んで、
「勝つための努力は惜しみませんよ──さぁ、フッチ。身体を動かせて、準備をしようか。」
フッチを恐怖の大魔王から遠ざけるために、少年の肩をポンと叩いた。
ミリアがそれに頷いて、
「それでは私がボールを借りてまいりますね。」
と、道具係の方角向けて走り出した。
始めは準備運動だぞ、とヨシュアに言われて、フッチが大きく頷いているのを見送りながら、スイは小さく舌打ちした。
「あんまり怖がらせると、余計に身体が動かなくなるよ。」
座り込んだ姿勢をそのままに、ルックが忠告を入れる。彼としても、ここまで苦労したコートがある以上、解放軍に簡単に負けては欲しくない気持ちがあるのだろう。
それにスイが笑みを馳せながら、
「しょうがないじゃない、本音なんだから。」
死神そのままの笑顔を見せてくれた。
ルックは無言でそれを見あげてから、
「それじゃ、あっちにも言っておいたら?」
顎で、選手控え場所をしゃくった。
年老いた男の叫びは、すでに「そのにじゅうよん」まで行っていた。
スイは無言であっちを見やって、
「あれは、やる気だから、これ以上油に火を注ぐ必要なし。」
と、もっともな事を言うのであった。
かくして、バスケットは始まった。
しかし、審判役はクレイズではなかった。その役を買って出たのは、オデッサである。
彼女は審判の服を着て、笛を首から下げて、ボールを片手にコートに入って来ると、
「あら? 帝国側の選手はあなた一人なの、クレイズ?」
眉をしかめる。
さすがに一人しか選手がいないとなると、このまま試合を始めるわけにはいかない。
オデッサは解放軍側が一列に並んでいるのを確認してから、もう一度クレイズを見た。
クレイズは、にやにやと笑っていた。何やら自身たっぷりな様子である。
「クレイズ……そろそろ始めたいのだけど──選手があなた一人なら、ここは残念だけど帝国の試合放棄とみなさずにはいられないわ。」
こんな形で勝負の決着が着くのは、オデッサとしても楽しくはないのだけど、と──彼女が言い掛けた時。
「くはーはっはっはっはっはっ!!!」
クレイズが、唐突に笑い叫んだ。
その癪に触る笑い声に、先程から神経を刺激されていたスイが、右手を掲げる。
慌てたようにロッテに抱き付かれながらも、放せ、とか叫んで居た。ちなみにルックはスイを応援して、クロウリーに止めなさいと止められている。
「クレイズ?」
オデッサが苛立つように彼の名前を呼んだその時、唐突に上から激しい羽音が振ってきた。
はっ、と一同が目線をあげると、そこには10人くらいの人型のモンスターがいた。全て背中に羽根を持っていて、バサバサとうるさい音を立てながら、下りて来る。
「あれは……っ!?」
まさか、と顔つきを険しくさせたヨシュアに、
「あれが帝国の選手だっ!」
クレイズが、勝利を勝ち誇ったように宣言した。
「何……っ!?」
「ひ、ひっきょうーっ!!」
「うわー……駄目なんじゃない、あれ?」
「なんと! これは一体どういうことじゃっ!」
「ああ、だんな様、あれじゃ……。」
解放軍側から上がるのは、クレイズを非難する言葉ばかりであったが、クレイズはそれすらもおだてに聞こえているようであった。
嬉しそうに笑みを崩すと、
「はっはっはっ! ルールに、飛んでは駄目とは書いてないからなっ!」
そう高らかに笑った、
オデッサは無言で翼あるモンスターを見上げて、溜め息を零した。
どうせこんなことだろうと思ったわよ──所詮は腐ったみかんよね。
そのまま、オデッサは懐からタイムウオッチを取り出した。
そして、確認するようにヨシュアを見やる。
「確かに、ルールに否定する項目はありません。ですから、このままゲームを始めますが……よろしいですか?」
今この時点で、選手を代えることはできない。
そう判っていて、オデッサは尋ねた。心の準備は大丈夫かと、そう聞いたつもりであった。
ヨシュアは無言で翼あるものを見上げると、
「竜を使うのは──違反ですね。」
そう呟いた。
「ええ、竜は選手ではありませんから。」
手短に応えて、オデッサは片手に持ったボールを掲げる。
「ならば……例えどれほど手強かろうとも、こちらもチームワークを使って切り抜けるだけですね。」
出来る事なら、ルックやロッテ、クロウリーなど「一応補欠」にランクされている面々を使いたかったが、魔法使いチームは全て死に掛けている。今すぐに立つ事は無理であろう。
限られたメンバーで勝つには、戦略とチームワークが物を言う。
何とかなるだろうかと、ちらり、と一同を見やるが、
「最低だよな、あいつ。」
「髭がビヨンって感じ?」
フッチとクロンが仲が良いような、意味が通じていないような会話を交わしている。
「あのような輩には、わしゃ負けんぞっ!」
「だんなさまー、血圧があがりますー。」
マクシミリアンとサンチョの主従は、相変わらずであったし、
「………………こちらも跳んでみますか?」
ミリアも、他に考えつかないような様子で、吐息をついていた。
「…………これは、────手強いな。」
ヨシュアは、ただそう低く呟くことで、オデッサの視線に答えるのであった。
オデッサが投げたボールが高々と舞う。勿論それは、跳んだヨシュアよりも高く、先に──というか、最初から浮かんでいた選手その一によって仲間にパスされた。
それを見越していたミリアが、その選手の背後に回る。しかし、選手はボールをつく事もせず、そのままボールを持ったままゴール向けて跳んでいく。
「審判っ! あれはファールではないのかっ!?」
叫んだヨシュアに、
「でも、歩いてませんから。」
オデッサは選手たちと一緒にゴールめがけて走りながら、そう答えた。
オデッサとて、出来る事ならファールを付けたいのだが、相手が飛んでいて、歩いていないのだからしょうがない。一歩でも足を動かしたり、地面に足をつけたりしたのなら、トラベリングというファールも取れるのだが──いかんせん、その可能性もない。
ふーらふーらと、5番のゼッケンをつけた選手は、床の上にいる解放軍を嘲笑うように飛び、そのままゴールの上まで来ると、ぽん、とボールを入れた。
はっはっはー、と笑うクレイズの声がカンに触った。
オデッサは溜め息と共に笛を鳴らす。
「帝国、2点先取。」
声に反応して、得点板に点数が灯った。
「くそ……っ。」
フッチがあらあらしく舌打ちをして、出てもいない汗を拭った。
「ぬぅ……どうする、ヨシュア殿。」
ゴールしたボールを手にするオデッサを見て、マクシミリアンがキャプテンであるヨシュアに尋ねる。
ヨシュアは、厳しい表情で、
「とりあえず、向うがゴールしたならば、こちらのボールになります──ここで、三点取りましょう。」
言い切った。
向うが二点取ったのなら、こっちは三点取り返す。そうしていけば、点数はあるはずだ。
見た所、クレイズは翼がある、というだけでメンバーを集めたようである。スポーツに関する分はこちらにあるように見えた。
ならば、こちらがボールを掴み取るチャンスをフルに活用するのが一番に決まっていた。
「ミリア。ボールを頼む。」
言い捨てて、ヨシュアはバサバサと飛んでいるモンスターが下りて来るのを見やりながら、すす、と足を進めた。
そして、ゴール下にミリアを置いて、一同に合図を飛ばす。
フッチがコートの真ん中程で待機し、マクシミリアンとクロンがゴール下の半円の中に立つ。そしてヨシュアは、ややゴール寄りの場所で、ジリジリとガードを剥がすために足を進めた。
オデッサが、ボールをミリアに渡す。
ぴ、と笛がなり、ミリアはクロンが走り出す方向向けてボールを投げかけるが──すぐに方向を変えて、向うのゴール向けて走り始めかけていたヨシュアに鋭くパスを出す。
刹那。
「速攻!!」
ヨシュアが一声叫ぶ。
応えてフッチが走り出す。
コート端を、誰にも邪魔されずヨシュアが駆け抜ける。
ミリアもパスと同時に走りだしていた。
マクシミリアンとクロンが、囮となって動き始める。
唐突の攻めに、あせったような敵方の選手達を惑わすように、中ほどでゴール間近まで走っていたフッチにパスを出す。
フッチはそれを受け取ると同時、自分のすぐ背後に来ていた敵をよけながら、ヨシュアの駆け寄ってきた方向とは逆の場所に、何時の間にか立っていたミリア向けてパスを出す。
ワンバウンドした鋭いパスを受けて、ミリアは一歩後退した。
そして、半円よりも外──スリーポイントゾーンから、しゅ、とシュートを繰り出した。
その螺旋は、見事であった。
決まる、と確信したヨシュアが、リバウンド待ちの体勢で笑みを刻んだその時。
ぱす。
飛んできた一体が、ミリアの投げたシュートを受け取った。
「………………んな……っ。」
「審判っ!」
叫んだヨシュアに、その気持ちは判るけど、と、オデッサが肩をすくめる。
「シュートの螺旋が、山を越えていないから、セーフです。山を越えた後だったら、アウトだったんだけどね。」
残念ね、とオデッサが呟く。
そして、一同はシュートを受け止めたモンスターが飛んでいく先を見た。
そこは、向こう側のゴールであった。
かくして、
ぴぴー。
「帝国側に二点追加。」
オデッサは、始まって一分も立たないうちに、二本めのシュート成功を宣言したのであった。
「あーあ、放っておいていいの、あれ?」
珍しくただ見ているだけのスイに、ルックが尋ねる。
スイはバレーの方を見学して、時々揶揄を零しているだけで、バスケットの方には興味がないようであった。
ただ単に、相手がクレイズだから、見たくもないのかもしれなかったが。
「え? ああ、バスケット? 大丈夫だろ──キャプテンは、ヨシュアなんだしさ。」
いくら竜洞騎士団の団長で、真の紋章持ちであろうとも、ルールは代えられない。そして、不利な相手と言うのも存在するのである。
「………………。」
何も答えず、ルックは再び後ろのコートを見やった。
そこでは、フッチがボールを構えて敵方の動きを伺っている姿があった。
「どうせすぐに気付くよ──クレイズの作戦は、穴明きだってことにさ。」
スイがルックの求める答えを口にして、それよりも問題はこっちだよね、とルックの視線をバレーコートに戻した。
白熱したママさんバレーと化しているコートは、魚の匂いに溢れていた。
「問題って何だよ?」
別に解放軍が負けているようには見えないのだけど? と、ルックが尋ねると、
「魚網が生臭くてたまんないんだよ。……風上行かない?」
真剣な表情で、スイは提案した。
フッチは、ゴールの下で汗ばみながら、右へ左へと動く味方の動きを見ていた。
頭の中には、先程囁かれたヨシュアの台詞があった。
マクシミリアンに投げたら、すぐに向うのゴール向けて走れ。
命令は、ただそれだけであった。
マクシミリアンは、ヨシュアとミリア、そしてクロンの動きによって、ガードが甘くなっている。
だが、どうせ投げたとしてもすぐにあのような結果になるに決まっているのに──と、フッチは不安が頭をもたげるのを感じた。
スイならきっと、こう言う時、卑怯極まりない技で勝つのだろうけど……大丈夫なのかな、と、戸惑うフッチに、
「フッチっ! 時間がないっ! 早くっ!」
敵を欺くためか、ミリアが自分に寄越せとレクチャーする。
それに応えて、慌てたように敵方の選手がガードに走って来る。
そうだ、時間がない。いつまでもボールは持っていられない。
ということは──やるしか、ないのである。
今はただ、ヨシュアを信じるしかない。
きっ、と、フッチはマクシミリアンを見た。彼はうまいことに、ノーガードであった。
「ヨシュア様っ! 信じてますっ!!」
フッチは、えいっ、と力いっぱいボールを投げる。それは上手くマクシミリアンの前に落ちた。
マクシミリアンはそれを受け取り、二、三度突いたかと思うや否や、すぐさま隣を駆け抜けたミリアに手渡す。
ミリアはそれを受けて、ドリブルしながら駆け抜ける。
フッチは真ん中を駆け抜ける。
またさっきみたいな手を使うのだろうか……?
そんなことが通じるのだろうかと、不安がよぎるが、
「ゴール下で、ヨシュアさんにパスしろってさ。」
不意に、クロンが隣に並んで、そっと囁く。
え? と見やった先で、クロンがフッチについてきていたガードを引き受ける。
それを見てとり、フッチはそのままゴールに向けて走った。
そして、たどり着いたと同時、ミリアから、鋭い一声が放たれる。
「フッチっ!」
「!」
振り返ると同時、ビリリと手のひらがしびれるほどの痛いが走った。
見ると、手の中にボールがあった。
遅れて、ジンとした感触とともに、ボールの重みがあった。
あ、と思ったフッチの背後から、素早く近付いて来る人がいた。
その人が誰なのか悟った瞬間、フッチは手のひらを差し出していた──駆けてきたヨシュアがボールを手にするために。
だんっ!
床が音を立てる。
フッチの目の前を、しなやかな筋肉が跳んだ。
それは、翼があったとしても邪魔できない空間──ヨシュアは、両手でボールを持ったまま、ゴールに叩き付けるっ!
ざんっ!!
「……っ!」
よし、と誰かが叫んだ気がした。
呆然とするフッチの前に、ヨシュアの身体が降り立つ。
彼は、満面の笑みを浮かべて、フッチの頭を撫でる。
「良く分かったな……。」
フッチの耳に、その声が聞こえたかと思うや否や、ボールが跳ねる音が届いた。
それは、軽やかに床を跳ねている。
「あ……。」
振り返った先で、オデッサがそのボールを手にしながら、
「解放軍二点っ!」
ぴ、と、笛を鳴らした。
「なぁるほど……ダンクかぁ。」
投げたボールが奪われるのならば、奪われないように直接ボールを叩き付ければいいわけである。
そういうことか、と納得したロッテが、ごろん、とうつ伏せになって地面にひじをついた。
彼女の頬を、擦り寄ってきたミナが舐め始める。
「それだけじゃないな。」
クロウリーも、やっと身体を起こすくらいの体力を取り戻したらしく、上半身を上げると、にやり、と笑う。
「翼ある物とて、ゴールされた後は、どうしても地面からパスせねばならん。」
「へ?」
「そして、空に飛んでいる仲間にパスするのは……そう生半可にはいかんさ。」
何せ、相手は、空を得意分野とする竜洞騎士団なのだからな。
クロウリーの台詞に、慌てて見たロッテの視線の先で、彼の言葉通り、最初のパスを軽く奪ったミリアが、そのまま速攻でドリブルシュートを決める様が映った。
それも見事に、受け止められることのないように、ゴール間際で手放し、リングに触れるようにしてシュートが決まっている。
すとん、とコートに足を付けたミリアは、何事もなかったかのように顔をあげた。
しかし、その表情は、始まった時とは異なり、勝利の確信に満ちたものであった。
それはミリアだけではなく、ヨシュアも、フッチも──マクシミリアンもクロンも同じであった。
あとは、敵にボールを渡さず、着々と点数を重ねていくだけであった。
すでに……始まってまだ10分もたっていなかったが、勝利は決まったような物であった。
最初から盛り上がっているのは、やはりメンバーにおばさんがいるからなのだろうか?
まだ相手チームが集まっても居ないうちから、早々にメンバーが集合したかと思うや否や、オニールやマリーの仕切りを始めとして、一同が円陣を組み始める。
そしてやおら、
「よいしょーっ! こーらせっ!!」
という、掛け声をあげた。
思わずカクンと力が抜けてしまったのも仕方のないことである。
「なんだよ、その掛け声は。」
円陣には参加しなかったジョルジュが、呆れたように尋ねると、マリーがいやね、といつもの愛想笑いを浮かべて、
「他に面白そうなのが思い付かなかったからさ。」
と答えた。
果たして面白いというだけで気合が入るかどうかは、話が別である。
「さぁって、気合も入った事だし、真面目に練習でもするかよっ!?」
笑いながら、はちまきを締め直すサンスケが前を見た。それに答えるのは、恰幅のいい腹を揺らして笑うマリーであった。隣ではいつのまにか試合のために着替えたオニールがボールを持っていた。
「はっはっはっはっはーっ!」
ルックとロッテ、クロウリーが必死に頑張って作ったコートでは、スタリオンが走っている。彼曰く、コートに慣れるためには走り込みが必要なのだそうだ。
「えーっと、シルビナね、キルキスのために、スポーツドリンクって言うのを用意したんだけど。」
選手のベンチを陣取っているのは、シルビナである。彼女は銀の髪をひとつにまとめて、真面目に選手参加するつもりらしい。愛する将来の夫を見あげて、手にしていた水筒を揺らした。
ちゃぷん、と音を立てるそれに、キルキスが嬉しそうに瞳を細める。
「ありがとう、シルビナ──でも、それは一体どこで用意したんだい?」
このオリンピック会場になってから、何が起こるとも限らないとばかりに、ずっとシルビナを守っていたキルキスである。彼女がこんなものを用意していたらすぐに気付くのだろうけど?
まさか戦争前に準備したということだろうか? しかし、それを戦争中に飲んでいる暇などないのは、彼女だとて分かっているはずなのだが──。
不思議そうに尋ねたキルキスに、シルビナが無邪気に笑う。
「あのね、もらったんだよ。」
「…………さっき、そこでカナンとかいう紅い男から受け取っていたぞ。」
ぼそり、と隣からルビィが呟いた。……見ていたなら止めろよ、と突っ込む者は不幸にして近くにはいなかった。
瞬間、キルキスはシルビナから水筒を奪った。
「あ、飲む? キルキスぅ?」
そして、嬉しそうに尋ねるシルビナに、ひきつった笑顔を浮かべると、
「シルビナ……カナンっていうのは、敵の人だから──その人から物をもらっちゃ駄目なんだよ?」
そう諭した。
しかしシルビナは分からないのか、軽く首を捻って、
「でも、お疲れ様ですって、差し入れてくれたし?」
「…………馬鹿……?」
後ろからジョルジュが尋ねたが、それをキルキスは無言で黙らせて、シルビナを説得するのに再び労力を費やし始める。
そんなバカップルをしばらく見学していたルビィだったが、
「あの水筒、なんか秘密の匂いがする。」
いつのまにか後ろに忍び寄ったマルコの一言に、ああ、と呟いた。
そして、こっくりと頷いてやると、
「重要な水筒なのだそうだ。」
と、教えてやった。余計なお世話という奴である。
マルコの目がキランと光り、彼は早速、焦ったようにシルビナに「いけないこと」を説明しているキルキスの背後に近寄る。
その手が閃いたのを、ジョルジュもルビィも認めた。瞬間、ジョルジュが小さく口笛を吹いたが、シルビナに一から教育しているキルキスにはまるで分かっていなかった。
マルコは楽しそうに水筒を抱えてやって来ると、
「なぁにが入ってるんだろ?」
うきうきと、早速それを開けた。
瞬間、水筒の中から、モクモクと煙が噴き出した。
「おおっ!? なんだっ!? 温泉でも発掘したのかっ!?」
驚いたようにサンスケが駆けて来る。
マルコは水筒を放り出して、煙の行方を見た。
それは空に向かってなびいていき、大きく文字を描いた。
「…………あほがみーる、ぶたのけっつ………………うわ、ちいせぇ……。」
思わず読んだジョルジュが、そうぼやいたのも仕方あるまい。
「なんだ……ただの煙か。ちぇっ、つまんねぇの。」
煙が出切って空になった水筒を蹴ると、マルコはやれやれと溜め息を吐いた。
ルビィは蹴られた水筒を取ると、とりあえずそれをキルキスとシルビナに手渡す。
「何も入っていなかったぞ。」
わざわざ二人に戻してやった。
シルビナはそれを聞いて、顔を上げるや否や、
「あの男……っ! シルビナを騙したのねっ!」
きりり、と唇を噛み締める。
キルキスも、無表情のルビィも、そんなのに騙されるなよ、と想っている事は間違いなかったが、とりあえず口にはしなかった。
「……覚えてなさいよっ! キルキスっ! けっちょんけちょんにしてやろうねっ!」
「そうだね、シルビナ……っていうか、一体誰からそんな汚い言葉教えてもらったの……?」
勢い込めて、バレーのトスをして遊んでいるマリーとオニールの元に向かって走るシルビナを見送り、キルキスは無言で辺りに目をやった。
キルキスに視線を向けられた男一同は、そそくさと、さりげないくらいに視線を反らしてくれたのであった。
──つまり、みんなそろって心当たりがあるということであろう。
キルキスが眉を顰めた時、コートを走り回っていたスタリオンが駆け戻って来るや否や、
「なんだいなんだい、みんなやらないのかいっ!? 相手はもうコートに入ってるぜっ!」
と、今現在、何よりも優先しなくてはいけないことを教えてくれたのであった。
「よっし! いくよぉっ!」
そーれっ、と、ママさんバレーそのものの掛け声で、オニールがボールをサーブした。
瞬間、帝国側の選手一同は素早く体系を入れ替えてボールに反応する。
彼らは上手く受けて、それをつなぐ。
そして一同は解放軍側のコートを見た。
相手はサーブをしたオニール、その隣についているマリー、そしてネット際に位置しているサンスケ、キルキス、ジョルジュである。もう一人のスタリオンは、コート内を意味もなく走り回っていた。
解放軍の人間なら、誰が見ようとも、スタリオンは無視してもいいのだろうが、帝国側の人間はそうは思わなかった。
素早い動きでコート内を走り回っている彼のおかげで、どこに決めたらいいのか、まるでわからなかった。
だから、
「くそっ!」
とりあえず、軽く打ち上げるはめになってしまった。勿論これは望む所ではない。
それを受けてマリーがネット際に待機しているキルキスに送る。
キルキスが上手く受けて、ジョルジュにトスし……、
「こういう賭け事はまかせとけってっ!!」
ばしっ! と、相手を見切ったボールを床に叩き付けた。
ぴぴー、と、笛が鳴る。
先取点は解放軍であった。
「よしっ!」
「はっはっはっはっはーっ!」
円陣を組んで一点めを喜ぶ一同の後ろで、スタリオンはやはり走っていた。
応援席から、シルビナが両手を振って応援している。
隣でルビィが腕を組んで頷いていた。
その更に隣では。
「どっちが勝つか、賭けた賭けたっ!」
マルコがいつのまにか空の水筒で地面を叩きながら、配当表を置いて叫んで居た。その前にはすでに人だかりが出来ている。
「今の所、帝国の勝利に賭けてる奴の数が多いよっ!」
「それはそれで、問題あると思う。」
売り込むマルコに、ルビィが冷静に述べる。まったくもってその通りである。
試合はますます白熱していく。スタリオンがただの走り回っているだけのエルフだと気付いた帝国側が、遠慮せずに攻撃を開始し始めたのである。
辛そうにふくよかな腕でボールを受けたマリーが後ろに倒れ、オニールが必死の思いでアタックしたボールは、相手の壁に遮られる。
そこをすかさずキルキスが拾う物の、続かない。
「サンスケさん!」
叫んだ先にいたサンスケが何とか不器用ながらもボールを上げるが、その先に誰もいない。
「あ……っ!!」
絶望の吐息を、一同が零した瞬間、
「俺にまかせろーっ!」
走り込んだスタリオンが、軽やかに振っていた両手でボールを叩いた。──いや、偶然手にボールが当たった。
そのボールは、ふらふらとネットを越える。
笑顔になった一同が、再びコートに散る。スタリオンだけは走っている。
「そろそろスタリオンとルビィが選手交代なんじゃないの?」
帝国側が丁寧にボールを受けるのを見ながら、ちょうど応援席に──風上を目指してやってきたスイが呟く。
ルビィはそれに微かに頷いて、スイを見下ろした。
スイは、前半は余裕で勝っていたチームが徐々に追いつめられていっているのを見ながら、意味ありげな視線をルビィに寄越した。
「めずらしいな、ここに来るなんて。」
「いや、風下だと魚臭いからさ。」
軽く応えて、スイはお互いに行ったり来たりしているボールを見た。選手たちは魚網については何も思っていないようであった。
よくあの中で匂いを嗅いでいて、平気なものだと、妙な所で感心すら覚えた。
そのスイと一緒にこちらに渡ってきたルックは、疲れたといいたげにその場に座り込むと、点数ボードを見た。1ゲーム先取した好結果が描かれている。しかし、このゲームに限っては、抜きつ抜かれつであった。
「なんだ……がんばってるじゃないか。」
どこか残念そうに呟くルックに、マルコがにやりと笑いかける。
「そりゃ、がんばってくれないとねっ! へへ、みんな帝国側にかけてるから、結構もうかりそうなんだ。」
そのマルコを、スイが目を細める。
マルコの懐具合など、どうでも良かったのだが……──、
「そう、それじゃ……なんとしても解放軍には勝ってもらわないとね。」
いいながら、懐から1000ポッチ取り出して、解放軍側に一口置いた。
自分が儲かる事に関しては、やぶさかではないのである。
「まいどあり〜。」
嬉しそうに笑うマルコに、スイは札をもらいながら──ルビィを見あげた。
凶悪な笑顔とともに、今から選手交代で入るであろう男を見あげて。
「勝ってくれるよね、勿論?」
そして、あからさまに示すように右手の甲を差し出した。
選手交代を審判に告げたルビィは、無言でその「危険な紋章」を見詰めた後、しらじらしいまで視線を反らした。
「努力はしよう。」
それだけであったが、彼が口にしたからには実行してくれると、スイは分かりきっていたので──満足そうに微笑むのであった。
これで、この勝負は勝ったも同然……であった。
「あれ? スイ、結果見てかないの?」
直接地面に座り込んで、疲れを癒していたルックが、長い睫毛を揺らして見あげる。
さらりと揺れた薄い金髪が、白い額に触れて離れた。
その彼の表情が先程よりも元気そうに見えて、スイは立ち上ったままの姿勢で振り返る。
「今から僕の出番だから──グレミオ達探さないと。」
言いながら、まだ終っていないバレーとバスケットのコートを交互に見やった。その目には、二つの種目の勝利を確信した光が宿っている。
「ふぅん……一応君も、種目表見てたんだね。」
ルックが唇をつり上げて笑う。その彼から零れた言葉に、不満そうにスイは目を細めた。
「他のはともなく、自分の種目くらいは見るよ。」
つまり、自分の以外は見ていないと言ったも同然であった。
自分がそれを言っている自覚をしっかり持っている辺り、救いがない。
全く持って、と言いたげに肩を竦めたルックは、無言で二つのコートの間に置かれた点数表を見やった。
バスケットの方は、大分点数が開いている。このまま行けば、三桁も夢ではないだろう。
バレーは、選手を何人か交代してから、見事なチームワークでもって点数を開かせつつあった。すでにマッチポイントまであと少しである。プレッシャーに負けない限り、彼らが逆転されることはないであろう。──最も、プレッシャーに強いことだけは威張れるメンバーであるから、それは大丈夫だ。
やはり、バスケにヨシュアを置いた事と、バレーチームへの、スイからの脅迫が効いているようであった。
無言で点数表を見ているルックを見下ろして、スイは敵方のコートに視線を当てた。
その後、
「ルックもほどほどにして、早めに引き上げてきたら?」
一言残して、ひらひらと手のひらを振って去っていく。
そんな軍主を見送って、ルックもムクリと起き上がった。
彼の目にも、敵方のコートが映る。先程からメンバーの入れ替わりが激しくなっている帝国兵は、まだ少ししか動いていないくせに、息が荒くなっていた。疲れがにじみ出てみえる。
些細なミスをしては、倒れそうにふらつく足に叱咤している帝国兵を見やってから、ルックは自分が組んでいた手を解いた。
その瞬間、全身にみなぎる──流れ込むように感じていた力が、不意に消え失せた。
「ばれてたのか……。」
言いながらも、ルックはそれを何とも想っていない表情で、「気付いていながら今まで止めもしなかった軍主」の背を見やる。
「ま、結構回復したから──もういいけどね。」
それに、もう絞り取れそうにないし?
くすくすと笑いながら、ルックは奇妙な位にへとへとになった帝国兵を見た。
他の誰にも感じ取れないようであるが──彼らのユニフォームには、魔力吸いの紋章が縫い付けてあるのだ。
ここからルックは、力を吸収していたということである。
相当戻った力を確認して、ルックも立ち上る。
回復した以上、ここに居る用事はないのである。
「あれ? なんだよ、あんたも行っちまうのかい?」
楽しそうに皮算用を始めているマルコが、キョトンとした目を向けて来るのに、ルックは冷めた目を向けると、
「暇人とは違うからね。」
一言言い捨てて、そのまま立ち去っていった。
残されたマルコはというと、
「パシリも大変だねぇ。」
と、軍主様直伝の「ルックの渾名v」を口にして、納得していたという。──これをルックが知れば、試合が中断するはめになるであろうから、誰もが口を紡ぐ事はまず間違いないだろう。