ACT 1 陸上競技

 限られた空間の両端に別れて、解放軍と帝国軍は陣営を作っていた。
 その中央には聖火台が立ち、煌々と燃える火が揺らめいている。
 その聖火台の頂上には、何故か審査員席が設けられている。オリンピックで何を審査するのか良く分からないが、その椅子に座っているテッドはとても楽しそうであった。
 やっほー、とかいいながら、下にいるスイやテオに、呑気に手を振っている。
 グレミオがそれに応えて手を振って、
「ほらほら、ぼっちゃん。テッド君が呼んでますよ。」
 と、種目表を見ていたスイの袖を引っ張った。
「後でいいよ。今はとにかく、最低七回で競技を終わらせる組み合わせを考えないと。」
 いいながら、スイは出来るなら勝利した方がいいのだろうと考える。
 スイ自身としては、別に勝とうが負けようが、この空間から出れたら文句はないのである。
 しかし、解放軍として考えるとそういうわけにも行かない。
 負けてしまえば、解放軍の士気が下がる事になる。この試合が本番じゃない以上、ここで士気を下げるわけにもいかない。更に、無駄に体力を使っても困る。
 本来なら、「無駄に体力を使わないために、負ける事を考え様と思う。」と言いたいのだが──それを言えないくらい、一同は盛り上がっている。
 スイは、自分の背後にいる108星を見て、溜め息を押し殺した。
 彼らはやる気満々で燃えていた。
「俺の勇姿にカワイコちゃんもうっとりだぜっ!」
「真面目にやらないと、またレックナート様もうるさいんだろうな……。」
 いつもなら面倒くさげに一同のテンションを下げるルックまでもが、自らはちまきを巻いている。
 これは、勝つしかないだろうと、スイは溜め息ばかりを零したくなる。
 種目表に目を落し、ずらりと並ぶオリンピック種目の多さに辟易する。
「陸上競技だけでこんなにあるし……一体何日かかるんだろうね、全部終わるまで。」
 下手をしたら、今回の遠征用に持ってきた食糧は、オリンピックのためだけに消えてしまうのだろうか、と、ありえそうな事実に、更に溜め息は重くなる。
 種目表の上に書いてある金メダルの絵には、7、と言う数字が書き込まれている。これが獲得しなければならない、最低のメダル数のようである。
 最低七回、最高13種目は闘わねばならないわけである。
「……ここはやっぱり、さっさと七勝するに限るってことだろ。」
 疲れたように呟くルックの囁きに反応して、スイが顔をあげた。
 何時の間にか隣に並んでいた綺麗な顔立ちの魔法使いは、ちらり、と聖火台の上に座るレックナートを見つめた。
 彼女が興奮状態にあるのは、他の誰でもない弟子である彼が知っていた。
「七勝、か……とりあえず、組み合わせを決めて、それをレックナート様に提出しないとね。」
 ふぅ、と溜め息を覚えるばかりのスイが、手元の種目表を見ていると、
「え? 選手表でしたら、さきほどビクトールさんが提出してましたよ。」
 テッドと、遠距離会話を行っていたグレミオが、きょとんとして振り返った。
 両手両足を使ったオーバーリアクションで、スイやルックには解読不能な信号をテッド向けて送ると、テッドが両手を大きく振ってから何やら複雑な仕草をして答える。
「ほら、帝国側のも解放軍側のも出てるって言ってますよ。」
「今の……何のサイン?」
 ルックが呆然としながらグレミオに尋ねると、グレミオは至極当然のような表情で、
「ブロックサインですっ!」
 威張って言ってくれた。
「いつものことだから、気にするなよ。」
 一応常識人を名乗るスイは、そう言ってルックを慰めた後、気難しげに眉をしかめる。
「僕はまだ何も聞いてないのに……勝手に決めたのか、あいつらは。」
「だって、ぼっちゃんはテオ様やテッド君と戯れてたじゃないですかぁ。だから代わりに、控えを受け取っておきましたよ。」
 ひらひら、とグレミオが一枚の紙を出す。
 どうやら先程、門の紋章が現われた時に、解放軍では選手決めが着々と進行していたようであった。
 そんな時に決められても、こっちもこっちで大変だったんだよ、この唐変木ヤロウっ! と叫びたいのを必死で堪え、スイは自分の仲間達を振り返った。
 一同やる気で、解放軍のマーク入りのゼッケンを付けていた。もう止めることはできないであろう。
 無言でグレミオの持っていた紙を引っ手繰ると、スイはそれに目を通す。
「戦争チームで別れるのか──やりにくい真似をするな。」
「まぁまぁ、勝っても負けても、金メダルを七つ取ればいいんですよね? それなら、えーっと……三日くらいやったら、絶対終りますよっ!」
 スイを宥めるグレミオの台詞が間違っていると、そう思ったのは、きっと一人や二人ではなかったであろう。








「さぁって、始まりました、第一回赤月オリンピックっ! 競技順序はほぼ適当っ! 空いてるスペースでやっちまえ、というこの無謀なくらいの適当さで勝負ですっ!」
 マイクを勝ち誇ったように持つテッドが宣言したと同時、レックナートとウィンディがどこからともなく調達してきた係員が、色々な機具を持って出てくる。
「おほほほほ、ちょうどここは良い場所ですわね。近くに湖はあるし、山もありますもの。」
 きらん、と光ったレックナートの眼に、なんとなく嫌な予感を覚えるものは、この聖火台兼審査員席の場所にはいなかった。
「そうですねぇ〜♪」
 楽しそうな口調で、三百年生きてきたテッドが答えるのみである。
 彼の手元にも種目表、選手表があった。
「えーっと、とりあえず真っ先に始められそうなのは……陸上競技だな。100メートル走からか。こりゃスイの所が有利だよなー。」
 確か、解放軍には素晴らしい足を持つエルフが一人いたはずだ。
 彼の足を持ってしたら、金メダルは確実であろう。
 すぐに勝負はつくんじゃないのか、とテッドは選手表を見た。
 が、しかし、最初からスイと別れたテッドには、選手の名前など見ても誰が誰だかわかるはずはなかった。
「……で、どれがそのエルフなんだ??」
 解放軍の九人程の名簿を睨んで、テッドは沈黙でもってそれを眺めたのであった。
 勿論、嬉しそうにホッホッホと笑っているレックナートがそれに応えてくれるはずがなかった。






 走りやすい服装に着替えた一同は、百メートル走をするために用意された場所へと、係員に導かれて歩いていた。
 そこは綺麗に草を刈られた場所で、百メートル先には、白いロープが張られている。
 スタート地点に集った仲間を見回して、白いシャツに着替えたレパントは、ごほん、と咳払いをした。
「たかが100メートルと侮ってはならんぞ。この全力疾走というのが、なかなかに大変なのだ。」
 そうして、当たり前のことを、重要そうに告げた。
 それに神妙に頷いたのは、彼の優しくも気立てのいい奥さんだけであった。
「はい、あなた。頑張りましょうね。」
 笑顔である。
 彼女もやる気らしく、いつもは綺麗なウェーブを描いている髪を一つにまとめていた。
「あー、かったりぃ。」
 その隣でうな垂れて座り込んでいるのは、シーナである。
 二人の親のやる気に比べて、彼はとてもやる気がないようであった。
「ったくよぉ、スタリオンさえ選手に入ってたら、俺は歩いててもいいのにさ。」
 ぶつぶつぼやきたくなるのも仕方あるまい。
 俊足のエルフが一人いたら、入ってさえいたら、自分達は勝利間違いなかったのである。
 にも関わらず、百メートル走の出場者の中には、スタリオンの名前はなかった。
「真面目にやるしかないってことかよ。」
 ふと見あげた先に、ビッキーがいた。
 どうやら彼女も出場するらしく、はちまきを巻いている。が、その服装はアイリーンのようなやる気の入ったそれではなく、いつものずるずるした法衣であった。
 こんなのでどうやって走るんだろう? と不思議に思ったシーナは、それを質問するよりも先に、
「あ、ビッキーちゃん。ちょちょっと、俺をゴールまで飛ばしてくんない?」
 楽してゴールを頼んでみた。これで失格になろうと、順位を落されようと、シーナには関係ないのである。
「ええ? とばしちゃうんですかぁ?」
 不思議そうに尋ねたビッキーに、うんうん、と嬉しそうに頷いたシーナであったが。
「ばか者っ!」
 すぱこーんっ、と、小気味良い音を立てて、シーナの頭にキリンジの鞘が跳んだ。
「ってぇっ! 何すんだよっ、このくそ親父っ!」
 頭を抱えてうずくまったシーナの側に、レパントが怒りの表情で仁王立ちしている。
 その隣で、アイリーンが息子の傍らに跪いて、駄目よ、お茶目さんねv などと言いながら、凍った笑顔で笑っている。
 シーナは頭をさすりつつ、レパントに怒鳴り始める。負けじとレパントもそれに応えて罵倒し、それをアイリーンが困ったような、優しそうな微笑みを浮かべて見守っている。
 その微笑ましいばかりの家族愛を見つめながら、ビッキーは軽く首を傾げた。
「あれあれー?? いいのかなぁ、シーナさん??」
 しかし、シーナもそれどころではなく、ビッキーに答えはしなかった。
 とりあえずその場にしゃがみこむようにして、ビッキーは二人の親子喧嘩を見守る。
 その隣に、す、と影が立った。麗美な影であった。すらりとした肢体をわずかに覆う布が、淫靡な雰囲気を醸し出している。
 彼女は、婉然と微笑みながら、
「うふふ、いいんじゃないの? 身体を使う男は、素敵よ。」
 と、さぼるばかりを考えているシーナに囁いた。
 が、
「ははは、それほどでもありませんよ。」
 きりり、とした声が返ってきたのはシーナからではなかった。
 ジーンの甘い囁きを聞いたのは、ビッキーの逆隣に立ったカイであった。
 彼は光る頭に、もう一本はちまきを巻いていた。それを掻き上げるようにしながら、ジーンに笑いかける。
「きゃうっ!? あれ? ど、どこから今──?」
 カイが近寄ってきた気配など感じなかったビッキーが、たらり、と汗を流して彼を見るが、カイの眼はジーンを見ていて、ビッキーのようなお子様は相手にしてくれなかった。
 ジーンはふふ、と曖昧に笑って、それを交わす。
 そうこうしているうちに、百メートル走に参加する一同がワヤワヤとやってきた。
 どうやらシーナ達がここに集っているのを、集合場所だと勘違いしたようであった。
「ふぅ、どっこいしょ。疲れたよ、私は。」
 やれやれと、ビッキーの側に座り込んだのは、彼女と同じチームのヘリオンであった。
 年が年であるためか、少し歩くだけでも身体に来るようであった。にも関わらず、百メートル走者なのであるから、不思議である。
「おや……ヘリオン殿、最近の腰の様子はどうですか?」
 そこへ優しく声をかけたのは、解放軍専属の主治医であるリュウカンであった。
「おかげさまで良い具合ですよ、先生。」
 一同、そろって腰を下ろして話し始める。
 その光景は、走者の準備というよりも、ただの老人語りあいのようであった。
 リュウカンはヘリオンの手首を取り、脈を取ると、
「そのようじゃな。」
 と笑った。
 やはりオリンピックと言うよりも、ただの憩いの場のようなムードがあった。
 ヘリオンとリュウカンが最近の身体の具合について語り合うのに、フッケンも加わり始める。
 その様子を遠目から眺めていたスイが、呆れたように歩み寄ってくる。
「…………ここって、出張診療所?」
 思わずジーンにそう尋ねてしまったのも無理はないだろう。
「あら、スイ? 様子を見に来たの?」
 ふふ、と笑いながらジーンが尋ねる。
 その妖艶とも取れる笑みを受け取りながら、スイが軽く頷く。
「一応ね……なごんでるようだけど。」
 一番最初に行われる競技だから、と気を利かせてやってきたのもの、これでは喝を入れるどころか──と、辺りを見回す。
 誰が考えたのかは知らないが、レパント親子以外のメンバーは、やる気すらないように見て取れた。
 一番の戦力であるスタリオンすらいないと来ている以上……最初から敗戦も考えた方がいいのかもしれない。
「そうね、こういう大きな催しは久しぶりですものね。皆張り切っているのよ。」
 くすくすと、面白そうにジーンが笑った。
「催しっていうか……楽しくないよねぇ。」
 基本的に、自分で巻き起こす騒動は大好きなくせに、他人に無理を強いられた騒動(それも好みじゃないもの)に関しては、徹底的に邪魔をするという性質を持っているリーダーは、そう呟いて、聖火台の方を見た。
 そこでは、親友であるテッドが、楽しそうに旗を振っていた。
 あっちの方がいいなぁ、とスイが思っていることはまず間違いないであろう。
「おお、これは星主殿。」
 ジーンと話し込むスイに気付いたらしいフッケンが、微笑みながら語り掛けた。
 やはりそこには和んでいる様子が見えていて、どう見ても競技前の選手には見えなかった。
──っていうか、一応戦争中なんだけどね………………。
 心の中の声の突っ込みは、スイの心の中に消えた。
 自分の戦友である108星の全員が、一癖も二癖もある奴だと言う事を、よく分かっていたためである。
「身体の調子はどうですか?」
 笑顔で話し掛けると、彼もまた穏やかな物腰で応えてくれた。
「星の巡りがいいようで、万全ですよ。」
「そう……では全力を尽くしてくれ。命がかかっていなくとも、これもまた戦には変わりない。
 気を引き締めていけ。」
 笑みを零して、一同を見やると、その視線に応えて彼らはきりり、と表情を引き締めた。
「はいっ! まかせて下され!」
 元気良く頷いたレパントの隣で、アイリーンも微笑み頷く。
「スイさんも、頑張って下さいね。」
 優しい笑顔を向けられて、スイもそれに大きく頷いて見せた。
「なぁ〜、スイー。俺、もっと楽なのがいいよ。代えてくれよ。」
 シーナがやる気な二人の両親を嫌そうに眺めながら、スイの裾を突ついた。
 スイはそれをちらりと見た後、
「って言われても……これは戦争だから、戦争チームで組んでるからさ。」
「げ……ってことは、どう頑張っても親父達とは離れられねぇのか。」
 がくり、と肩を落したシーナを慰めるように叩いてやりながら、
「ま、そういうことだね。」
 それから、リュウカン達と話しているカイを見やった。
 彼も走るつもりらしい。ふっ、ほっ、とか言いながら身体をほぐしていた。
 スイは無言で朝日に照り映えるその頭を眺めた後、
「カイも──あんまり暴れるとズラがずれるから、気を付けて。」
 真剣極まりない表情でそう囁いた。
 心溢れる優しい弟子からの言葉に、
「……………………。」
 思わず同じ光る仲間であったリュウカンとフッケンが、それを見やった。
 カイは呆れたようにスイを見やると、
「これはまだズラじゃないぞ。」
 と、自分の頭を指差した。
「えっ? そうなのっ!?」
 あからさまに驚いた表情になるスイに、あたりまえだと言いたげに彼は頷いた。
「どうせ付けるなら、こんな中途半端なズラなど付けんわ。」
 確かにその通りであろう。カイの頭は、いかにも額から綺麗になっていきました、というような形になっている。
 こんなズラを付けるのは、元々ふさふさの人くらいである。冗談半分の宴会芸としては使えるだろうが、日常的に使うようなズラではないのである。
「……突然髪が生えたらズラだってばればれだから、少しずつ増やしていくように見せるためのズラかなって……。」
「む………………。」
 スイが微かに笑いながら告げた言葉に、カイの表情がやや変化した。
 どうやらそれは良い案だと思っているようであった。
「……って、一度禿げたのが戻っていく過程自体が胡散臭くないか?」
 シーナが、そろそろ頭が怪しくなりかけてきた父のそれを見ながら、尋ねた。
 まったくもって正論である。剥げていった頭がずんずんと戻っていくのは、ある意味奇妙な光景なのである、ミステリーとしても支障はあるまい。
「気にしちゃ駄目v」
 スイがそんなシーナに、可愛らしく突っ込みながら、無造作に手にしていた棍を振り落とした。
 ごうんっ、と激しい音がしたが、それもお愛敬という奴である。
「ってぇっ! これから戦いに行く男になんてことすんだよっ、お前はっ!!」
 シーナが何やら叫んで居るが、スイの意識の頭にも上らない。
 綺麗さっぱりシーナを無視して、自分の腰に手を当てた。
「さて、そろそろ始まるみたいだね。」
 向うは誰が来るのかな〜と、楽しそうに呟いている。
 レパントは、頭を抑えて座り込むシーナの脇をつかみあげるようにして立たせると、きりり、と顔つきを厳しくしてスイを見た。
「全力を尽くしてまいります。朗報をお待ち下さい。」
 普段の戦場で、レパントがこう言えば、それはとても頼りになる台詞であった。
 しかし、今現在、いい年した親父が100メートル走を前にしてそう言ったとしても……(それも何故か見るに堪えない半ズボン姿であった)、スイは静かに微笑むしかなかった。
 ──レパントって、普段走り込みとかしてたっけ??
 頑張れ、と口先だけで物を言いつつ、スイは頭の中で思い返すが、解放軍で走っている者と言えば、浮かぶのはいつも一人であった。
 走るエルフ……その人である。
「さて、私はそれでは──テープでも持ちに行きますか。」
 やる気を燃やすレパントとは待ったく別に、唐突にリュウカンが立ち上った。
 それにつられるようにして、フッケンも立ち上る。
「それでは私も。」
 言いながら、二人は当たり前のように、スタート地点ではなくゴール地点へと歩いていく。
 よたよたと歩く二人は、どうやらゴールのテープ持ちをするらしかった。
 フッケンはともかく、杖をついて歩いているリュウカンには、ちょうどいい仕事場かもしれなかった。
「成る程……、体力が体力だしね。」
 納得した様子のスイに、父に掴まれたままのシーナがぼやく。
「ずっけーよ、それ……。」
 俺もそっちがいい、とぼやく彼の言葉は、一同によって無視される。
「さて、と。それでは私は、タイマーをはかりにでも行きますかね。」
 よっこいしょ、と、リュウカンと同じ様に杖を持って、ヘリオンがやや大袈裟に傾きながら歩いていく。
「あれあれあれ? どうして皆行っちゃうの〜?」
 不思議そうにビッキーが首を傾げたが、どうしても何もないだろう、と言うのが一同の意見であったため、皆おとなしく彼ら三人を見送った。
 とりあえずスイは、老戦士の一人であるカイを見た。
「カイはスタート地点の号令係りとかしなくていいの?」
「馬鹿にするなよ、スイ? わしはまだまだやれるわい。」
 かっかっかっか、と笑うカイの元気さに、まだまだ現役だな、と判断したスイは、そのまま視線を転じる。
 ジーンが鷹揚に頷いている。大丈夫だと言いたいようだ。
 そのまま視線をずらした先では、
「よし、行くぞ!」
 シーナの脇を掴んだままのレパントが、やる気満々で歩き出していた。
「はい、あなた。」
 アイリーンがその後をついていく。
 掴まれた腕に、シーナがわめくものの、二人ともまるで意に解してはくれなかった。
「がんばれ〜。」
 去っていく選手一同を見送りながら、スイがおざなり程度に片手を振ると、そのまま踵を返して、応援席に行くのであった。
 ──カイが何やら怪しい物を、皆に手渡しているのにも気付かずに。




 一方、バルバロッサ側の陣営では。
「アイン・ジード。よくは分からんが、陛下のため、全力を尽くしてくれ。」
 何がどうなってこうなっているのか、さっぱり理解できないものの、これが戦争の一種だと思ったらしいテオが、自分の部下にそう告げていた。
 彼の背後に控えるのは、帝国軍の兵士達である。こちらもまた何が何やら分かっていない様子であった。
 が、しかし、状況判断が出来ていないのは、帝国軍では当たり前のことである。解放軍のように、癖のある者ばかりが揃っていて、皆順応性が高すぎる方が変なのである。
 けれど、それで済むなら帝国はとおの昔に滅びている。
 何が何やら分からないまでも、彼らは勝たねばならないことだけは、しっかりと把握していた。
 何よりも、百戦百勝将軍と呼ばれたテオ=マクドールが、それを知っていた。
 彼はどんな状況であろうとも、それを打破するつもりでもって、戦況を見極めていた。
 今回の戦にしてもそうである。
 100メートル走とは、速さを競う戦いであることが分かっている以上、速さを誇る兵達を選び抜いて、指揮としてアイン・ジードを置いた──とは言うものの、現在帝国の中で最も信頼できる将クラスが、彼以外いなかったと言うこともある。
 随分不利な状況にあるものだ、とテオは苦く思いながらアイン・ジードを見やった。
 彼は、感激したかのような表情で、死んだはずの主を見あげていた。
「はい……テオ様。」
 噛み締めるように名を呟くその様に、テオは苦笑を覚える。
「はは……っ、泣く奴があるか。」
 涙まじりの彼に、テオは軽く笑った後、表情を改めて彼に呟く。
「まかせたぞ。」
 まさか最後の戦いに出れるとは思っても見なかったテオは、万感の思いを込めて、そうアイン・ジードに囁く。
 一度死したとは言え、こうして戻ってきた以上、皇帝に尽くすのみである。
「はい──全力を持ちましてもっ!」
 答えた彼に、テオは満足そうに頷いた。
 何があっても、解放軍には勝って見せる。
 その勢いが、彼の表情から滲み出ていた。
 例えその先にあるのが……息子との二度めの戦いだとしても、だ。


 が、しかし。
 解放軍の順応性の高すぎる一同は、同時に卑怯技にも長けていたのであった。
 これは一重に、リーダーがそういう人物だからだと、後にテオは語ったのだと言う。
「行くぞっ!」
 スタートした直後、カイが唐突に叫んだかと思うや否や、ロープを持っていた老戦士達一同が、身構えたのである。
 スタート直後、すぐに飛び出したのはカイと帝国兵だけであった。解放軍のメンツは、何故か懐に手を入れて、走ろうとはしなかったのである。
 それが何を意味するのか気付いた時には──……、
「はぁっ!」
「ふんっ!!」
 老戦士三人による、磨き込まれた頭が炸裂していたのである。
カッ────────っ!!!!!!!
 辺り一面光に包まれる。
 ぐわっ、だの、うぉぉっ、だの、苦痛の叫びが帝国兵から零れていた。時折何かがぶつかるような音がしているのは、本当にぶつかっているためなのだろう。
「…………うわ、卑怯な………………。」
 思わず呟いたのは、その卑怯な技を繰り出した男を師匠に持つ、解放軍のリーダーであった。
 さすが師匠、と思ってしまうあたり、自分の普段していることもしっかり理解している証拠である。
 光溢れるなか、疾走するのは、黒いサングラスを掛けた解放軍のメンバーであった。
 特に群を抜いて駆けるのは、しなやかで色香溢れる白い素足をちらりと見せる、ジーンであった。
 彼女の涼やかな表情が半分くらいサングラスに隠れている。長くなびく髪が、光に反射して、キラキラと銀に輝いていた。
 その輝きの軌跡が消えると同時、同じくサングラスを着用していたヘリオンが、タイムウォッチを切った。
「一着、ジーン。二着、シーナ。三着、アイリーン。」
 読み上げられた順位を聞いた瞬間、スイは光の治まったコースを見た。
「レパントは……?」
 一番やる気であった、そしておそらく優勝候補であった男は、名前どころか、姿もなかったのである。
 コースの中ほどで、カイが満足そうな表情で立ち尽くしていた。──どうやらフラッシュを起こした後、面倒だったので走るのは止めたようであった。
 更にその後には、帝国兵がバタバタと面白いくらいに倒れている。
 その更に後では、ビッキーがサングラスを掛けた姿で、つんつん、と帝国兵を杖で突ついていた。──走って欲しいものである。
 そして、更に後ろ──スタートラインで、
「あら……あなたったら。サングラスは外しては駄目よ。」
 レパントは目を抑えてうずくまっていた。
 そんな彼に近づき、銅メダルを受け取ったアイリーンが、優しく微笑みながら声を掛けてあげている。
 見事金メダルを取得したジーンは、
「あらん。どうしてもメダルが埋まっちゃうわ……。」
 胸元が薄い少女たちの反感を買うような台詞を囁きながら、メダルを胸の谷間に埋めて、微笑んでいた。
 その側に立ちながら、銀メダル取得者のシーナが、
「素敵ですよ、ジーンさん。何なら俺が持っていてあげましょうか?」」
 何やら口説いていた。が、ジーンには上手く躱され続けている。
「いいなぁ……メダル。」
 帝国兵を突つくのも飽きたらしいビッキーが、物欲しそうにそれらを見つめて呟く。
 そう思うのだったら、きちんと走ったらいいものを──そう思ったのは、きっと側にいた者だけではないはずである。









「陸上競技100メートル走は、解放軍にメダルひとつ、と。」
 書き書き、とボードに書き込み、テッドは楽しそうに笑った。
「それにしてもさすがスイ。ああいう卑怯技にかけては天下一品だよなぁ。」
 これをスイが聞いていたならば、自分じゃない、と叫んでいたところであろう。
 が、しかし、残念ながら聖火台の審査員席にはそれを否定してくれる人物など一人もいなかった。これもまた普段の行いのせいであろう。
「陸上はいいわね。すぐに準備できるものが多くて。」
 戦争中だから、という理由で、久しぶりに再会した恋人を放ってきたオデッサが、テッドの隣の審査員席に着いていた。
 その前には、幾十もの種目表が並んでいる。
「ええ、そういうものばかりを集めましたからね。」
 レックナートが、楽しそうにビデオを回している。
「やっぱり期間は短く、が基本なのかしら?」
 オデッサが笑いながら尋ねると、神秘的な占星術師は、当然だと言いたげに頷いた。
「残念ながら、ここは門の紋章一族の里ではありませんから……この術はもって二日。
 なるべくなら今日一日で全てを終らせたいと思っています。だからこそのスケジュールなのですよ。」
 きりり、と顔つきも厳しく告げる彼女の言葉は、まるで神託にも似ていた。
 はぁ、とテッドは呟くと、
「それで、準備の手間が省けそうなのばっかりなんだな。陸上競技に、水泳競技……だもんな。」
「一日のスケジュール表も作って在るんですね。なんだか、年季を感じるわ。」
 テッドとオデッサの二人は、仲良く紙を覗き込む。
 時間もほぼ正確に決められていて、まるで一日二日で決めたようには見えなかった。
 ちょうど今日、ウィンディと合間見たから、二人でそれを決行しただけだと……そういう風には、とてもではないが思えなかった。
「あら? 誰が一朝一夕だと言いました? これは、里が滅ぼされた時に作った計画ですわ。」
 事実、レックナートはそう言って意味深に笑った。
「これは、──里が滅ぼされた時からの、姉との約束なのですよ。」
 ほほほ、と柔らかに笑って見せた。
 その言葉に、その「姉」のせいで反乱を起こす事になったオデッサは、ぱくぱくと口を開け閉めしたが、何を言っても無駄だと思ったのか、無言で種目表を手にした。
「さて、今は他に何をやっているのかしら〜。」
「もう一つ陸上競技やってますよ……えーっと…………障害物競走ですね。」
 しらじらしい一言を零したオデッサに、テッドがにっこりと笑ってそれに乗って見せた。



 ひゅー、と風が吹きすさぶ空間に、可憐で鮮やかな曲が流れていた。
 ちゃらら〜♪
 それは、花の香がむせ返る気分になる、曲であった。
 どうしてこんな曲が競技中にかかってくるのだろうと、帝国兵が辺りを見回していた。
 解放軍の面々は、またか、という顔をしている。この曲がどこからかかってくるのか分かりきっているためである。
「………………また磨きがかかっているな。」
 広い草原の北の端──帝国が陣取っている場所の中央に、玉座を置いて座っていたバルバロッサがげんなりとして呟く。
 それに苦笑を示したのはテオであった。
「どうやら、反乱軍の中で、良い友を見つけたようですよ。」
 そう言うと同時、バルバロッサの視線の先を見つめる。
 そこには、華麗な音楽に乗って優雅に花をかざしている元将軍がいた。しかし、帝国に居た時とは異なり、彼の回りには彼に似た人が二人もいた。やや後方で、ミルイヒの館でよく見かけた美貌の青年がハープをひいている。どうやらこの音楽は、彼が奏でているらしかった。
「……………………………………。」
 バルバロッサは溜め息すら押し殺し、楽しげに自分の雰囲気にひたっているミルイヒを見やった。
 自分の側にいるときには見れなかった笑顔に、どこか苦い思いを抱く。
 昔は──彼も自分の前でそういう笑顔を見せていた。いつから見せなくなったのか、思い出せない自分が、どこか痛かった。
「テオ……後は任せたぞ。」
 再び紡ぐ事などありえなかったはずの言葉を、バルバロッサは再び口の中で呟いた。
 テオは途端武人の表情を浮かべると、
「全力を持ちまして。」
 と、はっきりと頷いた。



 ちゃらり〜ちゃららら〜♪
「ふっ! どうやら私達の出番のようですよっ!」
 薔薇の花を顔に近付けて、その芳しい香を思う存分吸い込みながら、彼は席を立った。
 そこにはどこから調達してきたのか、ティータイム用のテーブルと椅子、さらに絨毯や花瓶まで用意されていた。
 ミルイヒ達よりも低めの椅子に腰掛けて歌うのは、カシオスであった。彼はその美貌を軽くうつむけて、音に踊っているようであった。
「ええ、まっていましたよ。」
 かたん、と同じく優雅に席を立ったのは、ミルイヒの声を受けたヴァンサンである。
 彼らが額に巻いているのは、他の人々が纏っているのよりももっと「芸術的」なはちまきであった。香つきのそれは、いたく彼らのおきに召したようであった。
 同じ様に紅茶を飲んでいた美貌を誇っている女性は、悩ましげな溜め息を零す。
「埃臭いのは嫌いですわ……。」
 レースのハンカチを口元にあてて、彼女は軽く眉をしかめる。
「全く……こういうのに私を出さないでほしいものですわ。」
 エスメラルダは、言いながら髪にかかった埃を払うようにした後、花瓶にさして在った薔薇を一輪手にした。
 それをソット口元に近付けて、唇で花びらの優しさを味わうようにした後、ぱっちりとした瞳を開けてレース場を見やった。
 そのレース場では、解放軍の仲間達が、準備にわらわらと走り回っていた。
 何やら怪しい会話を繰り広げているのは、クリンとルドンのコンビであった。その側ではテスラが今にも泣きそうな表情で立ち尽くしている。
 見た限り、絶対おかしな事をしようとしているに違いなかった。
 が、二人が組んでおかしなことを企てるのは、解放軍リーダーがいたずらをするのと同じくらいの割合で起こっていたので、やはり解放軍の面々は何も気にしていなかった。
「………………庶民はいいわね。」
 ぼそり、と呟いて、あー、やだやだ、とエスメラルダは席を立つ。
 ここでわがままを言っては、リーダーを困らせるだけである。彼女自身、何だかんだ言いつつ、リーダーのことは気に入っているので、彼を困らせる事はしないのであった。
 ミルイヒ、ならびにヴァンサンと同様、派手で優雅な「芸術的」デザインのはちまきを手にすると、裾の広がるドレスを翻した。
 どうやら参加はするものの、本気で頑張ろうとは思っていないようであった。
 ミルイヒ達三人は、そのままスタート地点へと向かった。
 そこでは、怪しい三人組が輪を描くようにして座っていた。
 彼らはこそこそと額を突き合わせて、スタート地点に何やら仕掛けているようであった。
「キキッ……これがこうでこうなって……──。」
 ぶつぶつと呟きながら、言葉の軽い口調とは反対に、真剣な表情でクリンが指先をせわしなく動かしている。何やらしかけを作っているようであった。
「クリン、そうじゃない。それだとすぐにばれるだろうが。」
 ルドンが悪人そのままの表情で邪悪に笑う。
 その二人が何をしているのかを隠すように座っていたテスが、情けない表情で二人を見やった。
「あの〜……私、こういうことに参加するのはちょっと…………。」
 ためらうように口を挟んだテスラは、おずおずとした口調で口を挟んだ。しかしそんなことを、この二人が聞いてくれるはずはないのである。
「まぁそう言うなって。あんたが手伝ってくれりゃすぐだよ、すぐ。」
 クリンがキキッと笑って見せる。
 それには、テスラはこの上もなく情けない表情を作って見せた。
 もう逃れる事はできないようである。この上は仕方ない、手を貸すしか──っ! と、諦め心地で覚悟を決める。
「ヒッヒッヒ、このルドン様特製の毒茶を飲めば、アイン・ジードごとき一発で──っ!!」
 ルドンが新たな作戦を口にしたその刹那。
ごんっ!!!
「やめんか!」
 容赦ない一撃が、彼の頭の上に落ちた。
 はっ、とした悪の面々が振り返った先には、彼ら悪人を常に手玉に取る若き軍主がいた。
「そこにいるカナンやグレイディならいくらでもしていいけど、アイン・ジードは一応僕の知り合いなんだからさ。──もしやったら……飲むよ?」
 笑顔で彼は、右手の手袋に手をかける。
 容赦なく彼らを紋章に飲み込むつもりのようである。
 軍主の盛大極まりない性格を知っている以上──、
「キ……っ!! な、何言って──! これは針治療に使おうと……っ!」
 慌てるクリン。しかし、どう考えても針はスタートラインに置くものではない。
「いえいえっ! これは、毒茶などではなく、ただの健康茶で……っ!!」
 健康茶などを敵に飲ませる事も、どうかと思う。
「だから止めようって言ったのに〜。」
 情けない表情を作って言うテスラであったが、彼も「参加したくない」とは言ったが、止めてはいない。
 一斉に自己弁護を始める面々を見やって、彼らを陸上競技に参加させた人間を怨みながら、スイは溜め息を零した。
「全くもう……。」
 溜め息を零して、スイが見やった先で──陸上競技を任されているアイン・ジードが、テオに何やら話されている姿があった。




「申し訳ございません、テオ様。」
 頭を深々と下げる懐かしい姿に、テオは苦笑を浮かべてそれに答える。
「いや、気にするな、アイン。相手はあのカイだったのだ、しかたあるまい。」
 その言葉の奥にある言葉を、アイン・ジードは素早く読み取る。
 彼もカイが帝都に居た頃を知っている。
 相手はあのカイだ──スイのあらゆる意味での師匠なのである。
 そう思うと、負けたのも仕方ないとは思うのだったが。
「ですが……──。」
 仮にも軍人であり、絶対に勝って見せると言った自分に対して、屈辱の気持ちをも抱いている。
「それよりも、今の勝負の方が先決だ──頑張れよ。」
 テオが笑顔でそう言った。
 アイン・ジードは懐かしい思いすらするその笑顔に、大きく頷いて見せた。
「はい──っ!!」



 一方、クリンとルドンが渋々仕掛けを外している後ろでは、新たな戦いが起きていた。
「だから何度も言ってんだろうが! この偏屈親父っ!」
 叫んでいるのは、ねじりはちまきも眩しいゲンである。
 彼は腐れ縁であるカマンドールに向かって吠えていた。
 そのゲンの叫びをうるさそうに聞いたカマンドールは、眼鏡を押し上げながら、ふん、と鼻を鳴らした。
「だからお前は青二才だと言うんだっ!!」
 顔を突き合わせて、お互いを睨み付ける様子に、障害物の準備の指揮をしていたジョバンニが走ってくる。
「ななっ、何の騒ぎですか一体──って、またお二方ですか。」
 呆れた様子でゲンとカマンドールを認める。
 二人が喧嘩するのは、日常のことなのである。
「あ、だんなっ! ちょっと聞いてくれよっ! このヤロウ、障害物にこんなもの入れやがったんだぜっ!」
 ゲンがジョバンニに気付くや否や、叫び始める。
 ジョバンニは手で示したゲンの先を見つめて、そこに何があったのか知る。
 並び立てられた平均台だとか、飛び箱だとかがあった。
 確か、障害物というのは……と思い返すジョバンニに、
「障害物って言ったら、ハードルだろうよっ!?」
 ゲンがジョバンニの心の声を代弁するように叫んだ。
 全く持ってその通りだと、思わずにはいられない。が、
「ちがうぞっ! その昔ながらのその考え──お前はどこかのガンコじじいかっ!」
 カマンドールが新たな時代の幕開けを示唆するように叫んだ。
「なにぃっ!?」
 ゲンがいきり立って叫ぶ。
 再び喧嘩が始まるのかと、ジョバンニが溜め息を吐いたその瞬間である。
「ちょと、そこの腐りきって糸ひいてる仲の二人、うるさいよ。」
 美少年魔法使いに負けず劣らずの毒舌を持つ軍主が、冷たく言った。
「………………いや、まだ糸はひいて……──。」
 思わずそう呟いた二人であったが、クリンとルドンのことで気が立っていたスイは、そのまま聞こえなかったかのように通り過ぎていく。
「ったく、テッドも僕を使いに出すとは何様のつもりだよ……。」
 ぶつぶつと呟いて、どうやらスイはテッドのお使いに出ているようであった。
「ったく、僕だってもーすぐ出番なのに………………。」
 ぶつぶつと再び呟いて、そのまま通り過ぎていく。
「………………聞いていないようですね。」
 ジョバンニが、見て分かるその様子を口に出して教えた。
 だが、
「とにかくっ! 障害物って言ったら船だよ、船っ!」
「阿呆か、お前は。」
 聞いてくれるはずのゲンもカマンドールも、再び喧嘩体勢に入っていたのであった。





 始まった瞬間、ミルイヒは跳んだ。
「はぁっ!」
 掛け声も美しく、宙に浮いた体は、光を受けながら、くるくると回った。
 そして、見事着地する。
「おおっ! さすがはミルイヒ様っ!」
 ヴァンサンが叫んで、いざ自分もと、助走をつけて走る。
 そして、踏み込み台を大きく踏んで、身体を宙に上げて見せた。
 そのまま、障害を飛び越え、そのすぐ向うにあった小さい池をも飛び越えた。
 先に立って待っていたミルイヒの隣に見事着地を果たすと、
「ふっ!」
 と、薔薇を持ってポーズを決めた。
 その様を眺めていたエスメラルダは、走る事すらせず、それを優雅に眺めていた。
「ヤバンなスポーツだと思っていたけれど、なかなかのものではなくって?」
 第一の障害である飛び越えたその地点にあるプール、に落ちる帝国兵が続出するなか、ミルイヒとヴァンサンの二人は、見事に美しく飛び越えて見せた。
 が、それに満足したのか、再び飛び越えてポーズを取っては、点数を付けるということを始めてしまう。
「…………どうして障害物にプールが……?」
 ジョバンニが呆然と呟くと、
「やっぱこれだろっ!」
 ゲンとカマンドールの腐れ縁が、そう叫んだ。
 その向うでは、プールから脱出した帝国兵が、ゴールに向かって走っていた。
 が、解放軍の選手であるヴァンサン達は、
「はぁっ!!」
「ふむ、なかなかですよ、ヴァンサン・ド・プール。」
 未だこれであった。
「おお、このヴァンサン、身にあまる光栄です。」
 プール際で二人は友情を確かめ合っていた。





「……………………………………………………………………。」
「……………………………………………………………………。」
 帝国兵全てがゴールしても尚、ナルシー軍団は美しい着地を競っていた。
 ミルイヒの行動に慣れているはずのテオですら、言葉もなかった。
 呆然とするテオとアイン・ジードの耳に、聖火台の上から声が降ってきた。
「美しいですね。」
 それは、うっとりとしたレックナートの声であった。
「そうすか?」
 ばりばりとせんべいをかじりながら、テッドが答える。
「どうでもいいけど、スイ、まんじゅう早く持ってきてくれねぇかな?」
「あら、楽しみは後に、よ、テッド。」
 笑いながらオデッサも、今の勝負は見なかったことにした。
 その一同の耳に、意味がない勝利を告げるテスラーの声が響いた。
「一着、アイン・ジード〜、二着、帝国〜、三着………………。」




ACT 2 水泳競技




 オリンピックが始まると同時、始まったのは陸上競技だけではなかった。
 準備が何もないと言っても過言でもない競技は、ほとんど同時に始まっていた。
 ここ、トラン湖の湖岸に集まっている面々もまた、同じであった。
「おっ! 向うも始まったみたいだな。」
 明るい声で、ざわめき始めた方向を見やるのはタイ・ホーであった。
 その隣では、苦笑をにじませているヤム・クーがいた。
「陸上競技ですよ、兄貴。」
 かく言う自分達もすぐに出番である。
 漁師であるため、泳ぎには得意な自分達が遠泳に出るのは当然と言ったら当然なのであろうが。
 さて、と準備運動しようとしたヤム・クーは、ふと悪寒にとらわれた。
「頑張ってきておくれよ、あんた。」
 その悪寒を誘ってきた人物は、妖艶に口元に笑みをはかす。
 すでに女房きどりの彼女は、ぱさり、と髪を払うと、タイ・ホーにもたれかかった。
 タイ・ホーは、やや苦笑いを浮かべながら、笑う。
 ヤム・クーは、相変わらず美人には弱い兄貴に、なんとも言えない表情を浮かべた。
「…………………………。」
 兄貴、ちゃんと準備運動してくれるといいんだけど………………。
 とりあえず思うのはそのくらいである。何せキンバリーの姐さんにかかったら、ヤム・クーは「いないもの」なのである。
 何を言っても無駄だということは、経験上よくわかっていた。
「はは……女房きどりだな。」
 タイ・ホーの世話を焼いているキンバリーに苦笑を隠せないのは、ヤム・クーだけではないらしかった。
 後ろからかかった声に振り返ると、そこには燃える髪を持つ女性が立っていた。
「あれ? バレリアさんも遠泳ですか?」
 彼女は、帝国では烈火のバレリアと名を馳せた人物のはずである。
 烈火と言う通り名が示すならば、彼女が水関係の競技に参加していること自体が驚きであった。
 だから、驚き半分に尋ねると、彼女は苦笑を張り付かせて、
「ん──まぁ、泳ぎはあまり得意ではないのだがな。」
 と、言葉尻をにごすように呟く。
 ギャラリー側にしてみたら、むさい男が泳ぐよりは、バレリアのような華やかな女性が泳いだ方が楽しいに違いはないのだろうが──勝つ事を考えたら、不利なように感じた。
「こういうことは、ソニア様でも呼んでくれればいいのだが……──。」
 どうにもならない、と言いたげに笑うバレリアに、
「ハハ……烈火のバレリア殿も、水は苦手か?」
 からかうような口調がかかった。
 バレリアはその声に、ゆっくりと振り返る。そして、そこに思った通りの人物を見かけて、苦笑いを深める。
「カシム・ハジル様……──。」
 その苦々しい口調に、カシム・ハジルも口元を歪めて笑う。
「まぁ、かく言うこちらも、得意と言うわけではないのだがな。」
 戦は戦でも、こういう形の戦は、苦手だよ、と軽口を叩くようにつなげるカシムに、そうですね、とバレリアも生真面目に答える。
 そんな二人の会話を耳にしながら、ヤム・クーは他に誰が参加しているのかと辺りを見回した。
 すると、やや遠いところで、大きな声で叫んで居るグリフィスを見かけた。彼は、自分を慕ってくれている部下達を叱咤激励しているようであった。その通る声は、耳を澄ますだけで容易に聞き止める事ができる。
「よしっ! お前達っ! 行くぞっ!!」
 やる気じゃないか、と三人が思っているところへ、同じく参加者の一人であるクロイツが寄ってきた。
「やる気だな、グリフィス殿──。」
 そして、三人が思っている通りのことを口にする。
 彼自身はあまりやる気ではないようである。
 これは自分とタイ・ホー、そしてグリフィスが頑張る事になりそうだ、とヤム・クーがやや心配を伴なって思った刹那。
しょぉりのさんさんななびょーしっ!!!!」
 ひびく、グリフィスの声が続いた。
「……………………………………。」
 ちゃんちゃんちゃんっ! と、軽快なリズムに乗っ取って手拍子が展開されていく。
 黙って見守る一同の前で、見事決まった手拍子の後、グリフィスは手にした扇子を開いて、宣言した。
「よしっ! その調子で、俺と共に応援にせいを出すぞっ!!!!!」
 がく……っ!
 やる気はやる気でも……泳ぐ気はないやる気か……っ!!
 思った一同は、そろって隠れ溜め息を零す。
「あいつもわたしと同じか……。」
 クロイツはげんなりとした気分で呟く。
「…………ほ、他には誰がいるんでしょうね? アンジー達が居てくれたら、随分楽なんすけど。」
 気を取り直して、ヤム・クーが辺りをみまわす。
 スイのことだからきっと、勝利への卑怯技も満載に考えているに違いないと踏んだのである。
 が、しかし。
「………………すまんが、俺も泳ぐのだろうか?」
 近付いてきたのは、泳ぎのエキスパートではなく、暗闇のエキスパート、盲目のモーガンであった。
「……………………………………え…………とお?」
 さすがに誰も何も言えなくなったのか、空をあおぐものが続出している。
 閉じた空間である空には、小鳥一羽として飛んでいない。それがまた心の中に一抹の不安がよぎる原因となったのであった。
「ん、やってるやってる。」
 そこへ、一応様子を見に来たリーダーが近付いてくる。
 彼は、人生を悟ったような顔をしているモーガンを発見して、いぶかしむように彼に尋ねた。
「何やってんの、モーガン? 服なんて脱いで?」
 その眼は、露出狂を発見したと言いたげであった。
「水の中は……苦手なのですが、やるしかないと思いまして。」
 盲目である彼は、気配でその全てを見切る。
 が、水の中は気配もなにも、わかりにくいし、まだまだ未熟者である自分では、到底何も分からないに違いないとモーガンは思うわけだ。
 だが、これも星主の示した試練ならば、いつかは乗り越えなければいけないことだから──と、彼は密かに悲痛な決意を行っていたのだが。
「は? 何言ってるの? モーガンは船の上での救助係りだろ? ほら、人物配置図にも書いてあるし、タイ・ホーが教えてくれただろ?」
 いかにも、呆れたと言わんばかりの態度でスイが配置図を示す。勿論モーガンには見えないので、タイ・ホーにも知らせてある旨を告げた。
 その後すぐに、タイ・ホーがキンバリーに捕まっているのを発見して、あれじゃ、伝えるのは無理かと、配置図をカシムに手渡そうとした。
 瞬間、いつにないスピードで、クロイツとグリフィスの二人が近付いたかと思うや否や、配置図を奪い取り、何時の間にか手にしていたペンで、それを書きなぐった。
 そして、すっきりした表情で、書き換えられた後のそれをカシムに丁重に渡す。
 カシムが無言でそれを見ると同時、スイも覗き込み──二人ソロって溜め息を零す。
 遠泳選手の二人の名前が塗りつぶされ、汚い字で救助隊の所に名前が書き足されていたのである。
「……ったく、カナヅチなのか、もしかして?」
 どちらにしろ、これは自分が決めた選手表ではない。
 だから、多少書き直されても何も思わないスイは、好きにしてくれ、と書き換える事なく、そのままカシムに手渡す。
 カシムもそれを書き換えたい衝動に駆られたが、ここで自分達が抜けると、選手層が薄くなるのは分かっていたので、苦笑を滲ませながらもそれを受け取る。
「後選手は誰がいるんですか?」
 タイ・ホーが知っていても役に立たない以上、配置図を持っているカシムと、それを持ってきたスイに聞くのが一番だろうと、バレリアが着替えのための袋を手にしながら尋ねる。
 それに答えようとしたカシムが配置図を広げる。
「…………スイ、俺も泳ぐのか?」
「うわぉっ!!」
 配置図のゴール地点に配置されるはずの男から、のっそりと声がかかったのは、ちょうどその時であった。
 地獄の底から聞こえたかのような声で話し掛けられ、この場に集まっていた面々は思わず悲鳴をあげる。
 密かに心臓を高鳴らせた一同に対し、スイは無頓着に彼を振り返った。
 そこには、血の気のひいた、土気色に近い顔立ちの男が立っていた。やさぐれている、という表現がとてもぴったりなキルケである。
 どんよりと暗い、しかも顔色も悪い黒い男は、悲鳴をあげた者達に、言葉だけの謝りを口にする。
 それから彼は、いつものトレードマークの鎌を重そうに肩に乗せながら、どんよりとした表情でスイを見やる。
「何だよ、キルケ? もうすでにしょってるじゃないか?」
「うむ、……どうも水の側は重くてな。」
 意味深な会話が、二人の間で交わされる。
 その言葉の意味がわかるのは、きっとごくごく一部だけであろう。モーガンはその言葉を聞いたと同時、密かに後退している。
「だから、おそらく俺が泳ぐと…………凄い事になると思う。悪いが、俺は選手から外してくれるか?」
 キルケの自己申告に、彼ははじめから外れている旨を告げようと、カシムが口を開くよりも先に、
「大丈夫、これも試練だよ。」
 と、にぃっこりとスイが笑った。
 不吉な笑顔を浮かべた軍主は、配置図を手にしたカシムの腕を、左手一本で押さえつける。
「声がウキウキしていると思うのは、私のきのせいか?」
 ぼそり、と尋ねたバレリアに、ヤム・クーは無言で首を振る。
「いえ、確かにそう聞こえます。」
 二人はよく知っていた──スイがウキウキするときほど、ろくな事はないと言う事を。
 何とかしなくては、と思ったと同時、
「おーい、てめぇら。もう始まるみてぇだぞ。」
 キンバリーを片腕にしがみつかせたタイ・ホーが、そう呼びかけてくる。
「さぁって、俺達は船に乗り込むかっ!」
 例え何かあったとしても、救助隊の自分達には関係ないとばかりに、グリフィスが片腕を振り上げる。
「…………まぁ、気を付けてくれ。」
 クロイツが、重々しく──まるで今生の別れのように、そう言い残して歩き出していく。
「ま、なんとかなりますよ。さ、いきましょうか、バレリアさん、カシムさん、キルケさん。」
 気軽に言ってくれるのは、海の怖さを知っていると同時に、海のことをよく知っているヤム・クーである。
 彼は早く来い、と叫んで居る兄貴分に、今行くと叫びかえして、さっさと歩き出す。
 バレリアもカシムも、後ろ足引かれる思いで、それでも進むしかない自分達に、溜め息ばかりを零す。
「いや、だから俺は──。」
 止めた方が、と言い掛けたキルケは、
「さっ、レッツゴーっ!!!!」
 どぉんっ、とスイに思いっきり押されて、そのまま選手の着替え室(単にカーテンで囲っただけの場所)に飛ばされる。
 スイは満足気に頷いた後、一番被害が少なくて、見やすいであろう審査員席に向かって歩き出すのであった。
 その直後、
「あっ! スイ様っ! いつまでたっても帰ってこないから、グレミオが心配してましたよっ!」
 ちょうど向うから歩いてきたパーンに出会った。
 彼は小走りに走ってスイに近付いてきた後、それはそれは不思議そうに尋ねた。
「どうかしたのですか? 随分嬉しそうですけど?」
 それに対して、スイは満面の笑顔で答えた。
「今から面白いものが見れるんだよ♪」
 ──────と。


 一方、審査員席に座るテッドは、あまりの暇さにテーブル顎をつけてふて寝しかけていた。
 スイでも遊びに来たら、何かさし入れを持ってこさせようと密かに思いながら、レックナート秘蔵の、葉で食べてもおいしいお茶とやらに手を伸ばす。
 その刹那、彼はびくんと肩を揺らし、慌てて上半身を起こす。
 すでに紋章はないはずなのに、三百年という月日が身体にも馴染んでしまっているのか、右手の甲がちりちりと痛む。
「これは……っ。」
「湖では今……遠泳が行われているようですね。」
 慎重にレックナートが呟き、軽く目を細める。
「随分──集まってるな。」
 ぞくぞくする背筋に、テッドが身を震わせる。
 オデッサは何かしら寒気を覚えるだけらしく、腕を擦りながら、
「どうかしたの?」
 と、不安げにテッドとレックナートを見あげる。
 テッドはそれに難しい顔で頷いて見せる。
「ああ、湖で一波乱ありそうなんだよ。」
「この分だと、さぞかし選手達は苦難でしょうね。」
 レックナートもほう、と溜め息を吐くと、そう呟く。
 その二人の声を受けて、初代解放軍リーダーは、当然のごとく言ってのけた。
「苦難が多い方が燃えるし、面白いから、いいんじゃないの?」
 ──と。
 それはまるで、現リーダーをほうふつさせるような台詞であったが。
「ん、それもそうか。」
「ですわね、ほほほほ。」
 という、似た者同士の笑い声によって、認められてしまうのであった。
──────選手たちの苦労など、まるで知らずに。



「が……ごほっ! ……ゴ──っ!」
 まず溺れたのは──否、脚が引っ張られたのは、カシム・ハジルであった。
 唐突に自由が利かなくなり、慌てて両手をばたつかせるものの、何の役にもたたない。
「く……っ! ん……っ? な、なに……っ!!?」
 続いて、身体が引っ張られるような感覚を覚えたのはバレリアであった。
 彼女は不幸にも、湖の中に顔を浸けた瞬間、それと眼があってしまった。
「んーっ!!!!!」
 悲鳴はしかし、泡となって消えてしまう。
「……………………すまん……………………ゴホゴホゴボ……………………。」
 その原因の一角をになうキルケは、ただそう呟いて、スタートと同時に、湖のそこに沈んでいった。
 だから駄目だっていったのに、という呟きは、誰にも聞こえなかったという。
 救助隊の船の上から、その異様な様子を観察していた一同は、慌てて浮き輪を用意し始める。
「何かが……引っ張っているようだな。」
 モーガンが忌々しげに呟いて、溺れているカシムに向かって浮き輪を放り投げてやる。
 しかし、いくら浮き輪に捕まっても、何故かカシムの身体は沈んでいった。それを食い止めるために、モーガンは浮き輪に繋がったロープを引っ張る必要があった。
「えっ!? 何かってなんだよっ!?」
 同じく、バレリア向かって浮き輪を投げたグリフィスは、しっかりとロープを持ちながら叫びかえす。
「来てる──来ているぞっ! 水難者が……………………。」
 嫌そうに呟いて、クロイツが同じく浮き輪を投げる。
 その彼の言葉に、一同は思わず救助隊に設置されている聖水を振り返った。
 どうりで、乗り込む時にスイが笑顔でこれを渡してくれると思ったのだ──そう言いたげに。

「〜〜♪ なんか後ろがさわがしくねぇか?」
 気分よく泳いでいたタイ・ホーは、ふと後続の者が来ないのに気付いて、隣を泳ぐヤム・クーに尋ねた。
「皆さん、水のお守りをつけてないから、捕まってるみたいですよ。」
 応えて、ヤム・クーは自分たち漁師が常に持っているお守りを示す。
 これは、水の災難から守ってくれるもので、おかげでヤム・クーもタイ・ホーも襲われずにすんでいた。
「そうかー。ま、そういうこともあるわな。」
 お気軽に言ってくれるが、実はそう気軽なことではないのも確かである。
 兄貴の相変わらずの口振りに苦笑を見せながらも、
「救助隊もいるから、大丈夫でしょうけどね。」
 ヤム・クーはそう答えた。
 とりあえず自分たちは、泳ぎきる事が重要なのだと、言いたげに。






「──────ごぼ──────ごぼぼぼぼぼぼぼ──────────。」
 湖の奥底──────帝国兵を率いるカナンもまた、沈んでいた。
 そのことに気付いたのは、ウィンディだけであった。
「沈んでるよ。ったく、使えないね。」
 彼女は、水晶球にその様子を映し出しながら、舌打する。
 そして、忌々しげに、テオに向かって吠える。
「テオ=マクドール、あんたの息子は相当な策士だね。」
 皮肉めいたその口調に、テオもアイン・ジードも無言で答えた。
「………………(いや、あれはきっと趣味だろう)。」
「………………(あの子のことだから、そうに違いない)。」








 見事泳ぎきったタイ・ホーに、キンバリーからの勝利のキッスv が贈られるのは、もう少し後のことであった。










 セイラは、嫌がる選手達に詰め寄っていた。
 その手に握られている者は、身を包む面積のほとんどない、きわどい水着であった。
 これを着るのは恥ずかしいらしいが、これを着てもらわないと、何も始まらないのである。
 セイラは無理矢理それを押し付けて宣言する。
「洗濯はしといたよ。きっちり着るんだね。」
 着なきゃどうなるか──わかってるんだろうね? と、脅しをかけるような口調に、相手はおずおずと水着を受け取った。
「こっちはあたしがわざわざ縫った、水泳キャップだ。これを使えば髪の毛も綺麗に治まるはずだよ。ほら。」
 ロニー・ベルもまた、乱暴とも言える手つきで、選手たちにキャップを手渡す。
 その隣で、水泳キャップを作のを手伝わされたモースが笑っていた。その笑顔は、面白くてしょうがないといいたげである。
「ま、これも花嫁修業だ。これも、な。」
 いくつかの失敗策を背後に置いて、ロニー・ベルが仁王立ちするのが面白いのか、それ以外の理由からなのか、見ている側からは判断できない。モースはくっくっく、と笑い声を無理に口の中に封じて、ロニー・ベルにそれを知られたらまずいと、彼女に背中を向けた。
 幸いにしてロニー・ベルは、モースの様子には気付いていないようであった。
 なかなかの出来である自分の水泳キャップを選手が着けるのを待っているように、じっと正面を睨んでいる。
「シンクロと言えば、水泳競技の花形……。」
 ふらり、と、失敗水泳キャップの山の背後から現われたのは、水泳キャップに良く似た帽子を被ったイワノフである。
 彼は、筆を持った手をだらりとさげて、人生につかれたような表情をして、選手達を見た。
「こうして絵に描こうと思って、参加させて頂いたのに………………。」
 ふっ、と、世を儚むような笑みを見せて、イワノフは新しい絵の具の乗ったキャンパスとパレットを見下ろす。
「花まで用意したのにな。」
 隣から、ゼンが呟く。彼の手には、おおぶりの花が花束になってまとめられていた。それが一生懸命、精魂込めて作った力作の花であろう事は確かである。
 これを、シンクロに参加する選手にささげようと思っていたのに……──、
「無駄になるかな……。」
 ゼンは、深く溜め息を零す。
「わしの花をそんな事に使わせんぞっ!」
 向うで表彰台の準備をしていたブラックマンが、ゼンが抱えている花を発見して叫ぶ。
 そんな叫びを聞いて、ゼンはブラックマンが見ている先を見やった。
 そこでは、選手である三人が、湖岸で円陣を組んでいた。
 暗雲が一同の上に落ちている。うな垂れた項にかかる髪の毛が、どこか哀愁漂っていた。
「そりゃ──水の上は得意だぜ?」
 暗い雲を背負った一人が、ボソリと呟く。
「そりゃ、泳ぎもいけますけどね。」
 同じく、隣に座っていた一人が呟く。
「だからって──。」
 長く尾を引く頭飾りを振り乱して、耐え兼ねた一人が、顔を上げて叫んだ。
「シンクロナイズドスイミングかぁぁぁぁーーーーーーっっ!!!!!!??????」
 男の、あまり美しくないだみ声が辺りに響いて、シンクロの選手を見守っていた一同は、重く溜め息を零すのであった。




 シンクロと言えば、水泳競技の花形である。
 そこでは、水の中の可憐な花が咲くのである。
 こんな一大イベントを、女好きで有名な彼が見逃すはずはないのである。
 途中で捕まえた少年を、無理矢理拉致して付き合わせてきたシーナは、その場で唐突に動きを止めた。
 そして水泳水着と水泳キャップを手にして叫んで居る湖賊を発見して──、目を据わらせる。
「……………………おい、ルック。」
 地獄の底から響いたかのような声が、シーナの唇から零れる。
「何?」
 どうせ返ってくる答えなど分かりきっているだろうに、わざわざルックは付き合ってやった。
 シーナの精神的ショックがどれほどのものなのか、一応分かっているためであろう。ただ単に、黙っていても言われる事は同じだと分かっているためかもしれない。
「まさか、シンクロって──湖賊か?」
 動きを止めて、前を凝視したまま尋ねるシーナに、ルックは一瞥する気すら起きずに、
「選手表見てないの、君?」
 冷たく言い放った。
 刹那、
ウーソーだーろーっ!!!!」
 シーナの心からの叫びが響き渡った。
「……るさいな、もう。」
 ルックは、つれてこられた事を後悔しながら、ふい、と顔を反らした。
 その後ろから苦笑じみた声がしたのは、シーナのおたけびの声の余韻が消えた後であった。
「まぁ、その気持ちもわからないでもないんだけどね。」
 苦笑して見せたのは、解放軍の華、美女軍団の一人であるクレオであった。
 彼女もまた、水泳競技の様子を見に来たようであった。
「あ、クレオさん! なぁんで湖賊があんなのしてるんですかっ!?」
 ショックのあまり、石になりかけたシーナが、抗議の声をあげた。
 その勢いを理解しながら、クレオは後ろを振り返る。そこには解放軍の軍主である少年が立っていた。
「と、おっしゃってますけど……スイ様?」
 問い掛けるようにスイに尋ねると、シーナも勢い込んでどういう事だっ、とスイに怒鳴る。
 ルックもそれには同感だと言いたげに視線をスイにやって──小さく息を呑んだ。
 彼の顔は、お遊びに付き合っているというものから一転して、戦闘中の表情のように険しくなっていた。
「……………………………………シンクロ、クレオが出るわけじゃ──ないよね?」
 確認する声も、どこか冷えている。
 シーナは抗議しかけた身体をややひいた。
 ルックも一歩さがっている。
「……………………。」
 クレオは溜め息を押し殺して、無言で湖岸で控える選手たちを指差した。
 そこでは、アンジー達が水着に着替えおわって立っていた。
 アンジーは、自分の足下を見て目眩を起こしていたし、レオナルドは湖に自分の姿を映してみて、早速それを後悔していた。
 カナックはもう何も言わず、遠く空を見ている。──どうやら諦めの極地に達したようであった。
 着替えおわった服は、
「それじゃ、これは洗っとくからね。」
 セイラがさっさと回収していた。
 えっ!? と見やったアンジーは、彼女の鋭い睨み──解放軍の中にあってすら、その眼力は指十本に入る恐ろしいもの──を受けて、ぐっと言葉を失った。洗濯物にかける情熱の前には、誰も勝てないのである。
「アンジー……これで逃げられなくなりましたね。」
 呟く相棒の一人の諦めの声を背後に、
「俺の服返せーーーっ!!!」
 悲痛にアンジーは叫んだ。
 が、こんなことでセイラが戻ってくるはずはないのであった。
「私の芸術魂がっ! これは駄目だと叫んで居るぅぅぅーーーーっ!!!!」
 イワノフがアンジーの声に応じるように叫ぶ。
 湖岸は、一種の危険地域になっていた。
 スイは遠くそれを眺めて、ぐる、とクレオの目を向けた。
「誰だ……あんなチーム編成したの──。」
 声は、低かった。
 クレオは苦笑いをかみ下しながら、
「確か、レオン殿だったと思いますが?」
 そう答えてやる。スイ自身も知っているはずの答えではあったけれども。
「えっ!? 何っ!? スイが組んだわけじゃないのかよっ!?」
 怒りの矛先をどこへやっていいのかと、シーナが怒鳴る。
「腐りそう……。」
 吐き捨てるようにルックが呟き、目を閉じる。
 スイはもう一度湖賊を見やった後、
「レオンーっ!!!」
 と、叫んで走り去った。
 どうやら、逃げたようである。
「あっ、ずりぃっ!」
 シーナがそれを見送った瞬間、
「あ、始まるみたいだね……。」
 ルックが嫌に冷静に呟いたかと思うや否や、その姿をその場から消した。
 しゅん、と風の音のみが残る空間を見て、
「ルック君も逃げましたね。」
 これはきっと、誰も応援に来ないに違いない。
 クレオ自身もここから逃げたい気分であったが、そんなことをしてしまったら最後である。応援者が一人もいないどころか、罵倒だけが飛ぶ競技など、湖賊もやる気が出ないに違いない。
 今は一勝でもしてもらわなくては困るのである。
 だから──例え吐きそうだとしても、鳥肌がたったとしても、最後まで応援する人間が、今は一人でも必要なのである。
 ルックとスイが逃げた後を見て取ったクレオは、一瞬でそう判断して、隣の少年を巻き込む事に決定させた。
 これもまた仕方ないと、クレオは疲れたように笑った。
 そして、己も逃げようとしているシーナの腕を掴むと、
「シーナ君も応援しにきたんですよね?」
 と、絶望の表情を浮かべるシーナに向かって、微笑んであげたのであった。





─────────あまりにもすざまじい画像となっておりますので、音のみでお送りいたします。

「はぁっ!」 (やる気の掛け声)
 ばしゃばしゃばしゃっ!(水音)

「う……っ、うぷっ……。」
「すね……すね毛って、美しくないっ!」
「うーわー……なんていうか──見に来て損した感じ。」
「メグ、からくりというのはだな……。」
「おじさん、実はちょっと混乱してるでしょ?」
「う……うぐっ──は、吐き気が……っ。」
「ああ……っ! 気分が……っ。」

「ふんむっ!」 (結構やる気。今技が炸裂した所。後湖賊命名「必殺花水木」)
「ほぉぉぉーっ!!」 (さらにリフトが完成。彼らは自身満々であったが、見てるほうには視界の暴力)
 ばっしゃん、ばしゃんばしゃん (激しい水音。出たり入ったりしています)




「なんかさー、湖賊だっけ? あの三人、結構やる気になってないか?」
 テッドが審査員席に常備された双眼鏡を覗きながら、呟く。
 同じく双眼鏡を覗いていたオデッサは、顔を真っ青にさせて、口元を手で覆う。
「う……これは、さすがに……なんていうか──駄目、私。生理的に駄目っ! 横もれは平気だけど、こういうのはちょっと……っ!」
「さりげに凄い事言ってるけど……俺もその意見には同感。」
 湖賊が、なかなかノッテルのは分かる。頑張っているのも分かるが、男のすね毛の生えた脚が湖面からニョキと出てきても、楽しくないのである。
 机の上に置かれたお菓子やお茶にも手をつけることなく、二人は双眼鏡から目をそらした。
 ただ一人、レックナートだけが必死な様子で双眼鏡を覗いている。
「そうですか? なかなかいいではありませんか?」
 その声は、ウキウキとしていて、とても嬉しげであった。
 隣の人からのその台詞に、オデッサもテッドも驚いたような表情を浮かべて、引き攣った笑みを浮かべた。
「真面目に言ってます? レックナート様?」
「いいですわね、あの脚……あの身体……。」
「…………なんかよだれとか零しそうで怖いわ。とりあえず、こっちで勝手に点数決めちゃいましょうよ、テッド君。」
「え? いいのかな?」
「かまわないわよ、レックナート様、どうせこっち見てないし。」
 オデッサがヒラヒラと手を振りながら言うのに、テッドも視線をやって、成る程、と納得した。
「それじゃ、解放軍マイナス100000点ってことで、帝国側の勝ち〜。」
「帝国まだ競技してないけど、金メダル決定〜。」
「っていうかさ、帝国の兵もアレ見て、倒れてるんだけど〜? ……ま、いっか♪」
「棄権した帝国側の方が優勝とはこれやいかにっ!? ってとこかしらね〜?」
 スイの味方であり、解放軍の味方であるはずの二人は、さっさと私事で点数を決めて、書き込んでしまうのであった。
 これもまた、戦争の悲劇というものなのかもしれない。
 




現在二勝二敗……