もう一つの戦争の始まり


 












 

プロローグ──禁断の儀式魔法





 その星見は、いつも唐突に姿を現す。
 いつもいつも夜中に人をたたき起こすところが多いので、星見様の弟子に、いいかげんにしてくれと伝えてくれと言ったばかりの出来事であった。
 いくら夜中に来るなと言ったからと言って、なんでまた、こんな昼間っから──それも兵士達も数多く揃っている前で出てくるかな?
 今や時の人となった解放軍のリーダーは、呆れたような目を隠して、年齢不祥の美人を見あげた。悔しいかな、成長が止まってしまった身体は、ついにこの女性を追い抜く事はできなかった。
「スイ……。」
 彼女は、年相応の落ち着きでもってスイの名を呼んだ。
 唐突に現われた謎の美女に、兵達は色めきたち、何事だとうろたえるものも多い。
 スイはそんな彼らを背後にして、星見の女性を正面から見つめた。
「どうなされました、レックナート様。」
 言いながら、星見様の弟子を一瞥すると、彼は嫌そうな表情をしてスイに目配せした。つまり、これは僕の知った事ではないよ、とのことである。
 二人のそんな秘密の目配せにも気付かず、レックナートは微笑んで言った。
「ついにここまでやってきたのですね。」
 感無量と言った感じのレックナートに、ああ、とスイは呟く。
 そう言えば忘れていたが、レックナートの姉が帝国の皇帝である男の愛人として治まっていたのだった。
 この最後の戦は、彼女にとっても重要な意味があるのだろう。
 その謎に関してはあまり詳しく知る事はなかったけれど。
 だから、レックナートは、このような重要な場所にも脚をのばしてやってきたのであろう。
 赤月帝国の滅ぶとき──今まさに、解放軍がグレッグミンスターに攻め入ろうとしているこの瞬間に。
 スイの背後で、最後の戦を前に興奮を押し隠せない兵達が号令を待っている。
 今まで共に戦ってきた兵達が、期待の眼差しを……さまざまな意味をこめて、スイに目を向けている。
「ええ、これも皆のおかげです。」
 少し微笑んで答えたスイに、レックナートは目頭をハンカチで抑える。
 いやに感慨深げな態度であったが、彼女はルック同様、自分が帝国の使者として行ったときから──まだ何もかもに恵まれていたぼっちゃんぼっちゃんしたころからの知り合いである。それも一番始めに自分の運命を告げた人物でもあるのだ。
 彼女なりに自分をとても心配してくれていたのだろう。
 今こんな時に現われたことに関しては、渋面せずにはいられないが、その気持ちはありがたく思える。
「スイ……本当に、よくここまで……──。」
 言いながら、彼女は瞳を細めるようにして帝都の方角を見た。
 そこには先程宮廷魔術師ウィンディによって呼び出された魔族の軍団があった。
 レックナートが現われたのは、まさに魔族の軍団にどうしようかと一同が頭を突き合わせていたところだったのだ。
 先ごろ本拠地に現われて、「最終決戦にはわたくしも同行させてください。」と言った張本人のくせに、なかなか来ないので、すっかり忘れていたところだった。
 だからといって、なにもこんなところに突然テレポートしてこなくても、と苦々しく思いながらも、それを表面に出さずに、スイは微笑みすら見せた。
「…………。」
 これで最後なのだ。こんなところで下手な動作は見せてはいられないのだ。
 だから、無言で帝都を見やる。
 黒く埋められた影は、全て人ならざぬもの。それを率いるのは、ユーバーという不気味な騎士。そして高笑いしているのがウィンディであった。
「レックナート様。感動しているところ、申し訳ないのですが……今はあの魔族をどうにかしなくてはいけません。」
 言いながら、スイは自分の軍師達を振り返る。
 背後に控える兵達は、奇妙な緊張と恐れに顔が引き攣られている。
 最後の戦への興奮と、そして怪奇な化け物達への恐怖。それをリーダーたるスイは、正規軍師を欠いた状態で士気をあげなくてはいけないのだ。正直な話、レックナートに構っている余裕はなかった。この女性が手を貸してくれるというのなら、話は別なのであったが。
「あら? まぁ、ほんとうに。」
 呑気な声をあげるレックナートは、つい先日復活した自分の従者に似ていた。きっとあの二人は気が合う事だろうと、こんな時にもかかわらずそんなことを思ってしまった。
「あれは、ウィンディが門の紋章で呼び出した魔族ですね。」
「…………さすがにあれだけの数は、僕の紋章でも戻す事はできません。詰めで最大の難問にぶつかっているということですよ。」
 答えながらも、スイは右手をきつく握っていた。
 例えこの身体が倒れても、紋章で吸い尽くす気は勿論あった。
 しかし、倒れた後に、この呪われた紋章が暴走しないとは限らないのだ。
 もしも、魔族全てを飲み込んだとしても、この紋章が暴走して、味方を食らい始めてしまえば話はまるで違ってくる。折角ここまで来たのに、解放軍は負けてしまう。全滅だ。勿論赤月帝国もそうであるだろうから、この地はジョウストンに飲まれるのが関の山であろう。
 精神の続く限りあれらを吸い取り、さらに紋章が暴走しないようにしなくてはいけない──スイはその過酷さに、顔をしかめずにはいられないのである。こんな時に、レックナートに構っている暇はないのだ。
 その緊迫感を見ているのかいないのか、彼女は顔を帝国軍の方に向けた。
「ウィンディ……あなたもまた、やる気なのですね。」
 しんみりと隣で呟かれて、スイは何も言わず副軍師であるレオンを見やった。
 姉が……敵がやる気になっているのを、幸せそうに呟かれて一体どうしろというのだろう?
 無視するしかないではないか。
「レオン、カゲ達を偵察に向かわせてくれ。正面から向かうわけにはいかない。」
「はい、それでは今から……。」
 レオンが恭しく一礼してから、忍者達に指示を与えようとしたまさにその時である。
「スイ。それでは、始めましょうか。」
 ごくごく当たり前のように、レックナートが宣言した。
 美しい笑顔とともに。
「……………………何をですか、レックナート様?」
 何を言い出すんだ、こいつは、と思いつつも、それをまるで表に出さないで、スイが冷静な声で尋ねた。
 レックナートはその秀麗な面をあげて、感動したような表情で辺りを見た。そして、しっとりと唇から溜め息を零した後、
「長かったんです──私たちの一族が襲われてから今まで、ずっと……そう、ずっと、私はこの時を待っていたのです。」
 スイは無言でルックを見た。
 ルックはわかるかよ、と言いたげに眉をしかめて睨んでくる。
 レオン達が尋ねるような視線をスイに向ける。しかし、そんな目を向けられてもスイには分からなかった。
「レックナート様、待っていたと言うと、ウィンディと対決することをですか??」
 自分の世界に浸っているレックナートに、おずおずと声をかけたのは、クレオ達と一緒に側に控えていたグレミオであった。彼はつい昨夜、レックナートによって蘇ったばかりで、まだ本調子ではなかった。
 やや青白さの残る顔で、グレミオは再び言葉を重ねる。
「それとも、門の紋章がこうして集うことですか?」
 その言葉は、どうやら見事的にあたったようである。
 レックナートは、それはそれは嬉しそうに微笑んで、グレミオに告げた。
「そうです、グレミオ。あなたも伊達にソウルイーターの中で修行を積んでいませんね。」
 何がだ、何が、とスイは至極突っ込みたくなったのだが、それを「軍主」の自覚で、ぐっ、と堪える。
「いえ、私は別に修行は積んでなんか……。」
 反論を口にしようとしたグレミオの口を、クレオが塞いだ。
「いいから、あんたは黙ってな。」
「えー、だってクレオさーん。」
 情けない声をあげるグレミオの脹脛を、問答無用でクレオは蹴った。
 今はそんなくだらない言い合いをしている暇などないのである。何せ、敵には数万にも値する魔族がいるのだから。
 痛みに悶絶するグレミオを放っておいて、クレオはレックナートの言葉の先を待った。もしかしたら、彼女がこの魔族の群生をなんとかしてくれるかもしれないと、密かな期待を抱きながら。
 スイもそれは思っていたらしい、無言でレックナートの顔を見詰めて、その先を待っていた。
「私は待っていたのです。表と裏の紋章が、ここに集うその時を。互いに人を率いて、こうしてあいま見えるその時をっ!」
 宣言したレックナートに、
「いえ、この軍はあなたの軍ではなく、解放軍であり……──。」
 レオンが反論しようとしたが、
「うるさい。」
 それは小さく言い切ったスイの脚によって遮られた。多くの軍生を率いるリーダーは、誰にも分からないように弁慶の泣き所を蹴ったのである。
 今は反論している暇などないのである。レックナートが何をしたいのか、おとなしく観戦しているつもりなのか、そこのところを口にしてもらわなくてはいけないのだから。
 レオンが痛みに声を途切れさせたのを感じながら、スイは穏やかに微笑んでレックナートに尋ねた。
「それで、レックナート様? 合間見て、どうするおつもりなのですか?」
 穏やかな台詞は、静かであった。けれど、それを間近で聞いていたグレミオが、ぶるり、と背中を震わせるような声色であった。おそらくそれに感づいたのは、グレミオやクレオ、パーンくらいのものであろう。
 いつもスイの陰険な攻撃の的になっているフリックやビクトールですら、騙される笑顔であった。
「それは、向うも分かっているはずです。ちょうど……時間ですからね。」
 婉然と微笑んで、レックナートは頭上を見上げた。
 そこには、朝焼けを払い落として煌煌と光る太陽が在った。
 完全な夜明けであった。
「向う……。」
 スイは無言で視線を転じた。
 ウィンディは、レックナートが現われたのを敏感に感じ取ったのか、不敵に微笑んでいた。
 レックナートもウィンディも互いを認めるように微笑んだ。
 そして、互いに語り掛けるように、風に囁く。
「今こそ……約束のとき。」
「ええ、お姉様。約束を果たすときです。」
 二人の顔には、微笑みが浮かんでいる。それは、どこか満足げであった。
 スイは厳しい表情で、二人の顔を見交わした。
「表の門の紋章。」
「裏の門の紋章。」
「二つの門の紋章が揃うこの時。」
「今こそ古の儀式が復活する瞬間。」
 長い距離を経て、二人は互いに囁き合う。不思議とその声は、この辺りに広がった。
 うずき始める右手を感じながら、スイがいぶかしげに眉を引き締める。
 空気が荒れている予感がした。
 この感覚は、今まで感じた事がなかった。ソウルイーターが発動するわけでもない。ただ、右手がうずいている。
 何かを恐れるように、何かに触発されるように。
 そう、まるでこれは……──。
「儀式……──?」
 スイがそうぼやいた瞬間、それは起きた。
 距離を隔てたレックナートとウィンディとの間に、光が生じたのは。
 突然世界が光に侵食される。
 それは一瞬で世界を覆った。帝国軍も、解放軍も、魔族も、何もかもを飲み込んでいく。
 眩しさに顔をしかめたスイを、咄嗟にグレミオがマントの中にかばい、クレオが両手を顔の前にかざしながら、そんなスイとグレミオを庇うように立つ。
 マントを持つものは、そこに自分の顔を埋めて、光に耐える。
 一面に広がったそれは、永遠にも続くかと思われた。
 しかし、それは一瞬で引いていった。
 そして、元どおりの静けさを取り戻す……はずであった。
 強烈な光に見舞われた一同が、目を擦りながら正面を見据えた瞬間、どよめきが起こったのである。
「……………………………………。」
 全ての兵士達の間に走ったのは、動揺であった。
 スイは、グレミオの腕を押しのけるようにして彼のマントの中から顔を出して……身体を強ばらせた。
 さすがのリーダーも沈黙でもって目の前の物を見つめるしかなかった。
 何度目を擦っても、帝国軍と解放軍との間に現われた異物は消えなかった。
 スイはそれを見てから、無言で星占い師に目を向けた。
 彼女は、光とともに現われた「物」を感じ取って、目頭を抑えて感動していた。
「ああ、やっと……やっと蘇る時が……──。」
 感無量とばかりに呟いている彼女の仕業だと、しっかり知ったスイが、とりあえず彼女に冷たい目を向けた。
「あの、レックナート様……これって、何ですか?」
 とりあえず突っ込んどかなければならないだろうと、スイが無言で聳え立つ台を指差した。
 光とともに、解放軍と帝国軍との間に生まれたほどよい高さの台である。
 およそ二階立てくらいの大きさの台には、広い階段が付けられていた、ここから頂上はよく見えなかったが、おそらく狭い部屋くらいの大きさはあるのだろう。ただわかるのは、綺麗なレリーフが模されている大きな燭台が置かれているということだ。その燭台は、下から見下ろしても分かるくらいの大きさがあるのだ。
「見て分かりませんかっ! 聖火台ですよ。」
 興奮した面持ちでレックナートは語った。
 目が開かれていないのがちょうど良かったのかもしれない。きっと目は怪しいくらいの光を宿していただろう。
 スイは無言でルックを見た。この人、何言ってるの? と聞きたいらしい。しかしルックから答えは返ってこない。
 彼は遠くを見て他人の振りをしていたのだ。きっと今の心境は、彼女と師弟関係にあるなどと知られたくないという所にあったのだろう。
 仕方なくスイは、物知りであるはずのクラウリーを見やった。彼なら、レックナートが起こしたこれの意味がわかるだろうと思ったのだが。
 しかし彼は、何故か恐怖心を覚えたかのような表情で、レックナート曰く「聖火台」を見ていた。その肩が震えている。
「あれは……そんな馬鹿な……っ。」
 声まで震えていた。年齢が年齢だから、今にも倒れそうに危なかった。
 おびえたようなその態度に、スイはさすがに聞くに聞けなくなった。
 今度は自分の傍らに立ったままの解放軍の幹部一同を見やった。が、答えは返ってこない。なぜなら一同は、揃って驚愕に打ち震えていたのだから。
 突然目の前に現われた怪しい台について、口々にざわめいていたのだ。
 彼らは役に立つ情報を持っていないのだと、スイは溜め息を押し殺した。そして、他に知っている人がいるだろうかと、背後を振り返ろうとしたその時。
「聖火台というとー……昔、どこだったかの一族が儀式をするときに、聖なる火を灯したと言われる物じゃなかったでしたっけ?」
「……ああ、そう言えばそんなことを聞いたような覚えがあるな。」
 何故か答えは、身近な人間から返ってきた。
 スイを庇うように立っていたグレミオとクレオが、互いに確認し合うようにそんなことを言っていた。
 顔を見合わせているグレミオをクレオを見て、スイは眉を顰めた。
「なんで知ってるんだよ?」
「ええ? 常識ですよぉ、ねぇ、クレオさん?」
 当たり前のように下男に言われると、スイのこめかみがピクピクと動いた。
 密かにそれを聞いていた幹部の一部が、背中に暗雲を背負った。たかが下男で従者である男の知識に負けるとは、と思っているのは間違いないことである。──が、
「ほんと、クレオ?」
 グレミオの知っている「常識」が、本当に世間一般で言う「常識」であるとは限らないのだ。
 だから、一般常識をわきまえているクレオに尋ねて見る。
「ああ、まぁ……ある程度は。」
 苦笑すら滲ませて、微妙な言い方でクレオが答えた。つまり判断するに、
「ああ、マクドール家においての常識ってこと?」
 スイが断言した通りなのであろう。
 おそらく情報源は、テッド辺りだ。
 300年も生きていたテッドは、本当に妙な情報をたくさん持っていたから。
「でも僕は聞いた事なかったけど……。」
「それは、テッド君がそういう話をしているとき、ぼっちゃんが興味を持たずに、いたずらをしかけていたからですよ。ほら、風呂場におたまじゃくしを入れたりとか、パーンさんのベッドに……。」
「ああ、やっぱりテッドか……。ヨシュア、君は知っている? あの聖火台?」
 グレミオが懐かしげに延々と昔話を始める前に、スイはさらりと背後を振り返った。
 グレミオが余計な話を持っているのは、いつものことだが、今この時にして欲しいわけはなかった。
 先程駆けつけてくれたばかりの竜洞騎士団の団長を振り返ったスイは、彼の気難しげな表情にあたった。
 彼はいつも以上に眉間にしわを寄せて聖火台を見ている。
 スイの声が聞こえていた様子はない。
「ヨシュア?」
 再び問い掛けると、彼はゆっくりとスイを振り返って、
「まずいことになったようですよ。」
 そう、呟いた。
 何の事だと眉を寄せたスイに、ヨシュアは無言でビクトールを見た──いや、ビクトールの腰にささった夜の紋章の化身を。
 それこそが、答えを知っているとばかりに。
「星辰剣殿……あれを、ご存知かと思いますが、どう思われます?」
 同じ秘密を分けあうもののように、ヨシュアは至極当然風に尋ねた。
 それに対する星辰剣の答えは、はっきりしていた。
『……本物には違いないな。──すでに発動している。逃れる術はない。』
「やはり、そう見ますか。」
 二人(?)で納得している様子に、それが何を意味するのか分からないスイは、腕を組んで「それが何なのか知っている一同」を見回した。
 一体儀式として聖なる火を灯すという「これ」が、何の役に立ち、何の役割を果たし……どうしてクラウリーやヨシュアや星辰剣が恐れているのか、まったくもってわかりはしない。
 クレオもグレミオも、それが何を意味しているのかはわからないらしく、ただ首を傾げて、大層なムードを出している一団を見やっている。それらは、どう見ても聖火台とやらを恐怖の眼差しで見ていた。
 ただ、レックナートだけが、それを感動の眼差しで見つめている。
 スイは溜め息を押し殺して、見た目平然と聖火台を見ている人物に尋ねる事にする。
「…………ペシュ、ちょっと。」
 彼は、表情の分からない状態のまま、スイを振り向く。
 彼ならば聖火台が何なのか知っているだろうし、ユーバー以外のことでは、早々うろたえたりしないはずである。ヨシュアと星辰剣のように、互いにしかわからない会話をする相手もいないし。
 そこでスイは、鎧で覆われた男の首筋に棍を突き立てると、やや苛立った声で告げた。
「それで、これ、何なわけ?」
「……どうして俺が知っていると思う?」
 重々しい声で尋ねたペシュメルガに、スイは軽く片眉をあげて口元だけで微笑んだ。
 壮絶な微笑であった。実は表には出していないものの、最後の戦場で主導権を握っていない事実に、相当苛立っているらしかった。
「知らないわけないだろ? さっき、あれを見たとき、目を見張っていた。」
 しっかり一同の一挙手一動を見ていたわけである、この軍主様は。
 スイの勝ち誇ったとも見える笑みを見下ろして、ペシュメルガは無言で聖火台を指差した。
「………………あれは、門の紋章一族に伝わる、四年に一度の儀式で用いられるものだ。」
 四年に一度、という表現が少し気になりはしたものの、そういう物もあるのだろうと、一時納得して、スイは先に気になっていたことを口にする。
「表と裏の紋章が揃う事によって、出現するのか?」
 視線をやって、ウィンディが満足そうに笑っているのを見やる。向うの陣営も、突然の不思議な物の出現に、焦燥を煽られているようであった。
 ここは、先に冷静さを取り戻した方が有利であるのは確かである。
「ああ。……門の紋章の一族は、この儀式を五つの門と呼んだらしい。」
「五つの……? 何かを召喚するためのもの?」
 しかし、四年に一度、聖火台を用いて何を召喚すると言うのだろう?
 聞いても聞いても、余計に訳が分からなくなりそうな予感に、スイはすでにゲンナリしていた。かといってそのままにしておくわけにもいかない。
 必要ないと思って、一昔前以上前の儀式などは調べていなかったが、しっかり調べておけばよかったのだろう。
 ──一昔前の化石であるレックナートやウィンディ、ユーバーなどと付き合っている以上は。
 自分の勉強不足に嫌気をさしつつ、スイが尋ねると、ペシュメルガの頬がやや強ばった。
「そうだな……空間を召喚するというようなものか。」
「空間を召喚? 何も変わっていないと思うけど──。」
 空間を召喚という表現から察するに、この辺り一面が魔界になったとか、そういうことなのだろうけど。
 どう見ても辺りは何か変化しているようではない。
「……………………逃れられないのなら、同じか。」
 珍しく苦渋すら滲ませて呟いたペシュメルガに、スイもつられて苦渋を浮かべて彼を見あげる。
「逃れられない?」
 尋ねたスイに、彼は気難しげに唸った。
「ああ、そうだ。すでに術は完成されている。──油断したな。」
「完成って……………………あ。」
 いぶかしむように視線を上げたスイは、思わず声を上げてしまった。
 ざわめく一同を無視して、ウィンディとレックナートの二人が、向かい合って聖火台のふもとに立っていたのである。
 そのウィンディの手には、いつのまに握られていたのか、先に炎の灯った杖があった。
 不思議な杖であった。杖の先に灯った炎は、杖から吹き出ているのではない。その上に灯っている。まるで魔法で出したかのような──純白の炎。それは、灼熱の炎であることをしめしている。
 彼女はそれを、レックナートに差し出す。両手で持って、彼女の掲げた両手に。
 レックナートはそれを受け取り、さっそうと聖火台を振り返った。
 ウィンディはそれを満足げに見送った。敵方を味方に別れた運命の姉妹とは思えない、互いを信頼した動作であった。
 そして、
「今こそ、門の紋章一族に伝わる儀式が蘇るときです。」
 レックナートが悠然と告げる。
「全くだよ。これでやっと私達の長年の思いも蘇るってもんだ。」
 その背中を見つめて、ウィンディも微笑んだ。
 レックナートはそんな彼女を振り返ると、二人はまるで旧知の友人のように、微笑みを交わし合った。
「さぁ、聖火台に火をっ! 今こそ、赤月五輪の始まりの時っ!」
 ウィンディが高らかに宣言する。
 その声は、広い草原に、奇妙なくらい響いた。
 それを聞きながら、スイは無言でレックナートを視線で追った。
 彼女は張り切って、聖火台の頂上へと続く階段を昇り始めている。その手に握られている炎が、ゆらゆら揺らめいている。
 階段を一つ昇るたびに、炎がらんらんと輝きをますかのようであった。世界を覆う空は、暁色から青へと、鮮やかに変化していく。
「赤月五輪って、何?」
「オリンピックだろ、だから。」
 スイが誰にとも無く呟くと、それに答えるように冷たくルックが呟く。
 知らないとか言いながら、しっかり理解しているところが、正体不明の女性の弟子たる由縁なのかもしれない。
 ルックの簡潔なまでの「説明」を聞いた瞬間、クラウリーが突然吠えた。
「かぁぁっ!!!」
「ふんぬっ!!」
 ついでとばかりにフッケンも吠えた。
 唐突なそれに、回りが恐怖に狩られる。
 スイはそれを背後に置いて、難しげに首を傾げている。ルックの言葉に、何か思い出しかけているようである。
「………………………………どっかで聞いたような……五輪、オリンピック……………………。」
 おかしなまめ知識を持っているテンプルトンがまでもが呟き始める。
 小首を傾げて、階段を上り切ったレックナートを見ていたスイは、テンプルトンが口にした言葉を耳にした瞬間、叫んだ。
「……っ!! 禁断の紋章呪文っ!!」
 慌てて彼は背後を振り返る。
 諦めの極地に達しているヨシュア、星辰剣、クラウリー、フッケン達──この儀式がなにであるのか知っているだろう一同を振り返った。その目がいつになく厳しい。
「もしかして、オリンピックって、あの、オリンピックっ!? 金メダルがあって、それを奪い取らないことには、その呪文の威力から逃れられないといかいうっ!?」
 思い出すのは、いたずらげに笑って教えてくれた少年の笑顔。
 彼は、もう今はない呪文の一つだと言って教えてくれた。四年の一度の祭典として行われた、とある一族にしか使えない儀式。呪文。
 それは、ある意味最強で最凶の……──。
「知っていたのか。」
 ヨシュアが苦々しく呟くのに、スイは顔つきを厳しくさせたまま、頷く。
「今思い出したよ。」
 忌々しげに舌打して、スイはルックを軽く睨み付けた。
「知っていたんじゃないのか、ルック?」
 その声には、どうして止めなかった? という非難の響きが宿っていた。
 それを痛く思いながらルックは軽く頭を振るようにして答える。
「冗談……と言いたい所だけど、短い付き合いじゃないからね。だいたいのところは。」
 軽く肩を竦めて溜め息を吐くルックの表情は、諦めにも似ていた。
 レックナートが何かを狙っていたのは、当然気付いていたのだろう。それは確かだ。しかし、それを同時にウィンディも狙っていただなど、どうしてわかるだろうか?
 何よりも、師であるレックナートを止めるなど、ルックにはまだできない芸当なのである。
 彼女は伊達にウン百年も生きていないのである。生まれてたかだか14年やそこらのルックが叶うはずもない。
 悔しいけれど、こうして術が完成してしまった以上、ルック達にはもうどうしようもないのである。
 溜め息がただ重く零れていくのを感じつつ、ルックは戦線離脱できない自分に嫌気が刺していた。
 こんなことになると分かっていたら、昨日のうちに夜逃げしておけばよかったと、心底思っていた。
「金メダルですかぁ。なんだかドキドキしますね。」
 呑気に笑っているグレミオの頭を突き刺したいと思うのは、きっと狂暴な気持ちではないはずである。……たぶん、おそらくは、きっと。
 その衝動に駆られたのは、スイだけではないのだから。
「オリンピックかぁ、それって美味いのか?」
「ったく、パーンはそればっかりだね。催し物さ、それも最大のね。」
 クレオが隣に立つ男の脇腹をひじで突ついてから、スイを伺った。
 クレオもスイの叫びで、だいたいのことを把握したようである。表情はきわめて難しい。
 スイもスイで、難しい表情でペシュメルガ達を見ていた。
 誰か打開策を知らないかと、そう言いたいのだが、先程ペシュメルガが呟いた「逃げられない」と言う一言に、無理を感じ取っていた。
「スイ殿、どちらにしてもこの戦いに勝利しなければ、私達はこの地から逃れる事はなりません。」
 これ以上ないくらいの重い沈痛の表情で、ヨシュアが呟く。
 見あげた空は、青青として美しかったが、今の自分達はあそこを飛び回ることすら許されていない。
 これが、この紋章呪文の魔力なのだから。
 こういう禁断呪文が数多くあるがために、滅ぼされたのではないかと思われる「門の紋章一族」の必須の呪文の一つ、四年の一度行われる祭典「オリンピック」。
 これの恐怖はまさに、死んでも何をしても「逃れられない」というところにある。
「そうだね。……まさか敵になっている二人がこれを狙っていただなんてね。」
 誰も思いもしなかったであろう。おそらく、今首都にいる皇帝自身も。
 スイは辺りを見回した。どう見ても辺りは変わりない状況にある。
 向うには大勢の魔族がいて、高笑いしているウィンディと、黙って立っているユーバーがいる。
 こちらには、スイを始めとする大勢の解放軍のメンバーがいて、スイと一緒に帝国に攻め入る瞬間を待っている。
 が、しかし、それはもう果たされないのである。この呪文が終わるまでは。
「…………ぼっちゃん、で、その五つのなんとかって呪文は、一体どういう威力があるんですか?」
 グレミオが首を傾げて尋ねると、その背後で、聞きたくても聞けなかった幹部達が、耳を大きくした。
「通称オリンピック。一種の空間呪文だよ。空間を召喚するんだけど……これが特殊な方法でね。」
 スイは言いながら、レックナートが階段を上り詰めるのを溜め息とともに見守る。
「すでにここは、私たちが先程までいた空間とは異なるのだ。あの聖火台は、唐突に目の前に現われたのではなく、私たち自身が、あの聖火台がある場所に移動しただけにすぎないのだ。」
 ヨシュアがスイの後を継いで説明する。彼もまた複雑な表情でレックナートを見つめていた。書物でしか知り得なかった呪文を、今実際に体験しているというのは、ある意味素晴らしいことではあったが、だからと言って喜べることでもない。
 自分が呪文に取り込まれてさえいなかったら、よかったのかもしれないが。
「えーっと、つまりね、グレミオ。僕たちがいた場所に、全く異なる空間が召喚されている状況にあるんだ。まるで変わらない場所にいるように見えるけど、そう見えているだけなんだよね。僕たちは、さっきまでいた場所と同じ場所に重なるようにして召喚された別の空間にいるんだけど……分かる?」
 スイが手振り身振りで説明するものの、グレミオは分かったような分からないような笑顔を浮かべている。その背後に控える108星達に関しては、まるで駄目なようである。
 ただ一人、スイの説明で理解したらしい人物が前に進み出て説明を始めた。
「つまり、私たちは元々、建物の一階部分にいたわけだな。そこに床などが透明な二階部分を作って、そこに私たちを移し替えたわけだ。私達からしてみたら、二階部分は透明だから、景色などは一階部分と変わっていないようにみえるのだが、実際は二階部分にいると。」
 違うか? と、ソニアから視線を向けられて、スイは薄く微笑んでかぶりを振った。
「その通りだよ、ソニア。付け足すならば、二階部分の壁や床は、術者が思うように変化させることが出来るってこと。
 もしも術者がここを砂漠にしたいと思ったら、一瞬で砂漠になるってこと。──場所自体は変わらなくてもね。」
 笑顔で語るスイの言葉に、一同はざわめきと共に周囲を見回した。
 確かに辺りは何も変わっていない様にみえる。実際ここがまるで別の空間であるとしても、信じられる物ではなかった。どう考えても、レックナートとウィンディが共同して、聖火台を召喚したようにしか見えないのである。
 それを眺めながら、スイは溜め息を零す。そして、クラウリー達一団を見やった。
「それで、この空間から逃れるのって、どうするんだっけ?」
 テッドは、こういう面白い儀式があるとは教えてくれたものの、それの解き方まで教えてくれたわけではなかった。
 確か、真の紋章で開かれたこの儀式を破る事はできないはずであった。
 ある一定条件を満たしたら、空間が崩れるはずだったと思うのだが。
 尋ねるように視線を向けたスイの目から、今の今まで儀式について語り合っていた一団は、目をそらした。
 なんとなくスイが彼らを下から覗き込むと、そろってわざとらしく視線をずらした。
「ねーぇぇ? どうしたら元の世界に戻れるか、わかるぅ?」
 意地悪くその後を追うように、スイが一人一人の顔を覗き込んだ。
 それには、全員が顔をずらして逃れる。
 スイは更にそれを覗き込もうとして、グレミオに首根っこを捕まれて引き戻された。
「ぼっちゃん、そんな意地悪なことしてはいけまんせよ。知らないものは仕方ないでしょう!」
 グレミオの教育的指導を聞いた一同は、彼に殺意すら覚えた。これで悪意がないのだからたまらないのである。
「もう、僕は猫じゃないんだけどねっ! とにかく、そうなると、レックナート様が降りてくるのを待つしかないわけだ。」
 グレミオの腕を払いのけると、スイは腕を組んだ。
 頂上まで上り切ったレックナートを、一同が瞳で追った。
 彼女は誇らしげに聖火を掲げている。
 この空間には、「果て」が出来てしまっている。
 両軍がいる端から端までが、限られた場所にされてしまっているのだ。見えない壁で辺りを覆われてしまっているのである。
 そうである以上、ここから逃れる術はなく、この空間から出るのは、どうあがいても「空間を破る条件」が揃ったときである。
 仕方なく、レックナートが聖火を付けるのを待っていた時である。それを同じ様に見守っていたはた迷惑な占星術師の弟子が口を挟んだのは。
「……スイ、君さっき、金メダルって言ってたよね? あれじゃなかったっけ?」
 面倒そうな表情で、かったるそうな仕種で、ルックは斜に構えた姿勢でスイを見た。
「金メダル? って、どういうこと? それ?」
 ルックの隣から、ロッテが顔を出す。彼女の手の中には、気持ちよさそうに眠る猫がいた。
 そのミナを撫でながら、ロッテがキラキラと目を輝かせて彼を見あげた。
 金という響きに弱いのか、冒険という響きに弱いのかは、よく分からない。
 すると、同じ様に隣に控えていたビッキーが、いつものようにのほほーんとした口調で、首を傾げながら言った。
「オリンピックって、いくつかの種目で、優勝者に金メダルをあげるっていう祭典だよねぇ? 確か、その金メダルを、一つのグループが一定以上取った時に、おわるんじゃなかったっけ?」
────────ビッキーの、いつになくのほほんとした声は、奇妙にゆったりと響いた。
「……なんで君が知ってるわけ?」
 ブリザードのような冷たい視線を受けて、ビッキーがびくり、と肩を震わせる。
 術者の弟子であるルックにとって、彼女ごときに術の効力が終わる説明をされるのはとても不愉快だったらしい。
「え、えーっとぉ、昔誰かに聞いた事があってぇ……あれ? 誰だっけ? あれあれ?」
 引き攣りながら説明して、彼女は首を傾げた。
 記憶にないのはいつものことだが、思いだそうとしてしまうと、それが止まらなくなってしまい、ロッテの声援を受けながら、必死で記憶をたどろうとした。
 しかし、スイ達にしてみたら、ビッキーが誰に教わっていようとも関係ないので、それ以降のことは一切無視することにする。
「成る程。オリンピックは、いくつもの種目を、何グループかで対抗して行われる祭典だったな。」
「種目優勝者には、金メダル、準優勝者には銀メダル、三位入賞者には銅メダル……そのうちの金を一つのグループが決められた数を取ったら、その瞬間に終わるわけか。」
 ヨシュアが呟くと、それに続けて、知った風な表情でフリックが告げた。
「そんなのわかってるよ、フリック。今の問題は、一体幾つでこの呪文が破られるかってこと……ビッキー、それは分かる?」
 スイがけんもほろろにフリックを打ち捨ててから、未だ悩んでいるビッキーに声を掛けると、彼女は驚いたような表情を向けて、きょとんと首を傾げた。
「ええー? 確か、それって、術者が時々に応じて変更できるはずですよぉ?」
 ビッキーに何もかもを語られて、不機嫌を隠せないルックが、無言でスイを見やった。
「どちらにしても、レックナート様が帰ってこなくちゃ分からないってとこだね。スイ、どうする?」
 彼のこめかみに青筋が立っているような感じがして、ついスイは彼のこめかみに指を立ててみた。
 瞬間、ルックの拳が跳んできたが、軟弱なそれをひらりとよけた後、自分を庇ってくれる保護者の後ろに回って、べー、と舌を出す。
 かちんときたルックが密かに右手をかざすより先に、
「ぼっちゃん、ルック君〜、赤と青と、どっちがいいですかぁ?」
 スイが身体を隠した保護者が、楽しそうに尋ねた。
「どっちって……?」
 グレミオの呑気な声に、怒りをそがれたルックが、スイと顔を見合わせて彼を見る。
 グレミオは、何時の間にか手のひらに解放軍の旗を握ってた。それも赤と青の二種類を。
「何、これ?」
 グレミオの背中から顔を出して、スイが彼が握っている旗を指差す。
「国旗ですよ〜。オリンピックらしく国旗を作ってみたんです♪」
 無言でルックと目を合わせた後、二人はグレミオから視線をずらして溜め息を零した。
 何でこんなに楽天家になれるのだろうと、ただそればかりが頭でぐるぐるしている。
 その結果、グレミオの行動を今更考える価値もないと思ったスイは、とりあえず幹部達を集めて、これからのことを相談しようと……──。
「赤はぼっちゃんをモチーフにしたんですよ。で、青は、副リーダーの青雷のフリックさんから貰ったんです♪」
「使うなっ! そんなものっ!!」
 咄嗟に振り返って、本日一番目の棍の被害者をグレミオに定めたのであった。
「ゼッケンもあるんだよぉ、スイさんっ!」
 見てみて、と嬉しそうに背中を向けたクロンの服をはぎたくなったのは、きっと気のせいではあるまい。
 その代わりに、自分がのし倒したグレミオを見下ろして、
「グレミオ、ゼッケンまで用意して、お前、なぁにをやる気になってるんだよ!?」
「ええー? だって、レオン殿たちは、種目分けまでしてますよぉ?」
 情けない声をあげるグレミオの話した内容に、スイの眉がきりりと上がった。
「何だってっ!?」
 慌てて幹部達を振り返ると、スイがグレミオとじゃれているのを止めたのに気付いたビクトールが、大きく手を振った。
「おお、スイっ! 種目表来てるぜっ! 早く来いよっ!」
 言った後、彼は何やら種目分けに異議があるらしく、レオンに食って掛かっていた。
「…………種目表?」
 尋ねるようにスイがルックを見た。彼が、聖火台の上で何やら宣言しているレックナートのたくらみについて知っているとは思えなかったが、今聞くのは彼しかいなかったのだからしょうがない。
「親切なことをしてるね、師匠も。」
 軽く肩をすくめて、ルックも歩き出す。
 種目表に興味があるのは、スイだけではないのだ。
 レックナートが聖火をかざして呪文のような物を唱えているのを聞きながら、一同はとりあえず、種目表を取り囲むのであった。おそらくそこに、「元の世界に帰るために必要な金メダルの数」が書いてあるはずなのである。
「ったく、最後の最後で、面倒なことをしてからに……。」
「戦争も、年寄りの娯楽なのかもしれないよ。」
 スイがぶつぶつ文句を言う隣で、ルックが馬鹿にしたように呟いて、どこからともなく跳んできた炎の直撃を受けた事を、ここに記しておかねばなるまい。
 

 レックナートが震える手で、聖火台に火をかざす。
「あ、ルック君、ほらほら、君のお師匠様が火を灯しますよ〜。歴史的瞬間です。」
 グレミオが呑気に微笑んで指をさす。
「こんな歴史なんて抹消だよ、抹消。」
 言い切って、スイが面倒そうな表情でレックナートを見た。
 刹那、彼女が持っていた杖の先の火が、聖火台を彩る塔のような燭台の先に、移った。
 火が無くなった杖をおろして、彼女は煌煌と燃える火を見あげた。
 瞬間、
「ふふふふ……あーはっはっはっはっ!! よくもやってくれたねぇ、レックナートっ!!」
 ウィンディが叫んだ。
 その辺りによく響く声に、スイが身体を一瞬強ばらせた。
「まさか……何か仕掛けでもっ!?」
 これはウィンディの卑劣な罠であったのだろうか?
 焦ったように周囲を見やったスイの前で、ルックが密かにロッドを握り直し、右手を胸の前に構える。何か起こったら、せめてスイだけでも庇わなくてはいけないと、どこか脅迫観念に駆られていたのだ。
「………………。」
 黙ったまま、レックナートは感動の表情をそのままに火を見あげていた。
 ウィンディは、細い腕を隣に伸ばすと、そこで存在感なくぼんやりしていた皇帝陛下の襟首を掴まえる。
「さぁ、バルバロッサっ!」
 高らかに宣言するかのような彼女の言葉に、咄嗟にグレミオがスイの前に進みでる。カスミも何かを感じているのか、これ以上ないくらいの素早さでスイの前に飛び出る。
「下がってて下さい、スイ様っ!」
「ぼっちゃんっ! グレミオが命に代えても……あ、それは駄目だって言われたんですねぇ、それでは、どう言ったらいいんですかね? ねぇ、ぼっちゃん?」
 背中にかばったスイを振り返って、のほほんと聞くグレミオの隣で、カスミが鋭い目でウィンディを睨んでいる。
「あのね、グレミオ。今はそういうこと言ってる場合じゃないだろ?」
「ええー? 結構大切なんですよ、こういうのは。」
 答えるグレミオの頭を叩いて、クレオが彼の代わりにそこに立つ。
「スイ様。後ろにいて下さい。」
「クレオさん、酷いですよぉ〜。」
 懐かしい光景に目を潤ませている暇はない。
 女性に庇われている自分に、やや居心地の悪さを感じつつも、スイは彼女達の肩越しにウィンディを見つめた。
 ウィンディは、無理矢理バルバロッサを立たせると、彼の手を掲げて宣言した。
「第一回赤月帝国オリンピックの始まりだよっ!」
 瞬間、スイはこのまま逃げたい気になった。
 しかし、脚元でグレミオが崩れていて、目の前にはクレオとカスミがいて、後ろにはルックが控えていた。
 逃げようにも、きっと彼らに止められるに違いあるまい。
「なぁんだ、ウィンディさんもやる気なんですねぇ♪」
 グレミオが楽しそうに口元を緩ませた。
 ウィンディはいつのまにか国旗を掲げて、ゼッケンをバルバロッサに付けていたのである。
 レックナートは、宣言した皇帝と宮廷魔術師を見下ろして、満足げに頷いた。
「聖火が灯り──聖なる戦いが始まります。」
「ちょっと、始めないでくれる?」
 思わずスイが突っ込んだが、誰も聞いていなかった。
 ただヨシュアだけが、
「諦めたほうがいい。」
 年の功か、そう進言してくれたのであった。
「聖なる戦いには、それに似合う選手が必要だね。こちらは将軍が少なくて分が悪い。」
 レックナートの台詞に、紅を刷いた唇を歪ませて微笑んで、ウィンディは一歩進み出た。
 彼女の後ろには、百戦百勝将軍の忠実なる部下、アイン・ジードがいた。
 彼女の手ごまは、乗りに乗っている解放軍とは違って、あまりにも少なすぎた。
「そう言うと思いましたわ。」
 レックナートも満足そうに微笑み、両手をかざす。同じ様にウィンディも片手をかざした。
 二人の視線が交錯する。
『この限られた空間に、それらが存在することを赦します。』
 口から零れるのは、理解できない呪文。
 その刹那、スイの身体がぶるりと震え、右手がうずいた。
 咄嗟に右手を握り込んだスイに、グレミオが腕を擦りながら語り掛けてくる。
「……ぼっちゃん、気のせいではなかったら、なんだか……空気の密度が濃くないですか?」
「………………うん………………。」
 グレミオの言いたい事がわかって、スイは唇を噛み締めた。
 そして、無言で手袋の下にある、ソウルイーターを見つめた。
「なっ、何、あれはっ!?」
 スイを庇うようにして立っていたカスミが、あせったような声を出す。
 クレオが咄嗟にナイフを構える。そんな彼女を庇うようにして、パーンが立った。
 スイも声につられたように顔をあげて──絶句した。
 レックナートとウィンディの間に、陽炎のような門が出現していた。
 それは、ゆらゆらと揺れて、今にも消えてしまいそうな幻であった──否、幻ではない。その証拠に、ウィンディが歩み寄って、その門を手で開いていく。
「あれは……!?」
 グレミオが悄然と立つ後ろから、ルックが顔をあげた。
「伝説の召喚魔法だよ。門の紋章によるそれは、死者すらも召喚するというけど。」
 囁くような声で呟いて、ルックは瞳を閉じる。
 感じるのは、ちりちりした、濃度の濃い空気。それは、濃厚で甘く──どこか腐ったような匂いすらした。
 死者を呼ぼうとしているのは、確かであった。
「ってことは……まさか、父上とか呼ぶつもりっ!?」
 見て分かるくらいに顔色を代えたスイが、慌てて踵を返して逃げだそうとするのを、グレミオが羽交い締めにして止める。
「逃げてもどうにもならないでしょうがっ!」
「今この時に会いたいわけもないだろうがっ! ただでさえでも、故郷に踏み入れるからって、すっごく傷ついてるのにさっ! これ以上僕を傷つけて楽しいっ!?」
 投げたように叫ぶスイがジタバタともがくのに、グレミオは必死の力で対抗した。
「楽しくはないですし、グレミオもぼっちゃんが傷つくのは見たくないですけどねぇっ!」
「だったら逃げさせてよっ! これ以上ここにいたら、僕の身の危険なんだよっ!」
「大丈夫ですよ、グレミオがついてますからっ!」
「ついてても無駄なことだってあるだろう!」
「ひ、ひどいです、ぼっちゃん〜っ!」
 二人がじゃれている間に、門は完全に開ききっていた。
 陽炎のような門の中から、人影が現われる。
 瞬間、びくり、スイとグレミオの身体が強ばる。
「うーわー、きたきたきたきたっ! 時代遅れの風に誘われて、百戦百勝将軍登場っ! って感じ〜っ!!」
「ぼっちゃんっ! お父君に会えて嬉しくないのですかっ!?」
「半々だよ、半々。どうせ会った早々、あの攻撃タイミングは云々って説教たれるからな。」
「私はどっちでもいいですよ。どうせこの間までソウルイーターの中で一緒にポーカーしてましたから。」
「………………人が大変なときに、お前らまた暇そうなことをしてるな?」
 スイが因縁を付け始めて、グレミオの襟首を握り込む。
 後ろにいたルックが、「だから君、にげるんじゃなかったの?」と思わず突っ込んだのだが、スイはそれを聞いていなかった。
「しょうがないじゃないですかぁ。本当に暇だったんですよぉ。あ、テッド君のおじいさんにお話を伺ったんですよ。そういえば。これがまた面白い話がありましてねぇ。」
「今そういう話をしている暇じゃないんだよ。」
「ええー? 素晴らしくいい話なんですよぉー。」
「だから今はそういう……──。」
 乱暴にグレミオの腕を振り払おうとして、ふとスイはその手を止めた。
 門がおぼろげに消えていこうとしていた。
 陽炎のようだった門は、召喚し終えた人をそこに残して、風に吹かれて消えていく。
 幻のように消え去った門があった場所には、人が立っていた。もう会えないはずの人達が。
「………………ち、父上っ!? テッドっ!?」
「オデッサーっ!!!」
 止める間もなく、フリックが走っていく。
「ブラックーっ!」
 その後を瞬発力で優れたフッチも追っていった。
 呆然をそれを見送って、スイはレックナートを見あげた。
 彼女は酷く満足そうに頷いていた。
「正々堂々と勝負ですね。」
「………………とりあえず、父上テオ=マクドール陥落大作戦。」
 ぼそり、と呟いて、スイはグレミオの腕の中から抜け出した。
 そして、愛用の棍を掴んで、そのまま門の出ていた場所めがけて走り出した。
 すでに先に走っていったフリックが、恋人との感動の再会を済ませていた。
「フリック──相変わらずね、もう。」
 くすくすと笑うオデッサの甘い声も、
「ブラック、ありがとう、ありがとうっ!」
 大きな竜の巨体に抱き付いているフッチの声も、掻き消すような勢いで、スイは走り寄った。
「ちっちうえーっ!!」
 そして、これ以上ないくらいの明るい声で走り寄った瞬間、地面を蹴った。
「おお、スイっ!」
 テオが顔を上げた瞬間、スイは問答無用で、太陽を背に背負って棍を振るった。
 が、しかし、そこはさすが将軍である。
がきーんっ!
「あいっかわらず、奇襲にかけては天才的だな……っ。」
 咄嗟に抜いた剣で棍を受け止めたテオは、唇を歪ませて笑った。
 スイはそれを見下ろして、全体中をかけて彼の剣を押し返す。
「それほどでもないですよぉぉぉー? ただ、今の帝国のテオ将軍がいたら邪魔かなぁ、って思ったくらいでv」
 笑顔で告げるスイに、これまた笑顔でテオが答える。
「はっはっはっはっは…………っ。」
 間近で久々の親子喧嘩を眺めていたテッドは、慌てたように走り寄ってきたグレミオやクレオ、ソニアに片手をあげると、
「はろー。お元気?」
 呑気に挨拶をした。最期の時とは比べようも無いくらいの能天気さであった。
「テオ様っ!」
 ソニアは、スイの身体を無理に押しのけて、そのままの勢いでテオに抱き付いた。
 そして、生前と変わりないそのたくましい胸に頬を摺り寄せると、涙で潤んだ瞳をあげた。
 空に透けるような綺麗な瞳が、愛する男を射抜いた。
「テオ様っ! わたくしもあなたと共に戦わせて下さいっ!」
「駄目。」
 が、しかし、ソニアの高まる鼓動は、愛する男の息子によって遮られる。
「ソニアは、108星の一つだから、こっちの軍にいなきゃだめ。」
「……〜〜な、ならば、テオ様をこっちの軍に入れるというのは駄目なのかっ!?」
 切羽詰まったような表情で、ソニアが振り返るのに、スイは意地悪げに笑って見せた。
「駄目でーっす。ほら、父上の腕にウィンディのお手つきマークついてるだろ?」
 ほらほら、と、とまどうテオの左腕をみせると、確かにそこには、ウィンディの文字が入っていた。
 ソニアが悔しそうに歯ぎしりをした後、
「ならばっ、こちらからサンチェスを差し出すからっ!」
「サンチェス程度じゃ父上の代わりにはならないよ。」
 笑い飛ばして、スイはテッドを見た。
「ところでテッドは何をするのさ?」
「審査員だってよ♪ ま、せいぜい頑張れよ、相棒!」
 がっつん、とスイの腕に一発かまして、テッドが笑った。
 それを見て、スイも笑顔を零す。
「しっかり見ててよねっ!」
「らっじゃーっ!」
 仲のいいテッドとスイの様子に、いつのまにか聖火台から降りてきたレックナートが、ほろりと涙を零した。
「ああ、再び親子が合間見るとは、なんと運命とは皮肉なものなのでしょう……。」
「いや、だから、あなたがセッティングしたんでしょう?」
 覚めた面持ちでスイが突っ込んで、テッドと父に手を振りながら、未練たらたらなソニアをひきずっていくことにした。
 やっと追いついたグレミオは、帝国軍に……生前と同じく、皇帝のために力をかけようとするテオを見送ってから、スイに国旗を手渡した。グレミオ特製、真紅が眩しい国旗である。
「なんだかウキウキしますよね〜。」
 ソニアを引きずりつつ、グレミオの呆れるばかりの台詞に曖昧に頷きつつ、解放軍の元に戻って──スイは、本気でこのまま逃げ帰ろうかと思った。
 それをするのは、プライドにかけて嫌だったが。
「よっしゃぁっ! やるぜっ!」
 燃える熱い男達。
「オデッサ、見ててくれっ!」
「頑張ってね、フリック。」
 熱い恋人達。
「聖なる戦いだって。ヒックス! これに勝ったら君も一人前じゃない!」
「テンガアールぅぅー。」
 相変わらず熱い恋人に尻に敷かれるヒックス。
 それを見やったスイは、一人冷めているルックの隣にやってきて、やはり冷めた口調で尋ねた。
「で、なんで皆、やる気になってるんだよ?」
 ──と。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ネクスト