「ああ……なんてことでしょう。私の愛するバルコニーが──美しき我が帝国をこの目に映す至福の場所が、このように壊れたままで放置されているとは……っ!」
「ミルイヒ様、そのようにお嘆きくださいませぬよう……すぐに、解放軍の者が直してくださいますとも。」
「えっ? 解放軍で直すの? この城? だって、全然使ってないじゃないの。」
「──ふむ、ですがあの窓、なんと装飾のしがいがあるのでしょうか? ああ、あそこのステンドグラスは、なんと芸術的な──……さすがは、芸術をこよなく愛するミルイヒ将軍の城ですねぇ……。」
『あーあー、マイクのテスト中、マイクのテスト中──そこで勝手にほざいているナルシスト&崇拝者集団、聞こえてる?』
「嫌だわ……せっかく美しい物に心和ませているというのに、何かしら、この無粋なマイクは?」
「ああっ! なんと美しき城! 我が生家もこのセンスを見習わせたいものです!」
『……聞こえてないみたいだな──しょうがない。
ビクトール! さっき、あの辺に埋めた地雷のスイッチ、押してよ。』
『あっ!? ってお前、あそこにゃミルイヒ将軍とかが立ってるじゃねぇかよ?』
『そういうときに使わなくて、一体何の時に使うのさ、この地雷。』
「わーわーわーっ! 聞こえてます! ぜんぜん十分聞こえてるよ!?」
「はい! 十分聞こえておりますよ、ね、旦那様っ!?」
「おおっ、最近耳がちぃと遠くなったようでなぁ……で、なんだった、サンチョ?」
『ぽち。』
どっかーんっ!!!!!
『わーわーわーっ! 何してやがんだっ、お前はっ!!』
『あーあ……ビクトールがずらすから、間違えて庭園の方に埋めたボタン押しちゃったじゃないか。』
「あああああっ! わ、私の愛しいラベンシアがっ、ユーレシアがっ! フロンミリアがーっ!!」
「ミルイヒ様が丹精こめてお育てした花々が、なんと無残なことに……っ!」
『いい加減にしないと、全部の地雷スイッチ押すからね?』
「…………で、スイ様、何の御用だったのでしょうか?」
「何でしたら、今すぐにでも、美しき演奏をお聞かせいたしましょうか? 今浮かび上がりました最新曲では、『魔王』がございますが。」
「スイ殿! ワシは、まだまだ元気じゃぞーっ!」
『ああ、良かった。みんなの耳が、遠くなったのかと思っちゃったよ。
それじゃ、用件なんだけど、重要事項だから、しっかり聞いてね。』
「はい!」
「はいはい! 命はもったいないですからね……っ。」
「もちろん!」
『その、スカーレティシア城なんだけど、演出に使う地雷を、適当にたくさん埋めておいたから──その地雷がちゃんと爆発するかどうかの実験をするから、危ないからちょっとどいててね。
……とは言っても、もう実験、終わったけどね。』
「うわっ、ぼくの頭の中に浮かんだスイ様の顔──すんごく笑顔だったんですけど。」
「あんずるな。ワシもじゃ。」
「あ、私もです。」
「ボクもですね。」
「ふっ、皆さん、まだまだ甘いですね……私の心の友は、片手にワインを持ち、朗らかな笑顔でこういっているのです!
『ちっ、死ななかったか、凡人ども』と──っ!」
「………………ヴァンサン? あなた、そんな人を心の友と思うのは、どうかと思うわよ………………?」
──100年の眠りから覚めるには、真実の恋人からのキスが必要なのです──
トラン地方の中央に鎮座するトラン湖──その広大な湖の南西部に位置する、カナン地方。
芸術を愛する領主、ミルイヒ=オッペンハイマーにより治められている、職人たちが多く集う、華やかで美しい地域である。
「──……ああ、良い眺めですね……。」
カナン地方の西に位置する、優美にしてハイソな城──スカーレティシア城の二階のバルコニーで、男は感嘆の吐息を零して呟いた。
東には、ゴウラン地方とを結ぶ、唯一の橋──ガランの城塞。
そこから南西には、川沿いにあるリコンの町並みが広がっている。
また、ガランの城塞から北西へ進めば、トラン湖のほとりにある港町テイエンに辿り着く。その港から一望できるトラン湖は雄大で、一見の価値があると、この町の人は口を揃えて言う。
さらにそのテイエンから南西へ進むと、カナン地方の中央──ミルイヒが住まう居城、スカーレティシア城にもっとも近い町、アンテイがある。
ここは、芸術や職人を保護するミルイヒの保護政策の恩恵を、一番受けている町であり、多くの芸術家や職人が暮らしている。
美しい白の石壁で統一された町並は、他の町のような素朴さを残す家々とは異なり、まるで首都のような整然とした美しさを感じさせていた。
こうして遠目に見ていると、まるで白亜の町のようだと──うっとりと目を細めて思う。
どこまでも続くような青い空の下、ゆっくりと光を強めていく朝日に照らし出される草原と、今起きていこうとする町並みは、何度見ても見飽きるものではなかった。
まるでそこから命が生み出されていくような──そんな荘厳なまでの雰囲気が、辺りに満ちているようだった。
「やはり、朝食はココで取るに限ります──解放軍のあの庭園も中々のモノですが、私の治める地がこうして目に見える方が、安心できるものですしね……。」
何よりも、自分が心から愛するこの地をこの目で見ながら朝食を取ることは──なんて愛しく幸せなことなのだろう、と……白い陶磁器のカップで暖かなモーニングティーを啜りながら、ミルイヒは微笑んだ。
自らが治めるカナン地方を一望できる、スカーレティシア城の二階のバルコニー──屋敷の出入り口のすぐ上に当たる場所に、白いテーブルと椅子を置いて、トラン湖から吹いてくる涼しい風に髪を弄ばれながら朝食を取る。
なんと贅沢なことかと、ミルイヒは今朝もしみじみとその感動を噛み締める。
大ぶりな帽子を風にユゥラリと揺らされながら、ミルイヒは遠くを見つめていた視線を近くへと落とした。
そこには、自分が手入れをし、愛を囁いている美しい庭園が広がっている。
人々から花将軍と呼ばれ、心優しき将軍と呼ばれている彼の城の庭園は、他のどの場所にも負けず、美しい花々で彩られていた。
このバルコニーからは、その整然と揃った美しい庭園の様子もよく見渡せる。
美しく絡む鉄の門の左右に広がる城壁の上には、植木が植え込まれており、それが一層この城の優雅な様を浮き立たせている。
門を入ってすぐ左右には、小さな噴水が一つずつ。配置され整えられたアイトピーは、今度何か動物の形にでもさせてみようかと密かに思っている物。
荘厳な城の左右に広がる庭園には、まだ微かな花々しか芽生えてはいないが、首都にある自宅のように、もっと華やかに美しくさせることもできる。
戦争が終わり、一段落着いたなら、ここの庭園も花で一杯にしてみるのもいいかもしれない……その気持ちは、解放軍の本拠地の空中庭園で一日を過ごすようになってから、より強くなっていた。
花は、咲き乱れているからと言って、困るものではないから、余計だった。
解放軍の花々で、自分がどれほど心慰められたのか分かっているからこそ、この城にも花を──と、そう思ってしまうのかもしれない。
花は、その美しさで、その香りで、人の心を慰める。
戦争で、戦で傷つき、嘆いた民たちの心が、美しくしたたかに咲き乱れる花に、心慰められたなら、それはどれほど素晴らしいことだろう?
「………………。」
──けれど、使い方次第で……選んだ植物の効能次第で、人を傷つける毒にもなることを、ミルイヒは知っている。
同じ植物から、薬も取れれば毒も取れるように……花を愛しめでたこの手で、愛した民を、傷つけることすら──できてしまう。
庭園を見下ろした時に、否応なく目に飛び込んでくる、自らの罪の証を目にとめてしまえば──ズクリと、心臓が痛んだ。
「────…………私がこの地を、自ら傷つけようとしていたなど──……。」
なんと愚かであったのか、と──ミルイヒは、軽く目を伏せた。
手にしていたカップをきつく握り締め、上げた顔の先──色あせた強固なツルの名残が、城壁にしがみついたままなのを認める。
ミルイヒは、カップを片手に立ち上がり、そのツルに手を這わせる。
ヒヤリと冷たい感触──生きていない命………………作られた命。
たとえ操られていたのだとしても、たとえその時の記憶がまるで無いのだとしても。
それでも、自分がこの命を作り出し、自分がこの──悪しき命で人々を傷つけ、殺したのは本当のことだ。
その事実を知ったとき、殺されることを望んだ。
この事実が自らを打ちのめしたとき、自らの命で償えるなら、と思った。
──けれど、今自分が主として仰ぐ人は、生きて償う道を許してくれた。
修羅の道だと、少年はそう言った。
僕が今からあなたに差し上げるのは、修羅の道なのだ、と。
それでもあなたは──解放軍に下し、自らの思いを遂げるか、と。
「──どれほど苦しく、どれほど辛く……どれほど悲しくても。」
この事実を知っても、民たちは私を花将軍と呼び、心優しき領主様と呼んでくれている。
それが、どれほど私の心を揺るがし、どれほど私の胸を傷つけたのか──きっと彼らは知らない。
泣きたいほど、叫びたいほど、胸を掻き毟り、いっそ殺してくれと思うほどの苦痛が、この胸に去来していることを、彼らは知らない。
彼らの許しこそが、自らのことを一番傷つけているのだということも……それすらも見通して、この道は修羅の道だと、そう告げた「少年」のことも──……。
それでも。
これほど傷つき、嘆き、苦しむ心の葛藤を抱えても──いや、だからこそ。
…………だからこそ、その想いに報いるためにも。
「…………私は、この地を守りたいと、そう……心の奥底から思うのです…………。」
目を上げて、リン、とした光をその瞳に宿す。
遠く掠れたように見えるガランの城塞も、小さな粒のように見えるか見えないかの、テイエンも。
湖のほとりで活気に溢れているリコンも。
そして、すぐ間近に認めることのできる、アンテイも。
その一つ一つを、しっかりと目に焼き付けて、ミルイヒは唇を真一文字に引き結んだ。
私は、変わりなく笑っていることが出来る。
憂い、嘆き、苦しんでも──どれほど辛い中にあろうとも、微笑み、人々を案じる心を持つことができる。
それが、「少年」が、私へ求めた生き方なのだ。
静かに、ミルイヒは町並みを見つめた。
こうして上から見ている分には、人々が帝国の腐敗に苦しんでいるようには見えない。
目を閉じれば、人々の笑う声も満面の笑顔も浮かんでくるようだった。
そんな彼の耳へ、涼しげな風に揺れる葉音が届いた。
フ──と、目を細めて、彼はその音に耳をゆだねた。
──と、細波のようなリズムの中に、あわただしく扉を開く音が重なる。
「?」
聞こえた扉の音は、このバルコニーへ続く音だったような気がして、ミルイヒは首を傾げるようにして背後を振り返る。
案の定、まだ幼いともいえる少年が、ミルイヒの元目掛けて走り寄ってきているのが見えた。
「クロン?」
最近では、「ここはシュタイン城でーっす!」と言うのが非常によく似合っていると評判の少年である。
中途半端な黒い髪を揺らしながら、頬を赤く染めて、必死に眉を寄せて駆け寄ってくると、ミルイヒの前で足を止めた。
「大変です! ミルイヒ様っ!!」
はぁ、はぁっ、と大きく息をつきながら、クロンは両膝に手を置いて、体を曲げながら息を整える。
「──どうしたのですか、クロン?」
こんな朝も早くから──と、ミルイヒが軽く眉を寄せて問い掛けると、彼は片手で胸を抑えながら、ゴクン、と息を飲み込んだ。
そのまま、顔を上げると、
「そ、それが……っ、奥方様が、さきほど産気づいちゃって……っ!」
「──なんですって!?」
息継ぎの合間に告げられた内容に、ミルイヒはギョッとして肩を大きく揺らした。
妻が今月臨月であることは、ミルイヒも良く知っていたが──まさか、これほど早く産気づくとは、思いもよらなかったのだ。
「そんな設定になっているならなっていると、どうして言っておいてくれないんですか!」
はぁ、はぁ──と、肩で息をする少年に、手にしていたカップを強引に渡すと、ミルイヒはそのまま城内へと続く扉向けて駆け出す。
クロンは、そんな彼を見送り──はぁ、と吐息を零して額に染み出た汗を拭い取った。
「……ったく……嫁さんが臨月なのに、こんなとこで暢気に食事なんか取ってなきゃいいのに……。
台本には、寝室の前でウロウロしてるって、ちゃんと書いてあったじゃん。」
おかげで、大分探し回ったよ──と、小さく毒づいて、クロンはパタパタと左手で自分の肌を扇ぐ。
それから、右手に押し付けられた良い香りのするカップを見て──それを無造作に口元に運んだ。
口の中一杯に広がる花の香りに、クロンは一瞬眉をきつく顰め、うげぇ、と舌を突き出す。
甘いだとか苦いだとか言う以前に、匂いが広がる青汁のような味が口の中に広がった。
「良くこんなの飲めるなぁ、ミルイヒ様。」
そして、そのままの動作で椅子の背に手を置くと、ミルイヒが感慨深く見つめていたカナン地方の景色を見下ろす。
さぁぁぁ、と吹き抜ける風が、汗の滲み出たクロンの額を吹き払う。
踊るように流れる前髪の合間から、目を細めてクロンはミルイヒが見ていた景色を見た。
眼下に広がる、一面の景色に、思わず彼は目を大きく見開いて見せた。
「──わぁっ、すごい! ……これを見てたら、プルミエ・ラムールだとか、ビィル・ブランシェだとか、ラック・ビィルイニテって名前をつけた意味が……………………わっかんないなー、やっぱり。
テイエンはテイエン。リコンはリコン。アンテイはアンテイ──それが一番だよね。」
へへ、と小さく笑って、クロンは手にしていたカップを、再び口につけた。
そうしてその直後、やっぱり、
「うげぇ……まずい…………。」
顔を大きくゆがめて、舌を突き出すのであった。
「聞きましたか、皆さん? スカーレティシア城の麗しのミルイヒ様に、ご息女がお生まれになったそうですよ。」
ポロン──と、心地よい音を優美な指先で鳴らし、繊細な容貌に微笑を浮かべて、青年が回りを見回す。
円座を組んだ仲間たちは、そんな彼の言葉に大きく頷いてみせる。
「ええ、今夜、名付けのパーティを開くそうね。私も招待状を貰ったわ。」
言いながら、ヒラリとバラの模様が刻まれた封筒を揺らす。
顔の回りでザンバラに揺れる赤茶色の髪を掻きあげながら、少女は封筒の中から紙を取り出す。
そこに書かれている紋様は、この場に集っている誰の目にも覚えがあった。
「私も頂きましたよ、招待状。」
眼鏡を押し上げて、男が笑って少女の封筒を示す。
「フッ……ミルイヒ様のセンスも素晴らしいですから──きっと、素敵な名前を姫君につけてさしあげるのでしょう。
ああ、麗しきビィルジニテ! もし私に名前を授ける機会を与えられたなら、後世に残るような素晴らしき名を捧げましょう──……っ!」
すかさず、待っていたとばかりに口上を上げるのは、金色の髪を乱しながらバラの胸飾りを高々と掲げる男であった。
この場にいる誰もと違う服装は、スカーレティシアのミルイヒ様の趣味に似ていた。
「そうですね──ヴァンサン殿のお選びになられた名前なら、きっとミルイヒさまもご満足されるでしょう。」
ぽろろん、と、柔らかな音を指先から奏でて、カシオスが微笑む。
その、男性にしては線の細い美貌を見返し、両手に頬を乗せたメロディが同意を示す。
「確かに……名前付けられる張本人も、十中八九気に入ると思うしね。」
「この機会に改名すると言うのも、いいアイディアかもしれませんね。」
ウィンドウも、軽く笑ってメロディのセリフに付け足した。
「そうでしょうとも! 私が敬愛するミルイヒ様のお好みは、素晴らしいものですからねっ!」
「──まぁ、それに対しては、頷いちゃうとヴァンサンさんの趣味が良いって断言しちゃうから、あえてコメントは避けるとして。
で、今夜の名付けパーティ、行くんだよね?」
軽く首を傾げて、メロディは、その場にいる面々を見やった。
このカナン地方を治める領主と親しくする12人の妖精──であった、今は4人の妖精だ。
名付けの儀式には、必ず参加して、生まれた子供に祝福を与えるのが彼らの役目である。
「ええ、もちろんです。最近は、妖精の祝福の儀式を無視する人も多いようですが、これはとても大事な儀式ですからね。」
柔らかに微笑み、カシオスがメロディに頷いてみせる。
続けてウィンドウも、
「ミルイヒ様も、こうして招待状を下さっているのですから、断るわけにはいかないでしょう。」
軽く笑って、頷いた。
「では、皆さんっ! パーティのために着飾りましょうかっ!」
そして、唐突に生き生きとしだしたヴァンサンが、ばさりっ、とマントを翻す。
そんな彼に、思わずメロディとウィンドウは顔を見合わせ──素知らぬ顔で、ぽろり、とハープを鳴らすカシオスを見て、
「……着飾る?」
嫌そうに、そう呟いてみせる。
それに対するカシオスの答えは、酷く簡潔であった。
「これが吟遊詩人の衣装ですから。」
「おおっ、それは残念です。カシオス殿のために、さまざまなドレスをご用意いたしましたものを。」
オーバーリアクションに悲しがるヴァンサンに、すかさずメロディとウィンドウも片手を上げて宣言してみせた。
「これが、音職人の制服なんです。」
「飾り窓職人は、この姿でないと、本領発揮ができないのですよ。」
ヴァンサンは、やはりとても悲しんでくれてみせたが、彼とて他人にそれを強要することは趣味ではないのだろう。
素直に納得して、自分のパーティ衣装を選ぶために、イソイソとドレッサー室へと消えていった。
後に残ったメロディたちに出来ることといえば、着替え終わったヴァンサンの姿が、自分たちが隣に立っても恥ずかしくないような格好であることを祈るだけだ。
さすがに、カボチャパンツにオレンジのタイツ、赤と白のチェック模様のベスト、なんていう格好はしないと思うのだけど。
「でも、パーティってことは、美味しい物が食べられるし、きっと楽しい音も溢れてるわよね。」
「それに、綺麗に飾られてるでしょうしね。」
「もちろん、歌も音楽も美しく奏でられているでしょう。」
芸術を愛するミルイヒの主催するパーティだ。
職人であり芸術家である三人には、良い勉強の場でもあった。
それを思えば、それぞれの口元に優しい微笑みが浮かんでくるのであったが──フイにメロディが、不安そうに眉を寄せた。
口元に片手を当てて、彼女は小さく、ポロリと零す。
「──……考えてみたら、12人だった妖精の残り4人の私達の祝福って……、自分の美しさを人一倍感じる祝福と、音楽を奏でる祝福と、音を愛する祝福と、窓を飾る祝福しかないんだけど………………。」
その呟きに対する男達の答えは、
「……………………………………………………。」
ただの沈黙であったが、三人が三人とも、心の奥底から思っていることは一つであった。
──一番初めに上げられた祝福は、絶対、初期装備で持っていると思いますよ……生まれたばかりの「姫君」…………。
ぱーんっ、ぱぱぱぱーんっ!!
派手で豪快な音があたりに響き渡り、松明に煌々と浮かび上がった美しい庭園に所狭しと並ぶ人々の耳を打つ。
世界の音が遠ざかるような轟音と共に、紺碧の空に閃くのは、鮮やかな光の饗宴。
星のビーズも、艶やかな光を放つ満月も、何もかもが花火に引き立てられていく。
「ぅわぁぁーっ。」
そこかしこから感嘆の声が零れ、華やかな光の花は、スカーレティシア城を幻想的に浮かび上がらせて、溶け行くように消えていった。
いつもは静かな音楽に包まれる夜を迎えるスカーレティシア城も、今日ばかりは違う。
赤月帝国内においては、奇抜なデザインである城を浮かび上がらせるように、いつもの倍以上の松明が焚かれている。
見回りの兵士が巡回する以外は、猫しか通る者が居ないといわれている庭園には、今、アンテイやリコン、テイエンから人々が集まってきていた。
誰もがその手に祝いの酒を持ち、用意された食卓を囲んでいる。
夜の闇を払拭するほどの笑顔と笑い声が、絶えず美しい庭園に響き渡っていた。
それを提供した主であるミルイヒは、バルコニーの二階から、そんな彼らを満面の微笑で見下ろす。
「良い夜になりましたね。」
口元に穏やかな微笑みを浮かべながら、ミルイヒは背後を振り返る。
今朝方テーブルが置かれていた場所には、今は別の物が置かれている。
ミルイヒの趣味で飾り立てられた、目に痛いほどの原色とフリルで飾り立てられ、艶やかな花々で包まれている、ベビーベッドである。
中でスヤスヤと穏やかな眠りについているだろう、生まれて間もない赤ん坊は、そのベビーベッドの中で眠ることが、酷く心地良いかのようであった。
「神様がこの年になって、やっと授けてくれた愛しい娘──エスメラルダ。
あなたの誕生を祝福して、たくさんの人が集まってくださいました。
この悦びを、何に例えることが出来ましょうか。」
ベッドの側には、名付けパーティに参加してくれた多くの国民や同僚からの祝いの品がどっさりと積まれている。
優美なラインを描く壷だとか、ハッとするほど華美な装飾品だとか、達筆に書かれた祝いの言葉だとか──本日生まれたミルイヒの娘のために、わざわざ職人達が作ってくれた物である。
ミルイヒは、その品々を感慨深い思いで眺める。
耳に届くのは、人々の祝福の声と笑い声。
目の前にあるのは、彼らの贈り物と──何より物贈り物である、たった一人の姫君。
「ああ、なんて素晴らしい日なのでしょうか。」
ミルイヒが、口元に浮かんだ微笑をそのままに、そうしんみりと呟いた瞬間であった。
「ミルイヒ様。12人だった今は4人の妖精サンたちが、12人分の祝福をエスメラルダ姫に捧げたいとおっしゃってますけど。」
側に控えていたクロンが、そう声をかけた。
彼が立っていた場所──城内からバルコニーへ出るための扉から続く回廊には、クロンのほかに四人の人影があった。
空に浮かぶ明るい満月の光と、地上で焚かれた松明の灯りとで、十二分に四人の顔が判別できる。
艶やかな金の髪を流すカシオスと、頭の上に奇妙な形の帽子を被ったメロディ、シルクハットの具合を片手で確認しているウィンドウ──そして、片手に美しいバラを持ったヴァンサンが立っている。
「おお、これはこれは、祝福の妖精殿方ではありませんか。
わざわざご足労、ありがとうございます。」
両手を広げて喜ぶミルイヒに、クロンが横にずれて、4人の妖精に前を開ける。
そのまま、4人はクロンの横を通り抜けて、ミルイヒに一人一人挨拶をしなくてはいけないのだが──それよりも先に、メロディがクロンに向けて腰を屈めた。
「──ちょっとクロン! 勝手に、12人分の祝福とか言わないでよっ!」
慌てたようにコッソリと声を荒げるメロディに、相手の少年はキョトンと目を瞬いて、彼女を見上げる。
「え、だって、台本には、12個の祝福って書いてあるもん。美しさと、優しさと、人を思いやる優しさと、ユーモアと──。」
ほらほら、と頭の帽子の中からカンニングペーパーを取り出して、メロディに見せるクロンに、だから、とメロディは両拳を握り締めた。
「見れば分かるでしょ! 今の私達は、12人だったけど、ちょっと色々あって4人になっちゃった妖精だから──。」
「どうして4人になっちゃったって言う設定なの??」
クロンは、お子様にありがちな無邪気さを発揮して、首を傾げて尋ねる。
それに、メロディは一瞬言葉に詰まり──顎に手を当てて、眉をきつく顰めた。
「えーっと──それは……たぶん、ヴァンサンさんに嫌気がさして、3人くらいが仲間なんて呼ばれたくないって言って、逃げちゃったんだと思うの。」
困ったような顔で、軽く腰を曲げて説明しだしたメロディのセリフは──中々にシビアだった。
さらにそれに続けて、
「そして、残る9人のうち4人くらいは、今のご時世、妖精なんてやっていても食べていけないと、転職をしてしまったのですね──。」
したり顔で、ウィンドウが頷く。
「さらに、残る二人は、この世の美しさを見直すために……旅に出たのですねっ!」
そうして、そのウィンドウの後を受け取ったのは、バラを満月の月に向けて突きつけるヴァンサンであった。
「ですが、ご安心なさい、メロディ殿、ウィンドウ殿、カシオス殿。
この私は、ミルイヒ様に身も心も捧げていますから、この戦いが終わるまでは、新たな美を探す見聞に出ることもありません──……っ!」
ひらりん、とバラを舞わせたヴァンサンは、自分の言葉に悦を覚えつつ、唖然としているクロン、メロディ、ウィンドウを順番に見つめ──そして最後に自分の隣に立っているカシオスへと視線を流した。
──が、そこにカシオスは居なかった。
「──って、カシオス殿は?」
そのままバラの花をカシオスに差し出す予定であったヴァンサンは、思いも寄らない結果に目を瞬き、見事な反り返りで差し出したバラの花を、手持ち無沙汰に両手で支える。
「え? カシオスさん?」
そこに居なかったかしら、と、メロディが慌てて視線を飛ばした先で。
「ミルイヒ様。私から、エスメラルダ姫に祝福を差し上げてもよろしいでしょうか?」
華美に飾られたベビーベッドの前に恭しく跪いたカシオスが、ハープを片手にミルイヒにお伺いを立てていた。
「あっ、先越されたっ!」
思わずメロディが声を上げる。
「はぁ──でもまぁ、いいんじゃないですか? 祝福の順番を競うようなことでもないですし?」
「良くないよ! だって、さっきクロンが、12人の祝福を4人が……って言ったでしょ!? ってことは、私達、1人で3つの祝福を与えなくちゃいけないわけじゃないの!」
「────ああ、そうですね。ということは、私は、窓から見える景色がいつも美しい祝福と、窓の桟を綺麗にしておける祝福と、ステンドグラスを……。」
「ウィンドウはいいかもしれないけど! 私なんて、絶対カシオスさんと重なるに決まってるでしょ!? ってことは、早いもの勝ちだったのに──っ。」
拳を握って、メロディが唇を噛み締める。
確かに、「音の紋章の使い手」であるメロディと、「吟遊詩人」のカシオスでは、同じような関係の祝福を与えることになるだろう。
しかも、一人3つとなると、音関係の祝福で6つ考えないといけないという状態になってしまう。
だから、絶対に何が何でも、自分はカシオスよりも先に祝福を与えなければいけなかったのに──と、メロディはギリリと唇を噛み締める。
けれど、ここでカシオスにケチをつけて、横入りなどしてしまうわけにもいかない。
こうなったら、カシオスが何を祝福するのか聞いて、それから何か考えないといけないだろう。
「別に、台本どおりに言えばいいんじゃないの?」
急に真剣な顔つきになって、考えはじめたらしいメロディに、クロンが呆れたように尋ねる。
その彼の手元のカンニングペーパーには、原作で祝福に与えられている言葉が延々と書かれている。
使う? と差し出されたカンニングペーパーであったが──メロディは、それを悔しそうに見つめるだけで、手にとることはしなかった。
「私達らしい個性でもって祝福をと──最初にスイ様に言われているんですよ。
ソレが条件で、姫君役と、王子役から外してもらってますから。」
ウィンドウが、苦い笑みを見せながら、クロンに答えて見せる。
「失敗したり、変なことを言ったら、地雷が爆発するんだって。」
そして、それを引き継いで、メロディが低くウィンドウの言葉に付け足す。
「────…………って、それって、僕も巻き添えじゃないの!?」
「──……そう。」
だから、真剣に困っているんじゃないのかと、メロディが唇を歪せた。
クロンは、慌てたようにカンニングペーパーを帽子の中に突っ込みいれると、
「それじゃ、僕も考えるよ! えーっと、音? 音の祝福って言うと………………………………。」
片手を広げて、そこの指を当てながら眉を寄せて考え込む。
そこへ、
「私からは──その指が繊細な音を奏でる祝福と、唇から零れる美声の祝福と、全ての自然の音色がこの方を愛するだろう祝福を。」
ホロロン……とハープが掻き鳴らされ、花火の音を掻き消すように、妙なる音色が響き渡った。
同時に、ピキン、と、クロンの動きが止まったのが分かった。
さすがですね──と、感心したようなウィンドウのセリフに、メロディが小さく唇を噛み締める。
そんな彼らの前で、ミルイヒはウットリと目を細め、満足げな微笑を浮かべていた。
耳に残る心地よい音に、カシオスの美声によって語られる美しい響きの残る祝福に、ホロリと笑顔が零れてきていた。
「おお、なんと素晴らしい祝福でしょうか。
姫が、素晴らしき音楽の弾き手であり、呼び手であり、聞き手であることを、私も祈りましょう。」
「本当におめでとうございます、ミルイヒ様。」
片手を胸の前に当て、カシオスが恭しく礼をする。
「うう……どう考えても、勝てないわよ……アレじゃっ。」
同じ「音」関係の祝福を与えるなら、やはり同程度かそれに勝っている祝福を与えたいと思うのだ。
一応メロディにだって、駆け出しとは言え、「音職人」というプライドというものが存在するのだ。
それを思えば、吟遊詩人であるカシオスの祝福に勝るもの、もしくは同等の物を考えなくてはいけない。
経験の差は歴然としている以上──メロディは、ギュ、と知らず知らずのうちに拳を握り締めていた。
そんな彼女を見下ろして──ウィンドウは、ス、と眼鏡の奥の瞳を細めた。
それから、何も言わず、無言で長い足を前に踏み出す。
横にあった影が、フイに動き出す気配を感じて、ギクリと肩を強張らせたメロディが顔を上げる。
ウィンドウは、迷うことなくカシオスの隣に立ち、ミルイヒの前で丁寧に一礼した。
「ミルイヒ様、このたびは姫君のご誕生、おめでとうございます。
飾り窓職人である私からも、祝福を姫君に差し上げてもよろしいでしょうか?」
「ええ、ええ、もちろんです。姫もきっと喜びましょう。」
ミルイヒが細めた目を和やかな色に染めて、大きく頷いてみせる。
そんな彼に背を向けて、ウィンドウは、ベビーベッドで眠る生まれたばかりの姫君に向けて、スチャリ──と、まるで指揮者のように構えた。
両手を絶妙の位置で止め、眼鏡の奥の瞳を輝かせる。
「姫の周囲には常に飾り窓が美しくあるように──、姫の目に映る窓の外の世界が美しくあるように──、そして、姫自身の指先から生み出される飾りの全てが、鮮やかであるように…………。」
唱えた瞬間、目に見えない高速の動きで、ウィンドウの手が動いた。
その軌跡を目にとめたミルイヒが、軽く目を見開く。
軌跡でしか目にとまらないほどのスピードで、ウィンドウの指先が動いている。
それが何なのか、確かめようと思った瞬間、
パァーンッ! パパパァーンンッ!
唐突に、轟音と共に夜空が光った。
派手にあがった花火が、辺りを閃光のように照らし出す。
まるで昼間のように明るくなったバルコニーの上──光の饗宴の最中、神々しいまでに浮かび上がったのは、美しく飾り立てられたベビーベッドであった。
ミルイヒが飾り立てたそれらに、更に細かな細工がされたそれは、光を屈折して、虹色の輝きを生み出す。
窓の飾り職人として、光の角度、光の差込具合──そして光が生み出す影の濃淡を計算された、見事な細工であった。
「おお……っ、これは素晴らしいっ!」
感嘆の吐息を零したのは、美に目がないミルイヒとヴァンサンだけではなかった。
跪いていたカシオスも目を上げ、驚いたようにそのベビーベッドを見つめる。
花火が夜空に掻き消えても、ベビーベッドの周囲に生み出された虹色のはじけるような光が消えることはなかった。
逆に、満月の光を反射して、透明感溢れる輝きを生み出していく。
「これで、常にエスメラルダ姫の周囲には、このような花が咲き誇る効果を見せることが出来るでしょう。」
ウィンドウが両手をゆっくりと下ろして、火薬臭い空気の中、コホンともったいぶるように咳払いを零し、再び丁寧に一礼した。
ミルイヒは、さすがの窓職人の装飾をその手で確かめ、満足げに頷く。
「さすがは希少価値の職業、飾り窓職人──これほどの物を一瞬で作るとは、腕をあげましたね、ウィンドウ?」
「解放軍は、最高の腕を磨く場でありますから……。」
ミルイヒの褒め言葉を恭しく受け取り、ウィンドウはカシオスの隣に恭しく跪く。
そんな彼のシルクハット越しに、エスメラルダのベビーベッドを見つめて──メロディは、キュ、と唇を噛み締める。
後残る祝福は、自分とヴァンサンだけだ。
このままでは、自分がトリを勤めることになってしまう。
自分の祝福が、ヴァンサンに負けるとは思わないけれど──それでも、カシオスもウィンドウも、見事な祝福を授けてしまった。
それを思えば、最後になるのが、どこか怖かった。
「それでは、次はこの私が……。」
ツイ、と、前に進み出るヴァンサンを目の横にとめた瞬間、メロディは、キ、と前を見据えて、一歩足を踏み出していた。
「おや? メロディさんが先に行くのですか?
では、私は最後を華やかに飾るとしましょう。」
ヴァンサンは、素直にメロディに先を譲って、ノンビリと手にとった花の香りを楽しんでいる。
メロディは、そんな彼に少しの苛立ちを覚えつつ、先駆者たる二人をチラリと目にとめる。
ミルイヒの前で跪きながら、次の祝福者を待っている二人──ホロリホロリとメロディを奏でるカシオスと、見事なまでの細工のベビーベッドを作り出したウィンドウ。
彼らの後になってしまった自分の、どれほど不利なことか──……っ!
そう思い、キュ、と拳を強く握り締める。
頭の中では、自分がどれほどの祝福を与えることが出来るのか──くだらないと、そうあざ笑われはしないか……もしかしたら、地雷が爆発したりするのではないかと、そんな不安がグルグルと回っていた。
ミルイヒの前に立つと、緊張のあまり、喉がゴクンと上下した。
昔、本で見た貴族の挨拶を思い出しながら、腰紐から垂らしている布をつまみ、足を交差させるようにして礼をする。
「このたびは、姫君のご誕生、おめでとうございます、ミルイヒ様。
私からも、ささやかではありますが、祝福を授けたいと思います。」
声が震えないように、そう告げるのが精一杯だった。
そんな彼女を見下ろして──ミルイヒは、微かに震えているメロディの手を認めた。
「きっとエスメラルダも喜ぶでしょう。」
そして、穏やかに微笑んでみせる。
その言葉に、さらにメロディが肩を強張らせるのを見つめながら、ミルイヒは穏やかに続けた。
「心からの祝福こそが、何よりもの贈り物です。」
「……っ。」
ニッコリと艶やかに微笑むミルイヒに、メロディは、ハッ、として顔を上げた。
軽く目を見開いている少女に、ミルイヒは小さく頷いてみせる。
「父親としては、子供が幸せに育ってくれるように──そう祈ってくれる心こそが、愛しい宝物と感じるものなのですよ。」
コッソリと、呟くように囁かれて──メロディは、ぎこちなく笑みを乗せていた唇が、フルリと震えるのを覚えた。
緊張に強張った頬や、気負いに力が入った肩が、不自然なほどストンと落ちる。
「……はい!」
知らず知らずの内に、唇がホロリと解けて、微笑を形どった。
──そうだ、これは勝負なんかじゃない。
自分の見栄やプライドのために行う物でもない。
生まれたばかりの、命に芽生えたばかりの小さな幼子に、祝福を授けること。
今、自分がすべきことは、それだけのことなのだ。
視線をやった先で、ウィンドウにより飾り立てられたベビーベッドが置かれている。
ざわめく人々の声の合間を縫うようにして響き渡るのは、カシオスが奏でるハープの音色だ。
これら全ての物に、自分も見劣りしない祝福を授けなければならないと、そう気負っていた。
特に、相手はそういうのにうるさそうなミルイヒだから、と、そう頭から考えていた──でも。
チラリと視線をよこした先で、ミルイヒは目元を緩ませて笑みを浮かべている。
──心から、祝福を。
小さな命が生まれたことに、喜びを。
求められているのは、我が子が無事に生まれたことを、喜んでくれること。
その子が少しでも幸せに育つようにと、そう祝福を与えてくれること。
「それでは──エスメラルダ姫様。私からあなたに祝福を。」
音職人のメロディとして、行うべき仕事は決まっていた。
だから、迷うことなくメロディはベビーベッドに歩み寄り、眠りについている赤ん坊の前に立った。
両手を組み合わせて、胸の前で祈るように握り締める。
「あなたの軽やかなステップが、幸せの音となるように。
あなたが作り出す音が、人々の心を癒すように。
あなたの心が、沈んだとき、世界の音があなたを癒すように──。」
囁くように祈った言葉が、風に溶け込むように消えていくのを感じながら、伏せた睫を上げる。
ベビーベッドの中で横たわっている赤ん坊は、目を閉じたまま、メロディの祝福を受け入れたように見えた。
穏やかに眠る赤ん坊の、柔らかな面差しに、微笑みが零れた。
生まれたばかりの小さな命に──祝福を……。
もう一度心の中でそう呟き、メロディは、フィ、と顔を上げた。
「ミルイヒ様、心から祝福を。」
そして、今度は先ほどと違う思いで──心の奥底からの祝福を込めて、ミルイヒにもそう告げる。
その彼女の言葉を的確に受け取ったのだろう。
ミルイヒは、先ほどとは違う──メロディを気遣うような穏やかな微笑みではなく、満面の嬉しさを示した笑みで、彼女の言葉を受け止めた。。
「ありがとうございます、メロディ。」
メロディは、ミルイヒにもう一度一礼した後、ウィンドウが跪く隣へと移動する。
そして、彼らと同じようにその場に膝をついた。
言い知れない昂揚感が、彼女の全身を覆っていた。
「──さすがは、ミルイヒ様……でしょう?」
ほろん、とハープの音を鳴らして、悪戯げにカシオスが視線をよこす。
それに続いて、ウィンドウも口元だけに笑みを広げて、
「赤月帝国の5将軍は、人徳もおありだということらしいですからね。」
小さく肩を竦めて、そう囁いてくれる。
メロディは、照れに目元が赤くなるのを感じながら、ジロリと二人を睨み付けた。
「どーせ私は、まだまだ青いですよーだっ。」
ペロッ、と舌を突き出して小さく詰るメロディに、クスクスと二人が笑みを零した。
そんな3人の隣を、ヒラリ、とマントが翻り通り過ぎる。
見上げると、想像通りの人物が、面差しを正面に見据えて、優雅に笑んでいた。
「ミルイヒ様。うるわしの姫君に、このヴァンサンからも祝福を──。」
片手にバラを持ったまま、もう片手でマントを広げるようにして一礼する。
指の先々まで神経を行き渡らせ、いかに美しく見せるかにこだわっている動作だ。
そんな彼に、ミルイヒはおっとりとした笑顔を向ける。
「喜んでお受けいたしましょう。エスメラルダも、これほど多くの者に祝福していただき、どれほど喜んでいることでしょうか。」
さぁ、と手を差し出すようにして、ミルイヒはエスメラルダの寝ているベビーベッドを示す。
パァーンッ、と、一つ大きく上がった花火が、その縁に虹色の輝きを生み出す。
その美しさに、うっとりとヴァンサンは目を細めて見せた。
「ミルイヒ様のご息女ともあれば、それはそれは美しくたおやかにお育ちになられることでしょう。」
ヴァンサンは、バラを持った手を胸元に当てて、将来の貴婦人に向かって恭しく一礼してみせる。
そして、ス、とその場に跪くと、バラの花を掲げ上げて、
「私からは、その美が皆から称えられる祝福を捧げましょう!」
そう、高らかに宣言する。
その瞬間、
「おおっ、素晴らしいっ!」
ミルイヒは感動し、
「うわー……迷惑な祝福。」
ついうっかり突っ込んでしまったクロンの呟きに、ウィンドウが苦笑を浮かべる。
さらに続いてヴァンサンは、
「エスメラルダ姫の美貌が、誰もに恋焦がれる物である祝福を!」
悦に入った表情でベビーベッドで眠る姫君に囁く。
そのセリフに、親バカが入りかけているミルイヒは、感動に両手を胸の前で組んだ。
正反対に、跪く面々の表情は、芳しくなかったのだけど。
「そして最後の祝福は──……っ。」
本当に最後の最後の祝福とだけあって、ヴァンサンは余韻たっぷりにそこで区切り──バサリ、とマントを翻した。
──刹那。
カッ、と、空が明るく染まった。
「……何っ!?」
閃光弾が打ちあげられたかのように、その場に居た誰もの影が、長く短く鮮明に浮かび上がる。
────と、同時。
バリバリバリ──ドドォォーンッ!!!!
轟音が、辺りの空気を震わせる。
鼓膜を叩くような轟音は、ビリリと全身を刺激した。
「──……っ!?」
「きゃぅっ!」
メロディが、痛いほどの「音」の乱入に、ギュ、と耳に手を当てて、それが過ぎ去るのを必死で祈る。
慌てて、カシオスがハープに触れていた手を止め、目を見開いて天上を見上げる。
けれど、目に飛び込んでくるのは、焼きつきそうな光ばかりだった。
あまりの眩しさに、腕を目の前にかざして、ぎゅ、と目を閉じる。
それでも透かしこんでくる光に、頭の芯がズキズキと痛んだ。
「何々!? 花火っ!?」
クロンが、空を見上げようとして──真夏の灼熱を思わせるまばゆいばかりの光に、慌てて帽子を目深に被り、その場にしゃがみこむ。
花火にしては、眩しくて直視できない。
一瞬の閃光だと思った光は、長く尾を引かせて辺りに広がっていく。
「……花火じゃない! これは……雷の音!」
両耳を抑えながら、悲鳴のようにメロディが叫ぶ。
「いえ、雷なんかじゃありせん……っ、──裁き……そう、これは……紋章の裁き……っ!?」
ミルイヒが、切羽詰ったように叫び、空一面に広がるように燃えた空気に、ギュ、と眉を寄せた。
頭の芯を突き刺すような光は、辺りに広がり──遠くへ伸びていくほど、光が滲み、消えていく。
「裁きっ!? コレがぁっ!?」
驚いたように、クロンが顔を上げて叫ぶ。
その頃には、紺碧の空が白と紅の色を交えながら、光が消えていくところであった。
溶け込むようにぼやけていく光は、靄のようににじみ──やがて、そこから点滅するように星々が姿を表し始める。
「──……一体…………これは…………?」
呆然と、ウィンドウが呟く。
その手が、微かに震えていた。
自然の脅威と、そう一言で例えるには、あまりにも不吉な気がしていた。
誰もが、空に起きた凶つ事に心と視線を奪われ、心震わせる。
何が起きているのかを説明できる者など、誰も居なかった。
ただ、心に不安を抱えて、空を見上げるしかなかった。
生ぬるい風がユルリと吹いて、空の靄が払拭されていく。
だんだんと鮮やかに浮き立たされる紺碧の空の中、丸い満月がその光を表せる。
月光が、神秘的な光を地上へと差し伸べた。
うっすらとバルコニーの上に立つ者たちの影が伸びた。
キィン、と耳を打つ轟音の名残に、ブルリとメロディは頭を振ってみせる。
「──ねぇ、なんか、暗くない……?」
頭の芯が痺れるほどの痛みが、ズキズキと米神で音を立てているようだった。
「暗い? ……そういえば……。」
ウィンドウが、眼鏡を押し上げて、辺りを見回す。
そんな彼の顔に、濃く影が落ちていた。
「──松明が消えてますね。」
キリ、と顔を顰めて、ミルイヒがざわめく庭園を見下ろした──まさにその刹那。
「……こんばんは、方々。」
ゾクリ──と、背筋が凍るような冴えわたった声が、世界を闇色に染め上げる。
瞬間、影に捕らえられたかのように、足が動かなくなる感覚を、誰もが覚えた。
声の先は──中庭に面した手すりの位置……そう、ちょうどベビーベッドが置かれているところだった。
「この声は……っ!」
振り返ったミルイヒが、とっさに戦闘態勢に入ろうと、マントを翻すが、祝福パーティの最中に剣を帯びているはずもなく、指先に返る感触は無かった。
「おおっ! 我が心の友、スイ殿ではありませんか!」
一人、嬉々として両手を広がるのは、ヴァンサンである。
彼は、突然その場に現れた少年に疑問を抱くことなく、彼へと近づこうとする。
──が、その男の眼前が、ヒュンッ、と音を立てて風を切った。
「動くな。」
低く言い捨てて、少年は手にした棍の先で男がそれ以上踏み込もうとするのを止めた。
そして、冷ややかな笑みを浮かべると、この城の主──ミルイヒ=オッペンハイマーをヒタリと見つめた。
奇妙な緊迫感が、辺りを染め上げていた。
地面に根がついたように、ピクリとも動けない3人のおん楽隊と、クロン。
困惑したように自分の目の前に突きつけられた棍を見つめるヴァンサンと、この雰囲気の中でもすやすやと寝ている姫君。
そうして、
「随分と、楽しい宴を味わっているようだねぇ? ミルイヒ将軍?」
艶やかに微笑む少年は、満月の光を浴びて凄みを増していた。
ごくり、と、誰ともなく喉を上下させる。
「まずは、おめでとうと言っておこうか? ──ようやく待望の娘を得たらしいからね。」
口元に壮絶な笑みが浮かんだが、その目が笑っていない。
世界に音が途絶え、彼の声だけが朗々と響き渡っている。
先ほどまでのざわめきも遠く──否、この少年が現れたときから、誰も一言も発していないのだ。
これほどの人間が集まっているのに、息を潜めるような……息をすることすら恐ろしいと思うような、そんな緊迫感が辺りを染め上げている。
その中心に立つ少年は、手すりに腰をかけ、両足を軽く組むようにして、軽く微笑んでいる。
「その祝いの宴に、この僕を──監獄の魔女と呼ばれるこの私を呼ばないとは、一体どういう了見なのか、ぜひ聞かせて欲しいところだね?」
「──……それは──あなたは、こういう場をお嫌いだと聞いていますから……。
もし、ご気分を害されたのなら、謝罪いたします。」
軽く眉を寄せて、頭を下げて謝罪するミルイヒを、少年は鼻でせせら笑う。
「ふっ……、ははははは! そうして謝れば、何もかも、許してもらえると思っているのか? 甘いことを言う──将軍ともあろう者が。」
ヴァンサンに突きつけていた棍を、フイと手元に戻して、少年は目元を緩ませる。
「──……決して、あなたをないがしろにしたわけではないということだけは……っ。」
「それで?」
瞬間のためらいもなく聞き返し、少年は足を床につけた。
そ、と影が薄く伸び、少年は棍を翻して面々の顔をゆっくりと見回す。
見慣れたはずの少年の目にヒタリと見据えられて、ゾクンっ、と背筋が凍りつくような感覚を覚えた。
「──……スイ、殿……っ。」
「それで、僕が納得すると、本気で思っていると?」
カツン──と、一歩踏み出した少年の足音が、痛いほどに耳に響く。
喉が震えて、唾液を飲み込むことすらも出来なかった。
ジワジワと心の奥底から引きずり出されるのは──恐怖。
「なら、随分おめでたいことだ。」
ヒュンヒュンッ、と……棍が振るわれる。
その棍先が、ピタリ、と──一寸の狂いも無く、満月の光に輝くベビーベッドに……その中で眠る姫君へと、突きつけられる。
「──エスメラルダっ!」
悲鳴をあげるように叫んだミルイヒに、ツイ、とスイが視線を当てる。
「報いは受けてもらおう……。」
うっとりと見蕩れるほどの壮絶な笑みを浮かべて、スイは毒々しいまでの視線で──射抜く。
ゾクゾクと、冷えるような感覚とともに、痛みが、激痛が、走る。
それが何なのか理解できないまま、
「──……っ。」
唇と喉が震える中、それでも一歩踏み出そうとしたミルイヒの前で、
「より一層の悲しみと怒りと憎しみを──。」
それはそれは楽しそうに語り、少年は、右手につけた皮手袋の指先を、唇で食んだ。
そのまま、グイ、と脱ぎ捨て──強烈な威圧感を醸し出す右手の鎌を露にさせた。
昏い──暗いその色を認めた途端、まるで魂を吸われるかと思う恐怖がつま先から脳天まで突き抜ける。
「──スイ殿っ! それだけは……っ!!」
「汝、本日この世に生を受け、エスメラルダと名付けられし者──。
我が呪いをその身に受け、幾年の後のこの日この時、糸車の針により、死を迎えん……っ!」
「………………っっ!!!!」
呪いの鎌が持ち上がったかのような幻覚を見た。
辺りが闇色に染め上がり、目の前が暗くなったような感覚を覚える。
足元がグラリと傾いだ気がして、ミルイヒはクラリと米神に指先を当てる。
「──……っ。」
その暗闇の中──クッキリと浮かび上がる悪魔の微笑み。
クッキリと見える紅の双眸が、嫌に目に飛び込んできた。
「────っ!」
瞬間、ゴゥォォォォッ! と、風が吹く。
ベビーベッドの在る場所から、ミルイヒたちの方へと、まるで意思を持っているかのように──渦巻く。
「──……っ!!」
「きゃぁぁぁっ!!」
腕を顔の前でクロスさせて、豪風に堪える。
耳元で髪がバサバサと鳴り、頬を打ちつけた。
足を必死で踏ん張っていないと、このまま風に飛ばされて行きそうだった。
瞬間、
「ぅぎゃぁぁぁぁぁーっ!!!」
声が、聞こえた。
「──エスメラルダ!」
とっさにミルイヒが叫ぶ。
先ほどまで、何が起きても泣かなかった子供が、泣いている。
その事実に、ミルイヒが必死に足を踏み出そうとするが──前から吹いてくる風には、まるで抗えない。
「…………っ!!!」
それでも、前へと──足を踏みだした瞬間、フっ、と……風が消えた。
「……きゃっ。」
メロディが、小さく声を零して地面に両手をつける。
「風が……止まった……?」
ハープにしがみついていたカシオスが、乱れた髪をそのままに、呆然と辺りを見回す。
変わることなく差し込む満月の下──照らし出されるのは、鮮やかなベビーベッド。
「はぁ、はぁ、はぁ…………っ。」
クロンは、荒く息を零しながら、地面からズルズルと起き上がる。
そのすぐ脇には、いつのまにか駆けつけたらしいウィンドウが、両肩を荒く上下させていた。
彼が無理矢理床に引きずり倒してくれたおかげで、なんとかバルコニーから飛ばされるのだけは免れたらしい。
「何が……はぁっ、どう、なって……?」
「──……はぁ、はぁ……わかりません……っ。」
見上げた先、ベビーベッドは変わりなくソコに鎮座している。
その側に立っていた少年は、影も無かった。
けど、空気を震わせるような泣き声は、消えることはない。
「おぎゃぁぁぁっ、あぁぁぁぁっ!」
「…………エスメラルダ……?」
ミルイヒが駆けつけ──小さな赤ん坊のベビーベッドを覗き込む。
そこには、虹色の光を生み出す飾りに囲まれた赤ん坊が、全身を真っ赤に染めて泣き叫んでいた。
「エスメラルダっ!」
慌てて抱きとめようとしたミルイヒの手に──男の手が重なる。
まるで引き止めるように差し出された手は……珍しく厳しい顔つきをしたヴァンサンであった。
「ヴァンサン?」
何を、と、言外に問い詰めるような響きをもって名を呼んだミルイヒに、ヴァンサンは辛そうに顔をゆがめて──ゆっくりとかぶりを振る。
「エスメラルダ姫には、呪いがかけられています。
ミルイヒ様、今触れてしまえば、その呪いが姫に定着してしまうでしょう──。」
「──! 呪い……っ。」
喉を引きつらせて叫んだメロディが、きゅ、と唇を噛み締める。
「──でも、このまま放っておいても、呪いは定着してしまうわ……姫は、このままだと、あと何年か後のこの日この時に、その命を…………。」
「──……っ。何か──手立ては……っ。」
必死の思いでミルイヒが唇を噛み締め呟く言葉に、ヴァンサンが唇を真一文字に結んでうなだれる。
「我が心の友、スイの呪いを解くことは出来ません──。
私たち妖精の力では、あの魔女の魔力に……まるで及ばないのです。」
その言葉に、ミルイヒが痛切な嘆きを目に宿す。
誰もが無言で泣き続ける赤ん坊を見詰めた。
あやすことも、抱き上げることもできないまま──時が、ひどくゆっくりと流れていく。
このままでは……本当に彼女は幾年かの後、命を──────…………。
メロディは、カリ、と床を掻いて──不意に、ハッ、と気付いたように髪を振り乱してヴァンサンを見上げた。
「────……でも、祝福なら……私達が授けることが出来る祝福の力なら、その呪いを緩和することが出来るんじゃないかしら!?
呪いを完全に解くことはできないけど──でも、その呪いを緩めるくらいなら、祝福の力でも出来るわっ!」
「そうか! 私達はすでに11の祝福を授けていますが、まだ一つ──ヴァンサンの祝福が残っていましたね!
生まれたばかりの赤ん坊に託せる祝福は12まで……幸い、最後の一つはまだ残っています。
それを使って、スイ殿の呪いを緩和すれば、姫は死ぬことは免れる!」
ウィンドウも顔をほころばせて興奮気味に叫ぶ。
二人のその叫びを──呆然と聞く。
「呪いを……緩和──。」
視線を彷徨わせ、カシオスがキリリと唇を噛み締める。
呪いと祝福には、ある程度の制限が生まれてくる。
その複雑な定理を考えると──あの魔女のかけた呪いの強さを思えば、たとえ祝福で緩和することが出来ても……。
ヴァンサンは、キュ、と手を握り締めると、泣き叫ぶ──今にも息を詰まらせてしゃくりあげそうな赤ん坊を見つめた。
「……死の呪いを緩和するには……眠りの祝福しか──ないでしょうね…………。」
「! それで……それで姫は助かるというのですねっ!?」
辛そうに呟いたカシオスに、ミルイヒが明るい表情で問う。
先ほどの暴風によって、乱された服や髪を直すことにも目が行かず、ただ必死の思いで姫をカシオスを見る。
そんな城主に、カシオスは柳眉を顰めて微かにかぶりを振った。
「助かる──という表現は、正しくありません。
どう見積もっても、あの魔女殿の魔力値から考えると──100年は眠りにつかないと、呪いを完全に解除できるくらい、呪いを薄めることが出来ないのですから。」
沈鬱な響きを宿したカシオスの艶やかな声音に、ミルイヒは当惑したような視線を向ける。
「それは、どういう……?」
「最低で100年。姫は、眠り続けるしかないのです。
そうすることによって、魔女がかけた呪いを緩和することが出来ます。
100年後──魔女の呪いは、『誰にでも解ける』ことが出来るほど、弱く脆い物へと姿を変えているでしょう。
それを、『誰か』に解いてもらえばいいのです。
姫の眠りを覚ましたその時こそ、魔女の呪いは完全に解けるのです。」
ウィンドウが溜息を零しながらそう説明し、視線をヴァンサンへと向けた。
ヴァンサンは、バラを胸に掻き抱きながら、友情と人情の間で苦悩していた。
──風に乱された髪をそのままに、悲劇の貴族に入ってしまっている彼に話し掛けるのは、非常に勇気が言ったが、そうも言ってはいられない。
彼に任せるということも、非常に心配ではあったが、残っているのはヴァンサンの祝福だけなのだから、これもまた仕方がないことであった。
「姫君には申し訳ありませんが、選択権はありません。──ヴァンサン殿、眠りの祝福を。」
ウィンドウが促すと、ヴァンサンは大きく体を反らせて空を見上げた。
「おお、神よっ! あなたは、なんと苦しく切ない選択を私に強いるのでしょうか?
これもまた、我が真の友情のための試練だということでしょうか!?
いいえ──たとえどれほどの困難であっても、私とスイ殿の友情が壊れることはありません。
また、友の過ちを訂正してこそ、心の友! 私は、喜んでエスメラルダ姫を助けましょう!!」
両手を組み合わせて、祈るように手を突き上げたヴァンサンは、そのままクルリと回転して、エスメラルダの眠るベビーベッドに跪いた。
見事な踵ターンを決めて、一人満足げに前髪を指先で掻きあげる。
そんな彼に、焦るようにメロディが両手をブンブンと振り回して叫んだ。
「いいから、早くしないと! 呪い、本当に定着しちゃうでしょ!」
「分かっています。」
ゆっくりと頷いて、ヴァンサンはバラを掲げる。
先ほどからずっと振り乱している割りには、くたびれた様子もない見上げた根性のバラの花は、月の神々しい光を受けて、キラキラと輪郭を光らせ始める。
それをウットリと見つめながら、ヴァンサンが愛の囁きにも似た、歌うような祝福を捧げようとしたときであった。
手すりに上半身を預けるようにして、何とか息を整えたクロンが、煌くバラの花を見つめながら、
「……でも、100年って言ったら──目が覚めたら、知っている人、誰も居ないんだね……。
…………それって、さびしくないのかなぁ……?」
ポツリ、と──呟いた。
ヴァンサンが祝福を捧げるのを、祈るように固唾を飲んで見守っていた人々の中──クロンの呟きは、酷く大きく聞こえた。
「それは…………。」
仕方が無いことなのだと──メロディが、唇を無理矢理笑みの形に変えて、呟こうとした刹那。
ミルイヒはビクンとばかりに肩を跳ねさせた。
そして、キッ、とヴァンサンを睨み付けると、ヴァンサンに向かって叫ぶ。
「ヴァンサン殿! 眠りにつくのは、姫だけですか!?」
リン、と響き渡る問いかけに、一瞬、城を静寂が包み込んだ。
何を叫んだのか──何を意図してミルイヒがそう叫んだのか、誰もが掴みかねると眉を寄せた中で、ただ一人、ヴァンサンだけは彼の意図を解した。
「……おおっ! それはなんと素晴らしい案でしょうか、ミルイヒ様っ!」
静寂の名残が消える間もなく、ヴァンサンは飛び上がるように喜ぶ。
その時になってやっと、カシオスもミルイヒが考えていることを悟り、驚いたような顔で彼を見上げた。
「──ミルイヒ様! そのようなこと……っ。」
とんでもありません──と、カシオスは最後まで言うことは出来なかった。
強い意志を潜めたミルイヒの目が、真っ直ぐに彼を見下ろす──その目に、言葉を奪われてしまったのだ。
「もちろん、城の者を強制的に眠りに付かせるなんてことはしません。
その時がくれば、皆を城の外に出し、私とエスメラルダだけが眠りにつけばいいだけのこと。
──最低でも1年の猶予はあるのですから、いくらでも準備はできましょう。」
キッパリと言い切るミルイヒに、カシオスは絶望にも似た色を瞳に閉じ込める。
こう言い切ってしまったミルイヒを止めることは、もはや不可能に近いと──一応、分かってはいるのだ。
「…………分かりました。その時がくれば、私も供を致します。」
「カシオス!?」
うなだれ、そう決意を滲ませ呟く青年に、メロディが悲鳴を上げるように彼の名を呼んだ。
けれど、繊細な美貌を持つ吟遊詩人は、そんな彼女の声にも耳を貸さず、まっすぐにミルイヒを見上げた。
「私の歌を、私の調べを、誰よりも何よりも認めてくださったミルイヒ様こそ、私が敬愛する方。
──ミルイヒ様の100年後の目覚めを飾るのは、私の奏でる調べであればいい……。」
「……カシオス……。」
喉が詰まるほどの──息が止まるほどの感激を露にして、ミルイヒは目を緩めて彼を見下ろした。
そんな二人の光景に、ヴァンサンは感激の余り、滂沱の涙を流した。
「おお、おお、なんと素晴らしい忠義でしょう! この心に答えるため、私も力の限りを尽くしましょうとも!
全ての美を司る女神よ! この若輩に力をっ!
死の眠りは限り在る物とし、姫が深き眠りの最中にも、その美貌が損なわれぬよう!」
高々と掲げられたバラの花が、月光の光を紡ぐ。
美しい輝きを輪郭にまとって光るのを見つめながら──ミルイヒとカシオスが寄り添うように、美の女神に祈りを捧げる。
──どうか愛しき姫が、少しでも長く……人々の心の安らぎであるように、と………………。
バルコニーの上、桃色に輝く空間を据わった目で見つめながら、つまはじきにされた面々は、呆然と事の成り行きを見守っていた。
「やっぱり、最後まで美にこだわるんだ。」
月の光に照らされる城の尖塔を背景に、ポーズまで取って感極まる状態にある彼らに、クロンは疲れたように呟いた。
物語で言えば、まだプロローグの部分だというのに、どうしてもうこんなに疲れているのだろう──そう思いながら、額を手すりに押し付ける。
もうこれ以上、目に毒な光景を見ていたくはなかった。
乱れた髪を手櫛で直しつつ、メロディも疲れたようにその場にペタンとしゃがみこむ。
「ねぇ……ウィンドウ、クロン? 私、どうしても…………あの空間に、入っていく勇気がないんだけど……………………。
…………誰が、場面転換だって、教えたらいいの…………?」
疲れがだいぶ滲み出た声で、そう呟くメロディに──一体誰が、「じゃ、僕が行くよ!」と、名乗り出ることが出来たであろうか?
………………こうして無駄な時間が過ぎていくのを、刻々と誰もが感じていた。
けれど、それでも、どうしても──重い腰が上がることは、なかった。
※※※
「糸車を──城中の糸車を焼き捨てろ!
我が姫が、幾年もの後に、呪いを実現されぬよう……姫の手に触れそうな場所からは、全て排除せよ!」
──────監獄の魔女の呪いの日から、16年後。
12人分のうち、11人分の祝福を受けた姫は、近隣諸国に名を知られるほどの美貌と美声とナルシストと素晴らしい服の趣味で知られた、素晴らしい女性に育っていた。
艶やかに縦ロールされた金の髪には、白い髪飾りが付けられ、大きな上等の羽毛が一つつけられている。
ふんわりとしたドレスは、白と紅と貴重にした花の形をあしらったスタイル。細い腰に巻かれたフリルがついたリボンがアクセントである。
大きな翠玉の瞳には、星の瞬きが宿り、いつも艶やかな微笑みが浮かべられている唇は、くれない色。
白磁の肌は日に当たったことがないほどに綺麗で、誰もが見蕩れずにはいられなかった。
──姫付きの侍女の発言によると、姫様ご自身が、見蕩れる回数が一番多いとのことであったが。
蝶よ花よと育てられた姫も、今日で16歳。
城の主である男と、姫である彼女の性格に合わせて、豪華な誕生日パーティが予定されていた。
朝も早くから花火が上がり、庭には幾百もの花々が飾られる。
まだパーティのある夜までは時間がたっぷりとあるというのに、すでに城内にも香りが届きそうなほど、花で溢れていた。
「んまぁ! クワンダのおじ様からの贈り物が届いておりますわ、お父様。」
部屋に運び込まれる幾十もの贈り物を見ながら、エスメラルダは頬を紅潮させる。
そんな彼女に「お父様」と呼ばれた相手は、ふむ、と顎に手を当てて、微笑んでみせる。
「クワンダ殿は、女性に贈り物を考えるのは苦手と見えますね。」
可愛い娘に知り合いが贈り物をすることが、嬉しくないわけではないのだろう。
口元に隠せない微笑を浮かべながら、ミルイヒはそんな風に呟く。
「おじ様ったら、こんなに大きな──ぬいぐるみなんて……もうエスメラルダも子供ではありませんのにね。」
優雅な手つきで抱え上げられるぬいぐるみは、エスメラルダの背丈ほどあった。
エスメラルダは柔らかな微笑を浮かべると、そのふかふかのぬいぐるみに頬を埋める。
そうしていると、まだまだ幼い子供のようで、ミルイヒは懐かしげに目を細めた。
あの小さかった赤ん坊が、今ではもう良い年頃の娘だ。
16となれば、結婚を申し込む男性だって出てくるだろう。
現に今日の夜開かれる予定のパーティには、彼女に求婚したいと思っている男性が何人か居るらしいと、噂で耳にしている。
それを思えば、どこか寂しいような、悲しいような、そんな気持ちにさせられた。
「クワンダ殿も私と同じ気持ちなのでしょう──幾つになっても、エスメラルダはあの可愛い子供のままなのだと、そうあってほしいのだと。」
「ま、お父様まで。」
抱えていたぬいぐるみを椅子の上に乗せて、エスメラルダが振り返る。
たっぷりと長い睫を瞬かせ、彼女は拗ねたように唇を軽く尖らせた。
「わたくしは、もう今年で22……じゃありませんでしたわね……えーっと……そう、16ですのよ。」
「ええ、そうでしょうとも。私の娘は、誇らしいほどに美しく清らかに育ってくださいました。
おかげで、今日のパーティは、気が気ではありませんよ。」
ああ──と、弱弱しく呟いて、ミルイヒは両手で指先を組み合わせる。
エスメラルダは、そんな彼に笑んで見せると、
「私の求婚者のことですわね、お父様?
仕方ありませんわ、これも全て、私の美貌が悪いのですもの。」
いっそ、月から来た乙女のように、求婚者相手に無理難題を吹っかけてみるのも、良いかもしれない。
そう思えば、エスメラルダは今夜のパーティが待ち遠しくてならなかった。
「──ええ、そうですね……エスメラルダ。
あなたのその美貌が────今回のパーティに、多くの部外者を呼ぶ結果を生んでしまったのでしょうね…………。」
それが喜ばしいことであると、どうしてもミルイヒは口にすることが出来なかった。
可愛い娘は幾つになっても可愛い娘であって欲しく──嫁になど、行かせたくないのが親の心情というもの。
それなのに、今年はどこから聞きつけたのか、姫への求婚者が四人も居る。
前もってその申し込みを文で受け取っていたミルイヒとしては、16になった姫を美しく飾り立ててパーティに出したい気持ちと、そうしては誰もが姫の虜になってしまうのではないかという気持ちとが、複雑に交差せずにはいられなかった。
そんなミルイヒに気付かず、エスメラルダは近くに置かれていた花束を手にとり、そこに顔を近づけて、たっぷりと甘い香りを吸った。
「ああ、とても良い香り──今日はエスメラルダのために、職人達がバラのロードを作ってくださると聞きましたわ。
きっと、それはそれは美しいのでしょうね……。」
ウットリと目を細めて呟くエスメラルダに、ミルイヒは大きく頷いてみせる。
「それはもちろん。きっとエスメラルダをとても良く引き立ててくれることでしょう。」
言いながら、ミルイヒはふと視線をずらした。
視界に映るどこにも、プレゼントの包みが置かれている。
それは、この美しい城の美しい姫君が、誰からも好かれているという証拠だった。
ほんの数年前までは、それが酷く嬉しく感じたものだけど、今はそこに複雑な感情が入り混じり始めている。
姫を──他の男に取られるのは、一体どれほど先のことなのか、と。
あと数年もすれば、姫は選んだ男と所帯を持つことになるのだろう。
その男が、将来この城を継ぐだろう人物になるのだが……はたして。
「…………のろいは、いつ、起きるのでしょうかね…………。」
憂いだけは、消え去ることはなかった。
年を重ねるほど、安堵と悲しみとが複雑に交差し始める。
一年の一度のこの日は、姫を授かった悦びの日と供に、いつ眠りにつくか分からない日でもあった。
──いや、それでも、この城内の糸車は全て焼き燃やしたし、誰も糸車の針など持ち込むことは出来ない。
16年経った今でも──逆にそれほどの月日がたったからこそ、今年こそはと、そう思い厳重に管理し続けてきている。
精神的苦痛も、あの魔女の呪いのうちなのかと、覚えるのは疲れたような溜息ばかりだった。
年月を経て、愛しい子供が育てば育つほど、そのことが不憫でしょうがなかった。
あの時、招待状を出していればと、そう後悔しても、今更覆せるわけではなかった。
微笑みながらフサフサの毛のついた扇で自分の顔を仰いでいる娘の、嬉しそうに誕生日プレゼントの間を行き来する顔を見ていると、何とも言えない気持ちがこみ上げてきた。
今年は、例年以上のパーティ参加者が予測された。
これほど美しく育った姫の姿を一目見ようと、多くの者がアンテイの町に集まっているとも聞いている。
「──……。」
ミルイヒは、滲み出てくる不安を拭えることが出来ないまま、時が過ぎていくのに密かな焦りを掻き消すことが出来なかった。
このような、居心地の悪い不安を覚えてしまうのは、今年からパーティの参加者が──姫の求婚者が増えるからだと、そう思おうとする。
それでも、胸のソコに出来たような不安のシコリは、どうしても拭い取ることなど、出来なかった。
「? お父様?」
不意に黙りこくってしまったミルイヒに、エスメラルダは不安を覚えたのだろうか?
不思議そうに首を傾げて振り返る。
「──いえ、なんでもありませんよ。
それよりも、そろそろ支度をしに行きましょう。今夜のパーティのために、しっかりと手入れをしないといけませんからね。」
「ええ!」
父親に似て、自分を着飾るのが大好きなエスメラルダは、そんな父の提案を、心の奥底から喜んで受け入れた。
脳裏に描かれるのは、美しく着飾られた自分が、威風堂々と飾られたフロアに出る姿であった。
これまでと違い、今日はさまざまな町の人たちがやってくる。
求婚者もいる。大勢が、自分の美貌を見に来るのだ。
そう思えば、興奮と歓喜に心が震えずにはいられなかった。
きっと今日のパーティは、今までの中で最高のパーティになるに違いない。
エスメラルダは、そう信じて疑わなかった。
──16年前の事実を、未だ話されていない姫は、自分の未来の幸福を、決して疑うことは、無かったのである。
カツン、と──美しいガラスであしらわれた靴が、しなやかな彼女の足を包み込んでいた。
その細い足首が、ヒラリ、と舞うドレスの裾を纏わせる。
二階から続く階段を、ゆっくりと降りてくる娘の姿に、一階のフロアに集っていた面々は、ハッ、と息をつき、目を見開いた。
軽やかに降りてくる娘の唇に浮かぶのは、艶ある微笑み。
夜の闇を照らし出す松明の炎の光を宿す瞳は、キラキラと輝いている。
誰もがその美貌を見つめ、その体に着ているゴージャスかつ素晴らしいセンスのドレスに視線を注いだ。
「……うわー……なんでそこで、水玉模様のリボンなんだろー。」
「凄いわね……今日の縦ロール、いつもの三倍増しだわ。」
集う人々の中、大ぶりの花束を小脇に抱えたクロンが嫌そうに呟くと、その隣で小ぶりの花束を片手に持ったメロディが、それに同意する。
二人がゲンナリした顔で見上げた先、羽のついた扇をヒラヒラと優雅に舞わせながら降りてくる娘は、まさに今、スポットライトの中心にあった。
胸が大きく開いたドレスの中央には、見事なオパールのブローチがつけられている。
光を浴びて、微かに色合いを変えるそれは、彼女の気まぐれで高貴な雰囲気に良く似合っていた。
彼女が歩みを進めるたび、ホロンホロンと、艶やかな音色が空気を染め上げる。
一階のフロアの、一段高い場所──城主であるミルイヒが立つそこに腰掛けて、カシオスがハープを奏でている。
その音が鳴るたびに、エスメラルダの回りの空気が輝くような錯覚を生み出していた。
彼女の足が、カツン、と階段を下りるたびに、その足音はカシオスの奏でるメロディに重なり、見事なロンドを生み出していく。
「ああ、見事なウィンドウ効果ですねぇ……。」
のほほーんと、クロンとメロディの間で呟いたのは、ウィンドウであった。
彼が16年前に授けた祝福の効果で、エスメラルダがヒラリと服を翻したりするたびに、幻覚のような花の模様が浮かび上がり、光に掻き消えて消えていく。
「ああ、なんと美しい!」
「なんて素晴らしい姫君だろう!」
そこかしこで、そう叫ぶ一般の人々に、エスメラルダは両手を挙げてそれに答える。
ミルイヒがそんな彼女のもとへ進み、恭しく片手を掲げた。
エスメラルダは、ニッコリと微笑んで、そんな彼の手を取る。
「皆様、今日はこのエスメラルダのために、ありがとうございます……。」
唇からエスメラルダの声が零れた瞬間、
「おお……なんと美しい声だろう!」
「まるで天上から舞い降りてくる音楽のような──……っ。」
人々の唇から感嘆の吐息が零れ、辺りがばら色に染まったかのような感覚を覚えた。
「────……それじゃ、僕、その姫様に求婚してくるよ。」
バサリ、と大ぶりの花束を振って、クロンが片手を額に掲げる。
「行ってらっしゃーい。」
メロディが、気もなさげに、クロンに向かって手を振った。
ウィンドウも、そんなクロンの背を見送り、ヤレヤレと溜息を零すと、懐から包みを取り出した。
クロンの次に求婚するのは、自分だからだ。
ツヤツヤと輝く宝石をちりばめた宝石箱は、きっとエスメラルダのお眼鏡に適うに違いない、上等の代物であった。
彼はそんな自分のプレゼントを見下ろし、苦笑にも似た笑みを口元に浮かべた。
そうして、そのまま視線を上げる。
視線の先──ぽてぽてとエスメラルダに向かって歩いていくクロンが見えた。
庭師のゼンが丁寧に手入れをしていただろう、美しい花弁を揺らす花が、松明の灯りに輝いて見える。
あの花を受け取って、喜ばない人は居ないだろう。
エスメラルダが大ぶりの扇を仰ぎながら、悠然と微笑んでいる前へ、クロンが進み出る。
両手で花束を抱えなおして、微笑を浮かべている上機嫌の彼女向けて、唇を開こうとした──まさにその瞬間であった。
「お誕生日おめでとうございます──エスメラルダ姫。」
カツン、と。
軽やかな音を立てて、一人、前に進み出た人が居た。
顔が隠れるほどの大ぶりの花束を抱え、クロンとエスメラルダの間に立ち、優雅に一礼してみせる。
内側が紅に塗りつぶされたマントをヒラリと翻し、その人は唇に嫣然とした微笑を浮かべた。
「──……あら…………。」
扇で口元を隠し、微かに頬を赤らめて、エスメラルダは自分の前に現れた人を見つめる。
白い手袋を嵌めた手には、見事なばかりの大輪の花束。
松明に照り輝く漆黒の髪には、天使の輪。
黒いタキシードが、暗闇に映える白磁の肌を引き立てている。
申し分のない青年貴族の様相に付け加え、柔らかな表情は酷く魅惑的で、身なりも所作も、優雅で気品に溢れていた。
エスメラルダは、そんな彼に、はんなりと微笑みかける。
相手は、彼女の微笑みに蕩けるように微笑み返した。
「あなたの16回目の……運命の誕生日を記念して……。」
どうぞ、と差し出される、むせかえるような花束に、エスメラルダは彼の美しい瞳から目を離さず、両手を差し出す。
「あーあ、先越されちゃったよ。」
クロンが、うっとりと目を細めているエスメラルダの態度に、残念そうな振りもせず、清々したと言わんばかりに背後を振り返った。
「──……て、一番最初にエスメラルダさんに求婚するのって、クロン……だったわよね?」
あれ? と、軽く首を傾げたメロディが、軽く目を瞬かせる。
「ええ、そうでしたけど──……。」
自分が用意した宝石箱を、手持ち無沙汰に持ったまま、ウィンドウも首を傾げる。
そんな彼らの視線の先──花束を両手で抱えて、幸せそうな微笑を浮かべるエスメラルダが、薫り高い匂いを嗅ごうと、そ、と鼻先を花弁に近づけさせる。
鼻腔に感じる魅惑的な香りに、──ああ、と、エスメラルダが感嘆の吐息を零す。
さらに良く嗅ごうと、花束を握りなおしたときだった。
「痛っ。」
ぴリ、と、指先に痛みを感じた。
軽く眉を潜めて、視線を落とすと、白い指先に血がプックリと盛り上がって見えた。
その目の前で……エスメラルダの前に立つ人の唇が──冷ややかな微笑を宿す。
「──……っ。」
瞬間、メロディもウィンドウもクロンも、「それ」が誰なのか、気付いた。
嫌になるくらい見覚えのある微笑が、「誰」がいつも浮かべている物なのか、知らない人間は解放軍には居ない。
「あ……っ!」
「うそっ、バンダナ無いから分からなかったわっ!」
「ということは──その花束っ!」
悲鳴に近い叫びが、三人の唇から零れると同時、
「死の香りに、打ち震えると良い──エスメラルダ。」
陶然と微笑み、少年が、顔を上げる。
「え……──っ。」
目を大きく見開いたエスメラルダが、唇を戦慄かせると同時──、不意に指先から力が失せ、花束を取り落としてしまう。
ばさり、と──嫌に大きく響く音が、エスメラルダの耳に残った。
「──……っ。」
零れた花びらが、ヒラリ、と舞うのに──ああ、もったいない──そう思ったのか、口に出したのか……。
「エスメラルダっ!」
「姫様っ!」
慌てたように駆けつけてくるミルイヒの声も、カシオスの声も、はるか遠く──花束を握り締めていた指先が、ガクガクと揺れ始めていた。
かと思うや否や、がくんっ、と膝が落ち……予測される痛みも何も感じないまま、意識が昏倒する。
「エスメラルダ!!」
駆け寄ろうとするミルイヒが、その場に倒れ付したエスメラルダに、血相を変えて叫ぶが、彼女は答えることが出来ない。
「──ふっ……ははははは! あはははははは!!」
誰もが驚愕に凍りつく中──当たり前のように哄笑するのは……この運命を導いた人。
「──……っ。」
背筋が凍りつきそうに冷ややかな哄笑に、ゾクリと背筋が震え、ミルイヒは足をとめる。
魔女の足元に倒れたエスメラルダの白皙の頬は、今は青ざめて見る影も無かった。
「あなたは──……っ。」
引き攣れた喉で、ミルイヒが低く唸る。
そんな彼へ、流した視線を寄越し……少年は、まがまがしい笑みを口元に浮かべて見せた。
「残念だったな──ミルイヒ。」
「──……っ。」
「たとえこの国から糸車を廃そうとも──僕の呪いから逃れることは出来ない。」
バサリ──と、漆黒のマントを背後へ払いのけて、床に倒れ付したエスメラルダを見下ろす。
見事な金糸の髪を床に散らせた娘は、血の気を無くした唇を薄く開き、吐息すら零しては居なかった。
それを無表情に見下ろし、かつん、と靴を打ち鳴らす。
そして、そのまま足先に引っ掛けるようにして、落ちた花束を蹴った。
クルリと空中で一回転した花は、盛大に花びらを散らせながら、目線の高さまで飛び上がる。
少年は、無造作にそれを右手で掴み取ると、握る部分──リボンが結ばれた辺りに巧妙に隠された銀の針を取り出した。
その先端には、今ついたばかりの赤い血が付いていた。
「──まさか……糸車の……?」
顔を強張らせるミルイヒに、少年は壮絶な笑みを零す。
「エスメラルダは糸車の針によって死ぬ。」
十六年前のこの日この時──吐いたのろいを再び口に上らせて、彼はその針を打ち捨てた。
カシンっ、と、軽い音を立てて、針が床を転がった。
松明の炎に照らし出されるその小さな針の軌跡を目で追い──誰も声を出すことも出来ない。
息を潜めるようにして、その針が床の上で止まるのを見つめていた。
「予言は成就した──誰もコレを妨げることは出来ない。」
楽しそうの喉を震わせて、少年は手にした大輪の花束を、バサリ、と……エスメラルダの上に投げ捨てる。
それはまるで、弔いの花のようで──ミルイヒは、声にならない悲鳴を喉で飲み込んだ。
のろいが世界の全てを覆い尽くしているかのような感覚が、この城を包もうとしていた。
「──それは違いますよ!」
リン、とした甲高い声が、響き渡るまでは。
その声は、高らかに響き渡る──漆黒の闇に包まれたかのようなこの室内に、差し込んだ光のように力強く……。
「………………ヴァンサン・ド・プール……。」
うっそりと振り返り、監獄の魔女が、その声の主の名を低く口にする。
「おおっ、我が心の友、スイ・マクドール! なかなかタキシード姿も似合っていますね──難を言えば、フリルが一つもないということでしょうか?」
口に咥えたバラをそのままに、彼は朗々と語り、両手を大きく開ける。
青年のその仕草一つで、存在を無くしていた松明の灯りが、煌々と人々の目に灯り始める。
それは、不思議な感覚だった。
「なんだい? 君も僕の邪魔をすると言うのか?
──人の暗闇と呪いが僕の望み、僕の悦び……邪魔をするというなら、お前もコレの糧にしてやろうか?」
ヒラリ──と舞わせるように右手を掲げる少年に、けれど正面に立つヴァンサンは背後に尻込むことはなかった。
「ノンノン! 私とあなたの友情に、そのような問題など些細なもの!」
誰が聞いても、「それ、どういう意味が……?」と疑問に思うようなことを口走りながら、悠然と進み出ると、口からバラを抜き取り、その花の先でビシリとエスメラルダを差し示す。
「今こそ彼女の祝福が実る時! さぁ、太陽の姫、エスメラルダ! あなたは死の眠りを退け、深き眠りへといざなわれるでしょう!」
瞬間、エスメラルダの唇に艶やかな色が戻り、ホゥ──と彼女の唇から吐息が零れ始めた。
「エスメラルダ……っ!」
小さく叫んだミルイヒが、その顔に安堵の表情を浮かべたが──ジロリとスイにより睨まれ、ぐ、と言葉を詰まらせた。
「──……妖精の祝福か……悪あがきをするものだ。」
視線を戻した先で、美しい姫が頬にも血の気を上らせて、深き眠りに入っていた。
「ふん──まぁ、いい。」
軽く鼻を鳴らせて、スイはこの場に集う面々の顔を見やる。
顔を歪ませているミルイヒ、ハープを片手に唇を食いしばっているカシオス、呆然としているウィンドウ、泣きそうに顔をゆがめているメロディ、ギュ、と奥歯に力を込めているクロン──バラを掲げて悦に入っているヴァンサン。
「今は、安寧の眠りに身を委ねるといい。」
ばさり──と、マントを翻し、少年はフワリと床から浮いた。
そのまま天井近くまで上っていく彼に、唖然とする面々の顔が一度に見渡せる位置で一度止まると──スイは、残酷な中に喜色を交えた表情で……宣言した。
「──この城ごとな!!」
「…………──んなっ!」
目を剥いたカシオスが、慌ててそれに抵抗しようとハープを掻き鳴らすよりも先に、強烈な眠気に眩暈をおぼえる。
指先すらおぼつかない中、バタバタと何かが倒れるような音がする。
誰よりも真っ先に倒れたヴァンサンの手から、ポロリとバラが零れ、その紅色を目にとめながら、クロンが、ウィンドウが、メロディがまぶたを閉ざしていく。
「エスメ──……ラルダ……っ!」
せめて──と、必死に手を伸ばすミルイヒの指先は、けれど姫の下に辿り着くことがないまま、パタリ、と力を失って床の上に落ちた。
「はははははは! 百年! 百年の後、お前たちを目覚めさせる者が現れなければ、その命は全て無くなると思え!
──もっとも? そんな者は、門番の贄となるだろうがな!」
響き渡る笑い声に、必死で抵抗しようとする気力も、ことごとく端から崩れ去っていき──完全に意識が無くなる直前、どこか遠くで、ポロン、と言うハープが鳴る音が…………聞こえた気がした。
こうして100年──彼らは夢の中で、長いようで短い時をすごすことになった…………。
自分たちを目覚めさせる力を持つ「運命の人」を、待ち焦がれながら。