2年目のジンクス







 プロ野球生活も二年目に入り、二年目のジンクス、を気にするようになった。
 箱根で他の「同級生」に会ったときは、彼らはそんなジンクスを気にするそぶりも見せていなかった。
 それに勇気付けられて、里中自身も、二年目を投げ抜いてやると、そう決めたはず──だったのだけど。
 「二年目のジンクス」は、違う形で自分の上にのしかかってきたような気がした。
 ジンクスに負けないように、必死に毎日をがんばり続けるあまり、うわさ話に耳を傾ける暇がなくなっていた。
 そのせいで──「あの話」が耳に入るのが、遅くなった。
────もっと早く、気づいていれば……いや、せめて「その事件」がおきたときに、小耳に挟んでいれば、素直に聞けたに違いないのだ。
 けれど、知らずに過ぎた月日が戻るはずもなく、「こと」が終わったような今の状況で、いまさら話を蒸し返すこともできないでいる。
 基本的に里中は、心の中でモヤモヤと悩み続けるのが苦手だ。
 にもかかわらず、その話を耳にしてから1週間、うわさ話の真偽を聞くに聞けず──今まで、ずっとモヤモヤを抱え続けていた。
 話を聞きさえすれば、このモヤモヤはなくなるとわかっている。わかってはいるのだが──それで聞けたら、ここまで悩みはしない。
「………………………………………………。」
 ため息を付きそうになるのをとめて、無言で里中は腕の中で身じろぎしている幼女を抱きしめた。
 幼いせいか、少し色素の薄い茶色の髪が、フワフワと里中の顎をくすぐる。
 小さな手を、里中の二の腕に這わせては、楽しそうにか弱い手でそれを揉んで、またクスクス笑う。
 何が楽しいのかは分からないが、それでも彼女は、里中に抱きしめられて上機嫌だった──それもそのはず、電話以外で里中と触れ合うのは、じつに一ヶ月ぶりなのだ。
 けれど、最初はギュゥと抱きしめられて上機嫌だった彼女も、そのままの体勢でジッと一時間もほうりっぱなしにされれば、さすがに疑問を抱いたようだ。
「さとぱぱ?」
 見上げて、首を傾げる彼女の小さな頭に、とん、と顎を置いて、里中はため息を零す。
 その視線が剣呑になっているという自覚はあったが、自分でどうこうできる問題ではなかった。
 それどころか、むかむかとする胸の痛みに、イライラが募るばかりだった。
 こんな顔を、愛らしい娘には見せられないと、里中はイヤイヤと首を振る彼女を再び強引に抱きしめて、ため息を、一つ。
 プロ野球選手の中にあって、小柄で軽い里中は、それでも一般のサラリーマンに比べたら、ずいぶん体力も力もあるほうだ。特にピッチャーを勤め上げている背筋力と握力は、そこらの男に負けない自信もある。
 今はずいぶん手加減しているとはいえ、そんな里中の腕の中に抱きしめられて、小さな──まだ2つにもならない娘が、抵抗しきれるはずもなかった。
 黙って抱きしめられているのに飽きてきた娘は──同時に、大好きな「ぱぱ」の綺麗な顔を、ひさしぶりにテレビ以外で見れるというのに、それすらも果たせない事実に、癇癪を起こしてバタバタと暴れるが、自分を捕らえている腕は、ビクともしなかった。
「ぱぁ、ぱーっ!」
 抱きしめられた腕の中で、小さく責める声をあげるが、なにやら物思いにふけっている里中は、それに聞く耳も持たなかった。
 そのまま、ボンヤリと──けれど、視線だけは鋭く画面を睨みつけている里中へ、
「智、いい加減、姫ちゃんを放してあげなさい。
 苦しそうじゃないの。」
 不意に背後から声がかかった。
 ハッ、とわれにかえって、テレビの画面から視線をはがした里中が振り返った先──呆れたような顔で立つ、母の顔があった。
 苦労しているわりには、まだ充分若く見える加代は、整った容貌に呆れた色を滲ませて、手にしていたお玉を軽く振った。
「……かあさん。」
「ほら、智。」
 お玉の先で、とんとん、と空気を叩く母に促されて、のろのろと里中は腕に抱きしめた愛娘を解放する。
 とたん、ぷはー、と、大げさな息を零した姫は、そのまま里中の腕の中から出て──きゅむ、と、改めて今度は自分から里中に抱きついた。
「……ひ、姫?」
「んv」
 驚いて姫を見下ろす里中に、彼女は満足そうに微笑み、頬刷りをする。
 そんな姫の姿に、あらあら、と加代は小さく笑った。
 姫は、小さな掌を里中の両頬に当てると、こっつん、と額を合わせて、間近でニッコリと笑った。
「さとぱぱ、だいすき。」
 そして、──おそらくは、姫なりに里中を慰めようとしての行動なのだろうが。
 チュ。
 軽い音とともに、小さくて柔らかな唇が、ちょん、と、里中の唇に触れた。
「……!」
 驚いたように目を見開いた里中に、ニッコリと──照れたように姫が笑った。
「げんき、でた?」
「……って…………姫…………。」
 嬉しそうに笑う姫に、里中はなんとも困惑した面持ちで彼女を見下ろす。
 一体、誰にこんなことを──そう思った瞬間だった。
「……パパのチューじゃないと、だめ?」
 少し、悲しそうに姫が続けた。
「…………………………って………………。」
 そんな、自分を見上げる姫の顔を見下ろして、里中は驚いたように目を見張った。
 それって、つまり。
「あらあら〜、相変わらずアツアツねー、智と山田くんは。」
 笑いながら言った加代の台詞に、う、と、里中はうめいた。
 姫にこんなことを教えた張本人は、どうやら自分達だったようである。
「──姫。」
 なんとなく頬が赤らむのを覚えながら、里中は、ぽん、と娘の頭に手を置いた。
 きょとん、と見上げてくる彼女に、ニッコリ微笑みかけてやると、チュ、と、小さい彼女の額に口付けを一つ。
「心配してくれて、ありがとう。
 嬉しかったよ。」
 にっこりと笑いかけると、目の前で、姫は本当に嬉しそうに笑った。
 そしてそのまま、がばっ、と、勢いづいて首に抱きついてくる。
 突進でもするような勢いの姫を抱きとめてやりながら──なんだか、おれや山田といよりも、サッちゃんに似てきたなぁ……なんてことを、思うのであった。












 はしゃぎ疲れてすやすやと眠るわが子に、そ、とタオルケットをかけてやる。
 明かりを消したアパートの部屋の中に、襖の向こうから差し込む居間の明かりが、少しだけまぶしい。
 その明かりの中、幸せそうな笑みを浮かべて眠る子を見つめる目が、そ、と柔らかに弧を描く。
 里中は、漏れでる微笑みを堪えることなく、指先で優しく姫の頬を撫でてやる。
 女の子は男親に似るというけれど、この子に関しては──この子の両親が誰なのか知る、昔からの仲間達は、声をそろえて自分にソックリだと言う。
 見下ろしたあどけない顔が、自分に似ているといわれても、いまいちピンとはこなかった。どちらかというと、穏かな弧を描く眉や、優しげな目元が、山田に似ていると思う。
「……智、お茶を入れたわよ。」
 眠った姫に気遣ってか、そ、と優しく声をかける母に、うん、と一つ頷く。
 音を立てないように、静かに立ち上がり、姫を残して部屋の襖を閉めた。
 そして、明るい居間に踏み出し、いつものように椅子を引いて座ると、その目の前に加代が座る。
「この年頃の子は、大きくなるのが早いでしょう?」
 クスクスと笑いながら、加代はどこか懐かしそうに里中の顔を見る。
 おそらく、小さかった頃の里中を、姫に重ねているのだろう。
 おばあちゃん、なんて呼ぶには、全然若すぎる面差しで、加代はやんわりと微笑む。
「うん、そうだな──ビックリした。」
 一ヶ月に一度の、姫の「里中家お泊りの日」。
 会う回数は、月にマチマチだけど──何せ、姫が普段暮らしているのは、横浜の山田の家で、里中の家は千葉にある──それでも、顔を見て久し振りだと思うほど、離れているという感覚はなかった。
 なのに、今日会って、いつものように恥ずかしがる姫を抱き上げて──ビックリした。
「もう少ししたら、もう抱いてやれなくなるかもな。」
 さびしげに、湯飲みを持った手のひらを見下ろす里中に、子育て経験者の加代は笑った。
「そんなことを言っていられるのも今のうちだけよ。小学校に入ったら、そりゃもう大変よ。毎日泥だらけにしてくるし、日射病で倒れるのに野球がしたいとダダをこねるし、中学に入ったら入ったで、毎日ケンカしてくるし、高校に入ったら、もぅ年頃の女の子なんだもの。……あっというまに、子供を作ってくるかもしれないわねぇ。」
「…………か、母さん……っ。」
 それって、全部俺のことじゃ……っ!?
 そう、むっ、と拗ねたように見上げる里中に、ふふ、と、加代は笑った。
 その加代の顔ににじみ出ている幸せそうな色に、里中は、もう、と小さく零して──手の中の暖かな湯飲みを、きゅ、と握り締めた。
「……でも俺……山田に会えて、良かった。」
 母さんには、いつも苦労ばかりさせてきたけど。
 そう続けて──幸せそうに微笑む里中の姿に、何を言うの、と、加代も笑い返した。
「息子が幸せになって、嬉しくない母親がいますか。」
 そして、少しの沈黙の後。
「……まだ、『息子』で、いいのかしら?」
 軽く首を傾げて問いかけてきた。
 その答えは──……、
「……──。」
 そ知らぬ顔で、お茶を飲むことで濁すのであった。






2へ続く

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ちなみにここで終わったら「ほのぼのファミリー話」。
続きをクリックすると、寒イボ出るようなバカップル話。
乙女化里中危険注意報発令中。
──どちらがお好みですか?