ずず、と音を立ててそ知らぬ顔でお茶を啜る息子の顔を、マジマジと見つめて……加代は、湯のみで自分の掌を温めながら、さりげなく口火を切った。
「ところで智? あなた、今日はずーっとライオンズの試合を睨みつけてたけど、山田君と何かあったの?」
「………………………………。」
ごほっ、と、飲み干したお茶を一瞬吐き出しかけた智だったが、すぐになんでもない顔を装い、付けっぱなしにテレビに視線を当てる。
しかし、頬の当たりに感じる母の視線は、なるほど、と納得した色を這わせた。
──姫の体をギュゥと抱きしめながら、画面を睨みつけていたところを見られているのだから、否定をしてもうそ臭いと思われるだけだろう。
「ケンカをしてるなら、早く仲直りしなさいね。
今日だって、姫を預りに行くのに、あなた、山田君に顔もあわせなかったじゃないの。」
澄ました顔でお茶を啜る母に、智は何も答えずに、テレビの中で笑い声をあげているバラエティーの司会者を見つめた。
「………………………………。」
無言で答えない息子には気を払わず、加代は頬に手を当てて、少し残念そうにため息を零すと、
「いつもなら、『山田〜v 今日は頑張って打てよ、姫と一緒に見てるから』なーんて、イチャイチャイチャイチャして、母さんと山田君のおじいさんを困らせるくせに。」
チラリ、と智を視線で見た瞬間、
「い、イチャイチャしてないよっ、いつも!」
カッ、と目元を赤らめた智が、そこでようやく口火を切った。
それを認めて、しれっとして加代は続ける。
「雰囲気がいつもイチャイチャしてるわよ。」
「…………そ、そこまでは責任もてないよ。だって俺だって、一ヶ月ぶりに山田に会ったりとかなんだからさ──。」
ぶす、と頬を膨らませてブツブツと口の中で呟く、智の目元がかすかに赤らんでいるのに気づいて、加代は小さく笑みをこぼす。
その笑みを口元に上らせる代わりに、加代は両手でしっかりと湯のみを抱えなおし、お茶をすすりながら、少しだけ身を乗り出す。
「姫ちゃんも気にしてたわよ、智? 一体、何でケンカしたの?」
ん? と、見上げるように首をかしげると、智はその視線から逃れるようにツイと顔を横にやった。
「ケンカなんかしてません。」
少しだけ硬い声は、嘘ではないけれど、本当ではないという事実を示している。
「あら、それじゃぁ、どうして山田君に顔をあわせなかったの?」
あれだけあからさまに姫を預かりに行く時間と、山田がいる時間をずらせば、誰でも気づく。
──何かあって、智は山田と会う時間をずらしているのだ、と。
山田さんも、気にしていたかしらねぇ、と──加代が心配そうに頬に手を当てるのを、少しだけ恨みがましい目で見て、智は唇をキュ、とかみ締めた。
「──山田の試合前だったからだよ……。」
そう口にしてみたものの、それがあまりにもおかしい言葉だということは、智もよくわかっていた。
けれど、そのまま黙っていたら黙っていたで、加代は勝手に智の気持ちを代弁してくれるに違いない。
母には弱い智にしてみたら、できるだけ今日はソ、としておいてほしかった。
自分だって、あれはあからさまだったと、一応後悔しているのだから。
「──智が顔を出さなかったから、今日は山田君、一個も打てなかったんだと思うわよ?」
湯飲みをコトリとテーブルの上に置いて、少しだけ心配そうな色をのぞかせる加代に、智はギュ、と手のひらを握り締める。
その言葉こそが、自分が今、心とらわれている現実とつながっているのだと、母は理解していないはずなのに。
「……──そんなのあるわけないだろ……、山田が、そういうのに左右されるかよ。」
声が、乾いていると、自分では思った。
動揺しているのだと、気づいた。
付き合いの長い母は、その動揺に気づいているだろう──ただ、智が動揺している理由が、「違う理由」だなんて、気づいていないことは間違いない。
「そんなの分からないじゃないの。」
はぁ、と、ため息をこぼして、加代は空になった自分の湯飲みを見下ろした。
新しいお茶を入れようかどうしようかと、そう加代が逡巡した刹那、
トゥルルルル……トゥルルルル…………。
部屋の片隅で、電話が鳴り出した。
「あら、山田君かしら?」
思わず、加代は口からそうこぼしていた。
「電話の音だけで決め付けるなよ……母さん、電話。」
冷め始めた自分のお茶を手にして、智は目を閉じて加代を促した。
その言葉に、やれやれ、と言った表情を作った後、加代はおざなりに智に答えた。
「はいはい。」
そのまま立ち上がり、電話を手に取ると、耳に受話器を当てた。
「……はい、里中です。」
よそ行きの声を出して応対する母の声を聞きながら、智は湯飲みを見下ろし──そこへ、ソ、とため息をこぼした。
──自分でどうにかコントロールできるような感情なら、とおの昔にコントロールしている。
昔から独占欲が強いという自覚があったが、独占欲が強すぎるあまりに、ココまで動揺して参ってしまうとは……思いもしなかった。
それを言えば、今まで自分たちの間に入り込もうとした人間が居なかっただけ……とも言うのだが──あのときは、とにかく四六時中一緒に居たし。
「……──離れてるのって、やっぱり、考えものかなぁ……。」
思わず弱気な発言が漏れてしまい、智はキリ、と下唇をかみ締めた。
そんな智の発言に覆いかぶさるように、
「──って、あら、こんばんは。」
一段、明るくなった母の声音が、意味深な含みを込めて、電話の相手に挨拶をする。
加代の視線を感じて、ハッと顔を上げた先──彼女が、にんまりと笑みを貼り付けながら、受話器をさりげなく持ち直し、
「ふふ……いえね、今、ちょうど山田君の話をしていたところだったから。」
わざとらしく、智を見た。
「──……っ!」
思わず息を吸い込んだ智の反応を楽しむように、ことさらゆっくりと加代は受話器を耳元に当てながら、
「姫ちゃんも、もうグッスリ寝ちゃってるから、ゆっくり電話してやってちょうだい。なんだか智ったら、拗ねてるから。」
そう、楽しげな響きを宿した声で、電話の向こうに語りかける。
「母さんっ!!」
思わず、ばんっ、とテーブルを叩いて叫ぶ智に、受話器の口に手を当てて、加代は軽く睨んだ。
「こら、智。姫ちゃんが起きちゃうでしょ。」
「──……ぅ。」
言葉に詰まった智を満足そうに見下ろして、加代はそのまま指先でポンと軽く「保留」を押す。
「ふふ……それじゃ、わたしもお風呂にでも入ってこようかしら〜。」
そんなことを言いながら、軽快なメロディーが流れてくる受話器を、はい、と差し出して、
「はい、智、山田君から。」
にっこり、と微笑んだ。
「…………………………っ。」
キュ、と、唇をかみ締めて、智は差し出された受話器を、魚を見るかのような目つきで睨みつける。
娘の手前、食わず嫌いは直ったようだが、未だに魚を食べるときは普通の二倍は掛かる智の、分かりやすい反応に、加代は手にした受話器を上下に軽くゆすって、彼女に催促する。
「さ・と・る。」
強い響きの宿った母の言葉に、しぶしぶ智は手を差し出し、彼女の手から受話器を受け取った。
「…………ん。」
コードレスの子機は、それほど重くないはずなのに、なぜか腕がずっしりと落ちてしまいそうに重く感じる。
外線のランプが、ピカピカと光っているのを無言で見つめる智の頭の上から、
「ちゃんと仲直りしなさいよ。母さんがお風呂から出てきて、また仲直りしてなかったら、怒るわよ。」
腰に手を当てて、加代がメッ、と目じりを上げた。
「…………………………。」
そんな母を見上げて、手元の受話器を見下ろす。
「ほら、智。」
一向に返事もせず、保留を解除もしない智に、加代は叱るように声をかける。
母のそんな声に、しぶしぶ──本当に気が乗らないような態度で、智は受話器を見下ろした。
「……わかったよ。」
呟かれた言葉に力はなく、加代は軽く眉を寄せた。
基本的に智は、他の誰の電話を面倒くさがっても、山田からの電話に限っては、ソレがない。
山田とケンカをしている最中でも、山田から電話が掛かってきたら、加代と彼が世間話をしている時間ですら、もったいないと言わんばかりに睨みつけてくることがあるくらいだ──実の母に嫉妬してどうするのだと、あきれるばかりだが、それも満面の笑顔で電話している智の顔を見てしまったら、あえて飲み込むほどで。
その智が、のろのろと受話器の保留を解除する姿を、加代は珍しいものを見る目で、じ、と見守る。
「…………もしもし。」
「────……………………。」
受話器に答える声も、元気がなくて──いったい、何があったのだろうと、加代は心配になって、気鬱を宿す智の横顔を見つめた。
「……あぁ、姫はもう寝てるよ。……うん。」
嬉しい気持ちはある──けれども、そこに苦痛の色にも似た、どこか辛そうな色もにじみ出ている。
直情型で、思うところがあったら、即口に出す智にしては、非常に珍しいことである。
彼女がココまで隠し通そうとするとなると──それは、あまりいい意味じゃない。
「…………………………。」
まさか、山田とのっぴきならないケンカでもして、別れ話にまでもつれ込もうとしているのだろうか?
──いや、それはありえない。
数日前、山田と最後の会話を電話越しにしていた現場に加代も居たが、聞いているこっちが恥ずかしくなるような会話はしていたが、ケンカになるような会話はしていなかった。
うーん、と、加代は頬に手を当てて、山田と気の乗らない会話をしている智の横顔を見つめ続ける。
別居生活が長いというほどでもないはずだし──何せ、今年でまだ二年目だ。
いったい何があったのかしら、と、首をかしげ続ける加代の目の前で、不意に智が受話器の口に手を当てて、ふぅ、と吐息をこぼした。
かと思うや否や、智はゆっくりと──だるそうな仕草で加代を振り返ると、
「………………………………母さん、別にそうやって見張ってなくても、切ったりしないから、さっさと風呂に行けば?」
ジトリ、と、下から睨みあげる。
その目元が、かすかに赤らんでいることに、そこで初めて加代は気づいた。
──なんだ、なんだかんだ言って、嬉しいんじゃないの。
そう分かった以上、これ以上ココに居ても、また当てられるだけだろう。
加代は、クルリときびすを返すと、ひらひらと智に向かって手のひらを揺らした。
「はいはい、それじゃ、邪魔者は退散するわよ。
一時間くらい、ゆっくり入ってこようかしらね〜。」
わざと智に聞かせるように、そんなことを呟いてみせる。
思わず智は、ジットリと母を睨みつけると、
「のぼせるよ、そんなに入ってると。」
そう呟いて、自分に背を向けた母に小さく舌を突き出して見せた。
それから、再び子機に向き直り、
「……ごめん、で、何だった?」
電話の相手に話しかけた瞬間、
「──……仏頂面作っても、嬉しいのは丸分かりよ、智。ふふふ。」
にんまり、と笑った母が、風呂のドアに手をかけながら、そう──こちらに向かって声をかける。
「──……っ!!」
思わず、一瞬息が詰まった智に、バイバイ、というように加代は手を振って、ぱたん、と──ドアの向こうに姿を消した。
さらに続くと、もっとこそばゆいオチにご到達。
──まだ行く? というか、ただのバカップルな夫婦喧嘩を目指してみただけなんですけどね……。
私、個人的に加代さんって、だいぶしたたかだと思うのですが、どうかしら?