2年目のジンクス 4












 部屋のドアをノックする音が聞こえて、パジャマの上に薄いカーディガンを一枚羽織った加代が、ヒョイと顔を覗かせると、ちょうど智がドアを開いたところだった。
 そのドアの向こうから姿を現したのは、先ほど彼女が電話をしていた相手──山田である。
「入れよ。」
 クイ、と部屋の中を顎でしゃくる智に、頷いて中に入ってきた彼は、すぐに部屋から顔を覗かせる加代に気づいて、気まずそうに首を竦めて後ろ頭を掻いた。
「あの──す、すみません、こんな夜分遅くに。」
 確かに時間的には、日付も変わってしまっている。
 一般的には、他人の家を訪れるような時間ではない──常識でまじめな山田にしては、珍しいことであるが、そんな彼に加代はニッコリと笑って、部屋から出て後ろ手にドアを閉めた。
「こんな格好でごめんなさいね、山田君。
 でも、そんな風に恐縮しないでちょうだい。あなたの家のようなものなんだから、いつでも来てくれていいのよ。」
 山田の背後では、智が無言でドアの鍵とチェーンをかけている。
 彼女は何も言わないが、このまま山田がココに泊まっていくことは確定なのだろう。
 ここに来たら泊まっていくのは当たり前──何せ山田は、加代の可愛い一人娘のお婿さんなのだ。
 そんな智に、くすくすと漏れ出る微笑みをこらえもせずに、加代は玄関近くのキッチンまでやってくると、
「今、お茶でも入れるわね。
 ほら、智、何してるの。突っ立ってないで、山田君を中に入れてあげなさいな。」
 パジャマの袖を捲り上げながら、まだ玄関先に立つ山田と智を、呆れたように見やる。
 そんな彼女に、智は顔を顰めたが、特に何も反論せず、
「分かってるよ……ほら、山田、入れよ。」
 クイ、と山田の手の平を掴んで、彼を中へと促した。
 そんな智が不意に掴んだ手を、驚いたように見下ろした山田だったが、すぐに口元に笑みを浮かべて、
「お邪魔します。」
 ペコリ、と加代に頭を下げて、靴を脱ぐ。
 そのまま家にあがり、智に手を掴まれたまま、キッチンの隣の部屋へと移動する。
 その二人の背中を見送りながら──、
「…………──おばさん、邪魔かしら?」
 ふふふ、と、加代は意味深に笑みを見せた。
 パジャマの袖を捲りあげたまま、手の平を頬に当てて、軽く首を傾げる。
 そんな加代の言葉に、山田は驚いたように足を止めて、彼女を振り返る。
「……えっ、いやっ、とんでもないですよっ!? ど、どうしてですか?」
 その動揺した目には、先ほど見せた、智が掴んだ手の平に落とした嬉しそうな色は見えない。
 ──が、山田が見せた動揺が、何よりも事実を物語ったような気がした。
 けれどあえて加代はそう口にせず、まだ山田の手を掴んだまま、自分をいぶかしげに振り返る智に向けて、
「智の視線がそう語ってるわ。」
 ニッコリ、と微笑みかけた。
 矛先を娘に向ける母に、智は、ハッとしたように目を見開くと、山田の手を掴んでいた手を解く。
 そんな彼女に、山田は一瞬戸惑ったようなそんな表情を浮かべたが、智はそれには気づいてないようだった。
──わざわざ山田君がココに来た理由くらい、気づいてるでしょうに、この子は。
 そもそも、いつも「バカ」がつくほどいちゃついてるくせに、今更何を恥ずかしがるというのだろう?
 それとも何だろうか? 離れている月日が、今更ながらに会うのが恥ずかしいという感情を抱かせたとでも言うのだろうか?
「山田、ソコに座っててくれ。」
 振り返ることなく智は山田にそういいきると、そのまま母の元まで歩いてきて、母がまったく手付かずで居た食器棚から、湯飲みを二つ取り出した。
 そうしながら、
「おれがお茶くらい入れるから、母さんはもう寝てていいよ。」
 そっけなく言い捨てる。
 そんな娘に、加代はわざとらしく目を見開くと、
「ほーら。」
 ね? と、まだキッチンとの間に立ち尽くす山田に向けて、視線を向けた。
 山田が戸惑いをあらわにして、苦い笑みを刻むのを、ニコニコ微笑んで見つめる加代に、智は小さく溜息を漏らして……、
「ほーら、じゃなくって──。」
 棚の中から茶筒を取り出し、言おうかどうしようか一瞬迷った後──、
「おれは、山田と話があるんだよ。」
 智は、そう口にした。
 その言葉を聴いて、かすかに山田が目を見張るのが分かったが、あえて口には出さない。
 静かに目を伏せる智の横顔をチラリと見て、一体何に拗ねてるんだか、と加代は軽く肩を竦めると、
「はいはい、母さんが邪魔なら邪魔だって、そう言ってくれたらいいのに、まったくこの子ったら。」
 あえて明るくそう言って、智の隣をスルリとすり抜けた。
 キッ、と、きつい眼差しが背後から飛んでくるのを感じつつ、加代は自分と智を交互に見やる山田の隣を通るときに、そこで一度脚を止めて、
「山田君、どうぞ遠慮せずにゆっくりしていってね。」
 ニッコリ、と微笑んだ。
「あ、はい──すみません。」
 恐縮する山田に、姫ちゃんはそこの部屋で寝てるから、と教えてから──あぁ、そうそう、と加代は台所でヤカンと急須を取り出している智を振り返ると、
「智、今日、あなたの部屋に枕を二つ置いておいたらいいの?」
 キッチンと面している、今ちょうど山田が踏み込もうとしていた空間を指差した。
 がたんっ、と、山田が思わず背後の柱に背中をぶつける音が響いたが、それをまったく気にせず、加代はニコニコと微笑む。
 そんな彼女に、
「──……姫の隣に布団を敷くからいいよ。」
 智は冷静に断りを入れる。
 その声に、山田がさらに狼狽する気配を感じたが、
「あら、そーぉ? それだと、母さんと山田君が一緒に寝ちゃうことになるわねぇ……。」
 加代は、ますます狼狽した山田を背後に置きながら、ビクンと肩を強張らせる智を、にんまりと見つめた後、まぁ、それでもいいわねぇ〜、なんてわざとらしく呟きながら、スルリと山田の隣をすり抜けて、
「…………無駄になると、母さんは思うんだけどなぁ……。」
 わざとらしく天井向けて、そんな一言を零してみた。
 と同時、──ガチャガチャッ、と急須か湯のみか分からないが、こかしたような音がキッチンから聞こえてきた。
 明らかに智が動揺したのだろう。
 その事実に、ふふふ──と優越感じみた笑みを覚えながら、加代は姫が寝ている部屋の扉を開きながら、
「それじゃ、おやすみなさいね、山田君。」
「は、はい、おやすみなさい。」
 ──もちろん、最初から山田の分の布団なんか敷いてやるつもりはなく、自分ひとりだけ姫の隣の布団で寝る気満々である。
 本来なら、姫が泊まりに来た時は、自分と智で姫を挟んで川の字になるところだが、姫には悪いが、今日はそれを見送りにしたほうがいいだろう。
 パタン、と後ろ手にドアを閉めて、加代がそんなことを思いながら自室へと戻っていったのを、知ってか知らずか……、
「────……まったく、母さんは……っ。」
 キッチンで智は、ブツブツ言いながら、ヤカンの中に水を入れた。
 そのままそれを火にかけようとする智に、
「いいよ、お茶は。」
 山田が、やんわりと声をかける。
 その声に、一瞬智は動きを止めたが──智は彼を振り返ることもなく、
「いい、待ってろよ、テレビ、つけてもいいぞ。」
 コンロのスイッチを、真下に押した。
 カチカチカチ……と小さく音がして、手を話すと蒼い火がゴウゴウとヤカンの尻に当たった。
「いいから、コッチに来いよ。──話があるんだろう?」
 微笑を浮かべながら、山田が手招きするが、智はその彼を一瞥しただけで、視線をヤカンに落とした。
 このままココに居ても、すぐにお湯が沸くわけじゃないのは分かっている──正直を言えば、お茶を入れるだけなら、ポットの中にお湯もあったりする。
 ただ、こうしてヤカンを火に当てているのは──、
「──────…………。」
「……………………………………智?」
 静かに──促すように名を呼ぶ山田を、決して振り返らないまま。
「──頼む、もう少し……待っててくれ。
 すぐに、お茶を作って持ってくから。」
 山田は、そんな智の台詞に一瞬目を見張ったが──すぐに彼が意図する事を悟り、わかった、と頷いた。
 そのまま部屋の中に入ろうとして、彼は一度だけ智の背中をチラリと見やったが、その背中は完全に拒絶しているように見えて……少しだけ、山田は辛そうに顔をゆがめた。















 ヤカンの中のお湯が沸騰する直前に一度火から降ろし、急須を温めるためにお湯を注ぐ。
 残りを再びコンロの火にかけながら──必死で心を落ち着かせようとする。
 聞けばいい。
 今自分が思っていること。
 ちゃんと、聞けばいい。
 そう思う反面、なら一体、どこからどう切り出せばいいのかと、疑問が湧いてくる。
 聞くのが怖いといえば、たったそれだけのことだ。
 けれど案外、聞いてしまえば、あっさりと分かるような、笑い話で済むようなことなのかもしれない。
「──────…………。」
 いっそ、リアルタイムで話を聞いていたら、どういうことなんだと、山田の首根っこを引っつかんで問いただすこともできたかもしれない。
 けれど、その「事実」から、一体どれくらい経っているのだろう?
 茶筒を開けて、中の茶の葉を筒のふたに吐き出す。
 温めた急須からお湯を吐き捨てると、ムァリ、と白い煙が吐き出された。
 そのお湯に一瞬顔を顰めた後、智は無言で急須の中に茶の葉を入れて、沸騰したヤカンの火を切った。
 沸騰したお湯を、一度湯のみに入れた後、湯のみの中のお湯を急須の中に注いだ。
 いつもはそうしていると、落ち着く心が、今日ばかりはそう上手くいかない。
「────……まいった、な……。」
 思うことは、いつも率直に口にしてきた自覚がある分だけ、胸のモヤモヤは晴れない。
 いや、そもそも晴れるはずがないのだ。
 自分の疑問の答えを持っているのは山田だけで、その山田にはまだ聞いていない。
 それで、晴れるはずはないのだ。
 無言で急須を見つめて、それから茶漉しを湯のみの上にセットして、お茶を注ぎ始める。
 上品な薄緑色が、こぽこぽと注がれ──ふわり、と茶の匂いと湯気が立った。
 それを見下ろして、もう一度溜息を一つ。
「どうしよう……。」
 これを持っていって、なんでもないことのように、話を切り出すことができるのだろうか?
 胸のうちのモヤモヤや不安を、見事に隠しとおして?
 ──絶対、無理。
 そもそも、こういう類の隠し事をするのは苦手なのだ。
 何よりも、話を聞いた後、即効で山田に電話をして、「どういうことだよ!」と噛み付くくらいの勢いがないと、聞けない類のことでもある。
 だって、もしも、本当に。
「………………────。」
 噂が、「真実」だったら、自分はどうしたらいいのだろう?
 俺が嘘をつけば、山田がすぐにそれを見破れるように、山田が嘘をつけば、俺だってすぐに分かる。
 そのことを誇らしいと思ったことはあっても、今ほど怖いと思ったことはなかった。
 白い湯気を吐き出す湯飲みを、無言で見下ろし──このままだと、お茶が冷めるよなぁ、と、溜息をもう一つ零した瞬間だった。
「智。」
「……っ! 山田?」
 突然、声をかけられて、驚いたように振り返ると、少し困った顔をした山田が立っていた。
 そんな彼に、動揺を知られまいと、微笑を浮かべて、近くの盆を取り寄せながら、
「悪い、ちょうどできたから、今そっちに行こうと……。」
 なんでもないことのように、トン、トン、と茶卓と湯のみを盆の上においていく。
 そんな彼女に、山田はさらに苦笑を滲ませ、そこにさびしげな色を滲ませながら、
「──すまん、突然来て、迷惑だっただろう?」
 今にも、「すぐに帰るよ」と言い出しそうな口調で、少し目線を落とす。
 そんな山田に、智は盆を持ち上げたまま、困惑した色を滲ませる。
「……そんなことない。」
 いつもなら、何を言うんだと怒るところなのだけど──迷惑ではないけど、困っているのは本当だった。
 けれどそれだって、手前勝手な事情に過ぎない。
 だって、一人で勝手に他所さまより一足も二足も遅れた噂話を聞いて、憤って、嫉妬して──それで、山田に聞こうかどうしようか、悩んでいるだけに過ぎないのだから。
 聞けば問題は、あっけなく解決すると分かっている。
 けど、帰ってくる答えが、あかさらまに怪しかったりすれば──俺は一体、どうしたらいい?
 そうなったときの自分が、どういう態度を取るのか、正直な話、まるで見当がつかなかった。
 この自分の迷いが、視線を合わせた瞬間に山田に悟られてしまうのが怖くて、智は視線を湯のみの上に落とした。
 湯のみの底が見える、薄緑色の透明な液体。底の方に微かに細かな茶の葉が沈んでいる。
「──智。」
 山田が溜息をはきながら、智の名を呼んだ。
 その声に、ピクン、と肩を強張らせた智は、それでも目線をあげずに、ただ湯のみに視線を落とし続ける。
 山田と視線があえば、何もかもを見透かされてしまう──そんな気がして、ならなかった。
 この醜い嫉妬心も、それに戸惑い恐れる気持ちも、何もかも。
────────………………知られたら、困る。
「何もないなら、どうしてお前は、俺を見ないんだ?」
 一歩足を踏み出し、厳しい声で山田が追求する。
 そんな彼に、別に何でもないんだと、そう智は呟いて──そうだ、自分の心の問題なだけで、たいした話ではない。
 チラリと山田を一瞥した後、智はそのまま彼と視線を合わせずに、彼の隣を通り過ぎようとした。
──瞬間、
「智。」
 大きな手の平に、肩をつかまれた。
 グイ、と一歩分引き寄せられて、智はひどく苦しそうな表情を落とす。
「………………やまだ………………。」
 それでも視線を逸らし続けようとする里中の肩を、両手でしっかりと掴み、山田は彼の顔を覗きこむ。
「おれが、何かしたのか? だからお前……こんな顔をしてるのか?」
 自分が今、どんな顔をしているのか、わかっているのかと、そう問いかけてくる山田自身の表情の方こそ、痛みをこらえるように辛そうだった。
 智は、そんな彼にとっさに答えようとして──口を開き、彼の顔を仰ぐが……真摯な彼のめにぶつかり、何も言わず、口を閉ざした。
「……智…………。」
 山田は、愕然とした表情で、そんな彼女を見下ろす。
 思い当たることがないらしい山田の、途方にくれたような──苦渋に染まる顔を見ながら、だから会いたくなかったんだと、智は内心で吐き捨てる。
  けれど、吐き捨てたのと同じくらい、会わなかったら会わなかったで、イライラが募るばかりだと分かってもいた。
 そうして、今の自分以上にグルグルと頭が回り続けてしまうのだ。
 ギュ、と、お盆を握る手に力を込めた智に、山田は強く眉を寄せると、
「智、ちゃんと言ってくれ。」
 握り締めた肩をさらに強く握り締め、彼は真摯な態度で──自分のこの、真剣なまでの思いが少しでも智に伝わればいいと、心から思った。
「お前が、野球のことで苦しんでいるのなら、おれはそれに手を貸すことはできないかもしれない。
 でも、そうじゃないのなら……なら、頼むから──。」
 ──本音を言えば、目の前の彼女の、その胸に巣食うすべての悩みを、自分が解決できればいいと思う。
 特に、自分たちの生活のほとんどを占める野球のことで、彼女の相談に乗ってやれないことほど、口惜しいことはない。
 一番傍に居れば、他の誰よりもずっと、自分が気づいてやれるのに──今は、こうして本人を前にして、せめて自分の前では弱音を吐いてくれと、そういうしかできない。
 そのことが、ひどく辛くて、苦しくて。
「智──……っ。」
 吐き捨てるような思いで、山田は智を見下ろす。
 その山田の顔を見上げて、智はなんとも言えない顔で、彼を見返した。
 真剣な色に染まる山田の目は、心の奥底から自分のことを案じているように見えた。
 いや──山田のことだから、本当に心から、自分のことを案じてくれているのだろう。
 彼だって、今はとても大事な時期で、自分のことなどにかまっている余裕なんてないはずなのに。
「…………………………。」
 山田は、ただジと自分を見下ろす。
 彼は、智が口を割ってくれるのを待っているのだ──本当に、智のためを思って。
 そう思ったら、ますます自分の勝手な思いで、山田を悩ませるのは駄目だと、強く感じた。
 キュ、と、お盆を握り締めて、智は小さく微笑むと、
「──……くだらないことだから、やっぱり、いいよ。」
 それよりも、お茶が冷めるから、テーブルに行こう。
 そう言って、彼を促す。
「…………智………………。」
 そんな智を、驚いたように山田は見つめて──そして。
「………………さとる………………。」
 愕然と、もう一度──目の前の人の名を、呟いた。














5へ続く

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あと一話で終わるのかなぁ………………。