ザアァァァ……と、遠くかすかに聞こえるシャワーの音を聞きながら、智は受話器の向こうで先ほどから山田が話していることに、相槌を打つ。
ただ相槌を打つだけで、一向に単語らしい台詞を吐きはしない里中に気づいているだろうに、それでも山田の口調は穏やかで変わりない。
携帯電話でかけてきているのか、時々ザザ、と雑音が入っては、山田の声が小さくなったり大きくなったりした。
直接会って聞くよりも、少し高めに聞こえる電話の声を聞きながら、智は目を閉じる。
気を落ち着かせようとするものの、そうすればするほど頭に浮かんでくる様々な単語や言葉が入り混じって、イライラするばかりだ。
耳元で聞こえてくる声に集中したいと思うのと同時に、このまま衝動的に電話を切りたくなる。
そんな自分をもてあましながら、ハァ、と、電話の向こうに聞こえないように溜息を零した。
声を聞いているだけでもこんな状態なのに、会ってしまえば、自分でも何を叫んで何を口にしてしまうのか、考えもつかない。
そもそも、「こういう事態」になったこと自体が、初めてなのだからしょうがない。
そうして、気のない相槌をいくつ返したことだろうか?
不意に山田が、一拍置いて、
『それで──里中、今、リビングだよな?』
そう尋ねてきた。
「……そうだけど。」
いぶかしげな響きが宿った声は、先ほどまでの相槌よりもずっと気のこもっていない口調になってしまった。
冷たい、つっけんどんにも聞こえる口調に、里中は小さく奥歯をかみ締める。
けれど山田は、そんなことを気にしていないのか、朗らかな調子で続ける。
『悪いけど、ちょっと窓から外……見てくれるか?』
突然のその台詞に、ハ? と、里中は目を瞬く。
「は? 何言ってるんだよ?」
そういいながら、視線を横へずらすと、まだカーテンを引いていなかった窓の外が視界に映った。
等間隔に明かりが灯って見えるのは、すぐ近くの川にかかっている橋のソレ。
ほかに何か見えるわけでもない窓を一瞥した里中の、いぶかしげな声に、山田は少しだけ強い口調で続ける。
『いいから。』
その、引きそうにない山田の声に、里中は軽く顔をゆがめると、はぁ、と小さく溜息を零した。
「なんだよ、もう……これで満月だろとかそういうこと言うと、怒るぞ……。
ブツブツと、少しだけ受話器を顔から遠ざけて、聞こえよがしに呟く。
呟きながら、今夜はでも、満月ではなかったはずだと、窓の前に立った。
片手で軽く窓の鍵を開き、ガラリ、と窓を開いてから、里中は受話器を耳に当てた。
目の前に見えるのは、空に輝く月明かりに、水面を反射させている暗闇に沈む川と、その上を横断する橋の上の外灯の光。
さらに川の向こう側では、数えるほどの家々の明かりが灯っているのが見えた。
「窓、開けたぞ。」
何もないじゃないかと、空を見上げながら、里中が電話の向こうにそう告げると、少しだけ楽しげな響きを宿して、
『うん……下、見えるか?』
山田が、そう答える。
「は? 下? 下って……。」
空じゃなくて、地面?
──なんだか、予感めいたものを覚えながら、下を見下ろした瞬間。
『やぁ。』
暗闇に沈む中、見えた人影がひらりと手を振るのと、耳元で声が聞こえたのが、同時。
疑うことなく里中は、その人物が誰なのか悟り──同時に、驚いたように受話器を握り締めて叫んだ。
「…………やっ、やまだぁっ!?」
絶叫に近い叫びをあげる里中の声に、キィン、と耳が響いたのか、山田は一瞬驚いたように受話器を顔から遠ざけるのが分かった。
里中はベランダに飛び出し、受話器を持っているのとは違う手で手すりをつかむと、山田を見下ろす。
『あはは、驚いたか?』
明るい声が、受話器の向こうから聞こえてくるのに、里中は受話器をしっかりと持ち直し、
「そ、そりゃ驚くに決まってるだろっ!? なっ、なんでココに居るんだよっ!? だってお前、さっきまで試合してなかったか!?」
動揺もあらわに、道路の真ん中に立ってこちらを見上げている山田と、受話器とを見比べ、叫ぶ。
そんな彼に、ただ穏やかに微笑を零しながら、
『試合が終わってすぐに、電車に乗ってきたんだ。』
電話の向こうで、朗らかに語ってくれる。
あまりに自然にあっさりと語られたので、そうなんだ、と零しそうになったが──、
「乗ってって……え、だって、明日も試合……あるじゃないか。」
『うん、あるけどな。』
ただ静かに、山田は微笑んでそう耳元で語る。
里中はそんな彼を見下ろして、困惑の色を深くする。
「だったら、なんでこんな時間に千葉にいるんだよ。」
どうして、と──そう問いかける里中に、山田は不意に静かな口調のまま、けれど調子を変えて、
『そういう里中は、なんでおれが来ないと思ったんだよ。』
逆にそう問い返してくる。
「なんでって……。」
目を瞬き、見下ろす里中に──暗闇の中、遠いから、視線を交し合うことなどできないはずなのに、なぜか山田と視線がかち合った気がした。
山田はただ穏やかに、言葉を続ける。
『姫を連れていくときに、わざわざ時間をずらされたら、そりゃ気になるだろ?』
すぐ耳元で聞こえる山田の声に、里中はツイ、と視線をずらした。
──確かに、わざとらしいほどわざとらしいと、分かっていたけれど。
「………………お、おれだって、たまには……。」
まさか、山田がここに来るなんて、思ってもみなかった。
次に山田に会うのは、姫を返しに行くときだと、疑ってもいなかったからこそ──、今、こうして彼がいることが、信じられなくて。
『たまには?』
優しく促す山田の声に、里中は俯き……少しの沈黙の後、はぁ、と、ひとつ溜息を零した。
「────…………なぁ、やまだ?」
降参だと──そう思うのは。
『うん。』
ただ優しく頷く山田の声が、耳に、ひどく優しくて。
里中は、泣きたいような、表現できない気持ちになった。
「鍵あけるから、あがってこいよ。」
手すりに両腕を乗せて、暗闇に沈む人影を見下ろす。
『いいよ、里中の顔が見れただけで。
夜も遅いし、おばさんにも悪いから、このまま帰るから。』
「帰るって……電車はもうないぞ?」
山田らしいと思いながら、里中は口元に小さな笑みを浮かべながら、軽く首を傾げる。
耳元で、少し雑音が混じった声が、イヤになるくらい懐かしくていとしい。
『あ、そっか。──うん、なら、タクシーで帰るよ。』
「ばか。そんな無駄使いしなくてもいいだろ。いいから、あがってこいよ。」
母だけではなく、自分に遠慮しているのも、わかりきってる。
山田は、本当は自分が何に悩んでいて、何を気にしているのか、分かりきって行動しているのではないかと思うくらい……計算づくめなんじゃないかと思うくらい、どうしようもない気分にさせてくれる──いつも。
それに乗るのは、正直、癪に障らないでもなかったけど……でも、こんな風にされて、山田に会わずに帰られるのは、イヤだった。
「……こんな距離じゃ、『会った』って、言わないだろ。」
『……うん。』
静かに……けれど、少しのテレを含んだ口調で、山田が頷く。
コクリと、そう頷いた気配を感じて、はぁ、と、里中は溜息を零した後、それでも動こうとしない目下の人影を見下ろして、
「…………な、山田。」
『うん?』
「おれ、やっぱり──お前のこと、大好きなんだなぁ…………。」
しみじみと──そう、零した。
『さっ、里中っ!?』
ビックリしたようにひっくり返った声が、すぐ耳元で響いた。
その山田の声に、里中は小さく笑い声を零すと、
「だからさ、早くあがってこいよ。待ってるから。」
柔らかに──今日はじめて、山田に向けて優しく告げると、そのままの動作で顔から受話器をはがして、ピッ、と通話を切った。
真下で、山田が同じように受話器を下ろし、通話をきったらしい動作をしているのが見えた。
そのまま無言で見守っていると、彼がゆっくりとではあったが、アパートの入り口へと歩いていくのを見下ろしながら、里中は手すりで頬杖をつきながら、
「………………はぁ。──ダメだなぁ、おれ……。」
絶対、今、会ったら、この間聞いたばかりの事実を、山田に聞いてしまうに違いないのに。
オンシーズン中は、会う時間が少なくなってしまう分だけ、少ない逢瀬の時間を、無駄な苛立ちや喧嘩で過ごしたくはない。
だから、あえて今回も、自分の心のモヤモヤが解決するまでは、山田に会わないつもりだったのに。
そう溜息を零す里中の背後から、
「あら、何が?」
独り言に、当たり前のように答えが返って来た。
思わずビクンと里中は背筋をただし、バッ、と背後を振り返る。
振り返った瞬間、目に飛び込んできたのは、頭にタオルを巻いた母であった。
「って、わっ、か、母さんっ!? いつのまに後ろに……っ。」
「さっきよ。お風呂お先にどうも。」
パジャマ姿に、頭にタオルを巻いたままで、風呂上りに頬を上気させた母は、ふふふ、と意味深に笑いながらリビングの床に座り込む。
そのままパサリとアップさせた髪をパラパラと解すと、近くにおいてあったドライヤーとブラシを手に取る。
「──って、1時間くらい浸かってくるって言ってなかったっけ?」
イヤな予感を覚えつつ、里中は手にした受話器を握り締めながら、母を見下ろす。
そんな娘に、加代はことさら明るく笑うと、
「いやーねぇ、智ったら! 夏に1時間も浸かってたら、のぼせちゃうじゃないの! だから、軽くシャワーで済ませたのよ。」
にっこり、と微笑を浮かべて、洗いあがりの髪にブラシを通し始める。
鼻歌さえ聞こえてきそうな上機嫌の母に、里中は少し目を据わらせて、低く問いかける。
「…………聞いてた?」
「あら、何を?」
まるで里中がそう聞いてくるのが分かっているかのように、母からあっさりと逆に質問が帰ってきた。
そんな彼女の朗らかな問いかけに、里中はなんとも言えず、
「──…………。」
無言で母を伺いつつ、受話器を戻した。
そのまま、チラリと母を見下ろした瞬間、ドライヤーにスイッチを入れようとしていた加代は、不意に、
「そうそう、今から山田君が来るのよね? あら、こんな格好じゃ恥ずかしいから、着替えて来なくっちゃ。」
ポンッ、と──わざとらしく手を叩いて、ドライヤーをその場において立ち上がる。
「って、どこから聞いてたんだよ、母さんっ!!」
「な・い・しょ。」
唇に指を当てて、ニッコリと笑う加代に、里中は焦ったように彼女の背中を追う。
しかし母は、何も感じていないかのように、スタスタと里中の隣を通り過ぎて、姫が寝ている部屋の方へと歩いていく。
「内緒じゃなくって……っ!」
どこから聞かれたんだろう──別に聞かれて困るような会話をした覚えはないが、けれど、聞かれて恥ずかしくないと言えば嘘になる。
微かに頬をほてらせて、キッ、と睨みつける里中に、加代は柔らかに微笑むと、部屋に入るために、ソ、と部屋の扉を開きながら、
「結局、なんだかんだ怒ってても、智は山田君にラブラブなのねぇ、って感心したところくらいからかしら?」
にんまり、と笑みを浮かべて飄々とそう言った。
「……っ! よ、よりによって一番聞かれたくないところから……。」
今すぐ記憶から消してくれと、里中が母に叫ぶよりも一瞬早く。
ぴーんぽーん。
「あ、ほら、智、山田君よ。」
早く出なさいね、と、加代がインターホンを指先で示す。
ぽたぽたと髪の毛から落ちてくる雫に、あらあら、なんてのんきな声を零す。
そんな母の声を背後に、里中は小さく舌打ちをして、手を伸ばしてインターホンの受話器を取り上げた。
「わかってるよ! はい、もしもし!」
「まぁまぁ、そんなに怒ったら、山田君ったらビックリするじゃないの。
それに姫ちゃんも起きちゃうわよ。」
クスクスと笑う母の声に、じろり、と睨みを利かせると、里中は改めて受話器を握りなおし、インターホンの向こうで風に混じって聞こえる山田の声に、こたえる。
「──……いや、なんでもない。ちょっと母さんがさ──ん、開けてあるから、入ってきて。」
そんなぶっきらぼうに見える声と口調とを聞きながら、ヤレヤレと、加代は軽く肩を竦めると、
「……まぁまぁ、甘えた声出しちゃって……自分は無自覚なんでしょうけどね。」
…………ちょっと、寂しいかなぁ…………なんて思いながら、パジャマから室内着に着替えるために、ぱたん──と、リビングとの間の扉を閉ざした。
さぁ、次からこそばゆさ全開で行きますよ! 覚悟して行きましょう。
というか、個人的に恥ずかしくてしょうがなくなってくる昔の少女漫画的展開になって、どうしようもなくなったら、突然ぷつんとリンクが切れてるかもしれません……ごめんなさい。
でも、今でも表も裏も関係なく、普通に恥ずかしいと思ってますけど…………。