それは、高校3年の最後の夏が終わり──二学期が始まろうと言う時期のことであった。
異例の3年間甲子園5回出場4回優勝という功績をなした、明訓高校の3年生たちは、その引退を強く惜しまれるとともに、しばらくスポーツ新聞の記者たちを多いににぎわせた。
そのこともあって、彼らは身辺がゴタゴタする日々が続き、なかなか合宿所を引き払う準備が出来ていなかった。
例年なら、秋に向けて新レギュラーの選抜を決めなくてはいけないと言うのに、未だに三年生たちは合宿所で荷物を整理する日々に終われ──、二学期までに自宅に帰れるのだろうかと、ゲンナリした顔で呟きあっていた。
有名人と言うのも考え物である。
微笑は合宿所を出たあとは学校の寮に入ることが決まっていたから、今とそう変わりない生活が送れるため苦労することはないのだが。
、岩鬼は長屋の自宅に帰るらしい──が、彼は父と母と一緒にあの狭い家で暮らすのが、大層息苦しいらしく、荷物の整理に身が入らないようである。
殿馬は、自宅に帰るのが億劫らしく──何せ、記者たちが自宅まで詰め寄るあげく、行きも帰りも付きまとわれることが必須なのだ。それなら落ち着くまで合宿所に居たほうがいいと、そう思っている節もある。
なんだかんだ言って、殿馬なら、その記者たちの質問攻撃も、サラリと避けてしまいそうな気がしないでもなかったが。
里中は合宿所と病院と引越し先を探すための不動産屋を往復すると言う日々を送っていて、一向に合宿所の整理は進まない──その里中の分まで山田がしているような始末である。
もっとも、里中は引越し先が決まるまでは、寮で仮住まいをさせてもらうか、この合宿所に居座るしかないようであったが。
そんな、高校最後の甲子園が終わっても、なかなか三年生たちが合宿所を去れないでいた、夏休みも終わりのある朝のことである。
賄いのおばさんが差し出してくれる朝食の乗ったトレイを、それぞれが受け取り、思い思いの席につく。
その中、里中はほかのみんなと同じように窓口から受け取ろうとした瞬間、ム、と鼻の頭に皺を寄せた後、自分のトレイの上に乗った味噌汁の椀を手に取り、
「すみません、おばさん、味噌汁はいらないです。」
そう言って、丁重にそれを返す。
それを見て、おばさんは目を丸くして受け取る。
そう言えば、甲子園から帰ってきてからずっと──、里中は暖かい飲み物を避けているように思えた。
「あら、里中君、帰ってきてから味噌汁とかスープとかを飲まないわねぇ。」
元々夏の熱さに弱い里中は、人一倍練習をしていても、食欲がなくなると言うことがよくあった。
空腹だけれど、腹に何も入らない──無理矢理詰め込んで、吐き気を堪えているシーンを、おばさんは何度も見ていた。そのたびに、里中のスタミナを気にして、おばさんは色々とレシピの勉強をしたのだから、里中の食事には人一倍気を使っていた。
「はぁ……夏バテかなぁ、って思ってたんですけど。」
見るのもイヤだと言う顔で、味噌汁を返してくる里中の顔を覗き込み、おばさんは心配そうな色を乗せる。
「暖かい汁物がダメって言うなら、献立を考え直そうかしら? 冷製かぼちゃポタージュなら、栄養もあるし……。」
うーん、と唸るおばさんに、里中はゆるくかぶりを振った。
「いえ、いいですよ、おばさん。原因はわかってますから。」
「あら、そうなの? ──あ、まさか寝不足じゃないでしょうね?」
何度もあくびをしていた数日前のことを思いだし──あの時は、まだ甲子園の疲れが取れてないのね、と思っていたけれど、と、問い掛けてくるおばさんに、うーん、と里中は曖昧に笑った。
「それもあります──夏休みの課題が終わってないので。」
とは言っても、高校三年生の夏の宿題の量なんて、たかが知れている。
ただ単に、里中の場合は、「休学」していた間の分だと、先生たちから「補修」代わりに課題を出されてしまっているだけだ。その量が──また多い。
これをクリアするために、合宿所の片付けが一向に進まない上、山田と殿馬に付き合ってもらっていると言っても過言ではなかったりする。
ゲンナリした顔で言う里中に、あらあら、とおばさんが小さく笑った。
「お勉強もいいけど、ほどほどにね。」
そう声をかけてくるおばさんに、はい、と大きく頷いて、里中はほかの者よりも味噌汁だけ無いトレイをもって、山田の対面の席に腰掛けた。
それと同時、にゅぅ、と隣から岩鬼のハッパが伸びてくる。
「なんや、サト。ずいぶん質素な食事やのぉ。」
かく言う岩鬼の茶碗の中身は、どっさりとうず高く積まれた白いご飯で一杯である。
「質素って、味噌汁がないだけじゃないか。」
あきれたように岩鬼を一瞥すると、向こうのテーブルから、
「味噌汁は朝食の基本だぜ〜、智。」
ヒラヒラ、と微笑が笑顔を飛ばしてくる。
その声に、何人かが「おぅ!」と明るく返事を飛ばすのに、里中は少しウンザリしたような顔を浮かべた。
「いつもは食べてるけど、しばらくは無理。」
そう答える里中に、目の前に座っていた山田が、少し心配そうな眼差しを投げかけてくる。
「夏バテか? 最近、部屋に篭りっきりだったのがいけなかったかな?」
「部屋に篭りっきりというか、ずっと課題のし通しなのが効いてると思うぜ。」
ウンザリした顔で続ける里中に、その光景を想像した下級生たちが、ぅわー、と声を上げる。
かく言う彼らも、まだ終わっていない夏休みの課題があるので、とても他人ごととは思えなかった。
特に監督である大平数学教諭は、「文武両道」を貫く人だ。
もし野球部員の一人でも課題をこなせなかったら、練習後に小テストくらいは用意してくるだろう──あの人は、そういう人だ。何せ、甲子園の旅館の中で、数学の小テストをしたこともあるくらいだ。
「そうか──今日くらいは、少しランニングでも行って見るか?」
気分転換にどうだ、と誘ってくる山田に、里中は、あ、と小さく声をあげる。
「そうだ、山田。今日、お昼から暇か?」
箸を進めようとしていた手を止めて聞いてくる里中に、山田は、うん、と頷く。
「元々お前と一緒に課題をする予定しか入ってないからな──なんだ、走るのか?」
問い掛ける山田の語尾に、「ランニングも一緒やないと行けへんのかいな、いちゃつきバッテリーめ。」と、ぼやく岩鬼の声が重なったが、二人ともそんなことは気にしない。いつものことだからだ。
食堂に居た誰もが、今日の午後から山田と里中は課題の気分転換にランニングか、と、疑うことはなかった。
しかし、里中はあっけらかんとした口調で、
「いや、病院に一緒に行って欲しいんだけど。」
そう言った。
瞬間、目を見開いた山田よりも先に、がたんっ、と椅子が鳴る音がして、
「病院? どこか痛いのか、智?」
微笑が驚いたように振り返り、
「えっ、大丈夫ですか、里中さんっ!?」
渚が立ち上がり、
「まさか、ヒジか肩でも痛めてたのが、今頃……っ。」
甲子園の後遺症かと、顔を青くして高代が目を丸く見開く。
あっと言う間に食堂中が心配そうな顔をするのに、里中は慌てて箸を持ったまま、自分の顔の前で手を振った。
「いや、違う違う。故障とかそういうんじゃないんだ。
それなら、山田を誘ったりなんかしないって。」
暗に、一人で黙っていく、と言うのをちらつかせた里中に、山田の目が微かに据わる。
「里中……。」
低く里中の名を呼ぶ山田の視線に気づいて、「いや、ほんと、大丈夫だって」と里中は右腕をクルクルとまわして見せた。
「虚弱児やから、夏バテ防止に点滴でもしてもらってくるんかいな。」
バリバリと、朝から景気良く秋刀魚の骨を噛み砕きながら、夏バテとは縁のなさそうな岩鬼が、珍しく当たってそうなことを口にする。
「って、夏ばてに点滴って効くんですか?」
「でも、点滴してもらわないといけないくらいの夏バテって、まずいんじゃ……。」
不安そうに里中を見る後輩たちに、だから大丈夫だって、と、里中はヒラヒラと手を振ってみせる。
「そういうんじゃなくって、万が一ってことを考えたら、山田も一緒に来た方がいいだろうと思ってさ。」
「万が一って……里中?」
「智?」
「…………。」
言い方が悪かったのか、誰もが不安そうな顔で里中を見つめる。
岩鬼ですら、慎重な視線をコチラに向けていた。
その視線を受けながら、里中は軽く首をかしげると、
「なんか、多分……なんだけど。」
目の前の山田の穏やかな顔を見て、少し考えるように顎に手を当てた。
「母さんの看病とかあったし、その後に夏の甲子園だろ? バタバタしてて、すっかり忘れてたんだけど。」
「うん。」
相槌を打つ山田に、釣れらるように食堂の一同も、うん、と頷く。
「なんや、まだ住むアパートが決まっとらんのかいな。そーれで病院に住み込む手続きでもしてきたんかいの?」
焦らされるような里中の言い方に、岩鬼が堪えきれずに口を挟むと、
「それなら山田を連れてく意味がねぇづらぜ。」
アッサリと殿馬がそれを否定して、里中を見た。
里中は山田を見たまま、
「春の大会の後から、一度も来てないんだよな。」
少し困ったような顔で笑った。
「──……? 何が?」
でも、困ったと言うには、その中に嬉しそうな色が潜んでいるような気がして、ますますワケが分からないと、山田は首を傾げる。
「来てないって──そりゃ、智は休学してたから、学校には来てないだろ?」
同じように首を傾げて微笑が零すと、ピンッ、と来た渚が、指を鳴らす。
「分かった! 補修だっ!」
「って、そりゃ渚だろ。」
すかさず突っ込んでやる高代に、お前だってそうだろっ、と渚が怒鳴り返す。
どちらにしても、それには「病院」は関係がないじゃないか、と突っ込もうとした蛸田は、あっ、と小さく叫ぶ。
「もしかして、病院の診断書を貰いに行くんですか? 休学中の証明書か何かで必要とかっ!」
「って、お母さんの診断書を持ってきて、出席日数がプラスになるのか?」
すかさず上下が不思議そうに尋ねるのには、
「ないづらな。」
殿馬が否定をしてみせた。
そうして外野がやいのやいのと騒いでいる間に、里中は先を促す山田に従って、説明を続けた。
「母さんの診察医の先生には、俺も世話になってて──俺の事情も知ってる人なんだよ。融通が利くし、まぁ、検査くらいはすぐに済むって言うしさ。
それなら母さんが、山田も連れて来いって言うからさ。」
「…………なんだか、話は進んでるみたいだけど──里中、おれには何のことか分からないよ。どういうことなんだ?」
なんでソコで、里中の母親の担当医が出てくるのだろう?
眉を寄せる山田は、少し不安の色を宿して里中を見上げた。
里中の母親が、ガンの手術をしたことを知っているのは、山田だけである。ほかのメンバーは、彼女が入院しているということしか知らない。
だからこそ、今この場で担当医の名前が出てきたことに、山田は不安を覚えずには居られなかった。
もしかして、里中……お前まで……?
その、胸を締める不安はしかし、
「里中の事情って……アレだろ?」
「づら。──その事情を知る人に検査してもらうづら……って、まさか。」
微笑と殿馬の言葉により──まさか、と言う気持ちに摩り替えられる。
「里中…………もしかして、その検査って…………。」
山田が微かに声を震わせたのに気づいてか気づかずか、里中はニッコリと花ほころぶように笑うと、
「うん、妊娠してるかもしれない、おれ。」
そう──頬を微かに染めて、キッパリと言った。
「………………………………………………………………………………………………。」
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「ちょっと待てやーっ!!!!」
岩鬼の怒声が、びりりと食堂内に鳴り響き、ようやくフリーズした一同がわれにかえる。
われに返ると同時、
「ええええええええええー!!!!!!」
悲鳴が、とどろき渡った。
あまりの驚きに、絶句して目を見開き、更に口まで開いた山田に、里中はニコニコ笑っているばかりだ。
喉を上下させ、なんとか息をそろえて──山田は、里中の顔を凝視する。
「って、さ、里中っ、そ、ソレって……っ。」
それでも、声の震えまでは取れなかった。
当たり前だろう。
覚悟もしてないところへ、突然「パパになるかもしれないの」といわれたら、誰でも動転するところである。
しかも、朝の清清しい空気の、朝食のさなかに、爆弾発言が投下されたのだから、驚きはより一層だろう。
「逆算しても計算あうし、ゴルフ場に居たときも、なんか気分悪くなることあったし──そういや俺、青田戦で吐いたよな……あれってつわりだったのかな?」
さりげに怖いことを最後に呟いていたが、それにとりあえず突っ込めるような冷静な人間は居なかった。
滅多なことでは動揺しない殿馬ですらも、目を見開いて凝固しているのである。
「って、いやっ、ちょ、ちょっと待て……っ! でも里中、全然おなかも目立ってないし──っ! ……あ、いや、でも三ヶ月くらいだったら、目立つはずがないのか…………。」
慌てる山田が、不意に冷静に自分で突っ込んだ瞬間、厨房から、
「心あたりあるの、山田君っ!?」
賄いのおばさんの一言が飛んだ。
同時に、
「あるんですか、山田さんっ!?
渚までもが突っ込んできて──山田は、うっ、と言葉に詰まった。
そこへ、ニヤニヤ笑いながら微笑が、フォローにならないようなフォローをしてくれる。
「そりゃ、ずっと同じ部屋で寝泊りしてるんだから、あるだろうけどな。」
「…………三太郎…………っ。」
低く山田は微笑の名前を呼ぶが、状況が状況なだけに、迫力はまるでない。
その上、殿馬までもが、
「なかったら、男の名折れづら。」
「やぁーまだ! お前、なんちゅう下手っぴぃなことをしとるんじゃい。やってられんわ。」
岩鬼と一緒になってそんなことを言う。
その二人の目が、あからさまに笑っていると思うのは、山田の気のせいではないだろう。
このまま穴があったが中に入りたい気持ちになる山田に、全く気づいてないのか、爆弾発言の張本人はと言うと、自分の腹を摩りながら、
「そうそう、山田の言うとおり三ヶ月くらいじゃないかなー、って思うんだよな。
そう言いながら、里中は食堂に設置されているカレンダーをジ、と見つめた。
なにやら無言で指折り確認をしてみて──うん、と1人納得したように頷く。
「考えてみたら最後に来たのが4月くらいだったような気がする。──ま、おれ、もともと不順だし、はっきりとは言えないけど、心当たりとしては3ヶ月か4ヶ月くらいだよな、山田?」
首を傾げて同意を求められても、山田は顔を赤くして俯くしか出来なかった。
どう考えても思春期の男の集団の中で、堂々と口にする台詞ではない。
つられたように周りの男達も、厨房の向こうでおばさんも一緒になって赤くなりなった。
なんだかリアルに想像してしまいそうになるのを振り払いながら、微笑がコツコツと掌で自分の額の辺りをコツいた瞬間──、
「って、智!? お前、そんな体で野球をしてたのかっ!?」
その事実に思い当たった。
瞬間、食堂に居た面々の脳裏に強くよみがえる、先日の猛暑のさなかの厳しくも辛い戦い……旅館に帰った瞬間に、風呂に入るのも惜しんで倒れこんだ布団の中。
その中で最も過酷な位置にあっただろう、エースピッチャーの華奢な背中──が、くだんの里中の背中であるわけだが。
「って、そ、そーですよねっ!? そんな体であんなに投げて走って……だ、大丈夫なんですかっ!?」
ガタンッ、と立ち上がり、渚が慌てたように駆けつけてくる。
渚が里中の下へ駆けつけるよりも早く、朝食中だったナイン達が、慌てたようにその場に立ち上がって、みな一様に里中を見やった。
「そうですよ! そんな体でスライディングして、どうするんですかっ!?」
「それ以前に、何回試合しましたっけ!? 大分投げてますよねっ!?」
「っていうか、中西の打球を頭に受けてませんでしたっけ!? あっ、あれ、大丈夫なのかなっ!?」
「足も怪我してましたよねっ!?」
「転んだりとかはしてませんっ!!? っていうか、アンダースローってまずいんじゃないですか、赤ん坊にっ!?」
ダッ、とばかりに駆け寄ってきて、口々に心配をしてくれるナインの気持ちはありがたいのだが──その慌てように、当の張本人である里中は呆れるばかりだった。
「いや、落ち着けよ、お前ら。」
呆れた眼差しで見てくる里中にしかし、後輩達は鬼気迫る表情で迫ってくる。
「落ち着いてなんかいられませんよ! 里中さん、ムリをしたら大変なんですからっ!」
「そう、命にだって関わってくるんですよ!!」
拳を握り叫ぶ後輩達に──ちょっとうんざりした顔で里中は彼らをなだめる。
「落ち着けって、だから。
そもそも、まだ、いると決まったわけじゃないだろ? ただ遅れてるだけかもしれないんだし。」
それに、もうすでにそれらは「終わったこと」である。
確かに我ながら、ちょっと激しい運動をしすぎてるな、と思わないでもなかったが、思い返しても、吐き気を覚えたことはあっても腹痛を覚えたことはない。──だから、たぶん、大丈夫だと思う。
「遅れるって──4月から……5ヶ月も遅れるものなのか?」
不安そうに尋ねてくる微笑に、おばさんが窓の向こうから気難しい顔で首を傾げる。
「それは──まぁ、人それぞれだと思うし、精神面に左右されるところもあるし……。」
里中は、春の大会以後、ちょっと家庭の事情で色々あったし。
「4月以来」というのが、それをさしているように思える。
そこでおばさんは、母親の顔で厨房からコチラへと姿を出して、里中に尋ねる。
「──で、里中君、妊娠判定薬は、使ったの?」
神妙そうな顔で、おばさんは真摯に尋ねるのだが、おばさん達には重要な意味を持つ台詞でも、純真な高校球児には耳慣れなさすぎた。
思わず首を傾げる者数名、身悶えるようにして頭を抱えて真っ赤になるもの数名、飄々とした顔で、それづらな、と呟く者一名。──恋愛経験や情報網に、隔たりがありすぎる明訓ナインであった。
「──……と、里中君は顔が知られてるものね……そんなものを薬局で買うわけには行かないわね──。おばさんが買ってきてあげようか?」
里中が答えるよりも先に、そうおばさんは提案して──そういえば、学校の保健室にも常備あったような気がする……と、学校側からしてみたら不穏以外の何物でもない台詞まで吐いてくれる。
しかしそれを、里中は笑って否定した。
「大丈夫ですよ。今日の昼には山田と病院に行ってきますから。
な、山田、いいだろ?」
無邪気とも言える微笑みを浮かべて、里中がニッコリ笑いかける。
しかしそんな彼女の前で、山田はフリーズしたままだった。──いつから固まっていたのかは、推して計るべし、である。
「山田?」
固まったままの山田の前で、ヒラヒラ、と手を振ってやると、はっ、と我に返ったように山田が顔をあげる。
そして、まだ動揺をアリアリと残す表情で、コクコクと頷く。
「──……わ、わかった。い、行こう、里中。」
そんな山田の同情の眼差しを寄せる男子数名……彼らも一歩間違えれば、そんな状況に陥ることになってしまうのだ。
野球では完璧なほど隙がないと言われる山田であったが、こういうのは完璧とは行かないんだなぁ、などと微笑がうなった瞬間、
「それにしても、もし三ヶ月目だったら、生まれるのは卒業前か〜、卒業式、出れるかなぁ?」
おなかをさすりながら、そんなことを口にしながら里中が笑った。
言っておくが、笑いごとではない──本当は。
瞬間、微笑達の頭の中には、大きなおなかを抱えて卒業式に出る里中だとか、赤ん坊を抱いて卒業式に出る里中だとか、取材陣に囲まれて──以下略。
「って、笑って言うことじゃないだろっ、それっ!!」
さすがに常に笑っている微笑も、笑っている場合じゃないと、突っ込んだ。
そんな微笑に、そうか? と軽く首を傾げる里中。
山田に至っては、もうなにか口にする気力もないのか、ただジッと里中の腹の辺りを見て、何事か考えつづけていた。きっと頭の中でグルグルと回っているのだろう。──子供を持つ男親なら、一度は経験する道である……たぶん。
「しかしよー、あれだけの戦いでも元気でいてくれたづらから、すげぇ子が生まれるづらな、きっと。」
マイペースに、一人さっさと食事を終えた殿馬が、食後のお茶を啜りながら、そう呟く。
その台詞に、「流産」という文字に翻弄されていた渚は、はた、と我に返った。
「そ、そうですよね。里中さんと山田さんの子供なんだし、すっごい野球センスのある子供に違いないですよね。」
ぱふ、と両手を合わせて言った瞬間──自分で言いながら、ガックリと肩が落ちるのを感じた。
──里中さんと山田さんの子供……あぁ、そうだな……うん、そうなんだなぁぁ……。
「わー、それはそれで楽しみだなぁ。卒業前に生まれるなら、おれたちも見ることができますよね!」
そして、渚をはじめとする、数人の表に現れない落胆に、まったく気付かず、高代が顔を耀かせて笑った。
その高代の台詞に、ますます渚がガックリと肩を落とすのを、微笑が同情半分の眼差しで見つめてやった矢先──それまで無言で腕を組んでいた岩鬼が、チラリ、と片目を開けて里中を見る。
ニコニコと嬉しそうな顔で高代を見ている彼に、低く問いかける。
「その前に──サト、産む気なんか?」
「うん。」
岩鬼をチラリとも見ることもない、即答だった。
思わずガクリと岩鬼が肩を落とすほどの間無しである。
「いいだろ、山田?」
反対されることなど、頭にない微笑みでもって、里中は山田に首を傾げて問い掛ける。
しかし、問いかけられた山田は、
「──……え?」
ナニを言われたのか理解できない表情で、キョトン、と目を見張った。
そんな彼に、里中はけげんそうな顔になる。
「ダメなのか?」
そのときになって初めて、里中はどこか不安そうな色を瞳に宿した。
微かに揺れる目を前にして、慌てたように山田はかぶりを振った。
「い、いや、そうじゃなくって……すまん、まだ混乱してる。……ビックリした…………。」
困ったように笑う山田の顔を見上げて、今度は里中がキョトンとなった。
山田の表情にも声にも、まだ強く濃く動揺の色が残っている。
「あ、悪い。」
山田は、手の平で額を撫でるようにして、冷や汗とも脂汗ともつかない汗を拭いながら、苦い笑みを走らせた。
「頼むから、こういうことは、もう少し……事前に、教えてくれ。」
出きれば、こんな皆が居るような朝食の席じゃなくって。
そう心の中で付け加える山田に、里中はパタパタと手を振った。
「いや、おれも気付いたのが今朝だからさ。」
「って、遅いな、おいっ!?」
「というか、今朝気付いて、もう病院の予約入れたんですか……?」
気付くのが遅く、行動が早い。──なんだか里中らしいと言えば、里中らしかった。
「気付いたら即行動あるのみ、だろ?
母さんに電話したら、先生がちょうどいいから昼から来なさいって言うからさ。ほら、夏休み終わる前に、さっさと話しをまとめて置いたほうがいいだろ?」
がたがた、と、ホウボウで力無く脱力したナイン達が、イスや床に座り込んだ。
ガックリとうなだれる彼等を、一体なんでそんなに脱力することがあるんだと、里中が憮然として見下ろした。
彼女が実際にそう口にしていたら、皆はこう答えてくれるだろう。
その行動と言葉そのものが、疲れを覚えるんだ、と。
「──……里中……。」
少しの間を置いて、山田が里中を呼ぶ。
自分のすぐ傍の床に跪いてガックリしていた渚を軽く蹴りつけていた里中は、そんな山田に顔をあげて、軽く首を傾げた。
「なんだ、山田?」
「……その……おまえは、いいのか?」
困ったような、困惑したような──苦いようにも見える笑みを張りつける山田に向き直り、里中は更に首を傾げる。
「何が?」
パチパチ、と大きな目を瞬く里中に、うん、と山田は一つ頷いて、
「だから……大変だぞ?」
ジ、と、里中の目を見つめ返す。
里中はそんな山田の目を見返して──ふわり、と、とろけるように笑う。
「夏の甲子園を投げ抜いてきた俺だぞ? 何を今更ためらうことがあるんだ?」
花咲くように笑う里中に、「それとこれとは違うでしょー!」と、突っ込んでやるナインは居なかった。
誰も彼もがその気力が無かったとも言う。
何よりも、ここから先は山田と里中の問題だ。──口を挟む筋はない。
「そっか。」
つい今朝、その事実に気付いたとそう口にしたけれど──本当に里中が今朝気付いたばかりなのかどうか、疑問を挟む余地はある。
余地はあるけれど……里中が決意したことには、変わりはない。
「なら──おれからも頼んでもいいか?」
山田は、ゆっくりと目を瞬いた後、里中の顔を正面から見つめた。
「ん?」
笑いながら首を傾げてくる里中に手を伸ばすと、その意図に気付いた里中も、山田に向けて手を向ける。
伸ばされた里中の手を、ギュ、と握り締めて。
「……もし、本当に妊娠してたなら……生んでくれ。」
「うん。」
真摯に告げる山田に、1も2もなく頷いた。
ニッコリと笑う里中と、照れたように笑う山田との、微妙な空気の合間に挟まれた野球部ナイン達は、非常に微妙な顔で、お互いの顔を見やった。
「……プロポーズシーンに立ちあったのは初めてだ。」
「おんどりゃ、いちゃつくのは部屋にせいって、いつも言うてるやろがっ。」
「いやー、春だねー。」
それぞれ、思い思いに言葉を吐き捨ててながら、それでも何とか立ち直った直後、今度は、
「──まだ、籍は入れられないよな、里中?」
「あははは、俺、まだ男のままだしなー、籍。」
第二弾のプロポーズもどきが待っていた。
そしてそんな山田のプロポーズを、笑い飛ばす里中に、
「あぁぁぁっ、笑って済ませるなよ、そんなこと〜!」
なぜか心臓がズクリと痛んだ気がして、微笑がイスに突っ伏しながら突っ込んで見た。
「なんにせよ、発覚したのが引退した後でよかったづらぜ。」
ずず、と茶を飲みながら殿馬が零すと、なんとかこの微妙なピンクのような紫のような異様な空間から抜け出そうと、渚が必要以上に明るく同意する。
「そうですね。これで、ドラフトまではなんとか静かになると思いますし。」
「──……まぁ、何にせよ……今日の午後の病院次第だな。」
イスの背に顎を預けて、微笑がそう零した。
その台詞に、そういえば……まだ、分からないんだよな、と。
酷く今更なことを、ナインの誰もが心の中で思うのであった。
みなさん、おおらかすぎだと思うのですが、まぁ気にしません。
そんな細かいことを気にしていたら、きっと彼らは大物にはなれないからです。
ちなみにこの「里中君」は、私の友人がモチーフです(笑)。
さらに続きのネタも、私の友人をそのままもじりました。
さすがにココまでオープンに白状はしませんでしたけど、それに近かったよなぁ……。