うわべ だけの GIRL 5












 ただ、呆然と、唖然と、里中を見る東郷学園高等部の男子の視線に、彼は居心地悪そうに椅子に座ったままの山田の後ろへ移動する。
 そうして少しでも己の体を隠そうと考えているのかもしれない、が。
「智、智。もう今更だって。」
 パタパタ、と間近の席から微笑の突っ込みが飛ぶ。
 ドアの前には堂々とあんなポスターが貼ってあるし、呆然と入ってきた新しいお客さんの目の前で、山田とイチャイチャしてたし。
 しかも、先程の彼らの反応からすると、三人とも「ウェイトレスさん」が里中だと気づいてなかったのに、副委員長と山田のせいで、すっかり気づいてしまったようだし。
「──……くそっ。」
 可愛い顔に見合わない口調で吐き捨てる里中に、ドアに立ち尽くしたままの東郷学園メンツは、ようやく目の前の──山田の後ろでコチラに背を向けている「美少女」が、本当にあの「里中智」なのだと知った。
 と同時、愕然と口を開きながら、
「……う……そだろ…………?」
 掠れた声で、クシャリと顔を歪める。
 そんな男どもに、里中はキリリと眉を吊り上げると、
「なんだよ……っ、笑いたければ笑えばいいだろ! 別に、俺だってやりたくてやってるわけじゃないんだからなっ。」
 かすかに目元を赤らめて、そう怒鳴りつけてくれる。
 そんな里中をチラリと横目で見て、ヒョイ、と肩を竦める微笑と殿馬。
 さりげに視線をずらして、わざとらしくコーヒーを啜る不知火。
 そして、里中の睨みをまともに受けた小林は、背後で呆然としている友人2人を他所に、ただ苦い笑みを刻むしかできなかった。
──笑えも何も……。
「いや……笑うに笑えんだろ……。」
 似合いすぎて。
 言外にそう零す小林の心境が良く分かるのは、女装している張本人以外である。
 思わずしげしげと目の前の彼を見る小林に、里中はムッとしたように上目遣いに睨み挙げてくる。
「なんだよ?」
 屈辱と怒りのために頬が赤らんでいるのだとは分かっているが、燃えるようなその視線も、一文字に結ばれた愛らしい唇も。
 なんと言ったらいいのか分からなくて、答えを求めているような里中の視線にさらされて、つい……、
「いや──その……似合ってるんじゃないか?」
 参ったな……と、口元を掌で覆いながら、小林が不用意な言葉をポロリと零した途端、
「──……っ!!!」
 里中の行動は早かった。
 彼は近くのテーブルクロスの上に置かれた花瓶を手にとり、それをそのまま放り投げようと……っ。
「って、待て待て、里中っ! そんなものを投げたら、小林君が怪我するだろうがっ!!」
 慌てて山田が里中の腕を掴み、彼の手から花瓶をもぎ取ると、その山田から花瓶を受け取った副委員長が、それを懐に抱き込みながら、
「そうよ、里中君! これ、私が家から持って来た花瓶なんだから、割られると困るわ。」
 撫で撫で、と大事そうに花瓶の丸いラインをなでる。
 里中は副委員長のその台詞にハタと我に返り──それでも憮然とした表情はそのままに、副委員長に視線を飛ばすと、素直に謝った。
「──すまん、ちょっと頭に血が上った。」
 ペコリ、と頭を下げる里中の、少しだけ伏せられた睫は愛らしいと言うのに──やっぱり中身は「里中」なんだなぁ、と、中学時代のヤンチャ盛りの彼を知っている面々は、静かな溜息を零す。
 そんな小林へ、
「ふふふ……気をつけろよ、小林。可愛い顔をしてても、しょせん里中だからな。」
 不知火が、コーヒーがまだ半分残った紙コップを掲げて、ニヤリと笑いかけてくる。
 途端、
「誰が可愛い顔だってっ!!?」
 里中が再び過剰反応を起こしたが、まだ里中にしがみついたままの山田のでっかい体が邪魔で、一歩も前に踏み出すことはできない。
「落ち着け、里中! 誉められてるんだから!」
「そうそう、お前のファンの女の子が、『キャー、里中ちゃん、可愛い〜!』って言うのと一緒だからっ!」
「高校3年にもなってよぅ、男にカワイイって誉められるのもどうかと思うづらぜ?」
 ズズ、と紙コップに入ったお茶を啜る殿馬の台詞に、
「殿馬も余計なことを言うなよ、頼むから!」
 山田と一緒になって微笑も必至に突っ込み返す。
 そんな風に、明訓元野球部メンツがドウドウと里中を宥めている間に、女子陣は新たにやってきたお客三人組に、新たなチケットを購入させて、席に案内するところまで済ませる。
 そして、なんとか里中が落ち着いたらしいのを見計らって、
「里中ちゃーん、ご指名〜。ご注文よろしく。」
 里中を手招きした。
「ご指名ってなんだよ!」
「だって里中君、一回も仕事してないじゃん。」
「──……うっ。」
 それを冷静に突っ込まれると弱い。
 看板娘だからだとか、指名があったから、だとか言われたら、ふざけるなと突っぱねることが出来るが、店番なのに何もしてないと指摘されるのは、本当のことだから、イヤだなんて言うわけにも行かない。
 無言で自分が着ている服を見下ろした後──実を言うと、あまりに暇な一時間の間に、最初から居たメンツの中では、この格好が恥ずかしいと思わなくなってきていたので、これも慣れだ、慣れ、と拳を握って己に言い聞かせると、クルリと体を反転させて、心配そうな山田に大丈夫だと頷いて、小林たちの下へ歩み寄ると、
「──で、注文は?」
 ケンカを売っているとしか思えない口調と態度で、三人を見下ろした。
 不機嫌極まりない態度であるが、それでも姿形がかわいいウェイトレスさんで──なおかつ、里中の苦渋が見て取れたので、小林は苦い顔をしてみせたが、その態度に文句を言うことはなかった。
 ただ、可愛らしいウェイトレスさん風の里中を望んでいた彼女たちは、カメラを構えたまま、「あーあ……」と残念そうなため息を零してはいたが……。
「それじゃ、俺はホット。ブラックで。」
「俺、オレンジジュースにしようかな……。」
「俺はコーラな。」
「ホットにオレンジにコーラな。」
 里中の気迫に押されたのか、呆然と里中の姿を見ていた野郎どもは、慌てたように黒板に書かれたメニューに視線を飛ばして、飲み物を口にする。
 里中はそれを聞くと、鷹揚に頷いて、差し出されたチケットに注文を書き、それを机の端において、スタスタと厨房に戻っていく。
 不機嫌なオーラはかもし出されているが、暴力を振るうでもない、ごく普通の対応……と、言えるだろう。
 そのあまりに普通すぎる対応に、チェー、とカメラを構えた娘から残念そうな溜息が零れる。
「……恥らってる時もかわいかったわよね──……。」
 ちょっぴり惜しいことをしたな、などと零したが、それも今更なことである。
 いつ、不知火や小林が里中の地雷を踏むようなことを口にして、里中を怒らせるかと──実を言うとハラハラドキドキしていた山田達は、無事に注文をとり終えて厨房に姿を消す里中に、ほ、と胸を撫で下ろした。
 厨房と客室を繋ぐカーテンがヒラリと捲れて、中へ姿を消す里中の後姿を視線で追っていた小林の友人が、思わず、
「……って、結構、スリット、きわどいな…………。」
 そんなことを呟いた。
 瞬間、ピキン──……、と、明訓メンツの周囲の空気が凍りついたような、そんな感触があった。
「────…………それは心の中で思うだけにしておけ。」
 背後から、山田や微笑や殿馬や、果ては先程まで「里中ちゃん♪」とミーハーしていたウェイトレスたちまで、冷ややかな視線でコチラを睨みつけているのを感じ取って、小林は疲れたように友人にそう提言する。
 女装している男のミニスカートの裾に視線が行くあたり──しかも相手はあの里中で──、すでに道を外しかけてるような気がして、それ以上進まないように祈るばかりである。
「しかし──良く里中があんな格好を許したな?」
 中学時代にも、同じように女子から女装を迫られたが、断固として首を縦に振ることはなかった。──背が低いことにコンプレックスを持っていたから、余計だろう。
 そう首を傾げて、里中が消えていった厨房を見やる小林に、山田が苦い笑みを刻み込んで、チラリと副委員長を見やると、
「──……まぁ、戦略負けというか、押し切られたというか。」
 すると、里中が投げようとしていた花瓶を丁寧に元の位置に戻していた副委員長は、シレッとした顔で、
「私は別に、バドガでも良かったんだけどね、それこそ本当に『生脚』だし。」
 ──ね? と、意味深に山田を見上げて微笑んでくれる。
「は? ばどが?」
 なぜか狼狽した様子を見せる山田を突付いて、どういうことだ、と微笑が聞いてくるが、
「……聞くな。」
 山田は薄く顔を赤らめただけで、決して答えようとはしてくれなかった。
 どちらにしても、今の格好以上におかしな格好であることは間違いないだろう。
 そんな微笑ましい(?)会話をしていると、バサリと厨房とを区切るカーテンが捲れて、噂の渦中の人物が姿を現した。
 両手でトレイを持って歩いてくる正面からの姿に、男どもがコッソリと様々な感想を抱いていることには気づかず、里中はそのまま小林たちの前に立つと、落ち着いた様子で、トレイを机の上において、チケットを回収した。
「悪いな、里中。」
 ごく普通に声をかけると、ジュースやコーヒーを入れている間に少し気持ちが落ち着いたらしい里中は、そのまま軽く首を傾げると、
「いや、別に。これが仕事だしな。」
 ヒョイ、と肩を竦めて、クルリと背を向けて、トタトタと山田の方に戻っていく。少し歩きにくそうにしているなと足元を見下ろすと、スニーカーや上履きではなく、踵が5センチくらいありそうなローファーだった。
「────……大変だな……里中。」
 思わず、今更ながらにたっぷりと同情を寄せてしまう。
 そんな小林の台詞に、里中は憮然とした表情を向けたが、ようやく諦めが付いたのか──小林の反応も不知火の反応にも、腹が立つ一面はあるものの、過激に羞恥や怒りを覚えるようなものではないと悟ったのだろうか。
「あぁ、大変なんだよ。
 だからお前等、このまま野球部の練習試合見てくつもりなら、売上にせいぜい貢献してくれ。」
 うんざりした顔を隠さずに、そう重々しく請求してくれた。
「追加チケットなら幾らでもあるわよ〜。」
 そんな里中の商売根性に便乗するように、教卓の定位置に戻っていた娘が、明るい声で画用紙の束をヒラリと揺らす。 ──と、そこへ、
「──あの…………。」
 不意に、ドアから、新たな闖入者が顔を覗かせた。
 明訓高校の学生服に身を包んでいる新しい「お客様」は、ガランとした客室の中に居る面々に、少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに山田の隣に立っている里中を認めて、気を取り直したように、
「ココって、当日チケットも、取り扱ってます、か?」
 上目遣いに、おずおずと問いかけてくる。
 ちょうどその当日チケットを弄んでいた娘は、キョトンと彼を見て──その襟元に光る「II」のマークを確認してから、
「あるわよ〜、何、1人分?」
 にこやかに応対を始める。
 すると彼は、チラリと山田と里中を気にしながらも、
「あ、いえ──おい、当日チケットの販売あるってさ!」
 フルリとかぶりを振って、慌てたように廊下に首を突っ込み、そう叫ぶ。
「? なんだ、新しい客か?」
 問いかけるように里中は山田を見上げるが、もちろん山田がその答えを持っているはずはない。
「珍しいわね〜、二年生も喫茶店の出しものしてるのに、わざわざこっちに来るなんて。」
 言いながら、当日チケットの販売を手伝うために教卓へと駆けて行く娘の背を見送りつつ、副委員長も小首をかしげる。
「まだ里中君のパフォーマンスもしてないのにね?」
「って副委員長、本気でタイタニックとかやらせるつもりだったのかよ……。」
「それでダメだったら、しょうがないから野球部の試合場まで出張販売するつもりだったんだけどね。」
 そんな軽口を叩いている間に、ドアからゾロリと5人の後輩少年達が顔を覗かせる。
 それぞれが教室の中を見回すのに、里中は居心地悪そうな顔になったが、誰も「あっ、里中さんっ!?」などと不愉快な仰天顔はしない。ただかすかに驚いたような顔をして、小さく息を呑んだ後、頬の辺りを赤らめるだけだ。
 里中は無言でその彼らの反応を見た後、自分の足元を見下ろし、首をかしげるようにして不知火と小林を見やった。
「もしかして、文化祭で女装喫茶とかするのって、珍しくないことなのか?」
 考えてみれば、山田や微笑が同じように女装してくれたら、ココまで恥ずかしいと思うことはないような気がする。
 どうしてこれが決まったときに、山田の手を握って、「山田っ、バッテリーは、どんなときも一緒だよなっ!?」と、訴えかけなかったのだろうと、里中はエプロンの裾をつまみあげながら、ちょっぴり後悔してみた。
 うちの副委員長なら、山田すらも説き伏せてくれたかもしれないし。
 そんなことを呟く里中に、不知火と小林は微妙な顔つきでお互いを見て──里中が今しているような姿形を、お互いに当てはめて考えているのかもしれない──、微妙な顔つきになった後、
「──…………学校によるんじゃないか? 着ぐるみオバケ屋敷とかしているところもあるしな……。」
「どこだったかの男子校じゃ、ミスコンがあるとか言う話を聞いたことはあるけどな──ま、お祭りだから、何でもありだろ?」
 あえて、里中が求めている明確な答えも、それを否定するような答えも口にせずに、遠回りに説明してくれた。
 そんな2人の意見に、ふーん、と里中は頷く。
 それから、マジマジと不知火と小林の整った顔を交互に見ながら、納得したように顎に手を当てて、
「そっか……なるほど。」
 うんうん、と、不知火と小林が思わず引きつるほど「何か」を納得した。
 その「何か」が何なのか、聞かなくても、分かるような気がした。
 きっと、小林も不知火も「経験者」だと思われているに違いないのだ。
 2人が実は「経験者」なのだと思えば、二人が里中を気遣うように「似合ってる」だとか「かわいい」だとか発言した意図も分かる。アレは、あまりに笑えない状態の自分を、気遣ってくれたに違いない。
 とは言っても、男がイヤイヤ女装しているのに、似合ってるだとかかわいいだとか言う台詞は、地雷以外の何者でもないと里中は思うのだが──、アレはきっと、「経験者」なりの、不器用な優しさなのだろう。つまり、自信を持て、と言う。
──何に自信を持てと言うんだと思わないでもないが、あえてそれを飲み込んで、なるほどなー、と里中は1人納得した面持ちである。
 事実は、彼らはからかっているわけでも、里中を慰めようとしているわけでもなく、単純に本音が漏れただけに過ぎないのだが、里中はそれを決して認めようとはしなかった。
「ま、過敏に反応するから面白がられるって言うのは、確かだしな。」
 なら、普通にしてればいいんだと、ようやくその結論に達したらしい里中に、色々思うところはあるものの、
「──あぁ、そうだな。……お前の場合、普通にしてたら、誰も気にしないと思うぞ。」
「──……確かに。」
 とりあえず、疲れたようにその里中の意見を支持する不知火と小林であった。












 小林たち三人組みの後に入ってきた五人から、粘りつくような視線を感じることが数回あったものの、特に何事もなく──厳密に言えば、山田や微笑、殿馬当たりが視線や雰囲気で威圧し続けていたおかげだが──、その五人を見送ったのが、ほんの五分前。
 小林たちがコーヒーのお代わりをしてくれたおかげで、朝一番に淹れたコーヒーも完売して、二度目のコーヒーを淹れ様かどうしようかと、相談し始めた矢先、本日四組目の客が入ってきた。
「あ、いらっしゃいませ。チケットはお持ちですか?」
「いえ、持ってないです。」
「それでは、こちらでチケットのご購入をお願いしますね。」
 先程の五人組と同じように、教卓で当日チケットを販売するのを見ながら──、またもや副委員長は小首をかしげる。
「昼ごはん前に、なんでわざわざココに当日券を買いに来るのかしらね?」
 微妙なことを言えば、校門前で焼きソバやタコヤキ、クレープなどを買って、食堂に行けば、パックジュースの自動販売機だってある。
 わざわざ人気のない二階に上がってくるなんて──それも、パフォーマンスも宣伝もしてないのに。
 里中効果だと言うには、先程の五人が帰っていって5分も経ってないのに……と、副委員長が少し考えるように顔を顰めた瞬間、
「おっ、さっき、階段で会ったヤツラじゃん。」
 東郷学園の男子が1人、新しく入ってきたばかりの少年を見て、呟いた。
「……階段?」
 いぶかしげに顔をあげて尋ねてくる不知火に、小林は頷いて、
「あぁ、さっきそこの階段近くで里中にぶつかったんだけどな、その時に、この階は三年生の階だって教えてくれたんだ。」
 そういえば、その時はまだ、「女装した里中」=「かわいいウェイトレス」さんだと思っていて、そう口を滑らせていたっけ。
 ──ふと今更ながら、その事実を思い出した小林は、そのまま視線を彼らにやり……、入ってきたばかりの2人の少年の視線が、里中に向かっているのに気づいた。
「………………………………──────────。」
 少し考えるように視線をツイとずらし、もしかして……俺達の不用意な発言のせいで、「かわいいウェイトレスさん」を、見に来た………………?
「いや、まさか、な?」
 チケットを購入して、小林たちが座っている席の近くに腰を落とした彼らは、すぐに小林たちに気づいて、えへへ、と照れたように笑ってくれた。
「どうもっす。」
 ペコリと頭を下げる彼らに、小林の友人の1人が、軽く身を乗り出すようにして、
「なんだよ、お前等も結局来たのか?」
──かわいい女のコ目当てにきたのなら、残念だったな、と、そう笑ってやるつもりだったのだろう。
 けれどしかし、相手は益々照れたように笑みながら、
「いや、俺らは来るつもりはなったんですよ。」
 パタパタと、顔の前で手を振ってくれるが、実際ココに座っているのだから、あまり信用はない。
「でも、中西達が──あ、俺らのダチなんすけど、そいつらに、東郷学園の人たちが、ココにかわいい子が入ってったって言ってたって言ったら、見てくるって……。」
「──……あぁ、もしかして、さっきの五人組か。」
 自分たち以外に入ってきた客と言えば、彼らしか居ない。
 小林のその台詞に、それっす、と彼らは2人揃って勢い良く頷いた。
 そういえば、始終ジロジロと里中を見て、照れくさそうにしていたような記憶がある。
 里中を呼び止めようと動きを見せるたびに、山田だとか微笑だとか殿馬だとかが、さりげなく里中を呼んでいた仕草が、過保護めいて見えて、良く覚えていた。
「で、さっきクラスに戻ってきて、その、小林さんたちが言ってたのって、本当なんだな〜……って。」
 最後の方で、チラリ、と暇そうに山田達のトランプ遊びを邪魔している里中を見て、ほんのりと頬を赤らめる。
「……………………………………。」
 不知火と小林は、すばやく視線をかみ合わせ、「本気か、こいつら?」と確認しあう。
 グラウンドの上でしか里中と会う機会がないような自分たち他校の野球部員ならとにかく、明訓高校の生徒が──何を言っているんだと言う感じである。
 そんな胡乱気な不知火たちの視線に気づかず、さらに続けて、
「俺、三年にあんなかわいい先輩が居たなんて、知らなかった……。」
 ウットリと、黒いストッキングに包まれた里中の脚から、スラリとしたしなやかな背中のラインまで見上げて、
「名前、なんていうんだろう──……。」
 悩ましげな溜息まで吐いてくれた。
「……………………………………。」
「……………………………………。」
 他校生集団は、そんな明訓高校の、どうかと思う顛末を前に、なんともいえない苦虫を噛み潰したような顔を見合わせると、どうせ五分後には、彼らも山田達の出す威圧感に耐え切れずに、出て行く羽目になるんだろうな、と──コッソリ肩を竦めあった。
 そしてまた今度も、彼らが出て行った後は、まったりとした野球トークの時間が始まるのだと、信じて疑いはしなかった。
 ──が、しかし。
 その五分が過ぎるよりも早く、先ほどまでイヤになるくらい静まり返っていた廊下に、新たな上履きの足音が響き渡る。
 またお客様かと、里中たちが入り口を振り返るのと、
「すみませーんっ! 当日チケット、下さいっ!」
「あ、俺もお願いします!」
 ヒョッコリと、少年達が顔を覗かせるのが、ほぼ同時。
 彼らもまた、襟元に「II」と入ったピンを刺している。
 小林達の席の近くに座った二人の少年と、目的は同じだろう。
 それを示すように、二人の少年の下にジュースをジュースを運んできた里中を認めて、あっ、と、チケットを購入する手を止めて、目を輝かせているのが遠目にも分かった。
 無言で小林達と不知火は、自分たちのほうに背中を向けながら、
「はい、おまたせしました。」
 コトンコトンとオレンジジュースとアップルジュースを机の上においている里中を見上げる。
 白い清潔そうなブラウスに、ツイストされた黒のサスペンダー。ハイウェストのミニスカートの上から、ヒラヒラと広がる黒いエプロン。
 この姿で、表のポスターのようなとろける笑顔を浮かべたら、客のほとんどが見とれること間違いなしだろう。
「それじゃ、ごゆっくり。」
 けれど里中は、お世辞にも愛想がいいとは言えない態度で、そのままクルリと体を反転させた。
 たとえ普通にしていようと決めたとしても、女装していることが恥ずかしいことには変わりないらしく、愛想を売ったり笑顔を浮かべたりする余裕はないようである──最も、今の状況では、その方がいいのだろうが。
 そのまま、山田たちの方へと戻っていこうとする里中を、少年二人は慌てたように呼び止める。
「あっ、あのっ!」
「ん?」
「すみません──その……っ。」
 新たに客が来たことへの、焦りだろうか、彼らは上半身を浮かせるようにして、振り返った里中に顔を突きつけると、
「お名前……っ、教えてくれませんかっ!?」
 顔から耳から首筋まで、真っ赤になって叫ぶ純情そうな少年の叫びを受けて、しかし里中は、えっ、と驚いて乙女ちっくな仕草をするどころか、
「──は? 何、言ってるんだ、お前ら?」
 怪訝そうな態度で、ジロリと二人を見下ろしてくれた。
 その視線に、ビクン、と肩を揺らす少年に、更に里中が口を割ろうとした瞬間、
「ヒューヒュー、智ちゃん、モッテモテー!」
「よっ! この男子高校生キラーっ!」
 まるでその瞬間を狙っていたかのように、微笑と副委員長が、息のあった攻撃が入った。
「茶化すなよ、三太郎! 副委員長!」
 何が楽しいのかニヤニヤ笑っている二人を静止してから、里中は首の後ろに手を当てるようにして、二人の後輩を見下ろした。
「──で、何だったっけ?」
 正面きって、自分たちの顔を見下ろしてくる「美少女ウェイトレス」の顔を、二人はマジマジと見上げる。
 その目が、整った容貌からゆっくりと落ちて──やがて、その胸元に止められているハート型の名札(無理矢理副委員長につけられて、まだ剥がしていないもの)に落ち…………。
「──……あ、いや……えっと、なんでもないです。」
「はい、あ、ありがとうございます。里中先輩。」
 どこか引きつった顔で、頬の辺りを真っ赤に染めて、フルフルとかぶりを振る。
 そんな後輩に、里中はいぶかしげな顔を向けたが、何もないのなら用はない。
「じゃ、ごゆっくり。」
 名前を聞かれたことなどまるで眼中にないような態度で、愛想の欠片もない態度でそう告げると、そのままクルリと踵を返して、トレイを厨房に置きに背を向けた。
 その背中を、少年二人は更にマジマジと目を見開いて見送り──それを見守る面々は、ただ苦い色を滲ませるばかりだ。
 彼らは里中が厨房へ続くカーテンをヒラリと開いた瞬間、バッ、とお互いに顔を見合わせて、
「──……うっ……そだろーっ!?」
「い、いやでも、確かに、里中先輩……だったよ、な?」
「ていうか、似合いすぎだろ、ありゃ……。」
 青くなったり、口元に手を当てて赤くなったり。──少し前までの自分たちも、こんな風に愕然とした顔をしていたのだろうかと思ってみていると、情けないやら面白いやら。
 思わずクツクツと笑いをかみ殺す不知火に、顔をゆがめた二人の少年がグルリと顔をめぐらせる。
「小林さんたちは、知ってたんですか!? あのウェイトレスが里中先輩だって!?」
 泣き顔にも見える情けない顔で、グッ、と身を乗り出してきて、コソコソと叫んでくる。
 あまり大きな声で叫ばないのは、まだ完全に気付いていないものの、教室の各場所から飛んで来ている視線の鋭さを体で感じているからだろう。
 そんな彼らの訴えに、不知火はヒョイと肩を竦めると、自分が言われたことをそっくりそのまま口に出してみせた。
「ドアのポスターの里中を見たら、大体予測がつかなかったか?」
 意地悪い笑みを口元に広げる不知火の台詞に、ポスター? と首をかしげる彼らは、どうやら「かわいいウェイトレスさん」に意識が行くあまり、ドアにポスターが貼られていたことすら意識していなかったようである。
「って言われてもなぁ……最初見て、里中先輩ってわかんなかったし……。」
「里中先輩って言ったら、アレだよな? この間の体育のサッカーで、岩鬼先輩を蹴り倒したとか言う……。」
「そうそう、それでもって、山田先輩が岩鬼先輩を担いで保健室連れてったって聞いた。」
 コソコソと額をつき合わせて、そんな微笑ましい噂を確認しあう二人は、再び厨房の方を振り返った。
 ちょうど再びカーテンを捲って出てきた里中が、そのまま山田たちの方に向かっていく。
 その、どう見ても美人にしか見えない横顔と、女と呼ぶにはしっかりした体躯──けれど、しなやかな筋肉のついたバランスの良い体格を見て取った後、はぁぁ、と溜息を一つ零して。
 ──学生服着て、ユニフォーム着て、普通にしてるときには、思わなかったけど。
「里中先輩って、女だったら絶対、うちのミス明訓だよな──……。」
「あぁ……。」
 目の前に置かれた紙コップの中で、カラン、と氷が音を立てても、彼らは呆然と里中の姿を盗み見したあと、
「──でもさ……。」
「うん。」
「「来て、良かったよな…………。」」
 ぼんやりと、頬をかすかに赤らめながら、そう呟く少年達の呟きが耳に入った側としては。
──少年、道を外すなよ。
 そう心の中で提言しつつも、それ以上のコメントは差し控えることにした。

















 四組目の、帰るときまで気がそぞろな風な少年二人組みを見送った後、少ししてから、客が続く事態が起きた。
 チラホラと客が入ってきては、当日チケットを購入して里中を見学していると言う次第である。
 ちなみに不知火や小林に握手を求める者が出てきたり、山田や微笑、殿馬にこの機会にとばかりに、「ドラフト楽しみにしてます!」とファン魂丸出しで言ってみたり、里中に写真を求めて即答で断られていたり──。
 なんだかんだで、それなりに忙しくなってきたかな、と一同が感じる頃──里中の当番終了時間まで一時間を切った頃から、帰る客と来る客とが、交互になり始めた。
 十中八九、小林達が来た後の客が、噂を流しているに違いない。
 客が帰って少しして次の客が来る、と言うペースがだんだんと速くなり、やがて教卓の前でチケット販売を待つ人間が出てくるようになると、高みの見物をしていた副委員長や、開店前から客として居座っていた微笑や山田、殿馬たちまで立ち上がって席を譲るしかなくなってくる。
「ごめん、山田君、微笑君、殿馬君! 厨房で待機しててっ!」
 副委員長自らが、教卓のチケット販売ブースに入りながら、席を立ち上がった三人に向かってすまなそうに声をかける。
 つまり、手が回らなくなれば、三人も手伝ってくれというイミである。
 それを了承した三人が、ゾロゾロと厨房に向かい始めると、試合開始時間までココでノンビリしているつもりだった小林も不知火も、席を立たざるを得ないわけで。
「悪いな、小林君、不知火君。」
「また後で、球場でな!」
 三人が揃って厨房向こうのカーテンへ消えていくのを見送ってから、不知火と小林達四人も、教室の外に出た。
 来たときは、本当にこれで文化祭をしているのかと思うほどに静かだった廊下は、出た瞬間に、まず左手でパシャリとカメラのフラッシュの音がした。
 ギョッとして視線をやると、カメラを構えた女の子と、ポスターの横でどこか緊張した面持ちでピースサインをしている女の子が居た。
 かすかに目を見張って視線をやると、二人は、美形エース二人の姿を認めて、キャッ、と口に手を当てるようにして飛び上がった。
 そして、あははは、と照れ笑いを浮かべると、彼らと入れ替わるようにそそくさと「喫茶店」の中に入っていく。
 その段階になって、小林も、不知火が言っていた「例のポスター」を、改めて目に留めた。
 ここに来たときには、「何か女の子のポスターが貼ってある」程度にしか思っていなかったのだが、改めて見ていると──なるほど、確かに、里中の顔だ。
 しかもご丁寧に、「あなたのハートにストライクv」なんていう可愛らしい文字まで走っている。
「……大変だな、里中も。」
 その口調に、美形の人気者は大変だと言う響きが込められているのを感じ取って、クツクツと不知火は笑い声をあげる。
「お祭り騒ぎなんだから、そんなものだろう?」
「──ま、そうだろうがな。
 それで不知火? お前はこれからどこへ行くつもりだ?」
「そうだな……、岩鬼のところへ顔を出すか、そろそろ始まった練習でも見るか、そのどっちかだろうがな。
 どっちがいい、小林?」
 顎に手を当てて考えるように首を傾げて問い掛けると、小林は両手をポケットに突っ込みながら、明るい笑い声をあげる。
「なんなら、俺たちも練習に参加してみるか? ──最近、どうも体がなまってしょうがない。」
「それもいい話だな。」
──ドラフト前に、ちょうどいい話題になる。
 楽しげに肩を揺らして笑う不知火に、そうだろう? と小林も笑って、揃って歩き出す「白新高校のエース」と、「東郷学園のエース」の姿に、階段からやってくる新しい「お客さん」たちが、少し驚いたように目を見張っているのが──少しだけ、印象的に残った。
────さて、そんな風に不知火と小林が友情を深めて(?)居る頃、彼らが立ち去った後の喫茶店はと言うと──……怒涛の勢いの波に巻き込まれていた。
 初めはそれでも、まだ余裕で暇そうな様子を見せていた里中たちも、客が客を呼んでいるとしか思えない状態が10分ほど続き──気づけば満席な上に、待ち人まで出来てしまった状態に、愕然とせざるを得なくなった。
 一体どこからこんなに人が湧いているのだと、暢気に首を傾げている暇もない。
 もともと当日チケットは、紙コップにコーヒーだとかジュースだとかを入れているだけの飲み物が主流だ。
 しかも、人が絶え間なく来ている状態なので、飲んでいる客も、ジュースを飲み終えたらさっさと席を立って出て行ってくれる。
 おかげで、回転率が以上に早く、一同は考える間もなく客室と厨房を行き来することになってしまった。
 それでも三人では回らなくて、いつの間にか山田と微笑、殿馬までが加わった。自然と役割分担も決まり、山田と微笑が厨房でコーヒーだのジュースだのを作り、殿馬は頭と手にトレイを乗せながら、ウェイトレス姿の3人に混じって厨房と客席を往復する。
 昼食を食べるための昼ラッシュかと言い切るには、軽食すら扱ってない「喫茶店」にこれだけ並ぶのはおかしい──しかも、食べれるものなら校門前でも体育間前でも、食堂前でも販売しているのだ。
 にも関わらず、一向に減る様子のない客の数に、思わず愚痴も零れてくる。
「……くそっ、なんだよ、この数はっ!」
 製氷機の中の氷に向かって、微笑がそんなことを吐けば、
「里中効果づらな〜。」
 トレイの上に紙コップを持って帰ってきた殿馬が、ちょうど良いタイミングで答えをくれた。
 そのまま彼は、トレイをひっくり返すようにして、紙コップをゴミ箱の中にいれると、コロン、とゴミ袋の反対側から紙コップが転がった。
 それに殿馬は顔をゆがめて、ヒョイと足先で紙コップを飛ばすと、それをトレイの背面で叩き込むようにしてゴミ箱の中に落とし、まとめてそれらをギュウギュウと足で踏みつけてやった。
 それでもゴミ袋の中は3分の2。帰っていった客の机を片付ける片端から新しい客が来るような今の状況では──、
「ゴミも捨ててこなきゃづらぜ。」
「コーヒーも間に合わないような状態だぞ? ──随分、喫茶店にしては回転が速いな。」
 ゴミ袋を無理矢理詰め込んだ殿馬の言葉に、山田がフゥと額ににじみ出た汗を拭い取りながら、横手に詰まれた「注文分の紙コップ」を見やる。
 殿馬はソコへ、もう二つ紙コップを追加して、再び客室の方へと抜けていった。
「里中を一目だけでも見たいって、ファンなんだろうなぁ?」
 氷を紙コップに入れては、ジュースの栓を抜く。
 そんな単調そうに見えて、結構手首と指先に力のいる仕事を繰り返しながら、微笑は溜息をついて、強張った右手をヒラヒラと揺らす。
 野球のボールで手首も指先もそれなりに鍛えているつもりだったが、コレで使う筋肉は違うということか──。
「里中をか……うん、そうだろうな。」
 微笑の言葉に答えながら、山田は右手に置いてあったペットボトルの水が空なのに気付いて、ロッカーの上に積まれていたペットボトルを引っつかんでその栓を開く。
 そして、抽出の終えたコーヒーデカンタを取り外し、手早く──ここ数回で随分慣れた気のする手つきで、濾紙とコーヒーの粉をセットし、新しく水を注ぎ込んだ。
 出来上がったばかりのコーヒーは、そのまま数分用意されていた紙コップに順番に注ぎ込み、残った分はウォーマーに乗せておく。
 本来なら、一度入れ終えた後のデカンタは、近くのトイレの手洗い場で洗って使用しなくてはいけないのだが、今はそんなことを言っているような状態ではなかった──コーヒーの抽出時間ですら、遅れているような状態なのだ。
「コーヒー8人分、あがったぞっ!」
 カーテンの隙間から顔を覗かせて叫ぶと、すぐにそれらは、「ウェイトレス」の手によって、ミルクとシュガー、棒をつけられて運ばれていく。
 そこで一息をついている暇は少ししかなく、
「後、コーヒー三つと、オレンジ1個追加ね。」
「アップルとコーラ一個も。」
「はいはい。」
 なんでただの文化祭でこれだけ忙しい状態になるんだと、苦虫を噛み潰したくなる。
 つい一時間ほど前までは、本当に暇で、暇すぎてトランプなんてやっていたくらいなのだ。
 これほど忙しくなってしまったのは、あの「二人組み」が、「あの里中が女装してウェイトレスしてる!」と噂をバラまいたせいだということは、まず間違いない。
 あの後からなのだ──チラホラ来ていた客が、一気に増えたのは。
 そして、同じように里中の接客を受けた人間が、噂をばらまき──せめて一目見てみようとやってきた人たちが、また同じように……以下エンドレス。
 だから来る人間はみんな、今が昼飯時だろうと、売っているものが飲み物しかなかろうと、忙しくて顔を拝むだけしか出来なかろうと、構いはしないのだろう。
 とにかく目の前を女装した里中が走っていて、運がよければ接客してくれる──それだけで満足するのだ。
「──だろうな。里中のファンは、スゴイからな……。」
 この夏の優勝したときのことを思っているのだろうか、しみじみと苦労がにじみ出るような疲れた口調で呟く山田に、確かにな、と微笑は相槌を打って──、客室から聞える何度目かの甲高い声に、おっと、と声を漏らしてカーテンの先を覗き込んだ。
 そこでは、先ほどから何度も起きているのと同じ状態で、里中が当番の女子の背に庇われるようにして憮然とした表情を浮かべて立っていた。その前に立った彼女達はというと、席についている男の子が手にしているカメラの前に手の平を当てて、丁重そうに見える態度で、相手に威圧感をかもし出している。
「山田、また里中、写真撮ってくださいって告白されてたみたいだぜ〜?」
「……またか……。」
 里中目当てに入ってきた人の中には、彼と一緒に写真を撮りたいと願い出る男子も女子も居る。
 暇な時、パシャパシャと里中の写真を撮っていたのは「彼女」たちも同じことだ。
 けれど、「客」の一人に、それをOKしてしまったら、収拾がつかなくなるということからか、副委員長がチケットを売るときに「当店では写真の撮影は禁止となっております」と説明しているらしい。
 ──が、最初に断っていても、どうしてもとお願いする客は居る。
 もちろん、里中には撮られるつもりなんてないから、「すみません、無理です」と即答で答えているようだが、中にはめげない──正しく言えば、更に頼み込んでくる客も居る。
 そうなると、里中一人に任せていては騒ぎが大きくなるだけだと──一斉に「それなら俺も」「私も!」と名乗りをあげてくるやからが居ないとも限らない──、ウェイトレスの少女二人が仲介に入ったり……微笑や山田が厨房から走って里中を拉致して厨房に連れ去ってくることも数度あった。
「今回は──、お、無事に引き下がったかな。」
 カーテンを開けて、様子を確認していた微笑は、素直に椅子に戻った客に、ヒラリとカーテンを戻した。
 そしてそのまま自分の先ほどからの低位置に戻って、オレンジジュースとアップル、コーラの瓶を取り出すと、栓抜きでそれらの栓を抜きつつ、
「まさか、この調子がずっと続くわけじゃないとは思うけどなぁ……いつ終るのやら……。」
 ゆっくりジュースやコーヒーでも飲みながら、1時前まで目の保養をしながら時間を潰そうと思ってたのに、労働するハメになるとはなぁ?
 そんなことを零す微笑の、手馴れた仕草を横目に、山田が喉で低く笑った。
「本当だな……こりゃ、里中が当番の間、ずっと続きそうな勢いだな。」
 なんならこのまま、試合場まで「ジュース販売」しに行くか? と、軽口を叩く山田には、微笑はウンザリした顔で片方の眉をあげた。
「その必要はないっしょ。きっと里中人気だけでジュースは飛ぶように売れて、残ることもないさ。」
──というか、早いところ、里中の当番時間が終わりはしないかと、ただそれだけを祈るばかりだ。
 忙しくなって随分時間が過ぎたようにも感じるし、まだぜんぜん時間が経っていないようにも感じた。
 背後に積まれていたジュースケースは、すでにもう4ケースは開けてしまっている。つまり、50本は空いているということだ。
「アハハハ、この調子で行くと、売り切れゴメンになるのが先か、里中の当番が終って後の人間に引き継ぐのが先か、だな。」
 どうせ12時の里中の当番終了時には、クラスメイトが「写真、写真!」と駆けつけてくるだろうことは、山田も予測はしていた。
 そうなったら、後のことは駆けつけてきたクラスメイトたちにお願いして、自分たちはさっさと野球部グラウンドに向かって走ればいいだけだ。──クラスのほとんどの人間が集まれば、これほどの人数をさばくのも楽勝だろう。
──と、そう楽観視した意見を口にした矢先、
 バンッ!
 衝立をたたきつけるような勢いで、開け放されたカーテンの間から、苦い顔の副委員長が顔を覗かせた。
「あれ、副委員長、どうかし……。」
「山田君っ! お願いっ! 職員室に行って、クラスの子に至急コッチに来るように放送も入れて貰ってっ!!」
 鬼の形相もかくやと思わせる顔で叫んだ副委員長の後ろから、疲れた顔を隠そうともしない里中が、ヒョイ、と顔を覗かせて、
「三太郎。オレンジジュースはまだかって苦情来てるぞ。」
「あー……はいはい、はいよ。」
 差し出されたトレイに、ちょうど今作っていたオレンジジュースを乗せてやる。
「がんばれよ、智。」
「お前もな。」
 ヒラリと手を振って、里中は再びファンで埋め尽くされていると言っても過言ではない客室へと出て行く。──これでまた、色々捕まったりして、コッチへ帰って来るのは大分後になるだろう。
 そんな里中を見送って、山田は改めて副委員長を見上げた。
「副委員長、クラスの子って──全員ですか?」
「とりあえず全員っ! 雑用も欲しいけど、この分だとジュースもコーヒーも量が足りなくなりそうでしょ? あと氷もね。買出しに行ってもらわないと。」
 チラリ、と客室の中の様子を確認するように背後に視線を飛ばして、満席状態を見て取ると、再び山田に視線を戻し、
「とにかく、人手がぜんぜん足りないの。全員来てもらっても、仕事は有り余ってるくらいだわ。廊下の人波整理とか、写真撮影禁止の見張りだとか──、ゴミだしとか、それこそ色々ね。」
 チラリと山積みになりそうなゴミ箱を確認して、ヒョイ、と肩を竦めた彼女は、「混む」だろうことは予測して居ても、そのせいで「やること」がたくさんあるということまでは、考えてなかった自分を後悔しているように見えた。
 今、この状態になって、「アレもこれもそれもしなくちゃいけない!」状態に、歯噛みしているようである。
「って、買出しも何も、なくなったら売り切れでいいんじゃないですか?」
 額に張り付いた髪を掻き揚げて、鬱蒼とした声で、不知火君と小林君たちを帰さなかったら良かった、と、結構本気で呟く副委員長を見て、山田は不思議そうに首をかしげる。
 彼女はそんな山田にロリと視線を飛ばすと、苦渋を噛み締めるように1度目を閉じて、はぁ、と溜息を漏らした。
「このまま、突然、『売り切れゴメン』なんかにしたら、里中君を見たくて待ってる子たちが、里中君をもみくちゃにしちゃうでしょ?
 後、ちゃんと列整備してくれる男どもが居ないと、里中君が当番外れて廊下を歩き始めた途端、囲まれるわよ、確実に。」
「──……うっ、そ、そんなにスゴイんですか、廊下?」
 真剣な顔で忌々しげに言う副委員長に、さっきから廊下が騒がしいとは思ってたけど、と山田と微笑は顔を見合わせる。
 それに副委員長はコックリと頷き、
「私達の本命ポスターも、すっごい人気で、さっきから写真撮る人間が絶えないくらい、スゴイの。
 私、彼らの顔とか態度がすごく怖くて……、とてもじゃないけど、里中君が12時までの担当なんだっていえなかったもの。」
 何を思い出したのか、ブルリと大きく身震いして、副委員長はチラリと山田と微笑を見上げて、「甲子園の時も、あんなにすごかったの?」──と、テレビでしか見てなかった「明訓高校の人気」を問いかけた。
 その問いには、二人はノンビリと顔を見合わせて、言われてみればそうだったなと、苦い色を刻みあった。
「──まぁ、私も客の立場だったら、絶対もみくちゃにするしね。」
 さすがに暴動なんて真似は起きないと思うけどね、と疲れたふうに笑いながら、彼女は山田と微笑に向かって手を合わせて、
「とにかくゴメンね、もう少し頑張って! 特に微笑君っ!」
 ペコリと頭を下げて、背後を振り返り──まずい、と、慌てたように再び教卓に戻って行った。
 見ると、教室の中の半数の人間が立ち上がり、一気に帰ろうとしているところだった。
 それと同時に、自分こそは里中の接客を奪うぞと言わんばかりの勢いで、席にこぞって座りに行こうとするドアの近くの客の姿も見える。
 そこへ向けて走る彼女が、
「……里中君の人気がココまでっていうのは、とんだ誤算だわ…………。」
 うんざりした調子で呟いた声が聞えた気がして、山田と微笑は乾いた笑いを見合わせた。
──確かにこの調子だと、暴動でも起きそうな勢いだ。
「とにかく、職員室までひとっ走り行ってくるか。」
「──……ってことは、厨房は俺一人ってことかい?」
 情けない顔になる微笑に、とりあえず15杯分はコーヒーもあるから、と顔の前で両手を合わせると、
「──すまん、三太郎。しばらく頼むな。」
 山田は慌てて厨房から直接廊下に届くドアに手をかけた。
 鍵が掛かっているソレを外して、微笑に自分が出たらすぐに鍵をかけるように告げ──客が間違えて中に入ってきては、また騒動になる──、少しでも早く職員室とココとを往復するために、飛び出していこうとした瞬間、
「アレ、なんだよ、山田、どこか行くのか?」
 ちょうど紙コップを捨てに来た里中が、ヒョイ、と顔を覗かせて驚いたように問いかけてくる。
 山田はそんな彼を振り返り、
「ちょっと職員室にな、すぐに戻ってくるから。」
 ヒラリと手を振ると、そのまま廊下に出て行ってしまう。
 微笑はざわめきを宿した廊下の音を利きながら、閉めた後の扉の鍵をキッチリと閉めてやる。
 里中は山田が出て行った後のドアを羨ましそうに見た後、
「……俺も行きたい………………。」
 ポツリ、と呟いた。
 こんな格好で、客室と厨房を何往復もして、ずうずうしい客に手を捕まれたり尻を撫でられたりして、足を踏んづけたり頭をトレイで叩きのめしたりするのは、もうゴメンだ。
 ブスリとそう零す里中を、微笑はあきれたように見下ろすと、
「何、言ってるんだよ。誰のせいでこんなことになってると思ってるんだ……。」
 ポン、と不満そうな顔の彼の肩を叩くと、
「ほら、智。お前も頑張れよ。」
「────……おぅ。」
 やる気なさげな里中を、客室に向けて送ってやった。











 ピンポンパンポーン♪
『あー……三年○組、三年○組、至急クラスまで戻りなさい。
 繰り返します、三年○組、三年○組、至急、クラスの方まで戻りなさい。』
 愛想の欠片もない校内呼び出し放送が流れて、ふと左腕の時計を見たら、時間はすでに12時過ぎを差していた。
「ぅおっ! やっべーっ! 里中の担当時間が終わってるじゃないか!」
 10時前に里中によって教室から追い出され、しぶしぶ外に出たものの、当番が終わった里中と写真を撮るために、12時前には教室に戻るつもりだった。
 なのに、人込みにもまれながら、あっちへ行ったりこっちへ行ったりしている間に、2時間も経過していたようだった。
「今から戻っても、間に合うかな〜!?」
「っていうかそれ以前に、今の校内放送はなんだよ?」
「副委員長が気を利かせてくれて、『里中写真会』の集合かけたのかもな!?」
「あははは、まっさか〜!」
 慌てて人込みを押しのけながら、昇降口までたどり着くと、数人のクラスメイトと鉢合わせした。
 どうやら彼らも、同じようにすっかり時間を忘れていたらしい、と、顔を見合わせて笑いあったのもつかの間。
 昇降口から階段に視線を移した一同は、「それ」を見た瞬間に──絶句、した。
「………………な……っ、なんだよ、これーっ!!!!???」
 それは、人の行列だった。
 その仰天した声を聞いて、
「すみませーん、一列に並んでくださーいっ!」
 そう叫びながら階段を下りてきた少女──ウェイトレス姿のクラスメイトが、昇降口で口を開けて固まっている面々を認めると、
「あっ! みんな、おっそーいっ!! ちょっと、大変なことになってるんだから、早くっ!!」
 ブンブンと片手を回して、早く早く、と飛び跳ねる。
 そんな彼女に、呼ばれた面々は首を傾げるばかりだ。
「大変なことって……、何が?」
 目の前の行列を見ていれば、何が起きているのか、だいたい分かるような気がしたが、あえて口に出して聞いてみる。
 その青年の隣から、ヒョイ、と顔を出した娘が、
「って、それよりも、咲、あんた、12時からの当番じゃなかったの? こんなところで何やってるのよ〜?」
 疑問を口に出した瞬間──「咲」と呼ばれた娘は、フッ、と暗い笑みを口元に貼り付けた。
「……見たら分かるわよ……。」
「いや、分からないから聞いてるんだってば。」
 賑やかな声が響き渡る階段を上がって行くと、咲は無言で踊り場から二階を見上げ──、指先で教室の方面を示すと、
「そうじゃなくって、教室の中、見たら分かる。
 はっきり言って、あの中に入ってけない。」
 私だって、ちゃんと真面目に当番を交代しようと上に言ったのだと、彼女はうんざりした顔で横を見て、ざわめいている行列に溜息を零す。
「──……は? 中に入っていけないって……?」
 だから、クラスの呼び出しがかかったのかと、首を傾げるクラスメイトに、咲はコックリと頷いた後、神妙な顔つきで──、
「なんか、一種の、サイン会とか握手会会場みたいになってる──……。」
「──────…………は、はぁぁぁぁっ!!!!?」
──賑やかな声が廊下に響き渡る原因を、そう例えた。
「とにかく、なんか──ジュースを買ったら里中君たちと握手できる……〜、みたいな、セット販売みたいなノリの噂が広がってるみたいで……。」
「────……なに、いったい、どうなってるの、うちの喫茶店……?」
 説明ではまるで想像もつかないと、顔を顰めるクラスメイトに、そうよねぇ? と咲も頷いた後、上を指差して。
「ま、とりあえず、行って見て。そうしたら、混乱具合と、踏み込みたくない気持ちが分かるから。」
 ──二階から落ちてくる、喧騒と悲鳴がひしめいている階段を、駆け上がっていくのであった。
 そうして、その、階段を駆け上がった先では。
「────………………っ。」
 思わず、尻込みするような状況が広がっていた。
 まるで、サイン会か写真会、果てはお触り会のような状態である。
 朝、開店前に教室を追い出されてから、一体何があったのだと思わざるを得ない。
「一列に並んでくださーいっ!」
 入り口当たりでピョンピョン跳ねて叫んでいるのは、咲と一緒に12時から当番をするはずだった女子だ。
 その隣では、教卓でチケット販売するのを諦めたらしい副委員長が、チケットとペンを片手に立っていた。
 教室のドアは外されて全開にされていて、里中のポスターが貼られたドアは、隣の教室に立てかけられている。
 教室の右半分を「入場口」、左半分を「出入り口」にした状態で──、
「──……な、なんでこんな……?」
 愕然と顎を突き出すクラスメイトの顔を、咲は疲れたような顔でコクリと頷くと、
「──ね、だから言ったでしょ? …………見たら、わかるって。」
 ただそれだけを呟き、再び列整理のために動き始めるのであった。














 職員室か体育教官室からかっぱらってきたらしいポールで、順延通路が出来ている。
 賑やかな声が響き渡る廊下に、メガホンとホイッスルを持った青年達の声が良く響き渡っている。
「はいはい、そこ、ちゃんと一列に並んでくださいね〜!」
「メニュー表は今、回ってますから、入り口で注文してくださーい!」
「最後尾はココじゃないんです、あっちに続いてますから、あっちにお願いしますね! そこ、横から入らないで! 1度列を出たら、最後尾に並びなおしてくださーい!」
 噂が噂を呼び、さらに噂に尾ひれ羽ひれが付いているらしく、並んだ「お客さん」の口にする話がまた怖い。
「な、ここで練習試合するって、マジ?」
「しません。」
 っていうか、出来るか!
「え、私はここで、里中君が記者会見するって聞いたんだけどっ!」
「……しません。」
 頼むから、勘弁してください……。
 そんな問答を、もういくつくらい繰り返したか。
 教室から続く行列は、階段を降り、さらに一階の廊下を折れてそのまま進んで行っている。
 昇降口から入ってくる人も途絶えないので、一瞬本気で、昇降口の鍵を掛けてやろうかと思ったくらいだ。
 うんざりした思いで──あと一体、どれくらいしたらこの行列から開放されるんだろうと、メガホンを手にした青年が思った瞬間だった。
「どけどけどけどけーーー!!!!!!」
 ほぼ毎日のように聞きなれた声が、外から聞こえてきた。
 ハッ、と、昇降口の表に向けたのは一人や二人じゃない。
 階段に連なるほとんどの人が、驚いたような顔で背後を振り返った。
「な……何?」
 どこかおびえたような声音を宿した女が、恐る恐る扉の方を覗き込む。
 かと思うや否や、ドォンッ! と耳に届かぬ轟音が響いて、「彼」が昇降口の中に突っ込んできた。
──明訓高校生にとっては、ひどく見慣れた姿……けれど、一般客のど肝を抜くには十分過ぎる男は、そのままギロリと目を左右に揺らした。
 一般入場が始まってからずっと着ている明訓ユニフォーム姿が、また良く目立っている。
「あっ、岩鬼だっ!」
 近くに居た客が嬉々と彼の名を叫ぶ。
 まさかこんなところで岩鬼を見ることが出来るとは思わなかったと、声を上ずらせて岩鬼を呼ぶ声が当たりから上がる間もなく、岩鬼は靴箱を一瞥したかと思うや否や、そのまま階段目掛けて突進してくる。
「って……ちょ……おい、岩鬼っ!!?」
 ただでさえでも巨体の岩鬼が、その図体を存分に使って駆けてきたら──廊下にひしめいている人々を跳ね飛ばすんじゃないかと、慌てて両手を体の前で振るが、何を興奮しているのか、血走っている岩鬼はそれを目に入れる様子もない。
 彼はそのまま、土足で廊下に上がると、
「さっさと、どきさらせっ!!!!」
 カッ! とばかりに吼える。
 そのあまりの迫力に、ビックリして肩を竦める客やクラスメイトの頭をわしづかみにし、そのまま飛び上がるような勢いで階段を駆け上っていった。
 巨体をガシガシと数歩で踊り場まで駆け上がると、そのままドンと強く床を叩きつけるように体を180度回転させる。
 そのあまりの勢いに、ドドドド、と階段が地響きを慣らしたような感覚があった。
 踊り場に並んでいた人たちは、驚いたように首を竦めて、ピタリと壁に体を張り付ける。
 そのおかげで悠々と駆け抜けることが出来る余裕が出来たため、岩鬼は踊り場から二階へと、たったの二歩で飛び越えた。
 そして、二階の階段先に立っていたクラスメイトの驚いた頭を使ってクルリと方向を転換すると、行列の先が消えて行っている教室目掛けて、廊下を揺らす勢いで駆け抜ける。
 その先──教卓が放り出されている教室のドアの前に立ったいた副委員長が、驚いたように目を見開いているのが見えた。
「どけや、ドブス!!!」
 教室の入り口近くには、ジュースケースの上に置かれたメニュー表だとか、ゴミ袋だとかが設置されていたが、そんなものは飛び込んでくる岩鬼の眼中に入っていない。
 岩鬼の猪突猛進よりも恐ろしいタックルを恐れて、入り口に居た人間は、バッと飛びのくようにして道を開く。
 ドアに向かって飛び込む手前で、ガタガタガタっ、と足に何かが当たり、副委員長が文句を零していたように聞えたが、頭に血が上っていた岩鬼の耳には、まったく入らなかった。
 岩鬼は、ドアが嵌められていないドアの枠を大きなグローブのような手で掴むと、思い切り良くニュウと教室の中に顔を覗かせ、
「里ーっ! やぁーまだっ!!」
 口に咥えたハッパが、怒りのあまりブルブルと震えている。
 メキメキと目を血走らせながらグルリと教室の中を見回すと、その視線に当たった数人がブルリと身を震わす。
 その近くの椅子に座っていた小学生くらいの男の子が、間近に見える大きな顔に目を見開きながら、
「あ〜! ハッパだぁっ!」
 小さく愛らしく、歓声を上げた。
 その声に、岩鬼は怒りで沸騰しそうな目で見回していた視線を戻し、にぃぃ、と子供向け(のつもり)の笑顔を向けてやる。
 窓が全開に開け放された教室の中──それでも人込みでムッとするそこは、どういうことなのか、全く「喫茶店」の様相を残していなかった。
 岩鬼が教室を出たときには、十数席分の机と椅子が並び、一応テーブルクロスも掛けられていた。4つの机を並べ合わせて、4人テーブルを6個分と、窓際に2人用テーブルを三個分作った形だった。
 ──けれど今は、まるで食堂のような並び方になっている。
 客が多すぎるために、急遽変えた並び方だなんて岩鬼には分かるはずもなく、彼は戸惑うように教室の中を見回した。
──と、そこへ、
「岩鬼? どうかしたのか?」
 ちょうど黒板近くで、小さな子供にせがまれて「岩鬼」とかかれた色紙の裏にサインをしていた山田が、不思議そうな顔で振り返る。
 学生服の上を脱いで、白いカッターシャツを二の腕まで捲り揚げていて、額には汗がたくさん浮いていた。
──厨房でコーヒーを作っていて、人が増えたから交代したはずなのに、一体なぜこのようなことになったのか……サインをしている山田にも全く分からない。
「おんどれらは何、さらしとんねんっ!」
 山田が手にしているサイン色紙が、午前中に自分が校門前で書いていた「色紙」だと気付いて、カァー! と顔に血を上らせる。
 更に岩鬼が大きく口を開こうとした瞬間、教室の後ろの方から、
「岩鬼っ!? なんだよ、お前もサボってないで手伝えよなっ!」
 ヒョイ、と里中が顔を見せた。
 キリリと切りあがった眦が、かすかな苛立ちを宿している。
 その里中の背後から、
「え、岩鬼〜!? なんだ、お前も来たのか?」
「──……ひぃづら。」
 微笑と殿馬まで姿を現したから、それを見た瞬間、ドッカン、と岩鬼の頭が爆発した。
「三太もとんまもおったんかいな!! 来たんやないやろっ! おんどれら、何やっとんねんっ!!」
「は? 何って、お前な……。」
 顔をゆがめて里中があきれたように言いかけた瞬間、ハッ、と山田が顎を上げて黒板の上を仰ぎ見る。
 白い盤面に記された黒い針は、30度の角度で開いていた。
 しかも、短い針は、真上から右部分を示している。
 それを認めた瞬間、ザアアッ、と顔から血の気が引く思いがした。
「おんどれらが来ぉへんから、試合が始まらんやろっ!!」
「試合……って…………。」
 里中と微笑、殿馬の三人が、揃って山田が見上げている時計を見上げる。
 時刻は、1時、20分。
「────…………あっ!!!!」
 揃いも揃って我に返るが、それで時間が戻るわけはない。
 まずい、と顔をゆがめるのと、教室の中の客が驚いた顔で彼らと時計を見回すのとがほぼ同時。
「まずいっ! ちょっと待ってろっ、今すぐ行くからっ!」
「ひぇ〜、時計なんて見てる暇、なかったからな〜!」
「づら。」
「急がないと、まずいなっ。」
 慌てて、全員手にしていた物を近くに居た者に託して、里中はクルリと身を翻して着替えを取りに行こうとするのだが、
「だから、そう言うとるやろっ!! ほんま、おのれらはわいがおらへんと、どうしようもないな!」
 待っていられるかと、岩鬼は強引に踏み込み、近くに来ていた里中の腕を掴んだ。
 ガッシリと、しっかり掴むと、
「ほれ、とっとと行くでっ! 鈍足ども、着いてこいやっ!」
 クルリと踵を返して、ダッ、と教室から飛び出す。
「って──ちょ、ちょっと待て、岩鬼っ! 俺、着替えて……っ!!」
 強引な力で引っ張られるのに、抵抗しようと里中は手を振り払いかけるが、岩鬼のバカ力にもとより適うはずもない。
「岩鬼っ、ちょっ……待てっ、こんな格好でいけるわけがな…………って、聞けよーっ!!!」
 土足のまま廊下を駆け抜ける岩鬼の右手には、ウェイトレス姿のままの里中の左手がしっかりと捕まれていた。
 走りながらジタバタと暴れることも出来ずに、岩鬼に半ば引きずられるようにして階段へと走っていく彼らの後から、同じく慌てたように微笑と殿馬、最後に山田が続く。
 山田だけは副委員長達の前を通る時に、
「ごめん、途中だけど、俺たち、抜けるから!」
 と、ペコリと頭を下げてくれた。
 それを言うなら、一時から練習試合があることを知っていたのに、バタバタしていて時間に気付かなかった自分たちにも要因はある。
 謝るのはコッチなのにと、あきれたように副委員長は額に手を当てて、階段に姿を消した明訓野球部五人を見送り、
「──……今度は、野球部試合場に出張でもしてみる?」
 ──里中があの格好で「拉致」されたとなると、客は野球場に移るに違いない。
 そう、商魂たくましく呟いてみた。
 現に、副委員長の視線の先では、行列に並んでいた数人が、呆然状態から我に返って、先に駆け抜けて行った面々を追うように、列から抜け出したのである。














 グラウンドから見上げることの出来る時計は、すでに1時半を示していた。
 一塁側のベンチにも、三塁側のベンチにも、ベンチ入りメンバーはすでに入っていて、ダイヤモンドは両校の練習の後の整備まで済んでいる。もちろん、ベースはすべてキッチリと配置されている。
「……おっそいなぁ……。」
 いくらなんでも、30分は待たせすぎだと、ウンザリした顔で呟きあう面々に、見物客達もざわめきを止めることはない。
 試合開始は本来なら1時から。──ちょうどにプレイボールの合図が主審から放たれるのだ。
 にも関わらず、1時前になって現れたのは、岩鬼だけ。
 意気揚々とやってきた彼は、ムダにはつらつとしながら、練習に混じっていた小林や不知火にケンカめいた軽口を打って、スーパースターのパフォーマンスまで見せてくれた。──ちなみに、わざわざ小林や不知火に悪球を投げさせたということも付け足しておこう。
 その岩鬼によるパフォーマンスが終っても、本日の審判を遂げるほかの面々は現れなかった。
 見物客が多いから、グラウンドに着くのが遅くなっているのかと、10分ほど待ってみたが──真っ先に切れたのは岩鬼だった。
「何やっとるんじゃい!」
 と、ダッ、とばかりに見物客を掻き分けて飛んでいって少し。
 もう時計の長針は真下を指すというのに、一向に岩鬼は戻ってこない。
「……はー……本当に、岩鬼さんこそ、何やってるんだって感じだよな〜……。」
 このままでは体が冷えてしまうじゃないかと、渚が腕をグルグルさせるのに、袋田がベンチに置いてあったミットを手にして、
「少し投げ込んでおくか、渚? ──見物人も暇そうだし。」
「──そーだなぁ。」
 先輩達に審判をしてもらっておいて、待たされたおかげで肩が冷えて、「初球ヒット喰らいました」では、しゃれにならない。
 ヤレヤレ──しょうがないなぁ、と、渚がベンチの上からグローブを取り上げた──その瞬間だった。
 ざわざわ──……っ。
 校舎側に続く三塁側から、あからさまに音が割れるかと思うようなざわめきと緊張が走った。
 耳を澄ませば、
「どけどけどけ、どかんかい! 遅刻したどもならんのを、わいが連れてきたでーっ!!!」
 良く響く岩鬼の声が、聞えてきた。
「岩鬼さんだ──。」
「山田さんたちを連れてきたみたいだね。」
 ようやくかと、ベンチに座っていた面々も立ち上がる。
「ようやくか……遅かったなぁ。」
「待たせすぎだよ、まったく。」
 コリコリと、頬を掻きながら──それでも相手が岩鬼なら、文句の一つも言えやしないのだろうなと、諦めたような溜息をつきながら、顔をあげた先。
 無理矢理絡み付いてくる見物人の手を振り払うようにして岩鬼がグラウンドに飛び込んできた──その、横手に。
 岩鬼に手を引かれた差と中が、姿を現した──瞬間、
「きぃ……きゃぁぁぁぁぁぁ−っ!!!!!!!」
 グラウンドにたかる娘達の悲鳴が、甲高くグラウンド中に響き渡った。
 そのすざまじい声に、慌てて耳をふさぐ。
 それでもつきることのない悲鳴に、岩鬼は自分へ与えられる喜びの悲鳴だと、手を振って悠々とホームベースを横切ってくる。
 その岩鬼に無理矢理手首をつかまれた形で、里中が続き、さらに背後から息を切らした微笑、殿馬、山田が続いた。
「すまんな、鈍足なやぁーまだのせいで、えらい時間がかかったわい。」
 グラウンドを飛び出た時の血相を変えた顔とは全く違う、飄々とした態度で、右手に掴んだ里中の左手を、グイ、と引っ張る。
「た──……っ、あのな、岩鬼! 俺はローラーじゃないんだから、無理矢理引っ張るなよ!」
「サトは、ほんま貧弱やの。こんなんで腕がすっぽ抜けるかいな。」
「抜けたらたまんないだろ!」
 噛み付くように怒鳴る里中を、正面から見ることになった面々は、仰天したように飛び上がった。
「ささささ…………っさ、里中さんーっ!!!!?」
 その悲鳴に近い声に、はた、と里中は我に返り──教室に居るときには、忙しさのあまり気にならなくなっていた自分の姿を、今更ながらに自覚した。
 驚いたように、ぽかんと口を大きく開いて自分を見ている後輩たちの、見開かれた目と、さらに興味津々に注がれる、外野からの視線。
 それを的確に感じ取った瞬間、ボッ、と音が出るほど、里中は顔を真っ赤に染めた。
 そして、キリリと唇を噛み締めると、
「──……っ、す……好きでこんな格好してるんじゃねぇよ! くそっ、笑いたきゃ笑えよっ!!」
 そのまま、ダッ、とばかりに合宿所の方角へ走り出そうとするが、その後ろ襟首をグイと岩鬼が掴みあげた。
「サト、おんどりゃ、どこへ行く気や?」
「着替えて来るんだよっ! こんな格好で審判なんかやれるか!」
 離せ! と怒鳴る里中の声にかぶさるように、
「えええええーっ!!!!!!」
 一斉に周囲からブーイングが飛んだ。
「──……って、おいっ。」
 そのブーイングは紛れもなく、外野からも飛んでいたのだが、里中が睨みつけた先は、明訓の後輩の所だった。
 彼らは──実際、彼らもブーイングを飛ばしていたのだが──、慌てて顔の前で両手を振って、否定する。
「いえっ、あの──でも、もう時間が時間だし、着替えてる時間はないですから、里中さんっ!!」
「そうそう! もう30分も遅れてるんですよ! 向こうのチームの電車の時間やバスの時間がありますし!」
 怒った里中の恐ろしさは、明訓の野球部員なら誰もが知っている。
 あの岩鬼に平気で殴りかかるわ、蹴るわ、噛み付くわで、始末に負えないのである。
「だからって……っ!」
 こんな格好で、審判が出来るかと、里中が顔をゆがめるのに、
「まぁまぁ、落ち着けよ、智。」
 ニヤニヤと笑いを貼り付けて、里中の肩を背後からポンポンと叩いて、微笑はグルリと辺りを見回した──バックネット裏では、頻繁にフラッシュが焚かれている……こりゃ、明日の地方紙の一面は決定だろ。「明訓高校、ウェイトレス審判!?」なんてね。
「落ち着けって……っ!」
「しょうがないだろ、遅刻したのは俺たちなんだし。
 俺も殿馬も山田も、この格好でやるから、お前もソレでやれよ。」
 この格好、と言いながら、自分が着ている学生ズボンにカッターシャツを示す。
 山田も殿馬も、カッターシャツの第二ボタンまで外して、袖口を二の腕まで捲くっている。
 その格好と──里中が見下ろしたウェイトレス服。
「────…………それって、俺だけ損してないか…………?」
「いや、そんなことはない。──な、山田っ!?」
 誰が見ても、里中が一人損をしていると思える。──見ているほうからしてみたら、「得」かもしれないが。
 無理矢理真面目な顔を作って、な、と振り返る微笑が──今ほど自分の顔が、常に笑って見えていることを重宝したことはない──、山田に同意を求める。
 同意を求められたほうは、溜まったものじゃない。
 ジットリと視線を向けてくる里中と、な、と目配せしてくる微笑、さらにグラウンド中から期待に満ちた視線をシンシンと注がれて──……、
「…………里中……、時間がないから、今だけ、我慢しよう………………。」
 似合ってないわけではないから、まぁ、いいか、と。
 ちょっぴり楽観的なことを思って、そう口にした。
 そうこうあって、ようやく試合が開始できそうな雰囲気になり、岩鬼は明訓ユニフォーム姿、微笑、殿馬、山田は学生服、里中に至ってはウェイトレス姿で審判をすることになった。
 ホームベースの前に集まる五人の中──一際目立つ里中の白と黒のウェイトレス姿に、「男」だと分かっていても視線が行ってしまう。
「……っていうか、笑えないよな……真剣に。」
「あぁ……っていうか……一番カワイイのって、どうだよ……?」
「あぁぁぁ……落ち着け、俺! 里中さんなんて、風呂で裸も何度も見てるじゃないか〜っ!!」
 見慣れているはずの面々まで、見慣れない──決してこういう場合でもない限り見ること適わない里中の姿に、混乱してしまう。
 ベンチの隅でぽかぽかと頭を殴っているチームメイトに、誰もが生ぬるい笑みを浮かべた
 そんな彼らの視線に気付かず──見られることにはもともと慣れているので、里中は全く視線には関心を払わず、
「じゃ、どこをするかはじゃんけんで決めるか?」
 審判の役割分担を始めていた。
 記録係はそれぞれのマネージャーがすることになっているし、得点板も同じだ。
「アホぬかせ、主審言うたら、わいやろ、わい。」
 えへん、と胸を張る岩鬼に、殿馬が片目を眇めて、
「ばっかよぅ、てめぇはソコで、『放送席』が待ってるづんづら。」
 クイ、と顎でしゃくるようにして、いつの間にか作られている「一塁側特製放送席を示す。
「なっ、なんやと!?」
 そんなものがあることすら初耳だった岩鬼が目をひん剥くと、さらに殿馬は暇そうに首を傾けながら、
「おめえはよ、ナレーションの天才づらぜよ、あそこで素人さんにも分かるよーにづら、説明してやるといいづんづらぜ。」
「と……とんま! おんどれ、よー分かっとるやないけ!!」
 バシバシっ!
 力強く殿馬の背を叩くと、げほっ、と咳を零す彼を背後に、クルリと岩鬼は背を向けた。
 ポケットに手の平の指先を突っ込みながら、岩鬼は軽い調子で歩き始めると、肩越しに彼らを振り返り、
「審判さんは任せたわいな〜♪」
 不器用にバッチンとウィンクして、スキップで放送席の方へと歩いていく。
 なぜソコまで彼が放送席を喜ぶのかと、あきれた調子で一同が視線をやった先──殿馬が、ちょっとばかり「細工」をしたのに気付いた。
 つまり、放送席のすぐ後ろに、夏子さんが居たのである。
「夏子はーんっ、わいと一緒に、愛の放送席やで〜♪」
 見ると、葉っぱに百合の花が咲いていた。
「うるさいのが、これで外でキャンキャン吼えるだけになったづらぜ。」
「……岩鬼には、夏子くんだなー。」
 飄々とした台詞を吐く殿馬と、関心したような微笑たちの言葉に、山田は苦い色を刻みながら、
「それじゃ、主審は俺がやるか……。」
 コリコリと頬を掻いた刹那、里中が、不意にキッと目をあげる。
「俺がやる……っ。」
「え、でも里中、お前、そんな格好で……。」
 驚いたように目を見開く山田に向かって、里中はクルリと背を向けると、
「こんな格好だから、いいんだよ……っ。」
 指先でクイとエプロンの紐を引っ張って、山田にエプロンを取ってくれるように頼むと、間をおかず、シュルリとエプロンが捲れた。
 それをクルクルと巻きつけて、彼はちょうどこちらへ向かってやってきた渚に向かって、
「おら、渚、エプロン片付けといてくれ。」
 ポン、とエプロンの塊を放り投げる。
 それを寸分たがわず手に取った渚は、驚いたように目を見開く。
「えーっ、エプロン、外しちゃうんですかっ!?」
「邪魔だろ。」
 非難の声も無視して、里中は審判用のプロテクターを山田に手伝ってもらってつけた後、ボールを手に取ると、
「それじゃ、始めるか。」
 左右を見回して──、疲れたように小さく笑った。





「プレイボール!」





 高らかに声が響いた瞬間、誰もがその主審の方を見た。
 しかし、ほぼ正面の位置から見えるその顔は、マスクの下に隠されている。
「あぁ……せっかくの里中さんの花のかんばせがマスクの下に隠れちゃったな……。」
 思わず一塁に立っていた上下が零すと、一塁審の微笑がクツクツと笑って答える。
「アハハハハ、コッチからだと、マスクしか見えないからな〜。」
 アレが横手からだと、プロテクターの下から、黒いストッキングに包まれた脚のラインが見えて、それはそれで奇妙な雰囲気を味わえるというか、なんというか。
「それにしても、本当にビックリしたんすよ……突然、アレ、なんすから……。」
 だから、里中さんは「来るな」って言ったのかと、ガックリ肩を落とす上下に、さらに微笑は笑い声をあげたあと、マウンド上の渚がゆっくりと振りかぶるのを認めて、
「お、始まるぞ。ほら、気合いれてけ。」
 審判の癖に、ニンマリと笑って贔屓するようなことを零して、微笑は球筋を見るために少し身をかがめた里中に視線を移し──ん、と、顎に手を当てて首をかしげる。
 里中の、その更に背後。バックネット裏には、記者や熱烈なファンである少年少女も集まっていた。その中に横浜学院の谷津の姿もある。
──なんだ、声をかけてくれたらよかったのにと、そう思いながら、あの位置からだと、マスクやプロテクターに邪魔されずに、里中の後姿が見ることが出来るだろう。
 だから、ちょっと浮き足立っている──のだと、思うが。
「…………って、なんか、バックネット裏、変じゃないか?」
「はい?」
 ストライク! と、低めの球筋を見極めた里中の声が飛んだ瞬間、おぉっ、とバクネット裏が湧き返る。
 更にざわざわとざわめきが起きて、なにやら里中の背後を指差したり、興奮した面持ちだったり──谷津に至っては、いつものように「谷津メモ」を手にして、顔を真っ赤にしている。
 里中も、背後で上がる声に不思議そうな顔をして、首を傾げて後ろを向くが、特に何も見つけられなかったのか、体を正面に戻した。
 一体、なぜ彼らはあんなに盛り上がってるのだろうと、微笑が首を傾げた途端、
「た、タイム! タイム!!」
 ピョンッ、と飛び上がるように三塁審をしていた山田が飛び上がり、ブンブンと両手を振った。
 第二投の準備をしていた渚は、なんですか、と気分を害したように顔をゆがめるが、山田はそれにかまわず、慌てたようにバックホームに向けて走る。
「ん? どうかしたのか、山田?」
 一体何事だと、腰に手を当てて問いかけてくる里中に駆けつけた山田は、
「里中っ、やっぱりお前が主審はまずい!」
 開口一番、そんなことを叫んで里中の肩を掴む。
「──は!?」
 何を言うのだと、目を瞬く里中の背後──バックネット裏で、数人が慌てたように視線を背けたのが、「まずい」証拠である。
 山田はそんな彼らを里中の頭越しにジロリと睨むと、唇を捻じ曲げて里中を見下ろし、
「……ちょっと耳かせ。」
「おう?」
 一体何なのだと──周りの面々が、何をしているのかと興味津々に視線を向ける中、山田は里中の耳元にこっそりと、
「…………そのスカート、短すぎるんじゃないか?」
「……はぁっ!?」
 突然、何を言うのかと、里中は目を見開いて、山田の顔を見返す。
 かすかに頬を赤らめた山田の言う言葉分からないというように、里中はスカートの横手を撫で上げて……、
「何を言うかと思った………………──っ! ……!!!」
 山田が「何」を言いたいのか、気付いた。
 そして、慌てたように、ばっ、と、スカートの後ろを押さえる。
 その行動に、バックネット裏から、はぁぁぁ、と長く大きい溜息を零す。
 と同時、里中はカッと目元を赤らめて、後ろを振り返って睨みつける。
 このスカートを履かせられたときに、副委員長が言っていた台詞が、里中の頭の中にアリアリと蘇った。
──このタイトスカート、スリットが深く入っているから、屈んで見えても、知らないわよ?
 振り返ったバックネット裏では、だらしなく鼻の下を伸ばしていた男どもが、慌てたようにあらぬ方向に視線を飛ばしていた。
 吾朗などは、慌てたように手元のメモ用紙に視線を落とし、せわしない動作で何か書き付けるフリをしている。
 里中は、そんな彼らに唇を強く引き絞ると、
「──……くそっ、ちょっと待ってろっ! ジャージに着替えてくるっ!!」
 クルリとその場で踵を返した。
 けれどしかし、
「えーっ!!!!」
 反論の声は、すぐ間近から飛んだ。
 座りこんだままのキャッチャーもしかり、なぜかバッターボックスに立っていた相手チームの打者にしかり、更にマウンド上のピッチャーにしかり、である。
「何が、えーっ、だ、何がっ!」
 キッ、と睨みつける里中に、びくんと袋田と渚が肩を揺らす。
 このままでは、里中が本当に着替えてしまうと──そうすれば、このグラウンドの外に居る人間を、ほとんど敵に回してしまうではないかと、心密かに明訓ナインが慌てたかどうかは分からない。
 分からない、が──助けは、あっさりと更に間近から降ってきた。
「あのー、すみません、時間がないので、もうそのままでいいから、早く続けてくださいませんか。」
 ──すでに試合開始を40分も待たされていた相手チームの先頭打者である。
 4時にはコッチを出たいんですよね、と、すまなそうに零す相手に、里中は──たとえどんな理由であれ、遅刻してきたのだと言う負い目があるために、ぐっ、と言葉に詰まった。
「──……〜っ!」
 そんな里中に、袋田がマスクをあげて里中を見上げながら、
「ほらっ、里中さん、お祭り騒ぎですしっ、別に、塁審でいいじゃないですか!」
 ここぞとばかりに進めてくれる。
 なぜ彼が嬉々とした顔をしているかと言うと、一重に、一塁審と三塁審なら、自分の場所からも良く見えるということだろう──と、思われる。
 憮然と顔をゆがめる里中の肩を、ポンポン、と山田が叩く。
「里中……、諦めろ。」
 苦笑がにじみ出た山田の台詞に、里中は一瞬、情けない顔を漏らしたが、すぐに表情を改めて、
「────……くそっ。お前等、後で覚えてろよ……っ。」
 吐き捨てるように呟いて、バッ、とマスクを脱ぎ捨てた。
 そしてそのまま、そのマスクを山田に手渡して、続いてプロテクターも脱ぎ捨てる。
 それと同時、事を見守っていた面々から、ワッ! と歓声が上がった。
 その事実に、里中の拳に強い力が入った。
 チッ、と舌打すると、なれた様子で山田が体にマスクやプロテクターをつけていくのを背後に、里中はズカズカと三塁目掛けて歩き出す。
 そこへすかさず、いつのまにかベンチの方へ走っていた渚が、
「里中さん! 塁審するなら、ぜひこのエプロンを……っ!!」
 先ほど里中が丸めたエプロンを抱えて、やってきた。
 それを認めた群集が、さらにワッ、と盛り上がった歓声をあげるのに、里中の米神がヒクヒクと揺れる。
「殺すぞっ、渚っ!!」
 ギンッ、と睨みつけられて、思わず二の足を踏んだ渚だったが──、おずおずと、里中を見上げながら、
「でも──あの、頭にヘッドドレスつけてるんですから、つけたほうがいいですよ、エプロン。」
 クイ、と、自分の帽子を指差して教えてくれる。
「──……っ。」
 そう言えば、そんなものも頭に巻いていたのだったと、里中が思い出したと同時、
「そうですよ、里中さん! それに、スカートも汚れるとまずいじゃないですか! エプロンは、必要です!!」
 なぜか、三塁に入っていた高代までもが、真剣きわまりない声で、力説してくれた。
「────………………。」
 思わず里中は遠い目になったが、キラキラ輝く目でエプロンを差し出してくる渚と、絶対です、と拳を握って力説してくる高代。
 そうして。
「キャーっ! 里中さぁぁーんっ!」
「エプロンーっ!!」
 なんかおかしな悲鳴をあげてる外野陣。
 なんだか落ち着かない様子で、ベンチで尻をモジモジさせつつ、頬を赤らめている三塁ベンチの人間の「4時までに帰りたい」と訴えているような気のする──正しくは、目の前に里中が立っていた落ち着かないだけみたいだが──視線にさらされて。
「………………………………チッ、エプロン貸せ。」
 しぶしぶ、里中は渚からエプロンを受け取った。
 小さな砂つむじが吹くグラウンドで、なんでこんな格好で塁審なんてしなくてはいけないのだと、里中はブツブツ零しながらエプロンを手早くつけた。
 後ろでうまく結べなかったので、そのままクルリと紐を前に回して、リボン結びにしておいた。
 そうして、両足を開いて腕を組んで前を向くと、山田がちょうどマスクを降ろしているところだった。
 山田から気遣うような視線を感じて、里中は彼に向かってヒラリと手を振って、コクリと頷く。
──と、同時、
「智〜、ファイッオー!」
「気長にやるづらぜ。」
「サトー! チマチマやっとるんやないで!」
 そこかしこから、気のいい仲間達の声が飛んできた。
 思わず──特に最後の岩鬼の言葉に、
「っるっさい! 誰のせいだと思ってるんだっ!!」
 そう、怒鳴り返した瞬間──、


「それじゃ、改めて、プレイ!」


 朗らかに、主審「山田」の声が、飛んだ。


 こうして、明訓高校文化祭最終日、「大盛り上がり」野球部練習試合は、幕を開けたので、ある。
 公式記録には、明訓高校の大勝としかかかれることはなかったが、翌日、里中が新聞誌を踏みつけているシーンを見れば、一体何があったのか……推してはかるべし、で、ある。















+++ BACK +++




お疲れ様でした〜! 長らくのお付き合い、まことにありがとうございます!

本音を言うと、ここまで長くならなかったら、実は岩鬼が、チケットを土井垣さんだとか山岡さんだとかに送っていて、OB勢ぞろい〜──なーんて話も書くつもりだったのですが、タイムオーバーです。
最後はニコヤカ(?)に、ヤケ切れな笑顔を浮かべた里中を中心に、右手に相手高校、左手に明訓高校野球部で、記者に写真を撮ってもらっておしまい、なんていうオチです(笑)。

最後の最後で、撮られ放題な被写体になるのでした……って言うオチで(笑)。

あ、ちなみに最後のオチでわかると思いますが、わざわざミニのタイトスカート&黒のストッキングにしたのは、このためです──……っ! この瞬間のためだけに、ココまで書いたんですからっ!!(笑・人様とちょっぴり萌え場所が違う私でございました)
(ミニのフレアスカートで、客からスカート捲られて、思いっきり机と椅子を蹴飛ばすってシーンがあっても良かったかもネ!・笑)



──オマケで書くつもりだった話の冒頭部分──




「クソ……っ、結局ポスターはどこに行ったかわかんないし……っ!」
「アハハハ、まぁいいじゃないか、後夜祭のオークションで売られてなかった分だけ。」
「そりゃまぁそうだけどさ……あーあ……明日の地域新聞が憂鬱だぜ。」
「……──そう、だな……地域欄には乗りそうだしな……。」
 またドラフト前に騒がしくなりそうだな……。
「だろ? はぁ……。」
ガサガサ。
「……ところで里中、さっきから気になってたんだが、お前、その袋は何なんだ?」
「ん、ああ、これか? ウェイトレス服だ。」
「──は? って、お前が着てた?」
「そう。」
「なんで持って帰ってきてるんだ?」
「別に持って帰ってきたわけじゃなくって──クリーニングに出すんだよ。」
「……お前がか?」
「そう。──副委員長達が出してくれるって言ってたけど、なんか不遜な相談してたからさ、俺が出すって持って来た。」
「──不遜な相談か……まぁ、うちのクラスの女子も、お前の親衛隊みたいなもんだからな……。」
「普段はそんなことないくせになぁ……。」
「──(普段から、里中の写真とか撮ってるのには、気づいてないのか…………)。」
「あー……でも今日は疲れた! なんか着慣れない服を着ると、肩が凝るな?」
「どれ? ──おっ、本当だな、肩が凝ってる。」
「だろ? ……あ、そこ気持ちいい……。」
「ん、ここか?」
「そう、そこ。後、脚も、結構ムクんだ。」
「立ちっ放しだしな……。後でマッサージしてやるよ。」
「うん。」



──何を書くつもりだったかバレバレの、強引な会話に、書くのを挫折してみた(笑)。