い も う と 4












 ざわざわ──と、小さなざわめきが起きる中、不知火は白新高校の野球部グラウンドに突如現れた「一見美少女に見える明訓高校女子生徒」を、ジロリと睨みつける。
 その表情にあからさまな不審と呆れが見て取れたのか、視線の先で「ヤツ」は、下唇を噛み締めている。
 これが普通にいつもの髪型のまま、見慣れた明訓の女子の冬服を着て現れていたら、「お前、女だったのか?」と疑う程度には違和感がない。
 が、ご丁寧にもカツラを被っている現状から察するに──偵察するのに、わざわざ女装してきたのか……? と、思わず胡乱気な目で彼を睨みつけてしまった不知火の反応は、正しいだろう。
 夏の予選前や秋季大会の前ならとにかく、春の選抜を控えたこの状況で、白新高校に偵察に来るとは、一体明訓は何を考えているんだ。
 不知火がそう考えても、致し方ない現状ではあった。
「しかも、そんな格好で……。」
 苦い……小バカにしたような色を乗せて、直視するのもバカバカしいという目で、上から下まで眺める。
 その視線に、ムカッ、とした顔になった里中であったが、自分と不知火をジロジロと無遠慮に見つめる少女達の視線と、キャッチボールをする手を止めて、固唾を呑んで見守る少年達に気づき、小さく舌打ちを零す。
 そして、カバンを塀から取りあげると、不知火に向かって、クイ、と顎で後ろをしゃくり、
「話がある。」
 着いて来いと態度で示した。
 そんな里中に、不知火は剣呑な目で彼を睨みつける。
「お前にか? 俺が、わざわざ?」
 心の奥底からイヤそうな態度の不知火に、ギュッ、と拳を握り締めて、里中は押し殺したような声で低く吐き捨てる。
「恥ずかしいんだから、早くしろ……っ。」
 こんな格好で視線に晒されているのもムズ痒くなるほど恥ずかしいのも元より、さらに今は、不知火が里中を認知したことから、より一層周囲の視線は熱を帯びて集中してきている。
 この中の誰かが、自分が「里中」だと気づいたらどうしてくれるのだと──イヤ、もしかしたらもう気づいている人間が1人は居るかもしれない。
 そう思うと、こうして立っているのも恥ずかしくて、居てもたってもいられなくなる。
 目元を羞恥に赤らめ、不知火の返事を待つことなく、里中は1人、きびすを返して先程来た道を戻っていく。
「……何を考えているんだ、明訓は──。」
 ボソリ、と零して不知火は、スタスタとグラウンドから遠ざかり、近くの木の辺りまで歩いていく里中の背を見送る。
 秋季大会の対東海戦の時に故障から復活した里中が、どうして春の選抜目指して頑張っているはずのこの時期に、あんな格好で来るんだか……呆れるのばかりが先に立つ不知火が、まるで着いて来る気配がないのに気づき、里中がギッ、と火照った頬出振り返り、上目遣いに睨みつける。
「──不知火……っ。」
 苛立ちを多分に含んだ声に、不知火は小さく鼻を鳴らした後──興味津々に自分達を見つめている同級生達をジロリと睨みつけると、
「真面目に練習してないと、来年には後輩に追い抜かれるぜ。」
 痛烈な皮肉口調で零し、身軽な動作でヒョイと塀を飛び越えた。
 そのまま、里中が待つ場所まで歩いていく不知火に、様々な思惑が篭った視線が投げかけられるが、それらを背中でシャットアウトして、彼は自分を睨みあげている里中の手前までことさらゆっくりと歩いていく。
 揶揄するように、憮然とした表情で立つ里中の姿を上から下まで見てやると、カッ、と目に見えて分かるほど、里中が真っ赤になった。
「──……なんだよっ、なんか文句あるのか……っ。」
 呻くように問いかける彼に、不知火は彼の手前で止まり、呆れたように小柄な体を見下ろす。
「文句というか、呆れているだけだ。
 ──お前ら、この時期に何やってるんだ? 忘年会の宴会芸の練習か?」
 小バカにしている態度を隠そうともせずに、それくらいにしか使えそうにないな、と嘯く不知火に、余計なお世話だと顔を歪めながら、里中は彼を射殺しそうなほど強い目で睨み上げながら、
「……戯言はいい……っ。とにかく俺は、さっさと用件を済ませて帰りたいんだ。」
 喧嘩を買うつもりはないんだと──というか、掴みかかって殴りかかってもいいが、さすがにこんな格好で目立ちたくないという理性の方が勝っていた。
 里中は、グイ、と不知火の前にカバンを突きつけると、ン、と顎でしゃくった。
 その意味が分からず、眉をひそめて威圧的に睨み下ろす不知火を睨み返して、
「ちょっと持ってくれ。」
 自分の方にカバンの蓋が来るように、不知火に抱えさせると、パチン、とホックを外した。
「お前ら一体、何をやってるんだ──。」
 怪訝げに見下ろす不知火を、うんざりした顔で里中はチラリと一瞥した後、カバンの中に視線を移した。
「こんな調子で春の甲子園に勝てるのかとかそういう説教は聞かないぞ。
 とにかく、俺は、このくだらない罰ゲームをさっさと終わらせて帰りたいんだ……っ。」
 カバンの中には、金色の縁取りがされているサイン色紙が3枚入っている。
 それを指先で繰り、白紙の一枚を見つけると、里中はソレを抜き取った。
「罰ゲーム、な…………。
 お前ら、もう少し緊張感を持ったらどうだ? 気楽に夏の甲子園のように行くと思っていたら、大した脳みそだぜ。」
 なんでこんなことに付き合わなくてはいけないのかと、練習時間が惜しいとばかりに言い募る不知火の台詞に、里中はキッと眦を釣り上げて、取り出したサイン色紙とペンごと、ドンッ、と不知火の胸元めがけて突きつけた。
 同じ年ながら、上にも横にも構造が違うのかと思うほどに成長している不知火は、残念ながらビクリともしなかったが。
 何事もなかったかのように不知火はその色紙を受け取り、どこからどう見ても色紙にしか見えないそれと、マジックペンとを見下ろし──不可解な表情で里中を見下ろした。
「なんだ、これは?」
「サイン色紙とペン。」
 即答で返し、里中は不知火の手からカバンを貰い受けると、色紙を示して、
「お前のサインを書いてくれ。」
 里中はイヤそうに顔を歪めて言った。
 その顔を見下ろして、不知火も同じくイヤそうな顔でサイン色紙を見下ろすと、
「……なぜだ?」
「だから、罰ゲームだって言ってるだろ……っ。おれが引いた罰ゲームが、こんな格好して、お前らからサインを貰って来いってヤツだったんだよ……っ!
 いいから、さっさと書け! お前が書いてくれさえしたら、おれはもう帰れるんだから!」
 苛立ちを隠そうともせずに、カバンを持ったまま腕を組み、偉そうに大股を開いて自分を睨み上げてくる里中に、不知火は色紙を指先で弾くと、ハッ、と短く笑い捨て、
「趣味でそんな格好をしてると思ったぜ? 里中ちゃん?」
 嫌味ったらしく、顔を近づけて囁く。
 カッ、と、一瞬で頬を真っ赤に染めて、里中は怒りに狩られるまま、不知火の襟首めがけて手を突き出す。
 そのまま襟首を掴み、殴ろうと、ガッ、と手を突き出すが──その視界に不知火が持つ白いサイン色紙が移った瞬間、びくん、と、その手を止めた。
 そして、あからさまに顔を歪めて……里中は、ギリ、と奥歯を噛み締めた。
 悔しそうに、思い切り良く不知火を睨みあげたまま、
「いいから、とっとと書け……っ! それまでは、お前を殴るのも待っててやる……っ。」
 ギュ、と、握り締めたコブシを軽く震わせながら、押し殺した声で里中は低く吐き捨てる。
 そんな里中を見下ろし、へー、と軽く笑った不知火は、改めて手元のサイン色紙を見下ろした後……、ふと、書きかけた手を止めた。
「不知火……っ。」
 イライラと地面を足先でたたきながら、里中が名を呼ぶが、不知火は手を止めたまま里中を見下ろすと、
「お前、今──『おまえら』って言ったな? まさか、そんな馬鹿みたいな格好でよそにも行ったのか?」
 ゲシッ!
 気づいたら里中は、スニーカーで思いっきり不知火の足を蹴りつけていた。
「──……くっ。」
 思いもよらず飛んで来た里中の攻撃を、まともに足で受け止めた不知火は、小さくうめき声をもらし、二、三歩後ろに下がる。
 そのまま、しびれるような痛みを残す足に視線を飛ばし、忌々しげに舌打ちする不知火へ、
「スパイクじゃなかったことをありがたがれ。」
 偉そうな態度で腕を組んだ里中が、ジロリと彼を睨み上げた。
 そんな彼を厳しい眼差しでにらみ付けた不知火は、痛みを訴える足を無理やり踏ん張ると、スパイクの底で地面を掻く。
「──で、ほかに誰からサインをもらったって? さぞかし笑われたことだろうな。」
 そんなものまでつけて、みっともない──と言わんばかりの態度で、不知火が自分の頭をツンツンと指先で指し示すのに、ふん、と里中は鼻を鳴らす。
「そりゃあいにくさまだったな。雲竜も土門も、俺だってことはぜんぜん気づいてなかったぜ。
 今頃、『土井垣の妹は、オカマみたいだな』って言ってるぜ。」
 斜めでにらみつけるように皮肉げに笑った後──里中は、自分で言った最後の台詞にげんなりしたように顔をゆがめる。
 ──その「オカマみたいな」女生徒の格好をしたのは、他ならない今の自分なのである。この現実は、忘れたくても忘れられない。
「……あほか、お前らは。」
 春の選抜前の貴重な時間を、何に無駄にすり減らしているのだと、不知火は小さく吐息づく。
 いったい何をして「罰ゲーム」などすることになったのかは分からないが、猛特訓ではないだろう。──というより、猛特訓の果ての罰ゲームが「女装して敵校のサインをもらう」なのだとしたら、それはそれで報われない気がしてならない。
「うるさい。お前に言われるまでもないぜ。
 いいから、さっさと書けよ──あ、ちゃんと名前は土井垣さんへ、って入れろよな。」
 余分な注文までつけてくる里中に、うんざりした顔で不知火はサイン色紙にペンを走らせる。
 面倒そうに──非常に気合の入っていない手つきで、さらさら、と書く不知火に、よし、と里中はうなずいた。
「──その、土井垣さんへって言うのはなんだ? 罰ゲームというのは、『土井垣の妹の真似をする』ことか……?」
 ほらよ、と投げるように渡してくるサインをキャッチして、里中はクルリと表を向けた。
 白い色紙の中には、不知火の気合の入っていない字が躍っていた。
 申し訳程度に上の方に、「土井垣さんへ」と書いてある──一応律儀に里中の要望を聞き届けてくれたらしい。
「いや、それはただの俺の土井垣さんへの嫌がらせだけどな。」
 軽く口にして、里中は手にしていたカバンを不知火に突きつける。
 持て、と無言で促してくる里中の態度に、不知火はピクリと眉が揺れた。
 しかし、ここで里中と問題を起こすわけにも行かないのは先ほどから分かっているので──何せここは白新のグラウンドの前で、里中は明訓の女子の制服などを身に着けている──、ここはあからさまな舌打ちをしながらも、素直に里中のカバンを持ってやった。
 すると彼は、すかさずカバンの蓋を開けて、そこに不知火のサインを放り込むと、丁寧にカバンのホックをしなおした。
 そしてカバンを不知火から受け取ると、里中はそれをキュ、と抱きしめた。
 ようやく三つ揃ったと、嬉しそうにニッコリはにかむように微笑む。
「………………………………──────────。」
 その笑顔を見下ろし──不知火は小さく視線をずらすと、うんざりしたような仕草で頭の後ろに手を当てる。
 そんな不知火の仕草と態度には気づかず、里中は安堵の吐息をこぼした。
「これでようやく帰れるぜ……。」
 最後の最後で、不知火にばれたのは面倒だったけどな──と、そう胸をなでおろす里中に、
「お前は、馬鹿か?」
 不知火は、心底呆れたと言わんばかりの態度で、腕を組んだ。
「……んっだとっ!?」
 ギリッ、と目つきも険しくにらみ上げてくる里中を、顎を軽く上げるようにして見下ろし、
「最後の最後で俺にばれただと? カツラをかぶっただけの変装で、ばれないはずがないだろ?
 どうせ雲竜も土門も、お前のあからさまな変さ加減に、見なかったフリ──気づかなかったフリをしていたに決まってるだろうが。」
 馬鹿にした調子をまったく隠すことなく、そう断言した。
「………………っ。」
 それに、とっさに反論しようと口を開きかけた里中はけれど、すぐに思い当たる節に気づいて、口をつぐんだ。
──そうだ、知っている。
 彼らが自分を見たときの、「ばれた」としか思いようのない、あからさまな仕草を。
 里中は無言で視線を落とす。
 そして、フ、と──唇に笑みを刻んだ。
「………………………………………………不知火。」
 呼びかけた声は、われながらゾッとするほど低かった。
「──……なんだ。」
 答える不知火の声が嫌に硬いことに気づきながら、ひんやりとした笑みを浮かべ──里中は、ゆっくりと顔を上げた。
 それと同時──ヒュッ。
 しなやかな音を立てて、里中は持ったカバンごと、彼の襟元をつかみ上げた。
「……っ。」
 とっさに足を後退させようとした不知火の間合いに深く踏み込み、そのままひねりあげるようにしてグイ、と彼の喉を圧迫させる。
 背伸びをして彼の襟元をつかんでいる分だけ、力が抜けているはずだが──そこは投手の手首と指先の力。首元を締め上げるには十二分の力を持っていた。
 突然の里中の行動に驚いたように目を見開く不知火に顔を近づけ、間近で里中は冷ややかで綺麗に整った笑顔いっぱいに、不穏な色をたっぷりと乗せて。
「お前……今すぐこの記憶を消去しとけ……っ!」
 カバンを持っていないほうの右手を、ギュ、と──力強く握り締めた。
──来る……っ。
 肩を強張らせ、とっさに不知火が里中に足払いをかけようとした刹那。

「ちょ、ちょっと待てっ!」

 声が、背後から聞こえた。
 聞いたような気のする声だと、そう里中と不知火が一瞬虚を衝かれた隙に、ガシッ、と──里中の首に野太い腕が回された。
「──……っ!?」
 その腕に強く後ろに引かれて、つま先立っていた里中は、ぽすん、と後ろに立った男にぶつかった。
「そこまでだ、里中っ。」
 あわてたような声が上から降ってきて、里中はキョトンと目を見張り、上を見上げる。
 そこには、あせった様な顔の男が、眉をへの字に曲げていた。
「や……まだぁっ!?」
 思わず素っ頓狂な声をあげて、里中が彼を見上げている隙に、山田はそのまま里中の体を手元に引いて、不知火から引き剥がすことに成功する。
 ぼすん、と鈍い音を立てて落ちたカバンは、いつの間にか隣に立っていた微笑が拾い上げる。
 突然現れたようにしか見えない2人の姿に、不知火もギョッとしたように目を見開き、微笑と山田を見比べる。
「な、なんで山田と三太郎がここに居るんだよっ!?」
「──……い、いや……すまん。」
「すまんって……さては、ついてきてたのか、もしかしてっ!?」
 すまなそうに手をはがして軽く頭を下げる山田に、里中はクルリと身を翻して彼を正面から睨みあげる。
 そんな彼らを横に、里中の努力の結晶が入っているカバンを、大事そうに抱えた微笑が、後頭部に手を当てながら、呆然としている不知火に頭を軽く下げた。
「わるいなー、不知火。ちょっと、来年の部活紹介用のビデオ用に、『びっくり番組』を作っててさー。アハハハハハ。」
 思いっきり嘘八百を口にして、微笑は迷惑かけたなー、と明るく笑う。
「……で、それで里中を女装させたのか?」
「──まー、それはくじで負けたというか、なんというか。」
 そりゃ、どういう部活紹介用のビデオだと、不知火が胡乱げに呟き、視線を前に転じる。
 じゃじゃ馬をドウドウとなだめている山田に、噛み付くように怒鳴っている里中が、憤懣覚めやらぬ表情でなんだかんだと文句をつけているのが見えた。
「でも、似合ってるからいいっしょ? そこらの女の子より可愛いし。結構部員集まると思うんだよなー。」
 ──実を言うと、ビデオカメラなんて回してないけど、本物っぽく思えるように、微笑は、「でしょ?」と、不知火に同意を求める。
「……──。」
 何も語らず唇を真一文字に引き締める不知火の無言が、肯定の印であろう。
「ま、とにかくサインはサンキュー。」
 カバンを軽く振る微笑に、不知火は疲れたような表情を向けて、
「……二度と来るな。」
 げんなりと、そう呟いた──と同時、
「とにかくっ! 俺は一発は不知火を殴っておかないと気がすまないっ!
 俺だって、別に好きでこんな格好してるわけじゃないのに、こいつ、思いっきりバカにしたんだぞっ!?」
 里中が、声を荒げて不知火を指差す。
 それに何か答えようとした山田の先をかき消すように、
「できれば、今すぐこいつの記憶を消すために、バットか何かで思いっきりぶん殴りたい気分なんだぞっ!?」
 里中は力説した。
「……お前な…………。」
 何を言うんだと、不知火がヒクリと引きつるのに──このままだと、不知火VS里中の喧嘩が勃発してしまう、と、微笑が2人の中間に無理に割って入り、
「とにかく! 不知火、協力サンキューな! ほら、智も──用件は果たしたんだから、もう帰ろうぜ。それも脱ぎたいだろっ!?」
 ぽんぽん、と里中の肩を軽くたたいた。
「でも、ここで不知火の首を絞めておかないと、俺が困るんだよっ!」
 山田を見ていた顔を、クルリと反転させて里中は微笑向けて怒鳴りつける。
 しゃらん、と揺れた髪を邪魔そうに背中に払いながら、今にも飛び出して行きそうな里中を、あわてて山田が再び引き寄せる。
 しっかりと里中を羽交い絞めにする山田を認めて、さりげに微笑は不知火と里中の視線がうまく交わらないように位置を定めつつ、
「いや──不知火、お前だって、そうそう口なんて滑らしたりなんかしないだろ? なっ!?」
 どこか必死に、不知火に向かって叫んだ。
 そして叫ばれたほうはというと、呆れたように微笑を見返すだけだ。
「こんなくだらない騒ぎを、わざわざ言いふらして何になるんだ?」
 ──確かに、得になりそうなことは何もないだろう。
 ハッ、と、鼻でわらったて小バカにする不知火に、カッ、と里中が眉を吊り上げたのに気づき、あわてて山田は羽交い絞めにしていた里中を、ガバッ、と抱えあげた。
「里中、とにかく、明訓へ帰るぞっ。」
「……って、降ろせっ、山田っ!」
 ヒョイ、と荷物のように肩に抱えあげられた里中が、驚いたように目を見張ったが、すぐに降ろせとバタバタと山田の背中を叩くが、普段から岩鬼のセーブ役をしている山田のバカ力に里中が叶うわけもなかった。
 山田は必死の抵抗をする里中を抱えあげたまま、ぺこり、と不知火に一礼する。
「ごめん、不知火君、また後で改めてサインのお礼に来るから。」
「じゃ、邪魔したな。」
 山田が危険爆弾物寸前の里中を抱えあげたのを機に、ヒラリ、と微笑も身を翻して帰宅姿勢に入る。
「おーろーせーっ! 山田っ! とにかく一発は殴らせろっ!」
 凶悪な一言を吐く里中を軽々と抱えあげたまま、山田は先に走り出した微笑の後を追うように、クルリと回転した。
「ほら、里中、帰るぞ!」
 ドタドタドタ……っ。
 重々しい足音を立てて離れていく山田と、その山田に担がれたまま何か叫んでいる里中と、彼らを先導するように走る微笑と──その三人の背中が、遠のいて行くのと、不知火は半ば呆然と見つめた。
 そして、片手をのろのろと挙げたあと、首筋に手を当てると、はぁ、と嘆息した。
 何を考えているのかは知らないが。
「明訓は、お気楽さでも神奈川県NO.1だな……。」
 どこの世界に、春の選抜向けて練習に取り組んでいるはずの高校のピッチャーが、女装したあげく、敵校のピッチャー巡りなんてすると言うのだろう。
 まったく、と、呆れても呆れても呆れきれない明訓に、不知火はもう一度ため息をこぼすと、里中によって連れ出されたばかりのグラウンドを振り返った。
 そのまま歩き出そうとして──不知火は、振り返ったと同時に動きを止めた。
 思わず目を見開いて凝視した先では、塀際に集まっていた少女たちと、さらにキャッチボールしていた少年たちに加え、外野に居た練習中の部員の──ほとんどすべての人間が、こちらを見ていた。
 それぞれが固唾を呑んで、ジ、と見つめている光景に、軽く眉を寄せた瞬間、彼らはあからさまにバッ、と視線をずらした。
 そのまま、わざとらしいくらいわざとらしい、大きな声で、
「さぁっ、来いっ!」
「きゃーっ、がんばってー、みんなーっ!」
「さぁ、きばって打っていこーっ!!」
 それぞれに叫びあった。
 思わず不知火はそんな彼らをジットリと睨みつけたが、特に何かを言うこともなく、ゆっくりと歩き出した。
──まぁ、何にしろ、明訓高校の面子のくだらない騒ぎを、なかったことにしてくれるなら、それに越したことはない。
「……まったく、面倒なヤツラだな。」
 小さく零して、不知火はゆっくりと自校のグラウンドに入るために、歩き出した。























「あーっ、さっぱりした〜♪」
 帰ってくるなり早々、何も言わず風呂場に直行した里中は、いつものラフなシャツとズボン姿になり、食堂に顔をのぞかせた。
 食堂は、すでに夕食の支度が整っていて、部員たちが席を埋めており、その中心で北がノートを広げてルールブックの書き取りをしていた。
 それを面白そうに覗き込みながら、「この字が違う」と指摘して笑っている同級生たちは、なんだかんだと北の罰ゲームの邪魔をしている。
 そこへ顔を覗かせた里中を見て、おー、と山岡たちが手を振った。
「サインは確認したぜー。」
 そういう山岡たちの前に、三枚きっちり揃っておかれている。
 彼らは先ほどまでそれを見ながら、不知火はサインをしなれているが、イヤに字に気合が入っていない、と品評した。
 雲竜は字が汚い上に、サインしなれていない。
 さらに土門は、字はとても綺麗で達筆だが、なんだか感情がこもっていない──だとかどうとか。
 だがしかし、なぜ全部のサインのあて先が「土井垣」なんだろうと……首をひねらなかったわけでもなかった。
「なんだ、もう着替えちまったのか。もう少し楽しませてくれてもいいじゃーん。」
 アハハハ、と明るく笑う先輩たちをジロリと睨みつけて、里中は首からかけていたタオルでポタリと髪から零れ落ちる水滴を拭い取る。
 なんだかんだ言いながらも移動時間も込みで、日が暮れるまでカツラをかぶっていることになったため、髪はベッタリと重くなっているような感じがしていた。
 それも、洗い流したことによってサッパリしたが。
「冗談じゃないですよ。そんなに楽しみたいなら、自分たちで着たらいいじゃないですか。」
 言いながら、里中は空いている椅子に腰をかける。
「あ、それいいな。今度は忘年会か新年会に全員で着てみるか。」
「って、冗談じゃないぜ〜!」
「そりゃそーだけどなー。」
 ことさら明るい彼らに、どうしてヤツらはあんなに明るいんだと、里中が引きつった顔で傍に居た殿馬に尋ねると、ヒョイ、と肩をすくめて答えてくれた。
「成績が良かったヤツ上位3名にはよー、特典があるらしいづらぜ。」
「へー、特典。」
 ひとつ頷いて、何? と軽く聞き返すが、その答えは無言の殿馬の首すくめであった。
 つまり、まだ何も土井垣は話していない、ということであろう。
「休日とか、おかず一品増とか、そういうのかな?」
 運動量の多い思春期の青少年にとって、一番重要な「ご褒美」である。
 おそらくそのあたりだろうと、検討をつけた里中の意見には殿馬の同意の意を示す。
「ま、総合でドンジリだった俺には関係のないことだけどな。」
「無事に罰ゲームが終わって良かったづらぜ?」
「だな。──二度とごめんだ、ああいうのは。」
 ひとつ頷いて、里中はキュ、と顔をしかめる。
 ひとつありがたいことがあるとすれば、おそらく不知火や雲竜、土門たちとまともに顔をあわせるのは、来年の夏のミニ大会くらいだろうと言うことだ。彼らがそれまでに忘れていてくれる……ことはないかもしれないが、それでも半年もたてば、話題にされても笑って許せるくらいには……なると思う。
 まぁ、会った瞬間口にされたら、一発ボールくらいは投げてしまうかもしれないが、それはご愛嬌というヤツで、許される範囲だろう(里中的には)。
「似合ってたづらぜ。」
「ざけるな。」
 飄々と言ってのける殿馬にぶっきらぼうに言い切って、里中は頬杖をつくと、北を囲んでいる二年生たちを、ぼんやりと見つめた。
 そこへ、

 ドタドタドタッ……。

「ん?」
 荒々しい足音がしたかと思うや否や、バンッ、と激しい音を立てて、食堂の扉が開く。
 何事かと、振り返った面々が目にしたのは、肩を弾ませ、息を荒くさせた土井垣だった。
「里中っ! お前、東海高校と横浜学院で何をしてきたんだっ!!」
 整った顔を険しくゆがめた土井垣の、全身から湯気が立つようなただならない様子に、周囲の視線が里中に集まる。
 ほかほかと……こちらは全身から風呂上りの湯気を立たせた里中は、ゆっくりと首をかしげる。
「何って、サインを貰いに行って来ただけですよ。」
 練習以上に疲れた、と──げんなりした顔になる里中は、今日あった出来事を思いかえす気はまったくなかった。
 土門や吾朗の反応や、雲竜との会話、特に不知火との話なんて、思い返したくもない。
 土井垣は、その里中の台詞に、ほほーぅ、とひとつ頷くと、ぴくぴくと米神を揺らしながら、里中の前にカツカツと歩み寄ると、引きつった笑みを口元に浮かべて、バンッ、と机をたたきつけた。
「お前がちょうど横浜学院と東海高校に女子の制服を着て行っていた時間帯に、おれの妹が同じ高校に出没していたのはどういうわけだっ!」
 一同が見上げた土井垣の額には、青筋が浮いていた。
 思わず山岡たちは無言で自分たちの手元にあるサイン色紙を見下ろした。
 白い上質の紙に金色の縁取り、中には三校の有名人のサインと、「土井垣さんへ」。
「謎は解けたっ!」
 ガタンッ、と椅子から立ち上がり、仲根がビシリと色紙を示して叫んだ。
「ってゆーか、この色紙見たら分かるだろ。」
 すかさず隣に座っていた石毛が、手を伸ばして色紙をかざして示す。
 ちょうど手にしたのは、雲竜のフルネームが楷書体で書かれたサイン色紙であった。
 上の方に、彼の独特の文字で「土井垣さんへ」と書かれている。
 グゥルリと首をめぐらせて、その文字を認めた瞬間……ヒクリ、と、土井垣の引きつりが一割くらい増した。
「さーとーなーかー……っ。」
 ギコギコギコ……と、機械音がしそうな勢いで首をめぐらせてくる土井垣に、なんですか? と首をかしげた里中を睨み下ろし、
「お前──……何を勝手に俺の妹だなんて名乗ってきてるんだ……っ!」
「名乗ってなんかないですよ、別に。」
 ただ、まだ里中だとばれてないなら、そうカンチガイしてもおかしくないように、「将兄さん」と呼んでやっただけで。
 もちろん、その部分は口に出さずに、里中は堂々と言ってのける。
 土井垣は、再びドンッと強くテーブルを叩きつけると、もう片手で自分が入ってきたばかりの食堂の入り口を指し示し、
「ならなぜ、グラウンドに横浜学院と東海の生徒が、おれの妹を出せと言ってくるんだっ!」
 噛み付くように、里中に向かって怒鳴りつけた。
 ビリ、と空気が震えるほどの怒声に、叫ばれた方ではなく、同じテーブルについていた殿馬の方が軽く首をすくめた。
 土井垣のつりあがった眦を見上げた里中は、いぶかしげに顔をしかめた。
「生徒が……なんで土井垣さんの妹なんかを探してるんですか?」
「だからっ、お前が俺の妹などと名乗って、何かしてきたんじゃないのか……っ?」
「……ハ? ──白新はとにかく、東海と横学では何もしてないですよ。」
 何せ、あの2人は不知火と違って、「大人」な対応をしてくれたから、サクサクとサインが集まったのだ。
 それに、今日は休日だったから、白新のように記者やファンが溜まっていたわけではない、東海高校と横浜学院では、野球部の部員以外とは会わなかったはずだし。
「白新はとにかくと言うのは気になるが、ならなぜ、俺の妹……あぁっ、つまりお前だろ? お前に会いたいと行ってきてるんだっ。」
 ──どうやら、土井垣の妹だと信じている彼らは、とりあえず兄であるところの土井垣のところにコンタクトを取ってきたらしい。
 それが里中のことだと言うのは、まず間違いがないだろう。
 そう断言する土井垣に、疑う者は誰一人としていなかった。
 それどころか、殿馬はだらしなくテーブルの上に上半身を預けつつ、
「里中よー、おめぇ、どっかでナンパされて、喧嘩売ってきたんじゃねぇづらか?」
 休日に一人で歩いていたら、確かにナンパされてもおかしくない美形度を誇っていた。
 そして、「ねぇ、そこの彼女。」なんて呼びかけられたら、里中は問答無用で回し蹴りくらいはしそうだ。──このあいだの秋季大会以降、里中は元気が有り余っているようだから、余計に喧嘩を売りまくってきそうである。
「は? オカマ臭いって言われた覚えもないぞ。」
 里中は何を言っているのだと、そう首を傾げる。
 そんな、すごく「自覚」のないらしい里中に、どうしてあの時に「鏡」を見せておかなかったんだろうな、と、こっそりと一同は視線を交し合った。
「とにかく、今、表に来ているアレはなんなのか覚えはないのか、里中?」
 イライラと、テーブルを指先でカツカツ叩きながら、里中を覗き込む土井垣には、さぁ? と里中は肩をすくめることで答える。
「それに、俺がサインにそう書いてくださいって頼んだのを知っているのは、雲竜と土門と吾朗だけのはずだし……。」
 いったい、どういうことだと──困惑を覚えるのは、土井垣ばかりではなかった。
「里中の後を追っていった山田と微笑に聞いたほうが早いんじゃないですか、土井垣さん?」
 ガタン、と席を立った山岡の言葉に、そうか、と土井垣が頷く。
「2人には今、群がってるヤツらの始末を任せてるんだが──お前ら、2人と変わってきてくれるか?」
「あ、はい。」
 ちょうど席を立ったことだしと、山岡は石毛を伴って土井垣の横をすり抜けると、食堂を出て行く。
 そんな彼らを見送りながら、誰にも喧嘩は売ってないんだけどなぁ、と、里中が首を傾げるが、彼の場合は、「自覚無しに喧嘩を売っていること」があるから始末に終えない。
 ──と、同時、
「土井垣さーん。山田たち、ちょうどヤツらを追い返して帰ってきたところですよー。」
 合宿所の入り口から、山岡たちの声が飛んだ。
 その声を聞いて、里中たちも席を立ち、土井垣とともに廊下に出た。
 もちろん、「土井垣の妹=里中」を尋ねてきたという他校の生徒たちに、興味があったからである。
 合宿所の入り口では、山田と微笑みが靴を脱いでいるところだった。
 どこか疲れたような笑みを浮かべ、汗を掻いたままだった。
 その2人に、山岡と石毛がねぎらいの言葉をかけている。
「山田、微笑、結局、何だったんだ?」
 イヤそうな顔で問いかける土井垣と里中に、2人は無言で視線を合わせた後──、苦笑を刻み込む。
「山田?」
 少し不安そうに……自分は何もしていないと思うが、実は知らないうちに不況を買っていたのだろうかと、里中が山田を見上げる。
 そんな彼に、ますます苦笑を刻みながら、山田と微笑は廊下に上がりこむと、土井垣を前に、事態のあらましを告げた。
「つまり──、学校に来た『土井垣さんの妹』を見て、紹介してほしいって……押しかけてきてたみたいです。」
「なんか、勝手にお互いに牽制しあってるんすよ……、で、喧嘩とかはじめちゃったから、先生を呼んでくるぞって脅して帰ってもらいました……とりあえず。」
 張本人が目の前に居るので、山田は確定的な表現はしなかった。
 しかし、それで十分すぎるくらいに意味は通じているだろう。
 一方で微笑は、多分、明日からもしばらくは……と、暗をこめた視線で土井垣を見上げる。
「………………なんでたかが罰ゲームで、こんなことになるんだ…………。」
 思わずめまいを覚えて、土井垣はどっぷりと疲れたようにため息を零した。
 そんな彼の隣で、里中は意味が分からないと言いたげに眉を寄せる。
「え? なんだよ、俺に用があるって……やっぱり、どこかで俺、ガンでもつけてたのか?」
 キョトン、とした──けれど少しの不安を宿した目で山田を見上げた里中に、誰もが一斉に心の手で突っ込んだ。
────理解してないのはお前だけだっ!
「ん……まぁ、とにかく。」
 ごほん、とわざとらしく咳き込みながら、山田は里中の肩に手を置くと、
「里中、どちらにしろ、土井垣さんの妹なんて存在しないんだから、後のことは土井垣監督に任せておけば大丈夫だ。お前はなにも気にすることはない。
 ですよね、監督?」
 すがすがしい笑顔で、土井垣に断言した。
「………………………………………………………………。」
 思わず目を見開いて山田を見下ろす土井垣に気づかないまま、
「そっか……うん、わかった。」
 里中はニッコリ笑って、山田に大きく頷いた。
 その廊下に居た一同の、「……山田、卑怯だな……。」という、土井垣への同情たっぷりの声にも、まったく……気づかないままに。













 翌日──。
 白新高校では、とある噂で持ちきりになっていた。
 その噂のために、塀際の見学者がいつもの倍近くに膨れ上がっていた。
 もちろん、彼らの目的は、「明訓高校の山田太郎と、一人の少女を奪い合いしている不知火守」を見るためである。
「白昼堂々と、修羅場してたのよー、昨日っ!」
「えー、見たかったなぁ〜!」
 なぜかミーハーしている少女たちに付け加え、
「すごかったんだって。不知火に抱きつこうとした女がさ、突然山田に担ぎ上げられて、そのまま連れ去られてったんだよっ!」
「え、マジっ!? その場合、どっちが略奪愛っ!?」
「つぅか、山田と不知火を天秤にかけるって、その女もすげぇよなー。」
 グラウンドでは、不知火が来るまでの間、こそこそと額をつき合わせてそんなことを会話する少年たちが……。
 さらには、
「白新のピッチャーと明訓の山田太郎の、恋の対決、か……なかなかいい見出しじゃねぇ?」
「くーっ、あの時、写真撮っておけばよかったな。」
「遠かったからな……。でも、結構美少女でしたよね。」
 そんなことを言う記者まで出てくる始末で。
──どうやら、しばらく「不知火」の周辺も、不本意ながら、にぎやかにならざるを得ないようであった。











 そして一方、明訓の「ことの張本人」たちはと言うと、騒ぎはすべて土井垣に押し付けることにして、まったくいつもと変わりない生活を送っていた。
「……あ、そういえば、聞くの忘れてた。」
 ふと思い出したように口火を切った里中に、何がだ? と、山田と微笑がかすかに動揺の色を残してたずねる。
 もし、昨日の集団のことを聞かれたらどうしよう……と思っていたのだが、里中の口から出たのは、まったく関係のない台詞であった。
「昨日、総合の上位3名に特典がつくって聞いたんだけど、結局それって、何だったんだ?」
 好奇心に目を輝かせて問いかける里中に、その「上位1位」であったところの山田が、少しばかり苦笑を見せて、
「……──サイン色紙…………。」
 ぼっそり、と、呟いた。
 と同時、同じく上位2位であった殿馬が、
「名前入りじゃなかったらよー、不知火が有名になった後に、売れたづらにな。」
 そう、自分が何を受け取ったのか分かりやすいことを口にしてくれて……。
 とどの、つまり。
「────俺が貰ってきた、サインか、もしかして…………?」
 もしかしなくても──そうなのであった。









 

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おつかれさまでした〜♪
ここまで付き合ってくださった皆様、なんてくだらない内容なんだと、あきれてしまったことでしょう。

ハイ、最後の土井垣さんが書きたかっただけのために、こんな話を書いてしまいました……。
でも、楽しかったからイイです〜。


そしてこっそり。
ヤマサト派として、書いてるうちにヤマサトになったむず痒いワンシーン。でもCP無しと謡った以上、泣く泣く省きました。ここからどうぞ〜。