い も う と 3













「第一関門突破だな。」
 電柱の影から、木の影から、曲がり角から、ポストの影から……行く先々でコソコソと体を隠しながら里中の後をつけつつ、横浜学院での一幕を見終えた山田と微笑は、とりあえずホッと胸を撫で下ろした。
 とはいえ、横浜学院の土門は、残る2人に比べたらずいぶんと「大人」である。
 たとえ里中が暴言を吐いたとしても、彼は笑って聞かなかったことにしてくれる可能性も高い。
 遠目から見た限りでは、里中は特にコレと言った特別な暴挙を働いたようには見えなかったし、谷津と土門も心外した様子はなかった。
 ということは、無事に終了したのだと見てもいいだろう。
「このまま雲竜君と不知火君も、快くサインしてくれたらいいんだけど……。」
 うーん、と山田は首を捻り、十数メートル前を歩いていた里中が、東海高校の校門の前で足を止めるのを認めて、ドタドタと微笑と共に近くの電柱の影に隠れる。
 スッポリ隠れた微笑に対し、少しばかり面積がはみ出てしまっているのはご愛嬌である。
 「こんな格好は恥さらしだ」と文句をつけていた里中は、肝っ玉が据わっているのか、他人の高校にそんな格好で行くというのに、校門に入る前にキョロキョロとあたりを見回すというような、不審な動作はしない。
 だから、はみ出ていようと見つかることはなかった。
 校門を見て、東海高校だということを確認したら、里中は堂々と足を踏み入れた。そのまま、迷うことなくグラウンドめがけて足を勧めていく。
 慌てて微笑と山田も、その後を追って校門をくぐった。
















 他校の制服に身を包んだ、見覚えのない「美少女」が、バックネット裏の方角からやってきたのに気づいたのは、ブンブンと片手でバットを振り回す雲竜のバッティングピッチャーを努めていた雪村であった。
 県下の有名高校に比べて、東海高校の野球部ナインは、外見に自身がある者は1人としていない。そのため、バックネット裏や塀に、野球部見学に来る下級生の姿や記者の姿は見受けられても、他校の女子高生なんて姿を見受けられることは一度としてない。
 明訓高校や白新高校、東郷学園などに偵察に行ってきたマネージャーは、いつも大汗を掻いて、ファンの女性陣の中に埋もれるようにして状況をチェックするのは大変だった、と零す。
 その三校ほどではないにしても、横浜学院の土門にもファンがついていることから考えると、四校に比べて東海高校のグラウンド周辺の、なんと寂しいことか……。
 けれどその分だけ、記者陣は良く群がっているのだから、華はないけれど鼻は高いということで良しとしよう──というのが、東海高校野球部メンツの、ちょっと物悲しい「イイワケ」であった。
 そういうと、大抵の友人達は、「明訓や白新、東郷の美形ピッチャーに張ろうって言うのが、そもそもの間違いなんだよ」と辛らつな意見をくれる。
 それはさておき、その非常に珍しい「他校の美少女」の出現に、思わず雪村は、ピッチャープレートを踏んだまま、固まってしまった。
 マジマジとその少女が、こちらに向けてまっすぐに歩いてくるのを見つめる。
 そんな雪村の視線が、自分を通り過ぎて後ろに注がれているのに気づき、雲竜は顔を顰めた。
「雪村、どげんしたと。」
 野太い声で呼びかけるが、雪村はなぜか白い頬を紅潮させて、ぱくぱく、と口を開け閉めしている。
 その彼の目と口が、後ろを見ろ、と言っているような気がして、雲竜はグルリと背後を振り返った。
 雲竜のためにわざわざ、バックネットを高く強靭な金網に直したと評判のそこには、すらりとした背の高めの少女が1人、立っていた。
 思わずハッと目を引く雰囲気を持つ、美少女である。
 東海高校の制服とは違う──けれど見覚えのある他校の制服に身を包んだその少女に、雲竜は驚いたように軽く目を見張った。
 かすかな動揺が走ったように見える雲竜に、少女は整った顔を歪めると、無言で唇を引き結び、カッ、と頬に朱色を走らせた。
 それが、まるで雲竜と視線を合わせた瞬間に緊張が走ったように見えて、ますます雲竜は戸惑い……バックネットに体を向けたまま、硬直してしまう。
「雲竜さん──明訓の制服ですよ。」
 小走りにマウンドから降りてきた雪村が、雲竜の隣からすばやく囁く。
「マネージャーさんか何かですかね?」
 練習試合の申し込みとか、そういうのなのでしょうか?
 そう首を傾げて尋ねてくる雪村に、雲竜は喉でうなり声を上げる。
 そんな風に2人が相談している目の前で、少女はますます頬を赤らめて──キュ、と下唇を噛み締めたかと思うと、無言で手にしていたカバンの底を、ガシャンッ、と乱雑にバックネットにたたき付けた。
「なっ、なにぃっ?」
 可愛い顔して、何をするんじゃと、驚いたように目を見開く雲竜を一瞥することもなく、少女はカバンのホックをはずす。
 ──どうやら、カバンを開くために、バックネットを支え代わりに使ったようである。
 それは分かったが……だからって、何も、そんな乱暴な方法を使わなくてもいいんじゃないのかと、雪村は苦虫を噛み潰したような顔になる。
──さすが明訓高校野球部マネージャー(と彼らの中ではすでに確定している)、やることが明訓級である(謎)。
 そんなある意味豪快な少女は、カバンの中から白い正方形の板のようなものを取り出す。
 それを小脇に抱えると、カバンの蓋を締めて、まっすぐに視線を上げた。
 白い容貌の中、くっきりと映える印象的な黒い瞳が、強い光を宿して雲竜を睨みつける。
 その激しいほどのまっすぐな瞳は……どこかで見たような気がする。
 正面から視線を受け止めた雲竜は、思わずかち合った視線に、喉をのけぞらせた。
 他校のピッチャー陣とは異なり、女の子達に嬉しい意味で「キャァキャァ」騒がれたことのない雲竜と雪村は、綺麗な瞳を怖気づくこともなく注いでくる少女に、心臓が跳ね上がるのを覚えた。
 視線に晒されて、居心地悪そうに雲竜と雪村が身を縮めるのに、少女は苛立ちを宿したように米神を揺らし──カシャン、と、小さく音を立てて、金網に指を立てた。
「雲竜……っ!」
 苛立ちを宿した声は、少女にしては低めで……緊張して声が強張っているのだと分かる程度に震えていた。
「う、う、雲竜さん……ご、ご指名ですよ……っ!」
 思わず雪村は、片手にバットを持ったまま立ちつくす雲竜の袖をクイクイと引く。
 雲竜はそれに頷き、戸惑いがちに少女を見下ろした。
 彼女は、ジットリとねめあげるように目を据わらせ、少し拗ねたような色を含んだ表情で彼を見上げると、目の前の金網をイヤそうに一瞥した後──くい、と……あろうことか、自分の何周りも大きいだろう巨体の男を、顎でしゃくった。
 かすかに恥じらいが残っていると分かる白い頬は愛らしく映えたが、態度はふてぶてしく尊大であった。
 そのまま少女は、自分が顎でしゃくった方角──バックネットが切れる場所まで、スタスタと歩き出す。
「……な、なんタイ……っ!」
 いくら東海高校でも見かけないほど可愛かろうと──初対面の人間を呼び捨てしたあげく、顎でしゃくって「コッチへ来い」と示すなど……なんて不遜なのだろう!
 さすが明訓野球部のマネージャー! ──雪村は先程繰り返した台詞と同じ台詞を、心の中で激しい動揺とともに吐き捨てずには居られなかった。
 同じグラウンド内でそのシーンを目撃してしまった野球部員達は、恐れおののき、フルフルと肩を震わせてバッターボックスに立ち尽くす雲竜の背を見た。
 なんて命知らずな少女なのだろう……っ!
 さすがに雲竜も、女相手に暴力を振るったりはしないだろうが、その迫力で泣かしてしまうことはあるかもしれない。
 思わずハラハラと、その場からジッと息を呑んで見守る東海高校野球部たちの視線に晒される中……少女は、仏頂面でバックネットが切れる位置に立ち、グラウンド内を睨みつける。
 そして未だに雲竜がバッターボックスの中に立っているのと認めると、キッ、と眦を釣り上げて、
「何を、ちんたらしてるんだ! さっさと来い、雲竜!」
 そう、怒鳴りつけた。
 リン、と良く響く声に、ぅわわっ! と、さらに野球部員達は全身を縮めて顔を伏せる。なぜか視線を上げてしまっては、自分達までもが巻き添えを食ってしまうような気がしてならなかったのである。
 この台詞には、雲竜もカッとなり、怒りに頬をカァッと染めた。
 かと思うや否や、誰かがそれを止める間もなく、バットを持ったままどすどすと少女の下へと歩いていく。
 あわわ──と、雪村が手のひらを口に当てながら、怒りのオーラがかもし出されている雲竜の背を見送った。
 バットを持っているからこそ余計に、その後ろ姿が怖くて、どうしよう──と、周囲に視線を走らせる。──が、走らせた先では先で、この展開を見ないことにしようと言う者が半数と、興味津々に見守るものが半数で……どう見ても役に立ちそうな人間は居なかった。
「おはん、一体、何のつもりタイ!?」
 怒りがにじみ出た声でそう怒鳴りつける雲竜に、普通の娘ならビクリと首をすくめるだろう。それどころか、涙を滲ませた目で、ワッ、と泣き伏しても文句は言えない。
 しかし、その視線に晒された少女はと言うと、ジロリ、と雲竜を睨みあげて、無言で色紙とペンを差し出すと、
「何も言わず、サインをくれ。」
 端的に告げた。
「…………────ぬな?」
 見下ろした先には、上質の紙を金色の縁で囲まれた──確かに、サイン色紙である。
 その、自分にはまったく縁のない白い色紙をジッと見下ろして、雲竜は二の句を繋げず、目を丸く見張った。
 少女は、頬を赤く染めて、だから、と小さく早口に繰り返す。
「とにかく何でもいいから、サインしてくれって頼んでるんだよ……っ!
 こうしてるの、すっごく恥ずかしいんだから、早く書けよっ。」
 キュ、と唇を結んで、色紙を差し出す少女の、形よい指を見て、自分をすがるように見上げている(ように見える)少女の面差しを見下ろした。
 すっごく恥ずかしい、と言った言葉どおり、彼女は雲竜と間近で目がかち合うと、ボッ、と音がするかと思うくらいに顔を真っ赤に染めた。そしてそれを恥らうように、雲竜から視線を逸らし、そ、と俯く。
 雲竜の手に比べて、いく回りも小さい手が、かすかな震えを宿して色紙を差し出し続けている。
 雲竜は思わず破顔をして、がっはっはっは、と笑い飛ばした。
 グラウンド中に響き渡る笑い声に、このまま少女を怒鳴りつけるとばかり思っていた雪村たちが、ギョッとしたように雲竜を見る。
「笑うなっ!」
 とっさに少女が顔を上げて噛み付くように怒鳴るが、雲竜はそんな彼女の手からサイン色紙を奪い取ると、
「よか、よか。ココにおいどんの名前を書けばよかと?」
 快活に笑いながら、マジックペンのキャップを歯でキュポンと外すと、サラサラ……と色紙に流れるようにサインをし始める。
 少女は、そんな雲竜をジットリと睨み上げ──無言で頬にかかった髪を払いのけた。
 無意識に出た仕草に、少女は一瞬動きを止め……それから、酷くイヤそうな顔で指をそろそろと手元に戻した。
「それから、おはん。」
 サインを終えて、雲竜はそのペン先で彼女を指し示すと、
「おなごは、そんな言葉づかいはしちゃあかんタイ。」
 当たり前のようにそう、言った。
 目の前に突きつけられたペン先を見て、雲竜の顔を見上げて、
「…………………………────────ハ?」
 一拍遅れて、少女はいぶかしげに首を傾げる。
 それから、一瞬考え込むように顎に手を当てて沈黙した後──おそるおそる……まさかなぁ、と言った表情で、雲竜を見上げると、
「もしかして雲竜──お前、おれが誰だか分かってない?」
 いや、まさか、そんなことはないよな?
 と、なぜか切羽詰まった色を宿して問いかけたが、
「分かるも分からないも、初対面タイ。」
 きっぱりはっきり、雲竜は言い切った。
 とたん、ガクンッ、と少女は肩を落としてそのまま地面に突っ伏しそうになった。
 それを慌てて脇のバックネットの柱を掴み、体を支えながら──少女は、うろんげな眼差しで雲竜を見上げると、
「本気で言ってるのか、お前?」
「そんな言葉づかいはあかんと言うとるタイ。」
 がっはっはっは、と、なぜか気を悪くした様子もなく笑い飛ばす。
 少女は一瞬、何かを考え込むようにバックネットの柱に額を押し当てた。
「土門といい、吾朗といい、雲竜といい……お前ら絶対、目がいいなんてウソだろ……っ。」
 小さく口の中だけで毒づいた後、てっきりばれたものだと思った──と、舌打ちまでして、少女は顔を上げた。
「知らないなら知らないでいいんだけどな、別に。」
 というか、ココで「バカだろ、お前らー!」と、真実をぶちまける勇気は少女にはなかった。
 そこで代わりに、先程と同様、少女はサインを指で示すと、
「サインには、『土井垣さんへ』って入れてください。」
 しっかりソレだけは忘れずに、雲竜に催促した。
「どいがき?」
 正体がばれてないなら、ばらすつもりはないとばかりに、コロリと態度を改める少女に不信感も抱かず、口にされた名前を繰り返す雲竜。
 そんな彼に、少女はウソ臭い笑顔で、
「はい、土に井戸の井に、垣根の垣で、土井垣、です。」
 またもや先程と同じ要領で、空中に指を滑らせて説明しながら、訴えた。
「土井垣とは……明訓の土井垣と同じ名前タイ。」
「将兄さんです。」
 間髪いれずに、キッパリはっきり言い切って、少女はサインを書くよう促す。
 雲竜は戸惑うように少女と、色紙を見下ろし──、納得が行ったようにウン、と一つ頷いた。
 そして、サラサラサラ、と素早く「土井垣さんへ」と書き終えると、ペンと共に色紙を少女へと手渡した。
 その色紙を受け取り、彼女は一つ頷くと、
「ありがとうございました。」
 ぺこり、とお辞儀をした。
 登場早々の偉そうで不遜な態度はどこへやら、と思わせる殊勝な仕草であった。
「よか、よか。」
 両手でギュ、と色紙を抱きしめる少女に、鷹揚に雲竜は笑って頷いた。
 その彼にもう一度頭を下げると、少女は忙しなくクルリと背中を向けた。
 そのまま、パタパタパタ、と走り去っていく少女を見送って、雲竜は、なるほど、と腰に手を当てた小さく笑った。
 そんな雲竜に、いぶかしげな表情を隠しもせずに、雪村が駆け寄ってきた。
「雲竜さんっ! あの人、一体何だったんですか?」
 てっきり、一触即発……彼女が泣き出して逃げ出すかと思いきや、何を言ったのかは知らないが、雲竜は大笑いした挙句、今も上機嫌のように見えるし。
 そう不思議そうに見上げてくる雪村に、雲竜はガハハハ、と大笑いしながら、
「土井垣の妹タイ。おいどんのサインを貰いに来たと。」
 そう愉快そうに明るくいいながら、雲竜は持っていたバットで、とん、と自分の肩を叩いた。
「……土井垣の……いもうと? ──ですか??」
 イミが分からない、と目をぱちくりさせる雪村に、よか、よか、とまた繰り返すと、雲竜はどすどすとバッターボックスに戻っていく。
 雪村はそんな雲竜の大きな背中を見送り、もう姿が見えなくなった少女が駆けて言った方角を見やった。
「──なんでその、明訓の土井垣の妹が……雲竜さんにサインなんて貰いに来るんだ?」
 明訓は、一体何を考えてるんだろう?
 首をかしげて、うーん、とうなる彼の前から、
「雪村っ! 何やってると! さっさと投げるタイ! 時間がもったいなか!!」
 大きな声で、雲竜が怒鳴った。
 あわてて雪村はマウンド向けてクルリと旋回すると、
「はいっ!」
 ──そう、元気良く返事をした。















 東海高校の桜の木の陰から、こっそりとグラウンドの様子を伺っていた怪しい二人組みは、何事もなかったかのように東海高校の校門を潜り抜けていった小柄な姿に、ほぅ、と胸をなでおろした。
「一瞬、どうなるかと思ったけど──なんとかなったな。」
「あぁ……良かった。」
 お互いに良かった良かった、と繰り返して、二人は尾行相手に見つからないように校門から飛び出した。
 背後で、他の部活の部員たちが、不思議そうにその背中を見送り、
「なんで明訓の山田と微笑が、こんなところに居るんだ?」
 と、疑問を口にしていたが、そんなことは気にしていられない。
 とにかく、次なる目的地であり──そして三校の中でもっとも危険地域である、「白新高校」が待っているのである。
「不知火が、アレが里中だって気づかなかったらいいんだが……。」
「気づかなくても、智が不知火相手に、無事に『サインください』なんて言えるかどうか……。」
 東郷学園の小林から貰って来い、という命令がなかっただけでも、十二分にありがたがるべきなのだろうが──相手が不知火となると、そう楽観視もしていられない。
 土門なら軽く笑って済ませてくれよう。
 雲竜なら、大笑いするだろうが、それで終わるだろう。
 だが、不知火が相手なら──里中は、軽く鼻で笑われただけでも絶対に激昂する。
「──……あの智が、不知火に笑われて素直に引き下がってくるわけはないよな……。」
「不知火が気づかなかったら、里中もきっと素直にサインを貰って帰ってくるさ。」
 今までのように。
 そう楽天的に口にしてみるものの──山田は口にした直後に顔を歪めて、遠ざかっていく里中の背中を見つめた。
 山田を一番ライバル視している不知火は、フットワークが軽いためか、何かあるとちょくちょくと明訓に顔を出すこともあった。
 さすがに夏の大会前や、秋季大会前と言った、「試合で当たるだろう」ことが決まっている時期には顔を出さないが、関東大会が終わった後などは、「春の甲子園を打ち負かせて見ろ」とやってくることもあった。
 つまり、それだけ不知火は里中との付き合いもある、といえるだろう。
 何よりも彼は、雲竜と違って目敏いのだ。
 その不知火の目を、ごまかせるのだろうか?
 そう思えば、そうならないような気がムックリとこみ上げてきて──、
「いざとなれば、俺たちが出るぞ。」
「おう。」
 明訓高校の合宿所を出たときにも誓った言葉を、今再び呟いて──白新高校の方角へと歩いていく里中を、二人は再び尾行し始めるのであった。

















 「白新高等学校」。
 校門に掛けられたくすんだ校名をジロリと睨みつけて、里中は校門前で足を止めた。
 本日三度目の他校の出入り口は、中学の時に下見に来た時とは、まったく違った威圧感を持って里中の上に落ちてくるようだった。
 キュ、と唇を引き結んで校門を見つめて、里中は右手に持ったカバンを握りなおす。
 この中には、すでに用途を終えたサイン色紙が二枚と、まだ真っ白のままのサイン色紙が一枚入っている。
 今から、その最後の一枚にサインを貰ってこなくてはいけないのだ。
 その貰う相手の顔を思い浮かべた瞬間、嫌味なくらい整った顔に浮かべられた冷笑が、頭の中にポンッと浮かんだ。
 それを思い出した瞬間、ムカッ、と苛立ちがこみ上げてきて、里中は乱暴な手つきで髪をクシャリ、とかき乱そうとして──いつもと違う感触が手の平に返ってきたのに、眉を寄せる。
 そろり、と伸ばした指先から、サラサラ、と鬘の長い髪がこぼれていった。
「山田の言ったとおり、結構ばれないもんだよな……。」
 呟く声は、感心というよりも憂鬱の色に染まっていた。
 指先から流れて行く髪を見やりながら、この鬘が最後の頼みの綱か、と……里中はなんだか情けない心地でそれを見つめた。
「──……なんで俺、不知火を最後にしたんだろう……。」
 雲竜と土門にばれていないことを考えたら、一番危険の高い不知火を一番初めにするべきだった。
 そうすれば、不知火に爆笑され、バカにされ、腹が立ちむかついたとしても、土門と雲竜に快く見送ってもらえば、最後の最後はなんだかすっきりした心地ですんだかもしれないのだ。
 ──まぁ、不知火の書いたサインを見るたびに、腹が立ち、いたたまれなくなることは間違いなかったが。
 ばれないに越したことはない──今、この状況で、里中は心から強くそう思った。
 土門と雲竜にバカにされたり笑われたりしなかった分だけ、この不知火で思いっきりバカにされたら、再起不能になりそうだ。
 あの、涼しい表情をした男に、鼻先で笑われてバカにされるのだけは、どうしても許せない。
 今、想像しただけでムカムカと胸の辺りが胸焼けにも似た苛立ちを覚えるほどである。
 とにかく、徹底的に猫を被ってやる──と、心に誓い、里中は改めて白新高校の校門を睨みつけると、いざ、と、中へ足を踏み入れた。
 見知った校門の中は、もうすっかり冬の色に染まり始めていて、休日の校舎はシンと静まり返っていた。
 その横を通り抜け、里中は足早にグラウンドの方角へと歩いていく。
 出来ることなら、顔形が良く分からなくなるような暗闇時に不知火を襲って無理矢理サインをさせたいところだが、ナイター設備のない白新高校がそんな時間まで練習をしていることはないだろう。
 それも今日は日曜日なのだから、早く終了する可能性だってある。
「──ま、もし不知火にばれたら、カバンを叩きつけてで記憶消去って言う手もあるよな……。」
 不穏な響きを宿した呟きをこぼして、ブン、と里中は両手でカバンを横に振ってみた。
 しかし、中身が軽いカバンは、ひゅん、と軽い音を立てるばかりだ。
 不満そうに唇を軽く尖らせた里中は、軽いカバンをポンポンと叩いて、
「辞書を三冊くらい入れてこりゃ良かった……。」
 いざとなったらバットだな、と、右拳を握り締めて誓ってみた。
 すぐ近くで山田と微笑が聞いていたら、里中は即、明訓に回収されていたことだろう。
 とりあえず、そのあたりに落ちている石でも詰めてみようかと、真剣に不知火を叩き潰す方面で、里中の意思が決まったその刹那。

 キィーンッ!

「!」
 聞きなれた、心地よく響きわたる音がした。
 思わず、ぴくん、と背筋が正されるのを覚えながら、里中はその音が聞こえた方角に視線をやる。
 そろそろ夕暮れの色を宿し始めた、どこか薄い色の冬の空に、白い軌跡が見えたような気がした。
 かすかに目を細めて、里中はその方角へ──野球部のグラウンドがある方へと足を進める。
 数歩前に進んだら、目の前には金網に囲まれた白新のグラウンドが広がっていた。
 土の匂いと、誰かが叫ぶ声。
「……やってるなぁ。」
 小さく呟いて、里中は誘われるようにグラウンドの方へと歩いていく。
 休日のためか、校舎からグラウンドへ向かう道は人気がなく、しぃん、と静まり返っている。その分だけ余計に、グラウンドから聞こえる活気溢れる声が、酷く心地よく聞こえた。
 グラウンドの周囲を覆う腰ほどの高さの塀の周囲には、小さな人垣が出来ているのが遠めにも分かった。休日だからこそ、ここぞとばかりにやってきた他校の「白新ファン」だろう。
 明訓でも見た覚えのある公立高校のセーラー服が、ここぞとばかりに群れている。
 耳を澄ませば、「不知火くーん」と叫んでいる黄色い声も聞こえた。
 バックネット裏の金網の辺りに群れているのは、明訓でも良く見かける人の顔がいくつか揃っている──首からカメラを提げていたり、手にメモを持っていたりで、一目で新聞記者と分かる。
 それを目の端に止めて、里中はグラウンドに歩み寄ろうとしていた足を止めた。
 日曜日だというのに、ご苦労なことである。
 だがしかし、何もこんなにたくさんの人間が集まっていることもないじゃないかと、里中は憮然として腕を組み、一望できる十数人ほどのファンを見つめた。
 それでも今日は休日だから、出来ている人垣は小さい方だろうが──秋季大会や夏の予選の直後でもないのに、これだけ人垣が出来ているとは、不知火もたいした人気である。
「──……でも、考えてみれば好都合だな……この中に混じって、サインをねだれば、不知火も気にしてる暇はないか。」
 土門や雲竜と違って、不知火が近隣の女子高生に「モテるピッチャー」であったことを感謝しつつ、里中は塀際に立って見学している女子の群れの最後尾にさりげなく混じってみた。
 すぐ目の前にある投球練習用のマウンドとプレートの置かれた地点を見るが、ソコでは数人がキャッチボールをしているだけで、不知火の姿はない。
 なら、とグラウンド内に視線をめぐらせれば、マウンド上に立つ練習着姿の部員が目に留まった。その隣に置かれている籠の中には、白い球が半分ほど入っている。
 それを手に取り、ゆっくりと振りかぶるピッチャーの動作は、不知火のソレではなかった。おそらくは、バッティングピッチャーであろう。
 となると、今は打撃練習の最中かと、里中は外野や内野に散らばるメンバーではなく、バッターボックス辺りに視線をやった。
 目の前でキャァキャァ騒いで塀に群がっている少女達が「不知火」の名を叫んでいたことだし、今、打っているのが不知火なのだろう。
 バッターボックスには、スラリとした長身の男の姿が見て取れた。わざわざ近くまで行って確認することもない──試合のマウンド上で、何度も見た不知火のバッティングフォームを、見間違えるはずはなかった。
「……あぁ……だから記者がバックネットに溜まってるのか。」
 1年生ながらに、白新高校の一番の注目株と言えば、「不知火守」である。その豪腕とバッティングセンスは、光るものがあると評判だから、たとえこのような時期でも、記者達は監察の目を怠らないのだろう──さすがに、春の選抜に選ばれるのが確定している明訓高校の記者陣ほどではないが。
 その、バックネット裏にいる記者の中をズカズカと通り過ぎて、不知火を呼び出し、サインをしてもらう……それは、非常に危険な行為に思えた。
 事実、記者の目ざとい視線を、カツラを被った程度の変装(?)で乗り切れるとは思えない。それどころか、「明訓の里中は、女装をしてまで不知火にサインを貰いにきた、不知火ファンだ」なんて噂が立ってしまったら──、
「……冗談じゃない……っ。」
 キリ、と唇を噛み締めて、里中はジロリと、バッターボックスで小気味良い音を立てて流し打ちにした男を睨みすえた。
 「記者がいたからムリでした。」と合宿所に帰ってしまおうかとも思った。けれども、土井垣や岩鬼がソレで許してくれるとは限らない。そうすると、来週の週末もこんな格好をして不知火を待ち伏せしなくてはならなくなる。
 またこんな恥ずかしい格好をするくらいなら、このまま練習が終わるまで待って、不知火が着替えに部室に戻る瞬間を狙って「サイン下さい」と言ったほうが何倍もマシだ。その頃なら、辺りも真っ暗になって、顔も見えないだろうし。
 だが、それを選ぶと、あと2時間くらいはココで、ボーッと、こんな格好で待っていなくてはならない。
 明訓の制服姿で、こんなところで二時間もボーッとしていたら、当たり前だが注目を集めてしまうだろう。
 となると、不知火がコチラにやってくるまで待つしかないが──それはイコール、不知火が投球練習をする時で、当たり前だが記者達もコチラへ移動してくるだろう。
「……なんとかして不知火だけをこちらへ呼び出すことが出来たらな……。」
 しかしどうやって?
 記者達に近づいて、不知火を大声で呼び出すわけにも行かない──確実に目立つことは、とにかく避けたかった。
「ココから不知火めがけて石を投げて誘き出そうにも──山田ならとにかく、おれじゃ、届かないしな……。
 ──誰か、不知火の腕でも掴んで、ココまで引きずってきてくれないかな?」
 こんなことなら、最初から正体をばらすのを前提に、山田に着いてきてもらえば良かった。
 楽しそうにキャイキャイ話す女の子たちに混じって──幸い少女たちは、目の前の不知火の猛打撃に目が行くばかりで、隣に誰が立っているのかなど気にもしていない──、不知火の打撃練習が終わるのを待つしかないようである。
 その程度の時間なら、明訓の制服を着た自分が中に混じっていても、大丈夫だろうし。
 ついでに、白新の野球部の偵察でもするかと、里中はキョロリとグラウンド内を見回す。
 秋季大会で里中を欠いた明訓に負けたことで、白新高校の練習は一段と気合が入っているように見えた。──来年の夏は、この高校が神奈川県下で一番の強敵になることは間違いないだろう。
 その、不知火以外の部員を少しでも見ておこうと、ヒョイ、と里中は背伸びをするようにして、投球練習用のマウンド近くでキャッチボールしている少年たちを目に留めた。
 アンダーシャツを着込んだ姿で、ゆっくりとキャッチボールをしている姿は、見知らぬ顔のソレで、補欠要員であることはたやすく想像できた。
 彼らは時々、チラチラと塀のこちら側に居る少女たちを見ては、はにかむようにお互いの顔を見やっていた──決して自分たちに向けられる歓声ではないと分かっていながらも、不知火が打つたびに少女たちからこぼれる黄色い悲鳴が、居心地悪く……また同時に、くすぐったく感じているのだろう。
 もしかしたら、自分たちもいつかは……そう、思っているのかもしれない。
 そんな彼らの背後──彼らにとっては、未だ望めぬ地であるバッターボックスでは、

 キィーンッ!

 耳に心地よく高い音が鳴り、不知火が振り切ったバットが、白球を高く打ち上げていた。
 その球は、上空の風に乗り、芝生でボール拾いをしていた部員たちの頭上を軽々と超えていく。
「キャーッ! 不知火君、ステキィー!!」
 頬を押さえ、胸の前で手を組み──それぞれに、うっとりした声で叫んだ少女たちの、甲高い声に、キャッチボールをしていた少年たちが、ビクリ、と肩をすくめる。
 その拍子に、構えたグローブの端にボールが当たり、バシッ、と弾かれてしまう。
「……ぁっ。」
 慌てて小さくこぼした少年の顔が、見て分かるほどに真っ赤に染まる。
 他校の少女たちが固まる目の前で、そのような失態をしてしまったのを恥じているのだろう。
「何してるんだよ。」
 呆れたように──そうしながらも、その気持ちは分かると、同情心たっぷりに自分を見る相棒に苦い笑みを乗せながら、少年は転がるボールを追いかける。
 ころころと転がるボールを追いかけながら──しかも少女たちが居る塀の方に転がっていくボールに、苦虫を噛み潰したような表情になる。
 塀際で、「みっともない」だとか言われたらどうしよう……そんな気持ちに駆られながら、コトン、と塀にぶつかってスピードを緩めるボールに向かって屈みこみつつ、ちらり、と視線を上げる。
 しかし、塀際に立つ少女たちの視線は、こちらをまるで見ていなかった。
 彼女たちは、両手を塀の上につき、身を乗り出すようにしてバッターボックスを覗き込むようにして口々に叫ぶ。
「不知火さん、打撃練習が終わったみたいよっ!」
「こっちに来るかしらっ!?」
 期待に満ちた声は、彼女たちの意識が不知火にしかないことを物語っている。
 その事実に、ホッとしたような、もの悲しい気分になるやら──少年は、小さくため息をこぼしながら、塀際でコロリ、と歩みを止めたボールに手を伸ばした。
 土の色をつけた、うす汚れた白球を手に取り、そのまま力なく上半身を上げた先で。
「──ごめん、ちょっと……いいかな?」
 少し掠れた……低めの声が、間近で聞こえた。
「──……へ?」
 体を元に戻しながら見やった先──少し背が高めの少女が、バッターボックスから出る不知火の一挙手一動を見つめている娘たちとは数歩離れた位置に、立っていた。
 その黒い眼差しが見つめるのは、グローブから取りこぼした白い球を掴む自分の顔だ。
 そう自覚した瞬間、少年は、ボッ、と音を立てて自分の両頬に血が集まるのを感じた。
 拾い上げたボールを握る手に、ドッと汗が湧き出るのを感じつつ、
「お、おれっすか?」
 声が震えるのを止められず、彼はこのあたりでは見慣れない制服に身を包んだ少女を凝視する。
 ほんのりと日に焼けた肌と、整然と揃った長い睫に囲まれた、パッチリとした黒い瞳。形良い鼻梁に、そこから続く健康的な頬と唇。
 緊張のあまり、思わずゴクリと喉を上下させた少年に、少女はコクリと頷いた。
 塀の上に黒いカバンを置いて、その上に両手を添えたまま──彼女は、
「不知火に用があるんだけど……呼んで来てくれる?」
 ストレートに、そう告げた。
「……………………………………………………。」
「……………………………………………………。」
「……………………………………………………。」
 沈黙は、数種類あった。
 堂々と告げた張本人は、ただ静かに少年を見つめ、見つめられた少年は、その眼差しの強さに息を呑み──少年とキャッチボールをしていた者は、彼女が口にした台詞に絶句し、傍らに立っていた少女の集団は、己の耳を疑った。
 少女たちの視線の先には、新しくバッターボックスに入ったほかの部員をよそに、ベンチへと歩み寄り、タオルを手にする不知火の姿がある。
 その彼に手を振り、叫び──それでも相手にしてくれない不知火が、クールでステキだと叫んでいた彼女たちが、お互いに牽制しあって決して口にはしなかった台詞……その台詞を、堂々と口にした新参者に、彼女たちはキッ、と視線も鋭く少女を睨みつけた。
 タオルや差し入れを持参してきて、「呼んできて」と言っても、不知火は決してその呼びかけに答えることはないだろう──そう分かっていたから、口にしなかったということもあるが、それでもそう口にするのは、勇気が居ることだ。
 それを果たした少女に、羨むような、悔しがるような視線を向けた彼女たちは、その視線の先で、イヤに存在感のある少女に、ハッと息を呑む。
 ス、と背筋を正して立つ少女は、学生カバンをきつく握り締め──少しばかり緊張した面持ちで、キュ、と一文字に唇を結んでいる。
 その彼女を認めて、
「──……明訓の制服じゃない……。」
 ポツリ、と中の一人が呟いた。
 その呟きに、あ、と……今気づいたかのように少年たちが呆然と少女の顔を見据える。
 彼らの視線を受け止めた少女は、小さく顔をゆがめて、
「悪いけど、急いでるから早く……、……っ。」
 不意に、言いかけた言葉を閉じて、小さく目を見張った。
 その美しい黒い双眸は、少年たちの姿を通り越して、その更に後ろに当てられていた。
 見る見るうちに瞳が大きく見開かれるのを認めて、つられるように背後を振り返った少年たちには、
「誰が休んでいいと言ったんだっ!」
 ビリッ、と──空気を震わせる怒声が、飛んだ。
 それと同時、
「キャーッ! 不知火さん〜っ!」
 一転して、少女たちが「明訓の生徒」から意識を逸らして、甲高く叫ぶ。
 とたんに降り注いだ声に、うっとうしそうに顔をゆがめた不知火は、首からタオルを下げた姿で、少年たちがキャッチボールをしていたあたりで足を止め、さっさと続きを再開しろと叱咤し──、
「…………………………。」
 一点で視線を止め、凝固した。
「す、すみませんっ!」
 その視線の先に居た、不知火と同じ一年生の少年は、慌てて頭を下げて、拾い上げたばかりのボールをグローブに押し付け、汗でベットリと濡れた手のひらをズボンで拭った。
 慌てて定位置に戻った少年の行方を見ることなく、不知火は視線を彼が居た辺りに止めたまま……視線の先に居る少女に、大きく顔を歪めた。
「…………こんなところで、何をしてるんだ、お前は……………………。」
 呆れた口調で零れた不知火の声が、紛れもなく自分に降り注がれていると知り──「里中」は、ギリ、と、唇をかみ締めた。















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スミマセン……話が終わらなかったデス……。
不知火登場までのシーンが長いですね……えぇ、私の不知火への愛が感じ取れます(笑)。

次で終わりです。
……今度こそっ!