い も う と 2












 Aラインの裾が広がるジャンパースカートに、丸襟の白いブラウス、幅の細いリボンと、ジャンパースカートと同色の3つボタンのジャケット。
 明訓高校の女子の規定の制服を着込んだ「少女」は、整った容貌に不機嫌の色を隠せず、ドッカリと畳の上に胡坐を掻いていた。
 全身から漂うおどろおどろしい雰囲気は、部屋の外に居ても分かるほどで、立ち寄りがたい空気がかもし出されていた。
 部屋の入り口に「山田」「里中」と掲げられた表札の外から、誰もが恐る恐る中を覗き込んでいる。
 部屋の中には、人影が二つ。
 ひたすら不機嫌のオーラをかもし出し続ける里中に、
「里中、カバンの中にマジックと色紙を入れておくからな。」
 山田が学生カバンの蓋を締めながら、そう声をかけた。
 瞬間──キィン、と切れ味鋭い音がするかと思うほどの視線で、里中が山田を睨みつける。
 けれど、それ以上何も言うことなく、視線で頷き、後は再び黙すのみ。
 そんな里中に苦笑を漏らしつつ──けど、罰ゲームは罰ゲームだからと、山田はカバンを里中の横に置いた。
 腕を組み、憮然とした表情を隠そうともしない里中は、用意が完全に終えたカバンを見下ろして、ブッスリとした表情のまま、立ち上がる。
 胡坐をかいていた膝を立てた瞬間、スカートの間から白いものが見えて、おっ、と、何かを期待したような声がドアの方角からあがった。
 しかし里中は無頓着にそのまま立ち上がる。
──と同時、ガタガタッ、と、ドアに集まっていた面々が床に突っ伏した。
 その音に、里中はカッと頬を怒りに染め、彼らをキッと睨みつける。
「なんなんだよ! おかしいなら堂々と笑えばいいだろっ!!」
 仁王立ちした里中が、怒りのままに入り口にたまっていた面々を蹴散らしそうな勢いで怒鳴った。
 その声に、慌てて山田が彼を落ち着かせようと腰に向かってタックルを決めようとしたまさにその瞬間、
「脱力したんだよ! なんでお前、スカートの下に短パンなんて履いてるんだっ!!」
 ガンッ、と、なぜか悔しそうに畳を殴りつけて、石毛が叫んだ。
 思わず山田は、ガクンと畳に突っ伏した。
──何を見てるんだ、あんた達はっ!
 そう里中が叫び、彼らを蹴散らすなら、山田も止めることはないだろう。
 だがしかし里中は、石毛の声にコクコクと頷く先輩達をいぶかしげに見るだけだった。
「スースーして寒いからに決まってるじゃないですか。
 別に、ジャージ着てもいいんですけどね。」
 どうせ女性の制服を着た時点で恥さらしは決定なのだ。
 それなら、スカートの下にジャージを履こうが、ジャケットの上からジャージを羽織ろうが、頭に野球帽を被ろうが一緒だ、と──開き直るかのように腰に手を当てて豪語する里中に、
「頼むからソレはやめてくれ……っ!」
 仲根が、一同の下敷きになった姿勢で、手を伸ばして懇願してくる。
「スカートの下にジャージはないだろう、ジャージはっ!」
「寒いなら、ブルマとは言わない……けど、せめてハイソックスにしてくれ……っ!」
 なんで男の自分がブルマをはかなくてはいけないのだとか、そういう激昂に頭が爆発する以前に、里中は頭痛を覚えて、自分の隣で畳に突っ伏している山田を見下ろした。
「……やまだぁ……。」
 アレ、何?
 そんな困惑した眼差しで問いかけてくる里中に、山田はのろのろと起き上がりながら……、
「里中、やっぱり下にジャージ履くか……?」
 そう低く問いかけた。
 その目に宿る剣呑な眼差しに、里中はそうだなぁ、と呟いた瞬間。
「おーい、智〜、演劇部からヅラ借りてきたぜ〜。」
 この空間に暢気に響く声が、廊下から聞こえた。
 トタトタと軽快に走る声がして、微笑は山田たちの自室の前で廊下に突っ伏したままの先輩たちに、ギョッとしたように足を竦ませる。
 そんな彼の手に握られた髪の毛を模した鬘を認めて、里中はキリリと目じりを釣り上げた。
「これ以上俺に恥をかけというのか、三太郎……っ!」
 握り締めた拳の行き所を探して、里中がわなわなと震える。
「宴会芸じゃないんだぞ! 俺は、こんな恥ずかしい格好で街中を歩かなくちゃいけないんだぞっ! 鬘なんか被ったら、余計に滑稽だろうっ!」
 怒りのあまり、目じりに涙まで浮かんできて、里中はギリリと唇を噛み締める。
 このまま面白がっている先輩や微笑に飛び掛って蹴り倒したい衝動に駆られるが、慌てて起き上がった山田に、背後から羽交い絞めにされて止められる。
「落ち着け、里中っ。」
「バカにされて落ち着いてられるかーっ!!」
 どいつもこいつもっ!
 噛み付くような勢いで天井に向かって叫ぶ里中を、呆然と見て……微笑は、思わず里中を指差し、廊下に座り込んだ先輩達を見下ろした。
「……里中っすか、アレ?」
「合宿所はおばちゃん以外、女人禁制だ。」
 返ってきた答えは、それだけだった。
 けれど、それで答えは充分である。
 微笑は無言で自分が持ってきた鬘を見下ろし、里中を見た。
 いつも岩鬼の暴走を止めている山田のバカ力に、里中が適うはずもなく、彼はすぐに諦めたようで、おとなしくなっていた。
 ブツブツと何か言いながら、乱れた襟のあたりを直しているその姿は……、
「…………しゃれにならないかも……。」
 思わず、げんなりと呟いてしまう程度には、「美少女」に見えた。
「くっそーっ。」
 口汚く罵る口さえなかったら、怒りで上気してほんのりと赤く染まった頬や、怒りのあまり潤んだ目、やはり同じく怒りのあまり色づいた唇──髪が短い今でも、充分美少女で通る。
 ただし、女子の制服を着た里中だと、見て分かるが。
「でも里中、鬘はいいアイデアかもしれないぞ。」
 ようやく暴れるのを止めた里中から手を離しながら、山田が微笑が持ってきた鬘を里中に勧める。
「どこがっ!?」
 里中にしてみたら、今でも男が女の制服を着た女装男に見えるのに、鬘なんて被ったら、喜んで女装しているように見えるじゃないか──と、これ以上見た目を気持ち悪くしてどうする、という気持ちであったが……、
「髪型が違うだけで、パッと見た目は分からない人だっているじゃないか。
 だから、今のお前だと、里中以外の何者でもないけど、髪の長い鬘をかぶって、ちょっと顔を俯けたら、一目でお前だって分からないんじゃないか?」
「──……そうかなぁ?」
 疑わしげな視線で、里中が切々と説明する山田を見上げる。
「もしくは、他人の空似程度に思うんじゃないかと思うぞ。」
 さすがに、あの明訓の里中が、女子の制服を着て、長い髪の鬘をかぶって、自分のところにサインを貰いに来る……なんてことを、ライバル校の人間は考えたりしないだろう。
──実際、今やろうとしているのだが。
「──うーん……それって、帽子を取った不知火は、不知火じゃない好青年に見えるのと、同じ理屈か?」
 首を傾げて、里中が熟考する。
 口にした理屈の内容はさておき、言いたいことは分かる。
 それを見て、微笑はせっかくだからと、先輩たちの間を潜り抜け、持っていた鬘二つのうち、左手に掴んでいたほうを、
「そうそう、ほら、実際被ってみたら、里中だって見た目は分からないって。」
 がば、と、里中の頭の上にかぶせてみた。
 視界の端を覆う、キラキラと電灯を反射する光りの糸──頬をくすぐるそれを、思わず掴んで、手元に引き寄せる。
 視界に映ったのは、どう見ても金色の糸の塊だった。しかも気のせいではなかったら、クルクルと縦に巻いている。
 一瞬沈黙した里中の心を代弁するように、
「ちょっと待て、三太郎……なんだ、その金髪クルクルはっ! おかしいだろ、あからさまに!」
「そんな髪型してる女子高生が居るかよ!!」
 廊下から先輩たちが叫んでくれた。
 まったくもってその通りである。
「いやー、だって、どうせなら、あからさまに罰ゲームって感じにやったほうが、ヤケになったっぽくていいかな、とか思って。」
 微笑は明るく笑ってそう答えた後、コッソリと心の中で──多分、似合うとは思っていたけど、ココまで違和感がないとは思っても見なかった、と続ける。
 似合いすぎて洒落にならない場合は、この金髪クルクルで、「どこが女子高生だ!」と突っ込めるようにしておこうと思ったのだが……金髪クルクルをつけても笑えない状態なら、しょうがない。
「今でも充分ヤケだよっ!」
 頭の上から金色の鬘をむしりとって、里中はソレをバンッと畳の上に投げ捨てる。
 山田が苦笑しながらソレを拾うのを、ヤレヤレと笑いながら見下ろし、ほら、と今度は右手に持っていた黒髪の鬘を差し出す。
 里中がそれをジト目で睨みつけるのを感じつつ、恭しく微笑はソレを彼の頭上に掲げてやった。
 ぱふ、と乗せて、ウィッグのように留めることもしないままファサ、と髪を広げる。
 頬にかかった部分を耳に掛けてやりつつ、
「ほら、コレなら表を堂々と歩いても、智だってわから…………ねぇよ。」
 思わず最後は真顔で呟いてしまった。
 ばれるかばれないかの、スリルを味わいつつ、ばれたらばれたで罰ゲームなんです、と言って恥をかく。
 ──その予定だったのだが……本気でしゃれにならない。
「──あ、そっか、こうして行ったら、俺だってばれない。」
 微笑が横にどけてくれた髪を、再び自分の手で残バラに顔の前にかけて、コレなら大丈夫だと、すだれ状の前髪で告げた里中は、
「普通にその方が目立つだろっ!」
 先輩達からありがたくないツッコミを頂いた。
「じゃ、ホッカムリしてく。」
 クルリときびすを返し、山田の荷物が置いてある場所から、手ぬぐいを取り出そうとした里中は、その途中で山田に腕を取られる。
「そんな格好で行ったら、おまわりさんに職務質問されるぞ。」
 苦笑を滲ませながら、山田は里中の頭の上に乗せられた鬘を手直しして、ついでにパチンとウィッグの留め具も止めてしまう。
 そのまま髪の形を整えて、
「ついでにサチ子のリボンもつけるか、里中?」
 笑ってそう尋ねた。
「冗談よせよ。これ以上気持ち悪くなってどうするんだ。」
 鼻の頭に皺を寄せて、フルフルとかぶりを振った里中は、乱れた髪が頬にかかるのをうっとうしげに指先で払う。
 慣れないぎこちない仕草で髪を背中に払う里中を見ながら──、
「…………なんか、罰ゲームっぽくないよなー……。」
 思わず、合宿所に湧いて出た美少女を前に、合点がいかないような顔で一同が呟く。
 これが山田や岩鬼、微笑や殿馬が引いた罰ゲームだったなら、爆笑に次ぐ爆笑で、誰もがその罰ゲームの効果を見ようと、後からゾロゾロ着いていくことになっただろう。
 しかし、目の前に立つ里中は──しゃれにならない。
「これじゃ、ドッチかというと、土門や雲竜、不知火達の反応を見て楽しむドッキリテレビみたいじゃないか?」
 壁に頬を預けて、なんだかなー、と山岡が零した。
「……あ、いえてる。実はあなたのファンだといった美少女は、里中だったんです! とか言ってさ。」
 仲根が、ポン、と手を叩いて同意すると、それじゃ、と今川が片手をあげて意見の発言権を求める。
「それじゃ、俺達が里中の後をコッソリと着いて行って、ころあいを見計らって、『実はドッキリカメラなんです!』って、看板掲げるって言うのはどうだっ!?」
「面白そうだな、ソレ!」
 思わず賛成の手をあげる一同。
 それで行くか、と、話しがまとまりかけた頃──山岡、仲根、今川、北、石毛の頭の上に、影が落ちた。
──はっ、と、彼らが吹き出る殺気に身の危険を覚えるよりも早く。
 ぼごっ!
 里中が渾身の力で振り回したカバンが、クリーンヒットした。
「あたっ!」
 各々、再び床に突っ伏す。
 あちゃ……と、山田と微笑が自分の顔に手のひらを当てるのが見えた。
「さっさと行って、さっさと終わらせてきます! 夕飯までには帰るからなっ!!」
 廊下に倒れ付した先輩達を、ぶしっ、と踏みつけて、里中は不機嫌そうな足音を響かせてカバンを振り回しながら廊下を歩いていく。
 その、不機嫌なオーラと荒々しい足音さえなければ、女子にしては背の高い美少女の後姿なのだが。
「くそっ、後で覚えてろよ……っ。」
 ブツブツと呟く里中の不穏な声が廊下に響き渡り──その先で、なんて言っているのか分からない声の応酬が聞こえた。
 声から判断するに、岩鬼と出入り口で会ったらしいと、扉から顔を覗かせると、同じように岩鬼が里中にカバンでぶっ叩かれているのが見えた。
 こうして少し離れて見ていると、
「……まるで告白した岩鬼が、失礼なことを言ってこっぴどく振られたように見える。」
 そのまんまな解釈を、石毛が呟いた。
 バタバタバタ、と走り去っていく里中を見送り、岩鬼が彼に向けて何か叫び──ムッツリとした顔でコチラを見た。
「……やべっ。」
 里中と岩鬼の軽い応酬など、日常茶飯事だ。
 時には岩鬼のみぞおちを蹴りつける里中──という構図も見受けられる。そのたびに山田が、憤った岩鬼を止めるのに必死になり、一発か二発岩鬼から貰って、里中がそれを見て反省する……というパターンがほとんどであった。
 しかし、今、なんだか見てはいけないものを見てしまったような気がしていた。
 遠くから見た姿が、まさに男女の──一方的に女が男を怒っている姿に見えたせいかもしれない。
 ギク、と、無意識に肩をこわばらせた面々を振り返った岩鬼の顔は、面の皮が厚いため、カバンの攻撃はサッパリ効いていないようだったが、代わりにマズイ物を食べたような顔をしていた。
 そして、今にも吐きそうな表情で、
「な、なんや、あの──吐きそうなくらいのどブスは。」
 うげぇ、と、吐き捨てるような真似までしながら、コチラに向かって歩いてくる。
「あんなのが表を歩いたら、あかんやろ。毒を吐き散らし取るようなものやんけ。
 や、やァまだのところのサチ子のほうが、まだガキなだけマシやな。」
 気色悪いもんを見た、と、そう言いながら、吐き気を堪えるように胸を抑えてフラフラと歩く岩鬼に、大げさだなぁ、と一同は顔を見合わせた。
 と同時に、岩鬼の台詞に激怒した里中が、一体「目的地」でどういう暴挙に出るのか……想像しただけでゾーっ、と背筋を冷たいものが這い上がり──、
「お、おれ、ちょっと後から里中を追いかけてきます!」
「待て、山田、俺も行く!」
 慌てて山田と微笑が、岩鬼とすれ違うようにして廊下をどたどたと走っていった。
 その背を見送り、岩鬼は大げさに顔をしかめて、
「……夏子はんの顔を見て、目直しせなあかんな。」
 うーん、と呟いたかと思うと、くるりん、と身軽な動作で体を回転させて、スキップをするように軽い足取りで歩いていた廊下を逆走していった。
 そして──残された3年生達は。
「…………………………────────とりあえず、今夜の夕飯は里中の好物づくりになるよう、おばちゃんに頼みに行こう!」
 ──他人様任せの、「不機嫌絶好調の里中の機嫌取り」のため、ダッシュで食堂に向かうのであった。



















 横浜学院の土門は、いつものようにグラウンド脇の練習用マウンドで、谷津を苛めて……いや、特訓していた。
「吾郎! 行くぞっ!」
「はい、土門さんっ!」
 土門を心の奥底から崇拝している谷津は、毎日毎日彼の剛球を体に受けても、ビクともしない。
 今日も今日とて、この地区一番の剛球を投げる土門に、感動すら抱きながらその玉を受け止め──そこなった。
「吾郎……。」
「すっ、すみません、土門さん!」
 慌ててキャッチャーミットを脱ぎ捨て、谷津は転がっていった球を追って掛けていく。
 その小柄でありながらも存在感豊かな背中を見送って、やれやれ、と土門は苦笑を広げる。
 自分が全力投球を惜しみなくできるのは、確かに谷津のおかげだ。
 春の地区大会には出場したいと思っているのだが──果たして、それまでに間に合うのだろうか?
 明訓高校は秋季大会で優勝したため、確実に春の選抜には選ばれる。
 白新の不知火などは、「山田の出ない大会に興味はない」と言い張りそうだが、春の地区大会も各校の実力を測るには必要だ。
 春までには、谷津に自分の直球を受けるようにさせたい──そう願う土門であったが、この分だともう少し時間をかけなくてはいけないだろう。
 コロコロと転がるボールを追って、慌てて走っていく谷津の背を見送っていた土門は、ふと、谷津の行く先……フェンス際に立つ少女に気づいた。
 裾が広がるスカートにブレザー。白いカッターシャツには細く赤いリボンがついている。この横浜学院の女子の制服ではないことは確かで──けれど、どこかで見た覚えのある制服だ。
 それがドコのものなのか考えるよりも先に答えは出ていた。
「……明訓……。」
 そう、土門も幾度か足を運んだことのある──最初に足を運んだのは、今年の夏の終わり……微笑三太郎の一件であった──、明訓高校の女子の制服である。
 背中の中ほどまである髪を軽く乱しながら、俯いたまま、彼女は足早にフェンス際までやってきた。
 土門から数メートルほどの距離で立ち止まった少女は、そこでガシャンと音を立てて、フェンスの上にカバンの底を乗せる。
 一体何をするのだろうと、呆然と立ちあがり見守る谷津と一緒に、土門は彼女の動作の行方を追った。
 注視されているのに気づいていないのか、彼女は無造作にカバンを開くと、その中から白い板のようなものを取り出す。
 すぐにそれがサイン色紙だと気づいた谷津が、あっ、と短く声を上げた。
 そして、視線を土門へと移して、
「ど、土門さんのファンの人だ……っ。」
 なぜか自分の胸をときめかせ、頬を赤く染める。
 少女は、そのサイン色紙と共にマジックを手にして、細面の顔を上げた。
 瞬間、谷津は思わず体をこわばらせ、その少女をマジマジと見つめた。
 さらりと揺れる光沢のある髪、俯いた白い額に、はらり、と前髪が掛かっている。
 その下から覗く相貌はよく見えなかったが、形よい鼻と、薄い唇──細い顎と首筋が、目に映えた。
 ──美人だ。
 谷津は、地面を転がったボールを拾おうとした手を止めて、カバンを脇に挟んで、色紙を両手に持つ少女を呆然と見詰めた。
 サァ──と風が吹き、彼女の髪が乱れる。
 頬に当たる髪の毛に、少女は邪魔そうに顔をしかめて、色紙を持つ手でそれを払いのけた。
 ツン、と指先に髪の毛が引っかかり、彼女はますます不機嫌そうに唇をゆがめる。
 けれど、すぐに視線を色紙に落とすと、一瞬ムッとした表情を浮かべたが、すぐにそれを押し込めるようにキュ、と唇を引き結んだ。
 そして、ス、と視線を上げて、少女は土門を見据えた。
 その強い眼差しに──、一瞬、土門も谷津も、強烈な既視感を覚える。
 どこかで、見た覚えがあるような気がする。
 まっすぐな……美しい純粋な輝きを。
 けれど、その既視感も、少女が一歩足を進め、カシャン、と音を立ててフェンスを彼女が握り締めた時点で吹き飛ぶ。
 まっすぐに土門を捕らえた視線をそのままに、彼女はゆっくりと唇を開き──喉を軽く上下させた後、
「土門さん──サインください……。」
 押し殺したような、低い声で──そう、告げた。
「…………………………。」
 無言で少女を見詰めて、土門は目を軽く瞬く。
 驚いたような顔の土門が、かすかに動揺しているのに谷津は気づく。
 横浜学院の剛球ピッチャー、土門は、つい先日の秋季大会で、復帰を果たしたばかりで──けれど、神奈川の地区予選の決勝まで進んだ功績で、学校内の女子からは人気がある。
 サインください、なんて言われるのも、コレが始めてじゃない。
 なのに、土門さんが動揺している──どうしたんだろう。さすがの土門さんも、これだけの美人さんを前にしたら、戸惑ってしまうのだろうか?
 なんだか、土門の意外な一面を見た気がして、ふふ、と谷津は含み笑いを覚える。
 土門は、少女に向き合い、困惑を隠そうともせずに眉を寄せた。
「…………君は、明訓の生徒だろう?」
 低い声で、慎重にそう尋ねる土門に、彼女は驚いたように軽く目を見張った。
 そして、その大きな目を瞬かせて、マジマジと土門を見上げる。
 俯き加減の顔を上げた少女の顔は、軽い驚愕に染まっていてもなお、綺麗だった。
「……ぅわ……か、かわいい……。」
 自分が正面から見つめられたわけでもないのに、思わず谷津は顔を赤く染めて、彼女の顔を横から凝視した。
 それに負けず劣らず、彼女は驚いた顔でマジマジと土門を見て……。
「本気で言ってるのか……?」
 ぼそ、と──どこかで聞いた覚えのあるような声で、呟いたような気がした。
 けれどすぐに彼女は首をかしげて、何か考えるような仕草をした後、再び土門を見上げて、そ、と色紙を差し出した。
「明訓の生徒だったら、土門さんからサインをもらっちゃいけないんですか?」
 どこか挑戦的な響きの宿った声だった。
 この年頃の少女にしては低い声で、ヒタリ、と土門を見上げる──否、睨み上げる、という表現が的確だ。
 どきどきと胸を高鳴らせながら、谷津は少女と土門を交互に忙しなく見やる。
 土門は、無言でそんな少女を見下ろしていたが……すぐに、フ、と笑って彼女にゆるくかぶりを振った。
「いや、そんなことはない。」
 そして、いつも浮かべている穏やかな笑みを口元に掃くと、彼女の手から色紙とマジックを受け取った。
 きゅぽん、と少し間の抜けた音がして、土門はマジックを開けると、ツン、と真新しいシンナーの匂いがした。
 土門は上質の紙の張られた色紙を見下ろし、マジックを持った指で一撫でした後、だいたいの位置を決めて、サラサラ──と書き始めた。
 少女は、そんな土門の仕草を、ジ、と見守る。
 緊張してるんだ、と、谷津は彼女の表情を見ながら、笑みを乗せた。
 土門はその彼女の視線に動じることなく、色紙に自分の名前を書き終えて──ちらり、と少女の顔を見やった。
 彼女はそれを待っていたかのように、にっこりと笑って──、
「土井垣さんへ、って入れてくださいv」
 ──とっても嬉しそうに、そう告げた。
「…………どいがき?」
「はい。土に、井戸の井に、垣根の垣です。」
 目を見開いて尋ねた土門に、少女はニコニコと笑って、空中に指先を躍らせて「土井垣」の漢字の説明をする。
 説明をされながら──土門は困惑の色をますます深くして、軽く首を傾けて彼女を見下ろした。
「まさか、明訓3年の、土井垣のこと……じゃ、ないよな?」
 土門は交通事故にあう前に、夏の予選で明訓の敵があるとすれば、「土井垣」だとそう狙いを定めてきていた。
 ──結局、自分はこの夏に交通事故に遭い、土井垣はこの夏で引退したから、戦うことはなかったが……。
「3年のって……将お兄さんのことですか?」
 にこにこにこにこ。
 ──ひどくウソっぽい笑顔を浮かべて、少女が首をかしげる。
 その、楽しそうな笑顔は、見る人が見たら、「……なんかたくらんでるっぽい」と見えたが、土門と谷津には、「土井垣将のことが有名で嬉しそう」な顔に見えた。
 つまり。
「──……お兄さんって……君、もしかして…………──。」
 唖然、と口を開いた土門に、少女はにっこり笑って、
「土門さん、色紙には、ちゃんと『土井垣さんへ』って入れてくださいね。」
 トントン、と、色紙を示して、有無を言わせない口調でそう告げた。












 来た道を引き返していく明訓高校の制服を見送りながら、谷津はようやくボールを拾い上げ、そのまま土門の下に駆け寄った。
 土門は、なんとも言えない苦い顔で、遠ざかっていく少女の背中を見送った。
「──どこかで見たような気がしたが……土井垣の妹か…………。」
「以前に、見たことがあるんですか、土門さん?」
 そう尋ねながら、谷津は首をかしげる。
 自分も、あの綺麗な少女に、どこかで会ったような気がしている──けれど、谷津は土井垣に妹がいたなんてことも、つい今知ったばかりなのだ。
「ぼくは土井垣さんの妹さんなんて、見たことがないんですけど──。」
「おれも知らんさ。」
 小さく笑って、土門は谷津を見下ろし、彼の手からボールを受け取る。
「……え、し、知らないって……、でも、どこかで見たようなって言ってませんでしたか?」
「土井垣に似ているとは思わなかったが……まぁ、明訓高校かどこかで見かけたんだろうか……、くらいはな。」
 土井垣の妹なら、山田の妹のように明訓高校の応援に来ていたことくらいあるだろう。
 それなら、見かけたことくらいあるはずだ。
 そう言う土門に、谷津はなるほど、と頷く。
「へー、そうなんですか。
 でも、美男美女な兄妹って、なんだか東郷学園の小林さんみたいですね。」
 にっこり、と無邪気に笑う谷津は、そんな土井垣の妹(仮定)が、土門のファンであったことが、嬉しくてしょうがないらしい。
 どこか自慢げな響きが声の調子から感じ取れて、土門は笑みをこぼした。
「そうだな……はは。」
 そしてそのまま視線を、再び少女が消えていった方角へ当てた後、手元のボールを見下ろし、パシン、とグローブにぶつけると、
「さ、吾郎、続きといくぞ。」
 ポン、と谷津の頭を軽く叩いて、土門は再びプレートの位置まで戻っていく。
 それを見て、谷津は嬉しげに満面の笑みを浮かべて、
「はい!」
 グラウンド中に響き渡るような声で、大きく返事をした。
















 一枚目の色紙を見下ろして、里中は、複雑そうな表情でそれをカバンにしまいこんだ。
 罰ゲームの内容は、
 「横浜学院の土門からサインをもらうこと」
 「東海高校の雲竜からサインをもらうこと」
 「白新高校の不知火からサインをもらうこと」
 であった。
 それを順番に考えて、まず真っ先にどこから行くのか……本来なら、地理の関係から、効率のよい順番を選ぶのだろうが、里中はそうしなかった。
 何せ、ただでさえでも「女装」なんていう、したくないような状況下に身を置かれているのだ。
 最初から雲竜や不知火と言った天敵の場所に行き、大笑いされたり、大バカ扱いされてしまったら、次の人間のところに行く勇気がなくなる。
 だからまずは、「里中……何やってるんだ?」と、あきれた口調で言われようとも、理由を聞いたら、「がんばれよ」と言ってくれそうな土門を最初の人間に選んだのだ。
──結果、土門たちは、あきれた口調になるどころか、「少女」が誰なのかも気づいていなかったようだが。
「雲竜たちと違って、土門は、おれとあまり会ってないから、分からなかったみたいだな。
 ──この調子で、雲竜も気づかなかったらいいんだけどな……。」
 さすがに、おかまにしか見えない女子高生に、凝固していたみたいだけど。
 里中はそう思いながら苦笑を刻み込んだ後、すぐに気を取り直して東海高校の方角へと足を向けた。
 現行犯で里中だとばれさえしなかったら、後はどうでも誤魔化せるから、ばれさえしなかったらいい。
 とにかく、山田たちに言われたように、顔を俯けて、しおらしい態度をしていたら、何とかなるだろう。
「よーっしっ、この調子で、土井垣さんの名前でさくさくとサインを集めるかっ!」
 一刻も早くこのくだらない戦いを終わらせる……っ!
 拳を握り締めてそう誓った里中は、その勢いのまま、ダッと走り出した。
──次なる目的地は、東海高校は……雲竜。














>>> NEXT

BACK >>>


題名のイミにご到達(笑)。
ココからオチまで続くのです。

すみません、「2」で終わりませんでした。
明訓高校のじゃれあいを入れてしまったせいでございましょう。
──だって、書きたかったんだもんっ、おバカ先輩とか、おバカ里中とか〜っ!