FIRST KISS








 明訓高校野球部には、「合宿所」がある。
 ここは、栄えある明訓高校のレギュラーを獲得した人間たちが、夜遅くまで、または朝早くから練習するために学校側が用意してくれた施設で、基本的に食費などは部費から賄われることになっている。
 その明訓高校の合宿所に住んでいる人間は、現在総勢10名。
──先日の夏の甲子園で初優勝を果たしたと思えないほどの、少人数の野球部である。
 それには少しばかり理由があるのだが──それはとにかく、秋季大会を目前に控えた今、合宿所の最上級生となった二年生、山岡達には課せられた使命があった。
 それは、この明訓高校の二年生が、代々夏の大会の後、必ず行う──儀式であった。
 山岡達は、腕の治療のために自宅に帰っていた里中も呼び、翌日曜日の練習は午後からと決めて──現在の野球部員10人を、全員合宿所の出入り口近くの談話室に集めた。
 集まった面々は、不思議そうに去年から在籍している三人の二年生を見つめた。
 キッチリと正座をして、なぜか恥ずかしそうに頬を染めている三人を見ながら、ミーティングなら、ミーティング室でやればいいのに……と、誰もが思っていた。
「おばちゃんは帰ったな?」
 チラリ、と視線を向けて北に確認する山岡に、北はコックリと頷き……恥ずかしそうにうつむいて、眼鏡を押し上げる。
 そんな北の仕草と山岡の仕草に、イライラ、と眉を寄せたのは岩鬼であった。
「いったい、なんやっつぅんじゃい、山岡っ! ええかげんにはっきりせんかい!」
「珍しく岩鬼の言うとおりづらぜ。」
 バシッ、と畳を叩いて叫ぶ岩鬼に、殿馬もノンビリと同意を示す。
 最近、この野球部に入ったばかりの面子にしてみたら、何が何やら……と言ったところだろう。
「一体、どういうことなんすかい?」
 不思議そうに首を傾げながらニコニコ笑う微笑には、聞かれた山田も里中も、ヒョイと肩を竦めるしかない。
「どういうことも何も、おれたちもサッパリなんだ。
 こんな召集は初めてだし……。」
 いつもは、午後9時を過ぎたら、自由時間とされている。
 主に勉学をしろ、という時間である。──合宿所暮らしの野球部員と言えど、宿題を免除されるわけではないからである。
 しかし、今日はその時間を過ぎて──すでに時計は午後10時を越えようとしている。
 このような時間帯に、談話室に集合、である。
 一体何事かと思っても仕方がないだろう。
「んー……あー……。」
 なぜかハギレの悪い山岡が、チラリ、と石毛を見る。
 そして何かを訴えるように目配せするのだが、石毛はその視線を受けて、慌てたようにブンブンとかぶりを振った。
「じょ、冗談じゃない! おれはゴメンだぜっ!? 山岡、お前が言えよ。」
「お、おれかぁぁ〜っ。」
「そうだよ、山岡、お前が一番適役だよ。だって去年だって……なぁ?」
 慌てて顔をゆがめる山岡に、北がズイと身を乗り出して、意味深に石毛に目配せする。
 石毛もその目配せを受けて、あぁ、と頷いて見せた。
 山岡は、そんな二人に、うーん、と低いうめき声を上げた後──ごほん、と一つ咳払いをしてみせた。
 先輩たち三人の、なぜかとてつもなく意味深な態度に、一年生と新入部員たちは、何がなんだかわからない……といった具合である。
「一体、なんなんですか、山岡さん? はっきりしてください。」
 岩鬼のイライラが首から頭の先に到達する前に、里中が整った顔をゆがめて山岡を睨みつける。
「おれは、明日も朝から治療が入ってるんですから、山岡さんたちと違って、朝も早いんですよ?」
 思ったことを全て口に出す里中の、キッパリとした言い分に、二年生三人は諦めたように視線を合わせ──山岡は、改めて居ずまいを正した。
 コホン、と咳払いを一つ。
「……俺たちは、これから最低一年間、この合宿所で、同じ屋根の下で過ごしていくことになる。」
 唐突にそう、切り出した。
 この言葉に、はぁ、と力ない声で答えたのは、微笑や仲根たちであった。
 逆に、はぁ? と、疑問系の声をあげたのは、山田達四人である。
「これからって、山岡はん? わいたちは、夏休み前から、ずーっと一緒でんがな?」
「あー……だから、土井垣さんたち三年生が居なくなって──って意味だよ。」
 コリコリ、と頭を掻きながら、石毛が変わりに答える。
 とりあえずその答えに納得して、はいなはいなと、岩鬼はやる気のない答えを返した。
 殿馬と山田、里中に至っても、特に何か意見を口に出すことはない。
 その面々をぐるりと見回し──こほん、と、山岡は一つ咳払いをした。
 その頬が、さきほどよりも更に赤く染まっている。
 それが不思議で、山田と里中はお互いに視線を交わして首を傾げあった。
「つまり、だな……俺たちが、これから、気心知れた仲として、仲良くしていくためにっ!
 ──この明訓高校野球部には、一つの儀礼があるんだ。」
 一大決心をしたかのように告げる山岡の台詞には、
「…………はぁ。」
 まだ事情が飲み込めない新入部員たちの頷きと、
「へー、そんなのあったんだ。」
 パチパチと大きな瞳を瞬かせる里中と、
「ケンカなら、喜んで買うたるでっ!」
 やる気満々の岩鬼の答えが返ってきた。
 そんな岩鬼に、北が慌てて突っ込む。
「いや、そういうんじゃないんだよ!」
「なんじゃい、儀礼と言うたら、コレやろーが。」
 ワキワキ、と手を動かせる怪しい仕草をする──ケンカをする拳の動きだろう──岩鬼に、山田が苦く笑いながら、
「その儀礼って、なんなんですか、山岡さん?」
 山岡達の話の先を進める手伝いをするために、自ら聞いた。
 そこへ、パチン、と指を鳴らして仲根が身を乗り出す。
「あっ、分かった、肝試しでしょ!?」
 こういうのは、良くあることなんだ、と、なぜか嬉しそうに顔をほころばせる彼の頭の中では、バレー部だかテニス部だかの女子と合同の肝試し大会……なんていう、嬉しい展開が繰り広げられているに違いない。
「へー、そんなのして楽しいんですか?」
 感心したような、バカにしたような声で尋ねる里中に続いて、こちらは感心したような口調で山田が、
「明訓高校にも、七不思議ってあるんだ。」
 やや的外れなことを口にすると、すかさず殿馬が、
「音楽室のベートーベンはウソづらな。いつも弾いてるけんどよぉ、何も出てきたこどはねぇづんづら。」
 指をタクトに真似て、それで四拍子を繰り広げた後、ヒョイと肩を竦めてみせた。
「がっはっはっは! まぁ、よぅもくだらんことを考えつくのぉ、山岡っ!」
 バシバシっ、と山岡の肩を叩きながら大笑いをする岩鬼に、そうじゃなくって……と、小さく溜息を零した山岡は、この個性の強い面子相手に、「アレ」を話させなくてはいけないのかと、げっそりしたものを覚えつつ。
「まずは、俺たち二年生が、過去の経験を話す。
 続いて、お前たちが順番に、暴露話をする。
 ────……そういう形式だ。」
 ますます顔を真っ赤にして告げる山岡に、更にハテナマークを飛ばす一年生たち。
 その中──あ、と短い声を零したのは、自分の彼女が土井垣にゾッコンだという、仲根であった。
「暴露話ってもしかして……コイバナ!?」
「ビンゴっ!!」
 指を立てて叫んだ仲根のストレートな物言いに、石毛が間髪入れずに肯定を入れる。
「つまり、そういう話で、わーっ、と盛り上がって、連帯感というか、親近感を持とう、と言う……そういう儀礼だ。
 ──ま、どーせ、一年も一緒に居たら、いずれ否応なくばれることなんだから、お前らっ、下手なウソはつくなよ!」
 ようやく本題に触れたことに安心した山岡が、いっきに開き直って、ギロリ、と目の前の面々の顔を睨みつけていく。
 そこへ、去年の経験者の一人である北が、にこやかに、
「そうそう、去年の石毛みたいにな。」
「ってこらっ、北っ!!」
 そんな暴露をして、石毛から慌てて制止を貰った。
 それを聞いた微笑たちは、あー、なるほど……と、苦い笑みを刻み込む。
 いくら野球に青春を捧げているとは言っても、自分たちは思春期の青少年である。女に対する恋情を捨てることはできないし、いくら青春にエネルギーを注ぎ込んだとしても、性的に淡白であれるわけでもない。
 そんな思春期の若者が集った合宿所で──昼も夜も一緒に居るようなものなのだから、ごまかしきれるはずもない。夏や春の試合の忙しいときなら、そんな気分にもなれないこともあるかもしれないが、閑散期だって存在する。
 そんな時に……自己処理の問題や、彼女とのアレやコレの問題だって、出てこないわけがないのだ。
 こういうのは、黙っていようとして黙っていられるものでもない。
 ならば最初から、遠慮なくそういうことを話し合い、時には相談しあえるような、そういう関係を築かなくてはいけないと、そう山岡達は言っているのだ。
 そのような問題で、野球に身が入らなくなっては困るという、そういう利己的な面が無いわけではないことも認めなくてはいけないだろうが。
 まぁ、そう言われて、はい、そーですか、と話せるわけではない。
 だからこそ、まず山岡や石毛、北が自らのことを話す──というのだろう。
 確かにこれは、「儀礼」だとは言え……恥ずかしいだろう。
 かすかな同情を覚えると同時、自分たちもすぐに自らのことを話さなくてはいけないのだと思うと──一体、どこまで、どういう風に話したものかと、さて、と頭を悩ませる隣から。
「…………で、コイバナって、なんなんですか?」
 純粋培養されてるんじゃないか、と疑うような怪訝げな声が、飛んだ。
 ハッ、と見やると、この野球部で一番の大モテ頭と言える少年が、首を傾げていた。
 そんな里中に、あきれたように岩鬼が口を開く。
「なんや、おまえ、そないなことも知らんのか?」
 その、呆れきった声に、ムッ、としたように里中は鼻の頭に皺を寄せた。
「なんだよ、知らなかったら何かあるのかよ!?」
 確かに、厳密に言えば知らなかったからといって何かあるわけではない。
 あるわけではないが──。
「恋愛話って言う意味だよ、里中。」
 コッソリ、と首を傾けるようにして、山田が素早く里中の耳元に囁く。
 その声に、へぇ、と頷いた里中は、一瞬遅れて瞳を瞬かせ──大きく顔をゆがめた。
「そんな話して、親近感が増えるんですか?」
 素朴な疑問を口にする里中の表情に、一瞬めげそうになった山岡であったが、
「増すんだよ、普通はっ!」
 バンバンっ、と畳を叩きながら訴える石毛に続き、
「これやから、お子ちゃまはあかんなぁ。」
 飄々と岩鬼がフォロー(?)をしてくれた。
 ギリ、と里中が悔しそうに唇を噛み締める。
 そんな彼の肩を叩き、まぁまぁ、と山田は里中と岩鬼の仲裁に入る。
「こういうときでもなけりゃ、俺たち野球バカは、恋愛の話を勉強させてもらうことなんてないからさ、ぜひ話を聞かせてもらおうじゃないか。」
「………………別におれは…………。」
 少し困ったように眉を寄せた里中に、
「うまく断る方法とかを知ってる人も居るかもしれないしな。」
 コッソリ、と山田は囁く。
 その台詞に、里中は目を瞬き──そっか、そういう考え方もあるのか、と納得したように頷いた。
「分かった。」
 コックリ、と素直に頷いた里中に、「やっぱり山田は猛獣使いだなぁ」と、里中の激情ぶりを知らない新入部員以外の部員は思ったが、それはとりあえず棚上げしておいてもいい。
 里中も納得したところで、では、と山岡が気恥ずかしげにコホンと咳払いした。
「包み隠さず話せ、とかそういうんじゃないから、まぁ、気楽にしてくれ。」
 そして、去年、微妙に緊張していた自分たちに、土井垣達が言ったのと同じ台詞を言いながら、山岡はかすかに動揺しながら天井あたりを睨みつける。
 それから、ゆっくりと視線を降ろし、両手を膝の上に置きながら、
「では、まずは僭越ながら俺から……。」
 一番手に名乗りをあげて、非常に居心地悪そうに、ぅおっほん、と大きな咳払いを一回。
「よっ、待ってましたっ!」
「おーっ! ──って、ほら、お前らも盛り上げろ、盛り上げろっ!」
 すかさず北と石毛が合いの手を入れて、慌ててほかの面々も拍手だとか、口笛だとかを吹き始める。
「って、山岡はん、そんな色っぽい話の経験がおまんのかな?」
 岩鬼が、眉を絞って呟くのに、黙って聞いてろ、と北と石毛がニヤニヤ笑う。
 ──どうやら、「おあり」のようである。
「まずは、そういう意味での名乗りを上げるとな。
 ──おれは、彼女いない暦『半年』だ。」
 少し苦い色を含んだ山岡の台詞に、あぁ〜、と、落胆とも感心ともつかない声が周囲から漏れる。
「ちょうど去年の今ごろは、野球部に入ってからすぐに出来た彼女が居てな……。」
 少し懐かしそうに目を細めるパンダ君に、
「そうそう、コイツ、去年の夏が初体け……っ。」
「バカっ! まだソコまで言わなくてもいいんだよっ!」
 石毛がククッと笑いながら口を挟んでくるのに、慌てて山岡がパシンッ、と頭を叩く。
 顔を赤く染めた山岡の行動と台詞に、おぉーっ! と、今度は感嘆の声が零れる。
 岩鬼ですら動揺した顔で、マジマジと山岡を見つめた。
 そんな視線にさらされて、山岡は居心地悪げに首を竦めるが、それで話を終えるわけにもいかず、ゴホゴホとさりげない咳をしながら、
「まぁ、野球部に入ってすぐに彼女が出来て、去年の夏の予選大会の後、練習の合間を縫って会ってたんだよ──……で、まぁ、……な?」
「最後までイっちゃったんですかっ!」
「さっすが山岡さんっ! 手が早い〜っ!!」
 ひゅーひゅー、と横から口を挟んでくる同学年やら、一年生やら──山岡は、ますます顔を赤らめて、茶化すなっ! と叫んだ。
 しかし、こういうのは茶化すのも礼儀だとか言いながら、笑って石毛と北がそれを煽る。
「去年なんか、まだ彼女と付き合ってたときのリアルタイムだったから、もー、土井垣さん達三年生も、すごかったよなぁ、北?」
「そうそう、からかわれて、山岡のヤツ、耳まで真っ赤でさー。」
 その反面、冬になり──クリスマス前に別れてしまったときの山岡は、悲惨だった。
 彼女の心変わりで、別に山岡にコレといった落ち度があったわけでもなく──何せ、この秋の告白大会で、山岡に彼女が居ると分かった先輩たちは、時には妨害工作をしてみせたものの、おおむねは山岡の恋愛事情に大きな態度をもって接してくれたからだ。
「えっ、彼女が居ると、なんか特別な考慮とかしてもらえるんすかっ!?」
 驚いたように仲根が声を荒げるのに、あぁ、そうさ、と北が頷く。
「とは言っても、本当に些細なことなんだけどな。
 例えば、外出許可を優先的に取らせてくれるだとか、彼女の誕生日とかは、掃除当番を免除とか──おれは、残念ながら彼女いない暦17年を貫いてるから、お世話になったことはないけどな。」
 最後だけ、茶目っ気を入れながらも、どこかどんよりした口調で呟いた北に、周囲から微妙な雰囲気の溜息が漏れた。
 岩鬼だけは、なにやら口元に手をあてて、うしし、とか笑っている。
 そんな彼へ、「まだ夏子さんはお前の恋人じゃないだろ」と突っ込むことは、誰もしなかった──時間の無駄だからである。
「俺なんて、続いても1ヶ月だからなぁ……。」
 石毛が、顎を撫でながら呟くと、
「ええーっ!! いっ、石毛、彼女がいるのか!!!?」
 ビックリしたような声が、二年生の間から漏れた。
 その言葉に頷いたのは、当の石毛ではなく、山岡と北であった。
「石毛は、なんだかんだ言って、付き合いが上手いよな? 気づくと居るんだよ。」
「気づくとって、なんだよ、そりゃ。」
 石毛が不満そうに眉を寄せるが、二人は軽い笑い声をあげるだけである。
「お前らは気づいてたか? こいつ、最後に付き合ってたの、6月の時なんだぜ。」
 クイ、と親指で石毛を指し示しながら、山岡は岩鬼、殿馬、里中、山田の顔を見回す。
 その台詞に──つまりは、3ヶ月前まで彼女が居たと言う言葉に、えぇーっ、と、声が漏れた。
「全然知りませんでした。」
 素直に答える山田に、そうだろうな、と石毛は笑う。
「彼女が居るからって、堂々と言うものでもないんだよ。──まぁ、堂々と宣言するのも居るけどな。
 特に俺の場合は、他校生だったから、会うこともないだろ。」
「他校生っ! す、すっげぇ……。」
 何に感動したのか、今川がパチパチと忙しなく睫を動かしながら、はぁ〜、と感嘆の吐息を零す。
 一方、しょっちゅう他校生に金網にしがみ付かれ、キャァキャァ声をあげられている里中は、それの何がすごいのか理解できないまま、首を傾げた。
「でもなぁ、他校生はダメだぞ──相手の高校の内情がわからない分、長続きがしにくいんだ。」
 したり顔でそう呟く石毛に、
「そりゃ、お前ががっつきすぎてるだけだろ?」
 あきれたように北が突っ込む。
「がっついてねぇよ、別に!」
 目元を赤らめて石毛が叫び返すが、いーや、がっついてる、と、山岡と北の二人から答えが返ってくる。
 そんな三人の──一年間を同じ合宿所で過ごした彼らの、和気藹々とした様子に、仲根たちも同学年の気安さもあってか、すんなりと入り込んでいく。
「でもなー、それ、分からないでもないんだよな〜。
 俺の彼女、一年生なんだけどさ……やっぱ、クラスと学年が違うだけでも、話がかみ合わなかったりするもんな。」
 はぁ、と溜息を零す仲根に、
「そりゃー、話すネタがないだけでっしゃろ。」
 くっくっくっ、と手の平を口に当てて、岩鬼が笑う。
 そんな彼に、単にお前はうるさいだけだ、と誰もが思ったが、あえてそれを口にする者はいなかった。口になどしなくても、岩鬼以外の全員に通じていると分かっていたからである。
「おぅよー、夏子くんは、聞き上手づらで、助かりーづらな、岩鬼。」
 それでも、これだけは言っておくかとばかりに、ゴロゴロと足先でボールを弄びながら、殿馬が皮肉を口にすると、岩鬼はそれを聞いた瞬間、顔を赤く染めて、
「よーわかっとるやないけ、とんま! そうじゃい、夏子はんは、わての最高の人じゃい!!」
 堂々とそう叫んだ。
 どうやら、「お似合い」だと褒められたと思ったようである。
「いい耳してんなぁ、岩鬼…………。」
 ボッソリ、と呟いて、はぁ、と山岡は視線をほかの二年生たちにやった。
「さて、それじゃ、次は今話しに出た仲根、お前が行っておくか?」
 このまま放っておいたら、まだ「恋人」でもない上に、片思いにしか過ぎない岩鬼がサクサクとのろけ話(しかも一方的な)をしてしまいそうなので、その前に話を進めることにしたようである。
「おれかぁっ!?」
 名指しされた仲根は、照れたように頭を掻いて──それでもまんざらでもなさそうな顔で、それじゃぁ、と話を始めることにした。
「俺の彼女は一年生だって、さっき言ったよな?」
「てぇ言いますと、何組なんすか?」
 微笑がニコニコと尋ねると、うん、と顎を撫でながら、にやにやと仲根が答える。
「D組の……。」
「朝霞 京子ちゃんって言うんだぜ。」
 すかさず隣から口を突っ込んできたのは、今川であった。
 彼はパチパチと長い睫を揺らしながら、ウィンクすると、仲根が顔を真っ赤に染めて、おいっ、と今川の肩を掴む。
 そんな彼に、ふふふ、と今川は笑った。
「D組って言うと、殿馬のクラスだな。」
 穏やかに微笑んだまま、山田が殿馬を見ると、彼はボールをゴロゴロさせながら頷いて見せた。
「夏子はんはB組やで。」
 誰も聞いてないのに、そんなことを語る岩鬼に、それはもう、分かってるから、と石毛が突っ込んでやった。
「朝霞って……朝に、霞って書いて、朝霞ですか、仲根さん?」
 そんな中、里中が少し困ったような顔をして、仲根を見上げる。
 その里中の顔に、イヤな予感を覚えた仲根が、そうだけど──……と、声をこもらせて呟く。
 まさか、と思うと同時、ミーハーな彼女なら、やりかねないとも思った。
 せめて──せめて、土井垣相手にしたような、アイドル相手のミーハー感覚での、「プレゼントをあげたの」ですんでいればいいのだが。
「知ってるのか……里中?」
 イヤそうな顔で確認する仲根に、里中は小さく頷くと、
「この間、女子の調理実習でクッキーを作ったとかで、おすそ分けしてもらったんです。……全部岩鬼が食べちゃったけど。」
 そう答えた。
「あぁ、あの女の子が仲根さんの彼女なんだ?」
 山田も思い当たったらしく、納得したように頷くのに、
「あーっ、あの、まぁずいクッキーなぁ。」
 岩鬼が、したり顔でそんなことを言ってくれる。
「何言ってるんだよ、全部一人で食べたくせに。」
 すかさず里中は突っ込んだ後、
「そっか──あの人が仲根さんの彼女なんだ。
 結構、可愛い感じの人ですよね。」
 気を取り直して、仲根に微笑みかけた。
「あ……あ、あぁ、そうなんだ……可愛いんだよ、本当に。」
 途端、仲根は、自分の彼女が「里中に差し入れした」という事実を棚にあげて──何せ、ミーハーな彼女が土井垣に差し入れしていたので、慣れているので──、にんまりと顔をほころばせる。
 そんな彼に、ひゅーひゅー、とからかうような口笛が四方八方から飛んだ。
「──一年生ってことは、付き合いはじめてそう間もないんだよな?」
 北が首を傾げるようにして尋ねると、仲根はコリコリと耳の後ろを掻きながら頷く。
「五月くらいからだから──まだ、四ヶ月なんだ。」
 その、四ヶ月もたたないときに、「土井垣さんステキ〜v 里中ちゃん、かっわいーいv」とか言い始めたのだから、俺も野球部に入らねばと焦ったのも無理はないだろう。
「ぅわー、付き合い浅いなぁ。」
「石毛には言われたくないだろうさ。」
 眉を顰めた石毛に、すかさず北が突っ込み、更に続けて、
「でも、夏休みを挟んでるからなぁ……俺たちと違って、色々……行ったんじゃないのか? おい?」
 山岡までもが、ニヤニヤといやらしい笑みを刻みながら、仲根のわき腹を突付く。
 そんな山岡が、すでにもう経験ズミだと分かっているからこそ、仲根も照れたような、そんな笑みを貼り付けて、うーん、と唸った。
「それがさぁ、海にも行って、夜景とかも見たんだけど──なぁーんかこう、あと一歩、ってところで、上手くいかなくってさ。
 まだB止まりなんだよ。」
 素直に吐いた仲根に、あー、そっからが難しいんだよなぁ、と、山岡は知ったような顔で呟く。
 逆に石毛は、最長一ヶ月の付き合いを誇りながらも、しっかりと深い関係までは行き詰めている男の余裕で、
「一度二の足を踏んじまったほうが、後々進みにくくなるもんだぜ?
 ココはムードを作って、一気にやったほうがいいって。」
 そう助言してやる。
 でもなぁ、と渋る仲根に、山岡は、
「石毛は一ヶ月の男だからな、あんまり話を信用するなよ。長続きさせたいんだろ?」
 そう助言してやった。
 途端、
「ほっとけ! どうせ俺は、一ヶ月で別れてるよっ!」
 泣きそうな声で、石毛が叫んだ。
 瞬間、プッ、と誰にともなく噴出し──部屋の中は、笑い声に満ち溢れていった。
 二年生たちの、ちょっと卑猥が混じった、現在と過去の女性付き合いの話が、ようやく一段落ついたときには、もうすでに時計は中央を回り、日付の変更を告げていた。
 しかし、狭い談話室に集まった10名は、眠さを訴えるどころか益々目が冴え渡るばかりであった。
 普段はそういうことに興味がない顔をしている野球バカでも、思春期の青少年であることには変わりない。二年生たちが、現三年生達の暴露話まで持ちかけた頃には、宴は最高潮に達していた。
「よぉし、それじゃ、そろそろお前らの方と行くか。」
 すでに根堀葉堀聞かれて話してしまった山岡と石毛、仲根たちは、開き直るように一年生達に向かった。
 個性的だと言われる明訓高校の要であり、もっとも個性的な集団──四人組+転校生である。
「なんや、ようやくかい。」
 言いながら、ヒクヒクとハッパを揺らして、岩鬼が待ってましたとばかりに目を輝かせる。
 ──いや、片思いの「彼女」が居ることを思えば、良く今まで黙って話を聞いていたものだと、そう感心するばかりだ。
「スーパースターは、待たされて登場するもんづんづら。」
 慣れた調子で、岩鬼を煽って、殿馬はずいぶん冷めたお茶を啜る。
 このまま岩鬼に喋らせておけば、うんざりした二年生たちが、この会をお開きにしてくれるのではないかと、そう狙っているような節も見える。
 そんな飄々とした殿馬の考えには同調できたので、山田もここぞとばかりに岩鬼を煽った。
「よっ、待ってました!」
 もちろん、興奮した他の面々がそれに乗ってこないはずもなく、すでに自分達の暴露をしまくった二年生たちは、ここぞとばかりに一年生達の赤裸々なプライベートを暴き立ててやろうと、相好を崩して岩鬼を拍手で迎え入れた。
 夏子に岩鬼がベタ惚れしているということは、周知の事実だ。
 しかし、実際、彼らがドコまで行っているのか、そのことは誰も知らず──というよりも岩鬼の台詞がどこまで事実なのか判断つけがたく──、今日こそは聞き出してやろうと思う者も居る。
 思わず身を乗り出す二年生たちの勢いに満足した岩鬼は、そのまま片手を挙げて、まぁ、落ち着け、という動作をした後、朗々と──そして延々と、夏子との出会いから語り始めた。
 彼いわく、あれは運命の出会いだったのだそうである。
「そういえば、おれが岩鬼と会ったときにはもう、岩鬼は夏子さんにベタ惚れだったなぁ。」
 鷹丘中時代を懐かしんで思い出す山田に、殿馬も頷く。
「気づいてなかったのは、夏子くん本人だけづらぜ。」
「でも、あれだけ露骨で、夏子くんはどうして気付かないんだろうな?」
 里中は首を傾げて、頬を紅潮させて、ばら色の日々の始まりを延々と語る岩鬼を見上げた。
 彼はこの間の放送室ジャックを思い起こさせるような語り口調で、朗々と歌い上げる──まったくもって、無駄な特技である。
「気づいてるんじゃないのか?」
 石毛が里中の疑問に答えるが、それに対する一同の見解は微妙であった。
「どうでしょう?」
「うーん、おれは気付いてないと思うんだけどな。」
 そんな会話を交わす面々の前で、岩鬼の語りはどんどんエスカレートしていった。
 初めは苦笑しながらも、耳を傾けていた面々であったが、
「そこで夏子はんは、わいの柔道着姿を見て、『まぁ、岩鬼くん、なんて男らしいのかしら! 私、惚れ直したわぁ』と、そう言うてくだはった! あの時の…………。」
 好きな女性との交際は、純朴以外の何者でもない岩鬼の、恋する乙女な瞳とハッパに、はいはい、と、いいかげん聞いていたほうがウンザリし始めた。
「着色しすぎづんづらよ。」
「うーん、こんなことあったかなぁ?」
 まだ野球部にまで話は進んでいないのに、長々とまだ続きそうな展開に、いい加減飽きてきた面子は、一人で悦に入って語っている岩鬼を無視して、山田と殿馬、里中へと微笑へと視線を移した。
 来たっ、と、彼らがドキリ、と構える間もないまま、
「ところでお前らは、どうなんだよ? 恋愛話は。」
 突付くように石毛がニヤリと笑った。
 その視線を受けて、微笑は変わらずニコニコと笑い──おっ、これは余裕か、などと仲根から突付かれる。
「いやいや〜、そんなことないっすよ〜。」
 笑いながら言われても、まるで説得力がない。
 ここぞとばかりに、北が身を乗り出した。
「もしかして微笑、遠距離恋愛かっ?」
 前の学校に彼女が居るんじゃないかと、そう期待に目を輝かせて尋ねる北に、しかし微笑はアッサリと、
「違いますよ。別れてきましたからね。」
 ──アッサリと、白状した。
 あまりにアッサリした顔と声で言われたものだから、一同は、なーんだ、と軽く頷きそうになってしまった。
「別れてって……三太郎、お前、コッチに来るのに、別れたのか、彼女とっ!?」
 思わず素っ頓狂な声を上げたのは、里中であった。
 その声に、調子よく──誰も聞いていないと知らず──話していた岩鬼が、むっ、と顔をしかめてチラリとコチラを見た。
 見た先で、自分の話に耳をチラリとも傾けていないらしい連中が、ニコニコと笑う微笑を驚愕の眼差しで見ているのに気付いた。
「なんじゃい、なんじゃい、この男・岩鬼さまの話を腰折ってまで、一体何を騒いどるんや、一般人。」
 にょっきりと、里中と山田の間に巨大な顔を挟んで、フリフリとハッパを振って叫ぶ。
「だって、野球のために恋人と別れたって言うんだぜ? 薄情なんだか、思い切ったことをするよな。」
 感心半分、呆れ半分──そして、もったいない、と思っているらしい顔つきで、山岡がマジマジと微笑を見つめた。
 微笑は、そんな彼らに、
「んー、でも、彼女が言い出したことっすから。」
 ニコニコと奥を見せない微笑みを貼り付けたまま、そう呟いた。
 その言葉が、少し寂しさを含んでいるような気がして、山田は軽く目を見開く。
「ま、彼女よりも野球を取ったって言われたら、それまでなんすけど──それでもやっぱり、俺は、野球バカっすからね。」
 小さく笑う微笑の言葉に、あぁ、なるほど──と、しっくり来る感覚を覚えたのは、山岡と石毛だった。
 彼女のことは好きだった──本当に好きだった。
 彼女と野球は比べられるものではない。
 そう分かっていても、知らず知らずのうちに、「野球バカ」は、野球を優先してしまうのだ。
 だから、彼女から、「ごめんなさい」──されてしまう。
「彼女は好きだったけど、夢は捨てられなかったんす。」
 いっそ潔いほどに、ニッコリと微笑が笑った瞬間、
「男やっ! 三太郎っ! 偉いっ!!」
 バンッ、と岩鬼が山田と里中を押しのけて、ぐぐっ、と微笑に迫った。
 なにやら感極まっているあまり、涙まで端に浮かべていたが、もしかしたら微笑の話を聞きながら、夏子と自分の境遇に当てはめているのかもしれない。
 誰もがそんなことを思った瞬間、
「その点、わての夏子はんは、なんて奥ゆかしく、すばらしい女性なんやろうっ! わいは、幸せものや〜っ!!」
「……そっちの感激の涙かよ。」
 てっきり、微笑に感激したのかと思った、と里中が呟くと、殿馬が小さく「頭は春づらな〜」と、零してくれた。
「そっか、お前も辛い決断をしたな……。」
 しんみりと呟く山岡は、昨年の冬の失恋を思い出しているのだろうか、少し遠い目になっていた。
「その思いに答えるためにも、秋季大会は頑張ろうなっ、微笑っ!」
「それに、明訓高校にもかわいい子は一杯いるぞっ。恋愛の痛みは、恋して忘れるんだっ!」
 ギュッ、と力強く叫んだ山岡と仲根に、笑って微笑が頷く。
「そうっすね。野球で頑張って、モテモテにもなりますしね〜。」
 しっかり仲根のチェックポイントを知っている微笑の台詞に、おぅっ、と元気良く拳を上げて答えたメンツには、なぜか石毛と北と今川も混じっていた。
 そんな彼らは、勢いづいたまま、視線を里中達へと注ぐ。
 夏の甲子園初優勝投手として、非常に注目を集めている人気の高い少年は、その視線にイヤそうに顔を歪める。
「──で、そのモテモテの里中はどうなんだ?」
 ニヤニヤと笑う先輩達の顔は、あくまでも面白がる雰囲気があった。
 本来なら、ここで更に煽ってやるべきなのだろうが──里中の答えは、憮然としたものだった。
「言っておきますけど、俺、そういうのに答えられるようなネタはないですよ?」
 そんなことを話し合う友人も居なかったし、女性と付き合ったような経験もない。
 さらに言えば、そんな恋愛話に胸をときめかす者のいた中学時代、前半はひたすら打倒小林のために明け暮れ、野球部をやめた後は、練習も兼ねた新聞配達のアルバイトで、高校の入学資金を溜めていたし──その途中で、山田の偵察もしていたが。
「あれだけもててて、何もしてないのかっ!?」
 驚いたように目を見開く面々に、里中はコックリと頷いた。
「じゃぁ、初恋はイツだよ、初恋は?」
「ないです。」
 キッパリと答える里中に、あぁぁぁ、と周囲から落胆の声が零れた。
 どうして落胆されるんだと、憮然とした顔になる里中に、
「お前、まずいよ……本当に、まずい。」
 ため息を零して、はぁぁ、とかぶりまで振られてしまう。
「奥手の北ですら、今、好きな人が居るっていうのに……。」
「わーっ! 山岡っ、それは言わない約束だっただろーっ!!」
 思わず興奮そのものに叫んだ山岡に、慌てて北がしがみ付く。
「えっ、北、さっきそんなの言わなかったじゃないかっ!!」
 顔を顰めるほかの面々に、頬を真っ赤に染めて、いや、だって──と、北は口もごる。
「す、好きなだけなんだよ……だから…………そんな、言うようなことじゃ…………。」
 口にするほど真っ赤になっていく顔と耳とに、へぇぇー、と、仲根たちが目を細める。
 その口元に意地の悪い笑みが浮かんでいるのに気づき、ひくっと北が唇を震わせて、ジリリと後退するも、間に合わず。
「北っ! そりゃ、一体、どこのクラスの女子だっ!?」
「お前のことだから、年下かっ!? 同じ委員会のヤツか〜っ!!?」
 がばっ、と、小柄な体を抱きしめられて、そのままヘッドロックをかけられる。
 うりうり、とこめかみを揉み解してやりながら、石毛がニヤニヤとした笑い顔を北に近づける。
 ぅー、と唸り声をあげて、北は首をよじろうとするが、石毛の力に北が敵うわけはなかった。
 そのままギュゥギュゥと締め付けられて、北はバタバタと足と手を動かせた。
「だっ、だから、そんなんじゃ〜っ!」
 必死に口をつぐもうとする北を、
「くすぐりの刑じゃー!!」
 誰が叫んだのか、おたけびのようなその一言に、おぉーっ! と答える声があがった。
 その声に北が悲鳴をあげる間もなく、調子に乗った微笑が、がばぁっ、と襲い掛かる! 更に続けて、仲根たちも北を責めるために、手を動かせて近づいていく。
「あー……悪い、北。」
 自分が余計な一言を言ってしまったという自覚のある山岡が、顔の前で手をあげてそう呟くが……悲鳴とくすぐりの洗礼を受けている最中の北には、聞こえてもいなかったし見えてもいなかった。
「それにしても、今年の一年……っていうかお前たちは、色気がある話の一つもないのか?」
 山岡は、めがねがずり落ちるほど笑い転げている北が白状するのも時間の問題だろうなと呟いてから、チラリ、と里中達を見やった。
 その中に見える呆れの色を認めて、里中はムッとしたように鼻の頭に皺を寄せる。
「そんなこと言われても、好きになろうと思って、好きになるものじゃないでしょ、恋愛って言うのは。」
「まーた、そんなお子ちゃまが知ったかぶりをしよるわい。」
 はっ、と鼻で笑う岩鬼に、なんだよ、と食って掛かろうとしたが、すぐに岩鬼自身も恋愛真っ只中の微妙に玄人だと言う事実を思い出し、ほぞを噛む。
「でも実際、岩鬼は夏子さんとの出会いに、運命を感じたんだよな。」
 ニコニコと、穏やかな微笑を浮かべた山田が、岩鬼の背中を軽くポンポンと叩く。
 そんな山田の台詞に、ぎろり、と鋭い睨みを利かせた岩鬼であったが、すぐにトロリンと相好を崩して、
「夏子はぁーん……。」
 と嬉しそうに呟いたかと思うや否や、
「そんなんは、おまえに言われんともわかっとんのや、やぁーまだっ!!」
──と、思い切り良く叫んだ。
 そんな岩鬼に、だよなぁ、と山田がニコニコ笑うのを見ながら──ふ、と、山岡が山田と殿馬に視線をあてた。
 にんまり、と表現するのがふさわしいような笑みを浮かべたかと思うと、
「それで──山田、殿馬、お前らはどうなんだよ?」
 ヒジで突付く振りをされて、山田は困惑した色を宿し、殿馬は軽く肩を竦めてみせた。
 山岡の、隈で縁取られたような目で覗き込まれるように見上げられて、山田は小さく息と止めてから──そ、とそれを吐いた。
 その、ほんの一瞬の動作に……ぁ、と、里中は目を小さく見開く。
 けれど、山岡も岩鬼も殿馬も、些細な山田の仕草には気づかず、山田の答えを促すように視線を彼へと当てた。
 山田は首を傾げるようにして、
「──といわれても、おれは何もないですよ? そんな、女性と付き合った経験なんかもないですし。」
 苦い笑みを貼り付けるばかり。
 そんな彼に、岩鬼が、当然と言わんばかりの顔になる。
「あかん、あかん! やぁーまだには無理や、無理!
 あれだけどブスチビといちゃついとって、彼女なんて作れるかいな。」
 バカにしたような口調で、なぜか偉そうにほざく岩鬼であったが、聞いていた山岡は、なるほど、と頷いた。
 しかし、山岡が納得したのは、そういう意味ではなかった。
 山田の家には両親が居ない。
 そのため、山田は実家の家事の手伝いをして、年の離れた妹の面倒も見なくてはいけない。
 その上、彼はこの野球部の要で、マジメであるが故に学生の本分も忘れては居ないのだ。
 それを思えば、確かに──そんな暇はないだろう。
 うーん、と、感心半分、これではいけないんじゃないかと、老婆心をムクムクと燃やしてしまうの半分で、山岡が腕を組んだ瞬間だった。
 不意に里中が、
「でも、好きな人くらい居るだろ、お前だって?」
 あえて山田が口にしようとしなかったことを、尋ねた。
「………………ぇ、い、いや──それは……。」
 まさか里中の口からそんなことを聞かれるとは思っても見なかったらしい台詞に、山田は言葉の先を詰まらせた。
 かすかに目を見開いて、狼狽した様子を見せる山田に──珍しいとも言えるその山田の態度に、おっ、と、一同の目が輝いた。
 これは、「脈アリ」だ。
 誰もがそう思った。
 北に突っかかっていた面々までもが、がばっ、と顔をあげ、山田を見やる。
「サッちゃんが可愛いから、山田は面食いそうだよな。」
「──いや、そ、そんなことはないですよ?」
 石毛の台詞に、焦ったように顔の前で手をブンブン振る山田に、ますます里中は核心を深めた──いや、里中だけではなく、全員が。
 山田には、好きな人が居る。
 それも──相手は、美人だ。
 瞬間、ふだんは冷静沈着で、物事を静かに見守る受身の山田を、突っつきまわせる機会に、号令もかからぬまま、一同が手を組んだ。
「なんや、やぁーまだ、生意気にもお前にも好きなやつがおる言うんか。
 言うてみぃ、この岩鬼様が、お前の恋の指南をしてやるわい。」
 岩鬼が、ポン、と山田の平たい頭に手を乗せた。
 そのままグリグリと頭を掴み撫でる岩鬼に、山田はされるがままになりながら、首を竦めた。
「い、いや、だから──そういうんじゃないって。」
 そう言って、顔の前で手を振る山田が、否定する動作をすればするほど、一同は核心を深めずには居られなかった。
「なんだよ、山田〜。水臭いぞ、名前まで言えとは言わないけど、どういう人なのかくらい、教えてくれてもいいじゃないか。」
 ツイツイ、と四方八方から突付かれて、山田は本気で参ったように眉を落とした。
 何せ、今まで野球一筋で来た山田は、小学校から中学校時代の今まで、そういう恋愛沙汰の会話をした覚えがなかった。話を聞いてやることはあっても、自分が的になったことは、コレが始めてである。
「い、いや……そういわれても……。」
 ほとほと困ったような顔で、さて、どうやって逃げようかと、山田が真剣に考えはじめた瞬間、クイ、と、袖を引っ張られた。
 ん、と、視線をよこした先で、里中が、じ、と山田を見上げていた──真摯な瞳で、ヒタリ、と彼を見据える。
「な、山田が好きな子って、美人?」
「…………ぇ。」
 思わず言葉に詰まった山田に、里中は更に言葉を重ねた。
「同じ学校? それとも別? まさか白新のヤツとか言わないよなっ?」
 最後の一言だけ、ジロリ、と睨み上げる里中に、まさか、と山田はかぶりを振った。
 そんな山田らしくない行為に、全員がさらに核心を深めた。
──山田は今、好きな人が居る。確実に。
「じゃ、東海高校のヤツでもないし、横浜学園のヤツでもないな?」
 重ねて聞いてくる里中の口から出てくるのは、多分に、里中が現在ライバル意識を持っている野球部の高校であることは間違いなかった。
 そのうち、「通天閣とか土佐丸でもないよなっ!?」と聞いてきそうだと、一同が思った瞬間、実際にその高校の名前が里中の口に持ち上がった。
──やっぱり、と、なぜかドッと疲れたような感覚で、みんなはそれを聞いた。
 そして、一通りライバル高校の名前をあげて、その全てに山田が首を振ったのを確認して、里中はニッコリ、と花ほころぶように微笑んだ。
「そっか、なら、同じ学校のヤツだな。」
 山田の服を掴んでいた手を離して、そう納得したように頷いた里中が呟いた言葉に、しまった、と──山田は、強引な誘導尋問をされたことを悟った。
 瞬間、おおーっ、と、周囲から拍手が沸きあがる。
 手の平を口元に当てて、山田が、このまま白状されてしまうのだろうか……いや、それだけは避けないと、と、真剣な表情で思っているのを知ってか知らずか、里中はそんな山田を見上げて、にこり、と笑った。
「山田、手伝いや応援が欲しいときは、いつでも言ってくれよ?」
 純粋に、恋女房の恋愛の応援をしたいと、そう笑う里中の顔には、いっぺんの曇りもない。
 曇りはないのだが──それを聞いていた先輩たちの顔には曇りがあった。
──里中に恋の応援が出来るかどうかはさておき、女の子からぜっせいの人気を誇る里中に応援をされることほど、不安なことはないだろう。
 里中が相手だと、ラブレターやプレゼントの橋渡しを頼むのすら、正直な話、怖い。
 だから面々は、そう山田に笑って告げた里中へ、曖昧な返事をする山田を、責めることは出来なかった。というよりも、その心中を思って、コッソリと両手を合わせて拝んですらやった。
 山田、里中にそれを頼んだ時点で……というか、里中に相手の名前を一言でも漏らせば、お前の恋は成就しない可能性が高くなるかもしれない。
 美形で人気のある友人を持つことは、時に試練になることもあるのだ、と──そう、土井垣を見てきた二年生たちは、思った。
「サト、お前、自分の恋愛もできんくせに、やぁーまだの恋の橋渡し、なんてできるとおもぅとんのか?」
 あきれたように口を突っ込んだ岩鬼の台詞は、当然と言えば当然で──あんまりにも当たり前のことを突っ込むので、明日は雨かと、みんな思ったほどだった。
「岩鬼よりもマシだと思うけどな。」
 ベ、と舌を出して、岩鬼にそう言った後、怒りに顔を赤く染める彼には全く目をくれずに、里中は山田を振り返り、彼の手の平をギュ、と握り締めた。
「山田、何かあったときは、岩鬼に相談するよりも、おれに相談してくれよなっ!」
「…………里中…………。」
 真摯にそう告げてくれる里中の気持ちはありがたかったが、あははは、と渇いた笑いを零す山田の心中を、誰もが察した。
「──で、そういう里中は、どうなんだ? お前、あれだけ騒がれてるんだから、一人くらい好みのタイプは居なかったのかよ?」
「あー……里中のは、すごいっすよねー。」
 山岡の問いかけに、微笑が感心したように呟く。
 土井垣の時も他校生が来るほどとは、すごい、とは思っていたが、甲子園で優勝してからは──美形のピッチャーほどもてるものはないのだと、誰もが思った。
 小柄で、美人と言うよりは可愛い面差しをしている里中は、少女達にとって、身近なアイドルのような感覚なのだろう。
 里中は、そんな風に話を振られて、ひどくイヤそうに顔を顰めて見せた。
「タイプも何も、あんな追いかけられ方して、そんなの考えてる暇があるわけないじゃないですか。 この間なんて、髪の毛毟られたんですよ、俺っ!?」
 校門前で待ち伏せしている他校生のことを思い出すと、新学期以来、校門から出る機会が少なくすんで、良かった良かった、と心から思っているくらいなのだ。
 心の奥底からイヤそうに叫んだ里中に、もてすぎる悲鳴だな──と、可哀想に思うやら、うらやましいと思うやら。
 どちらにしても、このままだと里中がまともな恋愛をしそうに──いや、出来そうにないことは、確かであった。
「お前も大変だなぁ、里中。」
 感心したように呟く北に、うんざりしたように里中が頷いて…………どうやら、今日の「儀礼」は、終わりを告げることになりそうであった。






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いいわけ。
確か山田と里中と岩鬼がA組なのは覚えてるんですが、殿馬はBかCかDだったような……。
そして微笑は、多分四人とは違うクラスだったような……といううろ覚えで書いてみました。
つまり、基本設定は捏造です!

すみません、今度きちんと読んだら、書き直してみます……えぇ。