談話室で行われた「暴露大会」は、全員に興奮した感覚を残しながら、解散となった。
野球に青春を掛けているとはいえ、野球小僧という文句を除けば、所詮ただの思春期の青少年。盛り上がるにまかせた話は、各自自室に引き返した後も続くことは間違いなかった。
おそらくは、各部屋で朝まで卑猥な猥談を語り明かす部屋が多いに違いない。
思い思いに腰をあげ、談話室から去っていく二年生たちを見送り──もっとも、彼らはこれから、北の片思い相手を暴露するために、彼の部屋に集まるだろうことは想像に難くない。
きっとそのまま、1年生を他所に、多いに猥談で盛り上がることだろう。
「じゃーな、お前らも早く寝ろよー。」
「って、寝れるかよっ!」
クックックッ、と、笑いながら去っていく仲根の声がそれを物語っている。
その反面、一年生達の方は、ひどくアッサリしたものだった。
「それじゃー、寝ますかねぇ〜、今川さんが帰って来たら、絡まれるだろうしなー。」
先ほどまでは、嬉々として猥談に参加していた微笑が、大きく伸びをする。
岩鬼に至っては、風呂じゃ風呂じゃ〜、と、数時間前にも入った風呂場へ直行である。
そして、なんだかんだ言いながら、最後の最後まで暴露話から飄々と逃げ切った殿馬は、なにやら走り書きをし終えた紙を見て、づら、と一つ頷くと、
「また明日〜、づら。」
ずーらずらと、何事もなかったかのように去って行った。
「おやすみ、殿馬。」
そんな殿馬に微笑みながら就寝の挨拶をした山田は、ふ、と──去っていく殿馬の手に握られた紙の存在に気付いた。
始まる前は持っていなかったはずだが、と首を傾げた山田に、
「作曲してたみたいだな……どんな曲が出来るんだか。」
呆れたような口調で、里中が肩を竦めながら教えてくれた。
どうやら、みんなが猥談をしているときに、キラーンッと目を輝かせて、唐突に走り書きを始めたようである。
あの空気の中で作曲できる殿馬もたいしたものであるが、そこで出来た曲というのも……怖い気がする。
「それじゃーな、里中、山田。また明日。」
ひらり、と長身の微笑が笑顔で手を振るのに、最後に談話室に取り残される形になった二人は、うん、と頷いて見送った。
「おやすみ、三太郎。」
誰もいなくなった部屋を、グルリ、と見回し、山田はヤレヤレと重い腰をあげた。
そのまま、当たり前のようにそこらに放置された湯のみやら雑誌やらを片付けはじめる山田に、里中も体を起こす。
「盆を取ってくるよ。」
「あぁ、悪いな。」
基本的に談話室に飲み物などを持ち込んだら「自分で片付ける」が基本なのであるが、それを面倒がって、食堂で飲み物を飲むことが多い──それが、男所帯と言うものである。
そして、それを押して談話室に湯飲みやらグラスやらを持ち込んでしまうと、最初は片付けるつもりだったのに、結局それを忘れてしまう──ということも、多々あった。
そうすると、まかないのおばさんからこっぴどく全員が叱られる羽目になるので、イツゴロからか、気づいた者が片付ける、という暗黙の了解が出来上がっていた。
──そして、それは常に、山田がになうようになって、はや二ヶ月。
こういう全員で集まったときは、自然と山田が後片付けをするようになり、誰もがそれを疑問に思わないようになった。
それもこれも、徳川監督が山田1人に洗濯だの掃除だのを、まかせっきりにしてしまった後遺症と言えよう。
時間が出来る限り、そんな山田を手伝っていた里中も、今回の後始末を山田と自分がすることに異論を挟むことはなかった。
というよりも、「いつも山田にさせてないで、たまにはやったらどうだっ。」と叫んでも良かったが、今回ばかりはそれを遠慮したかった。
そんなことを言おうものなら、再び彼らの手に捕まって、あれやこれやといらない「教授」をされることは間違いないのだ。
せっせと湯飲みを集める山田を背に、里中は談話室を出て、そのままの足で食堂に向かった。
逆方向の居住区からは、ドッ、と下卑た笑い声があがっていて、やはりまともに自室に帰った二年生は居ないらしいことが分かった。
熱気に溢れるあちらとは違い、食堂は暗く、しん、としていて、どこか物寂しく感じた。
慣れた調子で電気を入れると、2、3度瞬いて、電灯がともった。
いつも賑わっている食堂は、ガランとして、いやに広く感じた。
その中を横切り、厨房と食堂を区切るガラス窓の前に立つ。
いつもはこの辺りに、丸いお盆が置かれているのだが──今日は、それが見当たらなかった。
「? 誰か部屋に持ってってるんじゃないだろうな。」
それもまた、よくあることだった。
時々、そうやって各部屋を渡り歩いていることすらある。
おばさんがそれに気づいて怒鳴るまで、食堂に帰ってこないのである。
──かと言って、その「各部屋」に、里中自らがお盆を取りに行くのも避けたいところだ。
「女三人集まれば姦しいって言うけど、男だって集まったら、うるさいよなー。」
眉を寄せて、げんなりしたようにそう呟いた後、里中は──いや、と首を傾げた。
「土佐丸はそうでもなかったか。」
甲子園大会の宿泊先で、同じ宿であった高校の──初対面は不気味の一言に尽きるあの高校のことを思い出す。
みんながみんな、ああでも困るなぁ、と、くすくすと一人笑いながら……それでも、と、思った。
あんな彼らも同じように、こうして集まった夜は、バカ騒ぎをするのかもしれない、と。
同じように話して、下ネタが出れば、ドッと笑うことは、里中にもできた。
けど。
「…………好きになろうと思って、なれるもんじゃないだろ。」
言い訳のように、先ほども口にしたことを、ポツリ、と呟く。
その言葉は、いやになるくらい静かに部屋の中に響いた。
小学校から今まで、ずーっと野球一筋できていた里中は、山岡達にも言ったとおり、「初恋」もまだであった。
今日までだって、野球部員との会話の殆どは学校教師のことであったり、勉強のことであったり──そして八割がたが野球のことだった。
だから、無条件で信じていたところもあった──ほかのみんなも、自分と似たり寄ったりなのだと。
けれど、それは違った。
岩鬼以外は、恋愛に心囚われていることはないと、そう思っていたのだけど、そうじゃなかった。
考えてみれば、みんな思春期の若者なのだ。異性にときめきの一つも覚えないはずがないのだ。
それで行くと、自分の方がおかしいのだろう。
──興味がないわけではない。
事実、彼らの話を聞きながら、興奮したこともウソじゃない。
彼らの話を聞きながら、コッソリと焦燥感を覚えなかったわけでもない。
先輩のほとんどが「初体験」を済ませていたという話を聞いて、自分がおかしいのだろうかと──恋愛に興味がない自分はおかしいのかと、そう思わないわけでもなかった。
しかもその上。
「……山田にまで、好きな人……いたんだよな…………。」
口にした瞬間、ずっしりと、何かが胸の中に重くのしかかった。
思わず里中は眉を顰めて、ぎゅ、と胸元を強く握りこんだ。
思い出すのは、話を振られた瞬間、ほんの一瞬見せた山田のためらい。
普通なら、見逃したかもしれない程度のためらいだったが、里中はそれを見逃すことはできなかった。
それどころか、直感で分かった。
山田は、心当たりがあるのだと。
つまり、好きな人が、いるのだと。
衝撃、だったのだと思う。
思わず言葉が詰まって、マジマジと山田を見つめてしまったくらいだ。
そして気づいたら、彼の袖を引いて、「好きな人がいるよな?」と、確認してしまっていた。
自分が見てしまったことの……気づいてしまったことを、否定してほしいと、そう思ったから。
山田に好きな人がいる。
それは、山岡や石毛、仲根たちの話を聞いていたときよりも、里中の心に焦燥感と疎外感を感じさせた。
山田だって1個人の思春期の男だ。
だから、好きな人がいても、別段不思議なことではない。
そう頭では分かっていたけれど、なんだかモヤモヤして納得できない。
なのに、返って来る反応のことごとくは、山田に好きな人がいるのだということを、決定づけるものばかり。
まったくもって、山田らしくない。
そんな彼に──どうせいないとウソをつくなら、もっと分からないようにつけよ、と内心なじりながら、それでも上出来だったと思う。
誰も、里中が胸の中でモヤモヤした焦燥感を抱いていたなんて感じもしなかっただろう。
「野球バカって言う意味だと、山田も同じくらいだと思ってたのに……好きな人がいるなんてなぁ。」
なんだか、自分だけ本当に、違う場所に立っているような気がしてきた。
しかも山田は、自分にまで──バッテリーを組んでいる相棒の俺にまで、黙っていたのだ。
好きな人がいるなんていう、大事なことを。
そりゃ、先輩たちだって、言ってないことだってあるだろう。
でも、山岡は北の片思いの相手を知っていたし、石毛がどんな付き合いをしてきたのかと言うことも知っていた。
確かに、山田との付き合いは、まだ半年にも満たないかもしれない。
それでも、あの夏の甲子園の中で、確かな絆は出来たと思っていたけれど──それは所詮、野球の間のことだけで、プライベートでは、別だと言うことなのだろうか?
「──どんな人、なんだろう?」
ぼんやりと、想像してみる。
この明訓高校の女子で、山田と親しい人間。
山田が好きそうな人、山田が惹かれそうな人。
──そう思えば思うほど、里中は苦悶の表情を宿さずにはいられなかった。
中学の時から、山田を見てきたつもりだった。
でも、それは結局、山田のうわべだけの──野球をしている山田にしか過ぎない。
彼のプライベートのことまで、知っていたわけではない、決して。
でも、明訓高校に来て、山田の人となりを知って──彼と二週間だけど、同じ部屋で過ごして、色々な話もした。
ずっと他人行儀に「里中くん」と呼ばれていたのも、「里中」に変わって……確かに、二人だけにしか分からない感覚も、何度か共有したと思っている。
互いに互いの顔をみれば、いいたいことも、なぜか通じ合えるほど、親しくなったと思っている──でも。
「おれ、山田の好きなタイプって……知らないな…………。」
今更、そんな事実に気づいてしまった。
思い返せば思い返すほど、山田との会話のほとんどは、野球のことばかりだ。
あのメーカーのバットが好きだ、プロ球団のどこが好きだ、あの選手が好きだ。
恋愛の話なんて、一度たりともしたことがない。
ああいうタイプが好きなんだなんていう話だって、したことがなかった。
その事実に気づいてしまえば、自分がどれほど恋愛に関して幼稚であるのか、目の前にぶら下げられた気がした。
興味がないから、その手の話は、したことがないのだ。
──同じ年の微笑は、今年の夏に経験をしたと、言っていたのに。
見ているだけでドキドキするだとか、話しかけられるだけで舞い上がるだとか、そういう言葉で飾られる「恋」の世界は、岩鬼を見ているから分かる。
けれど、いざわが身になってみると、そういう感情を抱く人間は、いまだかつて居ない。今現在、周囲を見回してみても、なにも感じない。
自分を好きだと言ってくれたら、嬉しいと思うし、照れて恥ずかしいと思うこともある。
でも、それだけ。
そういってくれた相手のことを、好きかと聞かれたら、そうじゃないと答えられる。己に好感を持ってくれた分だけ、他の人よりは好感が持てるだけで、それ以上では決してない。
特に、野球に身が入らなくなるほどの恋愛や思いなんていうのは、理解できない。
それを一言で言うなら、「とにかく今は野球が一番で、それどころじゃないんだ」という、いつもの断り文句に繋がるわけなのだけど。
「泣きたいくらい、好き──なのかなぁ、山田も。」
その人の、ことを。
──告白されて、それを断るとき、泣き出す女の子達のことを思い出して、ぼんやりと里中は思う。
あの山田が、泣きたいくらい好きな人。
……どんな、人なんだろう? 山田のことだから、外見なんかにこだわらないだろう。
きっと、内面を見て好きになる。
なら、その人は、とてもステキな女性だろう。
そして、その人は、山田のことを知れば好きになるに違いない。
「おれがその女だったら、断るはずがないよ。」
だって、山田が選んだ人だ。
あの山田が好きになった人だ。
彼が好きになった人が、外見やほかのことで誰かを選ぶことなんてありえない。
だから「彼女」は、山田が勇気さえ出したら、すぐに彼のものになる。
そうしたら、二人、付き合いはじめて。
キス、して。
抱きしめて。
それから。
「────…………っ。」
ギュ、と、里中は手を握り締める。
小さく零れた声が、震えていた。
動揺に、唇も震えた。
どうしてなのか分からないまま、ただその動揺ばかりが、胸を占めていた。
そのまま、動くこともできず──里中は、きり、と唇を噛み締める。
去来するざわざわする感情を、押しとどめようとすることしか、里中には出来なかった。
コトン、と音を立てて、湯のみをテーブルの上に集めた山田は、ほかは一通り片付いた談話室内を振り返って、さて、と首を傾げた。
片付け始めた最初に、お盆を持ってくると言って出て行ったきり、里中はまだ帰ってこない。
もしかしたら、またお盆がどこかの部屋に行っているのかもしれない。
それを取りに行って先輩に捕まった、ということも考えられるだろう。
「変なことを教えられてなかったらいいんだけどな。」
そう零しながら──でも、先輩に捕まったのなら、無事に帰ってくること事態がありえないだろうと、山田は冷静に判断を下す。
北をずいぶんと苛めて楽しんでいた様を見るに、里中は格好の餌食の的であろう。
下手をしたら、どこからともなく持ち込んだエロ雑誌を前に、色々と講釈までされているかもしれない。
「………………。」
いや、それ以上に、もっとマズイ展開があるか、と──山田は、軽く眉を顰めた。
今日は、里中もこの合宿所に泊り込むことが決定している。
その際の部屋割りは、山田と同室、である。──これは、元々夏の大会前から同じ部屋で寝泊りしていたのだから、布団などの問題はない。
ただ、今日に限って問題があるとすれば。
「……色々聞き出して来い、って……送り出されてそうだなぁ……。」
先ほどの、「儀礼」の真っ最中の件であった。
好きな人はいないのかと聞かれた瞬間、ふと脳裏に思い浮かんだ面差しに、動揺したのが、まずいけなかったのだろう。
それでも、その動揺は顔には出てなかったと思う。事実、目ざとく反応する者はいなかったのだから。
なのに、里中が。
「………………────参った。」
口元に手を当てて、山田は小さく溜息を零す。
袖を突付かれて、見下ろした先で、大きな瞳を瞬いた少年の姿が、ありありと脳裏に浮かび上がった。
まさか、里中に気づかれたとは思ってもいなかった。
そして、気づいた里中が、突付いてくるなんて、思いも寄らなかった。
よりにもよって、里中だった事実に、更に動揺してしまったのが、今回の山田の敗因であろう。
口元に当てていた手を下ろし、山田はボンヤリとその手を見下ろす。
この手を、ぎゅ、と握って、里中は勝気に笑って言ってくれた。
応援する、と。
だから、力を貸して欲しかったら、遠慮なくいってくれ、と。
「──好きな人なんて、いないって言ってるのに。」
どう言ったら、信じてもらえるのだろうか?
あの分だと、誰も彼もが、山田には好きな人がいるのだと、そう思って疑っていないだろう。
しかも、「明訓高校の美人」な人に片思いをしていると、思われていることは間違いがない。
間違いなのに──と、そう溜息を零そうとした瞬間、再び脳裏に描き出された容貌に、ヒュ、と、山田は息を止めた。
ごく自然に浮かび上がった「明訓高校の美人」の姿に、おいおい、と、自分で自分に突っ込む。
あの時もそうだった。
何げなしに浮かんだ姿に、おいおい、と、われながら思ったのだ。
その動揺を、ほかでもない里中が気づいてしまった。
「里中も、おれに好きな人がいるって……思ったんだよな。」
見下ろした手の平には、あの時握った里中の、自分よりも二周りは小さい手の平の感触が残っているようだった。
小さくて──でも、ピッチャーそのものの、皮膚の厚いしっかりとした感触。
夏の甲子園大会を勝ち抜いた、大切な、手の平。
「里中には、誤解を解いておかないとな。」
呟いて、山田は、キュ、と大切そうに己の手の平を握り締めた。
その瞳が、少しだけ切なげに細められる。
好きな人なんて、いない。
だって、あの時、脳裏に思い浮かんだのは──お前だったんだから、里中。
そう簡単に言ってしまえば、話はお終いだ。
そう──思うのに。
「………………なんだか、告白みたいだな。」
思った瞬間、頬に熱が集まるのを覚えた。
そんな考えに、ブルリと頭を振って、山田は慌てて立ち上がる。
「そ、それじゃ、とりあえず厨房に行ってみるか。」
なんだかいてもたってもいられない、と、そう大きな体をゆすって、慌てたように談話室を飛び出した。
ギリリ──と、胸を締める痛みが、自分が考えているようなものではないような気がして……その答えが、すぐ目の前にあるような気がして、里中は無言で眉を潜める。
──でも、それは、一体、何の痛みだと言うのだろう? どうして……こんなに、痛いと、そう思うのだろう?
何を考えていたのか、それを思い出してみても、どうして自分の胸が痛んだのか、理解できない。
理解できないまま、キリ、と、唇を噛み締めた瞬間──ガタン、と音がして、廊下から食堂へと続くドアが開いた。
ハッ、と目をあげた先で、まぶしげに目を細めた山田が、食堂の中をグルリと見回すのが見えた。
「──山田……。」
里中は、呆然と彼の名前を呟いた。
そんな里中を認めて、山田は心なし赤らんだ頬をそのままに、ニッコリと笑った。
「なんだ、里中、ここにいたのか。」
どこか安心したように言われて──その山田の穏かな声を聞くと、波立っていた感情が、引いていくのを感じた。
それを疑問に思う間もなく、あ、と、自分がなぜ食堂にきたのかを思い出して、さとなかはバツが悪そうに顔を歪める。
「悪い、山田。お盆は……どこか先輩の部屋みたいだ。」
そんな里中に、そんなことだろうと思ったよ、と山田は笑う。
「ほかに代用できるものがないか探そう。」
言いながら、山田は厨房近くまで食堂を横切るようにやってくる。
見回した食堂には何もないから、厨房の中を家捜ししようと言うことだろう。
里中も、頷いて、厨房と食堂を繋ぐドアへと歩み寄った。
「俺たちが使ってるトレイでいいんじゃないかな。」
そう言いながら、山田がドアノブに手をかけた瞬間。
バチンッ!
どこか遠くで大きな音がした。
それを理解すると同時、ブツッ、と、明かりが消えた。
とたん、真っ暗になった視界に、驚いたように里中は上を見上げた。
しかし、目に見えるのは暗闇ばかりで、天井も何もわからない。
「停電か……っ!?」
「いや──ブレーカーが落ちたんじゃないかな?」
思わず構えた里中に、のんびりと山田が答える。
言われてみれば、先ほど聞こえた音は、ブレーカーが上がる音に似ていたような気がする。
更にその山田の声が正しいことを示すように、
「ぅわっ、やっべーっ!」
「まさか、あれでブレーカー落ちるのかよ、おい〜っ!」
などという、二年生の声が向こうから聞こえてきた。
──おそらくは、ミーティングルーム室に設置されている、ビデオデッキか何かを再生したのだろう。
あれとなにだったかを同時に使うと、この合宿所のブレーカーは落ちるのである。
良くミーティングの最中に、それをやってしまった事実を思い出して、
「何やってんだよ──ったく。」
あきれたように里中は呟いた。
その口調には、「なぜミーティングルームのビデオを再生していたか」の理由に対する呆れも混じっていた。
あのような猥談の後、誰かが「ビデオを持っている」と言う話になったのだろうと言う推測は、誰にできた。
小さくため息を零しながら、里中は窓からの明かりも乏しい、真っ暗な食堂の中を、目を据わらせて見据えた。
──が、鳥目でなくても、この暗闇の中で先を見通すのは辛い。
それでも、毎日来ている食堂の中だから、配置くらいはわかる。
「確か、ブレーカーは廊下の先だったよな?」
ふだんまるで触らないその位置を思い出しながら、里中は暗闇の中、ソロリ、と進み出た。
テーブルを伝うようにすれば、出入り口まで躓くこともなくたどり着くはずだ──そう思いながら、片手を斜め前……テーブルのある辺りに伸ばしながら、さらに一歩前に進み出た瞬間。
ガツッ、と、足を取られた。
「ぅわっ。」
何に足を取られたのか理解するよりも先に、ぐらり、と体が傾ぐ。
慌てて両手を前に出すが、視界には暗闇しか映らず、自分が出した手が、前へ向かっているのか床に向かっているのかすら分からなかった。
床との距離感も分からぬまま、前のめりに倒れかける。
足が完全に床から離れたのを感じると同時、とっさに体を捻って、腕と頭を庇おうとした。
けれど、とっさに受身を取ろうとするよりも早く、
「里中っ。」
ぽす、と軽い音と共に、間近で山田の声がした。
体ごと、山田に受け止められたらしいと理解するのは早かった。
少し目を眇めると、暗闇に慣れた目に、山田の白いアンダーシャツがすぐ間近に見て取れた。
「コードに足が引っかかったんだな、大丈夫か?」
心配そうな声が、里中の頭のナナメ上あたりから降って来る。
「……あぁ、大丈夫だ。」
その声にコクリと頷きながら、里中は自分の足元を見下ろす。
しかし、間近なものが見える程度に視界は回復したとは言えど、足元までは見通せない。見下ろした床は、ただ暗闇に包まれているばかりだ。
「こんなところにコードなんてあったっけ?」
首を傾げながら、山田に問いかけると、頭の上で彼が頷いた気配がした。
「ポットとジャーが置いてあるだろ? そのコンセントだよ。」
返って来る返事に、そういえばそんなものがあったなぁ、と山田の物覚えの良さに感心する。
さすが山田だな、と笑いかける里中を、山田は渋い顔で見下ろす。
見下ろした先で、暗闇の中でも浮き出るような白い肌の里中の顔がぼんやりと見える。
夏の大会で日に焼けているとはいえ、もともとそれほど小麦色に焼けるわけではない里中は、自分たちに比べてずいぶんと白く見えた。
「里中、このまま動くなよ。確か懐中電灯があったはずだ。」
山田は、彼をとどめおく台詞を吐きながら、ぽん、と里中の肩を叩いた。
そしてそのまま、里中の顔を覗きこむ。
きちんと念押ししておかないと、里中はそのままブレーカーを落としに走りに行ってしまいそうだ。
「懐中電灯……。」
里中は山田の言葉を口の中で繰り返し、あ、と小さく声を上げる。
そのまま、暗闇に隠れて見えない山田の顔を見上げて、続けようとした。
「それなら、テレビの下に……。」
あったはずだ、と。
続けようとした言葉が途切れた。
音もなく、唇の先に柔らかな何かが触れた感触がした。
羽根のように微かな感触に、里中はキョトンと目を見開いた。
ようやく暗闇に慣れ始めた目には、かすかに映った山田の輪郭が、思った以上に近くに見える。
思ったよりも近くに山田の顔があったらしい──アンダーシャツに唇の先が触れたのだろうかと、里中は少し顔を後部にずらし直して、山田の顔を見上げながら、改めて先を続けた。
「テレビの下に、あったはずだ。」
肩に置かれた山田の手に力がこもるのに、里中は小さく苦笑を漏らして、ポンポン、と山田の腕を軽く叩く。
──分かってる、というサインのつもりだった。
今、躓いたばかりなのだから、懐中電灯など取りに行かず、おとなしくココに居ろ、という意味だと里中は理解した。
「──でも、気をつけろよ、山田。」
軽く首を傾げて、里中は山田に囁きかける。
いくら慣れている食堂の中とは言えど、見えないだけで、ずいぶん危険だ。
何せ、今、自分もコードに躓いたばかりなのである。山田に抱きとめられなかったら、大きく転んでいただろう。
キリリと真摯な声で忠告する里中に、分かってる、と、山田が彼の肩をポンと叩いた瞬間。
バンッ。
小さな音が廊下の向こうから聞こえてきた。
かと思うと、ぱぱっ、と、二度三度点滅して、食堂の蛍光灯がついた。
とたん、暗闇に慣れた目が、クラリと眩暈にも似た感覚を覚えて、里中は軽く目を細めた。
「悪い悪いっ!」
廊下の向こうから、山岡の声が響いてきた。おそらくは、一年生たちに向けて投げられた台詞であろう。
そんな山岡の声に、何を叫んでいるのかまでは分からなかったが、岩鬼の声が罵倒を飛ばしているのも続けて聞こえた。
いつものことだから、放っておいても殿馬が上手く治めてくれるだろう
「あぁ──ブレーカーをあげてくれたみたいだな。」
「そうだな。」
向こうまで行かなくてすんだようだと──そう笑いかける山田に、うん、と里中は頷いて彼に笑いかける。
山田も同じように、優しげな眼差しで里中を見下ろしてくる。
そのまま、二人同時にお互いの顔を見つめて──、瞳が交わった瞬間、奇妙な沈黙が生まれた。
何と形容していいのか分からない、少しだけいつもと違う色を刷いている──そんな気がする沈黙。
それが何なのかわからなくて、里中はゆっくりと目を瞬く。
山田が、少し狼狽しているような──そんな気配も感じた。
「やまだ?」
小さく、彼の名を呼ぶ。
──確か山田は、暗闇が怖いとか、そういうのは無かったはずだけど。
どうしたんだと、そう続けようとした先──山田は、ほんの少しだけ視線を落とす。
その表情が、談話室で見せた山田の……「好きな人」を想像させた山田の表情に、良く似ていた。
見逃しそうなほど、ほんの一瞬の仕草だ。
だけど、里中はそれを見逃すことはなかった。
微かに目元を紅潮させた山田の顔を、瞬きするのも忘れて凝視した。
「……やまだ……。」
知らず、唇から彼の名前が零れた。
無意識のうちに零れたその名前に、山田が少し困ったような顔になるのが見えた。
その彼の唇が、微かに震えている。
肩に置かれた手に、微かに力が篭り、熱をもったような気がした。
「………………里中……。」
苦しげに、何かを堪えるように呟かれた山田の囁きが、雄弁に語っている──球場では、いつも見つめた瞳が、目の前で──言葉よりも物語っている。
口に出して説明することは出来ない。
けれど、分かる。
山田が今何を思い、何をしようとしているのか──里中には、分かった。
「山田……。」
呼びかける声が、震えないように──熱をもたないようにするのが、必死だった。
ドクン、と胸が一つ高鳴り、里中は唇を弱く横に引いた。
まさか、と……そう思う気持ちが、山田の瞳と視線を交わす間に、確信へと変えられていく。
ただ、山田が自分を見下ろしている。
こんなことは、夏休み前から、幾度もあったことだ。
なのに、今のこれは、違う。
意味が、違う──そう、感じた。
だから……促されたわけでもなく、里中は、そ、と睫を伏せて──、一度小さく息を吸い込んでから、山田のシャツに指を絡めた。
「さとなか。」
小さく呼びかけられた声に答えるように、里中はほんのりと頬を染めて、軽く顎をあげて──目を閉じる。
とくん、と、鼓動が強く鳴った。
──勘違いかもしれない。
そんな思いが一瞬胸を掠める。
けれど、里中が強請るような自分の仕草に後悔を覚えるよりも先に、フ、と、目の前の空気が動いた。
「……ぁ……。」
互いに引かれるように、吐息が近づく。
頬を掠めるように撫でる熱い空気は、山田の温度だ。
緊張に、里中は山田のシャツを握る手に力を込める。
ジットリと汗ばむ手の平に、ドクドクと鼓動が早打ちを始めた。
キュ、と、強く目を閉じて、触れ合うほど近づいた吐息に、ゴクリ、と喉が上下した。
そんな里中の、白い頬に落ちる長い睫を見下ろしながら──ドクドクと脈打つ血液に、震える唇を抑えることもできないまま……山田は、そ、と目を閉じた。
間をおかず、先ほど暗闇の中で一瞬触れた感触と、同じ感触が唇に触れた。
そ、と触れるだけの感触に、ぴくん、と里中の肩が揺れる。
今度は、先ほどの事故のような触れ合いとは違い、何の感触なのか、わかっていた。
微かに一瞬触れただけだったが、お互いの唇の温度に、その触れた感触に、ビックリしたように里中も山田も、すぐに唇を離した。
ソロリ、と開いた里中の真っ黒な瞳が、恥ずかしげに伏せられ──山田は、唇を真一文字に結んで、困ったように彼を見下ろした。
自分たちが何をしているのか、わかっていた。
この行為が、何を示しているのかも──知っている。
でも。
「……山田。」
里中は、山田のシャツを握る手に力を込めて、クイ、と、引いた。
動揺したような表情を見せる彼に、一度小さく頷いて──再び、そ、と目を閉じる。
「………………。」
山田が戸惑うような気配がした。
それでも、行動は早かった。
再び山田の気配が間近に感じて──今度はゆっくりと、しっかりと唇が合わさる。
詰めていた息が、安堵のあまりか、嬉しさのあまりか、唇から零れそうになり、里中は慌てて唇を引き結んだ。
けれど、そのすぐ直後、一瞬触れていただけの唇は、熱い吐息を零しながら離れていった。
ぎこちない、口付けだった。
時間にしたら、一秒もかかっていなかったかもしれない。
けれど、初めてのキスは、ドキドキと胸に甘酸っぱい心地よさを満たした。
止めていた息を、そろそろと吐きながら、里中は瞳を開く。
同じように恥じらいと戸惑いを宿した山田の瞳が、すぐ間近から里中を見下ろしていた。
互いに視線が交わった刹那、
「……さとなか……。」
震える唇が、里中の名を口ずさんだ。
その唇を見上げて──ただ合わさっただけなのだから、濡れているはずもないのに、山田の唇が濡れているような気がして……今した行為を、ありありと残しているような気がして、むしょうに恥ずかしくなった。
頬を火照らせた里中は、それ以上山田の顔を見ているのが気恥ずかしくなってきて、トン、と、彼の胸元に額を押し当てる。
熱をもったように熱い山田の背中に、キュ、と手を回して、思い切り良く抱きつく。
「里中……。」
動揺の色を濃く見せる山田が、慌てて里中の体を引き剥がそうとするが、それに抵抗するように頭を振って、里中は小さく彼の名を呼んだ。
「──山田……。」
少し熱の篭ったその呼びかけには、恥じらいと願いが込められている。
山田は、それを聞いて……なんとも情けない顔で里中の旋毛を見下ろした後──無言で己の手を、里中の背に回した。
そのまま、里中の小さな体を、キュ、と抱きしめてくれる。
いつもの試合に勝った後の抱擁とは違う、ただ優しいだけの抱擁。
こみ上げる歓喜ではない、静かな──むずがゆいような喜び。
里中は、自分を抱きしめてくれる山田の体に抱きつきながら、彼の胸元に、小さく零した。
「……良かった。」
なんて口にしていいのか分からない、湧き上がる思いを噛み締める。
口に出すのも気恥ずかしい思い。
自覚していなかった──けれど、胸の奥に灯るこの気持ち。
彼が、「誰を好き」なのか……決して口には出さなかったけれども。
──互いに、「確信」していた。
好き、なのだ、と。
うぬぼれてもいいのなら、君が好きな人が、分かったと思う。
うぬぼれてもいいのなら、君へのキスを、君が喜んだのだと、そう思う。
それは。
「──────……初恋って……知らないうちに、なってるものなのかな……?」
自覚をした瞬間から、恋になる……ことも、ある。
+++ BACK +++
これでもまだ「自覚編」です。
これでようやく二人は自分の思いを自覚したところです。
──で、この後、じれったいような友情以上恋愛未満期間に入るわけですね(笑)。
キスはするけど、お互いに通じ合ってるからこそ恥ずかしくて言うに言えないのが半年くらい続くんです(笑)。