「バレンタインデーの、もう一つのお話」

VD→WD おまけ





1 お料理教室


「ただいまー。」
 友達や先輩、後輩から貰ったチョコの入った紙袋を片手に、ほのかは玄関をくぐった。
 目の前には、見慣れた兄の靴と男鹿君の靴。
 どうやら今日は古市家に居るらしい。
 スニーカーを脱ぎながら、あれ、とほのかは首を傾げる。
 今日はバレンタインだ。
「……おにいちゃんが、うちに居るって珍しー。」
 バレンタインといえば、兄は昔から男鹿の家に行っていたものだ。下手をするとそのまま泊まることもある。
 一重に、男鹿の姉である美咲からチョコを貰うためだけに。
 何もそこまで……と思わないでもないが、顔はイケメンでも中味が残念な兄には、何を言っても無駄なのは長い付き合いで分かっているから、あえて言わない。
 そこまでしてチョコが欲しい兄には、同情半分、呆れ半分が胸にこみ上げてくる。──あぁ、あと妹であることの恥ずかしさと。
 ……というか、実を言うと、バレンタインに毎年男鹿の家にさえ行ってなかったら、古市はもっとチョコをもらえていたりするのだ。
 あぁ見えて、古市は「モテ」る部類に入っているのだ。
 ほのかの元にも、先輩後輩を問わず、「古市先輩に渡してほしい」というチョコを持ってくる子が居るくらいだ。
 いつも傍に居る男鹿が怖いという理由で、手渡しできなかったり、靴箱に入れたりするのは不潔なコだとか気が利かないだとか思われるんじゃないかと、二の足を踏んだ少女たちが、ほのかに仲介を頼んでくるのだ。
 しかし、ほのかはそれをいつも断っていた。
 チョコが荷物になるのが面倒だという理由と、直接手渡した方が兄が喜ぶのが分かっていたからだ。
 別の理由としては、小学校時代に、友達からのチョコを受け取って兄に手渡したことがあるのだが、その後──その友人が、抜けがけだとか言って虐められていたのを見てしまったというのもある。
 女同士の結束は怖いのだ。
 特に中学の部活動では、上下関係は絶対。──下手に動くと妹であるほのかも面倒なことに巻き込まれかねないため、全部断っているのだ。
 何時の間にか、不可侵条約みたいなのが浸透してるし。
 それくらい、古市はモテてはいるのだ。──一応。顔はいいし、優しいし、男鹿を平気でドツけるところとかに尊敬している面々だっているし。
 ただ、兄にはそこまで自分がモテているという自覚が全くない。残念なことである。
 その代わり、住所を教えてだとか、家がどこにあるのか教えて、だとか言う問いかけには、ちゃんと誠意を持って答えてあげるようにしている。
 いわく、「でもおにいちゃん、バレンタインの日にはいつも家にいないよ? 大抵泊まりか夜遅くなってるし。」。
 すると彼女たちは、みんながみんな、古市にチョコを贈るのを諦めてしまうのだ。
 翌日になるのがイヤだとか、男鹿が居るところで渡すのがイヤだとか言うことだろうが……、まったく、根性がないことである。
 ──というのが、ほのかの見解なのだが、現実は少し違う。
 普通の女子は、そういう言われ方をしたら、古市には意中の彼女が居て、その子と過ごしているのだと思うものだからだ。
 実際は一緒にすごす相手は男鹿だし、泊まる家だって男鹿家なのだが、みんなが勘違いしているのだと気付かないほのかは、未だに「兄がバレンタインに家にいないから、チョコをもらえないのだ」と思っていたりする。
 なんとも、いろんな意味で残念な古市であった。
 靴を脱いでスリッパを引っかけて、ほのかは制服姿のままリビングに向かう。
 とりあえずカバンを置いてうがいをしようと思ったのだが、リビングの扉の前まで来たところで、
「よし、男鹿、やれ。」
 兄の声が、中から聞こえてきた。
「……あれ?」
 部屋に居るんじゃないんだ?
 不思議に思ったほのかは、リビングの扉を開いた。
「ただいまー、お兄ちゃん、男鹿く…………、ん……?」
 そして、テーブルの上に乗っかった物を認めて、そのまま固まらざるを得なかった。
「……ん? あぁ、おかえり、ほのか。」
「おす。」
 テーブルの長い面に隣り合わせに立つ兄と男鹿。
 その目の前には、大きなブロンズ像が置かれている。
 男鹿の手には何故か金槌が握られていて、その背中からヒョッコリ顔を出した赤ん坊が、だー、と挨拶を寄越してくれる。
「──なに、それ?」
 だが、ほのかはそんなことに構ってはいられなかった。
 というよりむしろ、目はテーブルの上に釘付けだった。
 何せそこには、肉体美を強調しているかのようなポージングを決めている、我が家の居候のおっさんのブロンズ像が立っていたからだ。
 立派な髭と、太い首、いつものランニング一枚にパンツ。足先まで作られたソレに、ほのかは思わず数歩後ずさった。
「お兄ちゃん、とうとうアランドロンさんの人形まで作って……。」
 夏のある日、兄がアランドロンを連れてきて、「俺の将来の嫁です」(違)と言ったときにはどうしようかと思ったが、どうやら兄の一方的な片思いのようだったので(違)、これは見ていたら面白いと思っていたのだけど。
 美形の少年が、プーのダメダメなおっさん(現在高校生をやり直し中)に一方的な恋をする、なんて展開、小説(BL)や漫画(BL)でもお目にかかれない。
 それをまさか現実で目の当たりにするとは……、と興味津々で兄を応援しながら見守っていたのも、今は過去のこと。
 流石に半年も経てば、アランドロンと兄の関係が急速に発展していった(らしい)のも、生ぬるく見守るくらいには落ち着いていた──というか、飽きて来ていた。
 慣れとは恐ろしいものである。
 最近では、たとえアランドロンが朝から兄の布団の中で寝ていようとも(腕の中に抱え込まれた古市はうなされていた)、風呂に入っていた兄の背中を流そうと後からついて行こうとも(古市は絶叫の後、猛烈に撤去を命じていた。)、「すごく仲良くなっちゃったよねー」と、全てスルーしていた、が。
 だがしかし。
「…………おにいちゃん、その……、アランドロンさんにバレンタインのチョコを贈るにしても、それは、どーかと思うわよ?」
 いくらなんでも、バレンタインに相手の形をしたチョコって、それ、おかしくない?
 自分をプレゼントv というのもドン引くけど、もう、それはナイ。いくら変態の兄でも、それだけは、ほんとナイ。ナイナイナイ。
 正直、ドン引いた。
 フルフルとおびえたように震えながら頭を振るほのかの言葉に、古市は一瞬目を見開いて、
「……はぁぁっ!? 何言ってんだよっ? 違うっつーのっ!!」
 それこそありえない、とこちらも青ざめて反論してくる。
 その隣で、金槌を構えた男鹿が、
「ちげーよ。これはアランドロンから古市へのチョコだ。」
「……うぅ……、そういう表現もやめろ、男鹿。俺のHPが削られる……。」
「なんでだよ、そのとおりだろーが。」
 ちなみに、もう1個ある、と、男鹿は椅子の上から今度は胸像チョコを取り出す。
 二体、どーん、と並んだソレは、妙にシュールだった。
「……えー……おにいちゃん、いくらなんでも、そういうのをリクエストするって、おかしくない? キモいよ。」
 だからソレを見て、正直に感想を述べると、
「誰がリクエストしますかっ、こんなもんっ! あいつが勝手に作ってきたんだっつーのっ! ってか、ほのかっ? お前、なんでそうもアイツに肩入れしちゃうのっ!? 俺は迷惑してるんだぞっ!?」
 バンバンッ、と机を叩きながら、ちょっぴり涙目になる兄に、そうかなぁ、とほのかは首を傾げる。
「だっておにいちゃん、そういいながらも、いっつもアランドロンさんと一緒に学校行くし、何かあるとアランドロンさんを呼んでるじゃない。」
 ていうか、ツンデレってもう流行んないよ、とか酷いことまで言ってくれる。
 ツンデレじゃないからっ、と全力で否定する古市の言葉は、軽く「ツンデレ」として処理されてしまう。
「……ほーぉ、古市君、それは本当かね?」
「あ、いや、だってほら、遅刻としかしそうになったり、お前に呼び出されたりとか……便利じゃん?」
 男鹿がチラリと見下ろしてくるのに、古市はちょっと視線をそらして答える。
 なんだかんだ言って順応性の高い古市は、しっかりとアランドロンを活用しているのである。
 そうやってアランドロンを使えば使うほど、アランドロンとの親密度フラグが立ちまくり、彼には困らされているわけなのだが──その作用副作用には未だに気付いていないようである。
「とにかく! 俺だって、こんなのいらねーし、食いたくもねーけど、食い物を粗末にするわけには行かないから、食えるように加工するとこなんだよ。」
 どうも、有名店のチョコらしいから、美味いらしーし。
 そう続ける古市に、ふーぅん? とほのかは疑いの目を向けたが、とりあえずそれ以上突っ込むことはしなかった。
 代わりに、兄の最後の言葉に反応する。
「加工って、どうするの? チョコケーキとか作るの?」
 もしそうなら、ゼヒ自分も食べたい。
 アランドロン型のチョコなんて食欲も失せるが、形が崩れた美味しいチョコで作ったケーキなら話は別だ。
 チョコムースケーキに、ガトーショコラ。ブラウニーにフォンダンショコラ。
 頭の中を、昨日友人と一緒に捲った手作りチョコの本に乗っていたメニューがグルグルと回っていく。
 手を込んだものは作れないからと、あの美味しい物は全て見なかったことにしたけど、もし食べれるなら、食べたい!
 だって女の子だもんっ!
「おお、古市、チョコケーキも作れんのか?」
「あ? まぁ、作れんじゃねーの?」
 キラキラと目を耀かせる男鹿に、古市はやる気のない返事を返す。
 そんな兄に、ほのかはリビングの棚に駆け寄り、そこに仕舞いこんでいたお菓子の本を差し出す。
「あのねっ、お兄ちゃん。ガトーショコラって言うのが一番作りやすそうだよっ! あとね、チョコマーブルチーズケーキって言うのも食べてみたいっ!」
「………………。お前がつくんのか?」
「何言ってんのっ、お兄ちゃんが貰ったチョコでしょ!」
 ほら、と、本を強引に兄の胸元に押し付ける。
「あのね、ほのかさん。
 なんでソコで俺が作ることになってんの。」
 と呟く古市に、だっておにいちゃん器用じゃない、とほのかが平然と返し、男鹿は古市から料理の本を奪い取る。
 男鹿はペラペラと本を捲ると、おお、と小さく呟いて、古市に向かってそのページを見せた。
「古市、コレ作れ、コレ。」
 コレコレ、と指で指し示したページには、ハート型のチョコケーキが載っていた。チョコレートでコーティングされたその上には、ホワイトチョコで作ったらしいハートプレートが乗っかっていて、更にイチゴも可愛らしく乗っているという代物だ。普通のケーキ屋とかでも売ってそうな物である。
 古市はソレを見て、眉を寄せる。
「お前、まだハート欲しいの?」
「イチゴもあんぞ。」
「ってか、冷蔵庫にイチゴねーし。」
「ならハートだけでいいぞ。」
「いやいや、もういいじゃん、ハートは。」
 男鹿の手からケーキを受け取り、古市はそのページを見下ろす。
「──……ホットケーキとかなら作ったことあるけど、さすがにこういうのは作ったことねーぞ。」
 材料の部分に目を落とせば、料理本にありがちな知らない名前はなかった。
 ちら、と本のタイトルを見たら、「初心者でも作れるチョコの本」とあった。──なるほど。
「作れねーのか?」
「いや、多分、大丈夫だとは思うけど、ハート型は無理だぞ。そういう型ねーもん。」
 材料は、昨日ほのかが作った残りが冷蔵庫にあるはずだ。
 そう思いながらも、めんどくせー、という気持が表に立つ古市は、なんとかして男鹿を諦めさせようと思うのだが、
「ハートの型ならあるよー。」
 ほのかが、昨日チョコを作ったときに使ったらしい型を、ほらほら、と見せてくる。
 そんな彼女に、男鹿がドヤ顔で良くやった、とか褒めている。
 古市的にはイヤな感じである。
「よし、古市、作れ。」
「………………。」
 じー、と見つめあうこと少し。
 三白眼の男鹿の目の隣で、ベル坊も同じような目つきで古市を見てくる。
 古市はその訴える瞳に、根負けしたようにハァと溜息を零した。
「しょーがねーな。」
「おお。」
「やったっ!」
 ぱぁっ、と親しい人間にだけ分かる程度に顔をほころばせた男鹿に、ほのかがハイタッチを求める。
 イエーッ、と手をあげるほのかの手を、男鹿は片手でポンとたたき、ベル坊もそれを真似てポンと叩いた。
 そんな仲良しな三人を横目に、やれやれと古市は料理本を横に置くと、ペシ、と男鹿の背中を軽く叩く。
「そうと決まったら、ほら、さっさとコレを砕くぞ、男鹿。」
「おう。まかせとけ。」
「だ!」
 途端にヤル気になって袖をまくり始める男鹿に、ベル坊も興奮した様子で頷いてくれる。
 ほのかはそれを嬉しそうに眺めた後、
「それじゃ、私、うがいして着替えてくるね〜。お兄ちゃん、楽しみにしてるからっ!」
 よっしゃーっ! と手を振りながら、ほのかはリビングから出ていく。
 手伝う気は皆無かよ、と古市は突っ込みながらも、それを見送った。
 その間に、男鹿は金槌を大きく振りかぶった。
 そして、がんっ、と容赦なくアランドロンのチョコ像に金槌を叩き落す。
 ガゴッ、と割れたアランドロンチョコは、頭を真っ二つに分かれ、細い(全体像的に)首がぽきりと折れて落ちた。
 肩の辺りからはヒビが入っているだけで、下半身はドッシリとしたままである。
「けっこうしっかりしてやがるな。」
 もう一丁、と男鹿は更に金槌を落とした。
 ガンガンガン、と何度か落とすと、アランドロンの姿はドンドン崩れていった。
「おぉ、なんか楽しくなってきた。」
「ダー!!」
 にやにや、と顔を緩めながらガンガンとアランドロンを叩き壊すその姿は、悪魔のように見えた。
 古市はそれを皿目にして見ていたが、まぁ、あの気持ち悪い物体が姿を無くしていくのは喜ばしいことだったので止めることはなかった。
「男鹿、特に下半身は砕きまくれ。」
「おう!」
 嬉々として男鹿は、金槌を振り下ろしては、それでグリグリとすりつぶす。
 みるみるうちにアランドロンの顔は崩れ、髭も割れていく。
 目や鼻の形も分からなくなり、だいたい500円玉大の大きさくらいになったところで、男鹿は手を止めて古市を振り返る。
「古市ー、どれくらいまで砕くんだ?」
 飽きてきた、という男鹿の前には、山のようなチョコの塊が出来ている。
 さすが胸像2体分である。──ちなみに男鹿はしっかりと、自分の分のチョコはそのまま食べる気で、お菓子用には数えていなかった。
「んー。もうそれくらいでいいぞ。
 それなら、ミルに入るだろ。」
「ミル?? ミルクか?」
 チョコミルクにすんのか? と首を傾げる男鹿に、そーじゃなくって、と古市は台所からミルミキサーを取り出す。
 氷も粉砕できると母自慢のソレなら、チョコも粉砕できるはずだ。
 わざわざ包丁で細かく切るのは面倒くさい。男の荒業である。
「まぁ、でも、チョコを粉にしたら、チョコミルクも出来るだろーなぁ。」
「おぉ、チョコふりかけだな。」
「おー、パンとかにかけるといいかもな。」
 バニラアイスとか、そういうのにもかけれそう、と、古市はコンセントを入れて、粉砕されたアランドロンチョコの横にミルをセットする。
「今から見本見せるから、おんなじよーにして、これ全部粉にしとけよ、男鹿。俺はその間に、チョコスポンジ作るから。」
 きっと手際よくは出来ないだろう、お互いに。
 せめて母が帰ってくるまでに、スポンジが焼きあがっていたらいいな、と希望を抱きながらミルの蓋を開けてカケラを放り込むと、スイッチを押す。
 ガタガタ……、と激しい音を立てたミルの中で、チョコレートは見る見るうちに薄い茶色の粉になっていく。
 おぉ、と男鹿とベル坊が目を丸くしてソレを見つめる。
「古市にも振りかけたらいいんじゃねーか?」
「いや、それおかしいだろ。なんで俺にかけんだよ。」
「食うのにトッピングすんだろ?」
「すんなよ。」
 冗談じゃねーぞ、と眉を顰めながら、古市は全部粉になったチョコをミル器から取り出し、サラサラとそれをビンの中に移す。
 そして再びミルをセットすると、同じようにやってみろ、と男鹿に促がす。
「なんでやっちゃダメなんだ?」
「チョコでベタベタになんだろーが。」
「舐めてやるから大丈夫だぞ?」
「いや、だから舐めるなっての。」
 古市がした通りにチョコをミル器の中に放り込み、スイッチを入れる。
 すぐに粉になっていくチョコに、あぅ、とベル坊が目を耀かせて手を伸ばしてこようとする。
 それを肩で、押し留めながら、男鹿は粉になったチョコを取り出していく。
 綺麗に粉になったチョコレートは、サラサラしていて、チョコにはとても見えなかった。まるでココアのようだ。
 ミル器の器に張り付くようにして残ったチョコ粉を指で掬ってみると、掌の熱ですぐに溶け始める。板状のときよりもずっと溶けやすいようだった。
 指先に少しついたチョコを指と指とで擦り合わせれば、チョコレートの色が肌についた。
「それじゃ、男鹿。後は頼むぞ。俺、ケーキつくるから。」
「……おー。」
 返事をしながら、男鹿は無言で粉になったチョコを見た。
 そして指先についた溶けたチョコを見て、台所に歩いていく古市を見る。
 ペロリ、と指先を舐めると、甘いチョコレートの味がした。
 美味い、──けど。
「………………。」
 男鹿は、台所でボウルだの泡だて器だのを取り出し始める古市の背中を見てから、チョコの塊の山に目を移した。
 たくさんあるソレを、砕いていくのは面倒くさい作業だと思えた。
 でも。
「……ま、こんだけあったら、古市にトッピングしまくれるな。」
 後のお楽しみを思えば、がぜんやる気も出てくる。
 よし、と気合を入れなおして、男鹿は早速チョコの塊を掴んで、ミルの中に放り込むのであった。


 ぞくり、と、イヤな予感に体を震わせた古市が、チョコまみれにあうのは、もう間違いがないようであった。








2 媚薬入りというオチ

 
 焼きあがった熱々のケーキの荒熱を取るために冷凍庫で少し冷やして。
 その間に沸かしたお湯で粉チョコを溶かして、それに生クリームとラム酒を加える。
 後はソレを冷えたスポンジの上にかければ、みるみる内にチョコが冷えて固まっていく。
 出来上がったソレは、まさにチョコのツヤを宿したハートチョコケーキだった。
 上出来なソレの出来上がりに満足したのは、古市だけではなく、男鹿もほのかも大喜びだった。
 男鹿にはハート型のケーキを。
 ほのかには、スポンジケーキをハート型にくりぬいたときに余った生地を包丁で切り分けた四角いケーキをやった。
 ケーキが出来上がったときにはもう、すっかり外は日が暮れていて、古市家でも夕飯の時間が差し迫っていた。
 ようやく開いた台所に立った母が、男鹿の分の夕飯も作ってくれ、今年のバレンタインは珍しく古市家(アランドロン含む)+男鹿+ベル坊のメンツで夕食を囲むことになった。
 てっきり、そのまま男鹿が泊まっていくと思っていたのだが、男鹿は夕飯を食べ終わった後、古市の首根っこを掴んで、
「帰るぞ。」
 と端的に言った。
 片手には古市が作ったチョコケーキが乗った皿を持っている。
「……って、は? 俺もお前ンち行くのか?」
 おなか一杯夕飯を食べて満足していた古市は、外の寒さを思って渋面になる。
 もう、後は風呂で温まった後、布団の中でいいじゃないか、と思っているようだった。
 しかし、男鹿はそれを許さない。
「ってか、てめぇ、今年はいーのか?」
「……ん? あっ、美咲さんのチョコっ!」
 くり、と首を傾げた古市は、すぐに今日がバレンタインだと言うことを思い出した。
 思い出すと同時に口にされた言葉は、誰もが予測していたため、突込みが飛んでくることはなかった。
 普通の家なら、こんな時間から他所様のお宅に伺うのは止めなさい、と注意が飛んでくるのだが、古市と男鹿の場合はソレがない。
 夜だろうが何時だろうが、互いの家を行き来していることを知っているからだ。
 それでも、常識人の母としてはコレだけは言っておかねばならないと、彼女は玄関に向かって歩き出す息子に向けて声をかけた。
「貴之、迷惑をかけちゃダメよ。」
「わかってるって。」
 靴を履きながら振り返る息子の手には、男鹿のカバンと自分のカバン。──着替えはないけど、泊まってくる気満々なのだろう。
 石矢魔の時ならとにかく、聖石矢魔に通っている今は、男鹿の家から古市家に寄るのは遠回りになるから、明日はそのまま学校に行くに違いない。
「んじゃ、お邪魔しました。」
 先に靴を引っかけ終えた男鹿の手には、チョコケーキ。
 それを見ながら、古市の母はニコヤカに笑うと、
「またいらっしゃいね、男鹿君。」
 ヒラヒラと手を振って見送ってくれた。







「ほぉ、チョコケーキになったのか。」
 湯上り玉子肌で艶やかな金髪をタオルで拭きながら登場のヒルダに、おお、と古市は鼻の頭をふくらませる。
 白い頬を紅潮させて、そそ、とヒルダの風下に移動してから、彼はフンフンと鼻を鳴らす。
 甘い柔らかな匂いに、おお……っ、と感動を覚えるが、すぐにチラリと頭の片隅で、「ってかこのシャンプー、男鹿も使ってるやつだよな」と夢が崩れるようなことを思う。
 更に言えば、今から古市も風呂に入ることになるので、同じシャンプーを使うことになるのだが。
 ヒルダさんの後の風呂……、と思うと、甘酸っぱい気持ちがこみ上げてくる。
「やんねーぞ。」
「ふん、いらんわ。あのアランドロンのチョコで作った奴だろう?」
 チョコケーキを咄嗟に背後に隠す男鹿をせせら笑いながら、ヒルダは前髪から滴ってきた雫を拭き取る。
「貴様らで食うがいい。」
 そういうヒルダに、言われなくても食うっつーの、と男鹿はソレをテーブルの上に置いて、台所にスプーンを二つ取りに行く。
 それをよそ目に、ヒルダは優雅な仕草でリビングの椅子に腰掛ける。
 いつものようにドライヤーをセットして、それを動かすヒルダから香るシャンプーの香に、やっぱ男鹿んちっていいなぁ、と古市は胸が甘酸っぱくなった。
 そこへ二階から美咲が降りてきて──その片手にはタオルと着替えがかかられているから、今から風呂に入るところなのだろう。
「あれ、たかちん、いらっしゃい。」
「あ、どーも、こんばんは、美咲さん。」
 さら、と髪を揺らす美咲に笑いかけられて、やっぱ男鹿のうちはいい、と古市は再確認する。
 へらへら、と笑う古市に、御飯はもう食べたの、と辺りさわりのないことを聞いた美咲は、そのまま風呂に行こうとして──あぁ、と、その脚を止めた。
「そーだ、たかちん、今日泊まってくんでしょ? 後でチョコあげるね。」
「はい!! ありがとうございます!!」
 やった、と、古市は拳を握る。
 くーっ、やっぱ男鹿んちに来てよかったっ!
 毎年思うことを今年も同じように思って、古市は小躍りしそうな気持ちで、スプーンを持って帰ってきた男鹿の元に行く。
 そして、当たり前のように男鹿がケーキを置いたテーブルの席に着いて、彼からスプーンを受け取ると、
「男鹿、美咲さんチョコくれるって!」
「ふーん。」
 かたん、と椅子を引いて、当たり前のように古市の横の椅子に座った男鹿は、そのままハートの山にスプーンを突き刺す。
 トロリ、と柔らかなチョコが崩れ、中からココア色の生地が現れる。
「今年はどんなチョコかなー!」
 本命チョコだったらどうしようっ、とかありえないことを言いながら、古市もチョコケーキにスプーンを突き刺す。
「どーせ、今年も変なチョコだろ。」
 パク、と口に含んだチョコは濃厚で舌先でフワリと溶ける。
 おお、うまっ、と目を見張った男鹿の隣で、古市もソレを口にして、おお、うまっ、と同じように呟く。
「美咲さん、ああいう変なヤツ、どこで見つけてくんだろーな。」
 パクパクと食べあいながら、古市は去年貰ったチョコわら納豆だとか、袋ラーメンチョコだとか、牛丼チョコだとかを思い出す。マヨネーズチョコだとか、小学校時代は面白がっておっぱいチョコとかもくれた。
 今年はどんなチョコだろうな、と言っている間に、皿の上にチョコケーキは空になる。
 あっという間に空っぽになったソレに、アランドロンチョコ、けっこう旨かったな、と話していると、髪を乾かし終えたヒルダが二人を振り返る。
 そして、テーブルの上に残された空になった皿を見て、ほぉ、と面白そうな顔になる。
「貴様ら、あれを全部食べたのか?」
「……んだよ? まさかてめぇ、食いたかったとか言うんじゃねーだろーな?」
「まさか。」
 ぱさり、と肩に髪の毛を落として、ヒルダはタオルをクルクル巻きながら立ち上がった。
 そして二人の方に歩み寄ってくると、皿に残ったチョコを見下ろして、その分量なら、と口火を切る。
「ちょうど二人で食ったのなら、そうだな、効果は朝までというところだろうな。」
「…………効果?」
「なんの話だ?」
 眉を寄せる古市の隣で、男鹿がギロリとヒルダを睨みつける。
 その険しい視線を受けて、ふふん、とヒルダは鼻でせせら笑う。
「なんだ、気付いておらんかったのか、貴様ら。通りであのチョコを平気で食っていると思った。」
 見下すようなその口調に、ヒヤリ、と古市は冷えた物を覚えた。
 気付いていなかった?
 平気で食っていると?
「ちょ……っ、ちょっと待ってください、ヒルダさんっ!? それってどういうことですかっ!? まさか、このチョコに何か入って……っ!?」
 あのっ──アランドロンのヤツ……っ!!
 ぐ、と拳を握って慌てて立ち上がった古市の言葉に、男鹿もヒルダの言葉の意味に気付いて、ハッとした顔になる。
「まさか、妙なもんが入ってるのかっ!?」
 てめぇ、それ知ってて古市に寄越したのかっ!? ──と。
 つかみかかろうとする男鹿の手から、するりとヒルダはすり抜ける。
 数歩後ろに下がって、ヒルダはバカか、貴様は。とせせら笑う。
「あのチョコは、正真正銘の美味いと評判のゴディデビルのチョコだ。変な物や混ざり物は入ってはおらん。」
「……ほんとかよ?」
 疑いの眼差しを向ける男鹿に、そんな意味のないうそなどつくものか、とヒルダは溜息を一つ零す。
 アランドロンは何もウソなどついてはいない。
 ただ──、一つだけ、アランドロンは知らなかっただけだ。
 ヒルダは悪魔のような微笑みを浮かべながら、本当だ、と頷く。
「……ヒルダさん。あの……ゴディデビル、って、なんすか?」
 おずおず、と古市が手をあげて質問してくるのに、ヒルダは呆れたような目線を向けてくる。
「なんだ、それも知らんのか。ゴディデビルといえば、魔界の王族御用達の有名なチョコブランドだ。」
「……魔界の、王族、ごようたし、てことは……つまり…………?」
 物凄くイヤな予感に、古市の頭からダラダラと汗が流れていく。
 それが冷や汗なのか、体の熱から来る発汗なのかは、古市自身にも分からない。
 お願いだから、ウソだと言って。そう願った古市の思いは、あっさりとヒルダの言葉により裏切られる。
「うむ、魔界のショコラティエが作った魔力が篭ったチョコだな。」

 想像通り、アランドロンのチョコは、魔界製だった。

「──って、ちょっ! 待ってください! それって、人間が食べたらマズイんじゃないんすかっ!?」
 っていうか、効果って何!? 朝まで続く効果って、なんですかっ!?
 ちょっと涙目になりながら叫ぶ古市に、ヒルダは溜息を零す。 
「──ゴディデビルのチョコには、人間界で言うところの、ガラナチョコとか言うものと同じような効果があるらしいと聞いておる。」
「「…………ガラナ……?」」
 ヒルダの説明を、男鹿と古市は口の中で繰り返し──古市は、ザァァ、と血の気が一気に引いた気がした。
「悪魔にとっては、せいぜいが血のめぐりが良くなるくらいの効果しかないが……、さて。」
 そこでヒルダは、面白そうに目元を緩ませて、古市と男鹿を艶やかな微笑みで見つめる。
「………………ぁ、くまに、とって、は……?」
 たらり、と古市の米神を汗が伝う。
 それって、つまり、人間には確実に効果があるってことですよね? という意味の問いかけの言葉に、ヒルダは鷹揚に頷いてくれた。
 その目や雰囲気が、酷く面白がっているように見えるのは、きっと間違ってはいないのだと思う。
 ──この人、絶対分かってたっ! 分かってて、古市にアランドロンのチョコを寄越したのだ! きっとそうに違いない!!
 男鹿は意味が分からないようで、頭にハテナマークを飛ばしていたが、古市はそれどころじゃない。
 ガラナチョコって……、ソレ──……っ!
「がーなちょこって、あれだろ? ロッテだろ?」
 んじゃ、普通の板チョコじゃねーの、という男鹿の頭をはり倒す気力もなく、古市は震える唇でヒルダに問いかける。
「ちょ、待ってくださいよっ!? なんでそんな効果──!?」
 そう言えば、なんだか頬の辺りが紅潮してきたような──体が熱くなってきたような気がして、古市は奥歯を噛み締める。
 冗談だと言ってくれっ。頼むから、今言ったことはウソだとっ! っていうか、そうだよ、そもそもガラナチョコだって、眉唾臭いって話だしっ!?
 そんな小さな希望はしかし、あっさりとヒルダに砕かれる。
「まぁ、ゴディデビルのチョコのほうが、そこらの強壮剤よりも、ずっと強力だがな。」
 すっぽんの生き血にも勝るぞ、と。
 そう続けられた言葉に、がっくり、と、古市はテーブルに突っ伏すしかなかった。
 なにソレ? なんだよ、その設定?
 っていうか、なんていうものを食わせようとするんだ、アランドロンっ!!?
「なぁ、おい、古市、がーなちょこがどーしたんだよ?」
「違うわっ! アホっ! ってか、バカっ! どーすんだよっ! 俺もお前も食っちゃったじゃないかっ!!!」
 涙目になりながら、アホなことを言ってくる男鹿の襟首を引っつかんで叫ぶ古市に、男鹿は何がなんだか分からず、どーゆーことだよ、と尋ねてくる。
 しかし、古市はとてもではないが、男鹿に言うことはできなかった。

 まさか、自分たちが今食べたチョコケーキには、朝まで効果がある媚薬効果入りだったなんて。

 とてもではないが、口にすることは出来なかったのである。