「愛する日から愛される日へ続く過程のお話」
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スタスタ、と二歩で自分の席についたヒルダは、恭しい手つきで主君を己の腿の上に座らせる。
その後姿を見ながら、
「お前、いつ来たんだよ……。」
本当に相変わらず、気配を感じさせずに突然涌いて出るな、と顔を顰めながら男鹿が聞けば、ヒルダはクルリと体を半回転させて、呆れた目で男鹿を見やる。
「貴様の母親と姉が、今日はバレンタインだと言って朝からうるさかったろう。」
「……あぁ? そーだったか?」
おかげで遅れた、と後れ毛を撫で付けるように髪に触れた後、ヒルダは甘い微笑みをベル坊に零すと、自分のカバンの中から王族専用粉ミルクを取り出す。
「バレンタインっ! ってことは、ヒルダさんっ、もしかして、チョコなんて用意してたり……っ!」
ワクワクと両手を握り締めて、ぐ、と男鹿の方に向けて身を乗り出す古市を、ヒルダは一瞥もしないで、そんなわけあるか、と一蹴する。
「古市、貴様はバレンタインというのがどういう日なのか、知っておるのか?」
「そりゃもちろんっ。女の子が好きな男の子に告白する日ですよねっ、チョコに託してっ! あ、もちろん、感謝を込めてチョコをあげる、とかでも全然OKっすよ、俺的にはっ!」
哺乳瓶を取り出し、それに粉ミルクを入れながら、ヒルダは小さく息を吐くと、
「愚か者め。バレンタインというのは、聖ウァレンティヌスの殉教した日にちなんだ記念日であろう? ──貴様は、キリスト教の記念日に、わたしが参加すると思っているのか?」
この、悪魔である私が?
はっ、と鼻でせせら笑うヒルダの言葉に、何ソレ? と男鹿が頭にハテナマークを飛ばしながら古市を見る。
が、男鹿の視線を受けた古市も、曖昧に首を傾げるしかなかった。
「あー……そう言えば、そんな話を聞いたような。」
所詮、その程度の認識しかないのが日本人である。
「つまり、どーゆーことだ、古市?」
「あー、つまり、悪魔を祓ったりとかするキリスト教のお祭りに、悪魔が参加するのはおかしいだろってこと。
──要約すると、ヒルダさんはバレンタインイベントになんか参加しないってことだよ。」
こそこそ、と口を寄せて他の面々に聞こえないように気を付かないながら囁けば、男鹿は、あー、と納得したように頷く。
そのままグルリと首をめぐらせてヒルダを見ると、
「つまりチョコはないってことだな? なら、最初からそう言え。」
びし、と指を差して告げる。
そんな彼に、ヒルダはせせら笑うような冷笑を浮かべる。
「そもそも、お前らごときにやる物など、用意しているはずがなかろう。」
お湯を入れてある魔法瓶を取り出し、それを哺乳瓶に注げば、辺りに優しくて懐かしいミルクの香りがフワリと立った。
不良高校の石矢魔には、到底不似合いな匂いである。
邦枝は、慣れた仕草でカシャカシャと哺乳瓶を振り始めるヒルダに、ホッと胸を撫で下ろす。
それから、モジモジ、とカバンを机の上に置いて、紙袋の中味を確認するような仕草を見せる。
男鹿に渡すタイミングを計ってるのかなー、もしくは男鹿を呼び出そうかどうしようか悩んでるのかなー、と思わせる態度である。
非常に分かりやすい。
そんな邦枝に、寧々は微妙な表情になったが──はぁ、と諦めるように溜息を零して、
「ちょっと、古市。」
くい、と、顎で古市を呼ぶ。
「はいっ! なんでしょうかっ!」
途端、目を耀かせて古市は寧々を見上げる。
その期待に満ちた眼差しに、う、と寧々がどん引きするのにもめげず、古市は寧々が手にしている紙袋に期待を寄せた。
寧々の用件は分かっている。邦枝が男鹿にチョコを渡せるような雰囲気を作るということだ。
彼女がどういう渡し方をするにしろ、まずは誰かが男鹿か古市に「義理」チョコを渡したほうが、気楽なムードが出来るし、クラスの人間が古市と寧々に気を取られている間に、邦枝が男鹿を呼び出すこともできる。
ベル坊がヒルダの膝の上でミルクを飲んでいるから、男鹿は呼び出しには答えないと思うが。
「もしかして、寧々さん、俺への義理チョコがあるんでしょーかっ。」
なので、古市は周囲の注目を集めてやるのに協力してやることにした。
男鹿が邦枝からチョコを貰うのはねたましいが、その後、義理堅い彼女からのおすそ分けがもらえる可能性もあるから、協力は惜しまない。
本命か義理かの差はあれども、あの女王からのチョコなら、喜んで貰おうとも!
「古市……あんた、プライドとかないの?」
冷ややかな目を向けてくる寧々に、ひどい、寧々さんが話しかけてきたのに……と、古市はちょっとショックを受ける。
が、すぐに立ち直ると、
「チョコをもらえるなら、プライドなんてなんのそのっ!」
ですから、くれるならゼヒっ! と、キリリと顔つきを改めて宣言する。
そんな古市を、神崎や姫川が、なまぬるーい目で見つめていた。一部男子からは、良く言ったっ、と歓声に近い声援を頂いている。
顔は一応イケメンなのに、こういうところが物凄く残念な男なのよね、と寧々は溜息を零すと、
「チョコはないわよ。」
あっさりばっさりと、古市を切り捨てた。
「……ええっ! だって、その袋っ!」
まだチョコが入ってますよねっ!?
と、寧々が持ったままの紙袋を指差す。
教室に入ってきたときと同様、ふくらみを持ったままの紙袋には、チョコが入っている。それは間違いない。
──が、寧々は、これはさっき貰った分、と、柳眉を顰めて答える。
そして、それを古市の目から庇うように隠すと、子供に言い含めるように教えてくれた。
「あのね、うちのチームは異性交遊禁止なの。
当然、バレンタインとかもなし。」
「でも、チョコもって来てたじゃないっすかっ!」
「友チョコは、女同士の交流じゃない。」
なんで男なんかにチョコやらないといけないわけ?
そうアリアリと見える差別の色に、古市は打ちのめされる──同時に、本当に少ない希望に心を寄せていた男たちも打ちのめされた。
「そんな……、レッドテイルの人たちが、みんなチョコ持ってきてないってことは、今年のバレンタインは、ほんっとに期待できないってことじゃないか……っ!!」
「──あんた、うちらに男作るべからずの掟がなかったら、もらえてたとか思ってんの?」
ショックで机に手をついてうな垂れた古市に、寧々が冷ややかな突込みを入れてくれたが、彼はそれを聞いてはいなかった。
──ということは、つまり、この先二年間、完全に石矢魔女子からチョコを貰う可能性はないということだ。
なんということだろうっ、なんて寒い展開っ! なんて夢のない未来っ!
「……俺……、転校しようかな……。」
ごと、と額に机を預けて、ぽつり、と古市が呟けば、そ こ ま で … っ!? と女子が呆れ顔になり、男子がハッと天啓を受けたような顔になる。
──そう、女子が思っている以上に、バレンタインは男子にとって一大イベントなのである。
「アホか、お前。」
呆れたように突っ込む男鹿に、ほんとアホですね、という目で古市の後ろの席から千秋が見てくる。
「うるさいわっ、チョコって言ったら、家族か俺んちからしか貰ったことがないお前に、俺の気持ちはわかんねぇよっ!」
「へーへー。帰りにチロル買ってやるから。」
「それはいらない。」
何が哀しくて、わざわざ男から……しかも男鹿から、チロルを買ってもらわなくてはいけないのか。それこそまさに拷問だ、と、机に懐き続けた古市は、ふ、とそこで顔をあげた。
甘い……においがした。
「? 男鹿、お前チョコ食ってる?」
鼻先をくすぐるのはチョコの匂いだ。
しかし、見上げた顔はいつもと同じ。口が動いている様子もない。
「ん? そういや、チョコの匂いがすんな?」
すんすん、と鼻を動かす男鹿に、そーだよな、と古市も目線を彷徨わせる。
寧々や邦枝の持っている紙袋に目をやるが、まさか箱に包まれたチョコが人間に感じ取れるような匂いを発するはずもない。
辺りを見回すが、周辺の人々も、そういえば、と目を動かす。
その最中、ただ一人、ヒルダだけがニコヤカにベル坊が持つ哺乳瓶に手を添えながら、
「ふふ、坊ちゃま、美味しいですか?」
嬉しそうに、いとしそうにベル坊を見つめていた。
ベル坊は、いつになく熱心に、ごきゅごきゅとミルクを飲み干している。
それに、かわいい、と邦枝や千秋が胸をキュンとさせる傍ら、
「……あの、ヒルダさん? ──なんか、そのミルクから、チョコの匂いがする、ような……?」
恐る恐る、古市が指摘した。
いやまさか、そんなはずはない。
だってミルクは、ちゃんとミルク色をしているのだ。チョコの色なんてカケラもない……、の、だが。
「当たり前だろう? 今日は特別に、ぼっちゃまのためにチョコフレーバーとやらを作ってもらってきたからな。」
それをアランドロンに取りに行かせていて、少々時間がかかったのだ、と告げるヒルダの顔は、何を当たり前のことを、と言っていた。
チョコフレーバー? と、古市はポカンと口を開く。
その名は知っている。コーヒーやカフェラテなどにチョコの風味をつけるヤツだ。
最近ではコンビニにチョコフレーバー入りのソーダみたいなのが出ていて、透明なソーダなのに口いっぱいにチョコの味がしていた。
後、チョコの味のタバコもあるとか言うのを石矢魔の生徒が都市伝説のように噂していたのを聞いた事もある。
それが、なぜ、ベル坊のミルクに? しかも今日に限って?
「え、あの……ヒルダさん、それって──。」
どういうこと? と尋ねる古市い、決まっておろう、とヒルダは頷くと、
「今日はいとしい人にチョコを贈る日なのだろう?」
男鹿の姉と母がそう言っていたぞ、と。
これ以上ないくらいの完璧な笑顔で答えてくれた。
つまり、そのため「だけ」に、わざわざ魔界から王族専用のチョコフレーバーつきミルクを作ってもらった、ということで。
「バレンタインしないって言っただろっ、あんたーっ!!!」
思わず机をひっくり返したくなった古市であった。
しかも、数日前に言っていた、ならまだしも、ついさっきヒルダは言ったばかりなのだ。バレンタインの行事に悪魔が参加すると思ってるのか、と。
なのに、すでにもうベル坊にだけはチョコ用意してたって、ソレ、どういうことっ!?
そういうの用意してるなら、俺にもついでに用意してくれてもいいじゃん!? いやもういっそ、ベル坊のミルクでいいから、分けてくれてもいいじゃないかっ!!!
──後半、ちょっと人間として、大人としてどうかと思うようなことを心の中で叫ぶ古市を、男鹿が微妙な目で見る。
こんなときくらいテレパシーなんて通じなくてもいいのに、無駄に通じてしまったらしかった。
「ふん、まともな聖人のイベントに参加するのはゴメンだが、この国のイベントは俗世にまみれているからな。
それに、ぼっちゃまがやりたいとおっしゃるのなら、それを拒む理由はない。」
ベル坊至上主義。それを悩むことなく堂々と掲げるヒルダは、天晴れだ。
さすがはベル坊のためだけに生まれ、ベル坊に仕えることだけに意味がある侍女悪魔と言うべきか。
「じゃ、じゃぁ、チョコもあるんでしょうか……っ!」
何はともあれ、ヒルダもバレンタインイベントに参加したことに間違いはない。たとえそれがベル坊のためだけだとしても!
チョコはなくても、チョコフレーバーのミルクのおすそ分けくらいはあるかもしれないと、古市は期待に胸を一杯に膨らませる、が。
「やらんと、さっきも言っただろうが。」
ヒルダの声は、すげなかった。
あっさりばっさりと切られ、古市はガックリと肩を落とす。
「あぉ、──だが、ふむ、男鹿の父親くらいにはやらねばならんようだがな。」
世話にはなっているからな、と顎に手を当てて呟くヒルダに、あぁ、それなら俺にも──俺にも慈悲を……っ、と古市は思うのだが、それで心動いてくれる優しい女性ではないことは、古市も良く分かっている。
なんだかんだで男鹿家の人間には敬意を払っているらしいヒルダに、俺もいっそ、男鹿家の一員になってみようかと、古市はチラリと考えてみた。
そう言ったらきっと男鹿は、嫁に来んのか? と真顔で聞いてきそうで怖くて、とても口には出来ないが。
「いいなぁ……ベル坊は。」
頬杖をついて、古市はヒルダの膝の上でゴッキュゴッキュとミルクを飲んでいるベル坊を見つめる。
そんなベル坊を、ヒルダは母親のように優しい眼差しで見つめている。とてもではないが、割って入れるような雰囲気ではなかった、が。
「ヒルダさん……。」
す、と邦枝が二人の前に立つ。
その手には、何かが入っている様子の紙袋が握られていて、美しい容貌は緊張の色に染まっている。
ヒルダが無言で目線をあげれば、その美しい翠玉の双眸をうけて、一瞬邦枝がひるんだ。
けれど彼女は、ぐ、と奥歯を噛み締めると、ガサガサと紙袋の中から綺麗にラッピングされた箱を取り出し、
「これ──、ヒルダさんに。」
ぐい、と、ヒルダに向けてチョコレートの箱を突き出した。
途端、
「姐さんっ!?」
がたっ、と寧々が驚いたように椅子を立ちかけ、古市がポカンと口をあける。
ヒルダは、差し出されたチョコレートの箱を無言で見下ろし、左手でベル坊を支えたまま、もう片手でその箱を受け取る。
無事に受け取ってもらえたソレに、ほ、と邦枝は胸を撫で下ろす。
ヒルダは赤いリボンが巻かれた紺碧の包み紙を見下ろし、それをひっくり返して某有名店のブランドマークを確認すると、再び表に返した後、ちら、と邦枝を見上げた。
「……本命チョコ、というヤツか?」
そして、にぃ、と赤い唇に笑みを馳せて人の悪い口調で尋ねる。
「なななっ……葵姐さんっ!?」
「邦枝先輩ーっ!?」
寧々と古市が悲鳴のような声をあげる。
まさか、男鹿にチョコを渡すと見せかけて、隠れ本命はヒルダさんーっ!?
いつのまに、そんな展開に……っ!
焦るあまり、古市の脳裏に裸の上半身をしどけなく絡めあうようにして抱き合う二人の姿が妄想となって浮かんでくる。
金髪の巨乳美女と、黒髪の大和撫子美少女。──イイ、すごくイイ!
……って、そうじゃなくってぇぇぇっ!!!!!
動揺のあまり指をわななかせる古市を、男鹿が振り返って邦枝とヒルダを指差す。
「おい、あいつら、いつのまに出来てたんだ?」
そんな彼に、邦枝は、なっ、と白い頬を赤く染める。
「ちっ、違うわよっ! これは、友チョコっていうか、義理チョコっていうか……っ! 感謝の気持ちを込めたチョコよっ!」
勘違いしないでっ! と手を大きく広げて力説する邦枝に、ヒルダは受け取ったチョコを唇に押し当てながら、涼しげな顔で笑う。
「この間のバレーの時とか、他にも色々助けてもらったから、その、感謝の気持ちっ! 赤ちゃんにも食べられるお菓子を入れてあるから、ベル君にあげてね。」
他に、どうのこうのと言った感情があるわけないじゃないっ!
そうどこか怒ったように言う邦枝の目は、まっすぐに男鹿に向かっている。
誰に対して誤解を解いているのか良くわかって、ちょっと古市は切なくなった。
分かってる。──うん、分かってるよ、邦枝先輩が男鹿のことを大好きだってことは。
でもちょっと目の当たりにしたら、哀しくなっただけなのだ。
こんな美少女でこんなすばらしい女性なのに、なんで男鹿なんか……。
「ふむ、まぁ、ありがたく受け取っておくとしよう。
礼を言うぞ、邦枝。」
ヒルダは動揺も露な邦枝を見れて面白かったのか、人の悪い笑みを浮かべたまま、チョコを机の上に置く。
それに、なんとなく釈然としないものを覚えながらも、受け取ってくれるなら、と邦枝は一つ頷く。
そして、ちょっと気になるように、ちら、と視線を空中に彷徨わせた後、恥ずかしがるように目元を赤らめると、
「その──、チョコレート、初めて作ったから、味の保証はできないの……。……あっ、で、でも、ちゃんと味見はしてるのよっ!?」
これでチョコを貰った相手が自分だったら、もう感無量で涙すら出てくるに違いない、と思うような愛らしさで、モジモジと肩を揺らす。
かわいい……、と、古市の後ろで千秋が蕩けるような声で呟き、寧々がなんとも言えない顔で、姐さん……、と呟く。
それらの声を受けながら、古市は、いいなぁ、ヒルダさん、とぼやく。
ヒルダはフッと笑みを浮かべると、
「まぁ、期待しないで貰っておこう。」
男前な笑顔でそう告げる。
邦枝は、それにホッと笑顔を浮かべて、ええ、と頷く。
そうして、彼女はモジモジと更に肩を揺らし、ちら、と男鹿を見る。
この後の展開は、男鹿以外の誰にでも分かった。
邦枝は、紙袋の中に残ったチョコを、男鹿に渡すつもりなのだ。
──そうだ。すでにもうレッドテイルを卒業している邦枝に、男にバレンタインチョコをあげてはならない、という掟は適用されない。
だから、邦枝は男鹿の分のチョコを忍ばせてきているはずだ。
もう、それは目に見えて分かっている。
そして実際、
「……そ、そそそそ、それで、男鹿っ!!!」
顔を真っ赤に染めて、どもりながら邦枝は、なぜか視線をあらぬ方に向けて男鹿に体を向ける。
つん、と顎を反らすようにしながら、乱暴な手つきで紙袋に手を突っ込むと、
「ヒルダさんの分を作るついでにっ! そう、ついでに、材料が余ったから、あ、ああ、あんたの分も、作ったのよ……っ。」
がっ、と、勢い良く男鹿の前に、チョコを差し出す。
真紅の紙に包まれた、ヒルダの分以上に気合の入ったラッピングだ。
一目見て、「これを友チョコだとか義理チョコだとか言われて、誰が信用するだろうか」という出来である。
現に、それを目撃した神崎や姫川や寧々は、あっけにとられているではないか。──あまりにあからさますぎて。
「あん?」
なのに、男鹿と来たら、目の前に差し出された豪華なラッピングに、チラリと目をくれて、
「なんだ、くれんのか?」
「何、そのテンションっ! お前、女王からチョコもらえるっつぅのに、なんでそんなテンション低いのっ!!」
ばしっ! と後ろから後頭部を叩かれて、男鹿はそれを掌で抑える。
「なにすんだ、古市っ! いってぇだろーがっ!」
「うっさいわっ! この幸せ者っ! 男鹿のくせにっ!!」
ムカつくっ! と、ついでにもう一発殴ってやれば、ベル坊にミルクをやり終えたらしいヒルダが、赤ん坊の背中をポンポンと叩いてやりながら、
「男の嫉妬は醜いぞ。」
「バレンタインくらい、嫉妬して当たり前なんすよっ!」
もてない男どもが、古市の言葉に、うんうんと大きく頷いて同意を示してくれる。
夏目がソレに、「神崎君はモッテモテだから、関係ない話だよねー。」と能天気に笑う。
そんな彼を背後に、ヨーグルッチにストローを突き刺した神崎は、「俺の今日初のチョコは、お前のチョコだっつーの。」と、微妙に凹んだ口調で答えてくれた。
「え、と……、あの……?」
取り残された形になった邦枝が、自分の手元のチョコを見下ろし、男鹿を見る。
せっかく勇気を振り絞ったのに、と、ちょっとシュンとなる彼女に、がたんっ、と寧々が腰を椅子に乱暴に腰掛け、
「ふ・る・い・ち……?」
ジットリと、凄目で睨み揚げてきた。
低い声で唸るような響きもついていた。まるで地獄からの呼び声のような低さに、ヒルダの腕の中に居たベル坊が、あだーっ、と目を耀かせる。
はぅっ、と背筋を正した古市は、改めて男鹿に向き直ると、
「男鹿、ほら、邦枝先輩がお待ちだ。ありがたーく……ほんっと心からありがたーーーーーぁぁぁーく、受け取れよ……っ!!!」
最後のほうに憎しみを織り交ぜて、ギリギリと男鹿の耳を引っ張りながら囁いてやる。
怨念の篭った声に、男鹿は顔をブルリと震わせる。
「いたいっ、いたいっつーの!!」
ちょっと涙目になりかけた男鹿に、ようやくすっきりした気持ちで古市は手を放す。
──まぁ、男鹿が本命チョコを貰うって言うのはムカつくけど、相手は女王。
心優しく人には平等に、に重きを置く邦枝のことだから、義理だけと古市にもチョコを用意してくれているに違いない。
ヒルダに先に手渡したのは、恥ずかしがる乙女心から。──でもって、男鹿に先に渡したのは、男相手には一番先に好きな人に渡したいという乙女心である。
ならば、先に男鹿に渡してもらえばいい。
そしてその後、義理だけど、邦枝からチョコを貰うのだ。
「へいへい、っと。──サンキューな、邦枝。」
男鹿は古市に抓られた耳を擦りながら、彼女が躊躇いながらも差出し続けていたチョコを受け取る。
「……う、うんっ!!!」
あの邦枝から直接受け取ったにしては無造作に受け取る男鹿に、けれど彼女は凄く嬉しそうに笑った。
頬を紅潮させ、目元を潤ませて──嬉しさの余り滲んだ涙を指先で拭い取る仕草は、ひどく愛らしい。
男鹿の興味は、すでにもう貰ったチョコに行っているというのに、邦枝は漏れる笑みを隠すことなく、自分の席への近い距離を軽いスキップで辿り着く。
椅子を引いて、彼女は軽くなった紙袋をたたむと、よっしゃっ、と握りこぶしをした。
その様もまた愛らしくって、いいなぁー、と思った古市は、そこでハタ、と気付いた。
──アレ? たたまれた、紙袋??
「…………あ、あのー……、邦枝先輩。」
ヒルダからベル坊を手渡されながら、邦枝からのチョコをイソイソと開けようとしている男鹿の後ろから、おずおずと古市は手をあげて自分の存在を主張してみた。
男鹿に無事にチョコを渡した邦枝は、上機嫌にニッコリ笑いながら古市を振り返る。
その綺麗な笑顔に、それだけで満足しそうになるが、ソコじゃない。問題は今、ソコじゃなくって。
「……チョコ、……俺の分とかは、ないんでしょーか?」
そう、ソレである。
ほとんどの女子がレッドテイルに属する石矢魔で、貴重なチョコをくれる女性の存在。──しかもあの東邦神姫の一人、女王邦枝からのチョコだ。
たとえ義理であっても、特別だ。
忘れられては困る、という思いでおずおずと見上げれば、寧々と千秋から冷ややかーな視線を向けられた。
あんた、姐さんに何、ねだってんの?
まさに、今すぐ突き落とされそうなそんな目線に、いやだってっ! と古市が反論しようとした……まさにその瞬間。
「………………え、と…………。」
つぅ……と、邦枝は額から汗を流しながら、ぎぎ、と古市を振り返ってきた。
その顔を見た瞬間、まさか、と古市は思った。
いやまさか、あの義理堅くて人情深い邦枝先輩に限って、ヒルダさんや男鹿にチョコがあって──俺にないなんてことは……っ!!!
「…………っっ。」
「あっ、ご、ごめんなさいっ! あの、そう、今からっ、今から購買までいって、ちょっと買って来るから……っ!」
慌てて邦枝は立ち上がり、財布を持って教室の出入り口を指し示す。
その事実が、ますます古市をへこませた。
購買って……購買って……それ、義理中の義理じゃないっすかっ!
「ちょっと古市っ! あんた、葵姐さんにソコまでさせる気なのっ!? 姐さんもっ! 古市なんかにソコまですることないですよっ!」
「え、で、でも、男鹿に渡したのに、古市の分を忘れてたのは私が、悪いんだし……。」
寧々が断固として抗議するのに、邦枝が苦笑を滲ませて、ちょっと買って来るだけだから、と笑ってくれる、が。
古市の背後で、チャキ、と、なぜか銃を持ち上げるような音が聞こえる。
すぐ背中に、何かが押し当てられたような気がするのは、気のせいだろうか。きっと気のせいだと思いたい。
「い、いや……あの、いいっす。ないなら、ほんといいですので、気を使わないでください……。」
結果として、古市はそういう以外に、方法はなかった。
本音を言えば、喉から手が出るほど欲しい。欲しい、けど。
でも──仕方がないのだ。
くっ、と涙を呑んで諦める古市に、でも……、と邦枝はためらっていたようだが、
「ほら、姐さん。古市もいいって言ってるんですから、いいんですよ。それに、こいつにチョコなんて買ってたら、他のヤツラだって欲しいっていってくるに違いありませんし、キリないっすよ。」
腰に手を当てて断言する寧々に、そう? と邦枝はすまなそうな顔になると、
「あの、ほんとゴメンね、古市。」
顔の前で小さく両手を合わせて謝ってくれる。
その可愛らしい仕草だけで、ちょっとだけ胸が一杯になった気がして、いいえ、と古市は笑顔で頭を振った。
うん、いいじゃないか! とりあえず、あげよう、と思ってくれた気になっただけで、それだけでいいじゃないかっ!
そう、自分自身に納得させようとした、というのに、
「おー、これ美味いぞ、古市。一口食うか?」
男鹿が、一人で食べていた邦枝特製のチョコを、ひょい、と古市の顔の前に突き出してくれた。
美味い、と褒められたことに邦枝は嬉しそうに顔を輝かせるが、それを古市に差し出した男鹿の行動には、少しだけ寂しそうな表情になる。
「………………てっ……めぇは、空気読めっ! MK5かっ!!!」
アホかっ! どこの世界に「本命チョコ」をくれた相手の目の前で、他の人間に渡そうとする相手がいるのかっ!
思いっきり頬をつねってやれば、いひゃい、と抗議してくる。
けど、その手を緩めてやるつもりは、当然なかった。
「そのチョコは、ちゃんと一人で食えっ!」
女のコから貰った物を他人に分けるなんて、言語道断だ、と言いきる古市に、へー、と邦枝たちがちょっと感心したように目を向けてくる。
でも古市にしてみたら、そういう見直した、という視線よりも現物が欲しい。具体的にいうならチョコが欲しい。
──来年くらいには、義理の義理でいいから、くれないだろうか。もういっそ、チロルでもいいから……、と、思ってしまうくらいに切ない。
モグモグとチョコを惜しみなく食っている男鹿に、朝からも食ったくせに、良く食うよなぁ、と古市は小さく嘆息を零す。
「あーあ……、後の望みは、藤崎さんからのチョコだけってことか。」
「藤崎? ──って誰だ?」
すでにもう残り少なくなった邦枝のチョコをほおばりながら首を傾げる男鹿に、山村君の幼馴染の女の子、と教えてやりつつ、古市は敗北感を噛み締めた。
小学校から今まで、古市はチョコの数で男鹿に負けたことはなかった。──同点ということはあったが、負けたことは一度たりともなかったのだ。
なのに、だ。
今年の……よりにもよって、思春期まっさかりの一番大事な高校生活一年目に、負けてしまうとは。
あまりに情けないではないか。
「……梓ちゃんも、男鹿にチョコを?」
話を耳に挟んだ邦枝が、少し不安そうに目を揺らしてくるのに、そんな心配しなくても──と、苦い笑みを古市が刻んだ、まさにその時だった。
バァンッ!!
「古市様、男鹿殿。チョッコレイトですぞっ!!」
思いも寄らない人物が、教室の扉を開けて登場した。
聖石矢魔の制服に身を包んだ、アランドロンその人である。
は? と顔をあげた面々の前に、アランドロンは踊りだしそうな足取りで近づいてくると、まずはヒルダとベル坊に向けて、うやうやしく15センチくらいの高さの箱を差し出す。
お辞儀をしたその角度、まさに90度くらいの恭しさである。
「こちらは、バレンタインのチョコでございます、ヒルダ様。
あと、坊ちゃまには、甘さ控えめのお菓子をばご用意いたしましたぞ。」
ベル坊には、多分魔界の一流シェフだろう人が作ったらしいツヤツヤ耀く飴玉のようなお菓子の詰め合わせを渡す。
ベル坊は、嬉しそうにソレを手に取り、あー、と男鹿に向けて見せびらかすように掲げて見せた。
それを見て、よかったなー、ベル坊、とぐしゃぐしゃとベル坊の頭を撫でる男鹿は、いいお父さんをしていた。
「ふむ、ありがたく受け取るが……。」
ヒルダは掌にちょっと余るくらいの大きさの箱を受け取り、チラリとアランドロンに視線を向ける。
アランドロンの手には、まだ二個ほど包みが握られている。
それはいい。それをアランドロンがドコに渡すのかは、聞かなくても分かるからだ。
問題は、その大きさだ。
一つは、ヒルダよりも少し小さめの箱。チョコンとアランドロンの掌に乗っている。
そして、もう一つというのが、アランドロンが小脇に抱えるくらいの大きさをしていた。
「…………………………((((;゚Д゚))) ガクガクブルブル。」
古市は、それを見た瞬間から、イヤな予感に俯いていた。
ダラダラとイヤな汗が流れ、机に染みていく。
アランドロンが入ってきた時から、小脇に抱えていた物の存在は目に飛び込んできていた。
だが、あえて目をそらし続けていた。
きっとアレは、ヒルダやベル坊に行くに違いないと、そう思っていたからだ。
だがしかし、アランドロンはソレを彼女たちに渡すことなく、こっちに向かってきている。
俯いて、必死でアランドロンを視界から外そうとするが、上手くいかない。何せ、あの巨体だ。どうしても目に飛び込んできてしまうのである。
「男鹿殿。ハッピーバレンタインですぞ。」
「おー、サンキュー、おっさん。」
あっさりと男鹿は疑問にも思わず、アランドロンから箱を受け取る。
いやいやいやいや! そこ! 疑問に思おうよっ! おかしいよねっ!? おかしいだろっ! おかしいって思えよっ!!!!
激しく突っ込みたかったが、残念ながらそんなことは出来なかった。
だって顔をあげたら、ソコにアランドロンのでっかい箱が見えるからである。
ぎゅぅ、と古市は膝の上で手を握った。
無駄に緊迫した雰囲気が流れている。妙に息が苦しい。
──いや、待て古市。きっとアレだ。アランドロンが持っている箱は、俺宛てではないのかもしれない。そうだ、ヒルダさんとベル坊と男鹿の分があって俺の分がなくても、不思議はないじゃないか! だってさっきも、邦枝先輩に忘れられてたしねっ!! ……くっ(涙)。
だからきっと、アランドロンだって、ヒルダたちの分は用意してても、古市の分なんて頭にないと……、
「そして……、古市さま。これをどうぞ。……私からの気持ちです。」
思おうとしたけど、アランドロンはソレを許してはくれなかった。
どーん、と、机が震えるかと思うほど大きな物体を、古市の机の上に置いてくれた。
高さ、目測45センチ。幅、目測30センチ。奥行きも多分それくらい。
何かの置物か壷でも入ってそうな大きさの箱である。
「おー、すげぇな、古市。」
「何はいってんの、これ?」
男鹿や神崎、寧々や邦枝たちが興味深そうにソレを見上げる。
かぽーん、と口をあけっぱなしになる古市に、アランドロンは恥ずかしがるように、きゃっ、と顔を覆った。
まったくもってキモくて可愛くない。
「今日がバレンタインだと聞いて、昨日慌てて作ったんですよ。おかげで、同じ型しか作れなかったので、皆さん、同じデザインで申し訳ないのですが、その愛の差を大きさで示してみました。」
「示さなくてもいいだろっ!!!!」
つーか、同じ型しかないのに、大きさ違うとか、意味わかんないしっ!
同じ型しかなかったら、大きさ全部一緒だろっ!? そうだろっ!? そういうもんだろっ!!!???
涙目になりながら突っ込む古市に、アランドロンは、さぁさぁ、と開けるように促がしてくる。
無表情なおっさん顔に、古市はしょっぱい気持ちになりながら、イヤそうにその箱を見た。
「開けんの……?」
なんか変な魔界製とかが入ってるんじゃないだろうな? ──というか、慌てて作ったということは、手作りか……アランドロンの手作りときたか。
その事実も、物すごくしょっぱい。
もう、このまま中を開けずに捨ててしまおうかと、ちょっと思いもしたその目線の先で。
「同じ型っつぅことは、クッキーとかが一杯詰ってんのか??」
男鹿が、何も考えずにラッピングを解いていた。
「あーだー。」
ベル坊も、男鹿の箱の中身に興味があるらしく、目を耀かせて覗き込む。
そして、ひらりん、とリボンが解かれて現れた透明な箱の中には。
茶色いアランドロンの胸像が入っていた。
「……………………。」
「……………………。」
「…………………………。」
長い無言が一同の間に落ちる。
ヒルダはチラリと自分が持っている箱を見て、男鹿の開けたチョコを見る。
確か、アランドロンは同じ型で作ったと言っていた。
ということは、目測15センチの高さのアランドロンチョコは、ヒルダの分にも入っているわけだ。
「って、なんだよ、これっ!!!!!」
がたがたっ、と椅子を激しく鳴らして、男鹿が立ち上がる。
ベル坊もイヤそうな顔をして、イヤイヤと顔を横に振った。
ありえない。もう、食べ物としてありえない。
なんて恐ろしい罠。これはイヤがらせかと思う。
しかし贈り主たるアランドロンは平然としたもので、
「愛する人に贈るチョコで、独創的な物はないかと調べておりましたら、『私チョコ』というのを発見いたしまして……。」
「いや、独創性に走る意味わかんねーしっ!」
「いやいやいやいや、ありえない。美女の銅像ならとにかく、おっさんのチョコ銅像は食う気が起きねぇよっ!!」
男鹿が突込み、古市は目の前のでっかい箱から顔を背ける。
男鹿の箱にアレなら、古市の箱の中って──あぁ、考えるだけで虫唾が走る。
「なので、私の思いごと、古市さまに召し上がっていただこうと思ったのですよ。」
「いらんわぁぁーっ!!!!!!!」
口から異物が飛び出すかと思うほど、古市は絶叫した。
思ったのですよ、じゃない。
も、ほんと、いらない。そんなバレンタインはゴメンだ。
「トラウマになるわっ!! なんだよこのチョコっ! ってか、何、俺の分ももしかしてアレっ!!?」
「古市さまには特別に、胸から下もついております。」
「いにゃぁぁーっ!!!!!!」
ぽぽ、と頬を染めるアランドロンに、古市は耳を塞いで泣いた。
もう泣くしかない。
なにソレ、何の拷問っ!?
頭を抱えて現実逃避しかける古市に、ヒルダは無言で自分の箱を見下ろした後──、ふっ、と、冷ややかな笑顔を浮かべると、
「古市。アランドロンの愛が詰っているというなら、これもお前が食うべきだと思うぞ。」
さぁ食え、と、箱を投げてきた。
それは過たず、がつっ、と古市の頭部にぶつかる。
がふぅ、とのけぞる古市に、今ので胸像が割れてしまっていたらいい、と思いながら、ヒルダは美しい笑顔を貼り付けると、
「古市、私からのチョコが欲しかったと言っていたな? これを私のバレンタインチョコだと思って、残さず食え。」
中途半端に残ったアランドロン胸像など、胸が焼け爛れるほどに醜いだろうからな。
──と。
あくまでも自分本位に告げるヒルダに、古市は打ちのめされた。
「ちょ……ヒルダさん……酷っ……。」
アランドロンも、ちょっと寂しそうにしていたが、「古市様が食べるならば、本望です……。」と照れている。
ヒルダは、そうだろう、と鷹揚に腕を組んでしたり顔で頷いているのだ、が。
いや、その意味わかんない。
古市はヒルダから投げられた箱を手に、うう、と涙にくれる。
ただでさえでもでっかい箱におっさんの全身像チョコとか、ありえないっていうのに、更に胸像まで追加されてしまった。
これが悪夢以外の何であるというのだろうか?
もう、いっそ踏み潰して壊して粉々にして、何もかもなかったことにしてしまいたい。
そんな彼に追い討ちをかけるように、男鹿もニタリと悪魔の笑みでもって、アランドロンの胸像を掲げると、
「古市、コレも美味いぞ。」
「だっ!」
親子そろって、古市に差し出してきた。
それに、フルフルと拳を握った古市は、
「だからっ! 人様から貰った物は、他人にやんなっつってんだろーっ!!!!」
ばこっ! と──とりあえず、たまった鬱憤を晴らすよに、容赦なく男鹿の頭を叩きつけておいた。