「愛する日から愛される日へ続く過程のお話」

VD→WD 1













 いつものように、男鹿に呼び出されて、ベル坊やヒルダに振り回されて終わった休日。
 学校ある日より、日曜日のが疲れるってどうなんだよと思いながら、くたくたになって帰ったその夜。
 本当は、フロに入ったらそのままベッドに倒れこみたかったが、そうは言っていられない事情があった。
 重い体を引きずりながらも、眉毛も整え、体もぴかぴかに磨き上げ、制服にも汚れがないか確認した。
 通学鞄の中に、紙袋を入れておこうか考えたけど、あまり自意識過剰すぎるのも考え物。きっと寧々さんに冷めた目で引かれてしまうだろう。うん、そんな顔も美人ぞろいなんだけどね、うちのクラス!
 最初の頃に比べて、ずいぶん仲良くなった女子たちの姿を思い浮かべ、本命はなくとも義理くらいは、きっと……! と期待を寄せた。
 石矢魔に入学した当初は、こんな甘い日なんて、きっと来ないに違いないと打ちひしがれていたけど、神様は見捨てていなかった。
 さすがに本命チョコが期待できるメンバーはいないが――いやいや、もしかしたら通学途中とかで、いつも見てましたとかが、あるかもしれないけどっ!
 義理チョコはもらえそうだと、古市は、うきうきした気分でベッドに入った。

――そう、明日はバレンタイン。

 思春期の男子にとって、一大イベントの日なのである。












 翌朝、目覚めも爽快な頭で一階に降りていくと、母と妹から、早速本日一個目と二個目のチョコをいただいた。
 サンキュー、と言いながら受け取った母のチョコは、なんとゴディバ。
 ほのかからの物は、手作りらしい、ちょっと失敗したラッピングであった。
「なに、ほのか、作ったんだ。」
 いつのまに、と、妹の手作りを、「一番はじめ」にもらったのがくすぐったくて、口元をゆるめながら聞けば、
「うん。昨日おにいちゃんが、男鹿くんちにいってる間にね、友達と。」
 にこにこと楽しそうな笑顔が返ってくる。
 その奥で、母が苦笑しながら、「大変だったのよ〜」と笑う。
「へぇ、がんばったじゃん。」
「えへへ〜、結構おいしくできたんだよっ。」
 ほめられてうれしかったのか、ほのかが頬をゆるめる。
 そんな兄の欲目を抜きにしても愛らしい様子の妹に、後で食べるよ、と返しながら、感想もつけてあげようと思った。
 女の子は、作った物を誉めるとうれしいものだから。
「そっちの分は? ほのか、誰かにあげるのか?」
 同じテーブルの上に乗った、兄用よりもちょっと気合いの入った包みを示せば、ほのかは嬉しそうに笑ってうなずく。
「うんっ。学校に持ってくんだ〜。みのちゃんと、先輩と、後、先生と。」
 邪気なく語るほのかの表情に、まだまだ恋には早いんだなぁ、と古市は安心するような、残念なような気がしないでもない。
「あ、そだ。おにいちゃん、これ。」
 チョコを自室においてこようとした古市に、ほのかはもう一つチョコを取り出す。
 今度は、少し違うラッピングを渡されて、誰の分、と聞くことはない。
「なに、あいつの分も用意したの?」
「うん。渡しといて。」
「おー。」
 毎年のやりとりではあるが、毎回、やはり男鹿にチョコなんてもったいないと思う。
「あ、貴之。お母さんからのも、渡しといて。」
 朝食の準備をしていた母が、はいこれ、と渡したパッケージを何気に受け取り、古市はそのシックな茶色の包みに、ギョッと目を見開いた。
「って、男鹿の分もゴディバなのっ!?」
 もったいなくね!? あいつ、味わかんないって!
 と訴えるが、母はなに言ってんの、と箱を押しつけてきた。
「お父さんのと一緒に頼んだんだから、みんな一緒よ。」
「それは知ってるけどさ……。」
 母が数日前に、ゴディバの直営店に直接電話をして配送を頼んでいたのは、古市も知っている。パンフレットを広げながら、一緒に覗き込んでいたからだ。
 けど、まさか自分と男鹿の分までゴディバで頼んでいたとは知らなかった。てっきり、高校生には良くてモロゾフかロイズ辺りだと思っていたのだ。
 父の分は、さすがに本命だけあって、大きさも値段も格別だ。
 でも、男鹿の分は、どう見ても古市のと同じ大きさだった。実の息子と男鹿が同じ扱いって――、なんだか切ない。
「今年は奮発して、二人ともトリュフよー。」
 ブイ、と指を二本立てる母に、高級なチョコの値段がイマイチ分からない古市は、ふーん、と返す。
 トリュフというのは、丸いチョコレートの塊のことだ。口解けがよくて、時々中にトロリとした物が入っていたりするヤツだ。
 ──男鹿なんて、俺以上に知識ないのに、ほんと、もったいなくね?
 何度も心の中で呟いたことを、もう一度呟いてみると、
「えーっ、いいなぁっ。お母さん、私も欲しいっ。」
 ほのかが、ずるい〜、とほっぺたを膨らませる。
「あら、ほのかにはちゃんと、アイスが買ってあるでしょ。アイスクリームトリュフよ〜。」
 お母さんも食べてみたかったから、一緒に買っちゃった♪
 と続くセリフに、ほのかはソレはソレで食べる、と言った後、
「お兄ちゃんっ、帰ってきたら、1個でいいからちょうだいねっ、チョコ。」
 くる、と振り向いて古市にそう「お願い」した。
 これも毎年のことである。
 ほかの子から貰ったものなら、ダメ、というところだが、流石に母から貰ったものを断る理由はない。
 お願いという名の命令に、はいはい、と古市はひらりと手を振って了承の意を伝えた。
「とりあえず、これ、先にカバンに入れてくるよ。」
 これ、と言いながら男鹿の分として渡された物を掲げると、母と妹は二人揃って、
「男鹿君によろしくね。」
 当然だ、というように頷いてくれた。











 石矢魔に通っている時とは違い、聖石矢魔は電車通学だ。
 そのため、ちょっとだけ早く家を出なくてはいけない。
 古市は、母と妹から預かった男鹿宛てのチョコをカバンに詰め込み、今日は一本早い電車で行こうかな、と思った。
 何せ、今日はバレンタインだ。
 ちょっと早めに行って、もしかしたら入ってるかもしれない靴箱のチョコをチェックしたり、机の中味をチェックしたりするのもいいかもしれない。
 不良連中がいるからと、聖石矢魔生が畏れて近づいてこない特別教室棟にだって、早く行けば誰も居ないから、「実は前から……」とか言う女子がやってくる可能性がなきにしもあらずっ!
 いや、それとも、いつも同じ電車に乗っている他校の女子からのチョコがあるかもしれないから、電車の時間はずらさずにおくべきか。
 うーん、悩む。
 思わず改札の前で腕を組んで、古市は悩んでみた。
 チラリと携帯の時計を見れば、一番近い発車時間まであと少しだ。
 いつも乗る電車よりは2本早く、ついでに言えば男鹿との待ち合わせ電車よりも3本早い。
「……そうだ、男鹿と一緒にいないようにしないと。」
 はた、と気付いて、そうだそうだ、と古市は頷く。
 男鹿と一緒に居たバレンタインがロクなことにならなかったのは、中学時代で懲りている。
 小学校時代は紙袋一杯にチョコを貰った記憶もあったが(ほとんど義理だったけど、それでも本命もチラホラ混じっていた)、中学時代は、一緒に居た男鹿を恐れて、チョコを持った少女が急いでユーターンしていったところを目の当たりにしたことすらある。
 その上、机の中や靴箱に入っていたチョコを、男鹿を追っかけていた不良に踏まれて粉々になってしまったことも。
 もう、あの時の二の舞は踏まない!
 よし、と古市は定期を取り出し、ピッ、とソレを改札に通すと、意気揚々とホームに向けて歩き出した。
 毎日、男鹿とは、この最寄り駅で待ち合わせをしている。──正しくは、○分の電車が出発するまでにこなかったら、先に行く、という待ち合わせだ。
 その時間の電車に乗っていくと、予鈴後に校門をくぐり、本鈴前に教室に到着することが出来るのだ。
 男鹿が来る前に電車に乗ってしまえば、男鹿はきっと○分までホームで、ぼけー、と待っていることだろう。
 だが、それでいい。むしろ今日ばかりは、そうしてほしい。
 ホームに上がる階段を登りながら、もう一度携帯の時間に目を落とす。
 電車が来るまで、あと1分。
 ちょうどいいペースだ。
 この電車に乗れば、予鈴30分前には学校に着くから、ちょっと途中のコンビニに寄り道してジャンプでも買ってくか、と、最後の階段を上がったときだった。
「おー、古市、はえーな。」
 智将の作戦は、早くも崩れ去ってしまった。
「………………男鹿?」
「あっ、おはようございます、古市さんっ!!」
 びしっ、と45度に綺麗にお辞儀をして、カズが朝早くからニコヤカで明るい笑顔を向けてくる。
「おはよう……。」
 まさかこんな早くから男鹿がホームにいるとは思わなかった古市は、思わずその場に立ち止まり、マジマジと男鹿を見つめた。
 夢でも幻でもない。正真正銘、ホンモノの男鹿だ。
 思わず寝起きの間抜け面を、指さして、
「おまえ、なんでいるの?」
 ぽかん、と口を開けながら問いかけてしまった。
 イヤだって、男鹿がいつもより早い時間にいるとか、ありえないし。
 古市と違って、今日という日のために気合が入ってる、というわけでもないだろう。
 何せ、物凄く眠そうだ。
「姉貴に起こされた。」
「ちょうどアニキを迎えに行ったら、ごはんを食べ終わったところだったので、一緒に出てきたんすっ!」
 くぁ、と欠伸をする男鹿の後ろで、ベル坊がスースーと眠っている。
 カズがニコニコと説明するのに、そうなんだ、と気のない返事を返して、古市は二人の下へ歩み寄った。
「珍しいな、おまえの姉ちゃんが起こしにくるなんて。」
 あの人、基本、自分が用事がある時以外は放ったらかしなのに。
 というか、男鹿家の人間が基本的に、放ったらかしに近い。
 何せ、古市が男鹿を迎えに行っていた時など、古市が起こすだろうという前提の元、誰も起こそうとしなかったくらいなのだ。
 何かしでかしたのか、と目線で問いかけたら、男鹿は眠そうに目をしばたかせながら──その目つきが怖いのか、周囲の人間がかすかに後ず去った。
「あー……、なんか、今日は朝から出かけるんだと。」
 それで、気が向いたらしい姉に、久しぶりに叩きこされた、と、不機嫌そうに答える。
 高校時代ならいざ知れず、女子大生と言う(古市にとって)魅惑の職業についた男鹿姉は、男鹿よりも遅く起きることが多くなった。
 なんでも、朝から授業がある日が少ないんだそうだ。うらやましいことである。
「へー。」
 相槌を打ちながら、今日はバレンタインだから、美咲も誰かにチョコをあげに行くのかもしれない、とチラリと考える。
 そこへ、ちょうど電車が入ってきたので、三人はいつもよりも空いている車内に乗り込む。
 座席も空き放題だったので、適当な場所に座り込んで、カバンを両手で抱えたところで──ハッ、と古市は男鹿を見上げた。
「男鹿っ。おまえ、ヒルダさんからチョコもらったか!?」
 これは大事だ。なにがなんでも聞いておかねばならない。
 差し迫った形相で、今にも胸ぐらを掴んで来そうな勢いの古市を、男鹿は怪訝そうに見下ろす。
「チョコ?」
「そうだよ、チョコレイトだよ。もらったのか、もらってないのか!?」
 どっちだっ!? と睨みつけられて、男鹿はイマイチよく分かってない表情で、背中からベル坊を剥がしとると、未だに眠ったままの赤ん坊を両腕で抱きかかえながら、
「貰ってねぇ。──つーか、アイツがなんかくれるわけ、ねーだろ。」
 何言ってんだ、お前? と、それこそおかしな物を見るかのような目つきで見下ろされる。
 その小ばかにしたような顔にムカついたので、ぺし、と軽く頭を叩いてやりながら、
「バーカ、お前、今日が何の日か覚えてねぇのっ!?」
 いくらヒルダが悪魔でも、一応男鹿家では「男鹿の嫁」ということになっている。
 ヒルダ自身が全く興味がなくても、世話焼きのお袋さんだとか美咲さんだとかが、勝手にお膳立てしてくれるに違いないのだ。
 ──が、どうやら朝のチョコはなかったらしい。
 それに、ちょっとホッとしたものを覚える。
 自分は母や妹だったというのに、男鹿が今日という日の最初のチョコがヒルダからだなんて、あまりに羨ましすぎるからだ。
「今日ー? なんかあったか? ベル坊の誕生日?」
「いやいや、違うだろ。」
 腕に抱えたベル坊の腕を、なんとなしに弄ぶように上げてみた男鹿に、それは違う、と裏手で突っ込んでやったら、
「あ、今日って、バレンタインっすよ、男鹿さんっ!」
 男鹿の向こう側から、カズが嬉しそうに教えてくれた。
「ばれんたいん?」
「はい、そうっす! アニキなら、きっとモテモテっすから、嫁さんとかレッドテイルの人たちとかからも、たくさんもらえるんでしょうね〜っ、うらやましいっすっ!」
 浮かれてニコニコ笑顔になるカズには、そう言えば、幼馴染の少女がいたはずだ。
 古市は少し体を前のめりにしてカズを覗き込むと、
「そういう山村君は、藤崎さんからチョコレート、貰ったの?」
「えっ、俺っすか? いや、今日は梓には逢ってませんから、誰からも貰ってないですよ。」
 一番最初にあったのが、兄貴のお嫁さんでしたから、と答えるカズに、ふむ、と古市は頷く。
「ってことは、藤崎さんから貰えるんだ?」
 貰わないですよ、といわないということは、そういうことだ。
「あ、はい。毎年貰ってますから、多分今年もあると思います。」
「毎年……いいねぇ、女の子の幼馴染が居ると。」
 藤崎さん、可愛いし。
 その点、俺の幼馴染って……、と、古市は胡乱気な眼差しで、座って1分も経ってないのに、すでに瞼が半分おりかけている幼馴染を見上げる。
 どう考えても可愛くないし、どう転んでもチョコレートをくれそうにもない。
 いや、くれても困るけど。
「あ、後で男鹿さんと古市さんにも渡しに来るって言ってましたよ。」
「えっ、ウソっ!? 俺たちの分もあるのっ?」
 やった、と満面の笑顔になる古市に、はい、とカズは頷いた後──ちょっと考えるように小首を傾げると、
「でも……なんか、あいつ、友達と手作りするって言ってたんで、味の保証はできかねます。」
 何せ、凄い天然なんで。
 そうひっそりと囁くように続けてくれる。
 しかし、古市には現役女子高生のチョコレートに勝る喜びはなかった。
「ううん、そんなの全然関係ないってっ! くれるって言う気持ちだけで嬉しいしね。」
 よっしゃっ! これで、とりあえず最低でも身内以外のチョコ、1個ゲット確定っ!
 真っ暗になるかもしれないと思っていたバレンタインに、早速一筋の光明が見えて、嬉しくなった古市であった。
 ニコニコ笑いながら、いつもらえるかなー、と浮かれ気味に思ったところで、
「──っと、そうだ、おい、男鹿。」
 大事なことを思い出しなおして、古市は眠りかけていた男鹿の肘を突付く。
 電車に乗る前にわざわざ聞いたのに、ココで実行し忘れていたら意味がない。
「んぁ?」
「……だぁ。」
 男鹿だけを起こしたつもりだったが、彼の膝の上にいた赤ん坊も目を覚ましたらしい。
 二人揃って眠そうに目を瞬かせながら、ぼんやりと辺りをうかがう。
 古市はベル坊の声に、ちょっと様子を伺いながら──あぁ、大丈夫だ、ぐずってないな、と確認すると、自分のカバンを開けた。
 そして中に入っている、入れたときの状態そのままの包みを二つ取り出すと、
「ほら、これ。」
 男鹿に向けて差し出した。
 詳しい説明なんてしなくても分かるはずだ。何せ毎年のことなのだ。
 そう思って差し出したチョコを、男鹿はボンヤリと見下ろし、おう、と言って受け取った。










 ベル坊は、不思議そうにその二つの包みを見上げている。
 右手にゴディバ、左手に手作りラッピング。
 それを右に左に見た男鹿の向こう側で、カズが、「おぉ、ゴディバ……っ。」と呟いているのが聞こえた。
 うん、確かに、高校生にゴディバは高級すぎるよなっ。
 はっきり言って、男鹿には勿体無さ過ぎる。
 そうシミジミと思ったところで、男鹿は二つの包みを古市に差し向けると、
「昨日、どっか行ったのか、古市?」
 どこぞの土産だと思ったらしいセリフが返ってきた。
 思わず、がっくりと古市は肩を落とす。
 ──つーかお前、昨日、ほぼ一日一緒にいただろうがよっ!! どこにお出かけしてる暇があったっていうんだっ!
「……チョコだよ、チョコっ! バレンタインのチョコに決まってんだろっ。」
「バレンタイン……おぉ、チョコの日か。」
 先ほどのカズの言葉は、すっかり右から左に聞き流されていたらしい。
 サンキュー、と受け取った男鹿に、その向こうからカズがビックリしたように目を丸くしているのが見えた。
「……ぇっ。」
 チョコ? を、古市さんが、兄貴に??
 それってまさか──……っ! という顔つきになる彼を認めて、いやいや、と古市は手を振る。
 いくら昨今では逆チョコや友チョコが流行っているとはいえど、いくらなんでも男が男にやってたら、おかしいだろう。
 男鹿は受け取ったチョコの右と左を見比べて、軽く首を傾げる。
 そして、古市にソレを掲げてみせると、
「古市、二個あるけど、こっちが友チョコで、こっちが本命か?」
 と、聞いてくれた。
 冗談ではなく、目が真剣だった。
「…………っ、違うわっ!! なんで俺がお前にやらなきゃいけないんだよっ!」
 思わず、口よりも先に手が出ていた。
 バシッ、と叩いてから怒鳴る古市に、男鹿はなぜ殴られるのか分からないと言いたげに、ぶーたれる。
「お前が今くれたんだろーが。」
 毎年のことなのに、なんでソコで勘違いするかな、と、古市は一瞬眩暈を覚えた。
「毎年、ちゃんと言ってんだろ! それは、ほのかと母さんからっ!」
「あー、ほのかとおばさんからか。」
 なんだ、と、ちょっとガッカリしたような色が見えて、古市は、まったく、と唇を結ぶ。
 そして、貰ったチョコの包みを、ガサガサと開け始める。
 それに、今開けるのかよっ、と突っ込みかけた古市に、
「ほのか、さんって……?」
 おずおず、とカズが声をかけてきた。
 あぁ、こっちの誤解も解いておかないと、と古市は鷹揚に頷く。
「俺の妹。男鹿にあげるなんて勿体無いって言ってるんだけど、毎年用意してんだよ。」
 今年なんて、手作りらしいんだぜ、と古市は軽く笑う。
 女の子はおませさんだというが、小学校低学年の時から、ほのかは毎年チョコを用意してくれている。
 なんだかんだで、かれこれ貰い続けて6、7年にはなるだろうか。
 男鹿なんて、お返しもしないのにな、と軽く肩を竦める古市に、カズはあからさまにホッとしたように胸を撫で下ろす。
「な、なんだ、そうっすか。」
 何を考えたか知らないが、誤解は無事に解けたようだった。
「けど……その、普通、兄弟の友人にまでチョコって、あげるもんなんすか?」
 ──が、今度は、ちょっと違う方向に誤解してくれたらしい。
 そろり、と上目遣いに見上げられて、古市は苦笑を滲ませながら釘を刺しておくことにする。
「まぁ、男鹿は付き合いが長いし、しょっちゅう家にも来てるから。」
 義理であることは間違いない。
 まかり間違って、自分の妹が男鹿に惚れているなんて思われてはたまらないからと、古市は更に言葉を重ねておく。
「女の子は、そういうイベントごとが好きだからね。」
 バレンタインに誕生日。クリスマスというイベントも絶対に欠かさない。
 女の子大好きで、女の子と仲良くなるのに努力を惜しまない男、古市は、当然そういうイベントごとには精力的に参加する方だ。
 ──まぁ、そのたびに男鹿に邪魔されているが。
「あ、それは分かります。梓もそうっすから。
 絶対、誕生日とかクリスマスには、何かくれるんすよね。」
 さら、と気負いなく答えられた内容に、古市はまぶしい物を見たかのように目を細めた。
「……いいなぁ、女の子の幼馴染って。」
 しみじみと、思わず呟きが零れた。
 特に梓は可愛いから、本当に羨ましい。
 あのコから、一生懸命選んだんだよー、と笑顔でプレゼントなんか差し出されたら、古市なんかは天にも登ってしまうかもしれない。それくらい嬉しい。
 が、しかし。
 古市の幼馴染といえば、隣で座っている男だ。
 誕生日とかクリスマスにプレゼント交換とかは絶対にしないような類の、男友達だ。──まぁ、誕生日くらいなら、軽いものを奢ったり奢ってやったりはするが、それくらいである。
「でも、こっちもなんかやらなくちゃいけないじゃないっすか。女の子が欲しいものって、結構大変で……。」
「あー、うん、わかるわかる。」
 疲れたような吐息を零すカズは、チョコを貰うのは嬉しいけど、ホワイトデーが悩むんすよね、と続ける。
 それに古市は頷きながらも、どこかむなしさを感じていた。
 だって、俺の場合──、お返しする対象、ほのかとか美咲さんだしねっ!!
「ほんと、せめてコイツが、美咲さんだったら……。」
 と、バレンタインという日を迎えるたびに、過去何回思ったか分からないことを再び思いながら、ちら、と男鹿に目をやった古市は、その瞬間、思いっきり男鹿の頭を叩いていた。
「って、お前、何食ってんのーっ!!!!」
「あん? 見てわかんねぇのか、チョコだろーが。」
 叩くなよ、と不機嫌そうに眉を顰める男鹿の頭を、古市はもう一発叩く。
「チョコだろーが、じゃないだろっ! って、あぁっ、もうっ! お前、ほとんど全部食っちゃってるじゃないかっ!」
 ちょっとカズと話している間に、男鹿はほのかから貰った分を完食し、更にゴディバの箱を半分ほど食い終わっていた。
 信じられねぇっ、と叫ぶ古市に、男鹿は指についたチョコを舐めとりながら、
「美味かったぞ。ほのかのヤツ、中にピーナッツ入ってた。」
 サンキューっていっとけ、と言われて、それはもちろん伝えるけどっ、と古市は掌を額に当てた。
 はあぁ、と重い溜息が心から零れる。
「おまえ……、ありえねーわ。」
「だっ、だっ!」
 ベル坊が、男鹿の膝の上から、チョコを寄越せと手を伸ばしている。
 そんな赤ん坊に、おー、とチョコをやろうとする男鹿の手を叩いて止めさせる。
 あーん、と口をあけさせていたベル坊の口に入るのを防ぐため、古市はそのチョコをヒョイと取り上げた。
「こら、ダメだっての。赤ん坊にチョコはダメだろ、チョコは。」
「そーなのか?」
「ぶーっ。」
 特にゴディバのチョコなんてダメ。赤ん坊には贅沢っ。魔王とは言えど赤ん坊には食わせられませんっ!
 男鹿の手の中のチョコに手を伸ばした態勢のままブー垂れるベル坊には、ヒルダさんに怒られるぞ、と告げて、チョコは男鹿の口の中に放り込んでやる。
 もぐもぐ、と口を動かせる男鹿を見上げて、ベル坊はウルリと目元を潤ませる。
「わっ、あ、ちょっと待て、ベル坊っ。ほーら、赤ちゃんせんべいやるからっ、な? 機嫌直せって。」
 慌てて古市がカバンに入れていた赤ちゃん用せんべいを取り出し、それをベル坊の手に握らせてやる。
 ベル坊は、そのせんべいと、男鹿のチョコとを見比べ、難しい顔になったが、
「それで我慢しとけ、ベル坊。チョコは大きくなってからだ。」
 ぽん、と男鹿の手に撫でられて、しぶしぶ赤ちゃんせんべいに喰らいついた。
 その様子に、ほぅ、と古市は胸を撫で下ろす。
「つーか、泣かすなよ、古市。」
「お前がこんなところでチョコを食いだすからいけねぇんだろ。」
 ぐいぐいと肘でつつかれて、古市はそれを肘で防御しながら、まったく、と頬杖を付く。
 そんな二人を、カズは目をキラキラさせて見つめると、
「やっぱ、お二人とも、仲いいっすよねっ!」
 満面の笑顔でそう言ってくれた。
 それを横目に眺めて──あー、うん、そーかもね、と、古市はちょっと疲れた声で答えておいた。













「おはよーございまーっす。」
 聖石矢魔の教室に入った瞬間、古市は気付いた。
 教室内にいる女子たちの手に、紙袋が握られているのをっ!
 それも、そう大きな袋じゃない。──つまり、着替えとかが入っている可能性は低いということだ。
 チラリと見たところによると、ロイズ、だとか、書かれているような気がする。
 おぉ、コレはアレだ。マジでチョコを持ってきている可能性が高いわけだっ!
 高まる緊張感に、古市はグとカバンを握る手に力を込めてみた。
 そんな悪友の緊張に全く気付かない様子で、だるそうに男鹿は己の席に着く。
 そして、到着するなり、カバンの中からゲーム機を取り出して、机の上に装備させた。
 これで男鹿の授業への準備は万全なのである。
 少しソワソワしながら男鹿の後ろの席に着いた古市は、ちょっと乱れた髪を指先でさりげなく整えながら、心なし背をピンと張ってみた。
 ソワソワしているのは古市だけではない。
 いつもはゆっくりと登校してくる男子たちのほとんどが、すでにもう登校を果たし、どこか落ち着かない雰囲気で、チラリチラリと数少ない女子たちの動向をうかがっている。
 誰も彼もが、あの紙袋の中身を狙っているのである。
 あの中に本命チョコが入っているとは思わなくてもいい。だがせめて──そう、せめて、俺宛の義理チョコが入っていてくれたら……っ!
 義理チョコをくれるということは、恋愛対象ではないものの、それなりに視界に入れていてくれている、ということなのだ。
 それを貰うだけで、もう、それだけで……っ! そう思う男子の、どれほど多いことか。
 そんな古市の熱い期待に全く気付かない様子で、
「おー、古市。お前、今日、うちに来るだろ? 帰りにコンビに寄ってジャンプ買ってこーぜ。」
 男鹿はいつもと全く変わりない。
 これは、女王とヒルダから貰えるからの余裕か──いや、そもそも男鹿は、バレンタインに縁がなかった人間だから、元々興味がないというところだろう。
「あ、おお、そうだな。」
 男鹿に言われて初めて、朝コンビニに寄るつもりだったのに、寄ってこなかったことを思い出す。
 つい、登校時間に女子と擦れ違うたびに、意識を奪われてしまっていたせいだろう。
 いかんいかん。こんなにがっついてると思われたら、女子に引かれてしまうじゃないかっ!
 そうだ、バレンタインには全く興味がありませんよー、みたいな風体を装わなくてはいけない。いや、でも、あんまり興味がないみたいな風を装いすぎたら、逆効果であげるのを辞めてしまうかもしれないから、こう、もっとさりげなく──……。
 古市が、脳裏でシミュレーションを開始しようとしたときだった。
 ガラ、と、扉がひらいた。
「おはよう。」
 途端、清涼でリンとした空気が教室内に流れる。
 響く声で挨拶をした少女は、そのまま教室の中に踏み入れ、チラリと男鹿に目をやる。
 その白い頬が男鹿を認めた途端、愛らしく赤く染まるのを見上げて、ほんと勿体ねーなぁ、と古市は思う。
「お、おはよう、男鹿……っ。」
「おう。」
 なのに、男鹿と来たら。
 ゲーム機からチラリと顔をあげただけで、すぐに視線を画面に戻してしまうではないか。
 なんて勿体無い……っ! 大和撫子美少女が、バレンタインに笑顔で顔を赤く染めて話しかけてきているのに、一言返事なんて、古市なら絶対にありえない対応だ。
「男鹿、あんた、姐さんになんて対応してんのよ。」
 邦枝の後ろから顔を覗かせた寧々が、ジロリ、と男鹿を睨みつける。
 その隣で千秋も無言のまま男鹿を睨んでいる──いや、蔑んでいると言ったほうがいいだろうか。
 邦枝の親衛隊とも言える二人の美少女の登場に、おお、と古市の心は沸き立った。
 なぜなら、その二人も邦枝と同様、小さな紙袋を持っていたからである。
「気を引かせようなんて──最低。」
 ぼそ、と低く呟いた千秋の言葉に、はぁっ? と男鹿がポカンとしている間に、先に登校してきた女子たち──1年二人と2年が一人邦枝に近づいてきた。
 その手には、紙袋が握られている。
「おはようございます、葵姐さん、寧々さん、千秋。」
 ペコ、と礼儀正しくお辞儀をした彼女たちに、邦枝は顔を緩めて挨拶を返す。
 そんな彼女に、まずは涼子が持っていた紙袋の中から、三つ箱を取り出すと、その中で一番大きい一つを邦枝に向けて差し出した。
「これ、バレンタインのチョコです。」
 更に残り二つをそれぞれ寧々と千秋に手渡す。
「ありがとう。」
 ニコリと笑って受け取った邦枝も、カバンを席に置きながら、小脇に抱えていた紙袋の中からラッピングされた包みを取り出すと、それを涼子に手渡す。
「これは私からの分よ。」
「ありがとうございますっ!」
 丁寧に両手で受け取る涼子に、寧々と千秋もそれぞれチョコを手渡し──更に、由加や薫をも巻き込んで、チョコ交換会になった。
 アキチーのチョコ、かわいいー。と由加が褒めれば、ふだん無口な千秋も、どことなく興奮した様子で、寧々さんの豪華……だとか呟いている。
 デコチョコに凝ってみました、と薫が説明するのに、アレ楽しいよねー、と涼子が答える。
 邦枝の席を中心に盛り上がる女子の──石矢魔女子にしては、相当珍しい「女の子の会話」的なソレに、男鹿が目を半目にして呆然としている。
 逆に古市は、中学以来お目にかかっていなかった光景に、目をキラキラさせながら──あぁ、やっぱり彼女たちも女の子なんだなぁ、と心に潤いを感じていた。
「なんだ、アレ?」
 ぐるり、と古市を振り返った男鹿が、恐ろしい物でも見たかのような目になっているのに、古市は呆れた目を向ける。
「友チョコの交換だろ。」
 最近は、義理チョコよりも友チョコのほうが流行ってるらしいからな、と答える古市に、へー、と男鹿が答える。
 かと思うと、男鹿はヒラリと手を差し伸べ、
「古市。」
「なんだよ。」
「まだお前からチョコ貰ってねーぞ。」
 真顔で正面から見てくるので、古市はとりあえず男鹿の手を叩いておいた。
「ねぇよ。」
「なんでだ。」
「なんでもクソもあるか。友チョコも、普通は女の子が女の子友達へ贈るもんであって、男が贈るもんじゃねーの。」
 というか、朝からチョコをあれだけ食べておいて、まだ食う気かよ、と少々呆れた溜息を零す。
 そんな男鹿と古市の会話に、邦枝が少し落ち着かなげにチラリチラリと視線を向けてくる。
 期待と羞恥、ためらいを含んだその視線の意味に、古市はすぐに気付いた。
 ──あぁ、やっぱり、女王は男鹿にチョコを持ってきてるわけね。
 なんて羨ましい。なんてねたましい。
 と同時に、やっぱり、朝から妹と母からの義理チョコを渡しておいてよかった、と古市は心から思った。
 男鹿のバレンタインデー最初のチョコが、邦枝からの本命チョコだなんて、あまりに羨ましすぎるからだ。
「逆チョコとか言うものあるとかいうじゃねーか。」
「いやいや、それは普通に、男が女の子に贈るもんであって……。」
 パタパタ、と古市が手を振りながら、男が男に友チョコ贈ってたら、そりゃもう、微妙でしょーが、と。
 古市がしょっぱい気持ちになりながらそう続けようとしたときだった。
──がらっ
「うーっす。」
 肩からカバンを提げた神崎が、登校してきた。
 その後ろには、ぴったりと城山がついている。
「おはよう。」
 チョコを交換し終えた邦枝が、まだ何か残っているらしい紙袋を大事そうに抱えながら神崎を振り返る。
 神埼はソレを横目に、自分の席の隣に立っている少女たちをジロリとにらみつけた。
「……んだよ、おまえら、人の席の回りにたかってんじゃねーよ。」
「誰もアンタの回りにたかったりなんてしないよ。自意識過剰もいいところじゃないの。」
 機嫌も悪そうに神崎が眉間に皺を寄せると、その目つきの悪い表情に向けて寧々が言い放つ。
 そんな彼女に、あぁん? と神崎がねめつけるのに、寧々もジロリと睨み返し──、もう、やめなさい、と邦枝が口を挟もうとした矢先──、
「あ、神崎君、いたいたっ。」
 軽い足音とともに、ひょい、と夏目が教室に入ってきた。
 にこやかな笑顔で登場した彼を、神崎が顎を反らすようにして見やる。
 その目つきの悪い顔を見下ろして、よかったー、と夏目はへらりと笑う。
「忘れ物取りに行ってたら、電車一本逃しちゃったんだよね〜。」
「それで今日は居なかったのか。」
 城山が、なるほど、と頷くのに、そうそう、と夏目は楽しげに頷く。
「何かあったのか、夏目。」
 別に、お互いに絶対に一緒に登下校しようと約束しているわけではない。
 ただ、神崎派として行動を共にすることが多いだけだ。










 そもそも、不良たる面々は、必ずきちんと登校するとも限らないわけで──城山はとにかくとして、夏目は神崎と一緒に登校したりしなかったりなのだ。
 なのに、わざわざそう説明してくるということは、何か自分に用があったということなのだろう。
 そう解釈した神崎に、そうそう、と夏目は笑うと、「忘れ物」を顔の横に掲げて、
「はい、神崎君。これ、俺からの友チョコ〜。」
 当たり前のように、楽しそうな顔で、はい、とモロゾフのチョコを手渡した。
「………………。」
「……………………。」
「…………………………な、夏目、おまえ…………。」
「バイト先でも、バレンタインチョコ扱っててさ〜。今年も逆チョコが流行ってるっていうから、神崎君に買ってみたよ。」
 にこにこにこにこ、と満面の笑顔で告げる夏目の顔は、酷く嬉しそうで楽しそうだ。
 嫌がらせでやっているとは思えない。──思えないが、しかし。
 それを受け取った神埼にとっては、嫌がらせ以外の何物でもなかった。
「逆チョコだって……。」
「……え、じゃ、なんすか? 夏目先輩と神埼先輩は、夏神で夏目先輩が逆チョコってことっすか?」
「でも、友チョコって言ってたし……。」
「カモフラージュ……。」
 ぼそぼそぼそ、と女子たちが顔を寄せ合って話し合う。
 しかし、女子の声は高くて聞き取りやすい。秘密のナイショ話をしているつもりでも、その声は教室中に響き渡った。
「夏目……お前……っ。」
「あ、神崎君。もしかして嬉しすぎて感動しちゃったー? そこまで喜んでもらえると、渡しがいがあるなぁ。」
 ふるふると震える神埼に、夏目は分かっているのか分かっていないのか、楽しそうに笑った。
 そんな二人に、城山はこっそりと、「俺も買えばよかった……」とか思っていたりするが、それはさておき。
「……古市。」
 男鹿はソレを見た後、古市の顔を見た。
「…………なんだよ。」
「ほらみろ、男同士でも友チョコやってんぞ。」
「いや、あれは別だろ。」
 俺にもチョコ寄越せ、という男鹿に、古市はフルフルと頭を振る。
「っていうか、何、お前、そんなにチョコ欲しいの?」
「おう、食えるもんなら食う。」
「お前はどんだけ欠食児童だよ。」
 当然だ、と胸を張って言う男鹿に、はぁ、と古市は溜息を零す。
 そこでベル坊が、だっ、と元気良く手をあげた。
 思わず二人がベル坊に視線をやれば、それを感じ取ったのか、
「あーっ。」
 ぽんぽん、と男鹿の腹の辺りを叩いてくれる。
 その仕草に、なんだ? と首を傾げたのは古市だけで、男鹿は彼が何を言いたいのか気付いたらしい。
「ん? なんだ、ベル坊、腹減ったのか?」
「ダッ!」
 こくこく、と頷くベル坊に、へー、と古市は感心する。
「お前、ベル坊が言いたいことが分かるようになったんだな。」
 というかこの場合、腹が減ったから男鹿の腹を叩いたベル坊が凄いということなのだろうか?
 さすが魔王さま。普通の赤ん坊よりも手がかからない。
 感心したように頷く古市に、まーな、とちょっと自慢げにドヤ顔になった男鹿は、ベル坊を古市の机の上に置き、カバンを取り上げた──瞬間、
「あ。」
 小さく声をあげた。
「ん、どした? まさかベル坊のミルク忘れたなんてことは……。」
「忘れた。」
 親らしくなったじゃないか、と感心した矢先にこれだ。
 赤ん坊のミルクを忘れるとは、なんて親失格なのだろう。
「………………。」
「………………。」
「……………………あぅ……っ。」
 うるっ、と、ベル坊の目が潤む。
 これはマズイ、と思う間もなかった。
 みるみる内に、ベル坊の目に涙が一杯たまっていく。
「うぉぉっ、ベル坊っ、待て、泣くなっ! 今すぐミルクを買ってきてやるからっ、なっ!? だから泣くなベル坊ーっ!!!」
「あ、そうだ、ベル坊っ、赤ちゃんせんべいまだあるぞっ、食べるかっ!!?」
 慌てて男鹿がベル坊を抱きかかえて、高い高いもどきをしてみせるが、ベル坊の涙は収まらない。
 あわや、教室内で雷撃の大惨事か……っ! と思われた矢先、
「貴様、またぼっちゃまのミルクを忘れおって……。」
 まったくバカでアホで頼りにならんな、と。
 冷笑を通り越した冷徹きわまりない、冷ややかな声が二人の間に割って入ってきた。
 言うまでもなく、ベル坊以外にはツンしかないドS侍女悪魔こと、ヒルデガルダである。
 だが、今ばかりは、救いの女神のように映った。
「ヒルダっ!」
「ヒルダさんっ!」
 ぱぁっ、と顔を輝かせた二人を、気持ち悪そうに眺めてから、ヒルダは美しい笑顔をベル坊に向けた。
 そうして、小さな主君の体を男鹿から奪い取ると、そ、と大事そうにその身を抱きしめて、
「さぁ、ぼっちゃま。ミルクのお時間ですよ。」
 (悪魔だけど)聖母のような微笑みで、そう言った。