*本誌14号ネタバレです。
魔界ラジカセの設定を捏造しています。
はぁ、はぁ、はぁ──。
荒い息が茜色の空に吸い込まれていく。
地面に大の字になって横たわった男鹿の体には、無数の傷跡が出来ていた。
着ていた服も土にまみれて汚れ、擦り切れて破れている場所もある。
その横でベル坊が、男鹿と同じように大の字になって寝転んでいる。
ラジオのスイッチを切った早乙女は、タバコをふかしながら空を見上げる。
西に向けて大きく傾いた太陽は、空を朱色に染めている。
山の上にいるここからだと、あと30分ほどで沈みそうにみえるが、山の中に入れば、山肌で見えなくなってしまう。空がまだ明るいうちに、寺まで戻らなくてはいけない。
「ちぃと、遅くなりすぎたか、くそったれめ。」
こいつらが、妙に張り切りやがるから。
そんなことをぼやきながら、早乙女はクシャリと指先でタバコの火を消すと、ボロボロの姿の二人を見下ろし、
「おい、そろそろ寺に戻んぞ。起きろ。」
この魔ッ二津の山の中は、修行に最適な過酷な場所だけあって、少しでも道を外せば、戻ってこれないような遭難場所が、そこらでウヨウヨしている。
自分だけならまだしも、まだ高校生でしかないヒヨっ子が迷い込んだら、タダではすまないだろう。
探すのも面倒だし。まぁ、迷ったら迷ったで修行になるだろうとか思わないでもないが、普通の人間相手ならとにかく、悪魔相手に戦い方を学ばなくてはいけない人間には、そんな修行をさせている余裕はない。
「……おぅ。」
のっそり、と上半身を起こした男鹿に、ベル坊もヨロヨロと起き上がる。
疲れのあまりか、ただでさえでも凶悪な顔が、ますます凶悪めいて見えた。
それを見下ろして、おーおー、一丁前の面構えになったな、と早乙女は髭の下でニヤリと笑う。
「夕飯食ったら、またちょっとやるぞ。」
「おう。」
「ダ。」
コレ、と、持った古びた魔界ラジカセを掲げれば、男鹿もベル坊も、好戦的な色を目に宿す。
まだまだやる気十分。──それは喜ばしいことだ。
時間は限りある。その間、一分一秒でも、彼らには成長してもらわないといけないのだ。
よし、と、早乙女は魔界ラジカセを手に、……ついでに帰りも、エクササイズをしながら下山すっか? と思いつきをしてみたところで。
「……なぁ。」
男鹿が、ヒョイとベル坊を抱えあげながら、話しかけてきた。
「ん? 何か先生に質問か?」
可愛い(?)教え子の質問なら、答えてやらねばなるまい。
そう振り返った早乙女に、男鹿は、ジとラジカセを見つめる。
「そのラジカセ……、録音した声のヤツを、形にすることが出来るんだよな?」
「実体化、な。ソイツの潜在能力をそのまま引き出すことができるってぇシロモンだ。」
普通は、自分の声を録音して、自分自身と戦ったり──時には、自分の潜在能力を発揮した「影」に、相手と戦わせたりする。
問題は、そのラジカセから出た「影」が、最初に見たやつと「戦う」ような仕組みになっている上に、録音した声を再生しないと使えない、というところか。
早い話が、修行以外で使う場合、使い勝手が悪いのである。
「それって、誰の声でもできんのか?」
「おお、できるぞ。猫ちゃんとか魔獣とかでも出来るぞ。」
ただ、あまりオススメは出来ない。特に魔獣は、きちんと相手の潜在能力を見極めないと超危険だ。
「じゃ、夕飯まで、ちょっと借りていいか、ソレ?」
夕飯後に修行再開というのなら、それまでは使わないよな? と、なぜか目をキラキラさせる男鹿。
すごくいいことを思いついたような子供の顔をしていた。
「──なんだ、邦枝にも使わせようってか?」
ヒョイ、と眉をあげて、早乙女は男鹿を見やる。
一緒に修行しているから、確かにソレもアリといえばアリかもしれないが、おいおい、お前、そんな人様に貸し出してる暇なんてないんだぞ、と。
早乙女が呆れながら溜息を零そうとした矢先、
「あぁ? 何で邦枝が出てくんだよ。
使うっつったら、古市だろーが。」
なぜか男鹿は、当たり前だと言わんばかりの態度でそういった。
「……古市。」
はて、どこかで聞いたような? と、早乙女は顎に手を当てて首を傾げる。
確か、最近聞いたばかりの名前だ。
「これに古市の声を録音したら、古市が出てくんだろ? しかも、普段はできないようなのをしてっ!」
早乙女に近づいて、ラジカセを指差す男鹿に、まぁ、間違ってはない、か? と早乙女は首を傾げる。
「ってことは、普段、古市が絶対口にしねぇことや、やってくれねぇことを、してくれるってことだっ。」
「……ん?」
いや、男鹿が言っていることは、何か違うような?
「そうじゃなくってな、そいつの潜在能力……あー、なんて言や分かりやすいか? ソイツが中に秘めてる能力ってぇか、火事場の馬鹿力っつーかな。」
そういえば、長く離れていたからウッカリしていたが、石矢魔はバカばっかりだった。
脳裏にポカンと思い出した東条の顔に、アレもバカだったよな、とシミジミと溜息が零れそうになった。
潜在能力、なんて小難しい言葉じゃ分からなかったかと、ちょっと分かりやすい説明に変えてやりながら──アンダースタン? と問いかけてみたら。
「おぅ、つまり、アレだろ? 古市の隠された力っつったら、ソレしかねぇもんなっ!」
男鹿が、なぜか自信満々に胸を張って言ってくれた。
「アダ?」
「アレ?」
ベル坊と早乙女に、怪訝そうに問いかけられて、男鹿は当たり前のように頷く。
脳裏に思い描くのは、夜闇に包まれた時の──恋人同士の営みの時の古市の様子だ。
白い肌を上気させて、熱に浮かされた潤んだ瞳で見上げられて、濡れた唇で、イヤだのやめろだの、可愛くないことを言いながら、脚を絡めてくる壮絶な色香。
普段の色気のない態度や、残念な性格からは、想像もできないくらいに、妖艶で、エロくて、可愛い姿。
古市にもし何か潜在能力というのがあったら、まさにアレをおいて他にはないはずだ。
「おう! そりゃもう、エロくていやらしくて、素直におねだりするよーな、スーパー超淫乱な古市が出てくるに違いねぇっ!!!」
ぐっ、と握りこぶしをして力説する男鹿に、早乙女は思わず生ぬるい笑みを浮かべた。
「スーパーも超も、おんなじ意味だからな?」
とか突っ込みつつ、はて、と頭の中で首を傾げる。
古市。ふるいち、ふーるーいーち?
最近聞いたような気がする名前だ。
たぶん、学校で。──そう、出欠を取るときに口にしたような気もする。
だが、誰だったかは、覚えてはいなかった。
特攻服のねえちゃんか?
タレ目と泣きほくろが色っぽい娘だった。
彼女なら、確かに、エロイ潜在能力を秘めていても不思議はないような気がする。
いや、だが彼女は大森だったはずだ。
ならば、日本人形みたいな女の子だろうか?
大森の隣に座っていた彼女は、物静かな雰囲気で、とてもエロイこととは関係ないような顔をしていたが──あぁ、けれど、アレだ。男の夢である「昼間は貞淑な妻、しかし夜は淫乱な娼婦」というアレかもしれない。
うん、それはありうる。
男鹿の言葉とも美味くかみ合うような気がしてきた。
「ほぉー、、古市ってぇのは、お前のコレか? 生意気だな、くそったれ。」
ぴ、と小指を立てて、おっさん臭いにんまりとした笑顔を浮かべて問いかける。
しかし男鹿は、それをチラリとも見ないで、
「……で、おっさん。それ、貸してくれんのかっ!?」
欲望に正直に、興奮を隠せない面持ちで尋ねてくる。
早乙女は、ソレにプカァ、とわざとらしい仕草で煙を吐く。
「おいおい、いくらなんでも、教師が教え子の淫行に手を貸せるか、くそったれめが。」
「なんでだよ。」
「なんでって……。」
すぱっ、と切り替えされて、なんでもクソもあるか、といいたいところだったが、まぁ、でも、と早乙女は男鹿を見下ろす。
淫行には手を貸せない。昔の自分を棚上げして、大人って言うのは、昨今の高校生の性事情に眉を顰めて説教したくなるもんだからだ。
だが、しかし。
男鹿の目的は別として、使用するのはラジカセだ。ラジカセで「古市」の声を取って、「古市」を実体化させる。──ということだ。
それに関しては、別に反対することはない。
だって、このラジカセはあくまでも「潜在能力」を引き出して戦う類のものだからだ。
古市の声を録ったからと言って、男鹿の言うようなことが起きるはずがないからだ。
「──まぁ、思ったより真面目に修行してたからな。ちょっとばかりご褒美に貸してやってもいいが……。」
恋人の声援というのは、何よりもの応援になるものだ。
だから、それが男鹿の修行の後押しになるなら、貸すのは構わない。──が、しかし。
「お前、その古市ってぇヤツの声を、どうやって録音する気だ?」
問題は、ソコだった。
「──……っ!!!!」
ハッ! という顔になった男鹿に、やっぱり何も考えてなかったか、と早乙女は呆れた顔になる。
ここは石矢魔から遠く離れた山奥。
今から山を降りて電車に乗ろうとしても、石矢魔に辿り着くことはできない。そんな場所だ。
そこからどうやって、相手の声を録音しに行くのだろうと──まぁ、しょうがない、諦めて昔からの青少年たちと同様に、思い人を思って、眠れぬ夜を過ごすがいい……、と、早乙女が同情心から彼の肩をポンポンと叩こうとした、まさにその時である。
「その役目、私にお任せください、男鹿殿。」
どーん、と、適役が現れた。
分厚い胸筋をドンと叩いて、無表情に立ち尽くす髭のおっさんである。
「おわっ、アランドロンっ?」
「あだっ!?」
音も気配もなく現れた影に、男鹿とベル坊がビックリしてソコから飛びのく。
早乙女も、突然現れたようにしか見えない男に、一瞬身を固くしたが、すぐに相手が先日見かけたばかりの次元転送悪魔だと気付き、握りかけた拳を解く。
「次元転送悪魔、か……。」
滅多にお目にかかることのないその存在を供にしているとは、さすがは大魔王の末子と言ったところか、と早乙女は薄く笑みを刷く。
アランドロンは、恭しくベル坊に向かってお辞儀をする。
「お前、いつからそこに……?」
妙にタイミングよかったけど、と呆然と呟く男鹿に、アランドロンは当然のように頷いて、
「ぼっちゃまの成長を、ヒルダ様の代わりに見届けるべきだと思いまして、そこの影から覗いておりました。」
そこ、と木の陰を指差し、ストーカーをしていたことを認めた。
「見てんなよっ! こえぇだろっ!」
「ダ……。」
思わず叫んだ男鹿と、なんとも言えない顔になったベル坊の二人を見て、アランドロンは片手を差し出した。
「さて、男鹿殿。古市殿の声を録音しに行くお役目、ぜひ私にお任せください。」
男鹿はちょっとしょっぱい顔になったが、便利な転送マシーンが自分がしたいことを請け負ってくれるというのだ。
断る必要など、どこにもなかった。
「よし、それじゃ、頼むぞ。
おっさん、ラジカセ貸してくれんだよな?」
あの学園祭の翌日の夜以来、一度も会っていない古市に──その影にとは言えど、ようやく会える。
しかも、古市がいつも隠している本音を、吐いてくれるかもしれない「影」に。
そう思えば、男鹿の胸は期待に膨らんだ。
今本体に会っても、古市は決して、寂しかっただとか会いたかっただとかなじることはしないだろう。連絡くらいしろと、一発殴るか蹴られるかするだけだ。
けど、その古市の「本音」なら、どうだろうか?
古市は決して口に出して言わないが、けっこう寂しがりやで、男鹿のことで自分が知らないことがあるのをイヤがる。──ああ見えて、独占欲が結構強いのだ。
興奮を隠せない様子で、ギッ、と凶悪な目つきで睨んでくる男鹿に、おーおー、青春だな、と早乙女はラジカセを掲げる。
「おお、ほれ。
あんた、使い方は分かるな?」
「もちろんですとも。」
うやうやしくラジカセを受け取ったアランドロンは、それを両手で抱えると、
「それでは、行って参ります。」
「おうっ! 頼んだぞっ!」
グッ、と両拳を握った男鹿の目の前で、ラジカセを持ったアランドロンは、ドロン、と消えた。
それを見送った男鹿は、いそいそとその場に正座をして座る。
「……何やってんだ、男鹿?」
「待ってるに決まってんだろっ。」
「ココでか?」
「おう。寺に戻ってたら、クリリンらと一緒じゃねーか。ゆっくり古市を堪能できねーだろ。」
呆れた様子で問いかける早乙女に、それくらいもわかんねぇのか、と逆に呆れた様子で聞き返された。
何を堪能するんだ、と突っ込みたくなったが、まぁ、けど、ラジカセから「実体」が出るところを、悪魔のことを知らない人間に見られるのは困るから、それも仕方ないかと、早乙女も少し離れた所に座り込んだ。
男鹿は、なんでお前も座るんだ? というようにジロリと睨んできたが、早乙女はソレにヒラヒラと手を振ると、
「再生の仕方教えてやったら、消えてやるから、安心しろ。」
──とだけ、答えてやった。
男鹿からしてみれば、邪魔者以外の何者でもないのだろうが、早乙女からしてみれば、どーせイチャイチャな展開になんて絶対にならないしな? という気持ちでの同席だった。
そうして、ソワソワしながら正座をしている男鹿と、その男鹿の隣で同じように正座をしているベル坊。
ちょっと離れた所でタバコを吸いながら、日が暮れるなぁ、とのんびり座り込んだ早乙女の前で、ゆっくりと黄昏時が広がっていった。
「トイレ、トイレ、っと。」
カチャ、と開いたトイレの中は、ゴージャスだった。
スイッチも押していないのに、ドアを開けた瞬間、パッと電気がついた。
そこで照らされた室内は、トイレじゃなかった。──いや、トイレの一部なのだろうが、トイレというより、洗面所だった。
古市家の風呂くらいの大きさの空間の奥には、もう一つ扉がある。おそらくそこに便器がおさまっているのだろう。
シックにまとめられたそこは、小さな出窓があって、花まで飾られている。
ドアの正面にアンティーク風の鏡があり、そこに古市の驚いた顔が映り込んでいた。
ガラス洗面ボールに、クラシックデザインの蛇口。ジェットタオルに常緑樹まで備え付けられている。
お洒落なガラスシェルフにはこまごました物が乗っかっている。コットンに綿棒くらいは分かるのだが、ホテルに良くあるような歯磨きセットがあるのは謎だ。
「すげぇ……、どっかの店かよ。」
いや、ゲーム部屋って言ってたから、どっかのゲーセン? と首を傾げつつ、古市は奥のトイレへと続くだろうドアを開いた。
ドアを開いた瞬間、うぃーん、と開いた便器のふたに、おわっ、とまずおののいた。
同時に、トイレの電気もついた。更に天井付近から、ふわん、と風が吹いてくる……エアコンだ。これもセンサーで反応しているのだろう。
すごい、さすがセレブのトイレっ!
芳香剤ではない甘い花の香りが心地良く広がるトイレットルームに、ここには毎日家政婦さんが入ってきてるんだろうなぁ、と、場違いな感想を抱いてみた。
後ろ手にトイレのドアを閉めて、鍵をかけようとして──鍵がないことに気付いた。
アレ、と洗面所の方を振り返れば、外へ続くドアのほうに鍵があった。つまり、洗面所で身支度を整えるまでが個人空間だと言うことだ。
「……もう、なんか規模が違いすぎて、どこに驚いたらいいのか分かんねぇ。」
古市は洗面所に戻って鍵を閉めて、はぁぁ、と溜息を零した。
ふかふかのカーペットが足裏に心地よい。
更になぜか、便器に近づいた瞬間、どこからともなく小鳥の鳴き声まで聞こえてきた。
思わず窓の外に目をやったが、こんな高層マンションに小鳥が来るはずもない。録音した音なのだろう。
「ぅわー……無駄な機能だよ。」
店などならとにかく、使うか使わないか分からないゲーム部屋のトイレとしては、どうかと思った。
そういえば、この間男鹿のベッドでゴロゴロしながら見ていた特集テレビで、最近のトイレは全部人間センサー付きだとか聞いた覚えがある。。
男は基本、あまり外では便座のお世話にはならないので、目からウロコなことばかりだったけど、きっとこの目の前にある便座は、そういう便座に違いない。
ちょっと色々試してみようかな、と、古市がひとまず便座に座ってみようと、蓋の開いたソコに腰掛けようとした──その瞬間。
「古市様。」
声が、聞こえた。
「…………………………。」
イヤな予感がした。
ついでに、イヤなトラウマが呼び起こされた。
あの時も、そうだった。
突然目の前に現れたおっさんが、「古市様、さぁ、参りましょうぞ」とか言い出したんだ。
こっちは便座に座ってズボンもパンツも下ろして、さてトイレットペーパーを、とか思っていた段階だったっていうのにっ!
あぁ、けど大丈夫だ。今日なら今連れ去られても、センサーで勝手に水が流れるからねっ! ──って、まだ何もしてないけどさっ!!!
「……………………。」
「古市様。」
再び背中から呼びかけられて、古市は、ものすっっごくイヤな気持ちで振り返った。
果たして、無駄に広いトイレの中を、せまっくるしく感じさせることこの上ない巨体のおっさんが、そこにはいた。
「何やってんだよ、アランドロンっ!!!」
一度ならず二度までもっ! 何の恨みがあって、人のトイレ中にトイレに入ってくるわけっ!?
何のためのトイレの施錠だと思ってるのっ!? ──と。
鍵も密封空間も関係ない次元転送悪魔を前に、古市は怒鳴りつける。
しかしアランドロンは、そんな怒鳴り声もなんのその。
片手に持ったラジカセを掲げると、
「男鹿殿から用を言い付かってきました。これに声を録音してほしいそうです。」
いつもの飄々とした態度で、そう告げた。
「……は? 男鹿からっ?」
ここで飛び出てきた名前に、古市はパチリと目を瞬く。
そしてアランドロンが差し出すラジカセを見つめる。
古いラジカセだ。
昔のドラマか何かで出てきたような──昭和レトロの雰囲気が漂うラジカセだ。
どこからこんなものを? と疑問に思いながら、古市は無言でラジカセを見つめた。
「さぁ、どうぞ、古市様。」
「いやいや、意味わかんねぇし。声録音って、何ソレ?」
というか、次元悪魔が持っているソレは、とても胡散臭い。
男鹿がどういう理由でコレを自分の下に差し出したのか、まったく理解できない。
傍にいないって、こういう時不便だ。
男鹿は、直感で行動するところがあって、それがいいときもあれば悪いときもある。──例えば、ベル坊を拾ってきたときなんかがそうだ。なんで懐いたからって拾ってきて、更にそれを真っ先に古市の所に連れてくるんだか、みたいな。
だから、目の前のラジカセを……何の変哲もないように見えるソレを、ジー、と見つめる古市に、アランドロンは簡潔に説明してくれた。
「これは、男鹿殿が修行に使っているエクササーイズ! に使っておられたラジカセですぞ。」
「……エクササイズ?」
修行だよな? 何やってんの、男鹿?
思わず半目になった古市の前に、とん、とアランドロンはラジカセを置いた。
トイレの床にラジカセを置くのってどうなの、と思わないでもなかったが、ここのセレブなトイレには、床に直接座っても違和感がない。
なんていうか、上品な部屋なのだ。そしてきっと、男鹿の部屋よりも綺麗にされていることは間違いないし。
「これに、ぜひ古市様のお声を録音してほしいとおっしゃっておられました。それを夕飯時まで聞くのだそうです。」
「──……は、はぁぁっ!? なっ、なんだよ、ソレっ。」
ささ、遠慮なくどうぞ、と差し出されて、古市は顔を耳まで赤らめる。
「夕飯まで聞くって……な、なんでっ!? ビデオレターならぬテープレターってやつっ!?」
別に離れてるわけでもないのに、意味わかんねーしっ! と叫ぶ古市の前に、さて、とアランドロンは顎に手を当てて首をひねる。
「何やら、ここ数日古市様とお会いしていなかったので、寂しいのではないでしょうか。ここは、お優しい言葉でもおかけになって、男鹿殿の修行の応援をされてはいかがでしょうか。」
きっとやる気も出ることでしょう。
にこり、と笑うアランドロンに、古市はフルフルと拳を握り締めた。
数日会ってない、って──だって、それは、お前が勝手に修行にいったからでっ!
土曜日だって、朝から「修行するから休む」メールがあったっきりだったじゃねぇかっ!
その修行内容が、邦枝先輩と一緒だったって知ったのも、つい昨日の日曜日だったって言うのに……っ。
「なんで俺が優しい言葉なんか、かけてやらないといけないんだよっ!」
むしろ、俺のほうが優しい言葉と応援が欲しいよっ!
そう叫ぶ古市に、アランドロンは、では、と後ろ手で扉を開く。
「男鹿殿に応援メッセージを入れるのに、私が居てはしづらいでしょう。
少し席をはずしておりますぞ。大丈夫です。ちゃんと耳も塞いでおきますから、遠慮なくどうぞ。」
そそ、と後ろに後退して、アランドロンはパタンとドアを閉めた。
とたんに、室内は小鳥の鳴き声だけが聞こえるだけとなった。
ぽつん、と取り残された古市は、ラジカセをガッシと掴み、すぐにソレをアランドロンに付き返そうと思ったのだ、が。
しかし。
「……、寂しがってる、とか、言ってた、よな。」
ぎゅ、とラジカセを握り締めて、古市は床の上にあったその前に、ちょこん、と座った。
そわそわと体を揺らしながら、目線を右に左にずらす。
綺麗な壁紙に、美しい絵画。後ろさえ向いて便器を見なかったら、どこかの少し狭い部屋にいるような気分になる。
その中で、古市は誰も居ないことを確認して、こほん、とわざとらしく咳払いをした。
そして、ラジカセを見つめる。
何の変哲もないラジカセだ(一応)。ちょっと古臭いくらいで、本当に普通のラジカセだ(声さえ録らなかったら)。
そろ、と、古市はラジカセに手を伸ばした。
「ちょっとだけ……そう、なんていうか、これは男鹿のために録音するんじゃなくって、そう! 携帯通じないから、現状報告をしないといけないっていうか、うん、そんな感じっ!?」
気恥ずかしさをごまかしながら、古市は「録音」ボタンを押した。
そして、ソワソワと体を揺らしながら、ジー、と動き始めたラジカセに向かって、こほん、とわざとらしく咳払いをする。
「あ、あー……、えっと、男鹿。元気してるか?
こっちは、なんかお前が想像もできないくらい、凄いことになってんぞ。」
なんか、こうしてラジカセに向かって話すのって、妙に気恥ずかしい。
妙なテレが混じってきて、古市はそれを誤魔化すようにことさら声を張り上げてみた。
「実は昨日さ、ラミアが俺を訪ねてきて……っていうか、お前、金曜にあったこと、ちゃんと話せよ。ラミアから聞いてビックリしたんだからな。
修行するってことしかメールしてこなかっただろーが。まさか女王が一緒とかって思わなかったから、マジで驚いたんだからなっ。
しかも今、お前、魔ッ二津で邦枝先輩と二人きりとか、どーよソレっ!? まさか、連絡してこなかったのって、二人っきりだからかよっ!!」
ふざけんじゃねーっ! とあらぶる気持ちのまま、ラジカセを揺さぶりかけて、ハッ、と古市はわれに返る。
いやいや、何言ってんの、俺。これじゃ、まるで嫉妬してるみたいじゃないか。
確かに男鹿が羨ましいとかは思うけど、別に邦枝先輩に嫉妬してるわけじゃないんだからねっ!?(ツンデレ)
「あー、と、まぁ、それはいい。後で帰ってきてから話を聞いてやる(要約:イイワケするならちゃんとしろっ)。
そうだ、昨日の夜、報告を兼ねてヒルダさんの見舞いにもいってきたんだぜ。もう起き上がれるくらいになってて、家の中くらいなら歩けるらしい。一応大事を取って、まだ寝てるらしいけどな。
──ってか、ソレなんだけどさ。なんでヒルダさん、お前のベッドで寝てるわけっ!? 一階に部屋あるじゃんっ! わざわざお前のベッドじゃなくっても良くねっ!? ってかお前、あれかっ? まさかあの夜、一緒のベッドや部屋で寝たんじゃ……っ!!!」
ラジカセに向かって、再び激情を吐きそうになって、はっ、と再び古市はわれに返った。
ダメだ、落ち着け、俺っ!
いくら邦枝先輩の残りぬくもりを、アランドロンに奪われたからと言って、男鹿やラジカセに当っても仕方ない。
それはなんとなくしょっぱいじゃないかっ!
すぅ、はぁ、と深呼吸をした後、改めて古市はラジカセに向かうと、
「で、えーっと……後なんだっけ? 報告することってあったか?
そういや、美咲さんがヒルダさんに、ごはん君を貸しまくってたぞ。
で、そうそう、寧々さんがゲーム下手で、可愛かった……。谷村さんは格ゲーの鬼だったぞ。」
うんうん、と腕を組んで、ついいつものように女の子を絶賛して──頭の中で、古市の女の子談義を聞いているときの男鹿の、半目交じりの諦め顔を思い出す。
きっとこのラジカセを聞いている間も、男鹿はそんな呆れた顔をしているのだろう。
「とにかく、こっちはそんな感じで、なんとかやってるからさ。お前と邦枝先輩は、修行頑張って、強くなって帰って来いよ。それじゃーな。」
話を無理矢理まとめて、なんか男鹿からの返事が帰って来ない呼びかけを延々と喋ってるのって、味気ないな、と思った。
ラジカセの前に正座をして、両手を膝の上において。
ジー、と動いているテープを見つめる。
結局お前、女のことばっかかよ! ──とラジカセに向かって突っ込んでいる男鹿の姿が目の裏に浮かびそうで、だってしょうがねぇじゃん、女の子好きなんだから、と古市は言いかけて……あぁ、と、思った。
男鹿の声が、聞こえない。
男鹿が、居ない。
たった3日のことなのに、彼が傍に居ないのが、なんだか寂しい。
長い付き合いの中、もっと会ってなかったことだってあったし、連絡を取ることがなかった日が長く続いたことだってあった。
なのに──なぜだろう。
今、彼が酷く遠いところに居るのが、かなしく思った。
「…………………………。
………………………………、おが。」
ちいさく、呼びかけて。
古市は、きゅ、と眉をひそめてラジカセを見つめる。
回るテープの向こうに、男鹿が居る。
今は、会えないけど──声だけで、お前に会いに行く。
「早く、修行終えて、帰って来い。
…………お前に、…………会いたい………………。」
声が少しかすれたのは、なきそうになったからじゃない。
ただ、切ないと思ったからだ。
声は届くのに、俺が会いにいけないのが。
だって、しょうがない。
古市には古市で、今、やらなくてはいけないことがあるのだから。
小さく、掠れた吐息を零して、古市は指先でカチンと停止ボタンを押した。
そして、しばらくそのまま俯いて。
「………………………………。
………………………………。
……………………………………。
うにゃぁぁっぁっ!!!!」
古市は頭を抱えて絶叫した。
ここがトイレじゃなかったら、その場でゴロゴロしまくるところである。
「俺っ、何言っちゃってんのーっ!!??」
かぁぁぁっ、と顔を真っ赤に染めて、古市はブンブンと頭を振った。
会いたい、とか──……っ、早く帰って来いとか、それ、なんてデレっ!? どれだけ食えるの、その甘いセリフっ!?
「いやーっ! ちょっと無理っ、やっぱ無理っ!!」
古市は慌てて巻き戻しボタンを押した。
ここは一発、録り直すしかない……っ!
こんなデレを、男鹿に聞かせるわけには行かない……っ!!!
よし、録りなおすぞっ!
と、古市が気合を入れて、ラジカセに向かい合った──その瞬間。
ひょい、と、ラジカセが持ち上げられた。
はっ、と顔をあげて見上げれば、いつのまにかアランドロンがそこに立っていた。
「なっ、アランドロンっ!?」
「録り終えたようでございますね、古市様。
では、コレは預かっていきますぞ。」
「ちょっ、待って、アランドロンっ!! それはまだ……っ!」
これから録り直すヤツっ!!!
──と、叫びきることは出来なかった。
次元転送悪魔は、一瞬でその場から消え去ることが出来るからである。
慌てて手を伸ばした古市の手は、あっさりと空を切った。
あ、と思う間もない。
アランドロンは、あの運命のラジカセを持ち去って行ってしまったのである。
「ああぁぁぁーっ!!! いやぁぁぁっ、待ってぇぇぇぇーっ!!!!」
片手を空中に突き出して、絶叫をあげてみたが、しかし。
その叫びにアランドロンが帰ってきてくれることは、なかったのである。