そのホテルは、姫川にとっても馴染みが深いところだった。
いらっしゃいませ、と丁寧に腰を折るホテルマンたちは全て一流。
高いその白亜のホテルを見上げながら、姫川はチッと短い舌打ちをする。
自慢のリーゼントも、今日ばかりはおろしている。自分のポリシーとは言えど、場と時を考えないほど姫川はおろかでもなければ子供でもなかったからだ。
サラリと揺れる髪を後ろで一つに結び、上背のある人間に良く似合うスーツをラフに着こなしている。
公式の場に出るほどではなく、かと言ってラフすぎるものでもない。中に着込んだシャツの襟を際立たせるために、ネクタイは身につけていなかったが、それが余計に姫川を場慣れした男に見せていた。
「……この上の料亭、か。」
ポケットから無造作に携帯を取り出し、ぴぴ、とそこから欲しい情報を出す。
夏目、と書かれた送信先が示しているのは、このホテルにある高級料亭の名前だ。
あそこは何度か利用したことがあるが、確か個室がいくつかあったはずだ。──その、どこに「彼」はいるのだか。
神崎組の財力なら、最上級の部屋を取っていても不思議はない、が。
ぱちん、と音を立てて携帯をスライドさせた姫川は、迷うことなくエレベーターへと向かった。
目指すは、神崎家見合いの場。
目的はもちろん……、
「ぶっ潰す。」
コレであった。
美しい着物姿の娘は、「古市ほのか」と言った。
神崎一の隣の席である古市貴之の妹である。
彼女は、さすがは古市の妹と言うべきか、男鹿ととても仲がいいようだった。
男鹿に嫁が居ると──それも滅多にお目にかかれないような金髪美女であると知らなかったら、この二人は付き合っているのかと誤解するほどである。
隣り合って座りながら、なにやら顔を寄せ合って楽しそうに話し──、食べきれないからと、先付の残り碗を男鹿に食べてもらっている。
更に先ほどなどは、煮物碗の中味を互いに交換しあっているようだった。
その上……、と、神崎はそこで、思わず息を呑んでしまった衝撃的なシーンを思い出して、ギュ、と箸を握り締めた。
目の前には、黒塗りの盆の上に彩りよく配されたお造りが乗っている。
それに手を伸ばしながら、ちら、と顔をあげれば、
「おら、あーん。」
「あーん。」
男鹿が箸で刺身を摘んで、それを「ほのか」の口に運んでいた。
「──……っな、なっ、何やってんだ、てめぇらっ!!」
ガタガタっ、と、思わず神崎は机を揺らして叫ぶ。
隣に座っていた夏目は、無言で口に箸を突っ込んで、自分の分の盆とお茶を両手で持ち上げて揺れる卓上から退避させた。
城山は間に合わず、まともに揺れたあおりを受けて、刺身醤油を小皿から少々零してしまっていた。
神崎父は、目の前の初恋の女性と昔を語り合うのに夢中で、ちっとも息子とその見合い相手には気を配っていなかったのだが、さすがに息子のその態度には、眉を顰めて振り返る。
「一、てめぇ、失礼だるぉーが。」
いつもの癖で、ちょっと舌を巻いて低くドスを潜ませる父に、いや、だって、と神崎は目の前を指差す。
あれを見ろ、あれをっ! ──と指差した先で、男鹿が鯛の刺身を摘みながら、あぁ? とガンをくれるように鋭い一瞥を寄越す。
古市はキョトンと目を瞬き、首をかしげると、
「どうかしましたか?」
「いやっ、つーか、なんでお前ら、食わせあってんのかって……っ!」
それ、問題っ! ──と、叫ぶ神崎に、古市と男鹿は不思議そうに目を交し合う。
「だってコイツ、着物汚れるって言うからさ。」
「お刺身の醤油が落ちたら、大変ですし。」
何をそんなに焦ってるのだろう、と、全く理解していない様子の二人に、神崎は口をパクパクと開け閉めする。
「あー……確かに、お刺身の醤油って、落ちやすいしね。」
落ちないように食べてても、ついうっかり、何かの拍子に落とさないとも限らない。
そうなったときに、着物なら大変だ。すぐにちょっと洗います──というわけにも行かないし。
そう同意する夏目に、そうですよね、と嬉しそうに古市は目元を緩めて笑う。
その愛らしい顔に、思わず、うっ、と神崎が言葉に詰ったのを見て、たーのしーぃなー♪ と夏目は思った。
ほんと、今日の神崎君、面白い。
そして、目の前のバカップルかと思うことをごく自然にやってくれている二人も面白い。
「ほら、古市。」
「だからほのかと呼べと……あ、男鹿、それじゃなくって、そっちのマグロがいい。」
「バカ言うな。これは俺が食うんだよ。」
「なんで俺の分をお前が食うんだよ……っ!」
「だー!」
「いやいや、ベル坊は刺身食っちゃダメでしょっ!」
古市は、膝の上に母が持っていた懐紙を広げ、袖を少し捲った状態で男鹿の方に向いている。
その古市の口元へ、男鹿は刺身醤油をつけた物を運んでやっている。
かいがいしい彼氏のようである。
もぐもぐ、と古市が咀嚼している間に、男鹿は自分の分をバクバクと食べ、くい、と古市が男鹿の袖を引っ張ったら、今度は古市の分に手をつける。
そんなことを繰り返す二人の、当たり前のような態度に、神崎は説明を求めるように古市家の両親に目をやった。
すると、父親がその視線に気付いて、にこやかに教えてくれた。
「あぁ、すみません。気にしないでください。小さい頃から一緒に居るせいか、家族みたいな感じなんですよ、二人とも。」
要約:いっつもこんなのだから、慣れですね、慣れ!
その言葉に、神崎は目線を二人に戻す。
あーん、と赤い唇を開ける「ほのか」の口元に、醤油がつけられた刺身が運ばれる。
一応醤油が落ちないように気を使っているらしい男鹿が、箸の下辺りで掌を広げている。
あの男鹿に、こんな心遣いが出来るとは──っ! というのも衝撃だが、おそらく自然とそうできるくらいには、しつけられている、という見方もできる。
「あー、それじゃ、兄妹みたいな感じなんですね。
そーいえば、古市君と男鹿ちゃんも、いっつもあんな感じだよね、神崎君。」
古市君が食べようとしているパンを、男鹿が隣から奪っている光景も良く見るし、古市が最後の味がついていないパンの部分を、まだ足りない、とかのたまっている男鹿の口の中に突っ込んでいるシーンも良く見かける。
ああいことをごく普通にしている家なら、兄のように慕っている「男鹿」に、同じことをしてもらっててもおかしくはないのかもしれない。
──たぶん。
「そういうもんか?」
女兄弟が居ない神崎には良くわからないが、妹、というのはそういうものなのかもしれない。
「ほのか」は、きっと、「貴之」がいたら、男鹿と同じようなことを兄に頼んでいたに違いない。
ブラコンでシスコンなんだろうな、と思うような光景になっているはずが、「貴之」が居ないから、「男鹿」になっただけなのだ。
──うん、きっとそうだ、と、神崎は心の平穏のためにもそう思い込むことにした。
……って、ぅん?? なんで俺は、心の平穏を求めてるんだ?
ちら、と胸の端に引っかかった気がする感情に、神崎は軽く首を傾げる。
そんな、目の前に座る古市と男鹿の二人の、無意識に繰り広げられるイチャイチャしてるようにしか見えない会食風景を前に、会食は進んでいく。
煮物碗が提げられ、続いて運ばれてきたのは焼き物であった。
こんがりと焼けたおいしそうな魚──旬のそれは、一目見ただけで脂が良く乗っていると分かる。端のほうに、三角錐に荒塩が盛られている。
彩り良い皿の上に置かれたソレと、牛肉か豚肉が巻かれた小品と共に、薄く焼き目をつけたカニ足もついていた。
「お、カニだ、カニ。」
嬉しそうに男鹿がカニ足を摘むのに、ベル坊がなぜかいきり立ち、ウィー! と叫びながらソレに向かってファイティングポーズを取る。
何かカニに挟まれた思い出でもあるのだろうか。シュシュッ、と男鹿の膝の上でシャドウボクシングを始めるベル坊に、古市が呆れた顔になる。
何をやってるんだ、と、神崎がベル坊を見ていると、その小さな体がグラッと傾いだ。不安定な膝の上で動いてしまったため、滑ってしまったのだろう。
あ、と、慌てて男鹿が片手を伸ばすより早く、その小さい体を古市が抱きあげる。
「危ないだろ、ベル坊。」
「ダーゥーッ!」
イヤイヤ、と頭を振るベル坊の頭を、ぽん、と男鹿が軽く叩く。その片手には、しっかりとカニ足が握られている。
「おー、わりぃな、古市。ついでにベル坊にも食わせてやってくれ。」
俺が食ってる間、頼むぜっ! ──と、無駄に爽やかに見せかけた悪魔の笑みを浮かべる男鹿に、古市は皿目になったが、仕方なさそうに皿の上に手を伸ばす。
「カニは俺も食いたいから、お前の分をベル坊にやれよ。」
右手だけで器用魚をほぐしながら古市はそのホクホクした白い身を取り上げ、ベル坊の口元に運んでやる。
ほら、と目の前に差し出されたソレを、あーん、とベル坊は口に入れる。
あむあむ、と小さな口を動かすベル坊に、優しい眼差しを向ける古市の様子は、まるで母親のように見えなくもない。
男鹿はその二人を見下ろし、当然のように、ニィ、と笑うと、カニはやらん、と言いながら一口でカニ足をパックリと食べてしまう。
古市が、あーっ、アホーッ! と叫ぶ足元で、ベル坊が咥えた箸を、もぐもぐと舐め続ける。──よほど魚が旨かったらしい。もっと寄越せ、と手でグイグイ古市の袖を引っ張る。
あぁ、と頷いた古市は、ベル坊の口から箸を引っこ抜いて、再び魚の身を取り上げてやる。
しかしベル坊は、それに、ノン! と頭を振って腕をバッテンさせると、
「ダ!」
古市の分のカニ足を指差した。
「………………え……。」
「だッッ!!」
あれ以外は認めない、と、ねだるベル坊に、ええええー、と古市が不満の声をあげる。
だって、カニなのだ。しかも一流料亭で出されたカニなのだ。それを人様にやらねばならぬとは、どういうことだ。
「ベル坊君。肉をやるから、カニは諦めて……。」
「ダーッ!!」
ヤダッ、とねだるベル坊に、ほとほと困って男鹿を見上げれば、男鹿はすでに空になりかけた皿を前に、箸を咥えながら、無理無理、と頭を振る。
「諦めてカニをやれ、古市。」
「いやいや、何をおっしゃるやら、男鹿さん。赤ん坊のわがままを小さい頃から許してたら、ロクな大人になりませんよ、ってかむしろ、お前になっちゃうよ! だからココは、一発、ビシッと諦めさせなさい。」
「いやこら待て、古市。お前今、聞き捨てならねぇことを言いやがったな。」
軽口を叩きながら、男鹿はそんなお前にはお仕置きが必要だろ、と古市の皿の上からカニを取り上げる。
あっ、と古市が声をあげるが、男鹿は当然「お仕置き」なのだからと気にすることなく、ぱく、とソレを口に放り込んでしまう。
「アダゥゥーッ!」
「俺のカニー!」
うるっ、と鳴いたベル坊に、男鹿は待ってろ、とポンと頭を叩くと、口の中で細かく切ったカニ身を掌に取り出し、ほら、とベル坊の口元に運んでやる。
ヒルダが見たら、貴様の体液まみれの物をぼっちゃまに食わせるとは……っ! と、速攻で剣を抜きそうな光景である。
「アーゥーッ。」
嬉しそうにベル坊は、口元までやってきたカニ肉に喰らいつき、幸せそうに両頬を掌で押さえる。
「どうだ、美味いだろ。」
よしよし、と頭を撫でる男鹿に、ベル坊は嬉しそうに笑う。
そんな二人を見て、はあぁ、と古市は哀しそうな目を盆の上に落とす。
そこには、先ほどまで紅白の色を見せていたカニ肉はない。
「カニィィー。」
惜しむように、箸先でツンツンとカニ肉のあった辺りを突付く古市に、
「…………あー……、コレ、やるよ。」
ぽん、と、真新しいカニ肉が差し出された。
プリッとした白身と、薄皮の赤い身。
思わず涎が出そうになるそれに、古市は、おお、と身を乗り出す。
バッ、と顔をあげると、目をそらしながら目元を赤く染めた神崎が、こりこり、と頬を掻いた。
「いいんですかっ、神崎先輩っ!?」
ぱぁぁっ、と嬉しそうに満面の笑顔になる古市に、うっ、と神崎は言葉を詰らせる。
──せ、せせ、先輩。
それは、学校でも良く聞くセリフだ。いかつい顔の後輩どもにも言われるし、可愛い顔をした不良女子に呼ばれることもある。
だが、なぜか、目の前の「ほのか」に言われると、胸がグッと締め付けられるような甘みが走った。
先輩じゃないだろーが、とチラリと思ったが、古市が自分のことを家でも「神崎先輩」と話していたのなら、それが移ったという可能性がある。
……そう考えた瞬間、なぜかソワソワした気持ちが浮かんできて、神崎はチラチラと古市から視線を反らす。
「……おお、おぅ、俺は別に、いらねぇし、めっ、目の前で、んなやり取りされたら、気になるだろーがっ! け、欠食児童じゃねーんだしなっ!!」
けっ、と悪態づく神崎に、古市はニコニコ笑いながら、はい、と頷く。
そして、大切そうにカニ足を取り上げると、
「ありがとうございます、神崎先輩っ。」
やったーっ、とカニ足を掲げる。
そして男鹿に見せびらかして、「貰ったー」と笑う。
チラ、と横目にソレを見た神崎は、その顔をもたらしたのが自分だということに、ほっこりと胸が温かくなった。
古市がカニ足に、ぱく、と食いつく。
口の中でホロリと溶けるカニの味に、んーっ、と目を閉じて幸せそうに笑う。
思わず見とれた神崎が、ぽかん、と口を開くのに、
「やーさしーね、神崎君。」
夏目が、つんつん、と肘でつついてくる。
それに、そんなんじゃねーよ、と答えた神崎は、一度古市から目を外すが──どうしても気になって、もう一度目を戻した。
カニ身を半分ほど食べた古市の襟元を、ぽんぽん、と膝の上からベル坊が叩く。寄越せというのだ。
「古市君。ベル坊が欲しいってねだってるぞ。」
「いや、さっき食べただろ。」
「アーダ!」
「えー……じゃ、ちょっとだけだからな。」
もう、と古市は男鹿がしていたように、口でカニを小さくちぎると、それを手に乗せてベル坊の口元に運んでやる。
喜んでソレを食べるベル坊を、古市は目を細めて見下ろしながら、小さな緑色の髪を撫でる。
その仕草は慣れを含んでいて、ソレを見た神崎は、ちく、と胸の奥がひそやかに痛むのを覚えた。
時々肩と肩、腕と腕を触れ合わせて、男鹿と「ほのか」が笑いあう。
それに、ジクリジクリと胸が痛んだ。
でも。
それだけではない。二人の仕草や態度に、妙な既知感を覚えた。
なんだ、と、──無理矢理胸の痛みに蓋をしながら顔を顰めた神崎に、
「ああしてると、ほのかちゃんって、古市君にそっくりだな、って思うね。」
夏目が、小さく笑いながら顔を寄せてそう囁いてきた。
その言葉に、ああ、と、合点が行った。
そうだ。
男鹿と「ほのか」が今していることは、実のところ、古市貴之が日常的にやっていることと、そう大差がなかったのだ。
兄の古市がやっていることを、妹が真似してもおかしくはないだろう、と、神崎は強引に納得する。
そうすれば、胸の奥でチクチクと訴えていた棘のようなものが、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
「……………………。」
胸に手を当てて、神崎はかすかに首を傾げると、改めて箸を取る。
父はひたすら、出てきた品を得意気に古市母に説明していたし、仲人役の男と古市父は、空気のように存在感がない。ただ出てくる美味しい物を食べているだけのようである。
城山は見た事がない物を恐る恐る突付いては、口に入れ、その魅惑の味に、おぉぉ、と感動して夏目に笑われている。
……なんつーか、コレ、オヤジと古市母が見合いしてて、他が付き合い同伴って感じじゃねーか?
良く考えてみなくても、自分が見合い相手とまともに話したのは、今さっきが初めてだ。
何せ、話を進めてくれるべき父親が、全くそのつもりがないからである。──彼は先ほどから、古市母とばかり会話を進めてくれているのだ。
ほんっと、見合いを成功させる気はゼロのようであった。
このクソオヤジが……っ! と、拳を握りかけた神崎は、はた、と我に返った。
いや、それでいいのだ。──そう、別に、見合いを断るのだから、それこそが自分が求めていることなのだ。
ただ旨い物を食べて、親父が初恋の君と話を弾ませて、それじゃぁ──と、二度と会わないでいる。それに越したことはない。
いくら後輩の古市の家族だとは言っても、神崎は3年生で、古市の妹はまだ中学生なのだ。──この先、再会することなんて万に一つもないだろう。
だから、話さないまま分かれて、何の問題があるのだろう?
そう、思うのに。
この見合いは、断るつもりで……ぶっ潰すつもりで来たというのに。
ちらり、と目線をあげれば、ちょうど少女もこちらを見たところで、にこ、と笑顔を返してくれる。
その嬉しそうな顔を見て、ボッ、と顔が赤らんだ。
慌てて神崎は顔を下げて、目の前の盆に集中する。
ドッドッドッ、と心臓の音が妙に強く鳴っていた。
なんだ、コレッ!? マジでコレ、何っ!!?
グサグサと魚に箸を立てながら、問答無用で口の中に突っ込んだ。
この上もなく美味しいはずの物は、喉を素通りするように味一つしない。
なんだコレ、味しねぇっ、味付け薄すぎるんじゃねーのっ、と愚痴を零すと、それを聞きとがめた夏目が、そーかな、美味しいと思うけど、と軽く返してくる。
ぎろ、と夏目を睨みつければ、彼はへらへらと笑いながら、
「神崎君、顔に出まくってるよ。」
つーん、と、頬を指先で突付いてきた。
「……ってめ、何しやがるっ!」
ただでさえでも、意味のわからない動悸に悩まされているのに、人をおちょくる気かっ! と。
苛立ち紛れににらみつければ、夏目は小さく目を見張って、あれ、と呟く。
「なに、もしかして神崎君……、無自覚、とか?」
「はぁっ? 何言ってやがる?」
事と次第によっちゃ、夏目であろうとも許さねぇ。
ぎろ、と下から睨み揚げれば、夏目はパチパチと目を瞬いた後、参ったな、と小さく呟く。
「なんなんだ、てめぇは……っ。」
苛立ち紛れにギロリと睨めば、夏目は苦笑を滲ませて、
「うん、まぁ、後でまた話すことにするよ。今、言うことじゃないし、ね。」
うっかり言っちゃって、神崎君を動転させたいわけじゃないし。
と後半は心の中に押し隠して、夏目は涼しい顔で自分の箸を、ことん、と置いた。
──まさか神崎君、これが初恋とかって……言わない、よ、ねぇ?
一通りの料理が運ばれてきて、綺麗に盛られた果物や和菓子、茶が出された頃には、室内にはくつろいだ空気が流れていた。
神崎父は上機嫌で、さて、これからどうするか、と顎に手を当てて考える。
すっかり初恋の君と話が盛り上がって、うっかり息子のことを忘れていたが、見た感じ、いい雰囲気に見えなくもない。
何せ古市母譲りの美貌を持つ「ほのか」ちゃんは、息子の一と目があうと、ニッコリ笑ってくれているのだ。
ちょうど見たところがそういうシーンだった、という事実には気付かず、うんうん、と神崎父は頷く。
それならば、これを食べた後、お決まりの「跡はお若い二人で」というパターンに突入してもいいだろう。
一がほのかちゃんをゲットすれば、憧れの雪帆さんと自分は、姻戚関係! なんてそれは魅惑的な言葉っ! しかも生まれた孫が、雪帆さんに良く似た娘だという可能性もある!
別に雪帆と恋人同士になりたいわけではない。むしろ今の神崎父にとって彼女は、「昔あこがれたアイドル」のような立場なのだ。高嶺の花すぎて、現実の恋愛対象とは思えないというところだろう。
よし、この後は「お若い二人で」このホテルの庭園を散歩させる、の定パターンに決定だっ。
ぐ、と神崎父が、拳を握ってそう決め付けたときだった。
ことん、と黒文字を置いた古市母が、懐紙でクイ、と口元を拭うと、
「たか……、ほのか、ちょっと席を外すわよ。
神崎さん。すみません、ちょっと化粧直しに……。」
にこ、と微笑んで目の前の男に軽く頭を下げる。
神崎はそれに、おお、と頷く。
男の目から見ただけでは、別段化粧が崩れているようには見えないが、女性には女性の事情があるのだろう。
もちろん、それに許可を与えないほど神崎は野暮な男ではない。
どうぞどうぞ、と促がす神崎に、古市母は謝辞を述べると、
「え、いや、俺は別に……。」
「いいから、──口紅が取れかけてるわよ。」
とん、と古市の腕を軽くたたく。
それに、え、と口元に手を当てる古市に、さぁ、立ちなさい、と促がして、足をずらすようにして彼女は先に立った。
それに、そういうものか、と頷いた古市は、ソロリと立ち上がろうとして──、
「……うにゃっ。」
びくぅ、と背筋を震わせた後、グラリ、と体を傾がせる。
顔を歪めて足に手を当てようとし──ぽすん、と古市は男鹿の腕に倒れこんだ。
「あだ?」
不思議そうに自分を見てくるベル坊の目の前で、古市は辛そうに顔を顰める。
「ほのか?」
いぶかしげに見下ろしてくる母に、うう、と古市がうめき声をあげて足袋に包まれた足に触れるのを見て、にやぁ、と男鹿が笑う。
「古市、お前、痺れたな?」
「……うっ。」
「あだ。」
にやぁぁ、と、ベル坊もいやらしく笑った。
その二人が、手をワキワキさせながら、ニヤニヤと笑い始める。
「ふっふっふ、正座なんかしてるからだよ、古市君。」
「だぅ。」
「……い、いやいや、着物着てるから、それ当たり前だし。っていうか、男鹿、マジでソレは止めろ。マジまずい。」
男鹿の肩口に額を擦りつけながら、痺れ痛い、と古市は零す。
そんな古市の足に、そろり、と男鹿が手を這わせる。
とたん、びりりっ、と走った衝撃に、はにゃっ、と変な悲鳴を古市があげる。
その古市の背中をもう片手で支えると、
「ちょ、待て待て、男鹿っ。それはマズイ、マジまずい、ほんっとヤバイですからぁぁっ。」
逃げ場を失った形になった古市が、慌てて男鹿から遠ざかろうとするが、男鹿はそれを許さない。
あっ、と思う間もなく、男鹿は左手で古市の背中にあて、右手を膝裏に通すと、
「よっ、と。」
ひょい、と、古市を抱えあげた。
「──……っ!?」
その瞬間、びりっ、と足に走った痺れに、古市は軽く眉を顰める。
いたっ、と小さく声をあげる古市を気遣う様子もなく、男鹿はベル坊に背中に捕まるように言うと、そのまま立ち上がる。
「ちょ、男鹿っ、おろせってっ。」
「あぁ? 立てねぇんだろ? そのまましがみついとけ。」
ほら、と左肩を軽くゆする男鹿に、古市はムゥと唇を歪ませるが、確かに、下ろして貰っても立てないし歩けない。
うーん、と腕を組んで少し悩んだ後、しょうがねぇな、と古市はその腕をスルリと男鹿の首に回した。
「お前、体力有り余ってるもんな。」
「おー。おばさん、どこにコイツ運んだらいーんだ?」
「いや、俺荷物じゃねーしな?」
ぴょこん、と男鹿の肩から顔を出したベル坊は、すぐ目の前に見えた古市の頭に、キラキラと目を耀かせる。
綺麗にシャラシャラ揺れる髪飾りも、手が届きそうだ。
「アダっ!」
「たたっ、って、こら、ベル坊っ! 髪を掴まないのっ!」
小さな右手でガッシと髪を掴み、左手を伸ばして髪飾りに手をかけようとするベル坊に、古市が首をひねって逃げる。
そんな仲がいい「いつもの」二人+ベル坊を見て、古市母は、早くしなさい、と先に部屋を出て行く。
古市をしっかり横抱きして、男鹿もそれについていく。
あぜんとそれを見送るほかの面々の前で、古市父はニコヤカに見送った。
そして、薄茶と別に用意されていた湯飲みを手にすると、それをズズ、と啜る。
「あぁ……、茶が美味い。」
うんうん、と満足したように頷く。
ふすまの向こう側からは、男鹿と古市の声が聞こえてくる。何と言っているのかは良く分からなかったが、二人が親密そうにしているのは分かった。
神崎は自分の耳がダンボになっているのに気付いて、ぐ、と唇を一文字に引き締める。
なんだ、あれっ!? っていうか、おま、ひょいっって──ひょいって、なんであんな軽く抱えられちゃうわけっ!?
いやいや、待て、あれだ、そう、あれ。俺だってやろうと思ったらやれるに違いない。そうだ。あんな風にヒョイとか軽くはいかなくても、きっと……ん、いや、違うっ、俺だって軽くヒョイと男前に抱き上げられるはずだ──……っ!
そう思ったところで、ふっ、と神崎の脳裏に「ほのか」を横抱きにしている自分の姿がよぎった。
立派に仁王たちする神崎の腕の中で、うっとりと肩に頬を寄せるようにして抱きかかえられている振袖姿の美少女。
「──……うぉっ!」
思った瞬間、ボボッ、と顔が真っ赤になるのに、神崎は頭を抱える。
男鹿に対抗して、俺は一体何を考えてるんだ──……っ!!?
そう身もだえる神崎を横目に、夏目はチラリと携帯を取り出した。
現在時刻、13時25分。
古市家が思った以上に早く到着したため、料亭側の配慮で料理の提供スタート時刻も、早まっていた。
おかげで、この時間にはすでにコースが食べ終えてしまっていた。
その時間を見て、そろそろなんだよねー、と夏目は思う。
この見合いをぶち壊す最終計画として、夏目は二人の人物に連絡を取っていた。
あの二人がやってきたら、確実に見合いはつぶれるに違いないと思われる人物だ。
一人は、超絶ブラコンの神崎兄──こと、神崎零。神崎組を継ぐのを嫌って外に出て行ったくせに、弟にだけは連絡を取り続けている人物だ。
外に飛び出していけばいいのに、神崎に会う時間が更に少なくなるのはイヤだとかで、市内のほど近くに住んでいるというブラコンぶりである。
あのブラコンのおかげで、中学時代から神崎のお付き合いが何度潰されたことがあっただろうか。──正直、夏目は途中で数えるのが面倒くさくなって、途中まで数えた数すら覚えていない有様である。
そして、もう一人は……、石矢魔高校に入ってから出会った金持ちフランスパンなストーカー──否、姫川竜也その人である。
いつもツンツンしているように見えるが、その実、ケンカするほど仲がいいというか、ケンカしているうちに、うっかり恋の花が咲いてしまったらしい姫川財閥の御曹司は、ことあるごとに神崎に物凄く分かりにくいアプローチを仕掛けてくれている。
おかげで、神崎本人には全く気付かれず、それを横で眺めていた夏目から生ぬるーい笑みを貰い、城山から同情の目を寄せられる日々を送っているのだ。
昨今では、ヒルダという男鹿嫁から、せせら笑いまで頂いている始末だ。
そんな姫川であるが、──いや、姫川だからこそ、今回の見合いを許すはずがない。むしろ、これこそが契機だと考えているに違いないのだ。
どちらか片方にだけ情報を寄越したら、神崎君の貞操が本気危機になるかもしれないと思ったため、両方がガチバトルしてくれたらいいなぁ、という希望を寄せて、両方に連絡をしてみたの、だが。
普通のお嬢さんなら、突然現れた不良(フランスパン)とエリート(ブラコン)が、見合い相手の男を取り合ってガチバトルを始めたら、ドン引きすること間違いなしだと思う。
それを前に、「ヤーさんって、いっつもこんなだから〜」と夏目がにこやかな笑顔で、これに入っていかないとダメだよー? とか言えば、確実にお嬢さんからお断りされること間違いなし。
──って思っていたのだ、が。
相手は、まさかの古市の妹。しかも男鹿付き。しかもその上、どうも神崎は「ほのか」に惚れてしまった模様。
どう考えても、あの二人のドタバタに巻き込まれるのは得策ではない。絶対、大騒動になるか、二人揃って男鹿に沈められて終わりだ。しかも神崎のお株は大暴落。
「………………。」
ちら、と夏目は天井辺りに目を彷徨わせる。
姫川と零には、午後1時半に見合い開始、と伝えてある。
11時に顔合わせをして、11時半から懐石料理を食べ始めたら、食べ終わるのがそれくらいかな、と思ったからである。──せっかく来たのだから、食べる物は食べたいじゃない、という抜け目のない夏目の計画だったのだが。
「神崎君。」
どうやら、その「見合い潰してほしいな」計画は、返上したほうがよさそうな展開なのだ。
だって、…………神崎君の「初恋」がかかってるんだから。
ならば──ここから逃げるのが、得策、か。
「あぁ? んだよ?」
ジロ、と睨みつけてくる神崎に、そ、と顔を寄せると、
「俺たちも、外に出ない?」
「あぁぁ? 連れションみてぇなこと出来っかよ。」
「男鹿ちゃんたちのことも気になるしさ。」
冗談じゃねぇ、と吐き捨てるように言う神崎に、夏目はチラリと襖の方を見やった。
その途端、神崎がハッとしたように目を見開く。
「……男鹿。」
そうして小さく呟くと、がたん、と立ち上がった。
チラ、と自分を見上げている父親を見下ろすと、
「ちょっと行ってくらぁ。」
「おう、男を見せてこいやぁ。」
くい、と顎で襖を示す。
それに何を思ったのか、神崎父は、にぃ、と笑った。
「ほのか」を追いかけていくと思ったのだろう。
そのまま、ぐ、と親指を立てると、
「なんなら、そのまま中庭を散策デートしてきてもいいんだぞ。」
へたくそなウィンクまでしてくる。
それを神崎は呆れた目で見下ろすと、
「……ッ誰がんなことすっかっ!」
アホオヤジっ、と吐き捨てて、ズカズカと足音も荒く襖に手をかける。
「──っと、あー、すんません、ちょっと席外しますんで。」
襖を開く前に、肩越しにではあったがペコリと古市父に頭を下げて、神崎はそのまま乱暴な手つきで外に出て行く。
夏目もそれを追うように、
「それじゃ、俺もちょっと……、城ちゃんも、行くよ。」
この後に起きるだろう騒動に巻き込まれないようにと、トン、と城山の肩を叩く。
お茶を飲んでいた城山は、一瞬慌ててが、机に額がくっつきそうなほどお辞儀をして、先に外に出た神崎と夏目を追った。
そうして、残されたのは、いつもの仕事の時と変わりない男3人の姿だけだったという。
神崎は、綺麗に並べられた石畳の上を、ガツガツと靴を引っかけるようにして歩いていた。
頭の中がイライラして、むしょうに体がソワソワした。
脳裏には、先ほどの光景がグルグルと回っている。
立ち上がろうとした拍子に立ちくらみでもしたのか、フラリと男鹿に倒れこむ少女と、それを当たり前のように受け止める男鹿。
なにやらヒソヒソと顔を寄せ合って話していたかと思うと、男鹿は当たり前のように彼女を横抱きした。
それに驚いていたようだったが、少女はすぐに慣れているかのように男鹿の首に手を回し、体を彼に預けたのだ。
──そう、いつもそうしているかのように。
「──……くそっ。」
なんだってこんなにイラつくんだ、と、神崎は舌打ちしたくなった。
今の自分は、なんだかおかしい。おかしいとわかってはいるけれど、なぜおかしいのかは分からない。
そんな自分にむしょうに腹が立つっ。
「──あぁっ、くそ、ムカつくっ!」
ガツッ、と。
勢いに任せて壁を叩きつけ──拳に走った痛みに、うぉぉぉっ、と手首を押さえて悶絶した、ところで。
「あれ? 神崎先輩?」
右手のほうから、声が聞こえた。
アン? と何気に目線を向けてみれば、少し奥まった通路の中ほどに、男鹿と「ほのか」が座っていた。
和風の月見台のような長いすに、二人は並んで腰掛けている。
男鹿の向こう側から、ヒョイ、と顔を覗かせてニッコリ笑う「ほのか」の綺麗な笑顔に、うぉっ、と神崎は思わず挙動不審に狼狽した。
自分でも分からないまま、頬が紅潮し、胸がバクバク言い始める。
なんだコレっ!? なんか、こいつ、妙な光線でも出してるんじゃねーだろうなっ!?
「もしかして、神崎先輩もトイレっすか?」
トイレ、この奥ですよ、と自分たちが座っている通路の奥を指差す。
そんな彼女の横で、男鹿がつまらなそうにベル坊相手に遊んでいる。
「あ、いや、俺は……。」
トイレに来たわけじゃない、と言いかけたところで、はた、と気付いた。
……あれ? じゃ、俺、何しに来たんだ?
「──つ、つーか、お前らはソコで何してんだ?」
「母親待ちです。」
今、そこで化粧直してるんで。と続けた古市は、それにしても、とちょっと眉を寄せて、困ったように続ける。
「えーっと……ほんと、いろいろすみません、神崎先輩。」
「──ぅぉ!?」
「今回の見合いに俺が来ちゃって、ビックリしましたよね? なんていうか……これには深い事情があって。
俺も、あの、好きでこういう格好してるわけじゃないんで、ほんとお願いですから、これが趣味だとか思わないでくださいね。」
くり、と小首を傾げて、ちょっと困ったように笑うその顔に、目が吸い寄せられる。
かすかに艶がなくなったような気がする唇は、それでもプルプルしていて、柔らかくて、優しい色をしている。
その動く唇から、魅入られたように視線が外せなくて、神崎は古市が何を言っているのか半分ほど聞き流してしまった。
せっかく話しかけてくれたのに、と悔やみながらも、必死で言葉を返さないと、と思った。
けど、頭に残った言葉は、「好きでこういう格好」と言いながら袖をちょっと持ち上げた姿だ。
だから、目線を少しそらしながら、神崎は早口に口にする。
「そ、その着物、似合ってると思うぞ。」
言うと同時、ぐわっ、と顔の辺りが熱くなった。
むしょうに恥ずかしくて、掌に汗が湧き出る。
「え。………………あ、ありがとうございます……?」
古市は、ちょっと驚いたように目を見開いてから、曖昧な表情で礼を告げる。
似合ってる、って言われてもなぁ、と言う顔になる古市をヒョイと見下ろして、男鹿が当たり前のように言う。
「な、だから似合ってんだろ?」
「うっさい。」
ぱしん、と古市は男鹿の腕を軽く叩いて、少し離れた所で突っ立ったままの神崎をチラリと仰ぎ見た。
上目遣いで見上げるその顔に、神崎はますます顔に熱が集るのを感じた。
胸から心臓が飛び出そうに、バクバク言う。
思わず、ぐぐ、と眉を寄せれば、古市はちょっと困ったように眉を落とす。
「あの、怒ってますか、神崎先輩?」
自分がしていることを思えば、怒られてもしょうがないよなー、と古市は思う。
けど、いつものように「ふざけんなこらぁーっ!」だとか、「てめぇ、俺を舐めてんのか、おらっ」だとか言うのがない分だけ、調子が狂う。
それとも、そう叫ばないくらい怒っているのだろうか。
そろりと見上げる古市に、神崎は腕を組みながら体を斜めにして声を荒げる。
「はっ? なんで俺が怒ってなんか……いねぇよ、ぜんぜん、これっぽっちもな!」
カッ、と怒鳴り口調になってしまった神崎は、すぐに、ハッ、しまった! ──と思った。
これでは女子を怯えさせてしまう……っ!
だがしかし、古市はそんな言葉に、ホッとした笑顔を見せる。
「よかった……。俺、ほんと、神崎先輩が見合い相手でよかったです。」
にこにこ、と邪心なく告げる古市に、神崎はガツンと頭を鈍器で殴られたような衝撃を受ける。
ほんと、神崎先輩が見合い相手で嬉しい……v(軽く変換されてます)
「こ、怖がってたじゃねーか……。」
喉が乾く。妙に目がパシパシする。
胸が激しく鳴り、息があがる。
声が震えないようにゴクリと喉を上下させれば、古市はそんな神崎の態度にまったく気付かない様子で、照れたように頬を染めて笑う。
ぽりぽり、と頬を掻きながら、
「いや、そりゃ確かに、お父さん見た時は怖かったですけど、でも……神崎先輩がほんとは優しいの、知ってますから。」
カニ貰ったし。
そう心の中で呟いた古市は、なんだかんだ言いながら神崎が面倒見がいいのも知っている。
長い付き合いではないが、そういう神崎だからこそ、多くの舎弟がついていっているということも。
──もっとも、自分も男鹿も、そういうのはゴメンだけど。
ニコニコと笑って告げる古市を、神崎は何かに詰るような、なんとも言えない表情で見つめた。
無言でパクパクと口を開け閉めする神崎を、古市は不思議そうに見上げる。
その、キョトンとした無防備な顔を見下ろして、神崎はゴホンゴホンとわざとらしく拳を口元に当てて咳払いをすると、
「あ、あー……、と、ほ、ほ…………っ、古市、……?」
「ふぇっ?」
本当は、ほのか、と名前を呼びたかったのだが、口にしている最中にどうしても恥ずかしくて言えなくて、あえて言いなれている苗字で呼んでみた。
けど、隣の席の残念なイケメンに言っているときと違って、妙に緊張したし、気恥ずかしさを感じた。
呼びかけに返事をしてくれたことに、ぐわぁぁっ、といたたまれない羞恥を感じる。
なんだ、これ。ほんとなんだこれ。病気かっ!?
そんな焦りの中、とにかく何かを話しかけないと──と、焦った気持ちで神崎が放ったのは。
「その──ちょっと聞きたいんだが、お、おおお……お前ら、付き合ってんのかっ!!?」
痛恨の一撃だった。
放った瞬間、神崎はハタ、と気付いた。
今、自分が言った言葉の、恐ろしいほどの羞恥をはらむ威力を。
「ぬ……ぬぉぉぉーっ!!!」
仁王立ちの態勢のまま、神崎は心の中で激しくのたうちまわった。
何を俺は言ってるんだぁぁぁっ! と、絶叫をあげて、「やっぱ今のナシ!」と言いかけた、ところで。
「は……っ!? はぁぁぁっ!? 何言ってんですかっ!? ありえませんっ! 男鹿となんて付き合ってなんかいませんよっ!?」
がたがたっ、と席を立った古市が、慌てて顔の前で両手を振って、ブンブンと頭も振る。
男鹿はそんな古市を、呆れたような目で見上げている。
「けど、今日だって連れてきてんじゃねーか。」
見合いの席に男を連れてくるってったら、そーいう意味だろ? とボソボソと早口で続ける神崎に、古市は両手を握って力を込めて叫ぶ。
「冗談でも言わないでくださいっ! ほんと、冗談じゃないですからっ! こんなのと付き合ったりしたら、神経参っちゃいます!」
「なんだと、コラッ! てめ、人が黙って聞いてりゃ、何言っちゃってんの!?」
ビシッ、と男鹿を指差して怒鳴る古市に、男鹿が噛み付くように怒鳴る。
ベル坊も、ダーッ! と親を援護するつもりで叫んでいたが、神崎の耳には入ってこなかった。
付き合っては、いない。
その言葉が、グルグルと頭の中をまわる。
ジンワリと胸から涌いてくる暖かな感情に、神崎は頭にカーッと熱が回るのを感じた。
そして、気付いたら、口火を切っていた。
「なっ、なら、古市、俺と……っ!!!」
「一ぇぇーっ!!!!!!!」
ガンッ、と、後ろから衝撃が走ったのは、まさにその絶妙なタイミングのときのことであった。
タックルするように、がっしと腰をつかまれ、そのまま床にダイビングしそうになるのを、必死で堪える。
胃の中から何かが迸るかと思った。
そんな衝撃に、ゲホゲホと咳き込んでいる間、背中に抱きついた男は、神崎の頭の上で、スリスリと顔を寄せている。
「一っ! 無事かっ! お前の貞操は無事かぁぁっ!!!」
所も場所も構わず、ギュー、と抱きしめてくる男に、いやになるほど神崎は覚えがあった。
ついでに言えば、この光景にも、いやになるくらい覚えがあった。
ゾワゾワと背筋を駆け抜ける寒気を感じつつ、イヤっそうな顔でチラリと振り返れば、仕立てのいいスーツの襟元が見えた。
「一っ! あぁ、一、久しぶりの一の感触……じゃなかった! 大丈夫か、あのバカ親父に無理矢理アバズレと見合いさせられたと聞いたが、お前、もうすでに手をつけられたんじゃ……っ!!」
ついでに腰に回っていた手が、なぜかサワサワと動いてるのを感じて、神崎は渾身の力で、がばっ、と腕を広げて拘束を剥がす。
「何、くっだらねーこと叫んでんだ、このクソアニキっ!!!」
手を剥がすと同時、バッと距離を取って叫べば、そこに突っ立っていた「一見エリートサラリーマン」風の男が、手をワキワキさせて神崎のほうに1歩進んでこようとする。
だが、それを許さず、神崎は男相手に指を突き刺した。
「そっから近づくな、セクハラ野郎っ! ってか、てめー、何しにきやがったっ!?」
しかし、神崎兄こと零は、乱れた髪をササと整えると、先ほどまでの痴漢かと思うような態度はサラリと流して、ことさら誠実そうな笑みを浮かべる。
「お前が見合いをすると聞いて、心配してきたんじゃないか。あの親父のことだから、無理を言ってお前を女と会わせたのだろう。」
そ、と距離を詰めてくる兄から、その分だけ神崎は後退した。
毛を逆立てるように睨み付ける神崎に、兄はことさらいとしそうな眼を向ける。──あぁ、まるで猫のようだ、と、可愛くてしょうがないようである。
それを見た神崎は、余計にいらだったように眉を吊り上げる。
「うっせぇっ! お前に心配されるよーなことは、何もねぇよっ!」
ってか、誰だッ!? このアホに連絡取ったのっ!?
まさか親父が取るとは思えない。自他ともに認めるブラコン兄が、神崎の見合いを賛成するはずがないからだ。
と、なると──と、思ったところで、
「神崎君っ!!」
慌てたようにこちらに駆け寄ってくる夏目の姿が見えた。
彼はすぐに廊下の真ん中に立っている零に気付いて、あ、という顔になる。
かと思うと、神崎に向けて顔の前で手を掲げる。──ごめん、と、その口が動いた。
途端、神崎は把握した。見合いをイヤがっていた神崎のために、夏目が零に連絡を取ったということを。
「──そちらのお嬢さんが、一の見合い相手かい?」
一瞬夏目に気を取られた神崎に近づいて、零は弟の頬を指先で撫でる。
間近でニコリと微笑みながら、古市のほうを見た目は、笑っていなかった。
見聞するように、振袖姿の美少女を上から下まで眺める──その目に、ゾクリと古市は身を震わせて、そそ、と男鹿の背後に隠れる。
こそこそと、「神崎のお兄さん? ってか、ヤクザの兄貴って、あれかな? サブの世界か?」「んじゃ、アイツ、神崎の彼氏ってことか?」なんて会話を古市と男鹿が交わしていることなど露しらず、神崎はギリ、と目の前に来た兄の顔を睨み上げる。
「だったら、なんだってぇんだ?」
「可愛い顔して、見合いの最中に男と密会とは、いただけないね。──全くもって、一にはふさわしくない。」
「! ふさわしいとか、ふさわしうないとか、んなのは兄貴が決めるこっちゃねーだろーがっ!!!」
やれやれ、と頭を振る兄に肩を抱かれる形になって、神崎はソレを振り払う。
「何を言ってるんだ。可愛い弟が結婚するというなら、それは俺の許可が必要になるに決まってるだろうが。」
跳ね除けられた手を寂しそうにもう片手で包みながらも、零はキッパリと言いきる。
どんなときだろうとどんな状況だろうと、たとえ試験中で抜け出せないときであろうと、必ず神崎の下に駆けつけ、デート中の女子を見聞して恐れおののかせ続けてきた過去を、正当化するかのように。
「ってか、この……っ!」
「このブラコン兄貴。」
口から叫ぶはずだった言葉は、なぜか左方向から聞こえてきた。
あれ、と開いたままの口で、キョトンと左手を見やれば、男が一人立っていた。
ブラコン兄貴、という言葉は、彼が発したようだった。
染めた銀色の長い髪を一つに結わえ、高そうなスーツに身を包んでいる。零と違いネクタイはつけていないが、だからと言ってズボラには見えない。逆にスタイルのいい体を一層引き立てていた。
「てめぇ、俺の神崎からとっとと手を放せ。」
腰に手を当てて、顎を反らすようにして見下してくる男に、あぁ? と零は下から睨み揚げるように見返す。
その顔と表情が、まるでヤクザそのもののようで、やっぱり神崎兄なんだなー、と古市は暢気に思った。
「俺の、神崎……?」
零が低く声を出す。
その言葉に、神崎も顔をゆがめて男を見返し──夏目と城山を見やったが、二人はフルフルと頭を振る。
それを受けて、神崎は改めて男に向き直ると、
「お前、誰……?」
他の面々と一緒になって、そう尋ねた。
──とたん、
「俺だよ! 姫川だよっ!!!」
なんだよソレっ! 人が折角格好よく決めたのに、何ソレっ!!?
ちょっと焦りながら叫ぶ姫川に、あーーー、と一同は思いだしたように頷いた。
そうだった、リーゼントほどいたら、この人、こんな顔してたよ。骨格変わるんだったよねっ!
あっちゃー、と夏目は額に手を当てて、ちょっと参った顔になった城山が、壁際に避難する。
今から起きる出来事は、容易く知れた。
何が起きるか分かっていないのは、古市と男鹿くらいのものだろう。
「姫川、だぁ? ──つーと、あれか? 俺の可愛い一にチョコチョコくっついては、アプローチかけてるとかいう変態か?」
ギロリ、と睨みつけるその顔もドスの効いた声も、「この人もヤーさんの子供なんだなぁ」と思わせた。
「可愛い一ってなんだ、可愛いってっ!!」
神崎が、くそ恥ずかしいーっ! と頭を抱えて唸るのを全く無視して、零は神崎の体を抱き寄せる。
止めろっ、放せーっ、と叫ぶ神崎を、姫川に見えるように抱きしめながら、
「変態に攫われないように、お兄ちゃんの腕の中にいなさい。」
ちゅ、と彼はわざわざ見せ付けるように神崎の髪に口付ける。
髪の先端に触れるような口付けは、神崎には気付かれないが、回りからはバレバレだった。
姫川の眉が、かちん、と跳ね上がる。
「あぁ? 誰が変態だ、このクソ変態兄貴がっ!」
カツカツカツ、と一気に間合いを詰めて、姫川は顔をグと近づけて零に向かってメンチを切る。
その腕の中でもがいている神崎が、ええいっ、と思い切って全身を押し付けるようにして、零の足を踏みつけたのは、ちょうどその時だった。
「人を変態呼ばわりする前に……って、いたっ!!? は、一っ!?」
「へっ! てめぇら、どっちも揃って変態で十分だっつーのっ!!」
痛みに咄嗟に力が緩んだ兄の手から、神崎はすり抜けると、ははんっ、と軽く笑う。
一発かニ発殴り倒してもよかったが、一応ココが高級料亭だと言うこともあり、兄の手から逃れるだけにしておいた。
「とにかく、二人とも、とっとと帰りやがれっ!」
変態どもとは、もう絶対一緒に居たくないっ!!
そう怒鳴りつけた神崎に、へーぇ、と姫川が目を細める。
かと思うや否や、
「んじゃ、とっとと帰りましょーか。」
ヒラリと身を翻し、出口に向けて歩きだす。
その様子に、あれ、と思った夏目は、次の瞬間すぐに姫川が素直に帰るはずがないのだと知った。
姫川は、帰れ帰れっ! と笑う神崎の隣を通り過ぎ──そのついでに、ガシッ、と。
神崎の手首を掴んだ。
「……うぉっ!?」
驚いた神崎を、その隙に姫川はグイと引っ張る。
ふら、と自分のほうに倒れこんできた神崎を、すかさず姫川は小脇に抱きかかえるようにすると、
「さ、帰んぞっ!!」
「……って、こら、待てこらっ! フランスパン野郎っ! てめ、何考えて……っ!!」
ジタバタを暴れる神崎を、強引に抱きとめるようにして姫川は連れて行こうとする。
それに、ちょっと待て、と零が声を荒げてついていく。
「ふざけるな、バカ放蕩息子! 人の可愛い弟を連れ去った挙句、このホテルの部屋であんなことやそんなことをしようなんざ、お兄ちゃんの目が黒いうちは許しませんよっ!?」
がしっ、と神崎の足を引っつかみ、そのまま脚ごと抱え揚げる。
「おわーっ!? ちょっ、兄貴、てめっ、何しやがんだっ!?」
「あぁ? ざけんな、バカ兄貴。てめぇみたいに俺はがっついてねーんだよ。ホテルに連れ込むのは、両想いになった後って決めてんだよ。」
「そんなの一生来るわけねーだろーが。ってか、てめぇみたいな鬼畜野郎が、んな手順踏むわけねーだろ? そんな言葉を真に受けるほど、俺は廃れちゃいねーよ。」
険悪な雰囲気で言い争いながら、姫川は神崎の肩から少し下を抱え、その数歩後ろを歩く零は神崎の脚を抱えている。
そうやって、二人にしっかりと横に抱えられる形になった神崎は、ジタバタと足掻いてみるものの、体格差もあってまな板の上の鯉状態だった。
「てっ、めーらっ! 何、勝手に人を運んでやがるっ! いいから下ろせっ! おーろーせぇぇっ!!!」
叫ぶものの、二人は聞く耳持たず店の出入り口向けて歩いていく。
その足取りは競歩のように早く、そして一糸乱れる様子はなかった。
なんだかんだ言って、あの二人、気があうよねー、と夏目はヒラヒラと手を振ってソレを見送った。
「か、神崎さん……っ! おい、夏目、助けたほうがいいんじゃないか……っ!?」
城山が焦って言うが、夏目はソレにヒョイと肩を竦めて見せる。
「どうやって?」
「……………………っ。」
あの二人が同時に関わっては、何をしても無駄だと言うことは、過去の経験上分かりきっている。
「まぁ、なんだかんだ言って神崎君には手ぇ出せないからさ、二人とも。夜には帰ってくるんじゃないかな?」
多分、零のクルマに乗ってげっそりと連れ帰られてくるか、姫川の家のクルマで送られて、魂抜かれたようになっているかのどっちかだ。
心配しなくてもだーいじょーぶ、と軽い口調で告げた後、さて、と夏目は視線を戻した。
出入り口のほうからは、神崎の声と姫川、零が争う声が聞こえたが、夏目はもう気にしないことにした。
後はもう、どうにもならない問題だからだ。
「──あの、もしかして神崎先輩、誘拐されたんですか?」
椅子から立ち上がった古市が、そろりと通路から顔を出して尋ねてくる。
チラリと見えた心配そうな表情に、夏目は大丈夫だよ、と笑ってみせる。
「姫ちゃんは神崎君の同級生だし、零さんは本当のお兄さんなんだよ。だから、大丈夫──……たぶん。」
うん、もしかしたらちょっと、唇の貞操くらいはヤバいかもしれないけど、男のコだからねっ! きっと大丈夫さっ!
「そ、そうですか。」
ちょっと生ぬるい笑みになったが、それでも古市は笑みを浮かべると、後ろの男鹿を振り返る。
「大丈夫みたいだぞ。」
「あれって、あれだろ? 古市、ちわわげんかってヤツだよな?」
「痴話ゲンカ、な。それじゃ犬だろーがよ。」
ぺし、と軽く男鹿の頭を叩いて、もう戻ってこないのかな、と出入り口のほうを見やる古市に、へぇ、と夏目は目を細める。
あれを見て、どん引きしない「女のコ」は、初めて見た。──熱狂して黄色い悲鳴をあげる女の子は見た事があるけど。
「ほのか」ちゃんは、ごく普通に神崎の心配をしてくれているようだった。
神崎を怖がっている様子もあまりないみたいだったし、男鹿と仲がよすぎるのはどうかと思ったが、古市が兄なら仕方がない。
「ヒルダが良く見てる昼メロみてぇだったな。」
「男同士だけどな。ってか、ヒルダさん、ほんと昼メロ好きだよなー。こないだもお前がベル坊のミルク忘れてった時に、見遅れるだろうがっ、って凄い剣幕だったもんな。」
あははは、と笑う顔はとても綺麗だ。
男鹿の隣の席に戻って、再び椅子に座ろうとする古市に、夏目はちょっとだけおせっかいをすることにした。
ポケットの中に入れていたハンカチを取り出して、夏目はちょうど持っていたペンでサラサラとソコに番号を書きとめる。
ちょっと考えて、その下にもう一つ番号を付け足す。
「夏目?」
何をするのかと見守っていた城山に、ちょっと待ってて、と伝えた夏目は、それを持って男鹿とくだらない話に花を咲かせている古市の下へと歩み寄った。
そして、ニコヤカな人好きのする笑顔を浮かべて、古市を呼ぶ。
「ほのかちゃん。」
「……え?」
古市はというと、なんでそこで自分の名前をそう呼ぶのかと、キョトンと目を瞬いて夏目を見上げる。
その、ぽかん、とした顔に向けて、白いハンカチを差し出す。
これ、と言って渡されたソレを、受け取り、古市は不思議そうな顔をする。
そして、ハンカチを渡された意味に、ハッ、とした顔で夏目を見上げる。その目元が赤く染まっていた。
「あっ、あの、もしかして、口とかに何かついてました……っ!?」
めっちゃ恥ずかしいっ、と、古市はそのハンカチを口元に当てようとする。
そんな様子に、あはは、と夏目は笑って、違う違う、と古市の手を止める。
その手に握られた白いハンカチを、そ、と取り上げて、夏目はソレを彼の目の前で広げた。
ヒラリ、と舞ったその白いハンカチには、マジックで二つの名前と数字が描かれている。
古市はハンカチの両端を軽く握り、それをマジマジと見下ろす。
「神崎、090-……?」
その数字は、どう見ても携帯の番号にしか見えない。
そして、その下には、夏目、と言う字とともに、やっぱり携帯の番号らしき数字が並んでいた。
なんだコレ、と見る古市の横から、ひょい、と男鹿も覗き込む。
古市がしっかりとハンカチを持ったのを見て取り、夏目はハンカチから手を放すと、トントン、と数字の部分を指で指し示す。
「今日はもう、神崎君帰っちゃったから、お見合いはこのままお開きになると思うんだよね。」
「……はぁ。」
それと、この携帯番号と何の関係があるのだろうか?
アレか? 数時間くらいしたら、神崎にでも貞操の無事かどうかの確認をしたかったらしろと、そういう意味だろうか?
でもそんなの、明日学校で会ったら、だいたい分かるんじゃないかなー、っていうか、興味ないし、知りたくもないし。
「だから、もしこれからも神崎君と会うつもりがあるなら、電話してやってよ。」
「………………は?」
夏目の口から出た言葉の意味がわからなくて、古市は目を丸くして彼を見上げる。
男鹿も、意味がわからないらしく、頭にハテナマークを飛ばしている。
だって、会うつもりもなにも、明日あうじゃないか、学校で。
何を言われたのか理解できなくて、夏目を無防備に見上げるその顔に、彼は困ったように眉をひそめた。
「……神崎君、ほのかちゃんのこと気にいったみたいだから。」
夏目はそこで、少しだけ切なげで困ったような色の笑みを浮かべると、指先でツと古市の頬に触れる。
かすかに乱れた髪に触れて、シャラリと揺れる髪飾りを揺らす。
──あぁ、ほんと、どうしようかな。
夏目は、心の中で神崎の顔を思い浮かべる。見て分かるほどに、彼女相手に狼狽していた。
その想いを、邪魔したいわけじゃない。
けど、目の前の少女が、あまりに無防備で、あまりに可愛いから。
「え、え、え?」
ほのかのこと気に入ったって、それ、どーゆーことですか??
と、古市が意味がわからないなりに問いかけようと、口を開きかけた──、その刹那。
ごめん、神崎君。ちょっとだけ。
小さく、小さく……囁くような声でそう呟いた夏目は、そ、と身をかがめると、チュ、と古市の頬に軽く唇を押し当てた。
ちくり、と、胸に罪悪感のような物が涌いて出たが、ただの挨拶だから、とそれを無理矢理飲み込む。
一瞬で離れたソレに、ぽかーん、と口を開いた古市と男鹿に、夏目はなんでもないかのような笑顔で態勢を戻すと、
「じゃ、そういうことで、俺たち帰るから。──またね。」
電話待ってるよ、と、にこやかな笑顔で踵を返す。
その夏目に、おい、と一部始終を目撃していた城山が焦ったように声を荒げるが、夏目は口に人差し指を当てて、しぃ、と笑った。
神崎君の恋を邪魔するつもりは、毛頭ないんだけよ?
「俺も、ほのかちゃんに、興味涌いちゃったかな。」
こればっかりは、しょうがないよね、と漏れでる苦笑を髪で覆い隠す。
でも、大丈夫。──ちゃんと綺麗に、隠す自信はあるから、さ。
ひとまずは、神崎父に一が攫われてしまったことを報告して、一足先に帰りますか。
その後のことは……また、後ほど考えるとして。
「…………なぁ、男鹿。」
夏目にほっぺにチューされた場所を、ゴシゴシと手の甲で擦りながら、古市は顔を引きつらせながら男鹿を見上げた。
あんま擦ると赤くなるぞ、と言いながら、おう、と答えた男鹿に、
「もしかして俺って、……ちゃんと女に見えてんのか?」
いやまさか、そんなこと──と、あははは、と乾いた笑いを零して古市は頭に浮かんだ可能性を速攻拒否し、
「きっとアレだよなっ。神崎とか夏目とかの、俺が来たことに対する、イヤがらせだよなっ!?」
そんな希望的観測を口にする古市に、
「──ま、いーんじゃね? 似合ってんだし、どっちでも。」
男鹿は、やっぱりこういうことに関しては、まったく頼りにならないことを口にしてくれるのであった。